■ 4-48 ■




 目を開けた。
 見えたのは暗闇。
 膝を抱えかがみ込んでいた顔を上げれば、傍らに積み上げられたパイプ椅子が鈍く光っている。
 亮は手の甲で何度も唇を強く擦ると、目を伏せ、もう一度唇へ手をやった。
 口の中でじゃりっと音がしたように思え、思わず唾液を飲み込んだ。
 血の味がする。
 きっと久我の血だ。
 頭の中がぐちゃぐちゃだった。
 わけもわからず涙が溢れてくる。
 何が起きたと言うんだろう。
 いったい、何がどうなって、今自分はこんな風に情けなく泣きだしているんだろう。
 亮はふらりと立ち上がると、パイプ椅子の壁をなぎ倒すように払う。派手な音をたて、ガシャンガシャンと目の前に安い輝きが崩れ落ち、亮の行く手を塞いでいく。亮はめいっぱい足を振り上げるとさらにその壁を蹴り崩し駆けだしていた。
 校舎を飛び出し、校庭を突っ切っていく。
 雨は激しくなっていた。
 こんな天気では昼休みの校庭に人影はない。
 前が見えないほどに強く降る雨も、足を踏み出すたびにしぶく泥水も、亮には気にならなかった。
 怒りなのか、哀しみなのか、羞恥なのか、絶望なのか――。
 ただぐちゃぐちゃに渦巻いた何かが猛烈に膨れ上がり、溢れ、爆発するみたいに吹き出していた。
 とにかくここから逃げ出したい――、今すぐ違う場所へ行きたい――、何の解決にもならないであろうそんな衝動が否応なしに亮の全身を突き動かす。
 走る。
 走る。
 走った。
 信号を渡り、角を曲がり、道路を横切り、知らない路地をいくつも走り抜ける。
 降り付ける雨の塊で、目の前は灰色。
 何も見えやしない。口の中は血の味が雨に滲み、いつまでも嫌な苦みが喉の奥にわだかまる。
 そうして――どのくらい走っただろう。
 気がつけば住宅街の中をとぼとぼと歩いている自分に、亮は気づいていた。
 空を仰げば灰色の雲が重くたれ込め、目を開けていられないほどの雨粒が未だ激しく顔を叩く。
 真っ暗だな――と、そう思った。
 きっとこの世から太陽は消えてしまったのだ。
 寒さが身体を襲い、亮はふらふらと道の脇に建つ小さな神社の境内へと入っていく。
 街の中にあって別世界のようにこんもりと木々が生い茂るそこで、亮は一度息をついた。
 雨に醸されむせかえる土と草の匂い。
 薄暗い境内の奥にある紅色のお社は、濃緑の中に溶け込むように佇んでいる。
 亮はお社の裏へ回り込むと、屋根の下、少しだけ濡れの少ない石段へ座り込む。
 背中を柱へ預けると、ひんやりと湿った木の感触がする。
 ぐっしょりとぬれたシャツが肌に張り付き気持ちが悪い。
 亮はシャツを脱ぐと、ぎゅっと絞り上げてみた。冗談みたいに大量の水がぱたぱたと石段を濡らしていく。
 幾分か軽くなったシャツを、社の手すりに無造作に投げ出す。
 なんだかすごく疲れてしまった。
 目を閉じると久我の顔が浮かんだ。
 だから亮は目を閉じるのをやめ、うつむいた。
 ――ニャー。
 不意に聞こえた小さな声。
 見れば社の軒下に、薄汚れた子猫が一匹。濡れた黒い毛がぴったりと肌に張り付き、痩せたからだが面白いように貧相に見えた。
「先客がいたんだ。……わりぃ、ちょっとだけ休ませてくれよ」
 黒猫は大きな緑の瞳で亮を見つめ返すと、もう一度「にゃー」と鳴いた。
 まるで言葉が分かっているようなその対応に、亮は少しだけ微笑む。
「おまえ、この辺りの野良? こんな雨ん中一匹なのか?」
 黒猫は小さく首をかしげると、とことこと歩き、少しだけ亮に近づいた。
「そか、ぼっちか」
 息をつくと、濡れた髪から額にしたたり落ちる雫を手の甲で擦る。
「オレと一緒だ」
 自虐的な笑みが口の端に登り、声に出して笑ってしまう。
 その声は乾いていて、他人が笑っているように遠くに聞こえた。
「ふへへ……っ、はは…………、やらせろって、あいつ、何考えてんだっつーの。相変わらずバカ丸出しっつーか、マジ無理だって、友達だからやらせろって……、んなの……、オレ……、っ、へへ……、…………やらせて、やれば……、良かった、かなぁ…………っ
 涙が溢れていた。
