■ 4-33 ■




(来てしまった……)
 亮はクラブ棟の一階奥にある「ボランティア部」部室の前に立ち、そのプレートを見上げる。
(結局秋人さんからもシドからも情報なんもゲットできなかったんだけどなぁ……)
 今、シドたちの仕事の状況がどうなっているのか、あれから亮は探りきれないまま、週明けの放課後一番に、ここへ足を運んでいる。もしシドたちとターゲットが被っているとしたらこれはとても危険な行為だ。下手をしたら亮は学校をやめさせられるかもしれない。
 しかしシドたちのことは久我に相談することも出来ないし――かといってグズグズしている時間もない。
 結局胸に一抹の不安を抱えたまま、亮はこの場所に立つことになったのである。
 ノックを打つため拳をぎゅっと構えたまま、何度か深呼吸。
(くそっ、気合いだっ! 気合い入れろ、オレっ!)
 力を入れすぎすっかり白くなった小さな拳が、ついに二度――木製の白いそのドアを叩いていた。
 ガシャンガシャンッ――と、思いのほか大きな音が鳴る。
 これじゃまるで殴り込みだ……と亮が顔色をなくしたときにはもう遅い。室内から大股で気配が近づいてくる。
 そして――扉を乱暴に開けそこに立っていたのは二年の醍醐 覚(だいご さとり)だった。
 威嚇するドーベルマンのような眼光で亮を見下ろしている。
「……なんの用だ」
 すぐにでも失せろと言わんばかりの硬い声音は、すでに醍醐が臨戦態勢に入っていることを亮に感じさせる。
 しかしこういう敵意には亮も強く当たる術を知っている。かえってそれが迷いを断ち切らせることとなった。
「そっちがスカウトしてきたんだろ。だから来てやったんだよ」
 ぐっと睨み上げると一歩踏み出し、醍醐を押しのけるように部屋の中へ入っていく。
 室内には、数名の男子生徒がソファーやパイプ椅子に陣取り、スナック菓子を食べながら漫画雑誌を読み耽っていた。明らかに素行の良くない部類の彼らの中には、亮も見知った顔が紛れている。
 いきなりの訪問者に、彼らも亮にじろりと不穏な視線を向けていた。
 しかしそんな殺伐とした光景に、亮はふとデジャヴに似た奇妙な感覚に襲われる。考えてみればソムニアになる前は、俊紀と一緒によくこういう連中に絡まれたものだったのだ――。
思わず口元へ上る、不敵な微笑。
「入部するとでもいうのか」
 そんな亮に低い声音で背後の醍醐が訪ねる。
「それ以外の何があるんだよ。オレもボランティアってのに目覚めたんだ」
「ほぉ……。新入部員か。そりゃめでたいな」
「一年が先輩にその口の利き方はねぇんじゃねーのか?」
「色々と教えてやる必要がありそうだな」
 まったく怯む気配を見せない亮の様子に、イカツイ連中はバラバラと立ち上がり、あっという間に亮を取り囲んでいた。
 その内の一人がぐいっと亮の胸ぐらをつかみあげる。鋭い眼光の上に眉はなく、坊主にそり込みでラインを入れたその姿は、どう見ても三十路間近の愚連隊だ。これが「名門高校のボランティア部員」だとは誰がどう見ても思わない。その辺のサラリーマンなら泣いて財布を差し出す迫力である。
 だが亮は慣れたものだ。真正面から怯むことなくそれに対峙する。
「お手柔らかにお願いしますよ、センパイ」
「ちっ、なに余裕ぶっこいてんだガキ。……あぁん? てめぇどっかで会ったことねぇか俺と……」
 間近に顔を寄せた先輩Aが訝しげに無い眉を寄せる。ギクリ、と亮は背筋を強張らせた。
 この男子生徒を亮は覚えていた。何しろ例のコンビニマスク事件の時、一番手酷く痛めつけた相手だったからである。
 あの時顔は見られていないはずだが、この至近距離だ。
(う……。顔は知られてない、はず、なんだけど……、バレたらなんか面倒な予感……)
「っ、な……、ないですけど」
 声で東雲にばれた経緯があることから、わざと声音を下げ、さりげなく顔を背ける。
