■ 4-50 ■



「それで、僕はどの程度キミのことを信用してもいいのかな。久我貴之くん」
「それは俺が決めることじゃねぇよ、センパイ」
 生徒会室のソファーに背を埋めた久我は不機嫌そうに片眉を動かすと肩をすくめてみせる。
 会長席に腰を据えた東雲は机の上に手のひらを組むと、楽しそうに顎をそこへ乗せた。
「仲間になってくれるって割りにふてぶてしいのは、キミたちの流儀かい?」
「キミたち? 誰のこと言ってんだ」
「もう彼の名前も出したくないか。……醍醐の話だとキミは随分とご執心だったみたいなのにね、……成坂くんに」
 ピクリと久我のこめかみが動いた。
 その様子をドア前に立つ醍醐は無言で眺める。
 張り詰めた空気とは不似合いの楽しげな喝采が校庭から響いていた。どうやら体育の授業中のクラスがいるようだった。
 リアルタイムでは深夜――。だがスクールセラではいつだって活気のある学校生活が展開されているのだ。
「そりゃーな。あんただって知ってるだろ、あいつのエロさ。ゲボだっていうのも納得だ。だがそれとどっちに着くかは別問題だろ」
 先輩の前だというのに横柄にソファーへ身を沈める態度はいつもの久我と変わりはなかったが、しかし細められたその目は暗くどこまでも冷たい。
「……俺はIICRには着かねぇ」
「へぇ。僕たちをIICRへ突き出すつもりだったんじゃなかったっけ?」
 そう言った東雲の口許は楽しげに微笑んだままだ。久我はそんな東雲をちらりと一瞥すると苦々しげに笑みを返した。
「俺だってソムニアだ。IICRには憧れみたいなもんもあったさ。手は届かねーけどもしかしてって気持ちもよ。だが……今はそんな気持ち欠片もねー。最低だ、あいつら。友達だとか友情だとかそんな宛てのないもの信じてたわけじゃねーが、こんな風に利用するなんてのは最悪だ。成坂は……俺を裏切ってた。いや、裏切るどころか、始めからあいつは俺みたいな雑魚のこと、信用なんかしてなかったんだ」
「実際にIICRの人間を目の当たりにして考えが変わった、と」
「よーくわかったんだ。何もかも全部ウソで固められた気持ち悪いエリート集団、それがIICR……ってことがよ」
「その見解、いいね。僕もそう思うよ。秩序なんてものは支配者と奴隷のエクスタシーでできてるみたいなもんだから、秩序の権化・IICRなんて気持ち悪くて当然だそうだよ」
「なんだそりゃ」
「知り合いからの受け売りさ」
 片目を瞑って見せる東雲は随分と楽しそうだ。
 醍醐はただ無表情のまま、昨日まで敵だった久我の仏頂面と、主のご機嫌な表情との対比を眺めている。
 こんなときの東雲が何を言い出すのか――。その非情さを、醍醐はよく分かっているようだった。
「それじゃ、僕らが成坂くんをつぶしても構わないってことでいいのかな」
 久我はゆっくりと身を起こすと、じっと東雲の顔を見つめる。
 今までの久我にはなかったような黒い炎が、その瞳には宿っているようだった。
「むしろ俺にやらせろよ。そういう約束で俺はあんたたちの側に着いたんだ」
「なるほど。かわいさ余って憎さ百倍ってやつか。……いいよ、楽しそうな企画だ。成坂くんをつかまえたらキミにプレゼントするよ。丸ごと、全部、……ね」
「なんだ、その言い方だともうその予定があるってことか」
「まぁね。いよいようちの親組織の件が大詰めなんだ。研究を完成させて何人かでも中心人物が逃げおおせるのが先か、IICRの連中が一斉摘発を完遂するのが先か。ここ数日中にもその均衡は崩れそうな状況ではあるんだよ。そうなったらどちらにしても僕らの遊びも終わりにしなきゃならない。成坂くんなら僕らのフィナーレにふさわしい素材だと思わないか?」
「おいおい、なんだそれ、そこまで状況は差し迫ってるってのか? 一斉摘発になればコッチもただじゃいられないだろ。フィナーレだとか遊びだとか、そんな悠長なこと言ってて大丈夫なのかよ。仲間になった途端に監獄生活とか俺はカンベンだぜ」
「それは安心していいよ、こっちもちゃんと逃げ道は確保できてる。僕の友人が全面的にバックアップしてくれる手筈でね」
「友人? そんなもんであのIICRから逃げおおせられるのか?」
「もちろん、今後ソムニアとしての法的保護の管轄から外れる可能性は高いかな。なにしろIICRの手の中から出るってことになるんだからね。久我。キミにその覚悟はあるかい? ないのなら今すぐ成坂くんの元へ戻って泣いて謝った方がいい。彼のコネでIICRにお目こぼしをもらうしかないな」
「んなことするかよっ!」
 IICRの手がすぐそばにまで迫っているというのに、東雲の佇まいは不思議なほど泰然としたものだった。
 これは虚勢やはったりで出来る態度ではない――久我はそう判断する。が、たとえ超希少種のアンズーツ種だからといって、覚醒したての東雲の言うことがあてになるのだろうか。
 久我のソムニアとしての常識は否を唱えている。
 こんな素人同然の未転生ソムニアとドーピングによる疑似ソムニアの集団が、数百年の歴史を刻み世界の深部にまで食い込んだIICRから逃れられるわけがない。
「本気で言ってんのか? 言っちゃ悪いがあんたソムニアについて知らなさすぎだ。どんなすげぇお友達だか知らねぇが、IICRと渡り合えるヤツなんてヴァチカンかストーンコールドか銀河宇宙艦隊くらいのもんだぞ」
「だから言ってるじゃない。覚悟があるなら連れて行ってあげるよ、キミも。――ストーンコールドへ」
