■ 4-45 ■





 そうだ、あの日も雨が降っていた――。
 セラから戻り、部室のロッカーへ背を持たせかけたままの醍醐が最初に思ったこと。
 薄暗い部室にある小さな窓には、パチパチと音を立て大粒の水滴が叩き付けられては垂れていく。
 そのくせ、妙に空は明るいように見えた。
 部室の時計を確認すれば、セラ潜行後まだ五分少々しか経っていない。
 醍醐はもう一度目を閉じた。
 勝手なことをしてしまった――、と思った。
 あの人の命令は「スクールセラに進入してきた成坂亮の仲間を確認し、必要とあらば追い返せ――」とのことだけだったのだ。
 醍醐ももちろんそのつもりだった。
 だが――、成坂亮の仲間だというその生徒に出会い、その言葉を聞き、そしてその目を見た瞬間、己でも信じられない衝動が醍醐の中に生まれたのだ。
 何も知らない愚かでくだらない意見。
 成坂亮を信じ切ったあの眼。
 苛立ちで腹の奥が沸騰した。
 そしてその沸騰は醍醐を自分でも思わぬ方向へ動かした。
 醍醐は無知な敵に全てを教え、その敵をこともあろうか仲間へ誘ったのだ。
 叱られるだろうか――、と考え、それはないなと苦笑を浮かべる。
 東雲は醍醐に対して、いや、誰に対しても怒りを持ったりしない。
 あの誰が見ても酷い母親に対しても、自分の人生を滅茶苦茶にした有清に対しても。
 怒りも哀しみも喜びも、あの人が真に感じることはないのだ。
 だから何が起きてもこの先ずっと、続くと思っていた。
 哀しくとも穏やかな日々が、醍醐の死ぬその日まで。
 だが――、仄明かりに照らされた絶対の道は突然消え失せ、現れたのは嵐の吹き荒れる荒野。
「成坂亮――」
 あの一年生が現れてから東雲は閉じていた目を開き、投げ出していた手を動かしたのだ。感情は息を吹き返し、東雲は人に戻ったようだった。
 それは良いことのようにも思える。
 しかし醍醐は嫌な予感しかしなかった。
 成坂亮はあらゆる秩序を狂わせる始まりの果実。
 世界の規律を覆す逆巻きの螺子。
 他人の全てを食い尽くす奈落の底。
 それも、自分には何の責任もないような顔をして、甘く近づく最悪の無垢だ。
 だから醍醐は成坂亮が嫌いだ。
 目を閉じていても、雨の音は聞こえる。
 それが妙に心地よかった。







 そこは酷く寒かった。
 夏が終わったからだと彼は思った。
 あんなにうるさかった蝉たちの声を、ここ数日聞いていない気がする。
 だから夏は終わり、秋が来て、夜になればここはこんなにも寒い。
 震えながら膝を抱え、すりきれた小さな膝掛けを引き寄せてはみたが、埃っぽいだけで期待するほどの暖かさなど提供してはくれない。
 コンクリートの床へ段ボールを敷いただけのその寝床は、貪欲に彼の体温を吸い取っていくようであった。
 ちらりと横を見れば、同じように膝を抱えて震える少年。自分と同じ小学校の制服を着ている。
 一年生を表す臙脂の制帽ラインと襟章も一緒だ。
 しかし名札はない。
 防犯対策のため、名門と名高い彼らの小学校では校外での名札着用は禁止されている。
 だから二人とも下校時に名札をはずし机の中へとしまってきた。
 これはいつものこと。
 教科書もカバンも携帯電話もない。邪魔だからと机の上に置いてきてしまった。
 これはいつもと違うこと。
 だから助けすら呼べない。
 全部、横にいるこの黒髪の少年が悪いのだ。
 彼が今日に限って悪戯心を出し、迎えの車を置き去りにして河原の方から帰ろうなどと言い出さなければ、彼らはここでこんな状況に陥ることなどなかったに違いないのだから。
 彼は黒髪の少年に、自分の引き寄せた膝掛けを無言で押付けた。
 自分が寒いのだから彼も寒いに違いない。そして、その場合彼は自分よりこの黒髪の少年を優先させるように、両親からきつく言い渡されてきた。
 彼がこうして名門の学校へ通えるのも、――いや、きちんとした食事をとれるのも、暖かな寝床で休めるのですら、全部がこの少年の両親のお陰なのだからと、父も母も日々彼に言い含めてきたのだ。
 だから彼は膝掛けを譲った。
 幼い彼にとってそれは理不尽でしかない。
 だが仕方のないことだった。
 両親が言うのだ。
 少年は日本でもユビオリのメイケのゴシソクであり、彼はその家にダイダイ仕えるシヨウニンの子供なのだから、と。
 よく分からないが、頭が良くて何でも出来る坊ちゃんは、自分などよりこの世にとって貴重な存在なのだろう。
 だが、黒髪の少年は不機嫌そうに彼の譲った膝掛けを、押し返してきた。
「そんな汚いのいらない」
 小さな声でそんな悪態までつけて。
 気を利かしたつもりだったのに、こんな風に言われて少し腹が立った。
 こんな状況で、綺麗とか汚いとか言える坊ちゃんは、やっぱりメイケのゴシソクなのだと思った。
 そして突き返された膝掛けにくるまる。
 やはり無いよりは随分と暖かい。
「誘拐って思ってたよりどうってことないね」
 坊ちゃんが言った。
 そう言った声は少し震えていて、やっぱり寒いんだな、と彼は思った。
 薄暗い倉庫の一角に仕切られているらしいこの小部屋は、窓もないし、たった一つある薄い合板の扉もがっちり鍵がかかっていて、逃げ出す隙間などどこにもない。それでいて隙間風ばかりがうるさいのだ。
 寒いし逃げられないし、こんな状況なのに「どうってことない」などという坊ちゃんは、メイケの子だからきっとバカみたいにノーテンキなんだと思う。
「今はスリルあるけど、朝になったらきっと警察が来ちゃうんだろうな。……三日くらいは誘拐されてたいよね、学校さぼれるし」
「学校の方がずっとましだよ! だってオレたち、殺されちゃうかもしれないのに」
「そんなわけないよ。だって、かぁ様が助けてくれるもん」
 坊ちゃんに言われ、奥様の顔を思い出す。
 美人で、いつもきりっとしてて、だけどなんだか恐い女の人だ。確かに奥様なら、こんな誘拐犯なんて命令一つで倒してしまいそうだと思う。
「朝になったらたぶんまた学校だよ。めんどくさい」
 口をとがらせ不平を言う坊ちゃんの言葉に彼もなんだか力が抜け、小さな膝掛けにくるまったままうとうとと眠りへ誘われていく。
 明日も学校だというなら、眠っておかなくてはならない。
 何しろ彼は一日中、このわがままな坊ちゃんの命令を聞かなくてはいけないのだから。

