■ 4-34 ■




 雨が、降っていた。
 夕刻からぱらつき始めた小雨は次第に強さを増し、日付が変わろうとする今では大粒の水滴となって窓を激しく打っている。
 普段、患者の叫び声の絶えない病院内はいつになく静かで、ザァザァというその雨音だけが薄明かりの中うるさいほどに響いていた。
 東雲浬生は、窓に反射する暗い眼をした少年から視線を逸らすと、傍らのベッドで寝息を立てる中年女性の顔を眺める。
 長い黒髪には白いものが混じり、いつも険しかった表情は子供のように安らかだ。
 その怜悧な面差しは、窓に映っていた少年とよく似ている。
「そろそろ終わろうかと思うんですよ、母さん」
 そう語る東雲の声は、その暗い瞳に反し限りなく穏やかだ。
「兄さんが死んで七年。……あの日からも三年、経ってしまった。そろそろ潮時だと思うんですよね」
 東雲の白い指先が、女性の髪を撫でる。
「あなたが信頼していた教師達は全て、僕が力を使うまでもなく、みんな堕ちましたよ。ほら、あなたがよく話してくれた熱血体育教師の金原先生。あの人なんか、僕が話を持ちかける前からすでに犯罪すれすれのことしてましたし。ホント、あなたは人を見る目がないというか」
 くすりと楽しげに微笑む東雲の様子は、自然で屈託がない。
「……あなたが尊敬し追いかけていた前総理事は、どうだったんでしょうね? 彼女はもう死んでいるのだから僕にはそれを図りようもないですが…………、彼女もクズみたいな人間だったんでしょうね、きっと」
 その屈託のなさは、まるで夕飯時に子供が親に冗談を言う体だ。
 雨はまだ降り続いている。
「そうそう。政親のおじさん――。彼についてだけはあなたの眼も間違ってなかったっけ。でも遅すぎたんですよね。あなたは人の話を聞かないから……。あと一ヶ月早く彼の本当の顔に気付いていたなら、あなたも……僕も……もうちょっと違った人生だったかもしれない。だから……」
 女性へ毛布を掛け直すと、東雲は立上がる。
「……感謝してますよ。母さん」
 そう声を掛けたとき、控えめなノックが響いた。
 細い光りの向こうで顔を覗かせたのは醍醐覚だ。
「なんだ、覚。まだいたのか。先に帰ってろって言ったのに」
「浬生さん、理事長がお見えです」
 醍醐の脇をすり抜けるように現れたのは、五十代も半ばの小男。青陵学園グループ総理事長、有清政親である。
 東雲は面倒くさそうに息を吐くと招き入れる。
「悪いね、浬生くん。こんな時刻に総理事の病室にまで押しかけて」
「気にしないでください、お忙しいのは十分承知しています。それに現総理事長はあなただ。うちの母にその呼び名はもうふさわしくない」
「はは……、彼女を前にするとついついね」
 恥ずかしそうにごま塩頭を掻いてみせる有清に、東雲は柔らかな物腰で椅子を勧める。
「それで、ご用件は?」
「あ、ああ。学校でなかなか君と会えないからね。そちらのサブプロジェクトの状況と君の健康状態を伺いに来たというわけなんだ」
「なるほど。お互い忙しい身ですし、何より学校で堂々とプロジェクトについて話すわけにもいきませんしね」
「いや君、それは怯えすぎだよ。その点まだまだ浬生くんも子供だな。締めるべき所は締め、それ以外は大胆に。そうでなくては計画は成就しないものだよ? 我が校のセキュリティは万全なんだから、もう少しオープンに計画遂行してもかまわんのだ」
「……そう……ですね。ご忠告痛み入ります」
 やはりこの男は、すでに学内に巨大な楔が打ち込まれていることに気がついていないらしい――と、東雲はため息が出そうになる。もちろん東雲もローチに教えられるまで、あの長身の英会話講師がかの悪名高い『シド・クライヴ』だとは思いもよらなかったのだが――それにしても知ってしまっている身としては、彼の間抜けぶりにどう対応して良いものかと困惑してしまう。
