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 寝ている間は嫌なものを見ないで済む。――それは真理だと、このとき亮は改めて思った。
 久我が部屋に戻ってきて居づらくなった亮は、シドに許可されている範囲である寮近くのコンビニに足を運んだのだが、その明るいみんなのローソンで気まずい光景を目撃してしまったのだ。
 最近はまっている牛乳と卵のシュークリームを買おうと商品棚へ手を伸ばし掛けた亮の右手四メートルに、缶チューハイを取った一本の腕が見えた。
 何気なくそちらを見た亮は驚いて目を丸くする。
 その手の主が、亮のクラスメメイトである佐薙 洋輔だったからだ。
 きまじめで内気な佐薙はいつもおどおどした笑顔を浮かべており、昼食時には一躍クラスの配達人へとジョブチェンジを果たす。――つまりは、クラスの中心グループに奉仕するパシリの役所に収まっている生徒なのだ。
 ひょろりと背の高い彼はいつもと変わらぬおどおどとした仕草で、手にした缶チューハイをカバンの中へと滑り込ませている。
 抹茶シュークリームとどっちにしようか悩む素振りをしている亮の向こう側で、佐薙は次々とチューハイやカクテルをカバンの中へ放り込んでいった。
 どうしようかと一瞬迷った亮だが、余計なことに首を突っ込んでも仕方がないと思いその場は何も見なかったことにして、手にしたシュークリーム二つと三ツ矢サイダーを持ってレジへ向かう。
 佐薙はそんな亮には気づかないようで、ぐるりと店の後ろ側を巡ると、当然払いも済ませずそのまま出て行った。
 夕方五時の忙しい時間帯である。店側の人間は佐薙の一連の犯行に気づく様子はない。釈然としないながらもまぁ事件はこれでおしまいかと思った亮に、再び見たくもない光景が飛び込んできたのは、亮がご機嫌な様子でシュークリームをかじりながら寮の裏手に差し掛かったときだった。
 ガヅンと鈍い音が聞こえ、次に人の倒れる音が響く。
「っ、ごめんなさい! すいませんっ!」
 歩いている裏道の向こう側から悲鳴混じりの声が聞こえ、亮は思わずちらりとその光景を除いてしまっていた。
 寮の裏手に作られたボイラー施設は周囲をコンクリート壁に囲まれ、日の差さないじっとりとした空間となっている。
 そこは当然人目もなく、時折ビールの空き缶や煙草の吸い殻などが散らかっていて困ると、秋人がぼやいていた曰く付きの場所だ。
「俺ら、ビールだっつったよな? なんでカクテルなんだよ、バカかおまえ」
「こんなあめーの飲めねーっつんだよ。ああ?」
「ごめ、なさいっ、ビールは、ちょうど店員が補充してる最中で、近づけなかったから――」
 そこには制服を着た五人の生徒がいた。
 立ち上がっている生徒三人に、座っている生徒二人。
 いや、一人は座っていると言うより地面にうずくまっていると言った方がいい。
 ひょろりとした影の薄い生徒が、コンクリートで固められた地面に震えながら転がっていた。佐薙だ。
 他の四人は亮の知らない生徒だったが、どうやら上級生も何人か混じっているらしい。金髪ややたら長い茶髪、坊主にラインの入った頭をした生徒達は時折購買部の前で見かけることがあった。
 中には真面目そうな黒髪にきちんとした着こなしの制服姿の生徒もいる。
 格好はまちまちだが、彼らは一様に佐薙を人とは思っていない目をしていた。
「言い訳してんじゃねーよっ」
 金髪がうずくまる佐薙の腹を思い切りよく蹴り上げる。
 佐薙は苦悶の声を上げ、蹴られた部分を抑えて転がった。
 同時にさきほど投げつけられたらしいオレンジリキュールの缶がごろごろと転がっていく。
「おらっ、どうしてくれんだよ、気分だいなしだろーがっ!」
 何度も何度も蹴り上げられ、佐薙は悲鳴を上げながらも必死に謝り続ける。
「めなさぃ、ごめ、っ、ぐぇっ、ごめなさ、」
「――謝ることねーよ。ビール欲しけりゃ自分で買いに行けっての」
 唐突に現われたその声の主を、その場にいた誰もが驚きの視線で眺めていた。
 コンクリートの地面へはいつくばる佐薙も、咳き込みながら見上げる。彼のすぐ前にまるで庇うように立つその人物は同じ学校の制服を着た男子生徒らしかったが、その顔はわからない。
 なぜならその生徒の顔の部分は、コンビニの白い袋にすっぽりと覆われていたからだ。
