■ 4-56 ■




 生徒会室の姿は一変していた。
 亮の眼前に現れた光の亀裂から、数万、数億もの水滴が迸り出で、ガラスルームであったエリアに漂い始める。
 それらは幾重にも亮を取り囲み、綿雪のごとくゆっくりと床へと舞い落ち、そして今度は天井へと舞い上がっていく。繰り返されるその動きは、まるで壊れた映写機が映像をループさせているようで、亮は自分が立っているのか座っているのか、いや、どちらが天井でどちらが床なのか、その方向性さえ見失ってしまいそうだった。
 亮の心臓がドクンドクンと次第に大きく高鳴り始める。
( 違う……? なんか……違う、気がする……)
 以前亮が呼び出した、シドたちが『命を扱う者』と呼んでいた異神は白い球体であり、しっかりと形を有した硬質な姿をしていた。
 だが、今亮の周囲をグルグルと巡り始めたモノは、決まった形を持たぬ液体のようである。無意識に亮が二度、リアルに引き寄せてしまった異神とも違う。
( 見たことない……、知らない、異神、だ……)
 亮の周囲を幾重にも取り囲み渦を巻き始めた水の壁に合わせ、久我によって粉々に砕かれたガラスの欠片は巻き上げられ、きらきらと輝いていた。
 その煌めきは、瞬時に元のガラスの壁に戻り、次の瞬間にはさらさらと砂のように崩れていく。それらは時折ピタリと動きを止め、気づけばまた同じように元のガラスの壁に戻っているのだ。
 規則性も何もない。まるで小さな子供が砂場に山を作り、それを自ら壊すように、無秩序で創造的で、破壊的だ。
 どうしよう――という戸惑いが亮の胸中に揺れる。
 亮は意図したものと違う異神を呼び出してしまったのだ。
 だがそれを相手に悟られてはいけない。迷いや恐怖を召還相手に知られてしまえば、おそらく自分は生贄として成立してしまうのだろうと言うことだけが、亮にも分かった。
 だから猛獣使いのように、亮は鞭を振りかざし、異神と対峙しなくてはならない。
 亮は震えそうになる足にぐっと力を入れ、拳を握りしめると、自分を取り囲む水の壁をぐるりと眺めた。
 幾重にも重なる壁を数枚隔てて、戸惑ったように立ちすくむ久我の姿がすけて見えた。
 だがその姿は、久我であり、久我でない。
 水壁越しにふっと幼い子供の姿に見えることもあれば、次の瞬間には壮年の男の姿に見えることもある。そして時には亮の知らない異国の衣装を身につけた青年が佇んでいるようにも見えた。
 その全てが久我なのだと言うことが、不思議なほど亮にはしっくりと理解できた。
( ここは時間が……めちゃくちゃなんだ……。もしかしてコイツ、時間の異神……なのかな……)
  その時、ビクンと水面全体が波打ち、青く光を放った。
『 我を呼ぶのは貴様か、秀綱 』
 そう、声が聞こえた。
 いや、聞こえたというより、脳内に直接響く感じだ。
 亮はギクリと身をすくめ、だが決してそれを悟られないように唇を噛み締め、前方へ向き直る。
 そそり立つ水壁の中、身長二メートル近い大きな男が立っていた。
 屈強な筋肉に覆われた肉体はさながら鎧のようであり、その天辺から生えた伸び放題の髪は男の顔を全て覆い隠し、くるぶしまで鬱そうと垂れ下がっている。
 そして何より、男の肌は未知の金属で作られた彫像のごとく紫色に輝いており、明らかに人ならざる者であることが伺えた。
 圧倒的な存在感が、ビリビリと亮の肌を刺激する。
『 秀綱、ではないな。誰だ、貴様は 』
 異神が訝しむと、周囲の水の壁は一斉にざわつき、中から甲高い昆虫の鳴き声のようなものが、いくつもいくつも折り重なるようにリンリンと響き始め、亮は耳を覆いたくなった。脳に爪を立て引き裂くようなその音はずっと聞いていると頭がおかしくなりそうだ。
 しかもその虫の音は、次第に『音』ではなく『声』となり、
【 だれ?】【だれ?】【うまそう】【これうまそう】【よかった】【ひでつなじゃない】【ひでつなこわい】【よかった】【だれ?】【はやく】【うまそう】【ほしい】【うまそう】
 と、唱和し始めるのだ。
 ぞくりと背筋がうずき、亮は鳥肌を立てていた。異神は一人ではないのかもしれない。
 こんな風に人の言葉を話す異神と、亮は触れ合ったことがない。しかも人型をした相手が目の前にいるなど、今までとはかなり勝手が違う。
 感覚的にどうにか為し終えた『命を扱う者』の時とは違い、言葉が通じる分、今度はもっとテクニカルなことが必要なのだとなんとなく理解する。
 異神と交渉し、契約しなくてはいけないのだ。
 その為にしなくてはいけないこと、してはいけないこと――その両方とも亮にはわからない。
 しかし、もう引き返せない。亮は異神の領域へ踏み込んでしまった。


