■ 4-14 ■


 亮は体育座りでうずくまると、吐息を膝の間に小さく吐き目を閉じる。
 そのまま何分間そうしていただろう。
 背中に当たるヴェロア張りのソファーの柔らかさに身を任せ、ゆっくりと身体を伸ばす。
 天井を見上げると飾り気のないクリーム色のライトが、丸く月の様に褐色の木材むき出しの室内を照らし出している。今、この世界は深夜の帳の中に沈んでいた。
 学校の教室ほどの広さをもつその部屋は、素朴なログハウス風で、天井の光源で足りない部分は壁にいくつかかけられたランプにより照らされている。
 部屋の中央に引かれたサンドベージュのカーペットの上に、テーブルとソファーでなる簡単な応接セットが置かれており、正面には大きめの出窓。右手には暖炉がしつらえられている。
 木製のテーブルと、その雰囲気を壊さない無骨な革張りの大きな黒いソファー。その横に、亮の座るオフホワイトの小さなソファーが置かれている。まあるくふんわりした雰囲気のそれはソファーというより巨大なクッションのようでもあり、この部屋のワイルドな雰囲気とは少々そぐわない。
 しかしすわり心地という点では、ここにあるどの椅子より充実していた。
 足を伸ばせば亮の動きにあわせて形を変えるそのソファーによりかかり、亮が何度目かのため息をついたときである。
「なんだ、来てたのか」
 その声は唐突に亮の耳に届き、亮は伏せていた目を上げ身体を起こした。
 その人物は暖炉の前に突然滲み出すように現れ、亮の姿を見つけると嬉しそうに笑った。
「ん。ひまだし」
 亮は微笑んで見せ、現れた人物の名を呼んだ。
「シュラは仕事、いいのか?」
 シュラは「ああ」とか「んー」とか生返事をしながら、仕切りの向こうにあるキッチンセットから水の入ったボトルを二本出してくると、一本を亮へと投げ寄越す。
 亮はよく冷えた500mlガラスボトルをキャッチすると、プシュリという炭酸音を立てながらキャップを開けていた。
 ラベルを見れば、炭酸の入ったレモンフレーバーのものである。亮の好きな銘柄で、セブンス時代シュラが昼寝に来たとき、時折ノーヴィスに出してもらっていたものだ。
 シュラは亮の横にある黒い大きなソファーに乱暴に尻から身を投げ出すと、同じく乱暴に手にしたボトルのキャップを開け、一気にそれを呷っていた。こちらはガス抜きのミネラルウォーターだ。
「たまには俺も休まないと身体がもたねーしな」
 ぷはっと息を大仰に吐き、長い手を伸ばしてテーブルの上にボトルを置く。
「リアルに居れば、休み時間はあっというまに終わっちまうだろ。セラん中なら一日の休みで一ヶ月のバカンスができる」
 片目をつぶって見せたシュラは長い足をソファーの上に上げ、ごろりと転がりながらサイドのヘッドレストへ銀色の頭を預けていた。
「それ、休んでることになんのか? セラじゃなくて、ちゃんと睡眠とらなきゃだめなんだろ?」
「セラん中で寝ればいい。だらだらし放題だ」
 シュラの本気とも冗談ともつかない言葉に、亮はあははと笑った。
 ここはシュラのプライベートセラ。
 このログハウス風の家と、周囲一キロほどの小さな森だけがこのセラの全てだ。
 ある程度長い間ソムニアをやっている者は大体がこういった個人のセラを所有している。
 亮がいつも利用している訓練用のセラも、実はシドのプライベートセラの一つらしい。
 シュラもいくつか個人セラを持っているらしいが、多くは友人が訪れてもいいようにセキュリティーはレベルを下げてあると聞く。しかし、今亮たちのいるこの場所だけは、完全にシュラ一人の隠れ家的空間であり、シュラ以外が入れないように完全アルマパス制の最高レベルセキュアを実現していると、以前シュラは亮に語ってくれた。
 それは亮が東京に戻り意識が回復してしばらくたった頃。
 約束どおり遊びに訪れてくれたシュラがイギリスに戻る一時間前、不思議な青いカードを渡してくれながら話してくれたことだ。
 カードには何も書かれていなかったが、これは秘密基地への招待状だとシュラは言った。
 入獄システムを使えない亮にセラ座標を言っても無駄だとシュラはわかっており、このキーカードタイプの簡易システムを手渡したのである。
 このタイプは誘導力が微弱であるため一般人には使うことができないが、ソムニアであるならば、睡眠中携帯しているだけでそのセラへ訪れることが可能となる。
