■ 4-64 ■




 身体中がドクドクと脈打っていた。
『…………は…………』
 己の身体が一つの心臓にでもなってしまったかのようだと、久我は思った。
 そんな全身を震わす脈動とは裏腹に、身体の芯は凍り付いたように寒い。
『…………を……のは……か』
 特に右手と左足は凍てつくように冷たく、そして重い鋼鉄で幾度も殴りつけられるかのような鈍痛が響いている。
 だが、それでもまだ目を開けることができない。
 異様なまでの睡魔が、久我の意識を闇の底へ縫い止めたまま放そうとしないのだ。
『我を……呼ぶのは、おまえ……か。ナリサカ トオル』

「っ!!」

 身体の奥底から何者かが這いずり出るような戦慄を感じ、久我は恐怖に駆られて眼を見開いた。
 見えたのは見知らぬ天井。
 太い梁の向こうに見える大きな丸太を組み合わせ作られたらしいそれは三角形の傾斜を形作っており、随分と高い位置にあるようだ。時折、ゆっくりと廻る大きなファンの羽根が視界の端を横切っていく。
 光が部屋の中をちらちらと躍っているのは木漏れ日だろうか。右手にある窓から室内には柔らかな日が差し込んでいるようだった。
 とても暖かな印象のあるこの部屋にあって、しかし久我の身体は氷のつららでも背中に刺さっているかのように冷え切っている。
「……ぅ」
 身体を起こそうとして、久我は手足が潰されるほどの痛みに顔を歪めベッドの上で身動き一つできなかった。ただかすれたうめき声だけが乾いた唇から漏れる。
「目、覚めたか。どうだ、気分は」
 聞き覚えのない男の声が少し離れた位置から聞こえ、やる気のない靴音が近づいてくる。
 知らない場所。知らない声。こんなところですっころんで寝ている場合じゃないと頭の片隅で警鐘が鳴るが、情けないことに久我の身体はピクリと動くこともできないのだ。
 恐怖と警戒で心臓の鼓動は速まり、それと呼応するようにガンガンと傷が痛む。
「……って、いいわけねぇな。そのひでぇツラ見りゃ」
 久我の上から男が覗き込み、苦い笑いを浮かべた。
 見たこともない顔だ。と、久我は己の記憶を走査するまでもなく結論づけていた。
 普通の人間には見られないような青銀色をした癖のある髪。白人のような紺碧の瞳。だがその顔立ちはトルコ人に近く掘りは深い。
 前世でも今世でも、こんなガイジンに知り合いはいないはずである。
 そして、なんとなく苛立つことに、このガイジンは酷いイケメンなのだ。
 エキゾチックに整った顔立ちだけではない。妙に色気のある無精ひげも、甘く低音な声も、高身長で長い足も、筋肉質な体つきも含め、全てが気に入らない。
 自分以外のイケメンなど悪人に決まっている。
 変にささくれた心持ちの久我は、突如現われたこの男に警戒心剥き出しでガンを飛ばす。
「てめぇ……、だれ、だ……」
 かすれてはいたが、一応声となって久我の疑問は男へ放たれていた。
 男は驚いたように眉を上げると、何がおかしいのか口許を弛める。
「おぉ、元気元気。若者はそうでないとな」
 自分も二十代半ばくらいだろうに妙にオヤジ臭い言い回しで男はそう言うと、唐突に日に焼けた太い腕を突き出し、久我の口の中へ遠慮もなく何やら細い電子機械を突っ込んでくる。
「っ!?」
 抵抗しようとわずかに首を捻った久我だが、男は容赦なく久我の頭を鷲づかみで固定すると、易々と己の行動を達成させてしまう。哀しいかな今の久我にはこの男に逆らうだけの力もないのだ。
「まぁそういきり立つな。……っと、熱、はないか。ってより……、三十度って低すぎないか? この体温計壊れてねぇ?」
 突っ込まれた機械を同じく無遠慮に引き抜いた男は目の前にそれを持ち上げると、やたら険しい顔をし、今度は久我の額や頬に掌をあててくる。
「さ、ゎん、なっ……」
「なんだおまえ、冷えっ冷えじゃねーか!? 常識のねぇ野郎だな。こんな怪我してこんだけ汗掻いてるときは高熱出すってのが常識人の為すべき事だぞ」
 不条理な常識を突きつけた後、男は「ったくレオンのヤツ、こんな状態になるなんて一言も言ってかなかったじゃねぇか。怪我はどうなってる?」などとブツブツ独り言を言いながら、久我の身体に掛かっていたブランケットを捲り上げていた。
 ひんやりとした空気が汗をかいた肌に染みいり、久我はゾクリと全身を震わせる。
 確かに男の言うように、久我の身体は冷えているらしい。
 男の手が何やら久我の左足の辺りに伸び、動いている。