「来た……。ふふふふ……、あはは、本当に来た!」
 眼前に巻き起こった嵐のような異常事態に、東雲 浬生は立ち上がり、身を乗り出す。
 その眼鏡の奥の瞳は未だかつて無いほどに爛々と輝き、興奮が彼の白い肌を赤く染める。
 室内の灯りはチカチカと忙しなく瞬いていた。
 風に靡く髪を手で押さえ、東雲が振り返る。
「見える? 母さん。その時が来たんだよ。暴走は引き起こせなかったけど、成坂くんは僕の期待に十分応えてくれた」
 東雲の横に無言のまま座っていた人物――。彼女はそこで初めて意志を持ったかのように東雲の顔を見返す。
 東雲は少し驚いたような顔をすると、すぐに微笑んでいた。
「おはよう、母さん」
 病室で眠っていたときのパジャマ姿ではない、教師らしいカッチリとしたスーツを着こなした彼女は別人のようであったが、その人物は紛れもなく東雲浬生の母、美帆であった。
「……浬生……」
「やっと、あなたにお礼が出来る。僕をこの世に生んでくれたことに対する、ね」



 目の前に現われた異形の神をぐっと睨むように見つめ、少年は震えそうになる肺を必死に抑えてゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「お……、オレは、亮。成坂、亮、だ。おまえは、誰だ?」
 亮がそう尋ねると異神は巨体を揺らして哄笑し、ぐっと顔を近づける。
 水の壁が息苦しいまでの圧力を持って亮の眼前数十センチまでに迫ってくる。
『呼び出しておいて誰だとはこれ如何に。我が名を知らぬ者に我は従わぬ。成坂 亮。――我は貴様の名を知った。我が貴様の主だ』
【やった】【はやく】【こっちへ】【うまそう】【ほしい】【これほしい】【あそぼう】【ほしい】【やった】【はやく】【はやく】【はやく】【うまそう】【うまそう!】【ほしい】【ほしいよ】【はやく】
 水壁がさざ波を立て、そのしぶきが亮の身体へまとわりつく。
 だが決して亮の身体が濡れることはない。しぶきは亮の肌の上をころころと転がると、再び水壁へふわりと戻っていく。
 しまったと思った。
 何も考えず行動したら、即命取りになる状況なのだ。
 安易にこちらの情報も手の内も見せるべきではなかった。
「っ、それは、オレの名前だけど、ホントのじゃない。そんなの今会ったばっかのおまえに、教えるわけないだろ!」
『ほう、亮とやら。貴様は名を二つ持つのか。秀綱と同じだな』
 秀綱――という名をまた、異神は口にしていた。
 その名前は亮も聞いたことがある。
 シドの師匠にして、古神を呼び出していたという伝説的なゲボの名だ。剣術も、召還も、神掛かった腕を持っていたそうだ。
 なぜかシドに「彼と会ったことがあるか?」と聞かれたことを思い出す。シドですら二世代前に別れたきりで会っていないその人物に、なぜ新米ソムニアの亮が会ったことがあると思ったのかはわからなかったが、「ないよ」と答えると、それきりその話はふられなくなった。
 だが、それだけのことだ。それ以来そんな名前は亮の頭からは消えていた。
【ひでつなとおなじ】【ひでつなこわい】【でもこれはうまそう】【これひでつな?】【ひでつなこわい】【でもこれはほしい】
 周囲の声がキンキンと亮の脳に響く。
 どうやら『秀綱』は彼らに畏れられているらしい。
「っ、ぉ……オレも同じソムニアだから、名前だって二つあるんだっ』
『では貴様もあの恐ろしい人間と同じように、我を使役するつもりか。――笑止!』
 異神が笑うと亮と彼を中心に水壁は渦を巻き、リンリンと甲高い声が部屋中を席巻する。まるで暴風雨に見舞われたかのような状況の中、かき消されそうな声が亮の元に届いていた。
