■ 4-39 ■



 ――冗談じゃないぞ、バカシド。
 亮は朝の身支度を調えながら、唇を尖らせる。
 洗面台の前で自分の身体をチェックしてみるが、首筋、鎖骨、二の腕の内側、手首にまでうっすらと紅い跡が残っているのがわかる。
 もちろん服で隠れる部分にはさらに入念に、際どい部分まで同じ跡が刻まれているのを、昨夜の風呂の中で確認済みだ。こんな所にまで!と呆れると同時に、恥ずかしさで頭が沸騰しそうになり、湯船に浸かってもいないのにのぼせそうになってしまったほどだ。
 ――どうすんだよ。今日は大事な作戦決行日だってのに!
 こんなキスマークだらけの身体でボランティア部の接待に臨めるわけがないと、昨晩はベッドの中で頭を抱えてしまった亮である。
 もともと相手に肌を見せる事態になることは避けるつもりではいたが、それでも不測の事態が起こってしまうことも十分考えられる。
 もしそうなってしまった場合、相手はいかがわしい会に顔を出す客だ。この跡がどういう時にできるものなのかすぐに判別がつくだろう。
 キスマークの付いた身体を良く思わない男が多いことを、亮はセブンスで体験として知っている。しかし逆にそれを好む男までいるわけで、その場合この跡は相手の興奮を煽ってしまいかねない。
 どちらにしても、良くない結果を招くことは目に見えている。事もなく作戦を遂行するためにはこの紅い印を相手に見せるわけにはいかないのだ。
「なんで昨日に限ってこんなに跡つけまくるかなぁ……。いつもはこんなにしないじゃんかっ。たく間の悪いエロ外人め」
 シドのタイミングの悪さに悪態を吐きながらも、うまくキスマークが隠れるように制服を身につけていく。
 手首にはリストバンド。首筋には絆創膏。鎖骨は見えないようにきっちり襟を上まで留める。
「でもまぁ……、昼までにはもうちょっと薄くなるかな……」
 昨夜に比べその跡は格段に薄くなっていた。夕べ明日の決行保留を久我に言うべきか、散々悩んだのが嘘のようだ。ゲボとしての回復力の速さに、亮は我ながら感心してしまう。
「おい、成坂、まだか!? 俺も髪セットしなきゃなんないんだから急げよ!」
 ドンドンとバスルームの薄いドアが鳴り、外から不機嫌そうな久我の怒鳴り声が聞こえてくる。
「うっせ、今出る。大体お前は男の癖に髪に時間かけ過ぎなんだよっ」
 急いでもう一度己の姿をチェックすると、亮は苛立ちに眉を寄せながらもドアを開けていた。
 すぐさま飛び込んでくるボサボサ頭のルームメイト。実は癖毛で悩む青少年の久我は、早速洗面台の鏡を覗き込み、跳ね回る髪にワックスをつけつつ鏡越しの亮へ不満をぶつける。
「成坂こそ何そんな時間掛けてんだ? いつもはおまえ三分で準備済むだろうがっ」
「今日は重要な決行日だから、いろいろ、……あんだよ」
「ぅ……。な、なるほど……な」
 何を想像したのか久我は、亮の姿を頭の先から足の先まで一通り眺め、カッと頬を赤らめる。
「っ、今何そーぞーした、てめぇっ、ド変態、殺すぞ!」
「イヒヒヒ、妄想は人に与えられた最後の自由なのだ。って、いでぇぇぇっ! …………っ、…………、……っ、ああああああっ!」
 瞬間久我の頭に亮の素早い拳が飛び、同時に十数本の茶色い癖っ毛が、毛根ごとバスルームの床に舞い散っていく。
 後頭部を押さえたまま愕然とそれを見下ろす久我。
「ひ、酷い……、鬼か貴様……」  
 そんなルームメイトを一瞥し、パンパンと手を払いながら部屋を出て行く亮。
「いいか。証拠写真撮ったら作戦通り、絶対すぐさまあっという間に援護しに出て来いよ! わかったな、バカ久我っ!」
「……うぅ……、わかってるよぉ、出て行きますよすぐにぃ……」
 あまりのダメージに殊勝にうなずくしかないルームメイトは、涙目で後頭部をさすりながら、颯爽と登校する亮の背を見送ったのだった。





 

