■ 4-23 ■


(良かった)
(本当に良かった)
 早朝七時半――。
 秋人は壬沙子からの連絡を受けほっと胸をなでおろし、同時にバスンと管理人室のソファーへとへたり込んでいた。
 今朝方朝食に現れない亮を心配し、すぐに部屋を覗きに言ってみたのだがそこにも姿はない。同室の久我貴之に聞いてみれば、今朝起きたときからもうベッドは空だったという話だ。
 真っ青になってシドへ電話を掛けてもいっこうに出る気配がない。
 こんな時に限ってなんで出ないんだ!と、焦りでパニックに陥りかけたとき、壬沙子から電話が入ったというわけである。なんのことはない、里心が出て事務所に戻っていただけだったらしい。「シドにはこのこと内緒にしといて!」と壬沙子に頼んだら、それも苦笑しながらOKしてくれた。
 まぁとにかく万事丸く収まったのであるが、それでも、そのほんの数十分の間、秋人は生きた心地がしなかった。

 というわけで――
「お帰りぃぃぃぃっ! とほほほるくううううぅぅんっ!」
 夕方亮が帰宅した際、秋人の「お帰りの抱擁」はいつにもまして激しかった。
 そろそろと玄関ドアを開けた小さな姿を見つけると、管理人室からバネ仕掛けの如く飛び出して、逃すものかとガッシリと抱きつく。
「もぉぉぉおっ、心配したよぉぉぉぉっ!」
(役得。まさに、役得だ。離れて暮らしているシドでは味わえない至極のひととき!)
「こいつめっ、こいつめっ」
 その上柔らかな髪に頬ずりだ。
(このシナヤカな感触! このあま〜いニホヒ! これが戻ってきたなら、ああ、もう、もう、ぶん殴られてもいい!)
『放せっ、場をわきまえろよ、バカ管理人っ!!』
 いつもならそんなセリフと共に、するどいアッパーでもお見舞いされるところである。
 飛んでくる……飛んでくる……ゲンコツ飛んでくる……と、頭の中で覚悟をしつつ、それでも身体が止まらない秋人だったが。
「・・・・・・?」
 いっこうにゲンコツが飛んでくる気配はない。
 それどころか、抱きしめられたまま微動だにしていなかったケンカ上等少年は、秋人の腕の中でおずおずと顔を上げ、赤らんだ表情で申し訳なさそうに
「……ごめんなさい」
 と、小さくのたまっていたのだ。
「・・・・・・っ!!!!!!」
 思わず秋人の鼻の穴がぷっくりと膨らんでいた。
 少し潤んだ瞳。
 切なげに寄せられた形の良い眉。
 濡れたように艶やかな唇と、熱いほどの体温。
(………………お……、おっ……きしちゃいました)
 秋人は容赦ないゲボ能力にめった打ちにされ、石像の如く固まるしかない。
 そこで亮を押し倒すだの、管理人室にさらって帰るだのができない善良さが、秋人の良いところでもあり、人間の限界でもある。
(なに!? なんなのよ、このいつにもましての、つ……艶っぽさわっぁぁっ!)
「俺……、いっぱい心配、かけちゃった、よね。……、まじ、ごめん、秋人さん……」
 そう腕の中で見上げてくる少年の首筋に、光る赤い痕。
「!?」
 見れば、一つだけではない。鎖骨の辺りや二の腕にも同じ痕が点々とつけられている。
 何者かが「これは俺の物だ」とでも言わんばかりに、これ見よがしにマーキングしたとしか思えない。
 そう言えば、壬沙子さんによる治療の為に、シドも昨日は事務所に帰っていたはずである。
 秋人は一つの可能性を思いつき、それにすがるように言葉をぶつけてみた。
「…………と、亮くん。夕べ、もしかして発作、起きちゃった?」
「え? 別に発作なんか起きてないけど? なんで?」
 亮はきょとんとした表情で首を傾げる。
「……あ、はは、そっか。発作、じゃないんだ。……ハハ、そっか。良かった。よかっ……」
 秋人は亮を解放すると、ぶつぶつと呟きながら魂でも抜けたようにふらりと管理人室の扉へと戻っていく。
「発作じゃない。発作じゃないのにあの痕があるってぇことは……」
(あいつ、あいつ、遂にやりやがったっ。シドの野郎、どうりでどれだけかけても電話にでないわけだよっ。なにが、なぁにがお父さんだ、僕の大事な亮くんに、あの変態エロ教師がああああっ!!!!)
