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「くそっ、どーすればいい。どーすりゃこのいたたまれない状況から抜け出せる?」 久我貴之は一人、悶々と悩みあぐねながら廊下を歩く。 目をつむり顎を撫で、時折自慢のヘアールタイルをガシガシとかき乱しながら、怒りにまかせたように地響きを立てて歩く彼を、すれ違う生徒達は胡散臭そうに眺め過ごす。 (ふられる!? ふられるだと、この俺様がっ。普段ふられなれてるやつは、ふられそうになった時、一体どういう対応で乗り切ってやがるんだ!? ああああっ、くそっ、ふられるふられるうるせーよ、俺っ!! まだ俺は完全にはふられきってねーだろうがっ! 俺の十二分な恋愛経験則によればここで強引に押し倒すとか、逆に突き放してみるとか色々やりようもあるだろっ!? ……成坂を押し倒す。てか、夕べ押し倒した挙げ句にあのザマだったじゃねーかっ! あいつを押し倒して冷静に口説くとか土台無理なんだってっ。……成坂を突き放す。…………そんな真似して嫌われたらどーすんだよ。も、もしあの可愛い顔で無視でもされたりしたら、俺のガラスのハートが氷結粉みじんだっ!) はぁ……と死にそうな溜息を吐き、久我は廊下の窓枠へよろりともたれかかる。 「俺が女だったらOKくれたのかなぁ、成坂……」 ついに考えたくもない方向にまで考えが及び始めた久我は、現在単独スクールセラ潜行中だ。 現国前の休み時間に教室を出た亮を待つことなく、久我は一人セラへと潜ってしまったのである。 本来なら亮ともう一度コンタクトしてからの作戦実行が望ましいとわかってはいたのだが、夕べの発作的告白事件、そして今朝の無様な取り繕いと続き、どうにも冷静に亮の顔を眺めることができず――、結局逃げるようにこの場へ赴いてしまったというわけである。 「…………いや。弱気になんな。久我貴之。まずはこのミッションを成功させることを考えるんだ」 (そうすれば自動的に成坂の俺に対する尊敬の念もガツンと上昇する。尊敬が愛に変わることなんてこの世界じゃ良くあること。すなわち常識だっ! 俺のソムニアとしての能力の高さが、今あいつを落とせる最大の武器になるっ) 恋する二度目の高校男児はおもむろに鼻息も荒く一念発起すると、ぎらりと眼を光らせて、生徒会室へと走り出していた。 チェックするべき場所はたくさんある。 生徒会室に始まり、ボランティア部の部室や職員室。久我は、東雲が行きそうな場所は全て回ってみるつもりでいた。 走りながらそっと腰のホルスターへ手を伸ばす。 だらしなく垂らしたシャツの裾に隠れるように、黒い革製のホルスターはしっかりとベルトで固定されている。 中に入っているのは久我がソムニア能力で作り出した銃だ。久我のイザ能力を最大限活用できるよう作り出したそれは、久我にとっての頼れる相棒である。 有効殺傷距離が七メートル前後と短く、照準がブレ気味なのは難点だが、それでも威力は十分だと考えている。 できればスクールセラでこんな物騒なものは使いたくないが、相手の出方によってはこれに頼らざるを得ないだろうと、久我はそこまで覚悟を決めていた。 「さて」 立ち止まり見上げた頭上にかかる『生徒会室』のプレート。 「……いきますか」 久我の手が、そっと冷たいドアノブを回していく。だがその動きは、硬い金属音でガチリと止められていた。 久我はぺろりと一度唇を舐めると、そのまま手の中に力を溜めていく。 ひんやりとしたノブの感触がさらに冷え、痛いほどの温度へと急降下し――次に一気に力を緩める。それを三度繰り返したところで、 ギン―― 濁ったような金属音と共に、ドアノブはぐるりと回転した。 (三度か。なんか最近俺ってばパワー鰻登りじゃね?) してやったりと眼を細め、久我はそろりとドアを開ける。 カーテンの閉じられた生徒会室の中は薄暗く、忍び込み先としては上々な環境である。 「まずはパソコン……か?」 二間が続きとなっている生徒会室において、メインのパソコンが置かれているのは奥の会長室だ。 手前の会議室兼作業場をスルーすると、久我は奥の部屋への扉を開けた。 と――。 何の前触れもなく。 久我の首筋に感じる敵意の塊。 