■ 4-41 ■




 冷たいシャワーが亮の柔らかな黒髪を打ち、清廉な雫が白い肌を伝い落ちていく。
 やかましい水音が部屋を埋め尽くし、世界の全てを遮断していた。その隔絶が亮の意識を辛うじて保たせている。
 かれこれ十分――頭を冷やすように亮は立ち尽くしていた。
 目を閉じればあの時の映像が頭を過ぎり、今頃になって恐怖に手が震える。
 ――オレは……人を殺すところだった。
 指に残る肉の感触。
 ずっしりとした水袋のような人間の重さ。
 白目を剥き、泡を吹き、痙攣しながら死へ向かう生き物の反応。
 そしてそれを目の前にして、何の感情も湧いてこなかった自分。
「…………っ、ぅ……、ぅぇ…………っ、」
 強烈な吐き気が襲い、亮は崩れるように床へへたり込むと背を震わせる。
 夕食に口にしたものが全て戻され、排水溝へと流れていく。
「なん……なんだ、よ……。……、オレ……、……ぅ……ぇっ、」
 混乱と吐き気で涙がこぼれた。
 何度も何度も嘔吐きあげ、それでも止まらず、亮は内臓まで出てしまうんじゃないかと心配になる。
「オレ、殺しちゃおうって、……思った? あんなヤツ、気持ち悪いから、死ねばいいって……」
 そう己に問いかけてみるが、それも違う気がした。
 死ねばいい――そんな積極的な感情ですらなかった。
 あの時亮は単に――『何も思わなかった』のだ。
 何もない――その空虚が溜まらなく恐ろしかった。
「オレ、もっと、バカ、に、……なったの、かな……。死ぬとか、……殺す……とか、わかんなく、なるほど、に……。っ、かはっ…………、わけ、わかんね……っ、……ぅぇっ…………、っわかんねっぇ、よっ……」
 何度も吐いているうちに、意識が朦朧とし、段々と昼間起こったことの現実味が薄れていく。
 全てが気のせいだったのではないか――。
 そうとさえ思えてくる。
 そうであれば――、と思う。
 夕方、ミッションを終えてから亮は終始明るく興奮気味に久我へ接した。
 そうするしかなかった。
 あの瞬間の出来事を口にし、久我へ不安をぶつけるようなことは絶対にできなかった。
 なぜならそれは、己の殺人未遂を告白することになるから――。
 人を殺しかけておいて何とも思わない、そんな人間だなんて、久我に思われたくはなかった。
 セブンスでの生活や滝沢との出来事が、自分の感情にこんな結果をもたらしたのかもしれない――。そう思えば尚更のこと、久我には話したくない。話せない。
 自分がたくさんの男たちにどんなことをされてきたのか、どんな風に使われてきたのか――久我に知られるくらいなら、死んだ方がましだと思った。
 だから亮は、ミッションの成功に浮かれ、笑い、夕食も軽口を叩きながら楽しくとった。
 だが、結局少しのスープとサラダしか身体は受け付けず、「テンション上がりすぎて食欲ないかも」などと笑って見せた。
 そして部屋に戻るとすぐ、亮はシャワー室へ飛び込んだ。
 身体の中のどこかの糸が切れそうで、倒れ込んだら二度と起き上がれなくなりそうで、一人になれるここに逃げ込むしかなかった。
 これほど身体に影響が出ているのだ。
 あの出来事は気のせいなんかじゃない――。
 それは亮自身が一番よく分かっている。
 それでも――。
 それでも嘔吐きながら、思う。
 全部出し切ったら――。全部ここで吐いてしまったなら、今日の出来事も一緒に流れてしまうかもしれない。
「……、そう、だ……。あん、なの……。気のせい、だ。…………、だって、オレ、殺さなかった、じゃない、か。……ちょっと、興奮して、……、頭が真っ白に、……っ、なった、だけ……なんだ」
 シャワーの音にかき消されるほどの掠れた声で、亮は己に言い聞かせる。
「ちょっとだけ……、びびってた……だけ、なんだ。……っ、だって……、シドのいない、はじめて……、の、仕事、だった、から……」
