■ 4-43 ■




 亮がその場に出くわしたのは全くの偶然だった。
 三時間目の現国前――。
 亮はいつものように古本屋さんのいる購買部へ顔を出し、いつものようにお弁当を受け取った。
 いつものように古本屋さんの弁当解説を聞きながら開店の手伝いをし、予鈴を聞いてギリギリに教室へと戻る。
 と――。
 その途中、廊下の窓からふと見えたのは一人校庭を横切っていく生徒。
 体育の授業の為にぱらぱらと群れている体操服の生徒達とは異質の制服姿。
 遠目からでも亮にはその後ろ姿が誰のものであるのか、すぐにわかった。
「東雲――浬生」
 いつも後ろに付き従えている番犬の姿こそ今日は見あたらなかったが、こんなに離れていても感じる張り詰めた糸のような独特の空気を見間違うはずがない。
(どこに行くんだ……?)
 手にはカバンを提げている。
 どうやら学校を早退するらしい。
 そこで亮は瞬時に「やばい」と思った。
 次の授業中、久我はスクールセラへ潜るのだ。
 あえて授業中の潜行を選んだのは、アンズーツである東雲浬生がスクールセラへ現れない時間帯を狙ったからに他ならず、肝心の彼が授業を受けないのであればその作戦は成り立たない。
 どうしようかと一瞬のとまどいを見せているうちに、授業のベルが鳴り響く。
 亮が慌てて教室へ戻ってみると、なんたることか、すでに久我はセラへ潜行を開始していた。
 つまり――教科書を立てた机に突っ伏し、眠りに落ちていたのである。
 まだ先生も来ていないのに――と、前の黒板を見れば『本日・自習』の文字。
 周囲の生徒の話から察するに、どうやら現国の松岡は本日季節外れのインフルエンザに倒れお休みらしい。なるべく早くセラ潜行に出かけたがっていた久我は、亮の帰りも待たずさっさと行ってしまったというわけである。
「ったく、このアホ久我が、どんだけせっかちなんだよ……」
 忌々しげにのんきに寝こける久我の顔を見下ろすと、一瞬、起こしてやろうかと考えたが、ふとそれを思いとどまり、弁当を机の上に置くとカバンを手に教室を飛び出していく。
 背後から佐薙の心配そうな声が飛び、亮は「腹が痛いから帰る」と言い置いて、構わず猛スピードで掛けだしていた。
 この状況で亮の取るべき方法は一つ。
 東雲がセラへ入り込まないように、現実世界へ足止めすることだけである。
 現国授業が自習になった今、教師対策で亮が久我のそばにいる必要もない。
 下駄箱から引っ張り出した靴をつんのめりながら履きつつ、亮は東雲の背中を追って走る。








 亮は居心地が悪そうにきょろきょろと辺りを見回すと、東雲の入った大きな自動ドアをくぐり後をついていく。
 白を基調とした硬質な床と高い天井。そして辺りに漂うのは消毒の香り。ツンと鼻の奥を刺激するこの匂いは、亮にあまり良い記憶を呼び起こさせない。
 思わず一度鼻の頭にくしゃっと皺を寄せ、むずむずする鼻の頭を擦っていた。
 東雲のやってきた場所は、亮のどの予想にも当てはまらない、街外れにある大きな総合病院であった。
 大きなホールを抜け、東雲は二機並んだエレベーターの内の一台へと乗り込んでいく。
 亮は一瞬戸惑ったが、エレベーターのドアが閉まるのを確認すると飛び出していき、それがどの階に止まったのかドア上のランプでチェックする。
「……九階」
 隣のエレベーターもさっき上へ昇り始めたばかりで戻ってくるまでに時間がかかりそうだ。
 となると、必然的に亮のやらねばならない行動は決まってくるわけで。
「ぅげぇ。……最上階、かよぉ」
 げんなりと舌を突き出した亮だったが、よしっ、と気合いを入れるとすぐ横にある階段を駆け上がっていく。
