■ 4-57 ■



「来ると思ってたよ」
 そう言ってプラチナブロンドの美丈夫がシドの前で微笑んだのは、シドがスクールセラに潜行して十三秒後のことだった。
 古代ローマの神々にも似た白い長衣を波打たせた彼は、この近代的な学校施設の中にあって、不思議と違和感を感じさせない。
 おそらくそれはその出で立ちが背景など霞ませてしまうほどに、本人に比類なく似合っているからなのだろう。
 同じくそれと対峙したシドも、黒いコートに長刀という教育現場にはそぐわない格好だ。だがそれがそうであることが当たり前のように彼もまたこの場に立っていた。
「……ローチ」
 風のようなスピードでこの場に現われたシドが、ピタリと足を止める。
 目指す生徒会室の前。
 まさに扉を背に、行く先を塞ぐ形でローチは立っていた。
「子供のケンカに親が出るってどーなのよ」
「どけ」
 低く短く、シドが言う。
 だがその単純な二音には聞く者を凍り付かせる恐いモノが含まれている。
 普通の人間ならばその場にしゃがみ込み失禁してしまいそうな圧力だ。
 それをローチは変わらず柔和な表情のまま合い対す。
 その手には一差しの長い鞭。
「どかない」
 シドがジリと間合いを詰めると、ローチは手にした黒革の鞭を差し上げる。
 ピクリとシドの眉が動いた。
 アレを持ち出したということは、ローチが本気で自分に対しているのだということがシドにはわかる。
 シドがイザを刀に宿らせているように、ローチはヴンヨを鞭に入魂して攻撃形態としているのだ。変幻自在にしなるあの鞭に打たれれば、瞬間的にその人間は戦意を喪失し、それどころか爆発的に膨れ上がる幸福感で人格をも喪失するという憂き目に遭う。
 武力の腕前はシドが圧倒しているとはいえ、桁外れのソムニア能力値を礎に繰り出されるローチの攻撃は僅かなかすり傷が命取りになる。
「僕も僕の可愛い従業員候補を守る義務があるんでね。……詳しく聞きたい?」
「……。」
 シドは左手で刀のつばをカチリと弾き上げると、右手を柄へ添えた。
 すぐ目の前にある生徒会室の扉の向こうで、震えが走るほどの力場が膨れ上がりつつあるのがわかる。
 今まさに、亮が何者かを召還しているのだ。
 シドの足が一歩踏み込み、ぐっと腰が落とされた。
 瞬間――。
 銀の閃光がひらめき、空気中に白煙が軌跡を描く。
 それはきらきらと銀砂の尾を引き、天井の一角を破裂させる。
 かつて天井だったものが、雹のごとくばらばらと降り注いでいた。
「……ひゅ〜。いきなり居合いって。本気で殺しに掛かるとか、父兄参観にあるまじきだよ」
 鞭を構えたローチの髪が一房、さらりと雪となり消えていく。
 手にした黒革の鞭は、淡く桃色に明滅していた。周囲の空気が同じ色に淡く輝いている。
「僕の幸せ温暖効果ですら親ばか氷結機には敵いそうにない」
「……。」
 無言のままさらに踏み込もうとするシドに、ローチは慌てたように付け加えた。
「待った! これ以上ここで戦闘デカくして、隣の部屋へ能力干渉したらやばいんじゃないの? もう召還始まっちゃってるよ!?」
 シドの動きが止まる。
 召還中の場の安定は呼び出すゲボにとっては絶対的条件だ。
 これを乱されることは、相手の異神の有利に働くことが多くなることを、シドも良く知っている。
「貴様……」
 ローチが道をふさいだほんの三秒で、シドは強引な特攻を封じられたことになる。
 特に安定して召還が行われている今のような状態では、静観することこそ最も安全な策になってしまうのだ。
「ほら。ここでゲボとしての亮くんの成長を見守るのも、お父さんとしては大事なことじゃないかな」
 ローチの額にうっすらと汗が滲んでいた。
 ローチの知るシドなら自分の行く手を塞がれたという一点だけで、お気に入りごと粉砕してしまうことも考えられたからだ。
 シドが間合いを無視して再び一歩、ローチへと近づく。
 ローチの手にした鞭がギュッと音を立てる。涼しげな顔とは不似合いな緊迫した音だ。
