■ 4-16 ■


「ごめんね、成坂くん、ごめんね……」
 教室につくまでの間、何度も何度も佐薙が謝り続けるのを亮は黙ったまま聞いていた。
 あれだけ目立つことをするなと釘を刺されていたのに、明らかに事情のありそうな連中に目を付けられてしまった。
 佐薙から聞いた話によると、あの東雲という上級生はボランティア部の部長をしているらしい。佐薙もその部へ所属し、休日ともなれば募金活動だの地域清掃だのに出向くと聞く。
 もちろんそれは悪いことではないし、それどころか褒められてしかるべきな活動である。だが、亮には彼らがそれだけで集まっている集団には思えなかった。
 ボイラー室の一件も気にかかっている。
 あのガラの悪い生徒たちもボランティア部所属で、佐薙は彼らの使い走りをさせられている現状らしい。彼らは東雲の中学時代からの子飼いであり、東雲の家の力で色々と便宜を図られ、この学校に入学したというのが本当のところのようだ。それもあって、彼らは東雲に絶対服従なのだという。
 そんな芸当の出来る東雲家とやらにはどれだけの力があるのかと、亮は思う。
 亮の動きに敏感に反応してきた醍醐という生徒も同じく、東雲の腹心の一人だということだ。
 つまりボランティア部というのは、部長の東雲を中心に作られた小さな独裁国家のようなものなのだろうか。
 たとえ一学園の小さな集団であろうとも、そのようなところへは近づかないほうがいいのはあきらかだ。
「もう、オレに関わるのやめてくれよ。頼むからさ」
 今度こその亮の宣告に、佐薙はうつむいたままうなずくと、すごすごと自分の席へと戻っていった。
 しかし三時間目の現国が終わったと同時に、窓際の席にいる佐薙は座ったまま、いかにも気になって仕方がないというように、チラチラと亮の方を見てくる。
 亮はため息をつくと敢えてそちらを見ないように立ち上がり、彩名が声をかけてくる前に足早に教室を抜け出ていた。
 三時間目の休み時間は古本屋のいる購買へ行く時間である。
 しかしなぜか亮はそこへ足を向ける気にもなれなかった。
 亮は何も考えぬまま、ただ教室から離れようと足を動かし、いつの間にか職員室の前に立っていることに気がつく。
 普段は敬遠し前を通ることも嫌なその室内を覗き込むと、たくさんの人間の出すガヤガヤとした音と共に、強い煙草の匂いが亮の感覚を刺激した。
「どうした、成坂。何か質問か?」
 たった今授業を終えたばかりの現国教師がそれに気がつき、扉に近い自分のデスクから声をかける。
「い、いえ、ち、違います。ちょっと覗いただけで……」
 思わぬタイミングで声をかけられ慌てた亮は、一歩退くと大きく首を振っていた。
 教師はそんな亮の様子に「そうか、わからないことがあったら遠慮なく聞けよ。おまえ、もうちょっと勉強がんばらないとだめだしな」と笑って手をひらつかせる。
 亮は「はい」と固めの返事を返すと、足早にその場を立ち去っていた。
 なぜ用もない職員室に行ったのか。
 答えは自分でもわかっていた。
 しかしその明確な答えを自ら心の奥に仕舞い込んだまま、亮はふらふらと別の場所へ足を向ける。
 特別教室棟の一階にある自販機コーナーへ小走りに駆け行く。
 しかし、無情にもそこでチャイムが鳴る。
 亮は腕にはめたイカ時計にちらりと視線をやるとため息をつき、すぐにきびすを返していた。
 授業に遅刻なんて目立つことはしないように、普段から心がけていたつもりだったのに、とんだ失態だ。
 去り際、肩越しに数メートル先にある自販機コーナーを見やった亮は、そこに誰の姿もないことに安心とも焦燥ともつかない気持ちで教室へと走り出した。
 四時間目の授業が終わると同時に、亮は教室を出る。
 端から見ればパン争奪の競争に加わるいつもの光景に思えたが、そうではなかった。
 もう一度特別教室棟の自販機コーナーに行くが、やはりいるのは昼食の為のコーヒーを買いに来た別の課の教師たちだけである。
 教師たちが亮の姿に気づく前に、亮はさっと身を翻す。
 亮は次に裏口から外へ出ると、教職員専用の駐輪場へと足を向けていた。
 現在シドは自分のマンションからバイクで学校まで通っている。
 整然と並べられた自転車や他の教師のバイクの中に、見慣れたシルバーグレーのドゥカティGT1000を探す。
 亮には目立つなと言っておきながら、自分こそそんな大きなバイクに乗って登校とはどういう了見だと、以前難癖つけたことが思い出される。
 しかし並んでいるのはどれもキャンディーカラーのスクーターや排気の少ないバイクばかりで、ごつくて大きな、倒れても亮には到底起こせそうもないあのシドのバイクは見当たらない。
 すごすごとその場を離れた亮は、無意識のうちにその足を再びLL準備室へと向けていた。
 裏口からぐるりと回って再び階段を上り、LL教室の扉に手をかける。
 休み時間などは鍵がかけられていることの多いその部屋はしかし、容易に亮の手によって扉を開けていた。
 亮は中をそろりと覗き込むと、恐る恐る中へ踏み入っていた。
 休み時間にここが開いているということは、中に教師がいるということである。
 バイクはなかったけれど、もしかしたら別の足で学校へ来ていたのかもしれない。
 亮は走り出していた。
 階段状になった教室を段飛ばしで駆け下り、教壇の奥にある準備室への扉へ足をもつれさせながら駆け寄る。
 準備室の取っ手へ手をかけひねると、先ほどと同じように、扉は容易に亮を中へと招き入れていた。