 だが、夜中に事態は一変した。
 ヒソヒソ、ヒソヒソ、と、扉の向こうで声がする。
 すきま風の寒さで目を覚ました少年は、膝掛けをさらにぎゅっと握りしめながらその声に耳をそばだてた。
 誘拐犯たちの相談事だ。
 ちらりと目をやれば、坊ちゃんはこちらに背を向けたままピクリともしない。どうやら熟睡しているらしかった。
「どうするんだ、こっちは二人も連れて来ちまってんだぞ」
「けどあの母親、まったく気がない返事しかしなくてですね……。どうも長男がいればそれでいいみたいな、なんというかそんな感じでして……」
「んなわけあるかっ! ガキさらわれて平然としていられる親がいるわけねぇだろ。なめられてんだよ、俺らがっ。本気じゃねぇと思われてんだ」
「はぁ、なるほど。それは、……あるかもしれないですね」
「だったら本気、見せてやるさ。そうすりゃ一億だろうが十億だろうが、あの家ならポンと出す」
「殺るんですか? ガキを。でも殺しちゃったら金は手に入らないんじゃ……」
「バカか。せっかく二匹もガキ捕まえたんだ。使わねぇ手はねぇ。確かどっちか一人は使用人のガキだったろ。そいつの耳でも鼻でもそいで送ってやれば、強気の母ちゃんだって次は我が子かと泣きながら金を出すさ」
 男たちのする会話が何を意味しているのか、少年にも理解ができた。
 つまりやっぱり坊ちゃんは特別で、自分は坊ちゃんを助けるための道具として死ぬことになるのだ。
 いや、耳や鼻をそがれて、死ぬのかどうかは彼にはわからなかったが、きっと死ぬほど痛いことにかわりはない。
 がちゃがちゃと無骨な音がして、鍵が開けられ、男たちが顔を出す。
「おい、ガキども。起きろ」
 少年は頭からすっぽり膝掛けをかぶり、絶対顔を出す物かと縮こまる。
 それしかもう、彼が抵抗できる術はなかった。
 だが足で乱暴に蹴り上げられ、強い力で膝掛けを引っ張られて、少年の防御壁はあっさりと取り払われてしまう。
 横を見れば坊ちゃんも起こされたようで、眠い目をこすりながらぼんやりと男たちを見上げている。
「おまえら、どっちが使用人のガキだ。あ?」
 手を挙げなくてはいけない。
 少年はそう思った。
 だってそれが彼の役目だから。
 だが身体が言うことを聞かない。
 耳も鼻もそがれるのは絶対に嫌だ。
 ガクガクと震え、凍り付いたみたいに手足が痺れ、指先一ミリだって動こうとしない。
 坊ちゃんは状況がつかめていないようで、眠そうな顔で男たちを見上げるばかりである。
「俺たちだって鬼じゃねぇ。必要なのは東雲の家のガキだけなんだ。使用人の子供に用はねぇ。だからそいつだけ逃がしてやろうと思ってな」
 身体が大きくひげ面の男が、黄色い歯をむき出して笑った。
 嘘だ――。
 この男が言っていることは、正反対だ。
 東雲の子供は生かされて、使用人の子供は殺される。
 わかっている。
 わかっていて、彼は手を挙げなくてはいけない。
 ビクンと少年の指先が動き、その機械のような義務感が、まるでプログラムでも発動させたかのように、彼の手を上へと持ち上げていく。
「僕が使用人の子の、醍醐さとりです」
 だが――。
 唐突にそんな声が、少年の横で上がっていた。
 ぎょっとした顔で手を引っ込め隣を見る。
 そこには当たり前のような顔をした坊ちゃんが、手を挙げていた。