「シドには内緒だぞ? あいつ絶対怒ってカード、カチンコチンにするからな」
 冗談めかして片目をつぶりながらシュラにそう言われ、亮は「うん。わかってる」と興奮気味にうなずいていた。
 初めてここを訪れた時は電話でシュラに連絡を取り一緒に潜った。
 イギリスと日本。
 リアルでは遠く離れているのに、セラでは一瞬にして間近に会うことが出来る。その不思議さに改めて亮は驚嘆し、同時に嬉しさで胸が高鳴ったのを覚えている。
 好きなとき、好きなだけこの部屋を使っていいと、シュラは言った。
 ただ、シュラ本人は仕事の関係でなかなか来られないという話も聞いている。
 このソファーはそのとき亮専用にとシュラが置いていってくれたものだ。
 亮はシュラがここに自分の場所を作ってくれたことが嬉しく、あれから何度かこの部屋を訪れているが、ここでシュラに出会うのは最初を入れて今日で二回目だ。
 シュラが忙しいということはセブンス時代から知ってはいたが、こうも会えないものかといつもため息をついたものだ。
「久しぶりだな、亮。どうだ、元気にやってるか? 学校はどうだ。勉強ちゃんとやってるか?」
 半年振りに会うシュラは、まるで単身赴任の父親が久しぶりに帰ってきたときのような質問を立て続けに亮にふる。
 亮は苦笑を浮かべながらソファーの中で身体を動かし、シュラに向き合うように座りなおした。
「ん、元気にしてる。学校も楽しいよ。勉強は……相変わらずだけど」
 微笑んだ亮の顔を見てシュラは少し間をおくと、寝そべっていた身体を起こし、テーブルからボトルを取り上げ胡坐をかく。
「どうした。あいつにいじめられたか。ん?」
 亮は驚いたように顔を上げると、数瞬シュラの顔を眺め、次に何かをこらえるように下を向いた。
「いじめられて……とかじゃ、ない、けど。へん、だな。――なんでそんなこと、わかんだ、シュラ」
「伊達に六回も生きてないからな」
 目を伏せた亮をシュラは柔らかな視線で見つめる。
「年齢で言えば二百歳近い。お前から見りゃ長老だ。隠し事なんかできねぇぜ? 話したいことあるなら、素直に吐いとけ」
 軽い調子でそう言うシュラの言葉に、亮は視線を上げると、足をソファーに引き上げ膝を抱える。
 何を言おうか、亮は迷っていた。
 確かにシュラの言うとおり、話したいことがあるのだ。
 しかし胸の中のもやもやをどう言葉に組み立てていいのかわからない。
「うん……」
 そう返事をしたまま、数分が流れた。
 シュラは亮が口を開くのを待つ風もなく、手にしたミネラルウォーターを飲み干すと、再びバスリと身体を投げ出し、ソファーに身を横たえる。
 シュラのそんな対応が嬉しく、亮の気持ちは徐々にほぐれ、しだいにぽつりぽつりと言葉が口をついて零れ落ちる。
「オレ、そんな、つもりじゃなかったんだ」
「ん」
 亮の途切れ途切れにつむぎだされる気持ちのはぎれに、シュラは天井を眺めたまま耳を澄ます。
「迷惑、かけたいとか、仕事、邪魔したいとか、そんなんじゃなくて」
「オレも、何かしたくて」
「でも、いつもうまくいかなくて」
「オレ、ホント、ダメなヤツで」
「学校で、あいつの立場、きっと悪くなった」
 亮の言葉は断片的で、事情の分からない人間には何を話しているのか理解が出来ない。
 特に現在シドのこなしている案件は完全極秘のものであり、部署のまるで違うシュラには知りようもないものである。
 しかしシュラはそんな亮の言葉を遮ることなく、ときおり相槌すら打ち、亮の話を聞きとっていく。
「子供扱いされて、いつも、オレだけ何も知らなくて」
「分けわかんないくらい、いつもイライラして」
「もう、来るなって」
「あいつ、あの日から、学校休んでて」
「オレ、――シドに嫌われた」
 そこでシュラががばっと身体を起こす。
「なにぃ!?」
 シュラは自分でも驚くほど大きな声で反応してしまったことに瞬時に反省すると、目を赤くし今にも涙が零れ落ちそうな亮の顔を見つめていた。
 亮はシュラの突然の反応に驚いたように瞳を丸くし、そのせいでついにこらえていた真珠が一粒、ほろほろと白い頬を転がり落ちる。
「おまえ、そんなわけあるか。何があったか知らねーが、あの独占欲の塊がそんなこと、天地がひっくり返ってもありえねぇぞ」