「…………っ!?」
 さらりと笑顔で口にされたその名に、久我は言葉の先を奪われていた。
 今目の前の高校生は何と言ったのか。
 冗談で久我が口にした冗談みたいな犯罪集団の名が、真顔で東雲の口から吐き出されていた。
 ストーンコールド。その組織の名は、ネバーランドかエメラルドの都か――まるで御伽話に出てくる魔法の国の名のように現実感がない。
 だが御伽噺と違うところは、その組織が現実に存在しているという事実を久我が知っていることだ。
 個人の賞金稼ぎを営む久我の元に廻ってくる案件の中でも、特級にあたる高額案件。そこに、ストーンコールドがらみのものを何度か見かけたことがある。
 もちろん久我のような弱小業者が手を出せる仕事ではなく、いつだってその名を眺めていただけに過ぎないが。
 組織の人数、形態、指揮系統、どれをとっても彼らの全貌はまるで明らかでなく、IICRですら雲か霞かその頭目の正体自体をつかんでいない。
 だから廻ってくる案件もストーンコールドの名は出てきていても、本当に彼らがそうなのか、それすらもあやふやな状態であることが多いと聞く。
 それ故「ストーンコールドなどという組織は存在せず、いくつものなりすましや模倣が重なり合って伝説を形作っているに過ぎない」などという噂もまことしやかに流れるほどなのだ。
「ストーン……コールドって……、頭おかしいだろ。普通考えたらそりゃそのお友達が語ってるか、脳みそ電波野郎なだけだぜ……」
「あははは、彼の場合どっちかっていうとお花畑かな。だけどホントの所、ストーンコールドだかどうだかは別にいいんだ。そんなのはただの名前だから。重要なのはそれが彼がやってる組織だってこと。ねぇ、久我。僕のアンズーツをゲボでもないのにセラで弾ける相手がいるって信じられるかい?」
 久我の眉が顰められた。
 ゲボである亮ですら畏れていたように見える東雲の能力。それを弾くほどのソムニアがいるなどということがあるのだろうか。しかもIICRでないこの在野に。
 だがそれが事実であるなら、その男の力はカラークラウン候補並みであることは疑いようもない。
 要するに――化け物だ。
「彼にとって僕は貴重な駒に成り得る。だから僕は僕の力を利用させてあげる代わりに彼の組織で保護してもらう。単純なgive and takeさ。大丈夫、キミにも分はあるよ。――成坂くんへの私怨から始まるアウトローな転落人生。彼はそういうの大好物だから僕のオプションとして十分認めてもらえる」
「……へっ、助かりたければ言うとおり働けってか。言われなくてもそのつもりだ」
「働き者の部員は大歓迎だよ。怠け者の部員の調教はキミに任せるべきかな。逃亡先への手みやげは多いに越したことはないからね」
 東雲の言葉に久我の唇が微かに引き上がった。








 夜十時半過ぎ――。
 明かりの消えたS&Cソムニアサービスの事務所扉が静かに開かれる。
 ひょっこりと顔を覗かせた人影は、暗闇に沈む室内をそろりそろりと注意深く進み、社長用デスクの一番下の引き出しに手を掛けた。
 だが引き出しはガツッと小さな音を立て、動きを止めてしまう。どうやら鍵が掛かっているようだ。
 人影はしばし黙考すると、一番上の引き出しを開け、その中から小さな鍵を取り出していた。
 それを下の引き出しの鍵穴へ差し込むと、くるりと回してみる。
 案の定、引き出しはカチリとかたい音を立て、その留め金を外していた。
 人影はしたりとうなずくと、ゆっくりと引き出しを開け、中の様子をうかがう。
「……あった」
 どうやら引き出しの中には彼の求める何かが期待通り存在していたらしい。
 人影はそれを手に取りポケットへしまい込むと、足早に部屋を出て行く。
 人気のない事務所内に再び鍵の掛かる音が響いていた。








 午前零時13秒前。
 亮はベッドの中で目を閉じた。
 三秒して目を開ける。
 するとそこはもう見慣れた校舎の入り口だ。
 覚醒した当初は感覚すらつかめなかった「眠る」のではない「セラへ潜る為のアルマ分離」という行為。しかし今ではもう、それは亮にとってあたりまえの作業であり、意識的瞬間的に行えるようになっていた。
 もちろんセラへ入獄すると同時に、自分にとって必要な様々なアイテムを造り出すことも訓練の成果で思うように出来るようになっている。
 「瞬間的に寝るなんて、のび太でないとムリだ!」と噛みついていた亮だが、こういう緊急事態になると改めて厳し過ぎるくらいに繰り返し稽古をさせたシドのやり方が正しかったのだと思ってしまう。
(シド……、怒るかな。怒るよな。…………でも、やるしかない。これはオレの始めた仕事なんだから……)
 亮は制服ズボンのポケットに忍ばせた己の武器を確認すると、いつものように上履きに履き替え、約束の場所を目指す。
 生徒会室――。
 そこに行けば何が起こるのか。自分に何が待っているのか。
 そんなこと亮にだって予想は付いていた。だがそれでも行かなくてはならない。
 もちろんただ黙って東雲の思い通りになるつもりもない。
 吉野彩名を助けるには、今回だけ救い出すのでは足りないと言うこともわかっている。彩名は一般人であり常に無防備だ。東雲がその気になればいつだってセラへ引っ張ってこられてしまうし、あっという間に洗脳を掛けられてしまうだろう。
(……吉野を助けるには、東雲浬生をIICRへ引き渡す――それしか手はない)