 目を閉じ、深呼吸をする。
 シドの顔が一瞬ちらつき、震える息を吐く。
「も、気に、するな……。あんなこと、っ、二度と、ない。もう、起こら……ない。……、だか、ら、……っ、風呂、出たら……、フツーに、戻……る。なにも、かも、ぜんぶ……、普通、に……」
 段々と頭の中がはっきりとしてくる。
 萎えていた手足に力が入った。
 壁に手を突きどうにか立ち上がると、口をすすぐ。
「オレが、……オレを、信じなきゃ、な……」
 いつも自分自身を信じている久我は凄いと、ふと思う。
 それが一人前になるための最初の一歩に違いないのだ。
 誰かに頼ってばかりいたくない。早くシドに認めてもらえるうようなソムニアになりたい。
 そう思うのなら、自分もその第一歩を踏み出さなくてはならない。
 不安で不安で不安で押しつぶされそうでも、誰かに寄りかからず、自分の足で立ち上がらなくてはならないのだ。
「……大丈夫だ。オレはもう、あんなこと、起こさない。絶対に――」
 唇をぐっと拭うと、亮の手がシャワーをお湯へ切り替えていた。
 全身に血が巡り始めるのがわかった。
















 久我は一人、真剣な表情で自室のパソコンに向き合っていた。
 映るのは今日の午後撮影してきた戦利品の動画である。
 亮の映った部分に画像処理を施しながら、ふと息を吐く。
 よく無事にあの無謀なミッションを遣り切れたものだと、今になって思う。
 久我がロッカーから転げ出たその後、亮は一人元の教室へ戻り、何事もなく無事寮の自室へ帰ってきた。
 亮の話のよると、入札会場に使われていた教室には既に客達はおらず、一人、醍醐だけが残っていたらしい。
 乱れた亮の服装を一瞥すると、特に表情を変えることもせず、今日の部活は終了だと、そう告げてきたそうだ。
 教室に戻ると同時に新しい客でもつけられたら――そう気を揉んでいた久我にとって、それはほっとした一言だった。
 ミッション直後の亮は久我が考えていた以上に憔悴しており、とてももう一件客をあしらえるようなそんな状況には見えなかったからだ。
 いつもと変わりなく振る舞って見せてはいたが、教室へ戻る亮の足取りはおぼつかなく、音楽室から見送った久我は、監視カメラがあることも忘れて、思わず亮の肩を支えに廊下へ出て行きそうになったほどである。
 あの亮の憔悴ぶりは、体力的な問題ではないのだろうと、久我は直感していた。たとえ数人の人間を相手に大立ち回りをしようとも、ソムニアにとってその程度の行動は大した負担にはなり得ない。
 だが精神的な問題なら別だ。
 最初に男たちに触れられたとき――亮の反応は久我が考えていたものとは全く違っていた。
 腕っ節も強く気も強い、普段の亮から考えれば、初っぱなから男どもをぶん投げていてもおかしくはなかったはずだ。その上でボコボコにして強引に情報を聞き出しはしないかと、久我は気が気ではなかったのだ。
 だが――。
 久我の心配を他所に、亮はそれをせず、その瞬間、まるで本当に怯える少女のように、震えながら逃げだそうとした。
 もちろん情報を聞き出すため、敢えてそんな誘うような仕草をしたということも考えられなくはなかったが、目の前で起きたあの瞬間の出来事は、あまりに悲壮で、悲痛で、到底演技には見えなかった。
 だが、肩に手を掛けられた程度のそんな序盤で助けに出て行くわけにはいかない。だったら最初からこんな計画を立てるべきではない。
 男たちの下卑たセリフと薄ら笑いを聞きながら、久我はそう脳内で自分を説得し続けた。
 しかし大きな瞳を恐怖に見開き、真っ青な顔で震える亮の姿が、男たちの影に隠れ見えなくなったとき――。久我の身体は理性に反して飛び出していきそうになる。
(成坂――っ!)