 秋人の優秀な頭脳が弾き出した答えは、一つしかない。
「秋人さん?」
 不思議そうに問いかける亮に「早くお部屋でお休みなさいよ」と、何時代かわからない言葉遣いで応えると、傷心の事務所社長は溢れる涙もそのままに、ふらふらと管理人室に吸い込まれていったのだった。








「うわー、今年の2A、ハンパねーな! バレー、バスケ、野球って、5競技中3つは持ってかれてんじゃん」
「醍醐くん、出たらアウトだね。絶対勝てないわ」
「うちのクラスにはそういうチートな英雄いないのー!?」
「いなかったから、この惨憺たる結果なんでしょーが」
 体育館にぞろぞろと集合しながら、生徒達は口々に今日の戦績を話し合う。
 亮も当たり障りなく担当のサッカーでディフェンダーとして突っ立ち、学年順位6位。学校順位では圏外という素晴らしい成績を収めて、午前の部を終えていた。

 亮とシドがマンションで邂逅して二週間が過ぎていた。シドは学校へ何事もなく復帰し、その後二人の学校生活は以前の通り、接点を持たないようにつつがなく送られている。
 そして、本日は春の球技大会――。
 それは青陵高等学園にとって、秋の文化祭に次ぐ大きなイベントである。
 『春陵祭』と名付けられたその球技大会は、午前中は文字通り各クラスごとのチームに分かれ、様々な球技を戦うのだが、午後はお祭りらしくフィナーレイベントで幕を閉じることになる。実はこのフィナーレが毎年最も盛り上がるのだ。
 昼食を終えた生徒達は体育館に思い思い集合し、それぞれいい位置をキープする。
 彼らが見上げるのは、ステージ上に掲げられた『ミス&ミスター青陵コンテスト』の垂れ幕。
 方法は至ってオーソドックスだ。各クラス代表二名が仮装をして登場し、審査員と生徒たちで良いと思った者に投票が行われる。もちろん、優勝者には賞品が用意されている。
 この『賞品』が、生徒たちにとって垂涎の品なのである。
 なんとミスター青陵には『購買特製手作りバーガー引換券』。ミス青陵には『購買特製手作りプリン引換券』が、それぞれクラス全員分進呈されるというのだ!