 久我がやろうとしていたこと。それを引き継ぐことのみが亮に残された道なのだ。
 自分一人でどこまでできるかはわからなかったが、それでもやるしかない。
 廊下を走りながら、ポケットに手を入れ中の重みを確かめる。
 冷たく鈍い金属の感触。
 亮の秘策はここにあった。
 近づく『生徒会室』のプレート。
 亮は扉に手を掛けるとガラリと勢いよく開けていた。久我の姿がそこにないことを望んで。
 果たして――。

「時間通りだな、成坂」

 そこに立っていたのは醍醐 覚。
 骨太でしなやかな筋肉を身にまとう彼はまるで訓練された大型犬のようでもあり、その無機質な茶色い瞳は感情のないサイボーグのようでもある。
 窓から差し込む陽光が逆光になり、高身長の彼の表情は亮にはよく見えなかった。
 しかしそこにいたのが醍醐であったことに、亮は思わず息を吐く。
 それを醍醐は見逃さない。
「……久我でなくてホッとしたか」
 その声音に微かな含み笑いが込められていたことに、亮は苛立ちを覚える。
「東雲先輩はどこだよ。さっさと終わらせろ。オレをドールとやらにするんじゃねーのか」
「そう焦るな。もう準備はできている。こちらへ来い」
 醍醐は亮の顔を一瞥すると、先に立ち、生徒会室奥のドアへ向かっていく。
 開いたままになっている手前のドアからはパソコンルームに繋がっているのが見えた。
 しかし自分たちが向かおうとしている奥のドアはどこへつながっているのか――。
 以前、亮が一度だけ訪れたことのある場所。
 ゾクリと背中の毛が逆立った。
 あの場所は、いかがわしい施設が備え付けられた、生徒会室とはかけ離れた部屋だったはずだ。
 冷たい汗が亮の肌を濡らし、心拍数は否が応にも上がっていく。それを醍醐に気取られたくなくて、亮は足早にその後へ付き従った。
 あそこへ行くであろうことは予想の範囲内だ。そしてそこで東雲に会う。
 そこからが亮の勝負なのだ。
 亮の拳がぎゅっと握られた瞬間、扉が開けられる。
 学校らしい引き戸がガラガラとスライドされ、その先に現れたのはおよそ学校とはかけ離れた実験施設を彷彿とさせる空間。
 広々とした講堂のような場所に、三つのガラスルームが並んで鎮座している。手前にはその施設を眺められるように応接セットがしつらえられており、室内をぐるりと取り囲むように作られたロフトにも、劇場のごとく椅子が並べられていた。その豪奢な作りはまるでオペラ鑑賞を楽しむ特別席のようですらある。
 臙脂のビロードと黒檀の梁で作られたその重厚な空間に、最新式の目隠しガラスを用いられた三つの小部屋は不似合いであり、そこだけ切り出したような異質さが感じられる。
「成坂! よく来てくれたな!」
 亮を待ちわびていたように応接セットのソファーから立ち上がったのは、体育教師・金原であった。
 いつものように白いTシャツとジャージを身につけた彼は、いつも以上に頬を紅潮させ何度も鼻の下の汗を拭う仕草を見せ暑苦しいことこの上ない。
 東雲は一人掛けのソファーへ腰を沈めたまま、目を細め亮を眺めた。
 求道者のごとく悟ったような、それでいて人を射抜くような強い眼光に、亮は怪訝そうに眉を顰めた。東雲はこんな強い目をする人間だっただろうか。亮の知る東雲はもっと――……、そう考え始めた瞬間、その東雲の見たことのない表情は幻であったかのように沈み込んでしまい、あとにはいつもとかわらぬ捕らえどころない微笑が残るだけである。
「金原先生があれからうるさくて困っていたんだ。来てくれて助かったよ、成坂くん。他にもキミの到着を待ちわびていた子もいるしね」
 ちらりと背後へ流された東雲の視線の先には、一番左側に位置するガラスルームがあった。そしてその中からこちらへ向かい楽しそうに手を振っている彩名の姿が亮の視界に飛び込んでくる。
 その傍らにはうつむき、時折こちらへちらちらと視線を送る佐薙がいる。今にも泣きそうな顔はこの場所に居るのが本意ではないことを、亮に否が応にも知らしめていた。
「吉野……」
 亮が自分の存在に気づいたとわかると、彩名はますます嬉しそうに両手を顔の横でひらひらと振った。一般人である彩名はここがセラであることも認識しておらず、ましてや今から自分がどんな目に遭わされるのか――いや、今居る場所の意味や自分が今置かれている立場すら分かっていないに違いない。
「こんな酷いこと、どうしてできるんだ……」
 喉の奥から絞り出すように声が漏れた。
「随分と真に迫った言葉だね、成坂くん。まるで人ごとではないようだ」
「…………何が言いたいんだよ」
「いや。久我に聴かせてやったらさぞ喜んだだろうと思ってね」
「久我はそんなヤツじゃねぇっ!」
「彼をそんなヤツにしたのはキミだろう? 成坂くん」
「っ、…………違う、久我はそんなこと、言うわけ……」
 責めるようでいながら楽しんでいる東雲の口調に、亮は思わず唇を噛み締め口ごもる。
 ズキン、と胸の奥が痛みを覚えていた。
「ほら、キミだってそれを感じてる。キミはキミ自身のくだらない自尊心のため。そしてキミのぬくぬくとした居場所を守るために、彼を裏切った。全面的にキミを信頼し、好意を寄せている友人を自分の立場と天秤に掛け、あっさり切り捨てたんだ」
「違う! オレは、ただ……」
「ただ、なに? 久我よりシド・クライヴの方が大事だっただけ?」
「!? っ、なに、言って、んだよ、意味、わかんねぇ……っ!」
