■ 4-15 ■


 ヒアリングのエドワード講師が学校から姿を消して、三日がたった。
 その間授業は代わりの教師が監視にやってきて、DVD鑑賞をするだけのものになり、生徒たちはあの緊迫感から解放されのんびりと姿勢を崩し、私語を楽しみながら授業をやり過ごしていた。
 もちろん女子生徒の多くや一部の男子生徒はエドワードの授業が受けられないことに――というより姿を見られないことに不満顔であったが、外国人教師教会奉仕会とやらで休みをとっているというのではどうしようもない。キリスト教圏の人間である彼らには、こういった活動はとても重要なものなのだそうだ。
 亮は目の前のモニター画面に映る教材用映画のどうでもいいシーンを眺めながら、人差し指の背を無意識にかりりと噛んでいた。
――シドがそんな奉仕だの教会だのに行くはずない。
 そもそも『転生』というものを身をもって知っているソムニアが、キリスト教徒である可能性はまずない。転生を肯定した独特のキリスト教系の宗派を信仰しているソムニアならば、IICRにいた時分何人か見かけたが、それはキリスト教圏に生きるソムニア独特の宗派であり、日本のこの地にある一般的な教会とはまったく関係のないものである。カトリックもプロテスタントも聖公会も、ソムニアとは対極に位置する存在だ。
 ましてや、ずっとシドと暮らしていた亮だが、シドが教会に出かけていく姿なんて見たこともないし、お祈りしている場面すら一フェムト秒たりとも目にしていない。
 それどころか、以前ローマ教皇がテレビに映った折などは、目に見えてシドの機嫌は悪くなり周囲の空気が一気に凍りついたため、秋人が慌ててチャンネルを変えたことすらあるのだ。中世から近世に掛けて、キリスト教とソムニアの間でどんな闘争があったのかは、闇に隠れ一般人が知ることはないが、六度目の人生を送っているシドはその出来事の一端を克明に覚えているらしい。壬沙子からちらりと聞いた話によれば、魔女狩りや異端狩りなど、聞くだけで吐き気を催すような血なまぐさい陰惨な歴史が多々あるということだ。
 つまりシドが神様だのご奉仕だの言っている姿は、冗談にしても出来が悪すぎると亮は思った。
 それならばなぜシドがそんなウソをついて学校を休んでいるのか――。
 亮はシドが休んだその日、すぐに秋人にそのことを問いただした。しかし秋人は「大丈夫、ちょっと仕事が立て込んでるだけだよ」と言うばかりで、本人も亮の相手ができないほど、すぐに忙しげにどこかへ姿を消してしまう。
 訓練のためにセラに潜っても、今度は壬沙子すら立会いに現れてはくれない。
 そこで「訓練用セラ以外入るな」と言われている禁をやぶり、ついつい先日シュラの秘密部屋へ足を運んだというわけである。
 そこで期せずしてシュラと出会い、話を聞いてもらった亮は、叱られたあの日のような落ち込みはもう持ってはいない。
 だがそれでも現状のわからない今の状態にはやはり焦燥感が付きまとう。
 亮はまたも蚊帳の外なのだ。

――なんだよ。何が起こってるんだよ。

 シドと三日も会っていない。
 今まではたとえほんの数分でも毎日、学校やセラで顔を会わせていた。それだから文句も言えたし、ムカつけば攻撃したり、それで怒られたり、シャツをひっぱったり、髪の毛をもさもさにされたり、冷たい手で頬を撫でられたり、「亮」と名を呼ばれたり――。
 亮はそこまで考えて、ぶんぶんと首を振っていた。
 自分で自分の意味が分からない。
 会えばはっきりするんだ。
 シドと会えば、このムカムカイライラする気持ちの正体がきっとわかる。
 だから、会いたいんだ。
 シュラとの邂逅で、そう亮は自分の気持ちを結論付けていた。
