■ 4-63 ■




『……の他良くない感じだ』
『……で、……はどうかしら?』
『それは……るけど、実際問題肉体の方は……』
『では、セプタ協会系列の……付属病院……』
『うん。もうそちらに話は……、既に緊急ではないし……容態が落ち着いてからでも……』
 どこか遠くで声が聞こえていた。
 真っ暗な世界で、亮の良く知る二人の声が、密やかに何事かを相談している。
 エアコンのかすかなファンの音に紛れてしまうほど、その相談事は微かで、亮はその声を追うように少しずつ少しずつ意識を浮上させていく。
 なぜならその声はどうにも深刻な響きを持っていて、身体はこんなにも眠く、こんなにも怠いというのに、亮の心は意識せずともピリピリとそこへ集中してしまうのだ。
『けど、と……くんは無事で良かっ……。こんなにも早く肉体が取り戻せ……、さすがは壬沙子さんだ。ホント、安心……』
『私だけの力じゃないわ。……ランテ……部の先輩くんたちにも……お礼状の一つでも送って……』
『多少の擦過傷や切傷はあるけど、亮く……は、体力さえ戻れば……いようだから……』
 亮の耳に届く声は次第にはっきりと形を成し、その声の主が誰であるのか、亮の半分眠った脳もしっかりと認識し始める。
 真っ暗だった世界は微かな色を取り戻し、不鮮明ながら彼らの姿が亮の前へ描き出されていた。
 夕暮れの薄暗い寮の部屋で、秋人と壬沙子の二人が亮のベッドサイドで顔をつきあわせ、深刻そうに何やら話し込んでいるのだ。
 秋人はいつものようにラフなポロシャツとスラックス。壬沙子はパンツスーツを着て、二人とも手にはコーヒーのカップを持っている。
 亮は二人に話しかけようと口を開くのだが、声はいっこうに出ない。
 それならばと身体を起こしてみるが、二人は亮の方を見もしないで話を続けるのだ。
『問題は久我くんね。どうにか手はないものなのかしら。アルマからの治療をフィードバックさせればあるいは――』
『それは僕も考えたんです。でも――、この左足大腿部の傷は通常では考えられない特殊なものだ。神経や筋組織が内部から破裂――いや、瓦解と言った方がいいかもしれない、とにかくこれでもかというミクロの単位で破壊されていて、アルマはともかく肉体側は修復のしようがないんじゃないかな。右手の傷も同様です』
『でも、意識は一度は戻ったんでしょう?』
『ええ。信じられないことに。その点彼は大したものですよ。出血も今は止まっている。傷の形状が特殊だということと、アルマがシドの凍気で急速に冷やされたことがその点では幸いしていますね。だから命に別状はない――んですが』
『右手と左足は諦めろ――と?』
『…………』
 秋人は壬沙子の言葉に口をつぐみ、亮の方ではなく反対側のベッドへ視線を落とす。
 見下ろす二人の表情は深刻そのもので、亮も彼らの視線の先にあるものを見ようとベッドを降りた。
 夕暮れの茜色に染まる部屋の中を、亮はふわふわと感覚のない足取りで移動すると、自分の陣地を表すカラーボックスの先――久我のベッドの中を覗き込む。
(久我……?)
 声にならない声で呟き、いつもそこでキャンディーに着いた白い棒をくゆらせながら、つまらなさそうにグラビア雑誌を眺めているルームメイトの姿を探す。
 だが――。
(――っ!!!!)
