■ 4-28 ■




 階下から聞こえる雑多な生活音で亮が目を覚ますと、もうすでに時刻は午前八時を大きく回っていた。
 普段ならもうとっくに寮生は登校し、静かになっている時間だ。
(……そっか。今日、休みの日か……)
 私立である青陵高等学園は、普段の土曜日なら午前中、授業が用意されている。だが、球技大会の翌日は例年休みになるらしい。
 亮は気怠い身体を起こすと、回らない頭で部屋の中を眺める。
(久我は……食堂か……)
 ルームメイトの姿が見当たらないことに、亮はぼんやりと勝手にそう結論づけ、何度か目をこすった。
(だるぃ……)
 朝メシ、いらないな……。
 こんなにだるいのはなぜなんだろう?
 風邪、ひいたかな?
 それとも……、夕べノックバックでも起きたっけ……?
「……ノックバック……。……っ!」
 とろんとした亮の目が絶望的に見開かれる。
 ――そうだ!
(オレ、夕べ……発作起こして……)
 何が夢でどこから現実で、自分がどうなっていたのか、時系列すら定かでない。
 滝沢の姿を見た気がする。
 ヴァイオレットの姿を見た気がする。
 体育の金原。
 佐薙。
 東雲先輩。
 なんだか優しいシド。
 それから、久我――。
「っ……、久我……」
 瞬間、一気に昨夜の出来事が色彩を帯び蘇っていた。
「オレ……、オレ……、久我……に、発作……、見られた……?」
 思い違いじゃないか。
 ノックバックのせいで悪夢を見たんじゃないか。
 そう思いこもうとするが、考えれば考えるほど、それが確かな現実だと亮自身気がついてしまう。
(やばい……やばい……、やばいだろ、これ……)
 反射的に、亮はタオルケットをめくり、自分の身体に視線を落としていた。
 どうやら服は着ているようだ。だがホッとしたのもつかの間、シャツをめくって見れば、そこら中に散るのは紅い痕――。
 発作時には汚してしまうことの多い下着も、キレイなままだ。
 亮は頭を抱え、ベッドの中に倒れ伏してしまう。
(や……っちゃった……のか……)
 思い出すのは、何度もキスしたこと。
 あれは久我。
 いつものように冷たい指先で慰めてくれたこと。
 あれはシド。
(でも、シドがここに来るはずない……)
 多分最初は久我だった。
 でも途中からシドがそこにいた。
 そんなこと、あるはずがないのに。
「GMD幻覚……」
 その単語が脳裏に浮かぶ。知識は知っていても実際起きてしまうと亮にはどうしようもない、忌むべき症状。それが夕べの発作で起こってしまったのだ。
 久我の能力がイザだったことが、不幸にもその引き金を引いてしまったのかも知れない。
「ウソ、だろ……?」
 何かまずいこと口走らなかったか?