 光の加減かその顔色は白く、唇が黒いようにさえ見えた。
 どうしよう――。どうしよう――。どうしよう――。
 この考えも付かない状況へどう対処して良いのか、彼の頭はパニックに陥るばかりだ。
 しかし、ただ目を見開き、坊ちゃんと男の顔を眺めることしかできない彼の前で、事態はどんどんと進行していく。
「僕だけ、逃がしてくれるって、本当?」
「ああ。逃がしてやるよ。こっちへ来な」
 坊ちゃんが強張った顔で笑った。
 そうか、と少年は思った。
 坊ちゃんは眠っていたから男たちの話を聞いていなかったのだ。
 だから男の言葉をそのまま信じてしまった。
 自分だけ助かろうと、彼の主は嘘をついた。
「……悪いな、りおう。でもきっと、りおうもお母さんが助けに来てくれるよ」
 そう言って坊ちゃんは立ち上がる。
 使用人の振りをして。
 醍醐さとりの振りをして。
 去り際に、彼の主は一度だけ、ぎゅっと少年の手を握った。
「ごめんな」
 小さな声で、そう聞こえた。
 少年は何も言えなかった。
 自分だけ助かる為に、少年を犠牲にする主の謝罪。
 だけどそれは真逆で。
 バカでノーテンキな坊ちゃんは、何も知らずに殺されに行く。
 使用人なら。家来なら。きっとここで止めなくてはいけないのだ。
 だが、少年は何もしなかった。
 何もせずに彼の主の背中を眺めていた。
 開いた扉の向こうには、大きな木製の作業台が見えた。
 そしてその前まで引っ張られていった坊ちゃんは、台の上に押付けられる。
「逃がしてやろうとは思うんだけどよ、少しずつな」
 男がニヤニヤと笑う。
 坊ちゃんは意味が分からないようで、ただぼんやりと男の顔を見上げていた。
「まずは切りやすそうなその細っせぇ腕を、親んとこへ返してやるぜ」
 ちかちかとやかましい蛍光灯の下、坊ちゃんの腕は台の上へ長々と伸ばされもう一人の男に押さえつけられる。そこで初めて事態を察したように、小さな身体が暴れ出す。
 ひげ面の男は、少年が見たこともない大きな包丁みたいなものを持つと、坊ちゃんの白い手にあて、切れ味でも試すようにゆっくりと引いていった。
 真っ赤で綺麗なものがとろりと流れ出す。
 そして悲鳴が上がった。
 少年が聞いたこともないような、喉の奥を搾ったような悲鳴。動物の鳴き声のようにさえ聞こえる。
 だがその鳴き声には時折「痛い」「やめて」と、人間の言葉が混じるのだ。
 男は楽しそうに笑っていた。
「ガキは本当にバカだな。俺たちが必要なのは東雲のお坊ちゃまだけなんだよ。使用人の分際で、自分だけ助かろうとする卑しいガキが、ろくな大人になるわきゃねーんだ。天罰だよ、天罰!」
 また、包丁が強く押し込まれる。
 ぎゃっ――という鳴き声が聞こえ、何度も「やめて!」と懇願の絶叫が上がる。
 少年は耳を塞いで震えながら、どうして坊ちゃんは言わないんだろう。どうして坊ちゃんは自分の本当の名前を言わないんだろう――と、そればかり思った。
 言えば助かるかもしれないのに。
 だって本当は、坊ちゃんが東雲りおうで、彼が醍醐さとりなのだから。
 しかし、頭の良いはずの坊ちゃんは、助かるはずの呪文を唱えようとしない。
 何度悲鳴を上げても、何度泣き叫んでも、誰にでもわかるその簡単な一言を言わないのだ。
 そしてさとりは顔を上げた。

