■ 4-65 ■




 その日。
 その日は醍醐覚にとって、特別な日となった。
 東雲の指示で久我をリアルへ呼びに戻り、その後再びスクールセラへと戻った醍醐の前には、もう何もなかった。
 生徒会室の前にはたくさんの大人達が押し寄せ、内部のあらゆるものが運び出された後であった。
 どうやら、醍醐が呼びに言ったはずの久我も、あの場で笑えるほどいたぶられていた成坂も、下らない欲望でその手の中の大事なものを手放した佐薙も、そして――彼に全ての命令を下した東雲も、姿を消していた。
 学校中にうろつく見知らぬ大人達はきっと、理事長を検挙しに来たソムニア達に違いない。
 生徒会室の物が押収されれば東雲や醍醐達も話を聞かれることにはなるだろうが、恐らく逮捕されることはないと聞いている。
 なぜなら醍醐たちはソムニアヤクザや理事長たちの計画によって作り出された『一般人』の被害者であり、何も知らない可哀想な『未成年者』だからである。
 ソムニア薬の適性を認められ、勝手に被献体にされて死んだ生徒達も数名いる。
 運良く東雲や醍醐は生き延びたが、それだけのことだ。
 後は理事長の指示により、言われたとおり仕えるしかなかったと、そういうシナリオを以前から東雲に聞かされていた。その為、生徒会、ボランティア部絡みの書類は全てそのように作られ、きちんとそれらしく隠してパソコン内部へ入れ込んであった。
 学校を守るため。友達を守るため。自分たちの命を守るため。
 それが彼らの持つ理由だ。
「被害を受けた未成年者の僕たちは、治療と経過観察という名の付いた監視がしばらくは着くことになるだろうが、数年もすれば興味をなくされるさ」
 そういって東雲浬生は笑っていた。
 だから醍醐もこの状況には慌てることもなかった。
 彼らに呼び止められないよう、何気なく生徒会室の前を通り過ぎ、現実へ戻る。
 それにしても、東雲はどこへ行ったのだろう。
 久我をリアルへ呼びに行き、醍醐がセラへ戻るのにセラ時間で小一時間必要なことはわかっていたはずだ。
 こんな風に何も言わずに姿を消すなど、あの人にも困ったものだとため息が漏れる。
 理事長はIICRの物々しい連中に逮捕され、次に学校には手続きを経た、醍醐たちが想像もできないような権威たっぷりの査察が入るに違いない。
 今日はこれから忙しくなるだろう。後見人である有清理事長が逮捕されれば、その後は東雲自身が学校を切り盛りしていかねばならないからだ。
 もちろん新たな後見人を立てることも可能だろうが、おそらく東雲はそれをしないだろうと、醍醐は思っていた。
 あの頃はまだ幼かった彼の主も、今は全てを引き受けるに十分の知識と腕がある。
 まだまだ年若いとはいえ、彼の人や組織を動かす才能は有清などの出る幕ではないということを、醍醐は十二分に認知していた。
「浬生さん……リアルに戻られたのか――?」
 スクールセラに姿が見えないと言うことは、東雲もまた現実へ戻ったのかもしれない。
 この光景を見れば事態は急展開を迎えている。この騒然とした場所にはもう彼の主はいない気がした。
 醍醐は廊下を歩きながらしばし考え込み、そしてひとまずセラから離脱することにする。
 光に満ちた学校の風景は徐々に色を失い、次に目を開ければそこは常夜灯のみ点る醍醐の寝室である。
 ベッドを抜け出し入獄システムのスイッチをオフにすると、Tシャツにジャージ姿の部屋着のまま自室を後にした。
 薄闇に沈んだ長い廊下を歩き、突き当たりの吹き抜けホールにある階段を上がる。
 二階にある醍醐の部屋のすぐ上が、東雲浬生の私室となっている。
 ワイン色のカーペットが敷き詰められた廊下にはポツポツと黄金色の常夜灯が足下を照らしており、闇に沈んだ深夜であってもこの歩き慣れた廊下を行くには何の問題もない。
 昼間はうるさいくらいだった蝉の声も今は時が止まったかのように聞こえない。
 あんなに学校はざわついていたのに、ここは微かなさざ波すら立たない、鏡面のような静けさだと醍醐は思った。
 東雲家に代々仕えていた醍醐の両親は既に他界しており、昔は何人かいた住み込みのメイド達も今はほんの数名、通いで昼間訪れるだけだ。屋敷の主である美帆が入院してからは、深夜のこの時間帯――ほぼ東雲と醍醐二人だけがこの広い屋敷で生活していることになる。
 カーペットの上を歩く自分のスリッパの音だけがやけに柔らかく、金色の微灯の続く中で溶けては消えていく。
 そうして醍醐は東雲の私室前に立ち、分厚い木製のドアを控えめにノックをする。
 リアルへ戻っているはずならこの騒動だ、東雲は起きているだろう。だが、深夜ということもある。そのまま眠ってしまう場合も考えられた。
 しばらく返事を待つが中からは物音一つ聞こえない。