「成坂っ! どうなってる!? おまえ、生きてんのか!?」
 水壁の向こう側、嵐の中必死にこちらを伺おうとする久我の姿が透けて見えた。しかしその姿はやはり様々に移ろい定まらない。
「おうっ、生きてるっ。待ってろ、ちゃっちゃと契約して佐薙を治してもらうからなっ」
『ふはははっ、成坂 亮。おまえの言う契約とはなんだ。我に何を望む?』
 亮は自分の足下で今しも消えていきそうな佐薙のアルマを見た。
 アルマが消えてしまえばもう、異神の力を使っても佐薙は助からないかもしれない。
 この吹き荒れる時間の中、亮にも佐薙にも時間がない。
「……この人間を助けて欲しい」
『助けろ、とは? 我は命に触れることなどできぬ』
 できない――と言いつつ、異神の声には含んだような笑いが混じっている。亮は自分が試されているのだと、なんとなく感じ取る。
「でも……、時間は戻せるだろ? おまえは時間を操る異神……なんだから」
 間違っていれば亮はその場で食い殺されてしまうかもしれない。召還は相手に舐められたらおしまいなのだと言うことが、肌がひりつくほど知らしめられていた。
 ドクンドクンと鳴る自分の鼓動を聴きながら、亮は真っ直ぐに光る巨人を見上げる。
『――なるほど。その程度はわかるか、成坂 亮』
 しばしの間をおいて、異神はその鬱蒼とした髪の奥でにやりと笑ったようだった。
『だがそれは我が名ではない。お互い名を知らぬ以上、貴様と我は対等だ。契約を交わすのであればそれ相応の対価が必要だ』
 対等――という言葉に亮は静かに息を吐いた。どうやら、その場で食い殺されることはなさそうだ。
【なんでばれた?】【はやく】【だましてつれていこう】【うまそう】【だませ】【いいにおい】【たべよう】【あそぼう】【たべてあそぼう】【なんどももどして】【あきるまでもどそう】
 しかし周囲の声は不穏なことをヒソヒソと囁く。
 自分がもし連れて行かれれば、何度も何度も死んでなお食われてしまうのかもしれない――。そんな恐ろしい予測が立ち、亮はそのイメージを振り払おうと大きく深呼吸をした。
「オレの血、この手のひら一杯分、やる。だから、ほんの少し――こいつの時間を戻して欲しい」
『貴様のその小さな手、一杯だけの血で時を戻せというか。随分と虫の良い契約だ』
「ほんの少し、――こいつの命が助かるだけ……五分だけでいいんだ!」
『五分がどれほど途方もないものか、貴様にはわかっていない。時は光をねじ曲げ、記憶を歪め、世界を連続させ、ありえないものを生み出し、あるはずのものを潰す。時こそ秩序。時こそ混沌。時こそ次元の根源。――その時を僅かでも意のままに操ろうというのに、対価が貴様の安い血数滴とは、ここへ我が来た意味がない。帰らせてもらうぞ』
「っ、待てっ!」
 異神の姿が揺らぎ始めたのを見て、亮は咄嗟に叫んでいた。
【くいついた!】【さすがぼくらのかみ】【じょうずだよ】【はやくいわせて】【ぼくをあげるっていわせて】【なんでもするっていわせて】【ぼくをたべてっていわせて】【はやく】【はやく】【はやく!】
 りんりんとやかましいほどに音が鳴り、亮の頭の中に金属のような声が鳴り響く。
 あまりのボリュームで頭が痛くなりそうだった。
 だが、その声が言っている言葉だけは絶対に吐いてはいけない気がした。
 おそらく契約はもう始まっている。
 今から亮の口にすること全てが、実行されるに違いない――そんな危機感が亮の額にじんわりと冷や汗を滲ませる。
「っ、それじゃ、おまえはオレの血、もう一滴もいらないんだな」