 『ごめんな』

 そう言った彼の主の小さな声。
 さっきのあれは、自分だけが助かる為の謝罪などではなかったのではないか。
 きっと、たぶん、こんなことに巻き込んでしまったさとりに対する、心からの謝罪だったのだ。
 だとしたら――。
 だとしたら、坊ちゃんは、永遠に。腕を切り落とされても、たとえ死んだとしても――自分の名前など言うはずがない。

 ドキン――と。さとりの心臓が痛いほど脈打った。
 目の前の光景が、ぐらぐらと沸き立つお湯の中にあるように見えた。
 ひゅっ、とさとりの喉が鳴る。
 力のない足がふらりと立ち上がった。
 そしてさとりは喉から意味のない叫びを迸らせ、男たちへと突っ込んでいく。
 頭から男の脇腹へ激突し、はじき飛ばされる。
 それでも立ち上がり、また突っ込む。
 怒声が上がり分厚い包丁の逆刃で何度も殴りつけられる。
 痛いとか、恐いとか、わからなかった。
 ただ、困ると思った。
 坊ちゃんの――、りおうさんの腕がなくなったりしたら。りおうさんが死んでしまったりしたら。
 そしたら明日からさとりは何のために生きていくのか。
 
 そうだ。
 親に言われたからじゃない。
 使用人の子供だからでもない。
 自分が醍醐さとりとして生まれたのはきっと。
 東雲りおうを守るため。
 
 言葉でなく感覚で、さとりはそう理解した。
 あとはもう無茶苦茶だった。
 あいつを倒さなくてはいけない。
 りおうさんを傷つける、あの悪魔みたいな男たちを倒さなくてはいけない。
 何度も殴られ、気が遠くなるが、それでも腕を振り回す。
 遠くで坊ちゃんの自分を呼ぶ声が聞こえた。
 そしてガラスの割れる音。
 たくさんの大人たちの靴音。
 甲高く響くサイレン。
 細切れのように映る世界の中、窓の外に赤い光がグルグルと回り、暴れる少年たちの身体は今度こそ暖かな毛布にくるまれる。
 外では雨が降っていた。
 救急車に乗せられながらさとりはそれを見上げる。
 大粒の雨が廃工場のトタン屋根を叩き、不思議と安らぐ音を立てていた。
 彼が自分の役目に気づいた日の雨は、夏の名残の匂いがした。







 何かが身体へ掛けられた柔らかな気配で、醍醐は目を覚ました。
 見上げれば起こしたかと東雲が苦笑を浮かべている。
「床に寝てちゃこの時期でもさすがに風邪を引くよ、覚」
 普段部室で使われている薄っぺらい毛布はたばこ臭かったが、それでも醍醐はありがたくそれを膝へ掛ける。
「あなたはいつでも俺に毛布をくれる役だ」
「……何の話だ?」
 きょとんとした顔で見下ろす東雲の左腕には、今もひときわくっきりと一筋、古い傷跡が見て取れる。
 母親に刺された十八カ所の傷よりさらに深いそれは、これからも一生この白い腕から消えることはないのだろう。
 醍醐の視線に気づいた東雲は、ますます苦虫をかみつぶしたような顔になり、「古い話を」と自らの腕をそっと撫でた。
「もう忘れてくれ。僕だけ助かろうとして失敗した最悪にかっこわるい事件だ」
「……いいですよ。そういうことにしといてあげます」
 あれからこの話を持ち出すたび、東雲はそうやって毎回言い逃れる。
 だから醍醐もそのうち深くは追求しなくなっていた。
 主の口から聞かずとも事実を彼は知っているのだから、東雲が何と言おうと大した問題ではないのだ。
「ねぇ、覚」
 だがこの日はいつもと少しだけ違っていた。
 言い訳に続きがあった。
 雨に打たれる窓ガラスを眺めながら、醍醐の横へ東雲が座る。
 あの日と同じように。
「僕はさ、死にたがりだから。ホントはさ」
「……そう、ですね」
 死にたがり――という言葉は東雲浬生にぴったりだと醍醐は思った。
 だからきっと彼に死は吸い寄せられてくるのだ。
 小さな頃から漠然と感じていたイメージ。
 彼を包み込む大いなる諦めと絶望は、彼にとって「生きること」と「死ぬこと」を同じ蜜の味に粉飾して見せているのだろう。
 だからこそ彼は幼くして、あんなに恐ろしい決断を自らに下すことができたのかもしれない。
「――だから、おまえは長生きしてくれるか? 僕がまた、いつここへ戻ってきてもいいように」
 ぼんやりと世間話でもするように呟かれた言葉に、醍醐は一度ゆっくりと瞬きをし、柔らかに微笑んでいた。
「――はい。」