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 午後の授業、掃除、帰りのホームルームと終わり、亮はエナメル加工の施された水色のメッセンジャーバッグを肩から提げ、右手には紺色の風呂敷包みを持っていつもと変わらぬ無愛想ぶりで教室を出る。
 このクラスが始まり二ヶ月近く経った今、もう亮に声をかけてくる者もいない。
 唯一懲りずにちょっかいをかけてくる前の席の彩名は本日、日直のため色々と忙しいらしい。
 部活動にも入っていない亮に許されているのは、まっすぐ寮に帰り、自室で宿題やら筋トレやらベースセラでの修行やら、事務所で毎日行っていたことと同じプログラムをこなすことだけである。
 しかも寮はこの学校の敷地内に建っているのだから、買い食いすらできない。
「あー、くそぉ。マックの新しいバーガー食いてー」
 普段は別にどうということもないマクドナルドのハンバーガーですら、こんな軟禁状況では妙に恋しくなるというものだ。
 都内にしては大きな敷地面積を持つ青陵学園は、三面あるグラウンドの外れに、二つの寮が建っている。
 グラウンド手前、日当たりの良い場所に建つ白い鉄筋コンクリート製のおしゃれな建物が、第二寮。それと鬱蒼とした雑木林を挟んで建つのが、木造築三十五年の第一寮だ。
 本来なら古くなった第一寮は壊され、寮生達は今年の四月建ったばかりの第二寮に移り住む事になっていたのだが、突然四月半ばの段階になって、その計画は流れることとなった。
 理事会だかなんだかの会議で、この新しい第二寮には特進クラスの生徒が入寮することに決まったそうなのである。それにまだまだ使えるこの美しい木造建築を壊すことは、伝統を重んじる我が校の校風に反するだの、エコが叫ばれている時代なのだから、古いものも有効に使っていこうだの、色んなおまけの理由が付いてきた。
 しかし何と言われようと寮生達は、突然すぎるその通知に一同「はぁっ!?」と怒り芬々だ。ぼちぼちと引っ越し準備を始め、新しい部屋へ荷物を運び込んでいた者たちは、もう一度冬寒く夏熱い馴染みのある第一寮へ荷物を持ち帰る羽目となった。
 五月から入寮した亮はそんな手間をかけることはなかったが、寮内で耳にする生徒達の不満の声に状況はよくわかる。
 生徒の中にはリヤカー三杯分移動させた可哀想なヤツもいたらしい。そんなわけで亮が入寮した当初は「おまえ、今月入寮って運がいいよ」と色んな者から同じ話を振られることが多かった。――もちろん「そうですか」としか答えない亮に話をふり続ける猛者はいなかったが――
 そんなわけで、亮が帰るべき寮はピカピカの第二寮ではなく、扉の取っ手が真鍮製のレトロな木造第一寮であった。
 木製の分厚い扉に目隠し用の磨りガラスがはめ込まれた扉を開けると、コンクリート製の広い玄関と右側へ敷かれた木製のすのこ。右手に設えられた大きな靴箱が現われる。
 それぞれが個人用に仕切られているロッカー風のそれに、亮は脱いだスニーカーを突っ込むと、取り出したビニール製のスリッパを履き、すのこから板張りの廊下へと足を踏み出した。
 さして広くない玄関ホールには臙脂色をした年代物のソファーセットと小さなテーブルが置かれており、左手壁にはいくつか自動販売機が設置されている。
 昼間でも薄暗いこの場所では、自販機の出す明かりはかなり有用な光源だ。
 規則や係の募集事項などを書かれた紙や火災防止などのポスターが無造作に張りまくられた突き当たりの壁には、腰辺りの高さに段差が付いていて、そこへ今では見かけないピンク色の公衆電話がぽつんと座っている。
 壁のすぐ横が寮の管理人室となっていて、電話のすぐ横の辺りから、壁は開閉できるガラス窓となっていた。携帯電話のなかった時代はこの窓から管理人が寮生達の長電話をたしなめていたのだろう。
 そのガラス窓が不意にガラリと開き、寮内の厳然たる監視役である男が顔を覗かせていた。
「おかえりー、亮くん! オヤツあるよ? 大好きなプリンだよぉ。そうだ、ココアでも入れようか」
 亮は管理人室の向かいにある階段から二階にある自室へ向かおうとしていたが、その管理人の声に困ったように眉を寄せ、振り返る。
「あのさ、渋谷さん。ここでそういう態度でいいわけ? 他の寮生に見つかったらまずいんじゃないの?」
「渋谷さんって、やめてよねー、他人行儀な。大体こんなに早く帰ってくるのは亮くんだけなんだから、誰にもばれないって。それより今日も偉いね。ちゃんと寄り道せずに帰って来てくれて、寮長は嬉しいなぁ」