 亮は喉を引きつらせ、息を止めた。
 確かに久我はそこにいた。
 だが、そこに横たわる久我の姿は、亮の良く知る彼のものではなかった。
『そうですね――。最悪、右手の親指以外の四本は手のひらごと切除……、左足は大腿部から切断という処置になるかもしれない』
 土気色の顔色で荒い息を吐き目を閉じるルームメイトの右手の先は無く、そして左足も腿から下の制服ズボンが、ぺたんと平らにシーツの上で波打っていた。
(ぁ……、ぁ、あ……っ、ぁ、ぁ、ぁ、)
「ぁぁぁあああああああああああああっ!!!!」
 目を見開き亮は絶叫する。
 心臓が爆発しそうだ。
 目が回る。
 想像もしなかった久我の姿。
 ――なんで。
 ――どうして。
 ――なんで。
 ――なんで。
 ――なんで。
 ――どうしよう。
 ――どうすればいい。
 頭の中を役にも立たない疑問符ばかりが吹き荒れ、亮は叫び続けた。

「亮くん?」
 近くで声が聞こえた。
 はっきりした声だ。
 次にひんやりした空気を感じる。
 エアコンの微かな音。
 目を開けると、そこには久我の姿はなく、そして亮を包んでいた夕方の茜色の空気も消えていた。
 代わりに亮の目を焼いたのは白い蛍光灯の光。
 見慣れた寮の天井。
 カーテンの隙間から見える空はまだ暗く、外から聞こえる車の音はわずかだ。
「まだ寝てていいよ。夜明けにはもう少しかかる。それに、今日からしばらく学校休校になると思うから――」
 傍らに座り心配そうな顔で見下ろしていたのは秋人だった。
 なぜか頭に包帯を巻いている。
「恐い夢、見ちゃった? 大丈夫、後片付けに手間取っているみたいだけど、シドももうすぐ来るよ。亮くんの身体は心配ないから……」
「……久我は?」
 かすれた声が亮の口から漏れた。
 その言葉に一瞬の間を置き、秋人は微かな笑みを口許に浮かべる。
「大丈夫だよ。ちゃんと、そこにいる。意識もさっき戻ったからアルマも無事……」
「怪我……は? 久我の、手と、足……」
「え…………っ、うん、そうだね……」
 困ったように言葉を濁す秋人に、亮の胸はズキンと嫌な痛みで脈打った。
 時間の関係や秋人の服装を見れば、さっきまで亮が見ていた光景は夢だったのだろうと想像はつく。だが、それでは安心しきれない自分がいた。
 秋人のいつも通りの笑顔の下に、いつもとは違う戸惑いを見て、亮の不安は確信へと変わっていく。
 泳ぐように身体を起こすと、亮はベッドを降り、もつれる足で駆け出そうとする。が、極度の貧血のため一瞬世界が暗くなり、気がつくとフローリングの床に倒れ込むところだった。
 しかし間一髪、しなやかな白い腕が亮の身体を支える。
「亮くん、まだ無理よ。今はあなた自身が回復することを考えなきゃ」
 壬沙子の手に抱えられ、亮の身体は有無を言わせずベッドへと連れ戻されてしまう。
「異神を召還したのでしょう? 贄に使ったアルマ血の血量だけで相当消耗しているはずよ。肉体の血が追いつくまで、身体は動かさない方がいいわ」
 大量に流れ落ちる冷や汗で、亮の前髪はぐっしょりと濡れ、額にはりついてしまっている。目は回り、強烈な吐き気が胃の辺りを突き上げてくる。
 だが、そんなことは言っていられなかった。
 夢で見た光景が目に焼き付いて離れない。
 秋人も壬沙子も亮の問いに何一つ答えてはいないのだ。肯定するのを避け、だが否定もしない。
 自分が置いた目隠し用のカラーボックスに視界を遮られ、隣の久我の様子をうかがい知ることが出来ないのが亮には苛立たしくて仕方がない。
「くが……の、手、足、が、……ない、んだ。ね、あきひと、さん……っ」
 極度の貧血で落ちそうになる意識をつなぎ止め、亮はそれでもどうにか己の恐怖を言葉に出していた。
「ど、して……、久我、そんな大きな怪我、なんか……、してなかったはず、なのに……、なんで……?」
「ん……、ぇと、そうだね、……、今回のどさくさで、ちょっと他のソムニアと戦闘になっちゃったみたいで……」
「他のソムニアって!? ……、東雲先輩? それとも、醍醐? オレが、先に、戻ろうとした、から……」
「違う、違うよ! 学校の子は関係ない。やったのは手に負えない元IICRのマッドサイエンティストで……」
「渋谷くん」
 思わず口走りかけた秋人の言を遮って壬沙子が嗜める。
「ごめんなさい、亮くん。これは私たちIICR側のミスなのよ。首謀者の一人を取り逃がしかけて、そのソムニアと久我くんがぶつかってしまったの」
 しまったといったように口を閉ざした秋人の立場を取り繕うように、壬沙子が亮へ状況を説明する。
 しかし亮は何かを悟ったように目を見開き、そして苦しげに眉根を寄せていた。
 成坂亮という少年は、勉強は得意でなくとも勘が悪い方ではない。
「ガードナー、さん? オレ、採血官のガードナーに、会った、よ」
「っ。亮くん、それは……」
「久我、オレを助けようとして、追ってきて……た? オレ、全然知らなくて……、オレ、頭ん中ぐちゃぐちゃで、ワケわかんなく、なってて……、ど、しよう、、オレ、どし……よ……、オレのせいで、久我は……っ」
「落ち着いて。亮くんのせいなんかじゃないから」
「でもっ、でも、秋人さんっ」
「それに久我くんの身体も大丈夫だから。だから落ち着いて!」
「大丈夫って? あんな怪我、してて? ……だて、見た、んだ。オレ、久我の足……、ズボンがぺたんこに、なてて……」
「夢を見たのね。私たちの会話を聞いて、亮くんの脳が補完した映像をそんな風にあなたに見せたんだわ。でも渋谷くんの言ったことは本当よ。まだ久我くんの四肢はちゃんとあるから」
 壬沙子が亮の額の汗をタオルで拭いながら静かに声を掛ける。
 ――まだ? 