本能が脊髄反射で久我の身体を動かしていた。 仰け反るように状態をひねりながら体勢を整え振り返る。 瞬間眼前を通り過ぎる銀光一閃。 美しい弧を描いた青竜刀の刃が、久我の首の皮を一枚引き裂いて巡っていた。 薄闇の中、つぃと血の朱が糸を引く。 「っ!」 屈み込むように低い体勢でどうにか止まった久我の前には、二本の刀をこちらへ突きつけた醍醐覚の姿。 感情の見えない茶色い瞳が、殺戮マシン搭載のカメラのごとく久我の姿を捕らえている。 「後ろから攻撃っての、卑怯じゃねぇ? 醍醐先輩。……てか足音くらいたててよ」 首筋から流れる血もそのままに、久我は眼前の刃から目を離さない。離せない。 醍醐がいつの間にこれほど近くへ接近していたのか、久我にはまったくわからなかった。 部屋に入り込んだとき、人の発する気配など室内に微塵もなかったのである。 いくら気配を殺せる手練れとはいえ、ここまで己の存在を消すことができるなど有り得ない。久我とてソムニアの端くれだ。その程度のことはわかる。 ということは――。 断言できる、と思った。 醍醐は久我が部屋に入り込んだ後、しばらくしてから部屋へ足を踏み入れたのだ。 そして一気に久我との間合いを詰めた。まるでドアからここまで瞬間移動したかの如く。 (どういう魔法だよ――) 額から冷たい汗が流れ落ち、久我はそろりと腰のホルスターへ手を伸ばす。 「おまえが成坂の相方か――」 醍醐は久我の言葉など聞いてはいないように、呟いた。 久我の頭の先から足の先まで、まるでデータをインプットするように眺めていく。 「確か同じC組の――」 「久我貴之。名前くらい知っておいて欲しいもんだ。これでも学校ではけっこう有名人なんだぜ? 俺」 成坂の相方――と言う呼ばれ方に少しばかり気をよくした久我は、にやりと笑うと後ろ手に会長室のドアを開け、背後に飛び退っていた。 しかし醍醐は久我を追うこともせず、泰然とその姿を目で追うだけだ。 「久我貴之――。なるほど。あのドアの痕跡、イザ能力者か。まさか同じクラスに二人もピュアなソムニア……しかも賦与能力者がいたとは、報告しなくてはならんな」 「またあの頭の配線キレた東雲に告げ口か。なんなんだよ、あんた。どうしてあいつにそこまで忠誠誓ってる? 売春斡旋なんてどう見てもあんたの柄じゃないだろ」 ホルスターから愛銃を取り出しつつ、時間稼ぎの無駄口を叩く。 その指先の動き一つに掛けてまで全て醍醐に見極められているようだ。 空気がやたらヒリつく。 狭いドアの仕切りを挟んで向かい合う二本の青竜刀は、微動だにしない。 「一年が二年に向かって呼び捨てとは、口の利き方も知らんと見える。おまえが何度転生したのかは知らんが、学園でのルールというものは守るべきだ」 静かにそう聞こえたと思った瞬間、久我の左脇腹に痛みが走る。 突如横へ現れた青竜刀の一閃を、咄嗟に久我は銃底でガチンと弾いていた。そのまま転がるように会長デスクの脇へ。 そして転がりざま一発。銃声が轟いた。 凍気を帯びた蒼い弾丸が久我の構えたオートマチックから尾を引き、醍醐の短い髪の一房を持っていく。 久我は引き金を引いていたのだ。 「ぁっぶねぇ……」 机の影で身を潜めつつ、二つの意味がない交ぜになった言葉を呟く。 相手の本気でこちらも咄嗟に撃ってしまったが、相手を殺してしまっては報奨金は出ない。 個人事業主の賞金稼ぎは相手を生け捕りが鉄則なのだ。 (頭狙っちゃだめだろ、俺……。ってて……) そして――久我の脇腹にはじんわりと熱が広がり、筋肉の表面に少々深めの亀裂が走ったことを自身に伝えている。 意識する前に身体が動いてくれたお陰で致命傷にはいたらなかったが、紙一重だった。 相手は本気で殺しにかかっている。殺すわけにはいかない久我にとって、これは圧倒的に不利な状況だ。 (しかし……。あいつ、いつ、動いた!?) 風だ――。 そう久我の脳裏に閃く。 醍醐が動いた瞬間を久我の目はまったく認識できなかった。ただ、一陣の風が吹き、同時に攻撃を受けている。 久我の身体は身についた経験で、風を感じた瞬間回避行動に出、それによって命をつないでいたのだ。 下手をしたら今の時点で、久我は二度、殺されていた。 