『なに!?』

 異神の姿が再び強く表れる。
「おまえはオレの血が欲しくて、こんなとこまで来たんだろ。それなのにもう帰るってことは、そういうことだ」
 一か八か、だった。
 きんきん響く鈴の音の騒ぎ方を聞いていると、彼らは亮を食べたくて仕方がないようだ。冷静で老獪で悠然とした目の前の異神とはまるで対極に位置する、幼稚で下品で貪欲な声。彼らが誰なのか、いや、何なのか、それすら亮にはわからなかったが、亮は鈴の音の言葉を無視できずにいた。
 これが吉と出るか凶と出るか――。これが異神の罠なのだとしたら、亮はうまく誘導されているのだろう。
 震え出す身体を、亮はぐっと左手で押さえ込む。
 そして佐薙の上に滴らせていた血を止めるように、掲げていた右手をそっと胸にかき抱いた。
【なんで!?】【だめだよ!】【ほしい!】【ほしいよ!】【まだちょっとなめただけなのに!】【かえらないでかみ!】【これのちおいしいよ】【あまくておいしいのもっと】【もっとしぼって!】【ちだけじゃやだよ!】【ぜんぶほしい!】【ぜんぶがだめならはんぶんほしい!】
「……オレの血、味見はしたろ? 悪くなかったはずだ」
『随分と強気だな、小僧』
「もしこのまま帰るなら、おまえは頼りにならない異神だから、もう二度と呼ばない。二度とオレの血を舐めることもできない」
【いやだよ!】【いやだ!】【にどとってずっと?】【あのちもうのめない?】【もうこれによばれないんだって】【ひでつなはきらいだけどこれはすき】【これ?】【とおるだよ】【これ、とおる】【もってかえれないの?】【よばれなければちゃんすはないよ】【とおるもってかえりたいよ!】【ちゃんすつくって】【かみ!】【よばれて!】
 きゃんきゃんと鈴の音が喚く。
 鈴の音たちはチャンスを作りたがっている――というのが、亮にもわかる。つまり、何度も召還されたがっているのだ。
『この場でおまえを連れて帰れば何も問題はない。いくらでも無尽蔵に貴様の血を啜り、貴様の魂を弄ぼう』
 異神は身体を揺らし笑うと、ぐっと身体を近づけ、その野太い腕を亮の身体へと伸ばす。
 水の塊がうねりを上げて押し寄せ、その圧迫感と迫力に亮の足が引きそうにびくりと動いた。
 だが、そこで踏みとどまる。
 下がってはだめだ――そう自分に言い聞かせる。
 舐められてはだめなのだ。
【おどろかないよ】【なんで?】【こわがらないのなんで?】【とおる、つよいの?】【いまはつよい、ね】【こわがってないからだ】【こわがらせて!】【かみこわがらせてつれていこう】
「無理だね。おまえにオレは連れて行けない」
 するり――と、頬を汗が滑っていく。
 だが、それだけだ。
 亮は相手をにらみ据えたまま一歩も引くことをしなかった。
「早くしろよ。佐薙の命が消えたら、契約はなしだからな。ホントにもう二度と、おまえは呼ばない!」
『……では小僧。おまえの身体から半分血をよこせ。そうすれば五分だけ時を戻してやる』
 やはり、鈴の音が言うように、半分は欲しいらしい。
 だが半分も血を抜かれては亮とて生きていられるわけがない。
 いや、抜かれている途中で意識を失ってそのまま丸ごと持って行かれるのがオチだ。
「冗談だろ。たった五分なんだ。手のひら一杯で十分のはずだ」
『貴様っ……』
 強気な亮の言葉に、異神の髪の奥からギラリと紫の双眸が凶光を放つ。
 そこで間髪入れず、亮は言葉をつなげた。
「ただし、うまく行ったら、また呼ぶ!」
『…………なに?』
「何度も、おまえを召還する。そうすれば、その度に少しずつオレの血を持って行ける。何度も来れば、塵も積もれば山となるだろっ!?」
 ここにきて、異神は考え込むように腕を組み黙り込む。
【なんどもよぶって】【ちりもつもればやまとなるってなに】【なんどもよばれればいいよ】【ちゃんすだ】【もってかえるちゃんすだよ】【なんどもちゃんすがくるよ】【ちゃんすとちがいっしょにくるよ】【いいね】【それいいね】【ときがはやくすぎればいいだけ】【はやくすぎたらすぐあえるよ】【いいね】【それいいね】
 鈴の音たちは急にご機嫌になったように、楽しげに音を鳴らす。
 それと同時に周囲の水壁がちゃぷちゃぷと波打っていた。
『真実、我をまた呼び出すか?』
 異神が深く低い声でそう言った。
 亮はそれに大きく肯いてみせる。
 異神は亮の言葉に納得したように組んでいた腕をほどくと、天へ掲げた。