 二十代半ばの雇われ寮長は、にこにこと心底嬉しそうな顔で微笑みながら、手にしたリモコンで部屋の奥でうるさく鳴っているテレビの画面を消していた。何でも吸い込むスーパー掃除機のテレビショッピングはすでに何回となく見ているらしく、彼は暇で暇でたまらなかったらしい。
「秋人さん、事務所の仕事が暇なら、寮の掃除するとか電球変えるとかした方がいいんじゃないの?」
 呆れたように言う亮に、今月新寮長として雇われたこの男は腕組みしながら難しい顔で首を横に振る。
「そりゃー社長のする仕事じゃないんだよねぇ。僕こう見えてもお坊ちゃんだから、掃除なんてしたことなくて――」
「――事務所じゃやってたじゃん」
「あれはほら、他にやってくれる人がいなかったからさぁ。壬沙子さんは必要なこと以外はノータッチなドライな人だし、凍ったようなシドがするわけないし――。ここはいいねぇ。学生さんが何でもやってくれて」
 やってくれて、というか、秋人がうまいこと規則や罰則をつけて寮生達をいいように使っている事実を亮は知っている。
 宿題や勉強を教えたり弱みを握ったりと、飴とむちを使い分けて、この一ヶ月の間に彼はすっかり寮を手中に収めていた。
「あっちの仕事の方はうまくいってんの? オレ、何か手伝うことない?」
 シドが学校へ講師として入り込むと同時期に、秋人は寮長としてここへ潜入を果たしていた。
 どうやら彼は敷地内に設置されている施設の探査に乗り出しているようなのだが、何をしているか詳しいことは亮にはわからない。
 そのついでというか、亮と同じ寮に居ることによって、亮がノックバックの症状を現わしたとき、緊急に処置できるポジションをキープしているらしい。
 現在亮の症状は安定しており、ノックバックの発作もほとんど小さなものでしかなく、薬も注射ではなく飲み薬で十分であったし、その後の処置も自分でどうにか収めることが出来るまでに回復している。
 それでも亮が寮に入るということについて、最初兄である修司は反対し、それなら兄のマンションに戻ってこいという話になったのだが、医師免許を持っている秋人が仕事の都合で寮へ入り込むことになった事実と、寮内の安全性について説かれ、ようやく納得した経緯がある。
 ちなみに現在事務所は壬沙子が留守番をしており、シドもソムニアであることを隠すため、事務所ではなく別に借りたマンションから学校へと通っているらしい。
「仕事? んー、まぁそれなりに、ね。亮くんはそんなの心配しなくて大丈夫だよ。それよりさ、こっちおいでよ。大好きなアイスクリームもあるよぉ? ドラえもんのDVD見る?」
 亮が復活してからも、秋人は何かにつけて亮を必要以上に子供扱いする。どうやら亮の記憶がない帰国後二ヶ月ほどの間に何やら秋人にとってステキな思い出があり、それを忘れきれないようなのだが、今の亮にとっては気味が悪い以外の何者でもない。
「一人で見て」
 素っ気ない態度でひとこと言うと、亮はすべすべと輝く木製の階段を、スリッパを鳴らして上がっていく。
「ほら、ほら、ゴーフルもあるよぉ!?」
 まるで孫を引き留めようとするお祖母ちゃんのような秋人の声を背中で聞きつつ、亮は小さくため息を吐いていた。




 
 温かな風が吹く草原の真ん中で、亮は本日百十五ターン目になる型の練習を繰り返していた。
 手にされた若草色の長棍は、亮の身長の倍以上あろうかというのに、まるでビデオの早回しの如く素晴らしい速度で回転し、それ自身が生きているかのように優雅な舞いを見せている。
 風を切る棍の音は絶え間なく辺りに流れ、そのリズムは聴く者全ての身体をうずうずと跳ね回らせてしまいそうなほど、躍動感に満ちていた。
 もうかれこれ四時間以上休みなく動き続けているにもかかわらず、亮の息は少しも乱れていない。
 額にうっすら光る汗だけが、亮の訓練の長さを伺わせる唯一のものとなっている。
 一心不乱にいつものプログラムをこなしていた亮が、ふと動きを止め、高い跳躍から大地に降り立つと振り返っていた。
「随分上達したわね、亮くん」
 休憩場にしているクラブハウスのすぐ前に一人の女性の姿を認め、亮は張り詰めさせていた緊張を解く。
「壬沙子さん。あれ? 事務所は?」
「お客も来ないし、お給料もらえるわけでもないし、自主休憩中」
 壬沙子は肩をすくめると悪戯っぽく笑った。
「それにクライヴに頼まれたから――。今日暇があったら亮くんの訓練に付き合ってくれって。暇だらけだもの、それって必ず行けってことでしょ」
「はは、そーだよな。えと……じゃ、今日はシド来ないのか」
「何だか忙しいみたいだから、彼」
 自分がIICRから持ち込んだ仕事だというのに、壬沙子は人ごとのように言うとちらりと亮を流し見る。