「それで今月の入金情報の件なんだが……」
「醍醐、看護師の巡回が来たら教えてくれ」
 有清の言葉を遮るように、東雲はそう声を掛けると、素知らぬ顔で先を促した。
「それで? なんです、有清理事長」
「あ、ああ。二人きりの時にその堅苦しい呼び名はよしてくれよ、浬生くん」
「では政親さんとお呼びしましょうか、昔のように」
「昔、か。ほんの三年前のことなのに、遠い過去の出来事のように話すんだね。君は若いからなのかな」
「ふふ……。そうですね、あなたの三年と僕の三年では人生に対しての割合が違いすぎる。だから……この三年という長い時間、僕たち母子の面倒を見てくださったあなたには、感謝してもしきれないと思ってますよ」
 東雲は屈託のない笑顔を浮かべてみせる。ローチがこのシーンを目撃したとしたら、その大根ぶりに笑い出すに違いないと、なんとなく東雲は思った。
「で、今月の入金の話でしたっけ」
「あ、ああ、そうだ。資金のカバンがいつもより一ケース多かったのだが、あれはどういった……」
「そろそろそちらの『パプティズムプロジェクト』も大詰めだと聞いているものですから御入り用なのかと。余計な真似でしたか?」
「いやっ、いやいや。助かるよ。実弾はいくらあっても困ることはないからね。や、ただ私はだね、てっきり例のミスコンの少女が手に入った結果なのかと思ってだね……」
「ああ、あのティンカーベルですか」
 東雲の口元が小さく引き上げられる。
「彼女は残念ながら当校の生徒ではありませんでしたから。さすがに外部のものをドールにするのは危険が大きすぎますよ。……理事長、また味見をご所望でしたか?」
「いや……、まぁ、そうは言っていないが。もし入手していたのだとしたら、大きな資金源になるなと思っただけの話だよ」
「ではもし彼女が入手出来ましたら、理事長にも商品価値を吟味していただきましょう。大型商品はトップにチェックしていただかなくては」
「む……、そ、そうかね。そうだな。私も忙しくはあるが、浬生くんが率先して行っているプロジェクトに協力することはやぶさかではないからね。なんとか調整を付けるよ」
 咳払いを付け足しそれらしい口調の有清を、東雲は汚い虫でも眺めるように見下ろす。だが消灯後の病室ではその冷め切った表情も、薄暗がりに隠されたままだ。
「それから浬生くん、君、体調はどうだね? 頭痛や吐き気は出ていないか?」
「……ええ。今のところ問題はありません」
「君が洗礼薬を摂取して半年が経とうとしている。薬はちゃんと毎週飲んでいるかね?」
「大丈夫です。研究チームの処方通り定期的に飲んでいますよ」
「そうか。それならいいのだが。洗礼薬は定期的に飲まねばすぐに効力を失い、再び力を取り戻そうとしてもなかなかうまくいかないケースが多いのだ。逆に……ソムニアの素質がある適合者の中にも、洗礼薬のあまりの強さに不具合を起こすケースもある。もちろん心身の管理が良くないような場合に限ったことなのだがね。残念なことだが、三名ほど死者も出ているんだ。だからこそ薬は定期的に服用し、何か変化があったらすぐにでも我々に報告してくれ」
「わかりました」
「君は我が伝統ある青陵学園の次期理事長なのだから、くれぐれも無理だけはしないでくれよ」
 有清は立上がると、慈愛に満ちた表情で自分より背の伸びた少年の肩をぽんと叩いていた。
「ありがとうございます、副理事長。……失礼、有清総理事長」