 ドキンドキンと耳元で鳴る鼓動。
 はやる気持ち。
 扉が開くその時間も待ち遠しい。
「っ、シド!」
 扉を開けながら思わず声を上げる。
 しかし――
 亮の眼前にいたのは、まったく別の人物であった。
 長い栗毛を波打たせ振り返った教師は、二十代後半の女性英語教諭。
 透け感のある白いブラウスと短いタイトスカートに身を包んだ彼女は、亮の姿を見て振り返ると首をかしげにっこり笑う。
「なぁに? 昼休みに生徒が来るところじゃないでしょ? 何か御用かしら」
 亮は全く予想もしていなかった光景に、さっと自分の血の気が引いていくのを感じていた。
 痛いほど脈打っていた心臓が、ウソのように黙り込む。
 言葉も出ずに立ち尽くしている亮に英語教師は近寄ってくると、かがみ込み自分の膝に手をついて亮の顔を覗き込んだ。
「エドワーズ先生に御用かな、成坂くん」
 一年C組のリーダーの授業を受け持っている彼女は、当然亮の顔も知っている。
 亮は視線を逸らすと、下を向き、うなずいていた。
 用もないのに来たというのは、どう考えてもおかしいし、変に勘ぐられてしまう。
 二度とここには来るなと言われていたのに、言いつけを破ってまたここへ足を運んだ挙句、変な疑いをもたれては言い訳も出来ない。
 亮は普段使わない頭を、フル回転させていた。
「シド……指導用のプ、プリント、取りに来いって、言われてたから――」
 ぼそぼそと語る亮の声に耳を傾けていた女教師は、なるほどとうなずくと亮に背を向け、奥にあるシドのデスクへと向かう。
「あの、橋本先生。エドワーズ先生いないなら、また来るから――」
 しかし亮の声を無視し、橋本はシドのデスクの上や、引き出しの中を開けて、亮の言うプリントを探し始めていた。
「うーん、見当たらないわねぇ。指導用っていうと、次の教材DVDのやつかしら」
「先生、勝手にエドワーズ先生の机見て、大丈夫なのか?」
 橋本のためらいもないその行動に、亮は少しばかりイラつきながらそう言った。
 シドのことだ。見つかってまずいものはそんなところに置いているわけはないとわかっているのだが、それでも、知らない人間にシドの領域をかき回されるのが嫌だった。
「ああ、大丈夫よ。エドワーズ先生から好きにしていいって、許可をもらっているから。このデスクも、この部屋も、いつもこの時間私がお掃除に来てるくらいだからね」
 未だにデスクの中を覗きながら、橋本が言う。
「この間なんか、どうやったらあんなに散らかるのかっていうほどのひどい状態で、休み時間のたびに来たんだけど、片付けるのに丸一日かかっちゃったわ。この辺の本棚なんか、みんな倒されてて――。彼が言うには不注意でひっくり返したってことなんだけど……、ああ見えてジョンはうっかり屋さんなのよね」
 顔を上げると橋本は、何がおかしいのか、くすりと肩をすくめて笑った。
 亮の胸の奥がずくんと痛む。
 こいつ、何を言ってるんだと思った。
 多分この間シドとケンカしたとき、亮が怒りに任せて倒していった棚のことを言っているんだと、そのことはわかったが、あの後この英語教師がシドの代わりに片付けていたことは全く知らなかった。
 先ほどまではどうやってこの場を取り繕おうと言うことばかり頭にめぐり、周囲の状況が見えていなかったが、良く見れば、シドのデスクの上にはカラフルな花束が置かれており、これから活けようとしていたことがわかる。
「その、花――」
「ああ、これ? 彼のお休み、昨日までだと思ってたから、いつものように買って来ちゃったの。悔しいから活けちゃおうかなって」
「いつも、先生、エドワーズ先生んとこに、お花、持ってくんの?」
「ええ。お花はついでなんだけどね。彼ものぐさじゃない。お掃除したりとかコーヒー入れたりとか、誰かがやらないと、彼大変だから」
 今まで気づかなかったが、こうして部屋を見回してみると、明らかにシドの趣味ではないパステルカラーのクッションがソファーの上に二つ置かれており、奥のキッチンセットにはおそろいの華奢なカップが二つ並んでいる。
 パソコンのモニターカバーも、クッションと同じ淡いパステルカラーのストライプ柄だ。
 いつの間にか、亮の知らないものが、たくさん増えていた。
「先生ね、同じ英語科の教員として、日本のことをまだ良く知らないジョンに良くしてあげたいと思ってるの」
「そ、そう……なんだ。先生たち、仲、いいんだな……」
 うつむいて視線を泳がせたまま、亮の声は我知らず低くなる。
 そんな亮の様子をどう受け取ったのか、橋本は細く引いた眉を困ったように寄せ、亮のそばへ近寄ってくる。
「そんな顔、しない」
 橋本は再びかがみこむと自分の膝頭に両手を置き、上目遣いで亮を眺め上げていた。
「先生が一番大事にしてるのは、キミたち、生徒なんだぞ。成坂くん」
 ふんわりと香水の匂いがし、ワインレッドの引かれた唇が、ことさらその部位を強調するように動かされる。
 近頃売り出し中のセクシー系女優に似た面立ちを持つこの女教師は、亮のおでこを細い指先でつんとつついていた。
 それだけの一撃に、ふらりと亮の足が後退る。
「おれ、もう、帰る。プリントは、もう、いい――」
 橋本の顔をこれ以上見ていたくなかった。
 妙に片言になってしまった日本語でそう言うと、亮はくるりと踵を返し、部屋の扉を開ける。
「ジョンには私から伝えておくから大丈夫よ」
 背中から追ってくるその言葉は、亮の胸をぐいぐいと締め上げた。