 と、亮は思った。
 まだ、ということは、これからそうなる可能性があるということだ。
 ぞくり――と、背筋が凍り付く。
「まだ!? まだって……、だめ……だ、んなの……、っ、だめ……!」
「わかってる。そうしないように、僕らもできるだけ努力してるから」
「今、IICR直轄の国際青十字病院に入院手配を済ませているところよ。そこなら最新で最良の治療が受けられる」
「オレの……血、使って!」
 喘ぐように亮が言った。
 秋人も壬沙子も困ったように口をつぐむ。
 だが亮は構わず続けた。二人の考えることは手に取るようにわかった。今、亮は酷い貧血なのだ。そんな自分が久我のための血液提供を申し出たとして、二人がそれを許すとは思えない。
 だがそれでも、亮は言い張るしかない。
「オレの血、ゲボの血、怪我治すのにいいんだろ? だからオレの傷、もう、こんなにふさがって、るんだろ?」
 腕を突き出した亮は手首に巻かれた包帯をむしるように取り去り、すでに完全に傷口が閉じつつある噛み跡を秋人に指し示す。
 単純な切傷でなく、いびつなはずの噛み跡がこれほど綺麗にふさがっているのは、亮のゲボとしての資質の高さの証明に他ならない。
「オレなら、大丈夫。こんな貧血、くらい、レバー食べれば、すぐ、治るし」
「そんな簡単な問題じゃないんだ。亮くんの身体は本当に衰弱してる。君は何を呼び出したか自分でわかってる? 時の異神だよ!? 契約を結ぶのにどれだけのアルマ血が必要だったのか、考えただけでも気が遠くなるよ。その上ナビもなしでセラへ潜ってる。使用された精確なアルマ血の量を測定することもできていない。アルマもフィジカルもなんのバックアップもなしであんなもの呼び出して、身体中の血が無くならなかっただけありがたいと思わなきゃいけない状況なんだっ」
 秋人は珍しく亮に対して声を荒げ、眉を険しく寄せると亮の腕の包帯を巻き直し始める。
「でも、使ったのなんて、ほんの、両手に溢れるくらいで――」
「ほんの!? ほんのだって!? 亮くんの体重45kgとして計算すると、全体の血液量は約3.6リットル。その三分の一を失えば人間は死ぬ。つまり1.2リットル流れただけで、亮くんの身体は失血死してしまうんだよ!? たったの1.2リットルだ。キミの言う『ほんの』は十分危険な量なんだよっ」
 あまりの秋人の剣幕に、驚いたように一瞬口をつぐんだ亮だったが、それでも引き下がる気配を見せない。
 血の気の失せて白さの際だつ顔色のまま、それでも亮は言い張る。
「それじゃ、あと手のひら一杯か二杯はいけるって、ことだろ!? お願いだよ、秋人さん……、久我を、治して? 頼む、からっ……」
「亮くん……」
 寝かせようと亮の身体を押さえつける秋人にすがり、額から大量の汗を流しつつも、身体を起こそうとする亮に、秋人は苦しげに眉根を寄せた。
「オレがゲボの理由、オレがゲボだからできること、させて、秋人さんっ。お願い、なんでも、する。久我を助けて、くれるなら、オレ、なんでも……」
「駄目だ」
 不意に部屋の入り口から聞き慣れた低い声が聞こえ、亮の言葉を遮断する。
 いつの間にここへ入ってきたのか、容赦なく亮の言を斬り捨てたシドは、無表情のまま大股で歩み寄ると有無を言わせぬ様子で亮の身体をベッドへ寝かしつける。
「っ、シド……っ」
「ヤツは自分の覚悟と責任でおまえを救いに行った。それをおまえが命を投げ出すような行為をしては本末転倒だ」
 大きな声ではない。だが、圧倒的な圧力でシドはそう言い切る。
 だが亮も引き下がらない。体調の悪さで荒い呼吸のまま、噛みつくようにシドを見る。
 こんな風にシドに言い返す人間を秋人は他に見たことがない。
「そんなの、オレが考える、ことじゃ、ないっ。おまえが、そう言うなら……、今度はオレが、オレの、覚悟と、責任で……っ、オレが勝手なこと、する番だっ」
 シドの眉が険しく潜まる。