「む、ぁ、ああ。では、美帆さんが起きたらこれで何か美味いものでも買ってあげてくれ」
 さらりと言い間違えた東雲に一瞬表情を引き攣らせた有清だったが、悪びれない東雲の様子に気を取り直し薄い封筒を差し出すと部屋を出て行く。
 入れ替わりに現れた醍醐の顔を見て、東雲は初めて参ったというように首を振っていた。
「あいつ、バカの上に気持ち悪いよ。こんな時間にわざわざ病院までドールの確認に来たらしい。さすがに成坂が気の毒になった。――ふふ。でも笑ってしまうよね、あんなのに僕は殺されかけたんだ。しかも凶器は僕の母親と来てる。目が覚めたとき、バカの割りに気が利いてたなと驚いたよ」
「…………」
「そんな心配そうな顔しないでくれ。僕は別に悲観なんかしていない。むしろあの半年の昏睡状態があったお陰で、僕はアンズーツという稀少ソムニアとして覚醒できたんだ。彼には感謝したいくらいだよ。……もちろん一年留年はしてしまったが、それに付き合ってくれた気の利きすぎる友人もいたしね」
「……浬生さん」
「ラーメンでも食べて帰るか、覚」
「……はい」
 何事もなく帰り支度を始めた東雲に対し、醍醐は静かにうなずいた。






「むうぅぅぅ」
 亮は三つ目のプリンを掻き込むと、難しい顔をしたままバタンと畳へ倒れ込む。柔らかな亮の前髪がふわりとゆれた。
 日曜の午後――、ジワジワと蝉が鳴き始める季節に扇風機の風と風鈴の音が涼しさを運んでくる。
「おやおや。また何か悩み事かな、青少年」
 薄いガラス戸で仕切られた店内で本の仕分けに勤しんでいた雨森が、奥座敷に顔を覗かせる。
 夏物の涼しげな和服に身を包む古本屋店主に向け、亮は転がったまま口を尖らせていた。
「悩んでるわけじゃないよ。ちょっと色々あって考え事で頭がグルグルしてるだけ」
 それを悩みと言うんじゃないかと思ったが、雨森は苦笑を浮かべただけで「なるほど」と返事を返した。
「新作のプリン、どうだった? 黒ごまや豆乳みたいな和風の食材を使ってみたんだけど」
「うん、どれも凄いおいしかったよ! 古本屋さん、本が売れないならお菓子を売ればいいのに」
 一時間前に亮が訪れて以来まだ一人も客が来ない店に視線をやり、そう提案してみる。
「あはは、亮くんはマリーアントワネットみたいなこと言うね」
「……?」
 一瞬首を傾げた亮はガバリと起き上がると、空になったプリンカップを重ねながら「もっと新製品ない? 全部オレがチェックしてあげる」と、スプーンを構えてみせる。
「この食べっぷりを見ると、今日は恋の悩みじゃなさそうだ」
「オレがいつ恋の悩みなんか相談したんだよ。古本屋さん誰かと間違えてんじゃないのか!?」
「う〜ん、そうだったっけ? まあ、キミが遊びに来てくれるのは大歓迎だから、どんな用事でも僕は嬉しいんだけどね。……それで、今日はどうしたの? おじさんが力になれることかな?」
 少々大きな声で反論する亮に笑い声を立てると、台所へカップを片付けつつ、雨森は楽しげに声を掛けた。どうやら古本商としての仕事も一段落ついたらしい。
「えーっと……、古本屋さんって、うちの学校に来てどのくらいになるの?」
「そうだな、去年の秋からだから――まだ一年は経ってないね」
「そっかぁ。それじゃ、そんなにうちの学校に特別詳しいわけでもないよなぁ……」
 亮は再び難し顔になり、手にしたスプーンを咥える。
「なに? 何か調べ物?」
「うん、まぁ。……実はオレ、先週ボランティア部に入部したんだけどさ」
「へぇ、良い事じゃない。ボランティアって社会にとって大事なことだし、部活動に参加すれば友達も増えるだろうし、一石二鳥じゃないかな」