 嫌らしい視線に晒され、卑猥な指にまさぐられ、臭い息を掛けられ――。
 ――触れさせたくない。
 それどころか、あの薄汚い豚どもに、これ以上亮の姿を見せるのも嫌だった。
 そう思えば思うほど、男たちに蹂躙される亮の姿が、久我の脳裏にフラッシュされる。
 ――やめろっ。
 あの柔らかな唇をヒルのようなぬめる唇が犯し、あのフルーツみたいな幼い陰部を男の舌が舐めあげる。
 ブラウスが引き裂かれ、エプロンの間からのぞく胸の飾りを、また別の男がくりくりとつまみ上げていた。亮の意に反して固く尖っていくそこを揶揄しながら、味わうように吸い上げる。
 いつのまにか両足は大きく開かれ、男の肩に担ぎ上げられていた。
 白く小さな尻朶は鷲づかみにされ押し広げられ、薄桃色の蕾をじっくりと観察される。
 ――やめろっ……
 恐怖と羞恥に亮の瞳から零れる涙。
 そそり立つ大人のそれをあてがわれ、何度か入り口をこすり上げられると、久我がまだ知らない亮の奥へ、豚の陰茎がごりごりと突き入れられていく。
 必死に抵抗し蠢いていた亮の白い足が止まり、片方の靴がぽとりと脱げた。
(嫌だ。嫌だっ、嫌だっ)
 ぐちゅぐちゅと聞くに堪えない水音が鳴り、肉同士がぶつかる生々しい音が、リズミカルに上がり始める。
 男たちの荒い呼吸の間から聞こえる悲鳴――そして、甘い鳴き声。
「駄目だ、駄目だっ、やめろっ――」
 いつしか掠れた声が久我の口から零れだしていた。
 怯える亮の短い悲鳴。必死に絞り出す拒絶の声。
「――っっ!」
 現実と妄想がないまぜになり、発狂しそうな怒りが久我の中で膨れあがっていく。
 唇が噛みしめられ、血の味が口中に広がる。
(やめろ、やめろっ、それは、俺のだ。殺すっ、殺すっ、殺してやるっ!)
 小さな悲鳴と共にボタンが散らばる音がした。
「っ、成坂――!」
 遂に久我の手がロッカーの扉を押す――。その瞬間。
 男の一人が吹き飛んでいた。
 間髪入れずもう一人も床に這いつくばる。
 椅子をなぎ倒す派手な音が上がり、久我の叫びはかき消された。
 男の影から凛然と現れた亮の顔に浮かぶのは、不機嫌そうないつもの表情。
 衣服を見ればシャツのボタンこそ飛ばされていたが、久我の頭に浮かんだような危機的状況には陥っていないらしい。
 咄嗟に久我の手が、開きかけたロッカーの扉を引き戻す。
(……っ、あっぶねぇ……)
 幸運だったのは、その場にいる誰もが亮の挙動へ釘付けとなり、部屋の隅にひっそり立つ掃除用具のロッカーになど気を向けていなかったことだろう。
(……! ……ぅそ……)
 ふと気付けば、股間がジンジンと痛い。
 ジーンズによって抑え込まれている久我のソコは、いつのまにか恥ずかしいまでに存在を主張し、ご主人に解放を求めている。
(……最低だ、俺……)
 自己嫌悪で涙が出そうだった。
 良からぬ妄想によって我を忘れ、怒りにまかせて飛び出そうとした行動もソムニアとしてどうかと思うが、主が怒っているにもかかわらず飛び出そうとしている己の息子はもっとどうかしている。
(すまねぇ、成坂。マジすまんっっ)
 心の中で土下座して謝る久我の前で、傲慢で小生意気になった亮が、男たち相手に女王の振る舞いを見せ始める。
 ピアノの上に立つ少年メイドは初夏の光の中、凛乎として男たちを睥睨していた。
 つんとそらした顎と、見下すように片側だけ持ち上げられた桜色の唇。そして輝く黒い瞳は侮蔑の色に満ちている。
 そのくせ――
『この中が見たいなら――オレを楽しませてみろよ、エロ豚ども』
 そう誘いの言葉を掛けながら、自らスカートの端を捲り上げ――、禁断の絶対領域を男たちの前に晒すのだ。

 "あの"成坂亮が、である。

「ぅっ…………っ、……、」
 久我は思わず腰を引き、慌てて首を振った。
(落ち着け、落ち着け、久我貴之。成坂はフツーに任務をこなしてるだけだ)
 ピアノの上の亮は男の手を踏みにじり、柔らかに微笑む。ふわりとスカートが翻り、細い太ももがちらりと覗いた。眩しさに目が離せない。