「ゃめ、ろ、ぉっさんっ……」
 美人のお姉さんならともかく、誰とも知らない男に身動きできない身体を触られるなど久我の人生のポリシーにも美学にも反する状況だ。
 身動きできず天井を拝むことしか能のない今の久我には、ガンガンと痛む左足の上で男が何をしているのか解らなかったが、しかし――。時折男の手が久我の皮膚に触れれば、そこだけ魔法のようにじんわりと熱くなり、微かだが痛みが和らぐような気がした。
「ん〜……、まだまだ傷は酷いもんだな。痛むか?」
 ジクジクと未だ血汁を滲ませる傷の上に、手にした薬瓶から消毒液を豪快にぶっかけながら男が尋ねる。透明な液体は見る見る白泡となり傷を焼いていく。
「でぇええぇっ……! なに、しやが、るっ」
 あまりの痛みで反射的に久我は身を起こしかけ、初めて今の己の身体を視界に入れることに成功していた。
 久我の目に焼き付いたのは、全身傷だらけで包帯やガーゼに至る所を覆われた半裸の自分。
 特にガーゼを取り去られた左大腿部の傷はソフトボール大にごっそりと肉がえぐり取られ、そのクレーター状の部分に巨大なミミズが赤黒くとぐろを巻き、何匹も何匹もひしめき合っているような異様な物体と化していた。
「っ!? ……な……」んだこれ――。と続けようとして、失敗。
 久我の身体はすぐに力を無くし、ベッドの上へ崩れ落ちてしまう。
「おいおい無茶するな。ちっと消毒しただけだろうが、何も取って食やしねぇよ。それに――」
 呆れたと言った調子でため息をつくと、男は体制の崩れた久我の身体を抱え、思いの外丁寧にベッドへ寝かしつける。左手につながった点滴がきちんと落滴しているか確認すると、ガーゼを新しい物へと換え、ブランケットを掛け直していた。
「傷が痛いってのはいいことだ。ちょっと前まで何をされてもおまえ、感覚すらなかったみてーだからな。亮に感謝しろよ?」
「……なり、さか?」
 この男は成坂亮を知っているのだろうか。
 そう言えば、眠っている間、何度か亮の声を聞いた気がする。
 すぐ近くに亮の甘い体温があった気がする。
 あれは自分の願望が見せた夢だったのだろうか。
「何か食えそうか? オートミールくらいなら作れるが……」
 どうやらこの男は敵ではなさそうだ――ということだけは、久我にもやっと理解できつつあった。
 しかし強烈な寒気と傷の痛みで今の久我には食欲など少しもない。小さく首を振ると目を閉じる。
「じゃあせめて水くらい飲め。点滴だけじゃ心もとねぇし……」
 男は少しばかり困ったようにそう言うと、久我の身体を抱え起こし、口許にペットボトルの水を添える。
 その冷えた水を三口ほど飲むと、久我は力尽きたようにぐったりと顔を背ける。
「なぁ、ホントおまえ、寒くねぇか? 身体が氷みてぇだぞ。イザだから平気ってことか?」
 久我を寝かしつけながら首を捻る男に、久我は、
「んなわけ、ねぇだろ。……寒くて、凍り、そうだ……」
 と、初めて本音を口にする。
「そうか、わかった。ちょっと待ってろ――」
 男はそう言って久我を再び寝かせると、ポケットから携帯電話を取り出していた。誰かに連絡を取るつもりらしい。
「……あんた、だれ、なんだ? 成坂の、知り合い、か?」
 嫌々自分の相手をしているように見えたその男は、どうやら本気で久我の身体を心配しているようだ。携帯でコールを掛けるその横顔は真剣そのもので、意志の強そうな眉や鋭い眼光が際だち、悔しいがこの男が元々持っている男の色気みたいなものに拍車を掛けている。なんだか負けた気がする――と、久我は仏頂面で目を閉じた。
「ああ、そうだな……、まだ名乗ってなかったか」
 男はコールを待つ間、久我へ目を向けるとそのことにようやく気づいたように肩をすくめていた。
「俺はシュラ・リベリオン。亮とは友達……ってとこだ」
 シュラ・リベリオン。どこかで聞いたことがあるような名前だ、と久我は思った。
 だが、それがどこなのかは思い出せない。
 第一そんな知り合いは久我の記憶にはない。
「ソムニア……なのか?」
 ここがセラだということは、久我にもわかっていた。
 だから相手がソムニアであるのは当然と言えば当然なのだが、今の久我にはそんなことも考えが及ばない。
 男は微かに微笑むと、
「まあ、……一応な」
 と一言告げ、電話に出たらしい向こうの相手と会話を始める。
 低く甘い声がネイティブの英語で流れていく。
 その内容は久我にはまったくわからない。