「う〜ん、それがさ、色々オレとしても事情があってさ。純粋な気持ちで参加してるわけじゃなくて、その……、そう! 調べ物があるから入部したってのがホントの所なんだ」
 どう説明したものかと亮なりに言葉を選びながら状況を説明する。
「よくわからないけど、そのボランティア部に何か問題があるってこと? それともその中の部員にかな」
「それは……、えっと、うぅぅぅん……」
「そっか、わかった! その部に好きな子がいて、つい入部しちゃったんでしょ。いやぁ、青春だなぁ!」
「そっ、そんなんじゃないよっ! ったく、古本屋さんはなんでもすぐ恋愛に結びつけるんだから。中学生かよっ」
「中学生って……。これでももうじき不惑の四十歳なんですがね」
「いいやっ。古本屋さんはそんな風にフワフワしてるから、けっこうカッコイイし優しいし、いい声だし、おまけにお料理もムチャクチャ上手なのにお嫁さんがこないんだぞ!? もっとしっかりしなくちゃ」
「亮くん、おじさんそれ……怒られてるのになんだか笑顔になっちゃうよ」
 笑っていいものかと複雑な表情で座敷へ戻ってきた雨森の手には、色とりどりの水菓子の乗ったお盆が携えられていた。
「ま、これでも食べながら話を聞かせて。プリン以外にもくず餅なんか作ってみたからさ」
「!! ぉ、おう。相談に乗って貰う代わりに、味の感想聞かせてあげてもいいよ……」
「ふふ……、よろしくお願いします」
 亮の横に正座しながら礼儀正しく会釈してみせる。
 亮は早速、きな粉と黒蜜のたっぷり掛かったプルプルのくず餅を一口頬張り、ほんわりと幸せそうに頬を弛める。
「ふわぁ……。甘い……」
「甘すぎた?」
「ううん、そうじゃなくて……、味の甘さは丁度良いのに胸の奥が痺れるくらい甘くなる感じ……。うさぎさんのお菓子は食べるといつもこうなるんだ……」
「……? うさぎさんって?」
「!!」
 ぱちっと目を見開いた亮は戸惑ったように首を傾げ、「あれっ、あれっ????」と連発する。
「えと、間違えちゃった。古本屋さんだ。……なんだよウサギさんって! はは、オレ何言ってんだろ。恥ずかしいなぁ、もう」
 『ウサギサン』という単語に思い当たる節もなく、亮は自分の言い間違えに盛大に吹き出しながら、話を続けることにした。
 それを雨森はわずかに目を細め見つめる。
「古本屋さんはボランティア部の部員に知ってる人とかいる?」
「いや……、まず、誰がどの部活かなんてパンを売ってるだけじゃわかんないからね」
「だよね……」
「でも具体的に名前を言ってもらえればわかることもあるかもしれないよ? ちょっと待ってて」
 そう言うと雨森は茶箪笥の奥から一冊の薄汚れたノートを取り出してくる。随分と使われていなかったのか、フッと息を吹きかけると細かい埃が舞った。
「あったあった、良かった。……これ、前任の小売り業者が趣味と実益を兼ねてつけてた情報手帳。どんな傾向のパンや文具が売れるか、仕入れの参考にするためにつけてたらしいんだけど、担当がうちに変わるとき、引き継ぎでこれもプレゼントしてくれたんだ。生徒達の好みや季節によっての売れ筋商品なんかが載ってるんだけど……」
「それのどこが趣味なんだ? 普通に仕事っぽい内容じゃん」
「いや、中にはちょっと行き過ぎた所もあってね。営業目的で学校内の力関係を探るため調べたって本人は言ってたんだけど、多分に趣味の部分があると思うなぁ」
 そう言ってちらりと見せてくれたページには、お世辞にも綺麗とは言い難い文字で何人かの教諭の名が記されており、その下には身長体重から出身校、趣味、特技、性格まで彼らに対する情報がぎっしりと書き込まれている。