 虚を突かれたように亮は狼狽し、思わず一歩左足を引いていた。
 考えたこともないことだった。誰が誰より大事だとか、そんなの、亮の頭の片隅にもなかったことで――。だからこそ混乱し、己の心の中すらわからなくなってしまう。
 バクバクと心臓が躍り、目の前がぐらぐらしていた。まだ、アンズーツは使われていないはずなのに、こんなのおかしいとそればかり頭を巡る。
 それを満足げに眺めながら東雲は立ち上がり、ゆっくりと亮の方へ歩き始めていた。
「キミを見てると悪魔ってこういう顔をしてるんじゃないかって思うよ、成坂くん。友達をゲボで惑わせて、学校ごっこに付き合わせるだけ付き合わせ、飽きたら笑顔でバイバイするつもりだったんだろう? さっきのキミの言葉、そのまま返させてもらうよ。――こんな酷いこと、どうしてできるんだ?」
「そんな、こと……」
 亮の右足が一歩、力なく下げられた。
「キミは人の好意を理解してない。強すぎる好意は転じると狂気に変わる。それが誰に向くのかは状況次第だ。例えば期待に添えない息子を滅多刺しにしてみたり、キミを苦しめるためにクラスの女子を娼婦にしてみたり、ね。キミの神聖な学校ごっこが破壊されていくサマを久我は見たいんだよ。勝手に親友ポジションに配役を振られ、キミの劇場で踊らされていた彼にしてみれば、当然の一手だと僕は思うね」
「うそ、だ。……久我が、そんなこと、するはずない。だって、久我はここにいないじゃないかっ、アンタはウソをついてる!」
「居るよ。ちゃんとこの様子をモニターしてる。キミには見えないところからね。……だってそうだろう? ここに久我がいればまたキミはその卑劣なゲボ能力全開で彼を堕としにかかる。特にここはセラだ。リアルの比じゃなくキミの能力は危険だからね。久我にしてみれば溜まったものじゃないよ。せっかく覚めたゲボの魅了にまた自分から掛かりに来るようなものだ」
「ぉ、オレはゲボなんか使ったりしねぇっ……」
「ははは、相変わらずキミはおバカだねぇ。それ、マシンガン構えたヤツが撃たないからこっちに来いって言ってるのと同じだよ?」
「っ……」
 亮にはなにも言い返せない。東雲が言っていることは理屈に適っている。久我からしてみれば今の亮は信頼に値する価値もない存在なのだ、そんなヤツの前にのこのこ姿を現すわけがない。
「でも、安心していい。僕はボランティア部の先輩としてキミに情けを掛けてあげることにした。勝手にキミのゲボに引っかかっちゃった可哀想なあの女子を見逃してあげる道を、久我に持ちかけてやったんだ。成坂が僕の力を受け入れて本物のドールになるのなら、彼女は許してやったらどうだってね。最初は渋ってたけど、それでも自分と同じ犠牲者である彼女に刃を向けるのはどうかと思ったんだろう、久我も許してくれたよ」
 ピクリと亮の左手が動いた。汗に冷たくなった指先をぎゅっと一度握りしめ、手のひらをズボンの横で拭く。
「校内のトイレ掃除、佐薙と二人、頑張ってくれたお礼だ。キミは大事なキミの学校生活を守ることができるってわけだ。おめでとう」
 笑顔で東雲が手を伸ばし、亮の頬へ触れようとする。
 その瞬間。
 亮の左手が寸秒早く持ち上がり、東雲の腕を捕らえる。
 同時にポケットへ滑り込む右手。
 東雲の表情が驚きに変わった。
 と――
 亮の眼前に流れる銀光が二筋走り、咄嗟に亮は腕を引いていた。その指先から東雲の腕の感覚が消える。
「成坂あっ!」
 再び鼻先数ミリの位置を光が流れ行き、亮は身体を捻って宙を舞っていた。
 ふわりと重力を感じさせず降り立ち身構えた亮の前には、二本の青竜刀を構え、半身で東雲をかばう醍醐の姿がある。
「驚いたな。物騒なもの持ってるじゃない」
 そう言った東雲の視線の先では、亮の右手に握られた鈍色の輝きが揺れていた。
 普通のものより随分とイカツイ形状をした手錠――。
「空間錠、だよね、それ。ソムニアの中でも賞金稼ぎの登録をきちんと済ませたものにしか支給されない特別な手錠のはずだけど?」
 東雲の言うとおり、これが亮の切り札『空間錠』であった。これをセラで使われたソムニアはその能力を封じられ、なおかつセラへ釘付けにされてしまう。つまりリアルへ逃げ出すことも出来なくなるのだ。
 以前久我に一度だけ見せてもらったことがある。IICRから直接登録業者へ支給されるもので、これで賞金首を捕らえ警察局に引き渡して賞金を受け取るのが久我の仕事なのだと言っていた。
 本当ならこの時見せてもらった久我の空間錠を使い、二人で東雲を捕らえるはずだった。だが、もう久我は亮のそばにはおらず、もちろん貴重な空間錠も亮の手元にはない。
 だが、東雲の能力を封じるにはこれしか手がないと亮はそう思ったのだ。
 だから昨夜、亮はこっそりと事務所に戻ってこれを持ち出した。
 確か秋人の机の奥で、似たような手錠が埃を被っていたことを亮は覚えていたのだ。
 シドがこの手錠を使っている所など見たことがなかったが、もしかしたらという思いで取りに帰り、現物を見て同じものだと確信できた。
 その形状、重み――。どれをとっても久我のものととてもよく似ていた。何より、この手錠をポケットに入れたままセラへ入獄すると、同じものがポケットの中にセラでも現れ、手に持ったままリアルへ戻ると、手錠はなぜか入獄時に入れていたはずのポケットではなく亮の手の中に握られているのだ。
 つまりこれはこの手錠がリアルとセラを行き来する『顕現化』できる特殊な存在だと言うことだ。顕現化は空間錠の最も大きな特徴の一つである。