 この男にこんな顔をされれば、大抵の人間は怯んで言葉が出なくなるはずなのだが、亮はまったく意に介していない様子だ。
 秋人はただハラハラとその場を見守るしかなく、壬沙子は諦めたようにため息をついていた。彼女にはすでにこの先の道筋が見えていたのかもしれない。
「オレの血、久我に使ってくれよ、シド」
「……わかって言っているのか? 使うのは生体血でなくアルマ血だ。となればセラ内の病院施設でおまえの血を久我に投与することになる。最新医療の病院でそれを行えば、おまえがゲボであることが知れ渡り、おまえが今獲得している自由な身分は再び剥奪されることになる」
「っ……わかってる、よ。そんなことっ。オレが、またセブンスに行くことになるかも、しれないって、ことくらいっ。……でも、……っ、それでもっ! 嫌なんだっ、駄目なんだっ、久我が、あんな風になるの、見たくない。見られないっ! 久我は、オレの大事な友達で、大事な仲間で……、っ、オレの初めての相棒で……っ、あいつは、ソムニアとしてこれからどんどん大きくなってかなきゃダメなヤツでっ……」
 思い詰めた大きな黒い瞳を揺らし、亮は燃えるようにシドを見た。
 シドはその目の奥に何かを認め、大きく息を着いていた。
「なんでも言うことを聞くと……言ったな」
 シドのその声は静かだが強さを持って亮の耳朶を叩く。
 亮はせり上げてくる貧血のための吐き気に唾を飲み込み、そして大きく肯いていた。
「わかった。おまえの希望通り、おまえのアルマ血を久我貴之に投与させよう」
「シドっ!!」
 秋人は驚愕に声を裏返らせて相棒を眺める。
 シドなら亮の幼く感傷的な申し出を止めてくれると思っていたのだ。
 しかし秋人に目を向けたシドは本気のようだ。
「ただし、条件がある」
「っ、なに?」
 亮はシドの言葉に食いつき、寝かされた身体を今にも起こさんばかりだ。
 そんな様子の亮を強い視線で見下ろし、シドは静かに続けた。
「まずは、今の倍のカリキュラムを学校が終わり次第毎日行うこと。鍛錬だけでなく、ソムニアの知識についてもだ」
「……、うん。わかった……」
 今の倍ということは、単純計算しても毎日、型の鍛錬を百回以上こなすことであり、実践のための虫狩りもセラ時間で半日はこなすことになる。
 今でも鍛錬後はぐったりして本気寝してしまう亮だが、今後はそれに拍車が掛かるということになる。
「それから……」
 シドが続けたその言葉に、亮は一瞬唇を噛み締め――そして小さく、だがはっきりと「わかった」と答えを返したのだった。









「よぉ。おまえから連絡が来るなんて、いよいよ世界も終わりかと思ったぜ」
 シュラ・リベリオンは革張りの三人掛けソファーに悠然と腰を沈めたまま、片眼だけ開けて来訪者を見た。
「でもま、電話一本寄越しただけで俺の私的セラを貸せだの、レオンを連れてこいだの、散々命令したあげく、あとの雑務は壬沙子とレオンに任せっきりってのはおまえらしいがな」
「捕り物の後片付けが立て込んでいてな」
 朱い髪の来訪者は昔なじみの嫌みもどこ吹く風で涼しく受け流すと、部屋の奥に置かれたキングサイズの木製ベッドへ視線を移す。
 そこには二人の少年が並んで眠っており、右側の少年には右手に。左側の少年には左手に、どちらも点滴スタンドが繋がっていて、静かに透明な薬液の雫がポタポタと時を刻んでいた。
 大きなログハウス風の作りになっているこの室内にあって、その空間だけ明らかに異質な匂いを放っている。
「安心しろ。……とりあえず亮は無事だ。それから、こっちのガキんちょの容態も落ち着いた……そうだ。で、一仕事終えたレオンは今アリバイ工作のために本部へ戻ってる」
「そうか……」
 そこでようやくシドの声の調子が柔らかく変わったのに気づき、シュラは口の片端を僅かに引き上げる。