「……エーヴァツ」 ぽつりと久我の口を突いて出る、賦与の名。 「ほう。良く知っているな、久我貴之。軽そうに見えるがその実かなりの勉強家か」 先ほどまで久我の立っていた位置に、ドーベルマンのようなその生徒は佇んでいる。 じっと見ていたはずなのに、その動きがまるで検知できなかった。 つまりそれは、恐るべき高速で動くことが可能なエーヴァツ種の賦与発現に他ならない。 「嘘だろ……、アンズーツにエーヴァツ……、賦与能力者がこんなに同じ学校に集まるなんて……」 「……何も知らないでこんな探偵まがいのことを続けているのか、久我貴之。愚かな」 「へ……っ、あの頭のおかしいボランティア野郎にいいように使われてる犬に言われたくねぇな」 ぴくりと、醍醐の表情が動いた。 それは微かな頬の震えだったが、明らかに怒りや苛立ちを表す類のものであり――、久我の背にぴりりと電気が走る。 だが醍醐の刀はぴたりと制止したまま動こうとはしない。代わりにこの二年生は、何かを思い立ったように言葉を吐き出していた。 「……同じ学校だから賦与能力者ばかりなのだ」 「……? どういうことだよ」 「ドーピングだ。俺も佐薙も金原も、みんなな。俺にはたまたまエーヴァツの薬が回ってきたに過ぎん。薬物摂取を切れば、あっという間に普通の人間に逆戻りさ」 「……、ドー……ピング? っ、バカ言うな。一般人がソムニアになる薬なんて開発も実験も何もかも禁止されてるはずだ。なにより成功例があるなんて聞いたことも……」 「勘違いするな。俺たちは所詮まがい物だ。成功例とは呼べん。本物を作り出す上で出来上がった出来損ないに過ぎない。だが――、もうその本物は完成しつつある」 「本物……」 「ソムニア洗礼薬――。おまえが考えていたそのものの薬だ。ただの人間を完全に覚醒させることができる」 「っ……! 冗談…………」 「だからこそIICRの隠し球が、この学園に入り込んでまで調査に当たっているのだ。おまえの追っている売春斡旋などその資金繰りのための端の端の些細な事案に過ぎない」 「っ……、IICR、だと?」 その名を聞き、ざわりと久我の全身の毛が逆立っていた。 ソムニアの中でも頂点に君臨する組織。 エリート中のエリート。 久我がどんなに手を伸ばしても届くわけもない世界。 久我の劣等感を掻きむしり、耳にするだけで口の中が苦くなる相手。 その連中が、学園に入り込んでいるという。 しかも自分が大物だと思い追い込みを掛けていた事件など、比べものにもならないさらなる大きな事件を追って。 嘘か本当かは確かめようがない。だが、この機械のような真面目さを持つ男が、こんな突拍子もない嘘をつくとも思えなかった。 「やはり何も知らないのだな。…………おまえは何故俺が浬生さんに付いているのか、疑問に思うと言った。だが――俺こそ疑問に思う。おまえは何故成坂に付いている? おまえに真実など何一つ話していないあいつに、本当に背中を預けられるのか?」 「な……に……? なにを、言ってる……」 ここに来て唐突に出てきた『成坂』という名前。この男は亮の何を知っているというのか。 そして自分は亮の何を知らないというのか。 ドキン、ドキンと久我の心臓が強く胸を叩き始め、汗が全身にじんわりと浮かぶ。 「ふん。知らなければ騙されていることにも気づかんか。……いいさ。何も見えていない哀れなおまえに教えてやる」 言った醍醐の口元が微かに残酷な微笑を浮かべる。 「成坂亮はゲボだ」 放たれた一言。 久我は少し、首をかしげた。 目の前の男が何を言ったのか、理解ができない。 だから久我は息もせず、声も出さず、次に醍醐が言う言葉を待つしかなかった。 そんな久我の様子を茶色い瞳で眺めながら、醍醐は久我の希望通り、さらなる言葉の切っ先を彼の心臓へ突き立てる。 「そして……あいつはIICRの人間だ。成坂は何もかも知っている。おまえの追っている売春斡旋など本部が歯牙にも掛けぬ些細な案件で、背後にはおまえなど手も足も出ない巨大な事件が蠢いていることも。――知っていて、成坂はおまえに何一つ話してはいないんだ」 「う……そだ。でたらめ、言うな。くそ犬っコロがっ。