 リアル世界において、こういうときこそ常日頃訓練で培ってきたソムニア能力を発揮すべきときである! と自分で自分に言い聞かせ、亮はそのしなやかな足で段を力一杯蹴り、舞い上がる。
 まさに跳ぶように走る少年と時折すれ違う看護師や医者たちは目を丸くしてそれを二度見だ。
 亮は一分もかからぬ早さで九階までの階段を一気に上りきっていた。息も切れてはいない。
 すぐさまエレベーターホールへ顔を覗かせると、東雲の姿を探した。
 廊下の先を行く制服の後ろ姿。東雲だ。
 見失わないでいられたことにほっとしつつ、亮はその後を追う。
 すれ違うパジャマ姿の患者や忙しく動き回る看護師達は、別段亮を怪しむそぶりも見せない。
 制服姿の亮は、入院患者の見舞いあたりだと思われているに違いない。
「先輩もだれかのお見舞い……かな……」
 東雲は長い廊下を何度か折れ曲がり、ガラス張りの渡り廊下を越え、別棟へと進んでいく。
 そして――防護ガラスに区切られたある区画へ行き着いていた。
 立ち止まった東雲はサイドの入力パネルを弾き、頑丈そうな防護扉を開けると中へ入っていく。
 亮はその東雲の指の動きをしっかりと記憶し、しばらく時を置いて同じように中へと進んでいた。
 たいそうな防護扉を有している割には、向こう側もやはり変わらぬ白い病院の廊下が続いている。
 ただ、その空気は先ほどまでの病院とは一変していた。
 辺りに響くのは患者達の雑談の声だけではない。
 奇声、叫び声、泣き声に哄笑。心の奥底の不安を掻き立てるような、ざらついた空気が周囲一帯に満ちている。
(なんの病棟なんだよ、ここ……)
 それでも傍らのナースステーション前をそしらぬ顔で通り過ぎると、前方で折れ曲がった東雲の背を追う。
 亮が角を曲がると、東雲が突き当たりにある扉の中へと入っていく所だった。
 扉が閉じられたことを確認すると、亮はそっとその部屋へ近づいていく。
 ドア横に張られたネームプレートには『東雲 美帆』の名前。
 そこで亮は東雲の家族について、雨森から聞いた情報を思い出していた。確か、東雲の母は現在入院中だったはずだ。
(先輩のお母さんのとこ、か……)
 とりあえず東雲の入獄を阻止しようと後をつけてきたものの、この状況は想定していなかった。親子水入らずの病室に亮が飛び込むわけにもいかないし、かといって病室から東雲がスクールセラへ入り込んでしまえば久我が危険にさらされる。
 どうする……、どうする……、と、逡巡する亮の耳に飛び込んできたのは、
「どうしたの? 入っておいでよ、成坂くん」
 いつもと変わらぬ、揶揄を含んだ東雲の声だった。
 びくっと肩を揺すった亮は、自分の尾行が完全に東雲にばれていたことにショックを覚えながらも、そろりと扉を開けてみる。
 中を覗けば広い個室の奥――、白いベッドの傍らに座る東雲がこちらに顔を向けていた。
「…………いつから、気づいてたんですか」
 仏頂面で部屋へ入ってきた亮に、東雲は肩をすくめ首をかしげてみせる。
「名探偵ならここで、最初からだよ……くらい言うんだろうけど、僕の場合はキミがこの特別病棟へ入り込んだ辺りからかな。ここはドアが開くたび、ナースステーションにコール音が鳴るようになってるから」
 実のところ東雲が亮の尾行に気づいたのは、校門を出た地点すぐに届いた雨森からのメールのおかげであった。
 そこには『可愛い後輩が尾行中』と一言だけ書かれており、どうしろという指示は書かれていなかった。それで東雲はそのまま亮のするに任せた、というわけである。
 正直、亮の尾行はかなりの精度らしく、雨森からの通知を受けていたとは言え、東雲にはどの辺りに亮がいるのか感知することすらできなかった。