「後片付けにしては随分時間が掛かったじゃないか。おまえが突然こんな話を持ちかけてからセラ時間でかれこれ丸二日は経ってる。その間一度も顔を見せねぇなんてよ、おまえらしくないぜ」
 シュラの言葉に、意味がわからないと言った様子でシドの眉が顰められる。
「あんだけ弱った亮を人任せにするなんて、信じられないって言ってんだ。前のおまえなら飯も風呂もそっちのけでずーっとあいつ抱っこしたまま離さなかっただろ」
「……くだらん妄想を事実にするな。俺はいつも必要なことを必要なだけしているに過ぎん」
「ま、そういうことにしといてやるよ。今回俺はなかなかおいしい役回りだったからな。亮もずっと眠ってるわけじゃない。久々に積もる話をゆっくりさせてもらったよ」
 ジロリと冷視線を受けつつ、シュラはニタニタと機嫌よさげに立ち上がると、すれ違い際にポンとシドの肩を叩いて通り過ぎる。
「で?」
 ベッドサイドで手にしたメモ用紙を見ながら点滴の落滴速度を調整していたシュラは、先を促すように短い言葉で問いただす。
「?」
「ガードナーのセラの始末はうまく行ったんだよな」
「……何のことだ」
「事件の公的な処理なら、IICR本部が動いてるんだ、おまえの出る幕なんてそんな多いもんじゃない。精々締めの会議と報告書の提出くらいで終わるだろう。そんなもん、半日あれば片が付く。おまえ――本来なら現状保存しておかなきゃならねぇあいつの私的セラ、報告無しで潰しただろ」
「…………」
 シドは無言のまま同じくベッドサイドへ歩み寄ると、薄いブランケットを被って眠る久我貴之を見下ろしていた。
 顔色は赤味を取り戻し、呼吸も緩やかだ。何より、ブランケットのこんもりとしたシルエットはこの少年の四肢が問題なく存在していることを示している。
「あの男は亮のアルマコピーを作っていた。それも何十体も。あんなものを本部にやるわけにはいかん」
「っ、は? 嘘だろ……!?」
 シドの言葉にシュラは耳を疑っていた。驚いたように目を見開き、シドの彫刻のような無表情を眺めやる。
「他人の真名を奪うのと同格の業罪だぜ、それは! ばれれば即蒸散刑執行じゃねぇか! そのこと、本部には」
「報告していない。だが、すぐにばれることだろうな。あいつは死んではいない。脳は半分つぶれかけてはいるが、生きてはいるはずだ」
「あ、ああ。確かにガードナーが捕縛され収容されたって話は聞いてる。生きてさえいりゃ、ブランコならあいつの記憶の断片くらいは読み取れるだろうしな……。しかし、おまえがそこまでやって殺さなかったとは」
「この作戦の肝は首謀者を生かして捕らえること――だったからだ。死なせてしまえばうちの事務所は潰される」
「なるほど。こいつの大事な城がなくなっちまうのは……いただけねぇか」
 シュラはかがみ込むと、静かな寝息を立てている亮の前髪をそっと指先でよけていた。
「それで最後のあがきで、ガードナーのセラを事故を装って物証ごと抹消、脳みそも半分プリンにしてやったわけだ。……しかしそう考えると――、ガードナーが包囲網の網目をかいくぐって逃げてくれたのは御の字だったってことか。もしすんなり他の首謀者と共に捕まってれば、おそらくあいつの私的セラはそのまま放置され、その後すぐに本部の手入れが入ってたはずだからな。亮のアルマコピーごと研究資料として局に押収されるのは目に見えてる」
「警察局の連中が有能過ぎなくて良かったとは思うな。こいつの存在を一般の連中に知られるわけにはいかん」
「……おまえ、まさか……、いや……、……っ、なんでもねぇ」
 シュラは思わず口に仕掛けた言葉を飲み込んでいた。
 まさかこの腐れ縁の極悪男は、ガードナーを自ら捕縛し、そのアジトを滅するために敢えてガードナーの包囲網の一部を弛めたのではないかと思ったのだ。
 だが、それで亮が危険にさらされる状況になったとなると、この男の意図ではあり得ないはずだ。
 しかしその責任を感じてこの『亮のルームメイトで駆け出しソムニア』である少年の救済に踏み切ったと考えれば筋は通る。