「さて、成坂くん。昨日話したとおり、キミにはこの会のサポートとして働いてもらおうと思う。キミはこの地域親睦会への参加は初めてだし、主に会場内での給仕と各教室への案内だけしてもらえばいいから」
 東雲の一言に、亮は少しだけほっと胸をなで下ろした。給仕役だと聞いてはいたが、最悪、亮は『接待』そのものをさせられるだろうと考えていたからだ。
 ――これで後からシドにばれても怒られないで済む……かもしんない。……うーん……。や、やっぱ少しは怒られるかもだけど……。
 しんと静まりかえった部室で東雲浬生と二人きり――、己の中で芽生えつつある危機感を誤魔化すように、亮は頭の中で一人呟く。
 午前の創立記念式典は何事もなく退屈に過ぎ去っていた。生徒達は追い立てられるように下校を促され、午後一時を回ったこの時間、あれだけ騒がしかった校内は不思議な静寂に包まれている。初夏の明るい日差しが溢れるこの世界と、部活動の声すら聞こえない静けさはあまりにアンバランスで、亮を否が応でも落ち着かない気持ちにさせる。
 現在この学校に残っているのは、一部のボランティア部と十名ほどの有志生徒たちだけである。亮を「弟くん」と呼ぶヤンキー先輩たちも揃って募金にかり出され、現在は駅前で「発展途上国へ学校を建てよう!」という募金箱を首から提げて仏頂面でしゃがみ込んでいることだろう。
 よってボランティア部部室に集まったのは、無駄口すら叩かない東雲の完全なる人形のみということになる。
 言葉を発することもなく部室に集まった十数名の生徒達は、時計の針が一時という時刻をきざむやいなや、黙したまま、まるで器械の如く各持ち場へと移動を開始していた。その様子を気味悪く眺めていた亮はたった一人、東雲浬生とこの部室へ残されたのである。
「実際の進行は先生が務めてくれるし、その場に醍醐も控えさせておくから大丈夫。何の心配も要らないよ」
 そう穏やかな調子で説明されても、「ああ良かった」と安心できるわけがない。亮は表情を強張らせたまま解すことができないでいる。
 そんな亮の様子を微笑みながら眺める東雲は、部室奥のパイプ椅子から立上がると、背後の棚から、綺麗にたたまれた衣服を取り出し亮へと手渡していた。
「これが案内係の衣装だ。成坂くんの身体測定結果を基にあつらえたものだから、サイズもピッタリ合うはずだよ」
 当たり前の調子で差し出されたその服に、受け取りながらも亮は一抹の嫌な予感を感じていた。
 確か久我の言うところによると、以前の会合では生徒達は皆制服を着ていたということだった。
 それなら改めて服など支給されるはずがない。今着ているもので十分のはずだ。
「これって……」
 嫌な予感は的中した。
 受け取った服を広げれば、紺色のミニ丈スカートに眩しい純白のエプロン。しかもご丁寧にニーソックスやガーターベルトまで用意されているらしい。  これは。このセットはどう見ても――
「ふふ。知ってるかな? それはいわゆるメイド服ってヤツだよ。成坂くんはこういうのが好きだと思ってね。……あれ。浮かない顔だね。やっぱり妖精っぽい服装の方がお好みだったかい」
「っ! ちが……、そういうわけじゃ……」
「あはは、冗談だよ。大方、あの時だってクラスの連中への義理立てだったんだろう? キミはこういうことを率先して楽しむタイプじゃない」
「…………」
「……でも僕は嫌がられる方が楽しいんだよね。特にキミが嫌がることはついしたくなってしまうんだなぁ。わかるかい。ワンコの鼻っつらに輪ゴムをはめてやる快感ってのを」
「っ」
 亮の眉が顰められる。冗談めかしてはいるが、東雲の言葉の端々から抑えがたい禍々しさがにじみ出ているのを、亮の生来の感受性が敏感に察してしまう。
「なんで、地域親睦会でこんなかっこう必要、あるんですか……?」
 それでも怒りを抑え、そう問うてみる。
 東雲はまだ亮に今回の会がどんな目的で開かれるのか、話してはいない。昨夜遅くまで久我とシミュレートした際、こういった事態に陥った時どういう反応をするのが自然なのか、二人で額を付き合わせて相談済みである。