 だから今東雲が言ったことは嘘ではない。おそらく本来、東雲が亮の尾行に気づけたであろうポイントは、ナースステーション前くらいしかなかったのだから――。
「…………」
 何を言って良いのかわからず黙ったままの亮に対し、東雲は笑顔で彼を招き寄せる。
 近づいた亮は、ちらりと視線の端でベッドの上で身体を起こした女性を捕らえると、会釈をした。
 長い黒髪と白い肌が印象的な綺麗な人だ。
 ただ、その東雲によく似た切れ長の目はどこを見ているのかよくわからない。
 遙か遠くを見ているようでもあり、亮の顔をまじまじと眺めているようでもある。
「ああ、彼女のことは気にしないで。見えてるし聞こえてるけど、何も見ていないし聞いていないんだ。感覚を受け取る側が不在なんだよ」
「……東雲先輩のお母さん、ですよね」
「そう。紛れもなく血を分けた母親、だ。珍しく彼女が目を覚ましたって連絡を受けたんで、授業中にもかかわらず息子は顔を見に来たってわけ。……母さん、うちの部の後輩、成坂くん。お見舞いに来てくれたんだよ」
 そう言って紹介されると、亮としてはばつが悪い。
「……し……、東雲先輩のお母さんは、事故にあったって聞いた、けど……」
 苦し紛れに呟いた亮の質問に返されたのは、しかし思ってもみなかった返答だった。
「事故? ああ、世間じゃそういうことになってるか。母がこうなったのはあれは事故じゃなくて――事件」
「……事、件?」
「――母は三年前のあの日、僕を刺したんだ。大小合わせるとざっと十八カ所。小さなペーパーナイフだったとはいえ、すごい体力だよね」
「っ……!?」
 あまりのことに亮は言葉を失って東雲の顔を見るしかない。
 見開かれた亮の瞳に、東雲は微かに笑みを浮かべると世間話のような気軽な調子で先を続けた。
「それで生きてる僕もすごい体力だけど。……さすが親子だ」
「そんな……、それは……」
「いいよ、無理してコメントしなくても。ちょっと特殊すぎて、僕だって引く」
「っ、オレは別に……」
「まぁ聞いてくれ。どうして僕をつけてきたのか知らないけど、こんなプライベートな場所にまで着いてきたからにはキミには僕の話を聞く義務がある。違うかな?」
 そう言われてしまうと亮は二の句が継げない。
 黙り込んだ亮をよしとすると、東雲は亮を近くへ招き寄せ、椅子を勧めた。
「……とにかく、あれは事故じゃなく事件だったんだ。前からおかしかった彼女が決定的な事態を引き起こしたのも、偶然でなく必然――。事故でなく事件」
「……?」
 東雲の言うことがつかめず黙り込んだままの亮の眼前で、東雲は傍らの消灯台からナイフを取り出すと、バスケットから取り出したリンゴの皮をむき始めていた。
「現総理事長、有清政親。当時の副理事だ。彼がね、彼女の向精神薬に系統の違うものを混ぜ込んだんだ。それが引き金だった。パニックに陥った母は、遂に事を為してしまった……」
「それって……、副理事の犯罪ってことに……」
「ならなかったんだな、これが。僕はその時死んでたからその状況をこの目で見ることはできなかったけど、後から聞いた話によると、当時不眠で悩んでた彼もいつも薬を持ち歩いていたそうだ。廊下でぶつかったとき二人の薬が辺りに散らばり、それぞれが回収し、不幸にもいくつか薬が混ざってしまった。――それだけのことだったらしい。だから、事件でなく不幸な事故だと警察はそう結論づけた。もちろん頭のおかしい母に罪は問えない。措置入院で終わり。新聞にも大きくは取り上げられることもなかった。これは今の僕からしたらありがたいことなんだけどね」
「ほんとに、偶然、だったのか、それは……」
「違うだろうね」
 眉を上げおかしそうに頬をゆるめると東雲は長く巻いたリンゴの皮をゴミ箱へと落とす。
