■ 4-55 ■




「あ、あ、ぁ、ぁ、ぁ、………………っ」
 ベッドの上にぺたんと座り込んだまま、亮は虚ろな瞳で意味のない悲鳴をあげ続けていた。
 久我が撃ったのだと――なんとなくそれだけは亮にもわかった。
 佐薙の胸にぽっかり空いた穴からゴボゴボと深紅の血が溢れ出し、肺からの空気で朱色の泡が流れ落ちていく。それはまるで溶岩の湧き出す火口にも似て佐薙の命の火を感じさせたが、亮の頬に掛かった暖かな液体はもはや温度を無くし、冷たく亮の鎖骨へと滴っていた。
 頬を伝うこの液体は佐薙の血であり、彼の命だ。目の前のクラスメイトはこの彼の血と同様、じきに冷たくなり死んでいくのだろう。
 亮の脳裏に、ある光景がフラッシュバックする。
 優しい笑顔。安心する繊細な手。少しばかり英語なまりのある日本語。
 ピクニックに行こうと、言ったのだ。
 明日の朝は、お弁当を作って、一緒に森へ行こうと――彼はそう言っていつもと同じように優しく微笑んだ。
 このつらいことを我慢すれば、明日はきっとお天気だと、そう言った。
 そう言って彼は、亮を抱きしめてくれた。
 そして――次の瞬間、彼は宙を舞っていた。
 投げ出される身体。
 目の前に飛び散る鮮血。
 ノーヴィスは、亮を守るために死んでしまった。
 真っ赤な血をいっぱい流して、死んでしまった。
 亮が何も出来ないから。
 何も出来ずに守られてばかりだから、ノーヴィスは亮の代わりに死んだのだ。
 ぼんやりとしかなかった記憶の欠片が、鮮明な映像となって亮の中で組み上げられ、蘇る。
「……っ、ぁ、っ……は……っは…………は……」
 悲鳴の枯れ果てた亮の呼吸は速くなり、ガクガクと身体が震え始める。
 まるで凍てつく極寒の地にでもいるように、亮は己の肩を抱くとうずくまり、震え続けた。
 目の前がぐるぐると廻る。
 また、だ。と思った。
 また、亮は何も出来ず、誰かを殺すのだ。
 しかも今度は友達の手で、友達を殺す。
 胃の辺りが熱くなり、強烈な嘔吐感が亮を襲っていた。
「ぅ……、っぇぁぁああっ、っ、かはっ……っ、」
 身体を震わせて何度も空嘔をする。その苦しさと恐怖により、亮の瞳からはぼたぼたと情けないほどに涙がしたたり落ちていく。
 突き上げる吐き気と共に、何かが亮の内側で蠢き始めていた。
 この感覚を、亮は知っている。
 何度か覚えがある、細胞一つ一つが震え、共鳴する感じ――。
 そしてその共鳴は次第に振幅を増し、異なる空間への道を作り上げていくのだ。
 体中の産毛が逆立ち、ぞくぞくと快楽にも似た戦慄が亮の血管を駆けめぐる。
「っ、だめ、だ……、だめ……、だめだ……」
 アレが、来る。
 亮の呼吸は速くなり、指先は己の肩を抱いたまま血が滲むほどに食い込んでいく。
 ゲボの暴走。
 ゲボの意志でなく無作為に呼び出す異界の神は、誰にも制御不能である。
 リアルでの暴走ですらとてつもない大惨事を引き起こしたというのに、物理的な境界のないセラでアレが起これば、きっとこのスクールセラごと消えて無くなってしまうに違いない。そうなると死者の数は三桁に達してしまうだろう。
 確信に似た恐怖が亮を恐慌に追い立て、ますます良くない何かを加速させていく。
 細胞の振幅はやがて亮の内を駆けめぐる漆黒の奔流となり、意識を飲み込んでいくのだ。
 意識を手放しては駄目だ――。
 ただ、そう思う。それが亮の最後の砦に思えた。
 ぶつりと鈍い音がし、亮の両肩からするすると深紅の糸がこぼれ落ちていた。
 食い込んだ亮の爪先が、ついに亮の白い肩の肉を剔っていた。
「っ、ぁ、ぁ、ぁ、っ……、ぁぁぁあああああああああっ」
 雄叫びが亮の口から迸っていた。
 と――。そんな亮の身体を誰かが不意に抱きしめる。
 冷たい汗で冷え切った亮の身体に、その体温はゆったりと暖かかった。
「成坂っ、成坂……、落ち着け、もう大丈夫だ、大丈夫……、すぐにこっから出してやるからな……」
 反射的に声のした方へ顔を上げる。
 そこには笑ってしまいそうなほど真面目な顔で、こちらを覗き込んでいる亮の元相棒がいた。
 瞬間、安心で目を閉じてしまいそうになる。