 とにかく、いてもたってもいられず、亮は授業が終わり他の生徒たちがLL教室を出て行くのを見計らって、LL準備室へと走った。
 LL教室の奥にある扉に手を掛けるが、そこには鍵が掛けられ亮の手が回されることを許さない。
 そこで改めて最後に会った日のことを思い起こす。
 『ここにはもう来るな』
 冷たく言い放たれた言葉が蘇る。
 回らない取っ手とシドの言葉が重なり合い、亮は小さく唇を噛むとうつむく。
「成坂くん、どうしたの? エドワーズ先生に何か用?」
 突然かけられたその声に驚き振り返ると、教室入り口付近で佐薙が不思議そうな顔をして立っている。
「廊下で待ってたんだけど、なかなか出てこないからさ。先生、今日もお休みだからきっといないよ?」
 教室移動のときは女子グループと共に行動している彩名に絡まれることはないが、佐薙はあの日以来必ず亮の後をついてくるようになっていた。
 最近では次第に亮も諦めの色が出てきてしまい、無意識にではあるが返事を返すことが多くなっている。
「わかってるよ……。準備室ん中ってどうなってるのかなって思っただけだ」
 足早に教室を出る亮の後に従い、佐薙も早足でついてくる。
「そっか。うん、うん。わかるよ! けっこう気になるよね。準備室の中って。エドワーズ先生怖いから、いる時だと中、覗けないもんね」
 亮が珍しく長い受け答えをしたことが嬉しかったのか、佐薙は興奮気味にうなずくと足を更に速め、亮の顔を横からちらりとのぞき見た。
 そちらへ気もなく亮が視線を返すと、佐薙は大きく目を見張り、次に色白の頬へ朱を上らせると一瞬ぱったりと足が止まる。
 しかし亮に置いていかれる事にすぐに気づくと、その差をつめるように小走りに亮を追いかけていた。
「え、えっと、エドワーズ先生って、あんな怖い顔してるけど、と、友達とかいるのかな」
 何とか会話を続けようと、佐薙は裏返った声で必死に共通の話題を探しているようだ。とりあえず思いついたことを、脊椎で反射しているようなうわついた状態で次々と繰り出してくる。
「っていうか、彼女とかいるんだろうか。い、いるよね。だって、エドワーズ先生、怖いけど顔はかっこいいもんね」
「知るか!」
 他人からシドの名前が出ることが亮をイラつかせる。
 なぜこんなイジイジとした不快な感覚が生まれてくるのかわからず、亮はますますイラついてしまう。
 亮の不機嫌な声のトーンに、背後の佐薙はビクリと背をすくませていた。
「あんな奴に友達も彼女もいるわけねーし!」
「ご、ごめん。成坂くんは、エドワーズ先生のこと、嫌いなんだね」
 今度は亮が歩みを弱め、斜め後ろを歩く佐薙を見返していた。
 その表情はまるで思いもかけないことを聞いたとでも言うように、きょとんとしている。
 亮にとって佐薙のこの言葉は想像することさえなかったものだったのだ。
 しかし亮に強く言われうつむいてしまっていた佐薙は亮のこの表情を見ることが出来ない。
「ごめんね、嫌いな奴の話なんてふっちゃって」
 胸元にテキストとノートを抱え、うつむいて歩く佐薙に対し、亮は何度か視線を泳がせ再び前を向くと、
「い、いいよ、別に。イヤな奴だけど、嫌いとかじゃ……ないし」
 もごもごと煮え切らない調子でそう言った。
 確かにシュラには自分でそう言ったような気もするが、改めて今他人の口から聞くと、自分の内から驚くほど否定の感情が湧き上がってくるのを感じる。
 そもそも嫌いなら一緒に暮らしたりできないんじゃないかと、亮はそう思い至った。シドと暮らしている時は、嫌いだと思ったことはない。ただ、イジワルでテキトーでジコチューでサイアクなヤツとよく思っただけだ。
「そっか、良かった。そうだよね、嫌いになるほど、講師の先生のことなんか知らないもんね、僕たち」