 以前から人気のあった『購買特製メニュー引換券』シリーズだが、去年から変わった新購買部業者の手作りものは尋常なうまさではなく、中でもこの二品は、「陸上部インターハイ並みの俊足」と「購買に近い地理的条件を持つ教室で4時間目を終える」――という奇蹟の二つが揃わなくては、手にすることはほぼ不可能と言っても過言ではないものである。
 それを、確実にしかも無料でゲットできるこの機会を、生徒達が見逃すはずもない。
 球技大会の賞品である記念の盾やノートなどより、ずっともっと切実に、ミスコンの賞品は逃せない逸品といえた。
 このフィナーレイベントは自由参加であるのだが、学校中ほぼ全員が足を運んでくる。一票でも自分のクラスに入れようという意気込みから来るものであることは明白だ。
 もちろん、一般生徒の票より審査員に選抜された教師や後援会の理事たちによる票を重くしてあるせいで、一応毎回それなりに納得の結果が出るのも、このイベントが盛り上がるポイントといえる。
 そんなわけで、午前が終わったら早々に帰る予定だった亮も「クラスの為に絶対来て!」と彩名たちに引っ張られ、体育館の片隅に仏頂面で立ち尽くす羽目となっていた。
 生徒垂涎の「古本屋さん特製プリン」を内緒でいつも好きな時に食べている亮としては、妙な後ろめたさもあり、断り切ることが出来なかった……というのが本当のところである。
「すごい人だな……」
 生徒達の波間にもまれながら、亮は少々辟易したように呟いた。
 こういう人混みは得意な方ではない。
「いてて、こりゃ前からだとステージへ近づけねぇな。吉野、裏に回ろう。おまえもくるか?成坂。どーせ投票は最後なんだ。見物する気がないなら、外に居たってかまわねーだろ」
 久我の提案に、亮は無言のままうなずくと、取り敢えず彼らについて行くことにした。人混みの中に居ていいことなど一つもない。
 ステージ裏口付近まで脱出を果たした一同は、ようやくそこで息を吐き、立ち止まる。辺りには今回のミスコンへ出場する生徒達がそれぞれ自前の衣装を抱え、控え室へ入っていく所である。
「先輩達から話は聞いてたけど、すっごい盛り上がりだよね。……こいつらみんなライバルかぁ。う〜……、私、緊張してきた」
 彩名は胸に大きな紙袋を抱えたまま、形の良い眉を寄せうつむいていた。心なしか顔色が青い。
「なんだぁ? 立候補したときはあんだけ自信満々だったじゃねーか。今になって何弱気なこと言い出してんだ。頼むぜ、吉野」
「わ、私は久我みたいに神経が図太くないのっ。あ、だめ、あの子とかめっちゃ可愛いし……。1Dのドクモの子とかも出るって噂だし、やっぱ、ちょっと、ムリ、みたいな……」
「よ、吉野さん、どうしちゃったの? なんか、今日の吉野さん、吉野さんらしくないよ。いつもあんなに恐いのに……。しっかりしてよ、みんなのプリンがかかってるんだよ?」
「…………な、何よ、佐薙のくせに……、わ、私にそんな口きいて……、……うぅ……ダメ。やっぱダメ。ちょっとトイレ……」
 彩名は手にした紙袋を久我に押しつけると、凄い勢いで校舎の方へと走り去る。
「大丈夫……かな、吉野さん……」
「大丈夫も何も、戻って来なかったらあいつ来週から1Cの領土踏めねぇだろ。人選するときあれほど大見栄切って任せろって言ってたんだから。食い物の恨みはこえぇからな」
 今回の1年C組のミス担当は彩名。そしてミスター担当は久我である。
 ミスが決定した後、衣装のコンセプトからデザインから、ミスターの分も含めて彩名と彩名グループによりほぼ独断で決めてしまったほどの、力の入れようだったのだ。
「…………」
 焦る二人を尻目に、一人亮は傍らの花壇へ腰を下ろし、暇そうにケータイをいじり始める。亮の役目はコンテストの後、自分たちのクラスに票を入れること――ただそれだけなのだから気楽なものだ。
「……なんか……、戻ってくる気配、ないね……」
 それから十分経ち、十五分経ち、出場する者達は続々と控え室へ入っていく。もう残っているのは1Cの彼らだけのようだ。
「ダメだ。ぜんぜん出やがらねぇ。なに考えてやがんだ、あいつはっ」
 久我も彩名へ何度目かの電話を掛けてみるが、応答はない。