 シドの名前は呼んだ気がする。
 それでもって、とんでもなくこっ恥ずかしいことを、やっぱり口走った気がする。
「・・・・・・。ぅ……ぅぁぁぁぁぁぁ〜……」
 亮はタオルケットに顔を埋めたまま、弱々しく絶望の叫びを上げていた。
 身体の痛みがないことから察するに、多分最後までは行っていないだろう――ということが、亮にとって唯一の救いだった。
『入れていいか?』
 と聞く切羽詰まった声が、記憶の片隅に残っていた。
 あれは、久我の声だ。
 それなのに、どうやら最後の一線は越えていないらしい。
(……久我、結局……しなかったのか……よ……)
 この一年で刷り込まれた亮の記憶から導き出される答えは、こんな事態になれば、自分は確実に無事ではいられない――ということだ。
 特に久我はソムニアなのだ。亮がゲボであることを知らなくても、あんな状況でそのまま解放してくれるなど、亮には信じられないことだった。
「……やっぱ、あいつ女好きだから……、オレ、無事でいられた……のかな……」
 なんにしても、ありがたい気持ちが湧いてくる。
 多分あのまま、久我は亮だけを慰め、情けなくもへばった亮をベッドへ寝かしつけてくれたのだろう。
「……ぅぁぁぁぁ……、も、オレ、どんな顔して、あいつに会えばいいんだよぉ……」
 弱った身体でベッドを転がった亮の頬に、カサリと何やら紙のようなものがはりつく。
 見れば小さなメモ書きだ。
「?」
 枕元に置かれていたらしいそれを取り上げ、亮は顔の前に掲げてみた。

『 成坂へ――
   仕事手伝う話はなしだ。
    あの程度のネタ、俺一人で十分だしな。』

「仕事……」
 そう言えば昨日、久我は亮にソムニアの仕事を一緒にやろうとしつこいほどに誘ってきていた。
 夕べあんなことがあったせいなのか、どうやら久我はその話を反故にするつもりらしい。
「一人でって……、大丈夫なのかよ、あいつ……」
 ぽつりと亮が呟いたとき、部屋の扉がノックされ、返事をする前に隙間から秋人が顔を覗かせていた。
「と・お・る・くん、大丈夫? 具合、悪い?」
 どうやら朝食に現れない亮を心配し、様子を見に来たらしい。
 顔色の良くない亮の姿にすぐに気がつくと、いそいそと診療鞄を抱えて亮の側に飛んでくる。
「熱、あるんじゃない? 夕べ、発作あった?」
 体温計を手渡しながら亮の身体を寝かせ、血圧のチェックに入る。
「ちょっと……、軽く、だけど……」
「そう。無理しちゃだめだよ? やばいなーって思ったら、夜中だろうと管理人室に来ていいんだからね? 大きな発作だったら危険だし、同室の子にも感づかれちゃうかもしれないし……」
「っ! ぅ、ぅん……」
「GMDは? まだあるかな?」
「あと、2、3錠……くらい、かも……」
「じゃあ薬、夕方までには届けるから。……微熱、あるね……。ごはん、食べられそう? 食欲ないなら、野菜ジュースだけでも飲んだ方がいいね。持ってこよっか」
 心配そうにしながらも、亮の世話を焼く秋人はどこか張り切っている。
 さっそうと立ち上がった秋人を、亮がふと呼び止めていた。
「あ、秋人さん!」
「ん? なに?」
「あの、さ……」
 しばらく躊躇い、亮は顔を上げる。
「し……シドの今の仕事、そんなに、危険なの?」
「……そんなこと、ないよ? 平気平気。問題なし」
「でも、壬沙子さんが、シドがやばいセラに入ってるせいで、相当参ってるって……言ってたし……」
「……ん〜、そっか。その辺聞いちゃったか。……そうだね。確かにちょっと面倒そうな相手ではあるんだけど……。でもシドはあの通り、ソムニア能力と腕っ節だけは怪物級だから。ランクで言えばSSS級――トリプルクラス。カラークラウンの中でも強さと性格の悪さは伝説だったからね、あいつ。この程度の仕事でどうこうなることはないよ。だから亮くんが心配することはないって。亮くんは自分の身体のことだけ考えて……」
「そりゃ、……そりゃシドが凄いのは……わかってるよ。ただ、もし、オレが手伝うとしたら、役に立てるのかなって、……ちょっと、思って……」
