■ 4-49 ■





 重い気持ちを引きずったまま、亮は自室へ戻る。
 手にしたカバンは大したものが入っているわけでもないのにやけに重く感じられ、早く机の上に放り出して、ベッドへ倒れ込みたくなってしまう。
 あれから久我が教室へ戻ってくることはなかった。もう久我とは永遠に会えないのではないか……。そんな思いすら亮の胸に湧いてくる。
 しかしもしかしたら部屋に久我が戻っているかもしれない……そんな微かな期待も心のどこかで淡く光っているのは事実で……。だが。
「ぇ…………」
 扉を開けて亮は目を見開いた。
 部屋に帰るともうそこには何もなかったのだ。
 部屋の右側スペースには、備え付けのベッドと机、そして小さな棚が置かれているだけで、中身は何もない。
「うそ……だろ……」
 まさか本当に久我は部屋を替えてしまったのか――。亮の身体は考えるより先に反応し、カバンを放り出すと階下の管理人室へ飛び込んでいく。
「っ、秋人さん!」
「あれっ、亮くん。なに、どしたの。血相変えて」
 寮の管理人であるところのはずの事務所社長は、奥の和室でのんびりとせんべいをかじりながら夕方の時代劇鑑賞タイムの真っ最中であったらしい。
 しかし突然の訪問者に目を丸くしながらもあぐらのまま両手を広げ、ウェルカムの姿勢である。
 亮はスリッパを脱ぎ飛ばしながら和室に上がり込むと、勢いに任せ秋人へ迫る。
 どしんとほぼ押し倒されてしまう管理人。
「久我は!? 久我の部屋、何号室になったんだ!? てかなんで勝手に替えるんだよ」
「ぉっつ。なになになに、落ち着いてよちょっと」
 亮にのしかかられるこの体勢に秋人は半ニヤケしつつも、事務所社長としての威厳を保とうと口をへの字に引き結ぶ。
「いや、僕が替えたわけじゃないからね。というより久我くん、もうこの寮にはいないよ。さっき急に引っ越しちゃたからさ」
「へっ? ひっこし、た?」
 考えてもみなかった返答に、亮は虚を突かれ目を丸くする。
「どこへ? 実家に戻ったのか?」
「いや、そうじゃなくてね、なんか新寮に空きが出たとかなんかで、そっちの部屋へ移動したんだ。ホントいきなりすぎてびっくりだよ。寮長の僕に事前連絡もないなんて酷くない?」
「新寮……」
「でもあっちって頭のいい子しか入れてもらえないんじゃなかったっけ。久我くんってああ見えて優秀なんだね。なんせ生徒会の人たちがわざわざ荷物引き取りに来てくれてたくらいだし……って亮くん? 聞いてる?」
 秋人の言葉が終わる前に亮はふらふらと立ち上がり、管理人室を出て行く。
(生徒会の人……。それってまさか…………)
 久我が何をしようとしているのかわからない。
 何かの作戦なのか。それとも――。
 嫌な考えが亮の中で渦を巻く。
(まさか、東雲先輩に捕まった……とか? くそっ、あほ久我っ)
「お〜い、もう帰っちゃうの? 一緒におせんべ食べながら水戸黄門見ようよぉ」
 お気楽な管理人の声など亮の耳には入らない。
 亮は寮を飛び出していた。








 新寮は亮たちの住む旧寮より学校に近いが、裏の森の中に建っているせいで用がなければ通りかかることもない位置にある。
 真っ白な鉄筋コンクリート造りのそこは、初夏の夕映えを照り返し、妙に涼やかに佇んでいた。
 玄関前まで来て二階建ての建物を見上げた亮は、とにかく中へ入ろうと分厚い硝子製のドアを押したり引いたりしてみる。が――まったく開く気配がない。鍵が掛かっているのだ。そう言えば以前久我が「新寮はオートロックの二重ドアらしいぜ? 鍵、部屋に忘れたら閉め出される寮って最悪じゃねぇ?」などと逆にこの防犯システムを笑い飛ばしていたことを思い出す。
「なんでそんな最悪の寮に引っ越したりすんだよ……」
 ぼそりと呟くと小さくため息をつき、亮は頑丈なドアに見切りを付け、他に入れる場所はないかと周りを見回し始めていた。しかしまるで牢獄のごとき格子が窓枠にも通路にもガッシリとはめ込まれていて猫の子一匹入れ込めそうにない。窓ガラスは全てがミラー仕様になっていて中の様子すらうかがい知ることが出来ず、おまけに頭上の壁にも、周囲を囲む高い塀の上にも、木々の間にも、赤いLEDを点滅させた防犯カメラがゆっくりと旋回しながらあたりの監視を怠らないでいる。