 この久我の存在だけが現実で、今まで起こってきたことは全部幻だったのではないかと、そんな願望が確信となり亮の心へ甘く優しく染みこんでいく。
 ――久我。
 目を閉じて、一眠りして目覚めれば、いつものように寮の部屋で、このルームメイトとやいやいやりながら食堂へ降りていくのじゃないだろうか。
 学校に行けば教室には佐薙も彩名もいて、いつもの調子で亮の机の周りに集まってくるのだ。
 退屈で、でも楽しくて、亮が普通の高校生で居られる唯一の場所。
 だが、自分を抱きしめたルームメイトにまとわりつく匂いは、馴染みのない硝煙の香り。自慢の武器だと亮に見せびらかしながらも、実は一度もちゃんと使ったことがないと笑っていた久我の銃が役目を果たした匂いだ。
 ドクンと――亮の鼓動が強く一度胸を叩いた。
 久我は佐薙を撃った。
 おそらく亮を助けるため、久我はクラスメイトを撃ったのだ。
 佐薙はもうすぐ死に、久我はもうすぐ人殺しになる。
 これが、現実。

 ――久我を人殺しにしてはいけない。

黒く塗りつぶされそうだった意識が、意志の力で色を取り戻していく。

 ――久我をキルリストに載せてはいけない。
 ――そして、自分を好きだと言ってくれた佐薙を死なせてはいけない。

 体中に入っていた怯えた力が、じんわりと抜けていく。
 震えていた亮の身体が静けさを取り戻していた。

 ――怯えている場合ではない。
 ――今、自分が為すべきことはなんだ?

 亮は、ソムニアなのだ。
 ソムニアとして、全力で友達を守らなくてはいけないのだ。
 全身に渦巻く奔流が、いつしか亮の鼓動に合わせ規則正しく巡り始める。
「成坂、つかまれ。リアルにもどるぞ」
 久我は亮の頬についた血を優しく拭い、己の着ていた上着を一糸まとわぬ亮へかけると、亮を抱え上げるべく、亮の腕を取り膝裏に腕を差し込んでいく。
「久我……」
「っ! 成坂、俺の声、聞こえるのか? ……良かった。さっきからおまえ俺の声になんも反応してくれなかったから……」
「…………オレ、もど、らない」
 かすれた声で亮は言った。
 佐薙に強く絞められ、さらに何度も悲鳴を上げた亮の喉は随分と傷んでしまったようだった。
 だがその小さな呟きは強い意志を孕んでいた。
 久我の腕を避けるように肩を押し、亮はその腕からすり抜ける。
「なに言ってんだっ! くそっ、東雲のアンズーツかよ」
 久我は亮のその行動に東雲の影を感じ、視線に殺意を込めて上階の東雲を睨み上げていた。
「おいおい、自分が振られちゃったのを僕のせいにされてもこまるな、久我くん」
 こんな状況になったというのに、東雲はいつもと同じように微笑を浮かべ、足を組んだままゆったりと階下を見下ろしている。
「さて、次はどうするんだい? 裏切り者の久我くんが今度はどんな楽しい出し物を見せてくれるのかな」
 今しかない――。そう久我は思った。
 東雲が余裕ぶって動こうとしないのは久我にとっては都合が良かったし、彼の指示でリアルに戻り自分を呼び出した醍醐がまだ戻ってきていないのも幸運であると言えた。
 一度セラを出た一般人が再びセラへ戻るのには現実世界である程度の時間が必要だ。ソムニアである久我とて数秒でセラへ入獄できるようになるには何年もの訓練が必要だった。いくら疑似ソムニア薬を飲んだ醍醐とはいえ、訓練を積んだソムニアのようにすぐにセラへ入ることはまだ不可能だ。現実時間で十数分かかるとすれば、セラ時間では七時間以上の空白が出来ることになる。
「成坂、成坂っ! 今しかねぇんだ。アンズーツにかかってようと何だろうと、俺はおまえを連れて帰る。どんな手を使っても、絶対におまえを……」
「サンキュー、久我。……でも、時間がないんだ」
 亮は久我の言葉を遮り、正面から久我の目を見る。
「オレから、離れて――」
「何言って……」
 その漆黒の丸い瞳の奥に、久我は何か強い――覚悟のような光を見た。それは決してアンズーツに縛られている目ではない。
 亮は何かをしようとしている。
 それは絶望的な方策ではない。
 きっとおそらく――亮のソムニアとしての覚悟。