「ダメだよ、危ないこと考えちゃ。確かに亮くんの能力ランクはS級――いわゆるシングルクラスを叩き出してるし、通常、IICRでも覚醒後すぐこの値を出す人材は少ないって聞くけど、仕事はそれだけじゃうまくいかないのはわかってるよね? 亮くんはまだまだ訓練も経験も不足しすぎてる」
「……うん。それは……わかる……。それじゃ、……それじゃ、もし、さ」
「なに?」
「オレの経験がかなり凄ければ、能力ランクがB級とかC級とかでも、この仕事、手伝えたりするのかな?」
「……?? なに、それ」
「たっ、たとえば、だよっ」
「……その「もし」の経験がどのくらいかはわからないけど、……言うほど凄い死線をくぐり抜けてきたソムニアなら、本能的にこの仕事は避けると思うよ。死ぬ、だけならともかく、寂静――魂ごと消え去って永遠に転生も不可能って状態になったら後悔してもしきれない。特にS級以上の能力者たちによる戦闘は、次元が違う。B級以下じゃ、アリが象に立ち向かうみたいなものだよ。現実的じゃない」
「……そっか……」
「でも亮くんはS級なんだ。訓練次第ではいつかシドと肩を並べられるようになるさ。だから、そんなに焦らないで。今、亮くんのできることは、一日も早く元気な高校生に戻ることだ。わかるよね?」
「……うん。……そう、だね。ごめん、オレ、焦りすぎてた。変なこと、聞いちゃったな……。……でも、秋人さんに相談したら、なんかご飯食べれそうになってきた。食堂、まだ開いてるかな」
「え、うん、まだギリギリ間に合うと思うけど……、大丈夫? おかゆでも持ってこようか?」
「平気。ありがと、秋人さん」
 身体を起こした亮はにっこり微笑み、部屋を出て行く。
 秋人はその笑顔を噛みしめながら、
「僕、意外と教師とか向いてるかも。……こらぁ。なりさかぁ。素直でよろしーい!」
 と、幸せそうに何らかの物まねをしつつ、その後ろ姿を見送ったのだった。




 食堂の片隅で、久我は苦虫をかみつぶしたような表情で、目玉焼の黄身を突っついていた。
 どのくらいの間そうしているのか、黄身は醤油に溶かされて謎の液体と化してしまっている。
(かんっっっぜんに、計画見直しだなぁ……)
 成坂亮を囮にして、内部事情を探る計画は久我自ら夕べ放棄してしまった。
 夕べのあの事態は、久我に圧倒的な罪悪感を植え付け、その後、亮にセラ内部での話を聞くことすら断念させてしまったのだ。
(成坂はセラん中でのこと、思い出したくもないだろうしなぁ……。あんな体中キスされて……)
 薄明かりに浮かび上がった亮の白い裸体を思い出し、久我は思わず口元を押さえ箸の動きを止める。
 百戦錬磨の久我らしくもなく、耳まで真っ赤に染まっているのを気に留める者はここにはいない。
(っっっっっ! ぅぁぁぁぁぁああああああああああああっ! くそっ、くそっ、くそっ、なんで俺がこんな……思い出してバカみてぇにっ、……だって、あいつ男だぞっ。男の裸がなんだってんだっ。俺にだって同じモンついてるしっ、……いや、俺のとちょっと……、かなり違っていたけれども。いやいやいやっ、だ、第一それをちょっと弄ってみたからって、べっ、別に、減るもんじゃねーしっ、……って、違う! そうじゃないっ。……それにあいつ、チチだってねーじゃんかよっ! そりゃ、成坂のすげぇカワイかったけど……。……待てっ、しっかりしろ俺っ。お、男の乳首なんて、地球上で最も役に立たねぇもんだぞっ! ……って、違うっ、そーゆーことじゃねーんだっ。ナンの価値観だっ、俺はバカかっ!?)
 箸の動きが速まり、皿の上は玉子とキャベツのジュースが出来つつあった。
「おい、久我。お好み焼きの種でも作ってるのか?」
 顔を上げるとそこには不思議そうに見下ろす亮の顔。
「っっっっっ!!!!!!!」
 ガタンと音を立て、久我は思わずイスごとひっくり返りそうになっていた。
 しかし辛うじて体勢を立て直すと、咳払いをして箸を置く。
「な……成坂っ!! ……ぐ、……具合、は、もういいのか?」
 一瞬声が大きくなりかけ、焦ったように明後日の方を向きながら、ぼそぼそと聞こえないような声で久我が聞く。
「ん。まだ微熱はあるけど、そんなきつくない」
 亮は久我の向かいへ席を取ると、朝食の味噌汁に口を付けた。
 こうして見ると、亮の様子はいつもとあまり変わりがないように思える。
(夕べのこと、覚えてないのか?)