「なんだよ、ここ……。なんで学生寮がこんなにセキュリティ強化してんだ?」
 至る所の鍵が壊れ、窓枠がガタガタ言っている防犯意識の欠片もない旧寮と比べ、あまりに差違が有りすぎる。ここに来て初めて亮の中で新寮に対する疑念がわき始めていた。
 生徒会の連中が久我をここへ入れたということは、この新寮は彼らの息が掛かった場所だと言うことだ。それはボランティア部の部室や生徒会室も同じであるが、あそこにはこれほど他者を排斥するシステムは備わっていない。となるとこの異常なまでのセキュリティを擁したこの場所は、単純に東雲が拠点として使っている……だけではないのではないか。
「久我……」
 為体の知れない焦りが亮の中で膨れ上がり始めていた。
「ここは関係者以外立ち入り禁止だ」
 機械のように冷静で抑揚に欠けるその声に、亮はビクリと振り返る。
 いつの間にそこへ来ていたのだろう、亮の数メートル背後に醍醐が立っていた。気配すら感じなかったのは亮が考え事に気を取られていたからだろうか。
 拳を握りしめるとドーベルマンのような上級生をにらみ据える。
「醍醐……」
「俺には先輩をつけないのか、成坂。俺も一応二年なんだがな」
「……久我を、どうした」
「どうした、とは?」
 あくまでも冷徹に、涼やかに。醍醐は感情もなく問い返す。
 その受け答えに、亮は胸の中に掻きむしりたいほどの焦燥と苛立ちを感じていた。
「とぼけるな! あいつに何したかって聞いてんだ!」
 考える前に。
 亮の身体は弾かれるように前へ飛び出し、引き寄せた拳は唸りを乗せて醍醐の涼しげな顔面へ叩き付けられていた。
 怒りと悔しさとやるせなさと、心の中にわだかまるどうしようもないエネルギーが止めようもなく亮の身体を突き動かしていた。
 空気の裂ける音と斬れるような風が生まれる。
 だが――
「っ!」
 亮の拳は空を切る。体勢を崩したまま後ろ足を跳ね上げ、鎌のように相手の首を狙った。だがそれも虚しく風を起こすだけで――。
「がっ!」
 代わりに熱い塊をぶち当てられたのは亮の頬だった。
 何が起きたのかもわからず身体ごと吹き飛ばされる。前日の雨でぬかるんだ草地へ叩き付けられた瞬間、みぞおちに衝撃を感じ、今度は頭上高くに跳ね上げられる。
 なんとか体勢を整え、それでも反撃に出ようと闇雲に拳を繰り出すが、どれもこれもかわされてしまう。
(なんで……だよっ、くそ、どこにいんだ、当たれよっ!!)
 焦りばかりが先に立ち、姿を捕らえきる前に再び立て続けに二発、左頬と腹部に強烈な打撃が叩き込まれていた。
 痛みはなかった。ただ猛烈な衝撃と熱が繰り返され、口の中は血の味しかしない。
 そして――
「ぃっ……!」
 亮の身体はぬかるみの中に突き倒され、背後から腕を極められる。
 メキリと嫌な音がし、そこで初めて亮は悲鳴を噛み殺していた。
「おまえらしくもない酷い攻撃だ。……俺に殺されにでも来たか」
 腕を極めたまま馬乗りになった醍醐が見下すように言った。
 それでも亮は首だけ巡らせ、相手を睨み上げる。
「……く、そ……っ、はなせ、この、ゃろぅ……」
「それともこうやって隙を見せて誘うのがゲボのやり方なのか?」
「!? っ、てめぇ……」
 ここで亮もようやく悟っていた。
 久我に亮のことを伝えたのは醍醐だったに違いない。
「心配しなくてもあいつは自分が誰につくべきか気づいただけだ。俺は真実をおまえに代わって教えてやったに過ぎない。IICRの犬などといるより、それに反旗を翻す俺たちとやるほうが、ソムニアとして誇りある生き方ができる……そういうことだ」
「久我がそんなこと、言うわけねぇっ! 東雲先輩が、アンズーツ……使ったんだろっ」
「そんなものは必要ない。久我が言っていたぞ。成坂亮には裏切られたと」
「……、そんなこと」
「ないと言うのか? おまえは自分の都合の悪いことは全て隠して、あいつに友人面で近づいたんだろう? IICRのこと。おまえの能力種のこと。そしてシド・クライヴのこと――どれ一つをとっても秘密にするには大きすぎる問題だ」
「っ!!」
 言い訳すら許されなかった。醍醐には全て知られてしまっている。それを隠してきた亮の罪悪感さえも。