 力の入らない手足を動かしベッドの端まで来ると、亮は半ばずり落ちるように床へ降り立った。
 そして自分を犯し続けたクラスメイトの頬へ手を寄せる。
 そのぬくもりに、閉じられていたさなぎの目が微かに開いた。
 口許を汚す血泡は赤黒くまだ微かに吹き出し続けていたが、彼の顔色は紙のように白く、唇は青い。
 そしてぼこぼこと吹き出す血潮も次第にその勢いを無くし、上下していた胸の動きも最早緩慢なものとなっていた。
 佐薙の命の灯火は、あと数分持たないのだろう。
「……っぁ、……」
 青ざめた唇が亮の名を呼ぼうと小さく震えた。だがもう声にはならない。
「佐薙。……好きって言ってくれてサンキューな。オレも、おまえと一緒の時間、楽しかった。教室でも、部活でも。いつもオレの名前、呼んでくれる。……佐薙は、今もオレの大事な友達だ」
 亮の指の動きに佐薙はうっとりと目を閉じ、嬉しそうに微笑んだ。
 その顔を見つめ、亮はゆっくりと立ち上がる。
「……成坂、おまえ何するつもりだよ」
 久我は思わずそう尋ねた。
 久我の上着を羽織っただけの少年は、先程までされていた行為など微塵も感じさせないほど凛とし、為すべき何かを知っているかのように自信に満ちて見えたからだ。
「呼ぶ。……命を扱う異神を、呼ぶ。だから、久我は早くこのセラから出ろ」
 だが、そう言った亮の声は微かに震えていた。
 きっと亮は何かとんでもないことをやろうとしている――。そのことが久我にもヒシヒシと伝わってくる。
「ゲボの力、使うのか? ……よせよ、危ないんだろ、それ……」
「平気だって」
「なんでそんな奴の為におまえがそこまですんだよっ。アンズーツで縛っておまえにあんな真似した奴なんだぞ!? それだけじゃねぇ、おまえを殺そうとした最低の奴だっ。そんな奴、死んでもしょうがねぇだろうがっ!」
「佐薙は悪くない。オレが、ちゃんとゲボの力扱えないから、だからダメなんだ」
「はぁ!? なんでそうなるんだよっ! 意味わかんねーよっ」
「佐薙も、おまえも、オレは……守りたい」
 背中越しの友の一言に、久我は言葉を詰まらせる。
 セラで一般人を殺したソムニアは、例外なく処罰を受ける。たとえその相手が犯罪を冒している者であろうとも、その規定に変わりはない。
 久我は自分でも驚いたことに初めてその事実を認識していた。冷静なつもりでも、頭に血が上りそんな当たり前のことすら久我の中にはなかったのだ。
 しかしその事実を認めた今でも、自分の起こした行動に後悔はなかった。あのままただ、亮の命が奪われていくのを眺めているだけなど、できるはずはなかった。
「俺は……、俺は何も後悔してない。だからおまえが無理する必要なんてこれっぽっちも……」
「前にも一度、呼んだことあるんだ。今度はもっとうまくやれるさ」
 久我の言葉を遮るように、亮が言った。
 その何気ない言葉は強く、亮の意志の力を感じさせる。
 成坂亮は本気で、佐薙も久我も、救うつもりなのだ。
「っ、けど、異神の召還に失敗すればゲボはアルマごと連れて行かれちまうんだろ!? そしたら転生すらできねぇっ! 寂静と同じじゃねーかっ。しかも命を扱う? 『時』や『命』を扱う異神はとんでもなく扱いづらいってことくらい、ソムニア第一グレードの教科書にだって載ってる! 俺は俺の意志で佐薙を撃った。おまえがそんな無理することねーんだよ!」
「無理じゃない。やれるよ、久我。ちゃんと前はできたんだ。だから今度も失敗なんかしない」
 亮の声は頑なで、総理大臣だろうと大統領だろうと、誰の言葉ですら聞きそうにない。
 久我が後悔していないのと同じように、亮の決意にも迷いがないのだ。
 ふっと、久我の口から吐息が漏れた。
「……。そんじゃあ……俺がこのセラ出る必要もねぇな。おまえは失敗なんかしねーんだから」
「……っ、」
 亮が初めて久我を振り返る。
 久我は笑っていた。
 いつものように人を舐めた軽薄な笑みを浮かべ、久我は亮を見つめていた。
「ったく、強情で無鉄砲でどうしようもねぇな、俺の相方は」
「……ぉ、お互い様だろっ! アホ久我っ」
「やばくなったら合図しろよ。すぐに俺が助けてやっから」