「彼は学園の総理事長に納まり、僕の後見人になることによって学園の利権全てを手中に収めた。母がおかしくなる少し前、もしもの時のためとやらにそんな取り決めを交わしていたらしい。最初は母をモノにしてうまい具合におさまろうと画策してたみたいだけど、うちの母はこの学園と僕の兄にしか興味のない人間だったんだ。あんなおっさんに靡くはずもない。だから――母に事件でも起こさせて失脚させるつもりだったんだろうね。未必の故意ってヤツさ。……まぁ、まさか彼女が息子を滅多刺しにするとまでは思わなかっただろうけど」
 肩をすくめると東雲はさっくりとリンゴに刃を刺し、手のひらの上でまっぷたつにした。
「母は投獄されるどころか廃人になり今や抜け殻。僕は一度死んで……蘇生してからも一年は入院生活を余儀なくされた。有清の後見人としての役割は思う存分発揮できる形となった――あの小者の作戦は上々すぎるほど上々に成功したってわけだ」
 突然の東雲の告白に、亮は頭をハンマーで殴られたかのような衝撃を覚えていた。
 雨森からある程度の情報は仕入れていたが、その真実がまさかこんな壮絶なものだったなどと思ってもいなかったのだ。
 事故でなく事件――。まさに東雲の言うとおりだ。
「でも。だ……、だから、あんなこと、やってるっていうのか? 理事長を陥れるとか、困らせるとか、そんな理由で、学校であんな酷いこと……」
「……あんなこと?」
 聞き返されて、しまったと亮は顔をしかめた。
 あまりのショックで口にしてしまった亮の考えは、自分が東雲の完全なる手中に居るわけではないことを告白してしまったも同じことだったのだ。
 口ごもる亮を目を細め見やると、東雲は皿に盛ったリンゴのかけらにフォークを刺し、亮へと差し出す。
 亮は促されるままそれを取ると、取り繕うように一口かじった。
「学校で売春斡旋してることを言ってるのかな?」
「……。」
「ふふ……。キミは本当にワンコみたいに素直だね。それともゲボ能力者はみんなキミみたいにお馬鹿ちゃんなのかい、成坂くん」
「っ!」
 目を見開き、亮は東雲の顔を見た。
 今、彼はなんと言ったのか――。
「最終的には彼に全ての責任を被ってもらう予定ではあるけども……、あれは一種の儀式みたいなものなんだ。僕が僕の運命と決別する為の、ね」
 しかし東雲は亮の驚愕などよそに、淡々と質問への回答を進めていく。
「キミだって思うことがあるはずだ、成坂亮。運命なんかに支配されたくない――。セブンスでの生活は辛いものだったんだろう? ゲボとしての運命をキミは受け入れているのかい? この先も永遠に搾取され続ける運命。大人たちの愛憎や欲望に翻弄され続ける運命。これがキミの居場所だと、誰かに決められたまま、永遠に永久に輪廻の中で生き続けていくつもりなのかい?」
「ォ……オレ、は……、」
 ゲボだと――。亮がゲボだと東雲は知っている。
 知られてしまっている。
 その衝撃を押して余りある別の衝動が亮の中で膨れ上がる。
 東雲の言葉は亮の魂の根幹を揺すっていた。
 これはアンズーツ能力などではない。それはわかっていた。これは、単に人間の言葉だ。
 単純な日本語の文章に過ぎない。
 だが――。
 それは亮の心臓の位置を見透かしたように、的確に亮の一番傷んだ場所へずぶりずぶりと突き刺さる。
「僕とキミはよく似てる。だからわかる。キミもお母さんに捨てられたんだよね。僕が母に不必要だと言われたように」
「っ、ち、違う! 諒子は、帰ってくるって言った。オレは捨てられてなんかないっ!」