「……うん、まぁ。うん」
 同じく煮え切らない調子で相槌を打つと、亮は再び足を速めようと前を向く。
 しかしその視線の先。
 亮の行く手を遮るように二人の生徒が立ちはだかっているのを亮は認め、足を止めていた。
 うつむきがちについて来ていた佐薙もそれを感じ取り顔を上げると、目に見えて怯えたように停止する。
 特別教室等から一般の教室へ向かう渡り廊下に、夏の訪れを告げる暖かな湿った風が吹きすぎていく。
 亮はその匂いを一度大きく吸い込むと、ため息のような呼気をそろりと吐き、対峙する二人の生徒の脇をあえて視線を合わせず通り過ぎようとした。
 しかし相手はそれを許さない。
 亮の行く手を遮る形で一歩横に足を出すと、亮の顔を見下ろす。
 亮は顔を上げると感情を見せない冷えた目線で、正面の生徒の顔を見据えていた。
「今日は白いビニール、持ってないのかな」
 百七十センチ半ばほどの身長の二年生は、優等生然とした黒髪を風に遊ばせながら微笑みかける。
 優しげな顔立ちにその表情はとてもよく映え、微笑まれた者はわけも分からず同じ笑みを返してしまいそうになる。
 しかし亮とその二年生の間には、尋常ならざる緊張が張り詰めていた。
「意味わかんないですけど、先輩。それに”今日は”って、オレ、先輩と会ったことありましたっけ」
 亮は低い声で無愛想にそう言った。
 午前の透明な光は、色を濃くし始めた周囲の若葉に染められ、イエローグリーンの輝きで渡り廊下という外と中の狭間へ差し込んでいた。
 四人の生徒を彩る光は平等に降り注ぐが、中でも色の白い亮の頬はその木漏れ日に、まるで透き通っているかのごとく輝いている。
 二年生は、そんな亮の前髪が落とす額の影の揺れを見つめ、眼鏡の奥の目を細める。
 休み時間のさざめきは聞こえはするが、全てが幻のように遠く、この場所だけウソのようにぽっかりと亮たちだけの空間となっていた。
「僕のこと覚えてくれてない? 残念だな、そんなに印象が薄かったか」
 わざとらしくため息をつくと、自分の顔を良く見てくれといわんばかりに、身体をかがめて亮の顔を覗き込む。
「キミはあんなに印象深かったのにね、成坂 亮くん」
 しかし亮はそれを避けるように一歩退くと、眉間にしわを刻み、ぐっと相手をにらみ上げる。
「悪いけど、全然心当たりないです。誰かと間違えてるんじゃないですか?」
 言いながら亮はその二年の後ろに立つ、茶髪の上級生にも視線を走らせていた。背は黒髪の生徒より高く、何か格闘技でもやっているのだろうか、髪を短く刈り込み、体つきももっとがっちりしている。機械のような硬質な雰囲気を持つ彼は、瞳の色も髪と同じく明るい茶色をしていた。
 亮にはそちらの生徒に見覚えはない。
 しかし確かに目の前の黒髪の生徒は、先日ボイラー室の前で亮が大立ち回りをしたとき、ただ一人座ったままそれを見物していた生徒だ。
「間違えるわけがないよ。確かにあの日、キミの顔を見ることはできなかったけどね。キミが助けたそこの佐薙くん。あの日以来キミは彼に随分慕われているみたいじゃないか」
 佐薙が背後で身を固めた気配を亮は感じる。
「ちっ、違います! 東雲先輩、この人はあの時の人じゃないです! 全然違う人です!」
 自分の不用意な行動が亮の正体を相手に知らしめていた――。そのことに思いが巡らなかったという佐薙の後悔が、裏返った必死の声で亮にも伝わってきた。
 しかし佐薙が必死になればなるほど、その事実を肯定しているのと同じことだ。
「へぇ。じゃ、なんであの日からずっと成坂くんの後をついてまわってるんだい、佐薙」
「それは……」
「成坂くんが可愛いから、とか言うんではないよね? 佐薙がいくら面食いだからって、男子には目をつけないだろう。そっちはキミの分野じゃない」