(っ……!! ど、どーした俺。お、男の足だぞ!? しっかりしろっ! よし。深呼吸だ。すーはーすーはー。っ……、ぅ、なりさか……、そんな、見える、見えちまう、けど、見えねぇっ! ぁ、あ、そんな過激なセリフ、言っちゃダメだって、おい、おまえのあのマジメ兄ちゃんが聞いたら泣くぞ。ってか、……なんか、俺が、泣けて、きた……、ってて、いてっ、くそっ、せめてチャック開けて……って、両手ふさがってるし! ぁぁぁあああっ、ジーパンなんか履いてくるんじゃなかった。くそぉぉっ、なんだ、あんなの、ただの成坂だ。どぉおおおってことねぇっ。ただのオスガキだ。って、おい、何オヤジの指舐めてんだよっ、ぁ、そんなこと、ダメだっ、な、成坂、成坂、落ち着こう、はやまるな。ひっひっふー。ひっひっふー。ぅ、っ、そんな目で俺以外のヤツ、見んじゃ……、ねぇよ……っ、俺の……成坂が……、っ、ぅぁっ……、ぉ……ぃく……、ぃ……、………………い……一番上は長男、長男♪)
 窮まった久我の脳内では、「ダ○ゴ三兄弟」の歌が急遽再生され始めていた。平静を取り戻す作戦が、久我にはもうこれしか残されていなかったのだ。
 屈み込んだままカメラを持ち上げ、覗き窓へ必死に固定する青少年は、ひたすら気の抜けるピュアな童謡を脳内でリピート再生する。
(…………、すまねぇ……、成坂、マジ、ホント、すまねぇ……)
 そして心の中で再び土下座だ。
 だがしかし久我の不肖の息子は、荒くれたまま全く親の言うことを聞こうとはしないのであった。

「…………。修行不足かと問われれば、確かに俺はまだまだ修行不足かもしれん。だが、あれは反則だ。あんなの、覚りを開きまくった偉い坊さんでも、間違いなく生臭坊主にクラスチェンジするレベルの代物だ、絶対っ。いやむしろ、坊主とか大好物だろ、成坂みたいのはっ。修行云々じゃねーんだ。俺は悪くねぇっ」
 動画チェックをしながら本日の反省その一を思い返し、そのやりきれなさにぶつぶつと一人、己を擁護する意見を出してみる。
「それに俺だって今日は役に立たなかったわけでもねぇしっ」
 実のところ、久我は亮があの部屋に到着する前、一仕事きちんとこなしていたのである。
 あの時、亮の配置される部屋が「音楽室」であると察知した久我は、先回りをして室内をくまなくチェックしていた。そこには案の定、当然のように隠しカメラやマイクが仕掛けられており、久我はそれら全てを電波障害を装って停止させておいたのだ。
 もちろん中で亮によって行われる諜報活動が知られないようにするための措置である。
「けどまぁ、もうそろそろ潮時なのは事実だな。早めに片を付けねぇと……」
 いくら電波障害を装おうとも、都合良く音楽室だけ機材が停止するなど、普通考えれば怪しいことこの上ないのはわかっている。
 証拠を消すために新たな状況証拠を作ってしまうようなものだ。それでもカメラに細工したのは、亮の映像を相手に渡してしまうより何倍もマシだという判断だった。
「そろそろあいつらもカメラの異常に気付いてる頃だろう……。成坂への不審が確信に変わる前に、セラでの諜報活動も終わらせとかなきゃいけねぇな。明日が勝負ってとこか」
 ぼそりと呟きながら画面の早送りと巻き戻しを繰り返す久我の目の前で、ピアノの上の亮が倒れ、贅肉男がのし掛かっていく映像が流れていく。
「ちっ……」
 思わず目を伏せ、そんな自分の態度に舌打ちが漏れる。
 亮の部分にだけ画像処理を施さなくてはならないのだ。もっときちんと画面を見なくてはいけない。
 わかってはいるのだが、久我の目は直視することを嫌がり、胸はズキズキと痛む。左手は硬く握り込まれ、手のひらにはぎりぎりと爪が食い込んでいた。
 画像処理などではなく、この映像全てを一発消去したらどんなに気分がいいだろう――。
 ふとそんな考えが過ぎった。
 マウスポインタが全削除ボタンの上に一直線に移動していく。
 指が震えた。
「…………っ」
 だがそこで、目を閉じ、静かに息を吐く。
 ――何やってんだ、俺。
 ポインタはさらに移動し、再び元の作業領域へと戻っていた。
 この動画は二人で勝ち得た戦利品である。それを消すだなんてとんでもない話だ。
「バカかっ。なに苛ついてんだよ、俺は……」
 癖のある髪を一度ガシガシとかき乱すと、久我は天井を仰ぎ、再び黙然と作業に没頭する。
 だがそれから五分。
 久我は不審げに眉を寄せ、再びポーズボタンを押していた。
「……あぁ? なんなんだよ、これ。安い機材使ってるせいか? それとも本格的にどっかの違法電波にやられたか――」