「僕の母も同じようなことをよく言ってたよ。彼女が一番尊敬し愛した雪菜が死に、雪菜の伴侶であった仁紀が死に、そして雪菜の忘れ形見である兄が死んで……彼女に残されたのが僕一人になったとき。僕こそが彼女の宝であると初めて母はそう言ってくれた。だけど結局それは彼女が自分を保つための欺瞞でしかなかったんだ。現に僕が兄の亡くなった年齢と同じ十四歳になった頃から、彼女は壊れていった。兄は十四で死んだのに、雪菜の血を引いていない僕が十四を過ぎても息子として行き続けている……。なぜだ。なぜだ。なぜだ――? そんな想いが彼女の心のひずみをどんどん大きくさせ、ついに――」
 東雲の手が上を向き、はぜるようにぱっと開かれた。
「パリン。――矢を放たせたのは有清の画策だったかもしれない。だけど弦はぎりぎりまでもう引き絞られていたんだ。彼女が心の平静を得るには、僕が息子でいてはダメだった」
「なんで? だって先輩は実の息子なんだろ? お母さんがそんなこと思ってたってどうしてわかるんだよっ」
「己の血縁なんかに興味が持てなくなる人種がいることを、キミは知ってるはずだよ、成坂くん」
「……?」
「彼女はね、ソムニアなんだ。マナーツだけど、もう三世代は転生を繰り返している」
「……っ、そんな……」
 亮は絶句した。
 親子でソムニアになる事例など、自分と諒子以外に聞いたことなどなかったからだ。
 そしてソムニアが血縁に興味を失う事例が多いことも、セブンス時代ノーヴィスからソムニアの授業として聞かされてはいた。聞かされた当初はそんなことは信じられず、記憶にすら残らないほどこの事象は亮の中で流されていたことだった。
 だがそれを目の前に突きつけられている。
 亮はもう一度、ぼんやりとこちらを眺めている東雲の母を見た。
 その穏やかな表情はそんな恐ろしいことをした人間とは到底思えない。
「ソムニアが固執するのは血縁ではなく――、アルマそのもの。彼女が愛したアルマの持ち主はソムニアではなかった。雪菜も、兄も。……わかるかい? 普通の人間は死んだらすべてリセットされてしまう。記憶も姿形もとどめない。誰が誰だったかなんてわからなくなる。これは僕たちソムニアからすれば消えてしまうのと一緒だ。何度転生しても、永遠にその人間とは会えなくなる。母はその運命に耐えられなかったんだ。だからいっそ全てを消してしまいたいと思った。ここにいるのは僕ではだめで、母はもうこの世界に居たくなかった。……単純にそういうことなんだ」
 修司と別れる日のことを、亮は思ってしまった。
 修司は普通の人間だ。ソムニアではない。
 だから自分が死ぬか修司が死ぬか――その日が来れば亮は永遠に、何度転生しても、もう二度と、修司とは会えなくなるのだ。
 一般人だった頃には当たり前だった現実が、今はこんなにも恐ろしい。
 彼女はこんな恐怖に何度も晒されたのだろう。
 果たして自分はこの恐怖に直面したとき――耐えきれるのだろうか。
 急に寒さを覚え、亮は自分で自分の腕を抱きしめた。
「ね。成坂と僕。似ているけどちょっとずつ違う僕たち――。僕らはソムニアで、優しい義理の兄がいて、ソムニアの優秀な母がいて、父はいないも同然で。おまけに母に捨てられて、キミは父親の腹心に犯され、僕は父親の腹心に殺された」
 きっと亮は東雲をにらみ付ける。
 東雲は亮のことを何から何まで知っているのだ。
 知っていて、知らないふりで亮の動きを楽しんでいた……。今になってそれがよくわかる。
「これからはもっと大きく変わっていくんだろうね。例えば――キミはゲボの力で大人達の欲望に蹂躙されつくした。でも僕はアンズーツの力で大人も子供も欲望に縛り付けてやった。同じ希少種だけど、キミと僕とでは真逆に進み始めてる。それは要するに意志の問題なんだ。僕はそう望んだから、今の僕になってる」
「……それが、答え、かよ」