「自前でそんな高額武器を持ってるだなんて、反則だな。……さすがIICRの人間だ」
「オレはIICRの人間じゃねーっ!」
 亮はポケットに空間錠をねじ込むと、代わりに小さな爪楊枝サイズの棒を取り出し、指でも鳴らすように擦り上げていた。するとたちまちそれは物干し竿にも似た棍へと変貌する。鮮やかなグリーンが美しい弧を描いて振り下ろされ、空気を斬る風音が小気味よく響き渡った。棍がぴたりと静止すると、その先には今度は醍醐の鼻先が据えられている。
 じわりと醍醐の額に汗の雫が浮かび上がる。
「……いい筋だ。昨日と同じ人間とは思えないぞ」
「昨日はボコってくれてサンキューな、醍醐センパイ。あれでちょっと目が覚めた」
 亮がそう応えるや否や、背後から一人の人間が突っ込んでくる。
 学生時代アメフトでならしたと豪語する彼のタックルは鋭く亮の腰を狙い、ポケットの空間錠を奪おうと手が伸ばされる。
 だがわずかに亮が半身をずらしただけで、そのタックルの主は上半身を泳がせ、無様によろけていた。
「っ、成坂、おまえ、往生際が悪いぞ! それをこちらに渡しなさいっ」
 それでもなんとか野太い足を踏ん張って転ぶことだけは避けた金原は、いらいらした調子で腕を振り回し亮を狙う。
「なんで先生の言うことが聞けな……」
 しかし金原の言葉は最後まで終わることなく「グフッ」という呻きに取って代わられていた。
 亮の棍は流れる一連の動きで跳ね上げられると、金原の腹をえぐりあげ、体重百キロの筋肉だるまを軽々と宙へ放り上げていたのだ。そのまま目に見えぬグリーンの風が何度も吹き抜けるたび、空中で金原の身体が奇妙に踊った。
「ぐ、ぁ、ひぃっ、ひぎっ、いだっ! っ、ぎゃんっ!!」
 腕を、足を、腰を、首根っこを、一度に数十打ち据えられたようなありえない打撃をもろに受け、金原は何をされたか理解する間もなく硬い床にだらしなく伸びてしまう。
 口から泡を吹き、鼻から血を滴らせた体育教師はぼやける視界でそれでも相手を見ようと首をもたげる。
 あんな子供の軽い打撃ごとき、どうということはないはずだ。すぐにでも立ち上がり行儀の悪い生徒を教育し直してやらなくては――。
 そう思うのだが、思うように身体が動かない。
「ちょっと黙っててくれるかな、先生。うぜぇから」
 声変わり前の綺麗な声音で生意気なセリフが聞こえたと思った瞬間、金原の身体は再び宙を飛び、背後の壁へ打ち付けられずるりと落下する。
「ひがっ!!」
 成坂亮の棍に跳ね飛ばされたのだと気づいた時にはもう、少年はこちらを見もせずに醍醐へ向かっている途中であった。
 どうやら今のは攻撃ではなかったらしいと金原は気づく。金原の身体が足場の邪魔になるからあの生徒は排除したに過ぎないのだろう。
「っ、にゃり、ひゃかぁっ……」
 怒鳴ったつもりが声にならなかった。ひゅーひゅーと息が間抜けに口から漏れるだけで、しびれたように身体も動かなかった。
 怒りに顔を爛熟させながらも金原は成坂亮が醍醐覚と戦う姿を眺めることしかできない。
 東雲浬生はいつの間にか若干後ろに下がり、腕を組んだまま二人の戦闘を楽しげに眺めているようだった。
 確かに見るだけならばこの戦闘は芸術的ですらあると金原は思った。
 鋭く無駄のない機械のような動きの醍醐と、対照的に春風のように柔らかな動きの亮。線と円。鋼鉄色と若草色。二人の動きは早すぎて金原の目には攻撃とすら映らず、踊っているようにも見える。
 体育の授業中、いつも一生懸命動いているように見えてその実、亮が力を抜いていたことを金原は見抜いていた。おそらくあの少年はもっともっと運動能力が高いはずだ。その実力がどんなものなのか見てみたいと思ってはいたが、音速の動きを持つエーヴァツの醍醐と張り合うなどというこんなレベルだとは思ってもみなかった。ソムニアというものがどんなものなのか改めて突きつけられ、金原は嫉妬すら覚える。
「久我ぁっ! 見てんなら出てこいよっ、こいつらみんな捕まえんじゃねーのかよっ!」
 ひゅんひゅんと棍を回転させながら亮はどこへともなく叫んでいた。
 だが亮のよく知る陽気なあの声は戻ってはこない。
 代わりに鈍色の青竜刀の一閃が、音もなく一房、亮の横の髪を持っていった。
 感覚だけで身体をスウェーさせたのが、紙一重で亮の命をつないでいた。
「っぶねぇ……」
 醍醐の動きが目で追えない。おそらくそういうソムニア能力なのだろう、と亮は理解する。セブンスでソムニアについてノーヴィスから習った記憶によると、音速の身体能力を持つ能力種があったはずだ。
「余裕だな、成坂。怪我をするぞ」
「よく言うよ、殺す気じゃねーか」
 冗談ではない殺気を亮は最初からびんびんと感じていた。醍醐は東雲を守るためなら迷わず誰でも手に掛けるのだろうと、今さらながらに知らしめられる。
 まさに東雲の番犬だ。
 息つく間もなく縦に横に斜めに、二本の刃が亮へ襲い来る。一呼吸でもずれればおそらく死ぬのだろう。
 だが、目に見えないはずの醍醐の攻撃が亮にはなぜかわかる。
 醍醐の放つストレートな殺気は水上の波紋のように亮へ彼の動きを伝え、亮の身体はそれを捕らえる間もなく勝手に動くのだ。
 日に千本も二千本も嫌になるほど繰り返しさせられたシドの型は、すでに亮の身体の隅々にまで染みついてしまっている。それが脊椎反射のように現れ、亮を守っていた。
(次、来る!)