 鞭のまとった桃色の輝きが膨れ上がる。
 だが、そこまでだった。
 シドもローチもお互いから視線をはずし、生徒会室の扉を見ていた。
「……嘘でしょ。なんで?」
 ローチは思わず呟く。
 たった今召還され始めたと彼らに認識させた、あの凶猛なまでの力場が一瞬で消え失せたのだ。その間ほんの数秒にも満たない。
 今や生徒会室の扉は静寂に包まれ、当たり前の顔をしてそこに張り付いていた。
 召還が途中で途切れたのか。
 それとも、暴走した挙げ句亮ごと消えたのか――。
 シドは扉を睨み付けるとつかつかとローチの横を通り過ぎ、扉に手を掛ける。
「シド!」
「おそらく召還が終わっただけだ。相手は時間の異神だったからな……」
「時間の異神……。なるほど。召還されてた時間すらこちらの流れと違ってるのかもしれないってことか」
 それって希望的観測じゃないかな――と軽口を叩きかけてローチは口を閉じる。
 それこそまさに口は災いの元だ。
「それじゃうちの子も無事、親孝行完遂だね」
 代わりに真逆の同意を唱えると、ローチはシドが開ける扉の奥へ視線を送った。








 室内は何事もなかったかのように、そのままの姿でそこにあった。
 ロフトのある天井の高い室内には、ガラス製の部屋が三つ、無機質な光を反射している。中に見えるのはベッドや拘束具などで、そこが明らかに軟禁用の目的で出来ていることがわかる。
 シドはその部屋をぐるりと見渡すと中央に居る一人の生徒に視線を据える。
 中央のガラスルームの中、ベッドに鉄輪でつながれた少年は、腰をおろしたままぼんやりと天井を眺めていた。
「成坂くんなら、もうここにはいませんよ」
 天井を眺めたまま、東雲浬生はそう言った。
「……どこへやった」
「異神と一緒に遠方へ旅行中です。……僕の母を連れてね」
 そこでようやく東雲はシドへ首を巡らせる。
「すみません。母がもう転生はしたくないと言うので、あなたの大事な成坂くんの力を借りました。ゲボを暴走させてしまえば異神召還など難しいことじゃないんですね」
 東雲の言葉に、ローチは困ったように片眉を上げため息を吐いていた。
 シドは無表情のまま歩み寄るとスラリと刀を抜き、その切っ先をガラスの壁面へ滑らせる。
 それだけで瞬く間にガラスは純白に色を変え、次の瞬間白き砂となって床の上に崩れ落ちていく。
 シドと東雲を隔てるものはもはや何もなくなっていた。
「聞き方が間違っていたか。……どこへ行ったと言うべきだった。リアルへ戻ったのか」
「まるで僕が嘘をついているとでも言いたげだ。僕は間違いなく成坂くんを慰み者にして、計画通り、異神の餌にしたんですよ? あなたの名を呼びながら泣き叫び、異界へ引きずり込まれていく成坂くんのあの姿……、録画でもしておけば良かったですね、シド・クライヴ」
「おいおい浬生、あんまり刺激的なことは言わないで欲しいんだけどね……」
「暴走などしていない。時の異神など、暴走していればスクールセラごと綺麗に崩壊させているはずだ。ガキのくだらん戯れ言に付き合っている暇はない。さっさと話せ」
「…………僕はこの人、嫌いですね、ローチ」
 東雲は肩をすくめると仕方ないといった様子でシドの目を見た。
「リアルへ戻った可能性もあるでしょう。ただ、成坂くんに結びつけられていた久我くんの念糸の先が消えていた。これ、どういうことかあなたなら理由がわかりそうですが」
「…………。」
 シドは一瞬視線を険しくし、すぐさま消えていく。
「はやっ。挨拶もなしかよ」
 数秒待たずかき消えたシドの背に、ローチは率直な感想を述べ、無茶ばかりする真性アンズーツ能力者の横に腰を下ろした。
「酷いね。さっきの嘘は」
「嘘じゃないですよ。前半は本当のことだ。……ただ、まぁ、楽しようとしたことは認めます」
「楽して死ぬって? 確かにシドにやられたら死んだことにすら気づかないけどね」