 亮がピラクの首に手を掛ける瞬間から、突然画面が乱れ始める。そして男を手から落とすまでの約二分半、ブロックノイズが酷すぎて何が映っているのか全く判別できなくなるのだ。
 何度そのシーンを再生しなおしても変わらない。
 しかもそのノイズは少しばかり異質であった。
 通常ありがちな画面全体に及ぶ砂嵐ではない。
 ブロックノイズがまるで一つの集合体であるかのように、うねりを形成している。
 砂が風紋を刻むように、幾何学的に色を変え輝度を変え、画面全体を息づかせている。
「こんなノイズ、見たことねぇ……」
 最初はちょっとしたバグによる音飛びのようなものかと思い、何度か修正をかける処置をしてみたのだが、まったく効果は現れない。
 否、それどころか、いくら修正をかけようともノイズのうねりは一粒子たりとも変異することがないのだ。
 まるでそこに見えない何かが存在し、絶対的な存在感で記録媒体に消えない傷を焼き付けていったかのような、そんな感覚に陥る。
 亮を中心に放出されるそのノイズは画面全体を塗りつぶし、また音声までも変質させてしまい内容を聞き取ることができない。
 それは『声』や『音』というより、まるで幾重にも折り重なった『音楽』のようだった。透き通ったストリングスと人の声によるハーモニー。不可思議な旋律が、強く、弱く、画面のうねりに合わせて響き続ける。
「……こんな音、あの時聞こえてなかった……よな。ノイズで録音部分もやられたってことか……」
 念のため、レコーダーの方も再生してみるが、同じ辺りでまったく同種の旋律が、ラジオ放送のように強く、そして弱く、鳴り始める。
「てことは、機械の故障ってわけじゃない。あの時、あの場で何が起きてたんだ……?」
 久我の覚えている限り、あの瞬間、ピラクの呻きとオーズの雄叫び、そしてマーシーの歓喜のすすり泣きだけが、聞こえる音の全てだったはずだ。
 さすがに救出に行こうと決心した久我自身も思わず声を上げて達しそうになり、身動きが取れず、必死に目を閉じてレンズを覗き窓に寄せるので精一杯だった――そんな時間帯である。
 もし自分自身の映像が残っていたとしたら、どんな酷い顔で友人のピンチを眺めていたのか――。考えただけで情けなくなってくる。
「あの時の成坂――、凄かった……な……。なんか、見ただけで魂ごとぶっこ抜かれそうな……」
 どこまでも無機的な眼差し。
 光の中立つその麗姿。
 そして匂い立つほどの官能と、突き刺さるほどの清廉さ。
「…………ぅ」
 思い出しかけた久我は、思わず下半身に異常を来し、慌てて首を振ると再び「ダ○ゴ三兄弟」を口ずさむ。
「くそっ、なんで俺が一日で三十回もダ○ゴ三兄弟を七番まで歌わなきゃならないんだっ。成坂って、なんなんだ!? NHKの回し者かっ!? それともホントはマナーツじゃない賦与持ちソムニアなのかっ!? …………。」
 そこまで口にして久我は言葉を止める。
「賦与持ちっつったって……、そんな能力、あったっけか……。一瞬で人を隷属させしちまうような力なんて…………」
 久我のソムニア知識を総動員してみるが、在野のソムニアにそんな高等技術を持った能力者がいるわけがない。
「むぅ。……あるわけねぇわな。……となると、あれは純粋に成坂のエロさの賜物!? いや。いやいやいや、だってしかしこの謎ノイズはどう説明するんだよ。機械もぶっ壊れるほどのエロオーラ放出か!? さすがにそれは……それは……、いや、でも成坂のエロさならあるいゎ……」
「何がエロいって?」
 背後から不意に声が聞こえ、久我は思わずイスから飛び上がると、後ろ手にモニターの電源を落とす。
「ぃっ、いや、いやいや、別に……」
「あん? なんだ? エロ動画でもまた見てたのか!? ちょっとは仕事しろよ、アホ久我」
 長めの風呂から上がって髪を拭きながら現れた亮は、パックのイチゴミルクをチューチュー吸いながら妙にご機嫌な調子である。
 今日の任務を終えてから、亮は始終ハイテンションを保っていた。よほど作戦成功が嬉しかったのだろう。
「あ、あはは……、無料動画もあながち捨てたもんじゃねーよな……」
「おまえどんだけ桃色脳みそなんだよ」