 目と口元の部分だけちぎり取られ、あごの下できゅっと結ばれたその姿は、この緊迫した場面にあって妙に脱力感を誘うものだ。
「――っ、なんだおまえ。妙なかっこしやがって」
 それでも一番最初に正気に戻り行動に移ったのは、何度も佐薙を蹴り上げていた金髪だ。
 突如現われたコンビニ頭巾の少年にぐっと近づくと、顔を覆うコンビニ袋を取ろうと手を伸ばしていた。
 しかしその瞬間、金髪の身体がふわりと宙を舞い奥の壁に叩き付けられる。
 側で見ていた坊主の生徒は目の前の出来事にもかかわらず、何が起こったのかまるで理解できなかった。
 見た限り目の前の生徒は随分小柄である。とてもこのガタイであれだけ体格差のある人間を放り投げることなど出来るとは思えない。
 金髪は背中から勢いよく壁に激突し、息を詰まらせ地面に崩れ落ちていた。
「て、てめぇっ、何すんだこらっ!」
 その様子を見た坊主と茶髪は一気につかみかかる。
 だがその生徒はまるでくるくるとうずまく小さなつむじ風のごとくとらえどころがなく、二人の手は虚しく空を切るばかりだ。
 ボイラー施設脇の狭いスペースでこんな風に人が動けるなど、彼らの常識では考えられない。
 躍起になってタックルをかけた二人は、気がついた瞬間、一人は足払いでなぎ倒されもう一人は腕を巻き込むようにひねりあげられて、地面に組伏される形となっていた。
「あと、散らかしたら掃除して帰れよ」
 そう一言付け足したコンビニ少年に、一人座って高みの見物を決め込んでいた生徒が拍手を送り始める。
 模範的な黒髪と真面目そうな眼鏡が印象的な彼は、楽しそうに口元を緩めていたが目は決して笑っていない。
「何年何組の生徒かな。驚いたよ。見事だね。よければその無粋な袋を取って顔を見せて欲しいんだけど――、きっとだめなんだろうね」
 コンビニ少年は腕を取られ悲鳴を上げている坊主を解放すると、すくりと立ち上がり「当たり前だろ、バカ」と言った。
 坊主は「クソ」だの「シネ」だの意味のない呪詛の言葉を呟きつつ、座っている生徒の後ろ側へと転がり込む。
「目障りだから、今後そこにいる一年生を使うな。買い出しは仲良く四人で行ってこい」
「なんでキミはそんなゴミみたいなヤツ庇うのかな」
「お前らの態度が気に入らないからかな。条件飲んだらここのこと、ネットに書き込むのだけは勘弁してやる」
 大仰に胸を反らせて見せたコンビニ少年に、黒髪眼鏡の生徒は楽しそうに笑い声を立てた。
「随分と弱い脅迫だね。――まぁいいよ。面白いキミに免じて飲んであげよう。買い出し要員はこの中の誰かにさせてもいいんだしね」
「そりゃどーも」
 少年は足下でぼんやりと上を見上げている佐薙を立たせると、この場を立ち去るためにゆっくりと後ずさっていく。
「だけどキミが誰なのか探すのは僕の自由だよね」
「――素顔見たらがっかりするから、それはどうかと思うぞ」
 少年はそのセリフを最後に、佐薙を連れて彼らの視界から消え失せていた。

 学校の裏門まで肩を貸されて歩いてきた佐薙は、自分より随分と小柄なその救世主にお礼を言い、よろめく足取りで鞄を持つ。
「あの、……ありがとう。まさか、キミに助けてもらえるなんて思わなくて――、その、いつも成坂くん、全然喋んないから」
「っ――!」
 コンビニ袋を被ったままの少年は、ショックを受けたように一歩後ずさりをすると、ぶんぶんと首を横に振っていた。
「だ、誰のことだよ。オレ、成坂じゃないし!」
「ははは――、じゃー、そういうことにしとくよ。でも、キミがそんなに強かったなんて意外だったな。ね、どうして成坂くんはクラスで全然喋らないの? こんなに強くて、その、か、可愛くて、絶対クラスの人気者になれるのに――」
「だからっ、成坂なんて知らないって言ってるだろ! 可愛いとか男の褒め言葉じゃないし、死なすぞバカ! 気をつけて帰れ、もう絡まれるなめんどくさいから!!」
 コンビニ袋を被った少年はくるりと踵を返すと、ものすごいスピードで寮の方へと走り去っていた。
 最後の方は完全に自分が成坂亮であると肯定するようなセリフになってしまっていたが、本人はそれに気がついていないらしい。
 第一あの変声前の透き通る声は、たとえ顔を隠していてもしっかりと本人を示してしまっている。
 佐薙はその後ろ姿が消えるまで見送ると、彼にしては珍しく明るい表情で微笑み、痛む身体を押してゆっくりと歩き去っていた。