「経験者の太鼓判付きかぁ。やっぱりもう少し攻めてみるべきだったかな」
 そう言って東雲が小さく笑った。
「臆病なんですよね、意外と僕。成坂くんにも殺してもらえなかったし、シド・クライヴにも逃げられて、結局は自分でなんとかしなきゃダメになってしまった」
「そうびびることでもないさ。死ぬなんて大したことじゃない」
「ローチは何度も死んでるからですよ。僕はまだ初々しい未経験者なんで」
「恐いなら今度にすれば? このままウチに来ればいいじゃない」
「いえ。やっぱり一度リセットします。僕は僕の役目を終えたから、もう今世はおしまいにしますよ。それに、久我くんや成坂くんに僕の能力のことは知られてしまっていますからね。IICRに目を付けられる前に消えておきます」
「確かにその方が今後の安全度は格段に上がるだろうけど、さ」
 ローチはベッドの上に足を引き上げ、ひざを抱えて東雲を見る。
 東雲の手にはいつのまにか大振りのナイフが一本、携えられていた。
「アンズーツの転生周期、わかってないのに勇気あるね」
「来年だろうと千年後だろうと、戻ってきたらちゃんとやとって下さいよ」
「できるだけ早めに頼むよ。アンズーツなんて能力者、どう使おうか考えるだけでワクワクしちゃうんだよね」
「わかりました。……僕もできれば早く戻って来たいですから」
 東雲は目を閉じるとナイフの刃を己の首元にあてる。
「覚ちゃんには会わなくていいの? もう永遠に会えないかもしれないよ? あの子は疑似ソムニアであってソムニアじゃないんだから」
「あいつのこと、よろしくお願いします。僕が戻ってくるまで」
「…………僕、彼に嫌われてるけど、それでいいなら頼まれるよ」
「僕がいない間は、自由に羽を伸ばしててくれと伝えてください。できれば健全に」
 この場に醍醐覚がいないのは、東雲の最初からの計画だったのだろう。
 亮の暴走に巻き込ませない為。そして己の死を止めさせない為。
 今のこの二人きりの状況は、東雲の覚悟が揺るぎないということを、ローチに感じさせるのだ。
 そして短い年月で戻ってこられない可能性も、この少年はわかっている。
 己の安全のためと言ってはいるが、きっとそうではない、とローチは思う。ソムニアという因果な世界に醍醐覚という人間をしばりつけたくないというのが本音ではないのだろうか。東雲が生きている限り、醍醐は東雲のそばを離れないに違いないのだから。
「浬生は覚ちゃんが好きだね、ほんと」
「ローチも同じくらい好きですよ」
「……よく言うよ」
 そう言ったローチの横で、東雲の手が鋭く動いていた。
 深紅の鮮血が瞬間宙にしぶき、痛みと呼吸のできない苦しさで、東雲の口から苦悶の呻きがもれる。もう一度己の喉を突こうと東雲の手が動くが、ナイフはその重さで音を立てて床に落下していた。
 死にきれない苦しみで、朦朧とした東雲の手がナイフを求めて蠢く。
 ローチは東雲の身体を支えると、血しぶく喉へ手を掛け、ゆっくりと締め上げていく。
 ローチの白い顔に真っ赤な液体が飛び散り、つらつらとしたたり落ちる。
「大丈夫。死ぬなんて、大したことじゃない」
 囁くと、ローチの視線は、苦悶に喘ぐ東雲の視線を絡め取り、甘く、優しく、融かしていく。
 いつしか全身を震えるほどに固めていた力が、東雲の身体から抜けていく。
 東雲の目が微かに微笑んだ。
 細く優雅なローチの指先がぐっとえげつなく節くれ立つと、ゴキリ、と嫌な音がした。
 東雲の両手が力を無くし、ぺたりと落ちる。
 しかしその表情は先程までの、苦しみ、痛みで悶えていたものではない。
 口許に微笑を浮かべなかば陶然とした表情で、したたり落ちる血飛沫さえなければ、好きな音楽でも聴きながらうたた寝してしまったようにすら見える。
 血に濡れた東雲の頬に指を這わせながら、困ったようにローチが言った。
「こういうの得意だけど、好きじゃないんだよ、浬生。なのに……僕が頼まれもせず安楽死させるなんて、キミはホント、大したアンズーツ能力者だよ」