 だが妙に安心するその音は久我を眠りに誘い、久我はその誘惑に打ち勝つことも出来ず再び意識を暗闇の中に沈めていった。



「はぁっ!? 冗談だろ!」
 シュラは心底嫌そうな顔で電話口の相手に文句を言う。
「何が哀しくてそんな真似を野郎に……」
「いや、だから、そりゃ俺だって亮の為に助けてやりてぇとは思うがしかし」
「カイロ? んなもんこのセラにあるわけねぇだろうが。毛布じゃダメなのか?」
「……っ、わかった。わあああかったっ。くそっ」
 しかし電話口の相手はどうやらシュラの猛抗議も意に介さず、己の考えを押し通したらしい。
 怒りにまかせて電話を切ると、シュラは苦い物でもかみつぶしたような表情で、ベッドに眠る少年を見下ろす。
 確かに年齢的には亮と同じくらいの少年――である。ソムニア的に見ても、転生回数が一度だけだというからには、まだまだ少年の域を出ていない。
 だがその見た目はもう完全に立派な『青年』だ。
 身長だってシュラとさほど変わらないほどよく育っている。つまりは、でかくて可愛くない。
 十六歳になっても未だローティーンにしか見えない亮と同じ枠に入れるのは、どう考えても憚られる容貌である。
 それなのに――である。
「レオンのヤツ。医者のあいつが医療行為するのは当然だろうが。なぁにが『私だっていつもオッサンのおまえにしてやってる』だ。おまえはベルカーノ種だろうが! なんだってカウナーツの俺が手当て行為をしなきゃならんのだ」
 どうやらレオンはもうしばらくこちらへ戻っては来られないらしい。
 代わりにシュラがレオンの指示で久我の手当を行うことになったのだが、それは文字通り『手当て』そのものなようで――。
「くそっ、えーと? ……左大腿部と、右手、ね」
 シュラは久我の身体からブランケットを捲り上げると、厚くガーゼの乗せられた傷口の上に掌を当てる。
「温度は四十度……と。ホントにこれでいいのか? 熱すぎねぇか?」
 己の掌に淡いカウナーツを発生させ対流させる。
 通常、カウナーツが炎を起こさない程度の熱を故意に発生させキープさせるのは困難だと言われているが、シュラにとってはこの程度、雑作もないことである。
 だが、この格好はいただけない。
 右手で日本の男子高校生の太腿を触りながら、左手で彼の右手を握っている状態だ。
 こうするためには体勢も完全にベッドの上に乗り上げ、まさに押し倒しているような形になっている。
「……人には見せられねぇ体勢だな、これは」
 横に今亮が寝ていないことが唯一の救いといえた。
「…………で、いつまでこの状況でいなきゃならん」
 レオンが指示した『四十度の熱で常に左大腿部の傷と右手の傷を暖め続けること』という医療行為を実践しているシュラだが、その期間が『久我くんの冷気が消えるまで』という曖昧な物であることから、まったく先が見えない。
 苦悩に眉を寄せ、自分のすぐ下にある久我の顔を見下ろせば、どうやら先程より呼吸が穏やかになっているようである。
 これがシュラの『手当て』によるものなのか、時間経過による久我の回復に過ぎないのかはわからなかったが、とにかくこの医療行為が間違ってはいなさそうなことを物語っていた。
「しかし……」
 こうして見れば、本当にただのガキだ――、とシュラは思う。
 この久我貴之という少年は亮のクラスメイトでルームメイト、そしてCマイナスの能力を持つイザだと聞いている。
 Cマイナスと言えば、そう酷くもないが決して優秀ではない――中流の内の中流の能力である。IICRには嘱託や派遣ですら入れないクラスだ。
 しかも転生は一度のみ。駆け出しもいいところだ。
 そんな子供が、Sクラスのハガラーツと戦ったという。クラスメイトの亮を助けるために。
 きっと相手が何者か――どれほどの者なのかもわからず、相まみえたのだろう。
 シドが現場に駆けつけたときには既に左足も右手も潰され、それでもこの少年は亮を救おうと扉の前に倒れ込んでいたという。
 その上シドの存在に気づいてからは、そんな傷など大したことでもないかのように振る舞い、こともあろうにあの男にケンカ腰で噛みついたと聞いている。
「無茶苦茶するな、ガキは……」
 本当に恐ろしいものも、恐れなくてはならないものも、きっとまだ彼はわかっていないのだ。
「亮といい、こいつといい、若いってのはどうしようもねぇ……」
 六度も転生しているソムニア的には十分時を経たシュラは、妙に甘酸っぱいものを感じて苦笑してしまう。