 あははと冗談めかして笑いながら、東雲は亮の離した一歩の距離を、再び一歩進むことによってつめる。
 その一瞬の位置移動に、亮は重心を後ろに下げわずかに腰を落とすと、無意識のうちに戦闘体勢に入っていた。
 瞬間。
 背後にたたずんでいたはずの茶髪の生徒が、亮と東雲の間に割り入る。滑らかなその動きは、まるで猫科の動物であり、亮は意識を一気にそちらへ持っていかれる。
「醍醐、大丈夫だから」
 東雲が手を挙げ制すると、醍醐と呼ばれたその生徒は東雲に一礼すると後ろへ下がり、再び鉄製の古びた甲冑のようにたたずむだけだ。
 亮は醍醐の動きに感嘆すると同時に、それほど自分の気配が殺気立っていたかと反省する。
 ソムニアでない一般人に気配を察知されるなど、まだまだ修行が足りない証拠だと思う。
「それに今の身のこなし。醍醐がこうも露骨に反応する相手なんてそうはいない。僕が興味を持ったのはそこなんだ。見間違えるわけない」
「なんだよそれ。今だってちょっと後ろに下がっただけだ。そんなすごいものなわけ、ないだろ」
「ちょっと下がった、ねぇ。まぁ、僕の目が節穴だって言うならそれでもかまわないさ」
 東雲は肩をすくめると笑みを消し、今度はさらにずかずかと亮の間合いに踏み込んで十数センチの距離にまで近づく。
 理詰めで動きを封じられた亮は東雲のこの急接近を許すしかない。
 東雲は亮の目の前に、銃の形にした手で人差し指を突きつけると、ゆっくりとその先を喉元にまで下ろしていく。
「でもさ、成坂くん。いくら顔を隠したって――――キミのその天使みたいな声は隠せない」
 喉元で引き金を引く真似をすると、東雲はにっこりと破顔した。
「キミはバカなのか、成坂くん。もらった骨を主人の枕の下に詰め込んで、隠したつもりになっているワンコみたいだ」
「っな……」
 亮の頬に見る見る朱が上る。
 その態度が相手の言葉を肯定するものだということにも頭が回らないほど、亮は頭に血を上らせていく。
「お、オレはあんたなんか知らない! 佐薙を助けてもないし、コンビニ袋もかぶってない!」
「コンビニ袋、か。そうか。あの袋はコンビニの袋だったな」
「っ!!」
 言い放って初めて亮は気づいていた。ここで東雲に会ってから一度も、相手はコンビニの袋だったとは言っていない。
 勢いあまって自白してしまったのは亮であった。
 こんなところをシドに見られていたとしたら、バカだアホだと散々ののしられ盛大なため息をつかれているところだ。
 しかしこの東雲というたおやかな先輩は、シドとは全く趣味が異なっているようだった。
「そういうところ、嫌いではない。僕は猫より犬派でね」
 東雲は笑みを強めると、睨みすえる亮の様子など気にした風もなく、気安げにぽんと肩に手を置く。
「うちの部へ入れ、成坂くん。有意義な高校生活を送れるようになる」
「っ、い、意味わかんねーよ! あんたの部になんか入るわけねーだろっ!」
 亮はその手を振り払うと、今度こそ遠慮なしの臨戦態勢で飛びのく。既に自分がコンビニマスクだとばれてしまった今、変に猫をかぶる必要もない。
「どんなに多忙でもボランティアの心は大切だ。僕のボランティア部なら、そんな荒んだ心根も正される」
 しかし東雲は亮のいきり立つ様子など気にした様子もなく、ゆったりとした足取りで近づくと、ピリピリと逆毛を立てている亮の横を、醍醐を従えそのまま何事もなかったかのように通り過ぎていく。
 何かしかけられるかと身を引いていた亮は肩透かしをくらった格好で立ち尽くすしかない。
 すり抜け際、亮の耳元で
「――僕ならキミのバカも治してやれるかもしれないよ」
 とささやき声が聞こえた。