 熱も高かった上、飲んでいた薬も少々怪しかった。記憶がないというパターンも十分に考えられる。
 それならば久我もやりやすい。いつも通りに話せばいいだけのことだ。
 だが――
(……なんだよ。……覚えてないのか、よ……)
 不思議とそれが胸に冷たい風を通していくようにも感じられ、久我は戸惑いを覚える。
「……夕べ、のこと、ホント、ごめん」
 ふと、亮の箸が止まり、ぽつりとそう言った。
「……へ?」
「……オレ、迷惑、かけた……よな。夕べのこと、も、忘れて欲しい……」
「夕べって……、おまぇ、……覚えてんのか……?」
「だっ、だから、忘れてくれって言ってんだろ。もうあんなこと二度と無いようにするから。ホント、ごめんっ」
 亮は箸を置き、久我に深々と頭を下げていた。
 慌てて久我は亮に顔を上げさせる。
「ちょ待てって。なんでおまえが謝ってんだよっ。謝るのは俺の方で――」
 中腰に立ち、間近で見た亮の顔に、久我の胸が激しく高鳴る。
 紅く光る唇に、吸い寄せられそうになる。
「……久我?」
「っ!」
 はっと我に返り乱暴に腰を下ろすと、ぬるくなった麦茶をマイカップからぐっと呷った。
「だっ、だからっ。あ、謝るのは俺の方だって言ってんだっ」
 この胸のやましさを別のやましさで覆い隠すように、久我はついに自分の計画を亮へ暴露してしまう。
「あのセラにおまえを送り込んだのは、俺なんだっ。だから謝るのは俺の方なんだっ!」
(……って、何白状してんだ、俺っ!! ば、バカじゃねーのかっ!?)
 言ってからしまったと口をつぐむがもう遅い。
 この話を持ち出すことは、亮に嫌な記憶を思い出させることにもなる。
 ……おまけに、さらに自分は亮に嫌われる。
「……どういう、ことだよ」
 曇った表情で亮が久我を見る。
 だがもう、後には引けない。
「……だから、さ。昨日話した仕事のこと。……俺、あの案件、おまえを囮にして内部事情を探ろうって……考えててよ。そんで夕べ、おまえのベッドのそばに、……入獄カードを仕込んだんだ。その……まじ、悪かった……」
「…………」
 亮は黙ったまま久我の顔を見つめている。
 その沈黙が恐くて、久我は考える前の言葉を次々と口から放っていく。
「おまえがそんなつらい状態になるの、知らなかったし、それに、女の子を囮にするくらいなら、男なら罪悪感がないかなーとか、思ったりしてさ。でも俺じゃ囮として食いついてくれねーじゃん? だから成坂なら適任っつーか、おまえ、ケンカもつえぇし、その、顔も可愛いし、ソムニアだっつーし、精神的にも強そうだし、だからその、えっと……、」
 飛び出すのは情けない言い訳ばかりで、聞いていて自分でもほとほと嫌になってくる。
 だが、
「……オレ、精神的に強そうかな」
 亮は不思議と嬉しそうにそう呟いていた。
「……え?」
「……そんなこと、言われたことなかったから、ちょっと驚いた」
 控えめに微笑した亮の顔が綺麗で、久我は思わず言葉を止める。
「そっか。スクールセラに入ったの、おまえのせいだったのか。オレがヘボ過ぎて、思わず入り込んじゃったのかと思った。……理由がわかれば、かえって良かったよ……」
「お……おまえ、……怒らないのかよ。俺、おまえのこと、酷い目に遭わせたんだぞ? 怒鳴れよ。もっと俺のこと責めろよ。あんなことされて、そんで俺のこと許せるのかよっ!!」
 思わず立ち上がり、そう叫んだ久我に、食堂のおばちゃんの視線が集中する。
 寮生達の姿が既に食堂になかったことが幸いと言えば幸いだった。
「オレは……」
 そんな久我を真っ直ぐ見返し、亮は小さく――だが、強く言葉を返す。
「……強くならなきゃ、ダメだから」
「? 強くって……、おまえ、もう十分つぇえじゃん」