 辟易した様子で溜息を吐いてみせる亮に、「おまえは全部が桃色だけどな」と脳内で突っ込みを入れる久我。だが口には出さない。絶対に。何度も亮の本気攻撃を喰らい、久我も日々学習しているらしい。
「お。なにその罵詈雑言。そんな風に思っちゃうあたり、お子ちゃまの成坂にはまだまだ早い世界ってことか」
「誰がお子様だ、誰が! 一回死んでるくらいで先輩面すんな。エロ動画くらい、お……オレだってヨユーで見るしっ」
 唐突に背後から肘を回され、首を絞められる。
「ぐぇっ、ギブ、ギブ」
 首に回されたその細い腕をタップしてみるが、それは単純に苦しかったからではなく――、
「なんだよ、そんな強くやってないだろ!?」
 桜色の唇をつんととがらせ、不服そうに睨んでくる亮の顔が自分の肩口に乗っかっているからで……。
(……やばい。可愛い……)
 頭がくらくらする。
「お、おまえは自分がソムニアだってことを忘れ過ぎなんだよっ。もうちっと力加減を学べっ」
 背中に密着する汗ばむほどの火照った体温。首を巡らせばすぐ傍に、風呂上がりの上気した柔らかな頬が寄せられ、鼻腔をくすぐるのはシャンプーの香りとイチゴミルクの甘い吐息。
 その持ち主が珍しくニコニコご機嫌な様子で、距離ゼロの位置から久我に悪戯をしかけてくる。
 久我の心臓はドキドキとやかましく、室内の蛍光灯はいつもより三倍明るく光っていた。
(……やばすぎる。これ、俺、……本気……か?)
 こんな風に全てがかき乱された記憶は、久我にも前世で一度、あったかなかったかのことである。一通りの人生を味わってきた久我にとって、まさか二度目の人生でこんなに強烈な感情が訪れるだなどと、思ってもみなかったことだった。
 しかも相手は男だ。それは亮を意識するようになってから、何度も何度も自分に言い聞かせた事実。
 だがそんな理性の説得にもめげず、久我の本能は止まらなかった。
(男だ……。けど……、まずい。……やっぱ俺、本気、だ。)
 強い感情と相手の性別が混乱を呼び、いつもならすぐに気付いていたであろう己の気持ちを悟るのに、随分と時がかかってしまったらしい。
(ソムニアの恋愛に性別は関係ねーっての、こういう、ことか? いや……多分、そうじゃない。ソムニアとか、関係ねぇ……)
 じゃれついてくるルームメイトは無邪気に笑っている。
(俺は、単純に成坂が…………)
「久我、おまえだってソムニアなんだから、こんくらい耐えろ。むしろ笑って首を差し出せ」
「てめ、いつまで女王様キャラ継続してんだ、っ、ぃてて」
「元々はおまえの作戦だったんだぞ? 発案者が味わわなくてどーすんだよ。さー、オレ様にカシズイて、今すぐ三段目の引き出しにあるおまえのウニ醤油ポテチを差し出すのだ」
「っ!? 貴様っ、なんで俺の秘蔵のポテチの在処を!?」
「ふははははっ。オレの調査能力を見くびるなよ? 二段目の引き出しにチョコバットの「当たりホームラン」が大事にしまってあるのもお見通しだ。このガキんちょが」
 得意げに眉を上げる亮。そしてそのままきゃっきゃと笑い絡みついてくる。
 くるくる変わる表情。
 久我が求めてやまなかったもの。
 幸せすぎて、死にそうだ――と、久我は思った。
「くそっ、言うに事欠いて、てめーが言うなよ成坂、チューするぞこらっ」
 久我は己の首に回された亮の腕をぐっと引くと、身体を反転させ、ベッドへと亮の身体を放り投げる。
「おまえ、口を開けばチューだのヤるだの、それしか頭にねーのかよ、この性欲魔人がっ。ヒトの形してりゃ何でもアリだな!」
「ばか、んなわけねーだろっ。おまえだから言ってんのっ」
「アホか! 男相手に変態かよ。それにチューするのは付き合ってる相手とだけだろっ。何人彼女がいんだよ、このチャラ男の浮気野郎がっ」
 いつもの調子で反撃に来ようとする亮を、ベッドの上で押さえ込み、久我は思わず口走っていた。
「そんじゃ俺と付き合わねぇ?」
 久我の下で藻掻いていた亮の動きが止まる。
「他の女はみんな切る。ってか、もう切ってきた。俺、今フリーだ」
「……へ?」
 亮はきょとんとした顔で久我を見上げている。
「つまり、割と本気の提案……ってことなんだが……」
 黒く丸い目が久我の切羽詰まったような、真剣な表情を映し出していた。

「好き……、だ。成坂」

 沈黙が、落ちた。