 そう感じる前にふわりと身体が跳ね上がり、無駄のない動きで棍が回転する。手に感じる小気味良い感覚。殺気の塊を受け止め打ち砕くイメージ。
 気がつけば醍醐の左手から青竜刀ははじき飛ばされ、天井の一角へ深々と付立っていた。次の瞬間ぷらりと柄が揺れ、甲高い音を立て落下する。亮の一撃で青竜刀の刃は粉砕されていたらしい。
「っ、成坂ぁっ!」
 声が聞こえた刹那、再び醍醐の姿が消えた。
 だが亮は立ちつくしたまま狼狽することもない。棍を構え全身で辺りを探る。
 見えないが聞こえる風の音、そして鋭い気配。
 組み手の時のシドは動きが見えないどころか、こんな風に次の動きがわかることなど一切無かった。あいつは何の感情もなく動いているせいなんじゃないかと、今さらながらに亮は思う。
 何も見えないままいつもボコボコにされ、型がなってないせいだと追加練習を命じられるのだ。ボコボコにされるのに訓練が終われば普通に立ち上がれるのは、おそらくシドが力加減をしてくれているせいなのだろうとわかるが、全力本気の亮に対し、手心を加えながら稽古を付けるシドの強さはどうなっているのだろうと改めて思う。

 ギンッ――

 後ろ手に棍を振り上げると、背中の部分でガッチリと醍醐の刃とかみ合う。
 驚いたような醍醐の目が背後に一瞬見えた。
 おそらく昨日の亮とは別人の動きだと改めて悟ったのだろう。
 初めての醍醐の戸惑いを亮は見逃さなかった。
 回転しざま上段蹴りを振り上げれば、醍醐がそれをかわす。だがその動きを読んだように亮の棍が醍醐ののど元を突きにかかっていた。
「ぐふっ!」
 体の動きで多少力を殺すことには成功したようだが、物干し竿はまともに醍醐を捕らえる。醍醐の口から苦鳴が漏れた。
 間髪入れず右手を殴打し、跳ね飛ばされた刃を頭上で打ち砕く。
 甲高い金属音が悲鳴のように尾を引いた。
 きらきらと降り注ぐ銀の欠片。
 亮は動きを止めた醍醐へもう一撃棍を振り上げていた。東雲を捕らえるにはまず、醍醐の動きを止めるまでに攻撃を果たさなくてはならない。
 と――。

「痛ぁいっ!」

 その間延びしたような悲鳴はマイクを通し辺りへ響き渡る。
 咄嗟に亮はその声の主の方角へ視線をやった。
 驚愕に亮は目を見開く。
 ガラスルームの中、彩名は一人立っていた。そばには誰もいない。同じルームにいる佐薙はうろたえたように部屋の隅で立ちつくしている。
 あの部屋の中には彩名と佐薙しかおらず、だからこそ亮は安心して東雲を捕らえに掛かったのだ。今ならいける――と。
 だが、事態は亮の考えとは違う方向へ進み始めていた。
 一人立つ彩名の手には小さなナイフが光っている。
 そしてそれは自らの手首に当てられ、もう一度戸惑いもなく、するりと引かれていた。
 瞬く間に赤い液体がそこから溢れ、二筋目が床へとしたたり落ち始める。
「吉野……」
「なにこれ、痛いんだけど、成坂くん!」
 痛いと繰り返しつつ彩名は笑顔のままだ。笑顔のまま不思議そうに首をかしげ、手首からしたたり落ちる血を眺めている。
「そろそろ遊びはおしまいにしようか、成坂くん。可愛い吉野さんが可哀想になっちゃう前に」
 ガラスルームの横に立つ東雲がそう言って微笑んだ。
 同時に彩名の手がナイフを握ったまま上がり、己の右目にぴたりと据えられる。
「やばい、これ、ナイフ超アップだよ、すごいよ成坂くん」
「よせ、吉野さん! 手、降ろせ、ナイフ捨てて!」
「えー? なんで? 彩名、もっとよく見たいもん」
 彩名の動きに戸惑いも躊躇もなかった。
 するすると自分の右目にナイフの切っ先を近づけていく。
 彩名は既に東雲のアンズーツに囚われていたのだ。
 だからそばに誰もいなくても、彩名自身が彩名を人質に取ることができる。
 この場で亮が暴れるであろうことも、東雲には想定の範囲内だったということだ。
「やめろっ! やめてくれっ! 佐薙、止めてくれよっ!」
 尖った切っ先が彩名の眼球に触れる――その瞬間、そこでピタリと刃の動きは止まっていた。
「佐薙に言っても無駄だよ。わかってると思うけど、彼も僕の傀儡の一人なんだから。ここで僕の言うことを聞いてくれないのは成坂くん、キミ一人だけだ」
「っ……、やめさせて、くれよ、先輩。あいつは全然関係ないんだ。オレもほとんど話したこと、ないし……」
「じゃあいいじゃないか。彼女が片目になろうと、その先の脳みそまで掻き回しちゃおうと。キミはそのまま暴れて空間錠を僕に掛けたらいい」
 ちりりと彩名の切っ先が揺れ、眼球の表面へ触れていた。
「っ!!」
 亮は反射的に手にした棍を放り捨て、両手を挙げる。何をしてももう間に合わない。亮が次の動きを起こした瞬間、彩名は自らの目を躊躇なく突くだろう。
「ふふ、で? 次はどうするの?」
 亮は小さく唇を噛み締めると、目を閉じた。
 ゆっくりと手を下ろし、ポケットの中から空間錠を取り出す。
 亮にとっての切り札。
 だがその切り札を、亮は自ら場へ捨てなくてはならない。
 指先が白くなるほど強くそれを握りしめ、そしてゆっくりと床へ放り投げる。
 ガシャンと重たい音がして、錠は床へわだかまった。
「はい。よくできました」
 東雲が言うと同時に醍醐がそれを拾い上げ、亮の背後へ回り込む。
 そして――。冷たい感触を左手首に感じたときにはもう、その鉄環は重々しい音を立て亮の腕にがっちりと嵌め込まれていたのだ。