「大丈夫だっつてんだろ、おとなしく見てろよっ」
 そう言い放つと、亮は自らの手首を白く小さな糸切り歯でかみ切る。
 赤い雫が糸になり、するすると佐薙の身体へと滑り落ちていく。
 佐薙の呼吸は次第に弱まりつつある。だが彼はその瞳を薄く開け、亮を見上げていた。
 最後の最後まで、亮の姿を見ていたいとでもいうように。
 亮は流れ落ちていく血の糸を見つめながら、己の身体の中で渦巻き続けるゲボの力を感じていく。
 召還の正しいやり方など誰からも教えられてはいない。シドも秋人も、亮がゲボとして召還術を使うことに徹頭徹尾反対しているからだ。
 だから亮は感じるまま、自分の本能の命ずるままに行動する。
 身体の中で渦巻く力を深い呼吸に合わせリズミカルに統合していく。
 その振幅が軌跡を描き、イメージとなって自分の中に扉を形成していた。
「佐薙の命を救える者よ。オレの声に応えてくれ――」
 亮はそう呟くと、その内なる扉をゆっくりとこじ開けていく。
 同時に亮を中心に渦を巻いて風がそよぎ始める。
 そしてそのそよ風は次第に烈風となり、豪風となり、周囲のガラス片を巻き上げて吹き荒れていく。
 亮の眼前に亀裂が入り、何者かが悠然と姿を現そうとしていた。











「…………っ、嘘でしょ」
 薄暗がりの部屋の中、先程から亮のベッド脇で立ったり座ったりと落ち着きのなかった秋人は、持ち込んだ簡易入獄システムの液晶モニターをぐっとつかみ、おでこがくっつかんばかりに近づける。ちらちらまたたく青白いモニター光が秋人の尋常ならざる焦りの表情を照らし出していた。
「いやいやいやいや、またパソコンの故障なんだよね、これ、僕のパソコンがちょっと調子悪いだけだよね? ……そうだと言ってよ亮くん」
 モニターで形を変えていく幾何学模様は、明らかに一つのことを指し示している。
「…………暴走、してる」
 乱れた数値やありえない領域を走りまくるラインの指し示すことは、この二文字でしかない。
 キーボードを弾き何度修正をかけてみても結果は変わらない。
 秋人の表情はいつになく真剣なものへと変わっていき、額にじんわりと脂汗を滲ませながら彼に出来るあらゆる手段を講じていく。
 覚醒を促す緊急コードを打ち込み、何度も何度も亮のアルマに働きかける。
「っ、くそっ、亮くん、元からシステム使って入獄したわけじゃないからな。僕が気づいてからの割り込み干渉じゃ、アルマとの接続が弱すぎるか……」
 秋人はシステムによる覚醒に見切りを付けると、亮の頬を叩きながら何度も彼の名前を呼ぶ。
「亮くんっ! 亮くんっ、戻ってきて! 亮くんっ!!」
 この行動が危険であることは百も承知だが、ゲボの暴走でアルマごと亮が異界へ引き込まれてしまうことを考えれば、そうせざるを得ない。
 しかし亮は変わらず静かな寝息を立て、ピクリとも動こうとしない。
 秋人は再び小型パソコンへ向かうと、ウィンドウを切り替え、シドとの連絡を開始する。
 彼の相棒は今、校内の一室で入獄し、今回の仕事の最終仕上げをするべく、人類ソムニア化実験の首謀者たちを一網打尽にしている最中だ。
 この大捕物の最中にプライベートな連絡を取ることなど、IICRに知られれば何を言われるかわかったものではないが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「出てくれよ、シド。いつもみたいに無視だけはやめてくれ……」
 ぶつぶつとありがちな心配事を呟きながら秋人がキーを弾いていく。秋人がコールしてもシドは十回に一回くらいしか出ないのだ。自分にとって必要の無いときはとにかく面倒がるのである。
 だから秋人はシドがうんざりするほど――つまり、一つの件で必ず十回連絡し、強引に電話を取らせることになる。
 そして――今回回線が繋がったのは、二秒後だった。
「っと……何このテレクラなみの速さ」
 相手は一コールも待たない間に電話を取ったようだ。
 ほっと息をつきつつ、「ありえないでしょ」と思わず苦笑を浮かべてしまいそうになる。