「…………」
 東雲は黙って亮の目を見据える。
 肯定とも否定とも取れるその理知的なまなざしの奥に、黒い炎が揺れているように亮には見えた。
「自分ともっとも縁遠いことをしてみてるんだ。色んな実験を繰り返して、僕は運命ってやつと闘おうかと思ってる」
「だからって、他人を巻き込んでいいわけがない。やっぱ、おまえは間違ってる」
「正解かどうかなんてどうでもいいことさ。……ゲボの転生周期は七年から七十年の間くらいだそうだね。その点、僕の先はキミと違って短い」
「……どういう、意味だよ」
「アンズーツの転生周期を知ってる? 実はさ、希少種過ぎてその記録すらないんだ。死んだら次の転生まで何百年……って可能性もある。だから、僕は色々と急がなきゃいけないってわけだ」
「運命から逃げる為に、か? そんなの幻想だ。逃げたって逃げたってどこまで逃げても人間なんてそんなものから逃げ切れるわけない。だって運命なんてもの、もし逃げ切れたとしてもどうやってそれが分かるっていうんだよ」
「わかるさ、きっと――」
 穏やかな瞳で東雲は亮を見た。
 その確信に満ちた目。
 もしかしたら、言霊を操るアンズーツには運命とやらの切れ端が見えているのかもしれないと亮には思えた。
「僕はキミにもそれを見せてあげたいな。だからキミの目を僕が開かせてあげる。ただね……。僕はキミを気に入っているけど、キミの温々としたその居場所だけは気に入らない」
 一転、東雲は見下すような冷たい視線で亮を眺めた。
 手にしたリンゴのかけらで亮を指さすと、シャリリといい音でその実をかじる。
「なぜ今キミはそこにいる? 他人に守られて楽しそうに笑っていられる? ――あれほど踏みにじられて、身体もアルマさえも玩具にされて、なぜそんな顔ができる? キミはずるい。運命に気づかないふりをしていられるキミはずるいよ、成坂」
「…………」
「気づいてしまった僕はキミみたいにはなれない。だから僕はキミを僕にしようとそう思っているのかもしれない」
「そんなこと、勝手にしようとすんな。オレがおまえになるわけないだろっ」
「ふふ……、こんなに心が動いたのは、どのくらいぶりだろう。僕の心はまだ生きてるって気づけて嬉しいよ。僕は――キミの心を粉々にして、一から再構築してみたいんだ、きっと」
 ぞくり、と冷たいものが背筋を滑り降り、亮は弾かれるように立ち上がっていた。
 東雲浬生は壊れてはいない。
 だが、空虚だ。
 深く暗くただ広い空間――。亮の前にそれが広がっている気がした。
「オレは……、先輩には、ならない……」
「それは僕に対する挑戦状? いいよ。可愛い後輩の挑戦なら受けて立ってやる。まずはキミの心を粉々にするところから始めようか」
「ゲボに付与能力が効くと思うなよ……」
「そんなことわかってる。それでもやるだけやってみるよ。アンズーツだけでなく他のあらゆることを駆使してね」
 亮はもう一度東雲の母に会釈をすると、病室を出て行く。
 東雲は何も言わず、亮を追うこともしなかった。
 腕に巻かれたイカ時計は昼の十一時二十五分を指している。もう現国の授業は終わる時間だ。
 ひたすら前だけ見つめて白い廊下を進む。
「……久我に、なんて言おう……」
 隠していたこと、隠されていたであろうこと。東雲と亮たちの間でなされていた駆け引きのほぼ全てが、何の覚悟もないままオープンにされてしまったのだ。
 きっと久我もこんなことになっているとは予想もしていないだろう。
 今後の作戦をもう一度練り直さなくてはいけなくなってしまった――。
「きっと怒るだろうな……。オレがぽろっと色々しゃべっちゃったこととか……」
 亮は久我の反応を思い、深い苦悩のため息を漏らしたのだった。