「違う。こんなの強いなんて言わない。いくら腕っ節が強くてもダメなんだ。もっと、あいつらみたく、氷みたいに。炎みたいに。胸の内側から強く、強く、強く、ならなきゃ、……ダメなんだ」
 それでも、亮の言う強さの定義が読めず、久我は言葉を続けることが出来ない。
「それに……、多分、おまえが思ってるほど酷い目には遭わされてないよ、オレ。結局、途中で逃げてきたし」
「へ?」
「な。久我。もうやめとけよ。オレなんかに謝ってる場合じゃない。こんな仕事、一人でどうこうなるわけないだろ? 手を引いた方がいい」
 突然思わぬ方向に話を振られ、久我は戸惑ったように亮の顔を眺める。
 しかし、その様子は冗談を言っているようでもなければ、茶化しているようでもない。
 真剣な眼差しは、亮の言葉が真実そのものの意味を指す他ないと久我は理解した。
「……いきなり、なんだよ」
 そこでようやく久我は自分を取り戻す。
 ばつが悪そうにイスに座ると、ぐちゃぐちゃになったキャベツを口に運ぶ。
「おまえ、相手の能力の強さとか、規模の大きさとか、わかって仕掛けてんのか、この仕事」
「……そんなもん……、知るかよ。たまたまこの高校に入って大きなヤマにぶち当たったんだ。手を着けずにおけるかって話なだけだよ」
「じゃ、なんもわかんない相手にケンカしかけてるってことなのかよっ。ムチャクチャだ!」
「っ、無茶でもなんでも、見過ごす手はねーだろっ!? こんな案件、探して見つかるもんじゃねぇっ。この幸運を自分のものにしないでこの先何を目指して生きてくっていうんだ!? それにもうおまえは巻き込まねぇって言ってんだから、関係ねーだろっ!?」
「関係なくないよっ! バカじゃねーのっ!? あんなこと打ち明けられて、巻き込まれた挙げ句、あとはほっとけって、無理に決まってんじゃんっ!」
「あーそうだよ。俺はおまえを巻き込んで、エロ酷い目に遭わせて、そんでもって正気じゃないおまえにエロ酷いことしたよっ。だからそんな奴、もう眼中に入れないなんてのは簡単なことだろーがっ!」
「けど、しなかったよなっ」
「……ぅえっ!?」
「……最後まで……しなかった……だろ」
 久我が固まる。
「だからっ……。……だから、オレ、ちょっとは……感謝してる……」
 うつむく亮に久我も思わずうつむいてしまう。
 洗い物の音が響く食堂で、二人の青少年が向き合ったまま沈黙の時を刻む。
「だからさ……、その……、今焦らなくても、そのうち自分の力が育った頃、見合った案件にぶつかることもあるって……」
 亮はその沈黙に溜まりかねたように、そう言って顔を上げた。
 だが、久我はうつむいたまま――
「今じゃなきゃ、ダメなんだよ」
 そう、ぽつりと言った。
「……え?」
「今じゃなくて、いつ、それが来るっていうんだ? 俺の力が育った頃!? 寝ぼけてんのか、成坂っ。力は育つんじゃねぇっ。育てるんだっ。おまえだってマナーツだったらわかるだろ!? ソムニアの世界がどれだけ能力主義かってことがっ。危険だから、恐いからでグズグズしてたら、一生――いや、何回死んでも永遠に、俺は――俺たちは浮かび上がれない。永遠に上のクラスの連中からは見下ろされ、雑魚扱いされ、搾取され――バカにされて生きていくことになんだよっ」
 低く、そして強い声で久我はそう言った。いや、いい方は静かだったが、亮にはそれが絶叫しているようにすら錯覚される――そんな、呟きだった。
「そりゃ俺だって、IICRに入ろうなんて夢、転生してすぐに捨てたさ。どうあがいてもこの能力値であんな場所手が届くわけねぇってな。だけどな。それでもっ! それでも……せめて実力だけはあいつらと肩を張れるって自負してぇんだよ。たとえフリーだろうと、それだけの仕事をこなせるってとこを連中に見せつけてやりてぇんだよっ。あいつら、俺たちみたいなC級以下のソムニアなんか、ヒトとして見てねぇ。わかんだろ? マナーツならなおさらそんな目に遭ってるんじゃねぇのか、成坂」