「ど、どうするの、久我くん。他にクラスの女子、呼びに行ってみる? ケータイで連絡取ってみるとか」
「今からか? もう時間ねぇだろ」
「でも、ミスを棄権するなんて有り得ないよ! プリンだよ!? 特製プリン! クラスのみんなが許さないよ!」
「ちっ……、しょうがねぇ。……おまえはそこで待ってろ。話つけてくる」
「へ?」
 久我は、ケータイでひたすら落ちものパズルに興じていた亮の元へツカツカと近寄ると、ボスリと大きな包みを押しつけていた。
「!? てめ、なにすんだよっ、もうちょいで全消しだったのに……」
 ムッとしながら顔を上げた亮へ顔を近づけると、久我は低い声でこう言った。
「おまえが出ろ。成坂」
「…………は?」
「おまえが、ミス1Cをやるんだ」
「な…………? なに言ってんだ、おまぇ……」
 冗談にしては出来が悪すぎる。
「やるわけねーだろっ! おまえバカか!? オレは男でミスじゃねぇ!」
「そんなの問題じゃない。これは祭りだ。他のクラスでも男子がミス、女子がミスターで出てるとこもあるくらいだ」
「両方男子なんてムサっ苦しいクラスはねーだろーがっ」
「禁止する事項はない。背に腹はかえられねぇ。俺たちに、もはや選択の余地はないんだ」
「知ったことか!」
「あーあー、そうだろうなぁ。おまえはあの『使えるおじさん』にいっつもオイシイプリンご馳走になってんだもんなぁ。そりゃ人ごとだわなぁ」
「……っ、そ、それは……」
 そこで初めて亮の言葉が詰まる。
 しかし、そんなささやかな罪悪感で折れるわけにはいかない。そもそも目立つことを禁じられている自分が、舞台の上に仮装して立つなんてことは絶対にあってはならないことなのだ。
 亮がそれでも踏みとどまったのを見てとると、
「それに……」
 久我は一段と屈み込み、声をひそめて亮の耳元で囁いた。
「……出てくれなきゃ、あのこと、言うぞ?」
「!?」
 亮が、吐息すら届く距離にある久我の顔を見る。
 うっすら口元に笑みを浮かべた彼は、笑わない瞳で亮を見つめていた。
「な……なんだよ、あのこと……って」
「そりゃおまえ、一つしかないだろ。……成坂亮。おまえの『正体』のこと……だよ」
「正体……!? い、意味わかんねぇし……」
「おいおい。あれだけ同じ部屋で寝起きしてて、隠しきれるとでも思ってたのか? 甘いんだよ、おまえ」
「……っ、……てめぇ……、」
 ぎりりと亮が唇を噛みしめる。
(同じ部屋で寝起きして……? まさか、訓練用セラに入ってることがバレた? シュラのセラカードキーが見つかったとか……。いや、寝言でセブンス時代のこと、何か喋っちゃってたとか!? 一般人だと思って油断しすぎたのか、オレ……)
 亮の額からするすると大きな汗の粒が滑り落ちた。
 もし久我にソムニアについての知識があったのだとしたら、バレてしまってもおかしくないかもしれない。
(って、ことは……。……知られた。……知られてるんだ。オレが、ソムニアだってこと……。……どうしよう……。どうしよう、どうしよう……、もしもオレがソムニアだって学校に知れれば、もうここにはいられなくなる。シドの仕事にも絶対影響が出る……)
 黙り込んだ亮へたたみかけるように久我が続ける。
「あれを学校の連中に発表したら、色々と困るんじゃねぇの? 特に生徒会の副会長とかさ――」
「副会長……?」
「東雲先輩、だよ。仲良くしたくないんだろ、あいつと」
「!! ……っ、おまえ、なんでそんなこと……」
「今、説明してる時間はねぇな。答えは? やるのかやらねぇのか」
「…………っ」
 亮は黙ったまま立ち上がっていた。
 一度だけ久我をにらみ据えると、紙袋を持ったまま投げやりな態度で控え室のドアへと入っていく。
「ぇ……、く、久我、くん、まさか……」
 呆然とした様子の佐薙がおそるおそる久我へ声を掛ける。二人が何をやりとりしていたか知れないが、およそ考えられる展開ではない。
「ミス1Cは、成坂に決定だ。……まぁ、あいつならそこそこやってくれるんじゃねーの?」
 信じられない表情の佐薙を尻目に、久我は口元に笑みを刻んで亮を追い控え室へと消えていった。