 それが嫌で唇を噛み歯を食いしばるが、情けなくへの字口になるだけで、壊れた水道みたいに涙は溢れ続ける。
「……っ、友達、な、んだ……。あ、いつは、とも、だちで、……なかま、で、いっつも、バカ、で、……、たのし、くて……、っ、…………、や、らせてやって、たら、……ともだち、の、まんまで、いられた、のかなぁ……っ、……」
 引きつる喉で呟く亮の声は雨の音にかき消されていく。
 ふとすぐ横で「にゃー」と声が聞こえ、投げ出された亮の右手を、小さなぬくもりがざらりと舐める。
 涙で揺れる視界に、見上げる子猫が映った。
 食いしばっていた唇が緩み、亮は何度も引きつった息を吸い込み、泣き出していた。
 声が漏れても、雨の音でかき消されていく。
 だから亮はうつむいたまま泣き続けた。
 なぜ泣いているのか、相変わらずぐちゃぐちゃでわからなかった。
 ただ胸の内から熱くて苦くて酸っぱい何かが溢れ出し、止めようがなかった。
「し、られ、ちゃったんだ……、オ、レが……、ゲボだって、……こと……。っ、……オレ、が、…………せ、ぶんす、で、なに、してたか……っ。…………オレ、が……さい、てーに、汚い……、き、しょぃ……やつ、だって……、ぜ、んぶ、あいつ、に…………しられ、ちゃた……んだ……っ、」
 黒猫は困ったようにもう一度鳴くと、ぺろりと亮の手を舐める。
「ど、しよ……。ど、したら、いい?」
 言いながら亮にも分かっていた。
 もう全部が起こってしまったことなのだと。
 零れたミルクは元には戻らず、割れた器は割れたまま。
 時間の流れは神のように無慈悲で、絶対的な不可逆。
 亮がセブンスでされていた事実は変わらず、それを久我に知られたことももう引き返せない。
 見せたくなかった自分。
 汚くて、いやらしくて、気持ち悪い自分。
 周りのクラスメイトたちとは違う、きっと赦されない自分。
 そのくせ普通の高校生みたいな顔をして、はしゃいでいた自分。
 全部、全部、消してしまいたかった。
 それを久我に知られてしまった。
 知られてしまったのだ。
 初めてのソムニア仲間で、対等に張り合って対等にバカをやれる友達。
 夜半過ぎまでソムニアとしての夢を語り合ったし、くだらない話で朝を迎えたこともしょっちゅうだった。
 久我のタイプは足の綺麗なお嬢様で、将来の夢は何人もの法律家やソムニアを抱える国際的なソムニア事務所の経営で。
 その時はおまえを雇ってやってもいいと、あいつは偉そうに胸を張った。
 おまえの会社なんか絶対はやらないからお断りだと言うと、あいつは本気でムッとしてそんなことないと力説し始め――亮はその顔が面白くて笑い転げた。
 でも本当は、ちょっとそれも楽しそうだと思っていた自分がいた。
 暗くて恐くて何も見えなかったソムニアとしての道に、ぽつぽつと灯りが点り始め、次第に夜祭りのように賑やかにぴかぴかと亮の中で輝き始めていた。
 ソムニアでいるのも、もしかしたら悪くないのかもしれない――。今まで考えたこともなかった思いが胸の片隅に小さく生まれた。
 だが。
 だがもう、灯りは消えてしまった。
 亮の前に続くのは、ゲボとしてのあいも変わらぬまっ暗な道。
 祭りの後の夜道は前よりいっそう暗く、寂しく、恐ろしく――前へなど進めそうにない。
 歩みは止まり、亮は立ちつくす。
 自分はゲボで、それを知った久我は亮を拒絶した。
 いや、拒絶されただけではない。
 久我は亮を蔑んだ。
「っ、……、わか、てる。……んなこと、言われ、なくても……。っオレが、セブンスで、してきた、こと……、ォレが、どんだけ、汚い、か……っ、ォレ、が、いちばん、知ってる……っ、」
 ぎゅうぎゅうと胸が痛い。
 口の中に血の味が蘇る。
「だ、からって……、なんで……、んな、こと、言うんだよっ……、なんで……、あんな、こと、すんだよっ……、……っ、サイテーだ、あいつ、……まじ、サイテーだっ…………っ、くが、なんか、も、……しら、ねぇっ、も、あんな最低なヤツ…………っ、」
 吐き捨てるように言ってみる。
 そうだ――、あんなことを言うヤツと友達でいるなどこちらから願い下げだ。そう何度も心の中で唱えてみる。