「っ、……それは……」
 衝撃に亮の言葉が止まる。
 思ってみたこともなかった。
 ソムニアとして――いや、ゲボとして覚醒した亮は、いつだってソムニアの頂点であるIICRの手の内にいたし、IICR関係のソムニア以外と出会う機会もなかった。
 能力クラス――。それがこれほどソムニアの世界で根深い溝を刻んでいるなど、亮には想像の範疇になかったのである。
 シドも。シュラも。壬沙子も。レオンも。親しいソムニアは全てA級以上のソムニアであり、シドやシュラに至っては、属性トップのカラークラウンを担う実力者なのだ。
 しかも当然ながら、セブンスで亮を訪れた者達は全てカラークラウンである。
 まさに頂点しか知らない亮にとって、久我のこの言葉は重たいハンマーのように、亮の偏った常識を打ち砕いていた。
「わりぃ。別にマナーツのこと、バカにしてるわけじゃないんだ。ただ……、こういうことになると、やっぱ頭に血が上っちまってさ」
 亮が黙り込んだのをどう捕らえたのか、久我は我に返ったようにそう謝る。
「……いや。違う。オレ……、そんなこと、思ってない……」
 むしろ、軽い気持ちと願望でマナーツを語ってしまった自分が、ひどく無神経なように思えてくる。
 亮はゲボであり、マナーツではない。久我が嫌っているIICRに属していたS級の人種なのだ。
 亮は久我と違い、求められることはあっても、無視されることなどなかった。むしろ、無視を望むことなど許されなかった。
「今さ。ソムニア絡みの犯罪がこの学校で起こってる。そりゃIICRに通報すりゃ一発で解決だ。だけど、そんなことできねぇ。こんなチャンス何度生まれ変わったってそうそうぶち当たるもんじゃない。ここしかないんだ。ここで、一発逆転狙わねーと、俺、永遠に世界の下側から浮かび上がれねぇ。だから……俺は一人でもやる。そう決めたんだ」
 立ち上がりかけた久我の手を、亮はつかんでいた。
「……っ」
「っ、おまえ、しつこいぞっ。もう関係ねーんだからほっとけって……」
「一人でやるなんてダメだ! 囮作戦だって、お前一人じゃ無理だったじゃねーかっ。だから、オレが必要だったんだろっ!?」
「成坂――」
 久我が目を見開き亮の顔を見る。
 真剣な大きな黒い目が、久我の茶色い瞳を真正面から捕らえていた。
「オレも、やる」
「おまえ……、本気、かよ……」
「一人より二人の方が、死なない。多分」
「けど……」
 ――身体の方は大丈夫なのかよ。
 そう言いかけて久我は口をつぐんだ。
 亮の協力をなしにするのは惜しい。いや、それ以上に、亮の目の輝きの強さに、久我は圧倒されていた。
 強くなりたい――。そう言った亮の言葉が思い出される。こいつはたぶん、久我以上に上へのぼりたいと思っているのだ。
 こいつの「強くなる」と、久我の「上へのぼる」はおそらく同義なのだと本能で理解する。
 何がそれほど亮を駆り立てるのかはわからなかったが、こいつにも何かキツイ理由があるのだろうと、そう思った。
「……けど、また昨日みたいなことになったら、今度こそ俺やっちまうからな」
 言いかけた言葉の方向を変え、久我はにやりと微笑んで見せた。なにか、吹っ切れた気がした。
 本気で、こいつのことをもっと知りたいと思った。
 いつもの調子に戻った久我に、亮は渋い顔で睨みを利かせる。
「もうならねーよ。変態」
「変態じゃねぇ。暴走だ」
 そう言ってにらみ合う、二人の寮生。
 一人は味噌汁。一人は玉子とキャベツを掻き回したまま朝食を終えない彼らに、食堂のおばちゃんたちは迷惑げな溜息を漏らしたのだった。