 ブン――と、アルマが震える感覚が起こった。それと同時に全身に目隠しされたように、研ぎ澄まされていたはずの感覚が麻痺していく。
 身体が重く自分のものではないようだった。
 空間錠に囚われるとはこういうことなのかと、ここに来て初めて亮の中で恐怖が生まれていた。
「自分の得物で自らを縛ることになるとは――無様だな」
 右腕へも錠を掛けながら、醍醐が呟く。
 睨み上げてみるが、そんなことが醍醐にとってなんの感慨も生まないことは、亮にもわかっていた。
「こんないいもの持ってきてくれた成坂くんに無様は酷いだろう、覚。空間錠なんて僕には思いも付かなかった。そうだよね、これがあればキミのゲボとしてのガードもほぼゼロまで引き下げられる。礼を言いたいくらいだよ、僕としては」
 ゆっくりと近づいてきた東雲はにらみ付ける亮の頬をそっと撫でた。
「ただ、ゲボとしての魅了能力も押さえられちゃうかな?とは思うんだけど……、こうして見るとそれも問題ないみたいだね。キミは十分可愛いし、金原先生は成坂くんそのものが大好きみたいだから」
 東雲の視線が亮の背後――床の上へと据えられていた。
 亮の耳に、ズルリ……ズルリ……と、薄気味の悪い音が届く。
 亮に打ち据えられ、満身創痍となった金原が、床を這い、すぐそばにまで近づいてくる音だ。
 血にまみれた顔をもたげ、目の光だけをギラギラさせながら蛇のように全身をいざらせるその姿を視界の端に入れ、亮は生理的嫌悪感で身を引きそうになる。
「さぁ、始めようか。ようやく本当に僕の飼い犬にしてあげられるよ。こっちを見て、成坂くん。ほら、早くしないと吉野さんの腕が痺れてうっかり目の中にナイフを突っ込んじゃうかもしれない」
「っ、約束、だぞ。オレがドールになったら、吉野さんも、佐薙も、解放しろよ!?」
「え、佐薙も、かい? 随分と欲張りだなキミは」
「あいつも友達だ! だから、佐薙も解放してくれっ。もう酷いことにあいつを巻き込まないでくれ!」
 目を伏せたまま亮は言った。
 その声が届いたのだろう、さなぎの声がスピーカーを通してガラスルームの中から亮の名を呼んでいた。
「成坂くん! お願い、逃げて! 僕は、いいんだ。吉野さんも、運が悪かっただけだ。誰も成坂くんのせいだなんて思わない。成坂くんは何も悪くない。だってキミはいつも僕を助けてくれたしっ。僕らのことはいいから、早く逃げて!」
 悲痛な叫びが響き渡る。
「佐薙はキミが大好きだなぁ。……いいよ、キミにはその価値がある。二人とも解放してあげるよ」
「ホントか!?」
「ああ。それがわかるように、キミにはもう一つ魔法を掛けてあげるよ。僕は自分の傀儡がどんな状態か目で見えている。アンズーツの掛かり具合がはっきりと確認できるんだ。その目をキミにも分けてあげる。そうすれば、二人が本当に解放されたかどうかわかるだろう?」
「……解放してオレがドールにされたあと、もっかいあいつらにアンズーツ掛けるとかナシだからなっ」
「はは、わかってるよ。彼らにそんな価値はない。佐薙の代わりだっていくらでもいる。疑似ソムニア薬の適用可能者はけっこう多いからね。約束するよ」
 東雲の言葉にウソはないようだった。確かにゲボとしての亮が目的なら、亮そのものがドールになりさえすれば彩名たちに手を出す意味はないのだろう。
 コクリ、と亮の喉が鳴った。
 そろそろと亮の視線が上げられる。
 そして――。
 東雲浬生の瞳を見た。
 闇のような黒が二つ、亮の顔を映している。
 東雲はトレードマークのメガネを外すと、亮の頬を左手で包み込み、深く、深く覗き込む。
【成坂亮。キミは僕のお人形だ。僕や、僕に選ばれた人間たちへは絶対服従しなくてはいけないよ?】
「……、っ、ぁ」
 ひくんと、亮の身体が痙攣した。
 東雲の唇から生まれ出た言霊は亮の全身にからみつき、あらゆる毛穴から、染みこみ始めていた。
 まるで熱線で雁字搦めにされたような苦痛が亮を襲う。
 熱くて痛くて、ぎりぎりと締め上げられ、肉だけでなく内部の骨すらも締め上げられているようだった。
 それに抗おうと首を振り意識に力を込めるが、そんなものはまるで効力を持たない。
 ゲボとしてのガードがない今の亮はあまりに無防備で、一般人のように東雲の力全てを吸収してしまう。
 熱い痛みと、奇妙な快感が亮を陶酔の世界へ誘っていく。
 東雲の強い視線だけが、今亮の見える全てになっていた。
【でもキミの頭の中だけはそのまま残してあげる。その時々、指示に応じたレベルで覚醒できるようにしてあげるよ。その方がキミも楽しめるだろう? 快楽も絶望も、キミが壊れちゃうほどに楽しむといい】
 ああ、そうだ――。と亮は思った。
 世界には自分と主人しかおらず、東雲浬生は絶対なのだ。
 言葉ではない、感覚でそう悟る。
 これは絶対的な世界の理であり、他には何もない。
 オレはきっとそのうち壊れてしまうんだ。主人の言うとおり、快楽と絶望で。――その結末に亮はひどく納得していた。
 だがその亮の悟りもすぐに霧散し、意識の外に消えてしまう。
【さぁ、戻っておいで。いつものキミに今は戻ることを許可しよう。ただしいいというまでリアルに戻ることは許さないよ?】
 気がつけば目の前には東雲が立っていて、亮はしゃがみ込んでいた。