 亮は目を丸くしさらに覗き込もうとするが、雨森はそれを避けるようにさっと紙面を閉じてしまう。
「はい。生徒さんにはこれ以上見せられません」
「えーっ、なんだよケチぃ」
「僕もちゃんとは読んでないんだ。参考にしたのはもっぱら生徒さんの食に対する好みの所くらいでね。個人情報部分はさすがに気が引けて読みにくいよ」
「むぅ。それはそうだろうけど……、でもそこに書いてあることが本当とは限らないじゃん」
「それがそうでもないんだ。なにしろこれをくれた前任者のパン屋さん、やめた理由は個人の興信所事務所を開くため、だったんだから」
「……興信所って?」
「探偵さんのこと。パン屋から探偵って、どういう経緯でそんな転職してんのかわかんないけど、僕だって人のこと言える職歴じゃないし――世の中変わった人はいっぱいいるんだよ」
 再び亮の大きな瞳がパチクリと瞬かされる。
 世の中というのは、亮の知らないことで溢れているらしい。
「でも今日は特別に、亮くんの知りたい人のことを調べてあげようかな。ここに書かれてたら、の話だけど」
「ホントに!?」
「うん。亮くんは僕の大事な甥っ子くんだから。知りたい人の名前、言ってごらん?」
 亮はくすぐったそうに笑うと、少し考え込む仕草をし、一人の名を口にしていた。
「……東雲浬生。今二年で生徒会副会長やってる人なんだけど、わかる?」
「……東雲、浬生くん……だね」
 ゆるく雨森の口元が上がり、繊細な指先がノートをめくっていく。
「今二年ってことは、去年の新入生か。……可能性はあるけど、生徒はさすがに全員網羅してるわけじゃないし………………、お。あった」
 ピタリと雨森の手が止まった。
「マジ!? 見せて!」
「見るのはだめー。他の子の情報も見えちゃうから」
「えぇぇ、なんだよぉっ」
「その代わり僕が読んであげるから。……亮くんが気に入ってくれた『いい声』で」
「もー、なんだよそれ」
 くすくす笑いながら、亮は身を乗り出し耳を傾ける。
「東雲浬生、十六歳。……どうやら彼、中学の時一年留年してるみたいだね」
「オレと一緒だ……」
 ぽつりと呟く亮の声を聞き流し、雨森は先を続ける。
「へぇ。驚いたな。彼は青陵学園グループの総理事長の息子さんらしいよ。……いや、元総理事長の、か。現任は高等部でトップを務めてる有清政親氏なんだけど、三年前までは東雲くんのお母さん、東雲美帆さんが総理事を務めていたそうだ。学校でそんな話は出ないの?」
「うーんと、どうかな。知ってる人は知ってるかもだけど、本人があんまそういうこと言うタイプじゃなさそうっていうか……」
「そっか。でもこれを見る限り、それまで青陵学園グループは東雲家の家族経営だったみたいだから、相当なお坊ちゃんであることは確かだね。幼稚舎、小中高大学と一貫している名門校だし、資産もかなりのものだろう。しかし――普通に考えると母親引退の後、この学校を引き継ぐのは大学卒業後の彼、浬生くんのはずだったんじゃないのかな。それが三年前の不慮の事故で美帆さんは療養生活を余儀なくされ、若すぎる浬生くんでは無理だということで当時の副理事を務めていた有清氏が総理事に就いた、と。……彼が留年したのはその時母親と共に事故にあったかららしいんだけど、その辺りは詳しく書かれてないね」
「ふぅん……、先輩、なんか複雑で大変な状況だったんだな……」
「あ、ちょっと待って。さらにこれは複雑だぞ? 美帆さんは後妻だな。浬生くんの父上、東雲 仁紀(しののめ ひとき)氏は二人の奥さんをもらっている。一人は浬生くんの母上、美帆さん。けどその前にもう一人――雪菜さんという方がいたみたいだね。雪菜さんも教師で美帆さんの先輩にあたるらしいんだけど……どちらもやり手の女性で、身体の弱い仁紀さんに代わって、総理事長の業務をバリバリこなしていたらしい。……えーとそれから、雪菜さんと仁紀さんの間には男の子が一人いたみたいだ。浬生くんとは腹違いの兄、ってことになるかな」