『では契約を結ぼう。おまえの手のひら一杯の血を、我に捧げよ。そしてまた、必ず我を呼べ。約束すれば、その人間の時をわずかばかり戻してやろう』

 亮の胸は壊れそうなほど脈打ち始める。
 もう本当に取り返しが付かない。
 これで応を唱えた瞬間、亮の命運が決まるのだ。
 だが、戸惑っている時間は一秒たりとも無い。
「わかった。――契約、する」
 大きな声ではなかった。
 だがハッキリと、異神に意志を伝えるべく亮は約束を交わしていた。
 そして血の止まりかけていた右手首を再び噛みきり、左手の上にかざす。
 するすると流れ落ちる血の糸は瞬く間に亮の手のひらから溢れ、亮はそれを異神へと差し出していた。
 異神は身をかがめ、かしづくように亮の手のひらに口を寄せていく。
 瑠璃色の水壁が亮を圧し包むように取り囲み、世界は異神と亮の二者だけとなる。
 水壁の向こうは砂をぶちまけたような光の粒が無数に広がり、様々な幾何学模様を形作っては姿を変えていく。
 亮の手の先だけが、水壁の中へ飲み込まれていた。
 だが、冷たくはない。
 感触は何も変わらないのだ。
 ああ――、と亮は思った。
 これは水に見えるけど、水じゃない。別の何かなんだな、と。
 一抱えほどはありそうな異神の頭が亮の手のひらに近づき、こぼれ落ちる血を啜っていく。
 ゆっくりと味わうように、異神は舌を鳴らしてそれを飲み下していた。
 最後に異神の巨大な舌が亮の手のひらを、ぞろりと舐める。
 妙に生ぬるい感触は神ではなく、生き物のように感じられた。

『甘露!』

 異神は吠えると、のっしりと身を起こす。
 それと同時に頭上を圧し包んでいた水の壁がぱっと上方へ弾け飛んでいた。
【あまぁい】【おいしいね】【おいしいね】【もっとほしいよ】【もっとのみたいよ!】【とおるはおいしい】【とおるはおいしい】
 鈴の音がりんりんとさんざめく。
 亮を取り囲むように水壁は渦を巻き、嵐のように巡っていた。
『ではその人間の時を戻そう。五分、で良いか』
「あれからまた時間が経ったから、もう少し。佐薙の命が助かる時間まで戻してくれ」
 亮が睨み上げるように異神を見据え、言う。
 異神は肯くと、両腕を天へ掲げた。

『承知! この人間の命が助かるまで、戻そう』

 亮の足下で倒れ込んでいた佐薙の身体がふわりと浮き、水面に沈むがごとく、水壁の中へ飲み込まれていく。
 その瞬間、異神の屈強な肉体が縦にバックリと裂けた。
 中からあふれ出る光の粒子に、亮は思わず目を細めた。
 その粒子は黒い色をしていた。だが確かに光なのだ。その証拠に眩しくて亮はその中を凝視できない。
 佐薙の身体はまるで自分の意志で歩いているかのように、ひょこひょこ進むと、自らその中へ入っていく。
「っ……」
 大丈夫なんだろうか――、そんな不安が亮の胸をかすめる。
 だが亮がどう思おうと、すでに佐薙の身体は異神の中へ入り込み、同時にまるで傷が縫合していくかのように、黒き光の裂け目は閉じられていく。
 異神が両手を掲げたまま、頭上を仰ぎ見た。
 彼の茫茫とした髪の束が逆立ち、それぞれ別の生を持っているかのごとくゆらゆらと揺れていた。
 次第に異神の視線の先に、真っ白な輝きを放つ渦が現れ始める。
 その渦は確かに白く輝く光なのだが、不思議と眩しさは感じない。
 渦は激しくきりもみしながら天井から床に向かい、雪崩落ち始めていた。
 異神の身体はその中央にあり、青く眩く輝いている。
「……っ、すっげぇ……、なんだよこれ……」
 ため息混じりの久我の声が、亮の耳に届く。
【じかんうずだ!】【じげんとびらだ!】【ぼくらのきょうかい】【こっちにくればいいのに】【とおるがうずにはいればいいよ】【そしたらもうぼくらのせかい】【ぼくらのじゅうにん】【ぼくらのおもちゃ】【そっちのせかいとはずっとさよなら】【こっちにおいでよ】【こっちにきてよ】
 リンリンと鈴の音たちが騒ぎ立てる。
「ウソみてぇに綺麗だな……」
 久我の声が思ったより近くで聞こえた。
 振り返れば、先程よりさらに近く、久我の姿がある。
 亮と久我を隔てていた薄い水膜はいつしか消え、中央の渦に統合されてしまったようだった。