 だが、胸の痛みは止まらない。
 痛くて、痛くて、苦しくて、亮は膝を抱え込んだ。
「にゃー……」
 黒猫の声も聞こえないかのように、亮はそのままの姿勢でうずくまったまま動かない。
 泣き声も次第に消え、ただ雨の音だけが響く。
 黒猫も諦めたように亮の膝元で丸まった。
 と。
「っ…………。………………、最低、なのは…………、ォレ、だ…………」
 かすれた小さな声が、ぽつりとこぼされた。
 黒猫が顔を上げる。
 いつの間にか亮は顔を上げ、泣きはらした目で黒猫を見つめていた。
 不思議そうな顔で首をかしげる子猫の頭を、亮はそっと撫でる。
 黒猫は嬉しそうに「にゃー」と鳴き、その手に頭をこすりつけた。
「オレが、嘘、ついたから……。マナーツだって、言ったから……。だから……、…………、だから…………」
 最後に見た久我の顔。
 思い出すだけで胸の内側がキリキリと痛む。
 怒ったみたいな、泣いたみたいな、心が無くなったような――亮の見たことのない顔。
「…………あんな顔、させちゃ、だめ、だ。…………、きっと、友達に、あんな顔させたら、だめ、なんだ…………」
 亮が自分の嫌な部分を隠すために言った嘘。
 それが久我にあの顔をさせたのだ。
 だから――
「わるいのは…………」
 もう一度優しく猫の頭を撫でる。
 黒猫は目を細め、ごろごろと喉を鳴らした。
「……なぁ、……オレ、どうしたらいい?」
 見上げる子猫に問いかける。
 しかし子猫は答えず、代わりに小さくあくびをした。
 亮は空を見上げた。
 雨は止む気配がない。
 それでも亮は戻らなくてはならない。
「あいつが違うって言っても、オレは友達だから。あいつが嫌だって言っても、オレは勝手に続けるしかないんだ」
 亮の思いつけたことは、それしかなかった。
 一人で東雲たちに対抗するなんて、到底できることではないと思えた。
 だからきっと久我は無茶をするに違いない。
 久我に嫌われても、鬱陶しがられても、亮は自分にやれるだけのことをするだけだ。
「おまえ、どうする? 一緒に来るか?」
 丸まった小さな身体に問いかけると、黒猫は立ち上がりゆっくりと大きく伸びをした。
 そしてトコトコと、来たときと同じように無造作に、社の軒下へと戻っていく。
 一度だけ振り返り、黒猫は「にゃー」と鳴いた。
「そっか。そうだな。……おまえにはおまえの場所があんだもんな。……オレもオレの場所へ、戻らなきゃな」
 亮は一度ぐしゅりと鼻をすすると立ち上がり、引っ掛けてあったシャツを羽織る。
 濡れたシャツはひんやりと冷たく肌に張り付いたが、亮は構わずボタンを留めた。
「…………てか、オレ、帰れるのか? ここ、どこだよ」
 そこで初めて亮は首を捻っていた。
 背後で黒猫が呆れたように一声鳴いた。







 部屋に帰る頃にはすでに夕方だった。
 亮を迎えたのは薄暗い部屋。
 もう夏だというのに、分厚い雨雲のせいで窓から差すのはぼんやりとしたグレーの光だけだ。
 哀しいようなほっとしたような不思議な気持ちを抱えたまま、亮はのろのろとバスルームへ向かう。熱いシャワーでも浴びればこのふやけた頭ももう少し回るようになるかも知れない――そう思った。
 だが、そんな期待もむなしく、シャワーを出てギシリとベッドへ座った亮は、濡れた髪もそのままに仰向けに倒れ込むしかなかった。
 電気を点ける気も起きない。
 階下の食堂から聞こえる寮生たちのはしゃぎ声と夕食の良い匂いが、別世界からのもののように思え、亮は大きく息を吸い込んだ。
 久我のベッドは朝出て行ったときと同じに乱れたまま。カバンも見あたらない。おそらくあれからここへは戻ってきていないのだろう。
 外ではまだ雨が大きな音を立てていた。
 階下の音が静かになり、夜半を過ぎてからも亮はぼんやりとそれを聞き続ける。
 部屋のドアは未だ開けられない。
 今夜、久我は戻ってこない気がした。
「どこにいんだよ、あのバカ……」
 久我が別れたと言っていた彼女の内の誰かの所か。それとも亮の知らない久我の実家か――。どちらにしても、ちゃんと屋根のあるところで寝てればいいなと思った。