 普段のシドなら絶対首を縦に振りそうもない『アルマ血提供』という亮の我が儘に乗ったのも、自分に非があるからなんじゃないか――とついつい勘ぐってしまう。
 いや、しかしそれなら亮の救出はきっともっと早かったはずだ。
 答えのでない疑問と仮定が脳内をしつこく何度もグルグルと巡り、シュラは「へぇぇぇっ」とおじさんくさいため息を大きく吐いていた。
 いつもいつもこの腐れ縁男は問題ばかり背負って現われる。
「何にせよ、今本部はピリピリムードだ。あまり危ない橋は渡るなよ。おまえの為に言ってるんじゃない。亮の為だ」
「わかっている。……だが上は今何をそんなに焦っている? 今回の捕り物もそのせいで随分割を食わされた」
「おまえも聞いてはいるだろう。ここ数年、乳児の突然死が急激に増えている。しかも途上国じゃない。先進諸国で、だ。最新医療をもってしても原因がわからないとされるその症例は、ある一つの大きな問題に起因している」
「なるほど。……無アルマでの誕生問題、か」
「ああ。上は情報を抑えてはいるが、これだけ数が増えてきてはもう漏れるのも時間の問題だ。グラフのあんな右肩上がりを見れば、世界はパニックに陥る。ビアンコも特務チームを作って今はそちらの問題に掛かりっきりになってるしな。いらん波風をたてて上を刺激しないようにしろよ」
「肝に銘じておこう」
「……本当かよ」
 やれやれとため息をつくシュラの声に被るように、もう一人の来訪者の声が聞こえたのはその時だった。
「シド! 来てたのか」
 扉付近に現われた白衣の男は、長い金髪ポニーテールを靡かせて、大股でベッドサイドへ歩み寄ってくる。
「レオン。……世話を掛けた」
 無表情ながら似合わない礼の言葉を述べる旧友に、レオンは一瞬信じられないものを見た!とでも言いそうな驚きの表情をしたが、すぐにそれは苦笑に変わる。
「相変わらず、目に入れても痛くない――ってところだね。まったく顔を見せないからどういうつもりかってちょっと心配してたんだけど……それこそ杞憂ってやつだった」
 そう言いながら亮のそばに歩み寄る。
 座り込んだシュラを邪魔そうに押しのけると、レオンは亮の額に手を当て、その後すぐに首筋に触れてみる。
「うん。安定してる。亮くんはもう大丈夫だ。……目を覚ませばいつでも連れて帰ってもらって構わないよ」
「そうか……」
 ふっと目を細めるシドに、レオンは続ける。
「でもこっちの子は――、もう少し様子を見させてもらいたい。何せ細胞自体が広範囲でぐちゃぐちゃになって使い物にならなかったんだから。いくら亮くんのアルマ血で新たな骨や筋組織が作り出されて行ってても、再構築にはもう少し時間がかかる。……それに」
「それに、何だよ」
 傍らに立つシュラが不審げに眉を寄せていた。
「ん、ああ。……それに、こんなに大量のゲボの生きたアルマ血をその場で輸血された事例を私は知らない。帰ったついでに色んな文献を当たってみたんだけど、近代に入ってからはそんな大それたことを行った例がないんだ」
「近代以前にはあるのか?」
「あるにはあるけど――、古すぎて信憑性に欠けるものばかりでね。ゲボ一人丸ごと食したソムニアの話なんかは猟奇的すぎてぞっとしたけど――、彼は極弱いカウナーツだったはずなのに、ゲボ摂取後山を一つその能力で焼き払ったって言うんだ。こうなるともう御伽噺の領域だよ」
「能力が高まるってことくらいは単純に予想できることだが……。ブラッドリキッドがカラークラウンに支給されるのだって、その為なんだし」
「ブラッドリキッドなんて微々たるものだよ。しかもあれは拒絶反応その他、摂取者にとって危険がないように加工されているものだからね。それに比べて今この久我くんの中を巡っているのはSクラスのゲボの取れたてピチピチ生アルマ血だ。しかも時間がなかったせいで私は何の加工も加えていない。単純に能力値が上がるだけなら問題はないんだけど――」