 『ドクセンヨク』という言葉の意味がわからない亮は小さく首をかしげると、ただシュラを見つめた。
 シュラは立ち上がると亮のそばに行き、ラグの上に膝立ちになる。
 うつむきがちになる亮の顔を下から見上げ、昔よくしたように、ゆっくりと髪をすき、耳の後ろから後頭部にかけ小さな頭を撫で上げた。
 大きくて分厚い手のひらと、長くて骨ばった指先は熱いほどに暖かく、亮はあまりの安心感で無意識に瞳を閉じる。
 その度に瞳にたまっていた雫がぽろぽろと落ちた。
 あの過酷だったセブンスのおもてなしで唯一安らぎを与えてくれた手は、亮の深層に傷にはならない優しい楔を打ち込んでいるらしかった。
「それはおまえの考えすぎだ、亮。あいつがピリピリしてんのはいつものことだろ?」
 シュラがそうささやくと、亮は抱えていた膝をゆっくりとおろし、自分を見上げる青い瞳を見返した。
 シュラの指先もややかすれた深い声も、張り詰めていた亮の胸の鎖を蜂蜜のように溶かしていく。
 あの頃のように。
「――そう、かな」
「そうだって」
 亮が手にしたまま温まっていたボトルを取り床に置くと、シュラはもう片方の手でも挟み込むように亮の頬を撫でる。
「でも、オレ、シドの仕事、邪魔した」
「たいしたことしてねぇよ。おまえがちょっと動いたからってどうこうされるタマじゃねーだろ、あいつは」
 そういつもの調子で軽く、そして優しく言われると、亮はまるで泣きはらした後のように喉の奥がひきつり、たまらずシュラに手を伸ばす。
「もう、来るなって――」
「そこが危ない場所だからだろ? 嫌いなやつにそんなこと言わねぇさ」
 伸ばされた亮の手に応えるように、シュラは身体を近づけていた。亮はまるで兄か父親にでもすがるように、シュラの首へしがみつく。
「オレ、シドに、会いたいんだ……。会いたいよ、シュラぁ」
 ソファーからずりおち、シュラの膝の中へ身を寄せながら、亮は泣いていた。
 ようやく亮は気づいていた。
 自分がなぜこんなにイライラしていたのか。
 会いたかったのだ。
 ただ、単純に、シドのそばにいたかったのだ。
 離れていることが不安で、不安で、どうしようもなくて、闇雲に近づこうとした。
 でもそうすればするほど相手は遠くなり、亮は一人になった。
 あのセブンスでの日々からこちらに戻ってからというもの、一日たりとも離れたことがなかった紅い守護者。彼のそばにいられないことが、一度は塞がったかに見えた亮の傷を再びこじ開けていた。
 生ぬるい血が胸の底から滲み出し、得体の知れない不安となって亮を絡め取っていたのだ。
 シュラの熱い胸元へ顔をうずめ、背を震わせる亮を、蒼い守護者はそこでようやく抱きしめる。
 その様子は、自分から亮を腕の中に収めることだけはしないと、そう心に決めているようであった。
「大丈夫だ。おまえがそんなに泣かなくたって、アイツの方が我慢できなくなる。お前の顔が見たくて会いに来るさ。こらえ性のない男だからな、あいつは。すぐだ、すぐ」
 亮の絹のような黒髪を撫でながら目を閉じ、シュラは深く甘い声音で幼子に言い聞かせるようにそう言った。
 その言葉と包み込む熱い体温に亮はようやくえづくのをやめると、腕をシュラの首に絡めたままそろりと身体を離し、上目遣いに眺め上げる。
 潤んだ瞳と赤くなった鼻の頭。鼻をすすり上げる仕草に、シュラは目を細めた。
「すぐって、いつ?」
 感情の堰が切れた亮は、まるで退行していたあの頃に戻ってしまったかのような幼げな仕草で益体もない質問をする。
 シュラがそんなことを知るわけがないという考えすら、今の亮には浮かばない。
 駄々っ子のように亮は我知らずシュラに甘えていた。
「そうだな、三日もてばいいほうじゃないか? 一週間はもたんだろう。特に仕事でセラに潜っているならなおさらだ。時間の感覚がすさまじく伸びるからな」
「ホントに? オレ、シドに嫌われてない?」
 亮の無邪気な質問攻めに、シュラはただ優しく目を細めると、親指で亮の頬の涙をぬぐう。
 その信じきった愛らしい顔に、ついついかがめていきそうになる背をぐっと伸ばすと、
「こんな面白い生き物、嫌いになるやつなんていねぇよ」
 シュラは自分のシャツのすそで亮の鼻をぎゅっとつまんでいた。
「うぎゅっ……、な、何すんだよ!」