「その上さらにゲボで友人をたらし込むとは……反吐が出るな」
「…………っ」
 カッと頬が熱くなるのを感じた。亮は唇を噛み締め目を伏せる。泥と草の匂いで頭がくらくらしていた。羞恥でどうにかなってしまいそうだった。
 自分でもわかっていたのだ。久我は亮のゲボに引きずられていた。
 それなのに何の手も講じず、いや、どうしようもないと己に言い訳しつつ、ずるずると今まで来てしまった。
「自分に惹かれていいように動く相手を見るのは楽しいだろうな、成坂」
「そんなわけ……っ」
 言いかけて口を閉じる。
 そんなわけない――そう言い切れるのか。
 自分はもしかしたら嫌だ嫌だと言いつつ、本当はゲボの力をこれ見よがしにひけらかしているのではないのか。こんな能力いらない、なくなってしまえばいいと口では言っているが、本当はこの能力を持っている自分に優越感を抱いているのではないのか――。
 そんな考えが脳裏をかすめ、ザワリと背筋が凍り付く。

『本当はこうされることが嬉しいんですよね』

 そう言って笑う滝沢の声が蘇る。
 何が本当かわからなくなる。自分の気持ちも、久我の気持ちも、何もかも己の手の届かない遥か頭上でゆらゆらとぶら下がっているようにすら感じた。
 黙り込んだ亮に対し、醍醐は残酷に言葉をつなぐ。
「……俺はおまえが嫌いだ。成坂亮。だからおまえが気に入っているこの日常を一つずつ崩すことにした。……壊れていくのが久我だけだと思うな」
「……どういう……意味だ」
「おまえの代わりに新しい接待係をおまえのクラスから入れることにした。……吉野とかいう女子生徒はおまえのことを随分と気に入っているらしいな」
 目を見開き、首を巡らせ亮が再び醍醐の顔を仰ぎ見る。
「女子生徒の担当は佐薙だ。あいつに吉野をドールとして仕込んでもらうことになる。おまえにとっては楽しいイベントになるだろう」
「やめろ……、っ、やめろっ、そんなことっ!」
「おまえが仕事をしないんだ、仕方がないだろう。浬生さんのアンズーツを拒絶するゲボでは使い物にならないからな」
 コクリ、と小さく亮の喉が動いた。
 この機械のような上級生が何を言っているのか、亮に何を求めているのか、混乱した頭で必至に答えを探す。
 自分ではなく己の周りが冒されていく感覚は、亮に震えが来るほどの恐怖を与えていた。彩名を売春組織に売るなど考えられないし、その調教をするのが佐薙だというのもあまりに下劣で吐き気がする。
 何よりその原因が亮本人にあるのだ。亮に関わってしまったがため、亮の周りは浸食されていく。
「そんなの……、だめ、だ。やめろ。……っ、やめて、くれよ……」
 弱々しい懇願が亮の口から零れていた。
 そんな亮を醍醐は茶色の瞳でじっと見下ろす。
「……、ォレが……。……オレが東雲先輩のアンズーツ、受けたら……、いぃのか? オレがアンズーツを受け入れたら……」
「俺に聞くな。俺はおまえを浬生さんに近づけたくないんだ。……だが、それが答えだと思うなら、今夜零時。スクールセラの生徒会室に来い」
 ふっと亮を押さえ込んでいた力が消え失せる。
 ねじり上げられていた腕が軋みを上げてぬかるみに落ちた。
 視線だけでその動きを追えば、いつの間にか醍醐は新寮の扉を開け、中へ入っていくところだった。そのスピードたるや常人のものではない。彼の能力種がなんなのかはわからなかったが、強いソムニア能力を持っていることだけは確かだろう。
 亮は一度身体を起こしかけ、再び仰向けに倒れ込む。
 体中の関節と内臓が悲鳴を上げ、力がどこにも入らなかった。
 痛みの所在が分からないほど全身がズキズキと痛い。
 そして泥だらけになったせいか酷く寒かった。
 木々の間から柔らかになった夏の日が差し込み、熱く脈打つ頬の上でゆらゆらと揺れる。
「久我ぁ……、それで、いいのかよ。ほんとに、こんなんで、いいのかよ……」
 青い空の向こうに湧く雲はびっくりするくらい白く綺麗で、鳴き始めた蝉の声はやたら陽気だ。
 夏は加速し、楽しい夏休みももうすぐだ。
 亮は手に触れた草の葉をぐっと握り込み、引きちぎると、唯一動く左腕で力任せに空に向かって投げつける。
 湿った風が一陣吹きすぎ、緑の欠片はふわりと青へ吸い込まれていった。