 ただの親睦会にしては奇をてらいすぎているこの衣装を前にして、「はいそうですか」と、当たり前の顔をして受け取るわけにはいかない。
「事前に配られたプリントには、生徒達の歌や地元の人たちからのお話なんかをするって書いてありましたけど」
「そんなことのためにわざわざ有力企業のお偉いさんや、地元名士の方々が集まってくれると思う?」
「……それは……、地域の学校の為に……」
「来るのは下っ端連中じゃない。トップの皆さんばかりだ。そんな彼らを迎えるにはそれ相応の――オモテナシが必要じゃない? 成坂くん」
 びくんと亮の肩が揺れた。
 目に見えてその顔色が蒼白に変わっていく。
 目の前の東雲の顔がぐにゃぐにゃと歪み、足下の床が急に脆くなったように感じ、亮は思わずそばの机へ手を突いた。冷や汗が頬を伝って流れる。
 それでもどうにか倒れることだけはぐっと堪えると、亮は顔を上げる。
 瞬間、東雲と目があった。
 決して笑っていない眼鏡の奥の涼しい眼差しは、滾るように黒い。
 ふいと東雲が眼鏡を外した。
 その柔らかな風貌と相容れぬ漆黒の禍が、不意の虚を突いて、鋭く――だがねっとりと冷たく、亮の中へと入り込んでくる。
 ぞわり、と、亮の全身の毛が逆立った。
(来た!)
 それはあの時セラで感じたのと同じ、アンズーツの浸食。
「だからキミは、何も疑問を持たず、素直にお客様たちの言葉通り動いてくれればいいんだ」
 頭の中いっぱいに声が響き、音声が文字となって東雲の口から流れ出す。そしてそれはそのまま亮の額へと、一つながりとなり流れ込んでくるのだ。文字達は黒や白や緑や赤に色を変え、まるでテレビ画面のテロップのように見えた。
(なんだ、これ。なんだ、これ? なんだ、これっ!)
 セラの中では一瞬間の出来事で気付かなかったその現象が、リアルではまるで引き延ばされたかのようにゆるゆると亮の前に提示されていく。
 それは完全に映像として亮の視界に映り込み、その不思議な映像がますます亮を混乱させていく。
「何しろ僕らはボランティア部だからね。ボランティアの心を持って、誠心誠意、お客様の意に沿うよう、時にはその身体で彼らを楽しませてあげて欲しい」
(っ……、これ、が、アンズーツ。…………きっつい……)
 リアルであるとはいえ、亮に余裕などなかった。
 己の中に滲み入ってくる粘着質の言霊は、音と文字の二つの形態で同時に亮の核を縛りに掛かる。
 当然のことながらアンズーツの防御方法など誰からも習ったことなどない。故に自己流でそれを弾くしかない。
「お客様の中にはキミのあの格好を望む声も多かったのだが、あの衣装はさすがにうちの校風に合わなくてね。だから、ソレ……というわけさ。ティンカーベルをお望みだった皆さんには、特にサービス良くしてあげてくれよ」
 文字によって鋳出され結い上げられた鎖が、亮の内側をゾリゾリと音を立て絡め取っていく。
 視界はかすみ、東雲の涼しい瞳と七色の文字だけが、やけにはっきりと亮の前で揺れていた。
(……!? なんで? 視線は……、逸らしてる……はず、なの……に……)
 こんなのはおかしい、と気付く。だが、その気づきは絶望でこそあれ希望ではない。
 ばさりと音を立て、手にしたドレスが床へ落ちた。
(くそ、っ、嘘だろ……、リアルで、こんな……強いって……反則だっ。っ……、やばい。やばい、やばいやばいやばい、どうすりゃいい……んだ……)
 亮の呼吸は上がり、ぽたぽたと水を被ったように汗の雫が机に落ちる。
「彼らをおもてなしすることが、キミの今回の仕事だよ」
(オモテナシ……が……、オレ……の、仕事……)
「……僕の言うこと、わかるね?」
 亮の顔が上がった。
 もたれかかっていた机から手が離れる。
「……はい」
「それじゃ、着替えて。今、ここで」
 亮は無表情でうなずくと、その場に散らばった衣装を拾い上げ、ゆっくりと東雲の目の前でシャツのボタンをはずし始めていた。