ゲボなんてそんじょそこらにいるわけねーだろうがっ! ……あいつは、成坂はマナーツだ! ……マナーツはIICRになんか入れねぇ……」 ようやく絞り出した声は掠れていた。 何から否定して良いのかわからなかった。何もかもが全部丸ごと出鱈目だと、頭の中で闇雲に子供のように腕を振り回すしかなかった。 「あれがマナーツだと!? 浬生さんのアンズーツをセラで振り切ったあいつのどこがマナーツだ。勉強家のおまえならわかるだろう。ゲボだから、成坂は言霊から逃れられた」 「……っ、そ、れは……」 カタリ――、と音を立て、一つ、久我の中でピースがはまる。 「ミスコンの会場が一瞬であの子供に掌握されたことはどうだ。あれがただの成坂の容姿の問題だと考えているなら、おまえは相当めでたい人間だ」 久我の中でぼんやりと放置されたままでいた淡い疑問がはっきりとした形を為し、一つ、また一つと、彼にも理解できる道理を形作っていく。 この事件から手を引けと、真剣に止めに掛かった亮の態度。この事件の大きさについてひどく気にしていた。 あれはIICRが裏で動いていることを知っていての言動だったのだろうか。 自分をマナーツだと言ったときの亮の態度。劣等感からあんな風に視線を泳がせたのだと思っていた。だが、逆だったのかもしれない。 自分より下にいる久我が得意げに吹聴している様に、亮が困惑していたのだとしたら。 がくんと、久我の膝が落ちた。 いくら心が否定しても、はまりすぎる理屈は久我の脳を一点へと導いていく。 『成坂亮は、嘘をついていた』 力が身体のどこにも入らない。 酷い倦怠感が砂袋のようにのっしりと、久我の背中に覆い被さっているようだった。 「久我貴之。俺は全てを知った上で浬生さんに付いている。だがおまえは違う。単に成坂のゲボにやられただけの滑稽な犠牲者だ。悪いことは言わない。おまえこそ成坂と組むのは考え直すことだ」 「信じ……ねぇ。そんなこと……、だって、ゲボは、IICRの奥深くに全員閉じこめられてんだ……。あいつは、外にいる。この学校の……俺の、そばにいるじゃねぇか……」 それでも久我は、最後の拠り所を口にしてみた。 久我が読んだ資料に寄れば、世界で七人しかいないゲボはIICR本部の奥深く――。セブンスという秘匿の施設へ収容されているはずなのだ。 日本の、こんなありふれた場所に超希少種のゲボがいるはずがない。 だが――醍醐の追い打ちは続く。 完膚無きまでに。 「よく知っているな。成坂も去年までは、セブンスにいた。……日々、GMD漬けでカラークラウンの玩具にされていたそうだ。行き過ぎた虐待で身体を壊した成坂は、今年になって特例として日本へ返されたと聞いている。もちろんIICRの監視つきでな」 GMD――。 その名を久我も聞いたことはあった。 ゲボたちを飼い慣らす為、中世の昔より使われ続けた禁断の薬だ。 あの夜のことを思い出す。 今となっては夢の中のように感じるあの幻想的な夜。 普段からは考えられない仕草で久我を求めた亮の姿が、久我の中へ甦る。 あの時亮が飲んだ薬――、あれはなんだったのか。 (GMD……中毒……) ふと、その言葉が浮かんだ。 GMD中毒のゲボがどんな様子になるのか――、興味本位で読んだ文献を久我ははっきりと覚えていた。 カタリ――、と、また音を立て、嵌めたくもないピースが一つ嵌っていく。 「……ち、がぅ。……なりさか、は、そんなんじゃ、ねぇ。あいつはそんなじゃ、なくて、ちゃんと、もっと、きれいで……、一生懸命で……、まっすぐで……」 形にならない想いがぽろりぽろりと久我の口からこぼれ落ちた。 力なく、ただこぼれ落ちていく。 久我の目はもう醍醐を見てはいなかった。 「なに、恥じることはない。カラークラウンたちすらおかしくさせる手練手管を持った魔性のゲボに、たかだか市井のイザ種が抵抗できるわけもないさ」 「カラー……クラウン……」 口に出してみても、久我にはその単語に現実感のかけらも感じられない。 そんな都市伝説みたいな存在と同じ世界に、成坂亮は生きているというのだろうか。 「俺は成坂亮が嫌いだ。あいつがきれい? まっすぐ? 全部がまやかしだ。セブンスであれが日々何をしてきたか、あいつ自身に聞いてみろ。