『どうだ、成坂亮。もっと近くで我が奇跡を眺めないか? 渦の中へ入ってこい。見物が終わればまたこちらへ戻してやる』

 異神が地面を振るわす声で言った。
『そこの人間も、滅多にない見モノを堪能したかろう。亮と共になら、中へ入ることを許そう』
 目の前で飛沫を上げて雪崩落ちる光の渦は、まるで虹をまとったかのように艶やかで、それでいて不思議なほどの静寂に満ちていた。
 誰もがそこへ戻りたくなる、ありもしない望郷の心が胸の隅からにじみ出す。
 ふらりと久我の手が伸びていた。
「! 久我っ、だめだ、それに触るな!」
 咄嗟に亮が叫ぶ。
 右手の傷口を押さえていた手をほどき、亮は久我へ手を伸ばす。
「その渦に触ればあっちへ連れて行かれる! こっちの世界とは永遠にさよならになるぞ!」
「ぃっ!?」
 我に返った久我は、びくんと手を引っ込めると、驚いた猫のようにぴょんと背後へ飛び退っていた。
 両腕を掲げたまま、異神が亮を見下ろした。

『……なぜそう思う。成坂亮。我の言葉を疑うか?』

 異神の機嫌をそこねたら終わり。鈴の声が異神の作戦だったら終わり。亮の周囲はバッドエンドでひしめき合っている。
 ここに正解は落ちているのか、それすら亮には分からない。
 だが、立ち止まることは許されない。
 どこかへ進まなくてはならないのだ。
 だから亮は半分自棄になって怒鳴っていた。
「疑うも何も、おまえんとこの子分たちが言ってるじゃないか! その時間渦だか次元扉だかに触ると、もうそっちに行くしかなくなるってっ」
『むぅ……』
 瞬間、虚を突かれたように異神の身体が傾いだ。
 そして驚きに満ちた声でこう続ける。
『貴様、信者たちの声が聞こえるのか? ……いつからだ』
「……信者? 鈴の音みたいな声のことか? ……それなら最初からずっと聞こえてる」
【うそだ!】【なに?なに?】【とおるはぼくらのこえがきこえるの?】【じゃあだめじゃん】【ずっとぬすみぎきされてたよ】【ぼくはまずいことはいってないよ】【ぼくだって!】【とおるがもらえないのはだれのせい?】【ぼくらのせいじゃないよ!】
 慌てたように鈴の音が中心の渦で騒ぎ立てる。
『…………。貴様は、何だ? 成坂亮」
「? 意味わかんねーこと言ってまた惑わそうってのか? ナンだって聞かれても、オレはオレだ」
『秀綱ではないのだな?』
「何度も言わせんなっ! 秀綱って人とオレはなんも関係ねーっ」
『信者たちの声を聞ける人間が、あやつ以外にもいるとは……。人の子は恐ろしき生き物よ……』
 嘆息に似た言葉を異神が吐いた瞬間だった。
 光の渦の上部がパッと輝き、まるで大きな石を湖に投げ込んだかのごとく、渦の飛沫が周囲に飛び散る。
 ガクン――と、部屋全体が傾いでいた。
 いや、部屋自体が傾いだのではない。
 亮たちのいる場所の重力場が乱れ、上下左右の概念が均衡を失っているのだ。
 何が起こったのかわからず、亮は光の中心を仰ぎ見た。
 渦の中央――そこに一人の女性がゆっくりと沈んでいた。
 年の頃は四十代後半――。凛とした美しい容貌の彼女を、亮は一度だけ見たことがある。それは東雲をつけて病院に足を踏み入れたとき。
 今ここにいるのは東雲美帆――。あの日見たのと同じ、紛れもない東雲浬生の実の母親だ。
「なん……で……!?」
 突然の登場人物と突然の出来事に、亮は混乱する。
 渦の向こう側に――、ロフトの端へ腰掛けた東雲浬生の姿がゆらゆらと透けて見えた。
 その表情まではわからないが、東雲はじっと、沈んでいく母親を眺めているようだった。
「――――。」
 東雲は何かを呟いたようだった。だがその声までは聞こえない。
 まさか、東雲は自ら母親をこの時間の渦へ落としたというのだろうか。
 ぐらりとバランスを失った亮の身体が、渦の方へと滑り落ちていく。
「っ!」
 必死に足を踏ん張ろうとするが、乱れた重力場の元ではそんな努力などなんの意味もない。情けなく足下がよろける。
「くそっ!」