 そう言えば、IICR警察局上層部を相手に校内で入獄すると言い張ったシドは、確保の人手が足りないだろうからだとかなんとか言っていたが、秋人からすれば亮の身が気に掛かっているせいだというのは一目瞭然だった。
 まさかとは思うが、常に携帯片手に戦闘を行っていたのだろうか。
 すぐさまモニターに『なんだ』というそっけないいつもの言葉が浮かび上がる。
 が――。
 秋人が流れるようなタイピングで『亮くんが、スクールセラで暴走……』と打ち掛けた瞬間、回線はぷっつりと途切れていた。
「え、なんで、ちょっと……」
 慌てて再びコールしようとキーを弾く。
 だがそれから何度トライしても『Not found The person』の文字が点滅するのみである。
「うそ、なんでこんな時に接続不良!? ちょっとちょっと……」
 何度も何度もコールする秋人の携帯がバイブしたのは、それから一分後のことである。
『状況は』
 電話の相手は最も短い言葉でそう言った。
 驚いたことに、セラで連絡を受けてすぐさまシドは現実へ戻ってきたのだ。
「おま、仕事は!?」
『いい。早く状況を言え』
「いいっておまえ……。今夜も亮くん、スクールセラへ潜ってたみたいで状況を経過観察してたんだけど、二十秒くらい前から数値がぶっ飛んでて、暴走起こしてるみたいで……」
『スクールセラのどの位置だ』
「えっとこれは……生徒会室、の辺りかな……。…………っ、あれ、ちょっと待って」
 秋人はここでまた信じられないものを見るような目つきで、モニターに顔を近づける。
『なんだ、早く言え!』
「……いや、それが、……数値、落ち着いてる」
『…………まさか、また故障だったと言うんじゃあるまいな』
「いや、いやいやいやいや、さっきは確かに…………っていうか……、数値、落ち着いてるんだけど、…………落ち着きすぎて一本線になっちゃってる、みたいな…………。これって……」
『っ、……ウィル ホライズン現象――……ゲボが故意に何者かを召還したとき起きるアルマ波形だな』
「…………亮くん、やっちゃったか。あんなにダメだって言ったのに、どうして」
 秋人は下唇を噛み苦々しく眉を顰めていた。
 亮はゲボの使い方も認識も、あらゆることが未成熟な反面、その能力値だけは飛び抜けている。このアンバランスな状態で召還を行えばどうなるか、ソムニアについて詳しい秋人やシドからしてみれば、火を見るよりも明らかなのだ。そんな状況で召還術の初歩でも教えてしまえば、亮の性格だ。すぐにでも実践で使おうとするだろう。
 性的、肉体的な面ばかり利用されてきた亮からしてみれば、ゲボとして本来最も特徴とされるべき召還術を使いこなしたいと思うのはよくわかるのだが、それにはまだ亮の精神は未熟過ぎる。
 だから召還術は一切教えてこなかったし、これからまだ当分の間はそこへ触れることもしないでおこうと、シドや壬沙子とも話し合ったことなのである。
 先程の暴走波形は、亮が呼び出そうとして失敗しかけたものだったのかもしれない。とすると、たとえ今うまく召還できていても、それは薄氷の上を歩いていることと変わらない。何かのきっかけですぐに再び暴走モードへ切り替わり、亮がアルマごと飲み込まれてしまうことが十二分に考えられた。
『波形のカラーはどうなってる』
「瑠璃紺だね……『時』関係の異神かもしれない」
『前に呼び出した奴とは違うな。……だが、時、か』
「『時』も『命』と同じくらいやばいよ。普通どいつもこいつも、貪欲で冷淡で一方的だって文献には書いてある」
『おまえは引き続き亮のそばを離れるな。逐一俺にモニター報告しろ』
「うん、わかった…………、って切れてるし」
 電話の主は秋人の返事も待たず、回線を切断していた。
 秋人は憂いを含んだ目で亮を見つめる。
 もし今亮に意識があるのなら、この場でひっぱたいてでも召還などやめさせたかった。
 十六歳の少年は神をも畏れぬ無鉄砲さで前へ、前へと進もうとする。
 そのくせしっかり見ていてやらないと、次の瞬間には消えてしまいそうに儚いのだ。
「亮くん……、頼むよ。僕らのところに、ちゃんと……戻ってきてくれよ……」
 秋人はベッドへかがみ込むと、そっと亮の頬を撫でていた。