あいつは自分のぬくぬくとした居場所を守るためなら何でもする究極の売女だ」 「っ、てめぇっ……」 それでもにらみ上げた久我に向かって、醍醐は言い放つ。 「おまえも頼んでみたらどうだ、久我貴之。友達なのだからやらせてくれ、と。――おまえが本当に大事な友人なのであれば、あいつは断れないだろう。それに――何十人もの相手をしてきたあの男娼にとって、おまえ一人くらいどうということもないだろうしな」 立ち上がり、久我は醍醐の襟首をつかみ上げていた。 だが、手が震える。 力を込めれば込めるほど、情けないほどに全身が震えてしまう。 今自分がどんな顔をしているのか、久我はわからなかった。 きっと泣いたような怒ったような、人として最低の醜い顔をしているに違いないと、それだけがわかった。 「んなこと、っ、するかっ! あいつはそんなじゃねぇっ! あいつが何者だろうと、昔、何をしていようと、俺は、成坂がっ! ……関係ねえっ! 関係ないんだ、全部っ、全部そんなの、知ったこっちゃねーんだっ!」 だが醍醐は機械のような冷たい顔で久我を眺めるだけだ。 「そう思うなら、それでいい。だが、つらくなったらいつでもうちの部に来い。ソムニアのおまえなら歓迎する。永遠に報われないおまえのその想いを、――浬生さんなら遂げさせてくれるぞ」 「っ、」 瞬間、久我の手から銃が投げ捨てられ、代わりに拳がうなりを上げて醍醐の頬を捕らえる。 だが、その拳は空を切り、勢い任せて久我の身体はよろけ、前方へと投げ出されていた。 受け身も取れず無様に床に這いつくばる久我の頭上に、見覚えのある黒鉄が突きつけられる。 醍醐の手に握られた久我の愛銃が、黒々とした口を作り主である久我の頭部へこすりつけていた。 「最後に、あいつの現保護者が誰だか、教えてやる。久我貴之」 「っ、聞きたくねぇ……、黙れ、黙れっ、糞野郎っ」 「同じイザならその悪名を知らんはずがあるまい。今、成坂を囲っている男の名は――」 「っ知らねぇっ、そんなヤツ、俺は、どうでもいいっ、黙ってろ!!」 久我の手が銃口を握りしめ、ぎりぎりと醍醐の手をねじり上げていく。 醍醐が引き金を引けば、久我はそれで命を落とす。現国の自習中、頭を打ち抜かれ、突然脳梁を教室にまき散らして死ぬのだ。 だがそんなことすら久我の頭にはなかった。 今、目の前のこの男の口を塞げるのなら、何でもする。この男の口から飛び出す聞きたくもない情報にこれ以上翻弄されたくはない。 銃が音を立てビキビキと凍り付き始める。 醍醐は微かに苦悶の呻きを上げ、咄嗟に銃を手放していた。 ばりっと嫌な音がした。 一度握りしめ、開いた醍醐の手のひらは朱く爛れ、じくじくと血の雫が浮かび上がりつつある。皮膚を一枚、綺麗に持って行かれたらしい。 「おまえのランクは知らないが、なかなか使える力じゃないか、久我貴之。――俺たちはいつでもおまえを歓迎する。IICRの鼻をあかし、成坂亮を好きにしたければ俺たちへ付くのが正解だ」 久我は耳を塞いだ。 耳を塞ぎ、目を瞑り、唇を噛み締めた。 世界が揺らぐ。 目が回る。 足下がふらつき、思わず尻餅をつきそうになったその瞬間。 久我は目を開けていた。 ぼんやりと見えた世界は横倒しの教室。 自習中だというのにネイルの手入れに余念がない彩名の姿が見える。 久我が見ているのに気がつくと、彩名は露骨に嫌そうに横を向き、再びネイルへビジューシールを貼り始める。 続いて聞こえてくる日常のざわめき。 身体を起こし床を見ると、いつの間にか落としてしまった教科書が開いたままの形で久我を見上げていた。 時計の針はまだ授業が始まって五分そこそこを指している。 教室には亮の姿が見えない。 腹部の鈍痛に手をやれば、左脇腹の辺りにじんわりと生ぬるい染みが広がっている。 久我は手についたぬめりを机の端で拭うとノロノロと床の教科書を拾い上げ、朱く染まったシャツを隠すようにカバンを抱えて席を立っていた。 とにかく、一人になりたかった。 亮の戻ってくるであろうこの教室にはいられなかった。 何もかもがいっぱいいっぱいで、破裂しそうだと思った。 今朝の食堂での出来事が、遥か遠く昔のことのように色を失っていく。 こんな季節だというのになんだか寒かった。 窓の外では重くたれ込めた鉛色の雲から、大粒の雨が降り始めていた。 |