 自分やシドにもこんな頃があったのだろうか。
 どうしても久我を助けたい――そう何度もシュラに語った亮の顔が思い出される。
 その為にはセブンスに戻ることすら厭わないそうだと――シドは眉に愁いの影を浮かべて眠る亮を見下ろしていた。
 彼にとって――。彼らにとってのお互いの存在は、シュラやシドに踏み込めない青く澄み渡った世界の中に囲われているのだろう。
 愛や恋などとも違う、もっと別の純粋すぎる――ともすれば壊れやすく、変容しやすく、だからこそかけがえのない世界。
 そんな世界を傍観することしかできなくなった大人の自分にとって、それは妙に甘ったるく、こそばゆく、そして懐かしい気がした。
 シュラの口許に微かな笑みが浮かび、小さなため息と共に、煙草吸いてーな……などと思い始めたその時。
「っ!? な……に……!?」
 シュラの身体の下から目を焼くような閃光が迸る。
 だがそれはただの輝きではない。なぜならその色は漆黒なのだ。
 全てを飲み込むかのごとき黒い迸りはシュラの両手の下から膨れ上がるようにあふれ出てくる。
 同時に吹き上げる肌を刺すような凍気。
 歪む磁場。軋む空気。
 咄嗟に身の危険を感じ、シュラはその場から飛び退いていた。
 両手がジンジンと痺れ、見れば軽く火傷を負っているようだ。
「凍傷……とは」
 瞬間的に己のカウナーツでガードしたため大事に至ってはいないが、一歩間違えれば両手を失いかねない状況だった。
「何が起きてやがる?」
 黒い閃光は久我の全身からぬるりと這い出し、瞬く間に彼の全身を包み込んでいく。
 だがそれも一瞬のこと。
 状況は瞬きを終える間に一変していた。
 今、シュラの目の前には、何事もなかったかのように眠り続ける久我貴之の姿があるだけである。
 白昼夢でも見ていたかのような事態の変遷に、シュラは今一度己の両手を見下ろしていた。
 やはりその手には朱く痺れた一度凍傷の影響が見て取れる。
「こりゃあ……、レオンの心配が的中したアレか?」
 今見た現象はイザの能力発現とは明らかに異なっている。こんな黒い閃光を放つ能力をシュラは見たことがなく、ソムニアとしての知識の中にも思い当たるものはなかった。
 まずはレオンに連絡をとシュラが急いで携帯を取り出したとき、ベッドの上の少年が身じろぎをし、そしてゆっくりと身体を起こす。
 諦視するシュラの眼前で、久我は己の右腕を持ち上げ、数度握り拳を作ったのち無造作にその手を覆うガーゼをはぎ取っていた。
 現われた右手にはどこにもあのオドロオドロシイ傷跡は見受けられない。
 続いて久我はわずかに引っかかっていたブランケットを邪魔そうに蹴り上げると、己の身体を確認している。
 特に左足――。完全に潰されていた左腿の穴を、彼自身気にしていたのだろう。
 だが白いガーゼをはぎ取れば、そこにももう、環形動物が無数に蠢くがごとき異形の傷は跡形もなく――ごく普通の鍛えられた少年の足があるだけである。
 何も、ない。
 もはや、久我の身体中どこを探しても、あの時、あの瞬間、ガードナーとやりあった傷はただの一つも無くなっていたのだ。
『おい、シュラ? どうした? 久我くんの容態が悪くなったのか、おいっ』
 電話の向こう側でレオンが騒いでいる声が聞こえていた。
 だがシュラはそれを綺麗に無視し、しばしポカンとその様子を眺めるしかない。
『おいこら、シュラってば! 聞いてんのか!? 私が行くまで五分かかる。それまでは彼を死なさないでくれよっ』
「いや……、もう多分、おまえ必要ねーわ」
『っ!? まさかもう久我くんは……』
「俺、獄卒対策部やめて医療部に移籍するべきかもな』
『は!?』
「俺の手当、おまえなんかのより効いたぞ。……あいつ、身体中の傷が一瞬で消えやがった」
『っ???? バカなっ、おまえの手当なんて暖めただけだろ!? それにいくらゲボの血を入れたからって、一瞬で傷が無くなるなんてことあるわけない。あれは再生を手助けするに過ぎないわけだから、理論上も歴史上もそんなことアリエナイぞ!? ふざけてないで本当の状況を……、おい、こら、シュラっ……待ってろっ!』
 シュラの門外漢な回答に業を煮やしたらしいレオンの電話が切れると同時に、ベッドの上の少年がくるりとシュラの方を向く。
「事情を説明してくれよ、おっさん」
 困り果てたような顔をした少年に、それはこっちのセリフだとシュラもまったく同じ弱り果てた表情で久我を見返していた。