「じゃ、東雲先輩は今お父さんとお兄さんと暮らしてて、お母さんは入院中ってことか」
 少しばかり自分の家族構成と似ている気がする。
「いや、それが……、雪菜さんはその子を産んですぐに亡くなり、後妻として美帆さんが招かれたわけだけど、浬生くんがまだ彼女のお腹にいる間に、仁紀さんも病死されてる。それから数年して、今度は浬生くんのお兄さんが事故にあって他界したらしい。まだ十五歳だったそうだよ……。気の毒に……」
「え、じゃあ、今先輩は……」
「家族はお母さんの美帆さんだけ、ってことかな。彼女が入院中なら、家には浬生くん一人ってことだね」
「……そっか」
「もちろん、東雲家ともなれば、家に住み込みのメイドさんや執事さんみたいな人もいるかもしれないけど」
「そんな名門の大きな家なのに、つらいことがこんなに重なるなんて……」
「名門で大きなお家、だからだよ。古い巨木には色んな虫が巣くってるってことかな」
 雨森の言葉に、亮はうつむく。
「よく……わかんないよ……」
「……そうだね。亮くんにはまだ少し早い」
 うつむいた亮の顎に手を掛け顔を上げさせると、雨森の親指が亮の唇を滑る。
 ぞくりと背筋が揺れ、大きな瞳で亮は相手を見上げた。
 ぱさりと後ろに投げ出されたノートのページはどこまでも白い。
「ふるほん、や、さん……?」
 瞬間の出来事である。
 雨森の漆黒の瞳が光の加減かラベンダー色に艶めき、亮を正面から捕らえていた。
 亮の脳裏に色とりどりの風船が揺れ、甘いクリームの香りが全身を満たしていく。
 和服の衣擦れがわずかに聞こえ、いつの間にか亮の身体は雨森の腕の中にすっぽりと収められている。雨森の唇が亮の耳朶に寄せられた。
「泣いちゃだめだよ? 亮くん」
 深い夢の内で響くように、現実感の欠片もなくそう聞こえた。
「浬生の為に泣いちゃダメだ」
「……ない、ちゃ……?」
「だってキミはもうすぐ彼に酷い目に遭わされるんだから」
 アルマの奥深くから沸きあがる桃色の幸福感で、言葉の意味もわからず亮は小さくうなずく。
 世界が回り、ぴかぴか光る風船の中、ピンク色のうさぎの耳がぴょこんと跳ねる。
「第一そんなヌルイ涙、浬生はいらないよ。きっとあれが欲しいのは……グラグラ沸き立つ血の涙」
 背中に畳の感触。
「ち……の……」
「そう……シドの髪の色みたいな、ね」
 シャツの内側に入り込む大きなうさぎの手。
「そんな気なかったのに、キミがあんな顔するから、モヨオシテきちゃったじゃない。そんな気あっても萎えちゃう浬生とは、ホント真逆だ」
 雨森が何を言っているのか、亮にはわからない。枇杷茶色の着物。古くさいけど安らぐ香の香り。少し癖のある黒い髪と垢抜けないメガネ。
 そばにいるのは大好きな古本屋さんだ。
 Tシャツがはだけられ、柔らかな亮の胸の飾りがゆるゆるとこねられている。
「っ、……ぁ……」
「そう言えば肉体の方の味見はまだだったっけ……」
 ぺろりと熱い舌が亮の頬を舐めた。
 滴る唾液から甘い恍惚が染みこんでくる。
「キミの体はどうせ娼館帰りの汚れものなんだし、どこにも傷がつかないように、大事に悪戯するなら、神様だって怒らないよね?」
 手慣れた調子でジーンズを脱がせ、よいしょと抱え上げると背中抱きに亮を包み込む。
「ま……シドは激怒するだろうけど」
 心底楽しそうに雨森はくすくす笑った。
「また殺してくれるかな、僕のこと……」