【にんげんがおちたよ】【とおるじゃないね】【とおるももうすぐおちるよ】【そうだね】【にんげんがおちて、うずがぐらぐらしてるもの】【にんげんありがとう】【このにんげんはきもちよくたべてあげよう】【きれいさっぱりね】
 鈴の音が喜び勇んで激しく鳴り始める。
 今や床は壁と化し、カーペットを必死でつかもうとしていた亮の指先が、虚しく毛の合間を滑っていく。
【つぎはとおるだ】【とおるだ】【とおる】【とおる】【はやく】【はやく!】
 亮の小さな身体は瞬く間に渦の方へと滑り落ちていく。
 そのつま先が渦からにじみ出た光の欠片に触れようとしたその時。
「成坂っ!!!!」
 頭上から声が聞こえた。
 そしてするすると落ちてくる一本の糸。
 蜘蛛の糸のように細く白いそれを、亮は藁をもつかむ気持ちでたぐり寄せていた。
 ビンッ――と、糸が張る。
 意外にもその糸は切れることなく、亮の身体を支えることに成功していた。
 しかもこれほど細い糸に全体重を預けているにもかかわらず、手のひらに痛みはない。
 物理的観点から言えばそんなことはありえないはずだ。
 しかし亮の手に傷は走らない。
 亮は糸の先を仰ぎ見る。
「……久我!」
 そこにはベッドの端に片腕でしがみつき、もう片方の腕で亮へ渡した糸をたぐり寄せようとする久我の姿があった。
「はっはー。すげぇだろ、この糸。ソムニアの念糸で出来てて、軽くて丈夫、かつ安全性抜群なんだぜ? ソムニアショップで買った探偵セットの一つだ。めちゃくちゃ高かったんだぞ!?」
「久我、無茶すんな……、おまえまで落っこちるぞ。手、放せ!」
「なめんな……、Cクラスソムニアの底力見せてやっからよ……」
 滑りそうになる指先にぐっ力を込め、久我の右手がベッドの柵をつかみ直す。
「くそっ、アホ久我っ!」
 ソムニアのクラスのことを持ち出し始めたら、久我がテコでも動かないことを、亮は良く知っている。
 となると亮は自らを諦めることもできないということだ。
「ぜってーベッドつかんだ手、放すなよ!」
 亮は自ら糸をたぐり寄せ、腕の力だけで久我の元へと登っていく。
「ああ。わかってる! 放さねぇ! 死んでも放さねぇ! この糸はぜってぇ放さねぇからなっ、成坂っ!」
「糸じゃねー、ベッドだ、ベッド!」
 まさか亮を引っ張り上げるためにベッドをつかんだ手を放すのではないかという疑念が湧き、亮は思わず本気で突っ込む。
「お、おう。わかってるぜ?」
 本当にわかっているのかと思いながらも、亮はその糸をぐるりと身体に巻き付け、離れないようぎゅっと縛り上げていた。こうすれば、万が一亮の手が滑っても、最悪の事態は防げるだろう。
【とおる、おちないよ!?】【どうしよう、もうけいやくがおわる】【ときがもどる】【おわっちゃうよ!】【かえりたくない!】
 鈴の音がリンリンと鳴り、信者たちの声が渦の中から響き渡る。
 異神の髪がゆらゆらと揺れ、その間から無数の線虫たちがざわりと伸び始める。
 それらは次々と渦の中から飛び出し、身体をくねらせ亮の足をつかもうとする。
 線虫の先は人の手の形であり、人の目であり、人の口だ。
 あらゆる人体のパーツを用いてつくられた奇怪なオブジェが、亮の身体を絡め取ろうと次々と伸び上がる。
「成坂っ、登れ! もっと登ってこい!」
「わかってる! てか、引っ張れよ久我!」
「引っ張ってるだろーがっ!! 愛を込めて!!」
 二人がいつもの調子でやり始めたその時。
 白かった光の渦が、一瞬にして黒の光にとって変わる。
 ボトリ――と音がした。
 渦の中から、ぬめぬめと濡れ光った素っ裸の佐薙が吐き出され、生徒会室の壁の上に落ちていた。
 その姿が確認できたのは、黒く変化した渦が、瞬く間に小さく小さく収縮し始めたからである。
『その人間を真に救うには、随分と時を戻す必要があった。今宵はさあびすだ。ありがたく思え』
 そう異神の声が聞こえ、それを彩るように【かえらない】【あれをもっていこう】【かみ!もどって】と駄々をこねる信者たちの声が、キンキンと響き渡る。