 しかし男子生徒はさらにぐっと顔を近づけると、凶光にあふれた目で亮をにらみつけていた。
「…………なんだぁ? その態度は。ちゃんとこっち向けやこらぁっ!」
「っ!!」
 思わず亮は相手の手をつかみ、強引に突き放しにかかる。明らかに怪しい亮のその抵抗に、部室内が騒然とし始めたその時――。
 カシャンッ――
 大きな音を立て、坊主先輩の懐から携帯電話が滑り落ちていた。勢いでするすると亮の足下に転がってくる。意外にも最新型ストレートタイプのシックなオシャレ携帯だ。
 亮はそれに目を落とし、ビクリと凍り付いていた。
「のわあっ! てめ、こらっ、何してくれんだっ!!」
 しかし坊主先輩はそんな亮の様子には全く気付かず、生意気な新入部員を突き飛ばすと、慌てて携帯に飛びつき、愛おしそうに画面をなで回す。
「あぁぁぁ、痛かったでちゅね、ティンクちゃん。ごめんねぇぇぇ。ふぅぅぅ、ふぅぅぅ、痛いの痛いの飛んでけ〜っ」
 そこに写っていたのは、萌葱色のヒラヒラドレスに身を包み仁王立ちした金髪の妖精――。亮の消し去ってしまいたい青春の一ページだ。
「っっっ・・・・・・。」
「おいこら一年っ! 俺のティンクちゃんになんかあったらどーしてくれんだ、ハゲ!」
「っ・・・・・・?」
「ハゲはてめーだろ、ハゲ! 『俺の』ってなんだよっ。その待ち受け写メったのは俺なんだぞ!? イコール、俺のティンクちゃんであっててめーのではないっっ!」
「・・・・・・。」
「うっせ金髪。これはみんなのティンクちゃんだってこないだ話つけたろーがっっ! おまえはたまたまベストポジションにいられただけのカメラマンに過ぎねーんだよっ」
「なんだよその言い方わっ。じゃあ返せ、すぐ返せ、俺の奇蹟のティンクちゃん画像三枚ともぜぇぇぇんぶ返せよおおおっ!」
「・・・・・・。」
 亮は呆然と固まったまま、仲間割れを始めた先輩連中を眺めるしかない。どうやら例の球技大会の悪夢を写し撮った写メは、ハゲ先輩を始め、この部のヤンキー先輩達全員に行き渡っているようだ。
「てめぇこら一年っ! てめぇも勝手に俺のティンクちゃん覗き見したろうが、このエロガキ! 罰金百万円だかんなっっ」
 呆然とする亮に再びハゲ先輩が食ってかかり、ぐっと胸ぐらをつかみ上げる。
 と――
「…………あれっ? …………おまえ……。やっぱ見たことあんな」
 ギクリと再び亮が凍り付く。
「…………そっか。似てんだよ。そのぉ……俺らのティンクちゃんに……」
 背後から別の先輩の声が飛び、ギクリギクリと亮の凍結深度が増していく。
 しかしそれを否定する坊主先輩。
「いやいやそんなわけあるか、こんなクソガキが俺らのティンクちゃんに似てるわけねぇって。………………似てるな」
 坊主先輩も肯定。
 完全に違う方向性で、亮の正体がばれようとしていた。無表情で状況を眺める醍醐以外、部室内の全員が亮へと詰め寄ってくる。
「ホントだ。ティ、ティンクちゃんだっ」
「いや、だが俺らのティンクちゃんが男のわけねぇし……」
「当たり前だ馬鹿野郎! こんな妖精みたいな可愛い男がいるわけねーだろっ!! 常識でモノを考えろっ!」
「でもこの顔はやっぱティンクちゃんだって。俺、授業中ずっとティンクちゃんの画像眺めてっからわかるもん」
「ばかやろう、俺なんか、休み時間も飯時もずっとだぜ!? ま、まぁ確かに……似てる。ってか似すぎてる……」
「おい、おまえっ」
 坊主先輩がぐぐっと顔を寄せてくる。
「っっっ!!」
 亮がびくんと硬直する。万事休す――ばれたら入部どころか、今度こそ亮は高校中退だ。
「おまえ、……ねーちゃんいるだろ」
「・・・・・・。へ?」
「だからねーちゃんだよっ。姉貴。お姉様っ! あの色気なら妹はない。ぜったいにお姉さんだっ。オレサマの名推理によるとそれ以外考えられねぇっ!」
「おおおおおおおおおっ! 出た、ハゲの名推理!」
「なるほど。ねーちゃんか。さすがは平成の一休さんだなっ!! 目の付け所が違うぜっ」