 そう言えば、彩名と佐薙はどうなったのか――。
 ようやくそこに考えが至り、亮の視線がガラスルームへと向けられる。
「……、なり、さか、くん…………」
 そう言った佐薙の身体には、黄金に光る不可解な文字列が土星の輪のごとく、二重、三重に巡っている。
 あれが東雲の言霊だと、亮にはすぐに理解できた。
 すぐ横には未だナイフを構えたままの彩名が立っている。
 彩名の周りには佐薙とは比べものにならないほどの数の言霊が、まるで繭のごとくぐるぐると巡っていた。
 縛りの深度によって、言霊の量は変わってくるのだろう。
「約束、だからなっ!」
「はいはい。新しいお人形は気が強くて困る」
 東雲が振り返ると、瞬間、彩名の繭が弾け飛んでいた。
 同時に「ひやぁっ!」と悲鳴が上がり、ナイフがカランと投げ捨てられる。
「なに、これ、なにこれ!? 血ぃ出てるじゃんっ。マジありえないんだけどっ! 痛い、いたーいっ!」
 そう絶叫しながら次第にその姿が消えていく。
 縛りの無くなった彩名がリアルに戻っていくのだ。
「良かった。随分と元気そうじゃないか彼女。大した怪我じゃない」
「佐薙もだぞ!」
「わかってますよ、ワンコくん」
 東雲が微笑みながら亮の頭を撫でた。
 手錠の嵌った両手で亮はそれを鬱陶しげに払う。
 そして――。亮の視界に佐薙を巡る環が消えていく様がはっきりと映し出された。
「約束は守ったよ? これで満足かな」
「……おう」
 そう言ってぷいっと視線を逸らした亮の頭の中は、次にどうやって逃げるかの算段に移っていた。
 しかし、ふと不思議になる。なぜ逃げなくてはいけないのか。
 亮はセラにいなくてはいけないのに。
「さて、じゃいよいよ成坂くんの教習に移ろうか。金原先生もお待ちかねだ」
 亮の横で、ずるり、と熱源が動いた。
 見ればそこにはゼィゼィと呼吸を荒げた金原の姿。
「っ!!」
 ギラギラと血走った目と口端でひらひら泳ぐ泡の欠片が気持ち悪く、亮は思わず声を殺してしゃがみこんだまま腰をいざらせる。
 金原の周囲にはたった一本の言霊が廻っているだけである。
 彼を縛る言霊は「事実を他言しない」というその一本だけであり、それ以外は彼自身の意志で行われていると言うことらしい。
「お願い、先生、成坂くんに酷いことしないで!」
 その声はガラスルームのマイクを通して響いてくる。
 見れば佐薙はリアルに戻らず、まだそこへ厳然と存在していた。
「佐薙、もう帰れ! おまえ、もう言霊は切れてんだぞっ!?」
「ダメだよ、成坂くんっ。僕だけなんて帰れない。一緒に帰ろう。また、助けてくれた。成坂くんはまた僕を助けてくれたんだ! だから、今度は僕が、……僕が成坂くんを助けなくちゃ……」
 亮が責めるように東雲を見る。だが、東雲は困ったように肩をすくめただけだ。
「これは僕にもどうしようもないよ。約束通り僕は佐薙を解放してやった。だからあれは佐薙の意志だ。まぁどうやって佐薙がキミを助けようとするか、僕は楽しく見せてもらうだけだな」
 東雲は亮に背を向けると部屋を出て行き、すぐに上のロフトへ姿を現していた。どうやら特等席でのんびりこの状況を鑑賞するつもりらしい。
 残された醍醐は佐薙を見張るようにガラスルームの横へ立ち、応接セットの周囲には、金原と亮の二人だけになる。
「なり、さか……。悪い、子だ……。悪い、子だ……」
 荒い呼吸の合間に歯の隙間から吹き出す怨嗟にも似た呟きが、亮を恐怖に追い立てる。
 逃げだそうと足に力を込めると、「逃げるな!」と金原が叫んでいた。
 途端に亮の全身から力が失せる。
 は虫類のごとくにじり寄ってくる金原が亮の足首をつかんでいた。
「ひ……!」
 押し殺した悲鳴が亮の口から上がり、もう片方の足が金原をけりつけようと縮められた。だが――
「俺に逆らうな、成坂。おまえに許すのは悲鳴と鳴き声だけだ」
 亮の足がぴたりと止まる。蹴り降ろそうとしていた足も、金原の毛むくじゃらの手につかまれていた。
 靴を脱がされ、靴下をはぎ取られ、その指を金原が口の中に含んでいく。
「ぃ……、やめろ……」
 生理的嫌悪感で亮の顔がゆがんだ。
 だがそれだけだ。
 どんなに気持ち悪くても、亮はそれを受け入れるしかない。
「痛い、ぞ、成坂……。先生に暴力を振るうとは、とんでもない、生徒、だ」
 金原は「痛いぞ、痛いぞ」と呻きながら、夢中になって亮の足の指をしゃぶった。
 分厚い唇が音を立てて親指から順番に吸い上げ、指の間に舌を潜り込ませる。
「この、足で、先生を蹴った……。この、足で……」
 じゅぶりと音を立てて唾液ごと吸い上げ、黄ばんだ大きな歯で三本の指を同時にごりごりと噛んでいく。
「ぃたい、やめ、やめろ、変態っ、嫌だっ!」
「変態か、先生は、変態か? んん?」
 ぜーぜーと呼吸を荒げながら、次第に金原の唇ははいのぼり、亮の白いくるぶしをじゅぅじゅぅと吸い上げ、そして腕を伸ばして亮のズボンを脱がしにかかる。
 だがその様子を亮は見ていることしかできない。
「久我、も、見ているそうじゃ、ないか、成坂。……、クラス、メイトに見せてやりなさい。変態、の、先生に、今から、成坂が、どう、されるのか……」
「っ、」
 久我の名が出て亮の呼吸が一瞬止まった。
 この様子を久我はどこかで見ているのだ。
 その絶望を感じ取ったのか、金原は初めてそこで「ひひ」と声を立てて笑った。