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「そうだ、今日こそジョンを夕飯に誘うつもりだったんじゃない!」 珍しいエドワーズからの頼み事のせいですっかり舞い上がってしまっていた瑤子は、彼の部屋を訪れた目的を下校間際になってようやく思い出し、再び視聴覚準備室へと足を向けていた。 あれから三十分近く経ってしまったが、まだ彼は部屋にいるだろうか。 ジョン・エドワーズという講師はいったん学校から出てしまうと全く捕まらない。事は一刻を争うことを、瑤子はこの三ヶ月の間にいやと言うほど思い知らされていた。 準備室のノブを回せば、抵抗もなくするりとドアは開いた。どうやらまだここにいるらしい。 「よしっ」と小さくガッツポーズを決めながら部屋へ入ると、大人の女らしい冷静さで武装し直し、「ジョン、いるかしら?」とさりげなく髪をかき上げてみせる。 が―― 「…………あら」 決して広いとは言えない準備室の中に人影はない。それでもどこか見落としがあるのではと、辺り一帯きょろきょろと目を向けてみるが、当然のことながらあの大きなガタイの男が発見されることなどない。 「どこ行ったのかしら?」 部屋の鍵が開いていると言うことは、まだエドワーズが校内に残っていることを意味している。 トイレにでも行ったのだろう――。そう見当を付けると、瑤子は手にしたカバンから化粧道具を引っ張り出し、その場で念入りに化粧を直し始める。 (そうよ。今日は彼のためにも私ががんばるって決めたじゃない。ジョンってば見かけによらず奥手なんですもの。いわゆる草食系男子ってやつ? 私と知り合ってもう三ヶ月になるってのに、ディナーにも誘えないなんてシャイなんだからv でもそのお陰で彼はフリー。草食男子バンザイ! ピュアでシャイなゼブラちゃんを、今夜この女豹がガブッといただいちゃうわよぉ!) ルージュを引き直し、瑤子がにやりと微笑する。 (ジョンにはヨーコ。これ世界の常識よ) 続いて携帯を取り出し予約した店の確認をもう一度する。 二週間前には予約が必要な、人気のイタリアン店だ。アダルトな雰囲気漂うこの店には、以前合コンで落とした男子に連れられて行ったことがある。 (おっけー、ばっちりね。……ああ、でも私も罪な女教師よね。生徒から寄せられる淡い恋心を知っておきながらこうして別の男性と……。しかも相手が同じ学校の教師だなんて、あの子が知ったらガラスのような少年の心は壊れてしまうかも。……ごめんね、成坂くん。キミの好意にちゃんと応えてあげたいんだけど、その幼気な瞳で見つめられると、先生過ちを犯してしまいそうで恐いの。十年後に会いましょう) きらきらと輝く瞳で天へ懺悔の祈りを捧げると、瑤子は愁いを帯びた溜息を吐く。 そこでふと、資料庫の扉が目に入ってきた。 もしかしたら中で何か編集作業でもしていて、瑤子の来訪に気がつかないでいるのかも知れない。 「ジョンー! いるのぉ?」 声を掛けてみるが中から返事はない。 「そっか。この部屋防音仕様だったわね」 そう思い至り今度はそっと中を覗いてみるが、黒いガラス戸は中の様子を見せようとはせず、瑤子の派手な顔を映すばかりだ。 (……やだ、つけまが剥がれかけてるじゃないっ。なんでさっき気付かなかったの!?) 窓に映る自分とにらみ合いながら、慌てて睫毛の接着を試みる。その際いつもの癖でつい鼻の下を伸ばしながら白目を剥いてしまうのはご愛敬だ。 「危ない危ない。大人の女性としてこんな失態は見せられないわ」 (いえ、待って瑤子。…………この窓、向こうからは丸見えなんじゃなかった? ……も……もしかして今の顔、見られて……、やだ、うそ、やだもーっ!) 瑤子の顔から余裕の笑みが消えていく。 (どうしよう……。急にノックしずらくなってきた……) 不用意な己の行動に落ち込みながら、もう一度窓の向こうへ視線を送る。 中の様子が少しでもわかれば、もう少し策の立てようもあるというものだ。 食い入るように中を覗き込む瑤子。 ああ言われたらこう言おう。こう言われたらああ言おう。頭の中であらゆるシミュレートを立てながら十分、十五分と経過していく。 だがそこに来てあることに思いあたる。 (ちょっと待って私。……こんなに中が見えないってことは、中の電気が点いてないってことよね? ってことは中は真っ暗。つまり……、ジョンはいない?) 「……そ、そうよね。やだもう、私ったら慌てちゃってv」 急に力が抜け、瑤子はほっと息を吐くとようやく笑顔を取り戻していた。 「けど中に誰もいないにしては……、冷房効き過ぎみたいね。ガラスがこんなに結露しちゃって……」 さっきまで瑤子の顔を映していた黒い窓ガラスにはうっすらと白いベールのような水滴が結晶しつつある。 「ジョンってば日本は節電大国なのよ? ほんと、世話が焼けるんだから」 肩をすくめると中のエアコンを切ってやろうと、ドアノブを回す。だが強い手応えに阻まれ、ノブは頑なに動こうとしない。 「あら」 それでも何度かチャレンジを繰り返す。しかしドアはいっかな瑤子を中に入れる気などないようであった。 「鍵かけちゃってたら消してもあげられないじゃない。ジョンったら」 しかしこれでエドワーズが資料庫にいないことが、完全に証明されたことになる。 外鍵しかついていないこの部屋に鍵が掛かっているということは、中に誰も居ないという証なのだから。 「こうなったらテレフォン作戦に切り替えよ。エアコンのことを注意しつつ、夕食への誘いへ切り替えていけば自然。あくまでナチュラルだわ。ふふ……」 不敵に笑うと瑤子は携帯を取り出し、今宵の獲物である草食系英国人・ジョン=エドワーズへと電話をかけ始める。 だがそのコールは、十分経っても一時間経っても取られることはなかったという――。 そうして彼女は今日も一人、家路を急ぐ。 せっかく予約したイタリアン。誰か誘おうかとも考えたが、エドワーズの姿を思い浮かべると、今まで相手にしてきたどんな男も色あせて見えてしまい、結局キャンセルしてしまう。 それでも次の二週間後へ再び予約を入れ直し、夕暮れの空を見上げる。 そうだ。角の牛丼屋で大盛ネギだくを買って帰ろう! そう思う、肉食乙女瑤子であった。 |