「どこ高なんだよ、ねーちゃん! 俺ら必死で探索したけどぜんっぜん見つかんねーんだ。教えろよっ、いや教えてください弟くんっ!」
「弟くんっ、頼むっ、紹介してくれとは言わねぇっ。一目っ、一目でいいから会わせてくれっ」
「…………いや、あの……」
「もちろんお姉さんが久我と付き合ってるのもわかってる!」
「……いや、ちが……」
「悔しいがそれはしょうがねぇ。相手は嫌みな糞野郎だが、まぁ……イケメンだ。だが、もしかしたら神の悪戯でお姉さんが俺のこのATSUSHIヘッドに一目惚れしないとは限らねーだろ!?」
「俺らの哀しい男の望みをつながせてくれっ、弟くんっ」
『弟くんっっ!!』
(ぅ…………うわぁぁぁぁぁぁぁっ……)
「はいはいはい、成坂くん困ってるじゃない。もうその辺にしといてあげなよ、みんな」
 声なき声を胸の内で叫ぶしかない亮の前に、手を叩きながらまるで保護者よろしく現れたのは東雲浬生その人だった。
 ニコニコと柔らかな笑みを浮かべながら亮達の間に割って入ると、無言の圧力で部員達を追い散らす。
「でも東雲さんっ!」
「加藤、紀藤、工藤、後藤。キミ達の大好きなティンカーベルちゃんはね……」
 ちらりと東雲の視線が亮へ寄せられる。
(まずい……)
 その目つきで亮は直感した。東雲は亮が件のティンカーベルだということをわかっている。わかっていてバラすつもりなのだ。
 亮が何か言おうと口を開き掛けたその時――
「彼のお姉さんは、今海外に留学中なんだよ。だから会わせたくても会わせられないんだ。彼もお姉さんと会えなくて寂しいんだし、察してあげなよ」
「……ぇ?」
 思わぬ東雲の発言に亮が目を丸くする。
「な……なるほど! 留学か! それなら俺らのネットワークから漏れるのもわかるな」「ほあああああっ留学とわ……、なんてピッタリなんだ! ティンクちゃんはなんて留学という響きがピッタリなレイディなんだっ!」「きっとフランスだな。ティンクちゃんはおフランスへ留学中なんだなっ」「おフランスかぁ……遠いぜぇ……」
 いつの間にか会ったこともない『亮の姉』は『フランスへ留学』していることへ決まっていた。
「おい、一年。おまえも寂しい思いをしてたんだな。無理言ってすまなかった」
「俺ら先輩だからよ。わかんねぇことあったらなんでも聞いてくれよ、弟くん」
「名前、なんてーんだよ」
「……成坂……亮……」
「ばか、おまえのじゃねぇ、ねーちゃんのだよっ」
「ぇ…………。と……とお……」
「とお?」
「とお……とお子……」

 亮の名付けセンスは最悪だった。

「とう子ちゃんかぁ。どんな字書くんだよ」「ばか、あの透き通った感じからして、透明の透に決まってんじゃん」「なるほど、透子ちゃんかぁ。麗しい名前だぁ…………」
 だが、どうやら先輩達の間では丸く収まっているらしい。
 フランス留学中の美少女・成坂透子ちゃんに夢中の彼らは、興味の失せた亮をあっという間に解放し、部室の奥で写メールの品評会を始めていた。
 呆然と立ち尽くす亮の背へ東雲が声を掛ける。
「見た目はイカツイけど、なかなかお馬鹿で可愛いワンコたちだろ? 彼らは僕の番犬みたいなものなんだ」
「!?」
「そして今日、嬉しいことにもう一匹、僕の愛すべきワンコが増えたってわけだ」
「だっ、誰がワンコだ……」
「じゃあ妖精さんかな?」
「っ!! そ……それは……」
「ふふ。入部してくれるんだろ? 歓迎するよ」
「ぅ。…………だ、だからって、あ、あんたの犬になるわけじゃないからなっ」
 なんとも釈然としない亮へ向かい、東雲は右手を差し出した。戸惑いながらも亮はその手を取る。
 東雲はぐっと力を込め亮の身体を引き寄せる。
 不意を突かれよろけた亮を抱き留め、耳元で東雲が囁いた。
「金曜の夜は逃げられちゃったから、もう来てくれないかと思ってたんだ。奉仕の心を忘れないで居てくれて嬉しいよ」