「怪我は治ってもその後何が起きるかわからないってところか」
「そうなんだよ。亮くんから採血したのは約一リットル。補助用の人工アルマ血で補いながら、ギリギリ採ってそれだけだったんだけど……。彼の怪我を治すのには最低限の量であり、人間のアルマに影響を与えるには大きすぎる量なんだ」
 レオンは難しい顔で久我の側へ歩み寄ると、ブランケットを捲って怪我の様子を確認する。
 短パン一つで身体中を白いガーゼや包帯でくるまれた久我の姿は痛々しく、実は彼の怪我がかなりの広範囲に及んでいたことを物語っている。
 右掌と左大腿部を覆った大きなガーゼを取り除けば、未だ痛々しい傷跡がジクジクと血を滲ませており、時折傷口の一部が何か別の生き物が潜り込んでいるかのごとく蠢いているのが異様である。
 だが、傷口より先――、左足全体や右手の指先はすっかり血の気を取り戻し、レオンが反応を見るために触れれば、ぴくりと反応を返すのだ。
「神経もうまくつながってるみたいだ。とにかくもう少し様子を見るほかない」
「は〜っ……、わかったよ。俺の城をもう少し貸し出せって話だろ? 亮の血を大量投与されたソムニアを普通の病院に入れるわけにはいかねぇもんな」
「あ、それと、私はまた仕事で戻らなきゃダメなんだ。定期的に顔は覗かせるけど――、今はもう安定してるし、あとはシュラが彼についてやっててくれよ」
「はぁ!? 俺だって仕事が」
「知ってるよ。今週のシフト、シュラ有休取ってたでしょ。新しい釣り竿買い込んでカナダ行のチケット取ってたってうちのボスが言ってたよ」
「なんでリモーネが知ってんだよ……。て言うか、知ってんなら行かせろよ! 俺が休み取ったのなんて何年ぶりだと思ってんだ? 亮が一大事だっつーから延期してるだけであって、医者でもねぇ俺がこんな知らないガキを付きっきりで看病する義理ねーんだからな! それこそ俺じゃなくて、亮の保護者を自称してるシドがやるべき仕事であって」
「無理でしょ。あれ見てよ」
 レオンの視線が指す先を見て、シュラは苦悩に満ちた表情で目を閉じていた。
 そこにはまだ亮が眠っているにもかかわらず、そっとブランケットを捲り抱え上げるシドの姿があった。
「おいこらシド。目が覚めたらってレオンが今言ってただろうが」
「もう容態は安定しているのだろう?」
「いやだから……」
「いいよ、連れて帰って」
「レオン!」
「亮くん、目を覚ますたびに血を久我くんにやってくれって言い張るからさ。もう大丈夫だって言ってもダメ。心配で溜まらないんだね。あんな調子じゃ久我くんの横にいると落ち着いて養生できそうにないし。――ただし、とにかく三日は安静にさせておいてね。それから一週間は激しい運動も禁止。栄養はちゃんと偏りなく摂らせてあげて」
「ああ。わかった」
 シドはうなずくと亮の身体をふわりと抱え上げていた。
 レオンの言葉に、シュラも渋々ながら納得するほかない。
「貸し……だからな」
 ジロリと睨んだシュラの青い瞳に、シドは微かに眉を片方上げ応える。
「こいつにこっそりおまえのこのセラを使わせてることは、不問にしてやる」
「っ!? 気づいてやがったのか。相変わらず嫌な野郎だぜ」
 シュラの舌打ちにシドは口の片端を引き上げると、悠々とドアの方へと歩んでいき、振り返ることもなく消えていく。
「え、なに、どういうこと?」
 レオンが目を白黒させ仏頂面のシュラを見た。
「なんでもねぇよ」
「なんでもないって……、おまえシドに内緒で亮くんにココ解放してたの? この完全プライベートセラを? っ、それで冷蔵庫に飲みもしない炭酸水入ってたり、おまえの趣味じゃない巨大なビーズクッションが置かれてたりしたってわけか……」
「うっせぇな。悪いかよっ」
「きゃーっ、嫌らしい!」
 黄色い声を上げてニヤニヤ笑いを浮かべるレオンに辟易しながら、シュラは改めてシドという男のタチの悪さを思い知るのであった。