 元気そうには見えたが腹の傷は少々深そうで、出血もまだ続いていたようだったからだ。
 カーテンの向こうから、やんわりと月明かりが差し込み始める。
 そろそろ雨もあがるのかもしれない。
 それでもやはり亮は眠れず、ごろんと寝返りを打った。
 明日、学校に久我は来るだろうか。
 もし来たとしたら、何と言って話しかけたらいいだろう。
 神社の黒猫には大見栄きった亮だったが、実際その瞬間のことを考えると何も言葉が浮かんでこない。
 何度も何度も寝返りを打ち、タオルケットを抱え直し天井を仰ぐ。
 そうこうするうちに安物のカーテンの向こうからは白々した光が差し始め、ドアを開け閉めする音がそこかしこから聞こえだしていた。



 結局一睡も出来なかった亮は、眠い目を擦りながら食堂へは降りていったものの、食事はまったく喉を通らなかった。
 ぬるい麦茶を少し口にしただけで、朝の準備もそこそこに学校へと向かう。
 寮に帰ってこなくても、授業には顔を出すだろう――。そう考えれば久我に会うには教室へ向かうのが最良の方法のように思えた。
 だが教室へ入って見回した亮は小さく肩を落とす。やはり求める姿はここにも居ないようだった。
(あいつ、学校も休む気なのかよ……)
 寝不足でぼんやりとした頭のまま亮は席へ着き、無言で目の前の久我の席を見つめる。
 いつも頼まれもしないのに馬鹿話を振ってくる久我の姿が一瞬よぎった。
 亮が思わず目を伏せ視線を外したその時、授業開始のチャイムが鳴る。
 と、同時に教室へ入ってくる一人の影。
 ドキン――と亮の胸が鳴った。
(っ、来た!)
 久我だ。
 昨夜からずっと考えてきたのだ。とにかく話しかけようと亮は席を立つ。が――、久我に続くように担任が現れ、教室はあっという間にホームルームモードへと移行していた。亮が声を掛けるタイミングはあっさりと消失してしまう。
(次、次だ。先生が出てったら、すぐおはようって言うんだ。そんでゴメンって謝って、おまえが嫌でもオレは友達だからって言うんだ)
 一晩考えに考えて出た亮の結論はたったこれだけだった。
 言われたからと言って久我が好意的な応えを返してくれるとは限らないし、それどころかまたケンカに発展してしまうかもしれない。
 それでも伝えないよりはましだ。
 一人必死にこの先の行動を考える亮の前で、担任は最近の自転車マナーの悪さについて、決められたとおりの注意事項をのんきに語っている。
 だがそれら全てが亮の耳にはまったく日本語として入ってこない。
 ただ胸がどきどきとうるさく、呼吸が苦しい。
 目の前に座る久我の背中がなんだかまともに見られない。
 担任のよくわからない話はいつ終わるのだろう。すぐに終われとも思うし、もうちょっと話しててくれとも思う。
 だが時間はいつもと変わらぬ調子で流れ、チャイムは鳴り担任は出席簿で仰ぎながらだるそうに教室を後にする。
 亮は弾かれたように立ち上がり、少しうわずった声ですぐ前の背中の名を呼んでいた。
「っ、久我、おはよっ」
 すると久我は立ち上がり、見下ろすようにちらりと視線をよこす。
 だがそれも一瞬のこと。久我はカバンを手に取るとさっさと歩き始める。
「久我、あの、さ。ゴメン! でもオレ、おまえんこと友達……」
 だがそれから一度も久我の視線が亮へ向けられることはなかった。
 そして亮の言葉の全てが終わる前に、久我は教室を出て行く。
 亮のことなど見えてさえいないかのように。
「…………。」
 出かけた言葉の終わりを飲み込み、亮はうつむいた。
 ケンカどころか、亮は否定的な言葉すら掛けてもらえなかったのだ。
 追いかけていつもみたいに飛びついて捕まえてやろうかとも思った。
 だが、足が固まったように動かない。
 昨日と今日は全然違う。時間はずっと続いていて、地球は変わらず廻っていて。
 それなのに昨日と今日はぷっつりと連結が外れてしまったみたいに違っている。
 遠く遠く、手が届かないほど遠くに昨日という日は遠ざかっていく。
 机の上で亮の拳がきゅっと握られた。
 そんな亮の様子を、佐薙はただじっと眺めていた。