「! ……、き、……キンヨウのヨルって……?」
 ぎこちない演技でそう聞き返す。
 もちろんそれがスクールセラでの出来事を指していることを亮も理解していた。だがそれを認めてしまうことは、セラでの記憶を保持していることを意味し、つまりは亮がソムニアだという証明につながってしまう。
 あくまで亮の正体は知られず、この謎の部活動の実体を突き止めなければならない。
「ふふ……、気にしないで。僕の夢の中での話だから」
 東雲は意味深な微笑を浮かべたまま、そっと身体を離す。
(良かった……、そこは気付かれてはないみたいだ)
 思わず安堵のため息が口をついて出そうになり、亮はあわてて背筋をただす。
「さて、成坂くん。入部したからには早速奉仕の心でお仕事をしてもらおうかな」
「っ!?」
 ホッとしたのもつかの間、亮の表情が強張る。
 いよいよ本題だ。
 久我の言っていた援交斡旋パーティーのことなのか。それともその為の教育と称した金原のいかがわしいレッスンを受けろと言うことなのか。
 もし、またスクールセラで東雲にアンズーツを使われたら今度は逆らえる自信がない。
 そのくらい、あの力は強烈だった。ゲボである自分は、金原が言っていたように完全に精神まで絡め取られることはないにしろ、身体の自由が利かなくなる可能性は高い。
(それでも……、決めたんだ。オレは久我と、自分たちの力でこの事件を解決してやるって……。シドの役に立ってみせるって)
 恐れていてはどこにも進めない。
(だから、もう引き返せない)
 亮は顔を上げると東雲の視線を正面で受け止めていた。
「なにを……すればいいんですか?」
 微かに震えるその声に、東雲は笑顔で答える。
「それじゃ、――まずは便所掃除、お願いできるかな」
「・・・・・・へ?」
「実はグラウンド脇のトイレ、使い方が悪くて酷い有様でね。うちに依頼が来てたんだけど人手不足で参ってたんだ」
「人手不足って、先輩たちは……」
 未だ部室の奥で成坂透子ちゃんの写メ品評会に興じる上級生達に視線をやってみるが、確かに彼らはその手のボランティアには縁がなさそうだ。
「一人じゃ大変だろうから、もう一人アシスタントを派遣するよ。がんばってください、成坂くん」
 ポンと肩を叩くと、東雲は醍醐を引き連れ部室を出て行く。
 あまりの肩すかしに呆然とそれを見送った亮は、「弟くん、がんばれ!」という先輩方の声援を背に、一人グラウンドへ向かうこととなったのだった。




 絶対にヤバイ裏がある。
 そう思い、武者震いを抑えながらグラウンド脇トイレへたどり着いた亮は、今――、体操服に着替え、トイレブラシとスッポンの両刀を手に奮戦中である。
 ここに来るまではそれでも、危険な犯罪の臭いのするトイレなのかもしれない……、と思ったりしたのだが、実際は運動部の連中が乱暴に使うため可哀想なほど故障が多発しているただのボロトイレに過ぎないようである。しかも部活中の生徒がしょっちゅう顔を覗かせるので、誰かと密室に籠もりっきりになる……ようなことも有り得ない。その上、東雲が派遣したアシスタントは佐薙だ。
 何から何まで肩透かしで、亮は(これでいいのだろうか?)と頭の上にいくつもクエスチョンマークを浮かべながら、必死に汚れた便器と格闘中なのだ。
「ねぇ、成坂くん……、ホントにボランティア部、入ったの?」
 バケツの中で雑巾を洗いながら、背中越しに佐薙が声を掛けてくる。
「だからそうだって言ってるだろ。何回も言わせんなよ」
「ぅ、うん、でも……、なんで? ……だって……成坂くんは先生のレッスン、途中で抜けちゃったって聞いたのに、それでも部に入ってくるなんて……」
「なに? 何か言ったか?」
 佐薙の独り言のような呟きに亮が聞き返す。
「ううん、なんでもない。えと、だから、成坂くんはあんまりボランティアとか興味なさそうだと思ってたから」