『成坂亮。不可思議な小僧よ。我は約束を果たした。次はおまえの番だ。――また、必ず我を呼ぶがいい。しばしの別れだ!』

 最後にそう深い声が響き、やがて黒い渦も霞のように消えていた。
 途端に天地の概念が戻る。
 どさり――、と久我の身体はベッドの際に落ち、亮も床へ放り落とされた。
「成坂、大丈夫か!?」
「っ、ぁぁ、とりあえず、生きてる」
 お互いの無事を確認すると、すぐに亮は佐薙の方へ視線をやった。
 佐薙はドア近くの床にうずくまるように倒れていた。その身体には、あれだけ飛沫いていた血の跡がどこにもない。
 全く傷がないのである。
 そして佐薙は一度身体を震わせると、まるで眠りから覚めたかのように、ボンヤリとした顔で身を起こし、きょろきょろと周囲を眺め始めていた。
「……、佐薙……」
 そう声を掛けた亮の姿を見て、佐薙は不思議そうに首を傾げ、ゆっくりと消えていく。
 現実世界に戻って行くのだ。
「もう大丈夫そうだね、彼。久我くんも殺人せずに済んでまさにハッピーエンド。……二人とも落ちなくて本当に良かった」
 亮と久我の前に佇んでいるのは、東雲浬生。
 むくりと起き上がった久我は、その胸ぐらをつかみ怒鳴りつける。
「ってめーなぁっ!」
 今にも殴りかからんとする久我に対し、東雲は穏やかに微笑んだ。
 そして床に座り込んだままの亮にこう言ったのだ。
「初めて親孝行ができたよ。……ありがとう、成坂くん」
「っ…………、おまぇ……、」
 久我の力が抜ける。
 そうなのだ。
 この男は、自ら母親を異神の世界へ追いやったのだ。
「……わかんねぇよ。……おまえの考えてること」
「そうかい? ……世界で一人だけ、わかってくれてるヤツがいればそれでいいんだ。それはキミじゃない」
 何をどう言えばいいのか、行く先を見失った久我に、東雲が言う。
「そうそう。今頃学校は大掃除されているはずだ。僕をIICRへ突き出したいなら早くしたほうがいいよ、久我くん」
「なにっ!?」
 そこではたと久我は我に返る。
 そうなのだ。
 久我がなぜここまでこんな桁違いの苦労をしてきたのかといえば、事件の首謀者をIICRへ突き出し、賞金と名声を得る為なのだ。
 当初の目的を思い出し、ポケットから携帯を取り出すと番号をプッシュする。
「成坂、いよいよだぞ!」
 ついでに東雲の両腕に持参した空間錠を掛け、久我は亮へ向き直った。
「……ん。オレは、いいや」
「いいって、おまえ……」
「オレ、先に帰ってるわ。つかれた……」
 亮の瞼はもう閉じる寸前である。
 ゆっくりと姿が消え始める。
「そりゃそうだろうけど……。いいとこなんだぜ? 俺の見せ場なんだけどな……」
 ひらひらと手を振った亮の姿が消えていた。
 ため息混じりに東雲を見た。
 東雲は肩をすくめ「キミは毎回振られているな」と、気の毒そうに言った。
『はい。こちらIICRバスター受付係』
 久我の携帯から声が聞こえた。
 IICRの賞金課に電話が繋がったのだ。
「あ! あのですね……」
 そこまで言った久我は、ふと自分がずっと握り続けていた糸を眺めていた。
 亮を救うために使った念糸だ。
「実は、とある大きな事件の首謀者で、アンズーツ能力者の人間を拘束したんですが……」
 念糸の先が消えている。
 あれ? こんな短かったかな?と、久我は首を捻った。
 亮がリアルに戻ったのだとしたら、亮の胴体に巻かれた糸は亮のアルマから抜け落ち、全てが久我の手元に戻っているはずである。
 だが、糸の先がないのだ。
 切れたのか? とも思ったが、この念糸は普通の力が加わったくらいでは決して切れない。そしてなにより、糸の先は中空に溶けるように消えている。
 つまり――
「成坂くん、リアルに戻ってないんじゃないの?」
 東雲が久我の疑問に答えるように、言葉を添える。
『もしもし? どういうことですか? 事件の詳細を教えてください』
「どういうことだよ。戻ってねぇって……」
「さぁ。でもさっき言ったように、今学校は捕り物の最中だからね。何かの争いに巻き込まれた可能性もあるよね」
「マジかよ……っ」
『もしもし? もしもし?』
 オペレーターの女性の声を聞きながら、久我は呆然と腕を下ろしていた。
 亮はまた何かトラブルに巻き込まれているのだろうか。
「先輩、ここで待っててくれよ。絶対だぞ! 逃げんなよ!」
 そう言い置くと、久我は空間錠の片方をベッドの柵に掛け、糸の先をたぐるべく、いったんリアルへ戻り始める。
 IICR賞金課への連絡は完全に放置状態だ。
「約束だからな!」
 そう言って消えていく後輩を眺め、東雲は「約束、ね」と眉を高く上げていた。