「寂しい想いさせちゃってるわね、亮くん。ごめんなさいね?」
「え? あ、ば、っ、何言ってんだよ、壬沙子さん! い、意味わかんねーよ。シドが仕事だから、何でオレが寂しいわけ? 逆に気楽ってか、たっ、楽しいよ、寮」
 亮は突然の壬沙子の振りに頬を紅潮させると、わたわたと早口で捲し立て、ついでに手にした棍をカランと地面に転がしていた。それを慌てて拾おうとして、持ち上げた棍で自らのおでこを痛打する。
「だっ」
 先ほどまでの訓練時とは比べものにならない冷たい汗が、なぜか大量に亮の全身に浮かんでいた。
 壬沙子はそれを呆れたように眺めると、亮に気づかれないようにくすりと微笑む。
「そう。楽しいなら良かったけど――。今回の仕事が片付くまでの間だから、我慢してね? 夏休みまでにはみんな事務所に戻ってこられると思うわ」
「だっ、だから、オレは別にそんなのいつだっていいよ。ここにいればシドに色々意地悪言われないで済むし、し、シドはオレのソムニアの先生なだけだから、一緒に住む必要もないっていうか――、と、とにかく、オレ練習するから」
 右へ左へ視線を泳がせながらそれだけ言うと、亮は焦ったように駆け出し、少し離れた位置で再び一人訓練を再開していた。動きが先ほどとは比べものにならないくらいギクシャクとしているのを本人は気づいていないらしい。
 実際亮が意識を取り戻した後から現在まで、亮の言ったとおり、シドはあくまで亮のソムニアとしての師匠という役割に徹している。GMD治療ですらここ数ヶ月、亮一人で抑える訓練に切り替わっており、シドが亮へ必要以上にスキンシップを図ることなどなかった。
 亮も記憶を取り戻したあの日、不思議なセラの中での出来事が本当であったのか記憶の混乱が見せた夢だったのかわからなくなっていた。
 そもそもシドに対するこのイライラもやもやドキドキする感情が何なのか、亮にはわからない。しかし亮が思うに、この叫び出したくなるような迷惑な感情は、シドが亮に意地悪をするせいで起こるもので、シドと離れた今のような状態が続けば収まってくるはずなのである。
 だが寮に移ってひと月たった今、まだその効果は現われてはいない。
 それどころか学校でシドとすれ違うだけで視線が泳いでしまったり、寮のベッドで無意識に横へ冷たい体温を探してしまったり、症状は悪化の一途をたどっている気がする。
 これはきっと学校でのシドの冷たい意地の悪い態度が問題なのだ。
 とにかく、シドが悪い。
 なんだってこうも嫌なヤツなのか。
 シドは亮に嫌がらせをする天才だと、亮はここ一ヶ月でしみじみと感じいっていた。
「ホント。意地悪したくなる気持ち、わかるわぁ」
 右手と右足をギクシャクと同時に動かし始めた亮を眺めながら、壬沙子は腕を組みぽつりと呟いていた。






 亮が目を開けると、部屋に人の気配がする。
 目を擦りながら身体を起こした亮に対し、部屋の反対側で着替えていたらしい人影が、振り向きもせず声を出した。
「真っ先に教室出て帰ってすぐ昼寝か? もっとすることないのかよ」
「別に……。」
「そんなんで人生楽しいか? なんつっても、どーせコメントなしなんだろうけどな」
 亮が答えないことは、同居人の中でもう織り込み済みのことらしい。
 長袖シャツとジーンズに着替えた久我は脱ぎ散らした制服をハンガーに掛け直すと、どさりと自分のベッドへ腰を下ろした。
「まぁ、でもそれが正解かもな。周りと関われば関わっただけ問題は増えるし、何より面倒だ。おまえの場合ちょっと度が過ぎてるけど、波風立てずに生きてくにはそれが一番だ」
 亮は無言で久我を見返すとベッドをおり、シドを彷彿とさせるほどの無表情ぶりで板張りの床を歩き、扉へと向かう。
 久我はそんな見慣れたいつもの光景に、今度はごろりと自分がベッドへ寝そべり「寝てるときは嫌なもの見なくて済むしな」そうつぶやいていた。
 しかしそんなリラックスした様子もつかの間、亮が部屋を出たことを横目で確認すると、久我は勢いづけて身体を起こす。
 壁にしつらえられた自分の側の棚からモバイルをとりだしLANジャックを差込むと、電源を入れていた。
「さて、俺は面倒へ首を突っ込むとしますか――」
 ポインタを操作し新着のメールをチェックしていく久我の手は、多数のダイレクトメールに埋もれた一通のサブジェクトを選び取る。
「今月は何か儲かりそうなニュースはないですかね、と」
『個人業者協会通信』と書かれたそのメールを開いた久我は、そこに添付されているファイル『KILL LIST.txt』を慣れた調子でダブルクリックしていた。