「別にそんなことない。なんとなく人に尽くすのも悪くないかなぁと思ったんだ。っ、うえ、ばっちーな、ここ」
「でもっ、でもっ、成坂くんにはこういうの似合わないっていうか、その……」
「あーもー、似合わなくて悪かったなっ! オレってそんな悪そうに見えるか!?」
「そっ、そうじゃなくて! えっと、えっと、とにかく、その、やめた方がいいよ! 成坂くんはうちの部に入っちゃダメだっ!」
 意を決したように佐薙が声を荒げていた。
 その声音はいつもおどおどとした佐薙には珍しく、亮は顔を上げる。
「なんでだよ」
 佐薙は水道の蛇口を開くと下を向き、溜まっていくバケツの水を眺めていた。
「だって……、その……危険なこととか、あるから……」
「危険って、これがか? …………っと、うわゎゎっ、……ま、まぁ、ある意味危険だけど」
 スッポンを引き抜き吹き出す水しぶきに、亮は間一髪飛び退る。
「ボランティアでどうして危険になるんだ? 地雷撤去の奉仕活動とかやってるわけじゃないんだろ?」
「そりゃ、そういうのは、やってないけど……、でも……」
「でも?」
 佐薙から何かを聞き出せるかも知れない。そういう期待を込めて亮は次を促す。
「成坂くんは、やっぱりここには入らない方がいいよ……」
 しかし東雲の呪縛は強固であり、佐薙がその先を語ることはないようだ。
「……なんだよ。もしかして佐薙、オレが同じ部に入るの嫌なのか?」
「え!?」
 思いも掛けない亮の言葉に、佐薙の顔が色を無くす。
「だからそうやってオレのこと追い出そうとしてるんだろ」
「ちがっ、違うよっ!」
「てか、ならいっそお前がやめるってのはどうだ?」
 佐薙の方こそこの部をやめて欲しい――それは亮の本音でもある。
 だがその思いは届くはずもなく――。
「なっ、成坂くんと一緒で嫌なわけないじゃないっ! けど、でも、僕は……」
 ふと、佐薙の顔色が悪いことに亮が気付く。
(無理、させてるのかもしれないな……)
 佐薙は東雲のアンズーツに支配されているのだ。この部をやめる決断を迫ることも、尋問めいた会話を続けることも危険かも知れない。
「そんじゃ、とにかく、よろしく頼むぜ、佐薙先輩」
 亮は早々に話を切り上げ流しへ近づくと、佐薙の右手に握られた雑巾を手に取ってぎゅっと絞り上げる。
「あれ、この雑巾、スゲー綺麗だな。新品みたいだ。おまえが洗ったのか?」
 驚いたように眼を見開き、亮はすぐそばの佐薙の顔を見上げた。
「ぅ……うん。……僕、掃除は、得意な方……だから……」
「へぇ……。やるじゃん」
 うなずいたり雑巾を眺めたりとひとしきり感心しながら、亮は壁の拭き掃除へと移る。
 その背を眺め、佐薙はゆっくりと右手の甲をこすっていた。
 さっき雑巾を取る時、亮の手が触れた場所――。
(成坂くんが、触ってくれた……。僕の手に、成坂くんが……!)
 ドキドキと佐薙の胸が高鳴っていた。
 薄汚れたトイレ掃除にも関わらず、辺りにはフルーツのようななんだか甘い良い香りがする。さっきまですぐ間近にあった亮の髪の香りだと気付くと、佐薙は思わず大きく息を吸い込んでいた。
(成坂くんが自分から、こんな近くに来てくれるんだ……。同じ部活だから、こんな近くに……)
 コクリ――と、佐薙の喉が鳴る。
「佐薙、この辺の落書き、中性洗剤じゃ落ちそうにないぞー?」
(そっか。同じ部活だから、普通に話ができる。これからは放課後も成坂くんとずっと一緒にいられる)
「佐薙? 聞いてんのかよ。クレンザーよこせって」
「っ、う、うん! どこ? 僕も一緒にこすってみる」
(そう、だよね……。危ないことがあったときは、僕がなんとかすれば……いいんだ。そうだよ! 今度は僕が成坂くんを守ればいいんだ!)
 青ざめていた佐薙の頬に薔薇色の血の気が差し、軽い足取りで亮の元へと飛んでいく。
 なんだか急に周りがパッと明るくなった気がした。
 たわしと雑巾を用意しながら、佐薙は右手の甲に一度、頬をすり寄せていた。