 思わぬシュラの行動にモガモガ暴れる亮を押さえつけると、シュラは声を立てて笑いながら「鼻水出てんぞ」と、つまんだ鼻を拭いてやった。
 亮はそんなシュラからばつが悪そうに身体を離すと、ソファーの足元に背を預け、大きく息をついて座りなおす。ついでにシュラの置いた炭酸のボトルを手に取り直し、ぬるくなったそれを一気に呷っていた。
「だ、だいたい、面白い生き物ってなんだよ」
 不満そうに口を尖らせ、ラグの毛並みを眺める亮に、シュラは胡坐をかいて頬杖をつくと、珍しく意地悪そうに片眉を上げて見せる。
「それより、なんだ、亮。おまえ、シドに嫌われた、嫌われたって大騒ぎしやがって。つまりあれだ。亮はシドのことが好きになった……ってことか?」
「っ!?」
 思いもかけない言葉に、亮ははっと顔を上げると、瞬間一気に顔が赤くなる。
 カウナーツ種のシュラでさえそこまで発火をつかさどれないだろうという勢いで、亮はまさに頭から湯気をあげていた。
 この露骨な反応に、シュラは目の前の少年に気づかれないほどのため息を漏らす。
「そ、そんなわけ、な、ないだろっ!? しゅ、シュラ、獄卒に変なところかじられて、お、おかしくなっちゃったのかよっ!」
 ただ単純に会いたいだけで、好きとかそういうのとは違う。
 シドは男で、オレも男で、シドはやなヤツで、会いたいけど、すごいやなヤツで、シュラは何でそんなバカな考えが浮かんだんだろう。
 亮の全身からそんな言葉にならない言葉が、うるさいほどにあふれ出していた。
「き、っ、嫌いだよ! オレ、シドなんか、大っ嫌いだ!!」
 あまりの剣幕に目を丸くしたシュラは、次の瞬間盛大に噴出していた。
 今度は亮がきょとんとする番だ。
 何がそんなにおもしろかったのか、亮にはさっぱりわからない。
「じゃあ問題ないじゃねーか。あんま深く考えんな。しばらくしたら、嫌でもおまえんとこに戻ってくるさ」
 笑いながらシュラにそう言われると、亮もだんだんそう思えてきて、急に気持ちが軽くなっていくのが分かる。
「どうしても会いたくなったら、考えてないで押しかけろ。むしろ迷惑かけてやれ。あいつはおまえにそのくらい借りがある。もっとでかい態度でいろ」
 くしゃくしゃっと頭を撫でられ、亮はやっと笑顔になった。
「さんきゅー、シュラ」
「ああ」
 臆面もなく泣いてしまった手前、照れたような恥ずかしいような、しまりのない顔だったが、そんなことも気にせず亮はくすぐったそうに笑った。
「そろそろ、寮の夕食の時間だから、オレ、帰らないと」
「そうか。もうそんな時間か」
「今日、シュラに会えてよかった。――また、会えるといいな」
「ああ。そうだな。俺も楽しかった」
 シュラの言葉に亮は嬉しそうにもう一度笑うと立ち上がる。
「それじゃ、行くな。またな!」
 亮の姿が淡くなり、数秒を待たずして掻き消えていた。
 シュラは亮の消えたソファーの辺りを眺めたまま、大きく息を吐き、力が抜けたようにラグの上に大の字に寝そべる。
「まったく……、やばすぎんだろ、俺」
 天井を見上げ、さきほどまでの自分自身に、呆れたようにつぶやく。
 それと同時に、赤い髪をした昔馴染みのことを思い出し無性に腹が立つのを抑えられない。
「何やってんだ、あいつはっ」
 泣かせるようなことがあったら許さないと、あれほど言っておいたのに、こんなことならこのまま亮を帰さなければ良かったとさえ思う。
 しかし、最後に聞いた亮の言葉――。

『また、会えるといいな』

 未だシドとの差は決定的だ。
 思わず意味のない叫びを上げると、シュラは身体を跳ね起こし、大またでキッチンに向かう。
 何か食わないとやってられない。そう思った。
 シドとの差を見せ付けられただけの時間だった。
 そう思うにも関わらず、シュラの気持ちは沈んでいない。
 むしろ期せずして出会えた亮との時間が、疲れたシュラの身体を癒してくれていた。
 それがゲボの力なのか、それとも別の感情の効果なのか、シュラには判別がつかない。
 冷蔵庫の中からローストされたチキンの足を取り出すと、皿の上に手をかざし、瞬く間に炙り上げる。
 ジリジリと焼ける音と共に、白い水蒸気を上げて香ばしい匂いが立ち上っていく。
「愛想つかされちまえ、くそヴェルミリオ」
 いい頃合を見計らうと、シュラは無造作にそれを掴んでかじりついていた。