 もしかしたら本当に眠ってしまったのかもしれない。
「浬生さん。居るんですか?」
 醍醐は扉を開け中に歩み入ると二部屋続きになった奥の寝室を覗く。
 掛けられた薄いコンフォーターの形を見ればどうやら東雲は眠っているようだ。
 青い月明かりがやけに眩しく、東雲の白いベッドは波間に浮く船のように見えた。
 ベッドの向こうに大きく取られた窓が開けられ、レースのカーテンがふわふわと揺らいでいるせいだ。
 こんなに明るくて眠れるものかとぼんやりそんなことを考えながら、醍醐はベッドへ近づく。
「学校、大変なことになってますよ。何か準備することは――」
 言いながら覗き込み、首を捻る。
 東雲は目を閉じたまま開けようとしないからだ。
 いつもなら醍醐が部屋に入った時点で目を覚まし、醍醐が話しかける前に向こうから指示が飛んでくるのに――。
 今の東雲は本当に気持ちよさそうにすやすやと寝入っている。
 口許には楽しそうな微笑を浮かべ、何かいい夢でも見ているのだろうか。
「……浬生さん?」
 起こすのをためらいながらも醍醐は近づき耳元に声を掛ける。
 と。
 その鼻腔に刺す匂い。鉄臭い甘い香り。
 醍醐の目が見開かれた。
 青白いシーツに点々と跳ねる小さな黒い染み。
 よく見れば東雲の枕はじっとりとその黒に染めあげられている。
 醍醐は不意にその両手をベッドへ着き、無意識にぐっと力を込めていた。高級な主のベッドは音も立てず決して軽くはない彼の体重を支える。
 だが、それでもだめだった。
 今度は力を入れたはずの両手がくしゃりと折れ曲がり、ついに彼はベッドの脇へ崩れるようにしゃがみ込んでいた。
「…………」
 声も出ない。
 心臓が破裂しそうに胸を叩いているのに、全身が異様に冷たくなっていく。
 顔を上げる。
 しかしそこからは分厚いマットレスしか見えない。
 もう一度、確かめたくて――。もう一度確かめたら何か変わるかもしれないと、漠然とそんな考えにせき立てられて――、醍醐はまったく力の入らなくなった手足を使い、這い上るように立ち上がった。
 人の枕元で何を騒いでいると叱られるのではないかと、醍醐と東雲の日常が彼にそんな思いを抱かせる。
 だが――。這い上った先、覗き込んだ東雲はやはり目を閉じたまま。
 白い彼の秀麗な面は血の気を失ってはいたが、それでも最初に見た印象と違わず、幸せそうに微笑を浮かべていた。
 知っていた。
 わかっていた。
 いつかこんな日が来ることを。
 そしてその日がすぐそばに迫っていたことも。
 だが、それでも――。それは、その予感は何の予防線にも成り得なかった。
 東雲浬生は世界を去り、置いて行かれた醍醐覚はその喪失感に為す術がない。
「あなたは、いつでも勝手だ」 
 頼みもしないのに毛布をくれたり、自分の腕と引き替えに使用人を助けようとしてみたり。
 きっと己を殺めようとした血を分けた母親の望みも、彼は今日、勝手に叶えてしまったのだろう。
 そしてそれを終えてようやく、彼は初めて己の望みを決行した。
「俺は……、待っていればいいんですよね」
 今度の勝手は東雲自身の願いだ。
 どんなに今この時この事実が胸を焼き、心臓に巨大な風穴が開けられようとも、醍醐にはそれを非難し、泣き叫ぶことなど赦されるはずもない。
 ただ粛々と主に言いつけられた言葉通り、その時を待つ。
 アンズーツである彼が再びこの世界に現われるその時まで、待っていればいいのだ。
 醍醐覚は顔を上げた。
「……泣かないんだ」
 ふと、声が聞こえ背後を振り向く。
 いつ入り込んできたのか、隣室から見知った和服の男がこちらを眺めていた。
「ご主人の後を追って死んじゃうかと思ったよ、パトラッシュ」
「浬生さんから何か頼まれたのでしょう?」
 学校出入りのパン屋の言葉など聞こえなかったように、醍醐は淡々と己の質問をぶつける。
「さすが、よくわかってる。キミは僕のこと気に入らないだろうけど……」
「苦情は浬生さんに直接言いますよ」
「そうしてよ。ハチ公くん」
 雨森至郎は満足げに肩をすくめると、醍醐のいる寝室へ近寄ろうともせず、傍らに置かれたソファーへ腰を預ける。
「それで、あんたが頼まれた内容――聞かせてもらえますか。その為にここに来たんでしょう?」
「やれやれ、せっかちだねハチ公くんは。ご主人を弔う時間ぐらいもう少し取ったらどう?」
「直接手を掛けたあんたが言いますか、それを」
「……あれ。なんでそう思っちゃうかな」
 困ったような笑いを口許に浮かべる雨森に、醍醐は無言で先を促す。
 東雲のこの柔らかな死に顔を見た瞬間に、醍醐はすぐに理解していた。東雲の自刃にこの男が力を貸したであろうことを。この男の能力を知っていれば誰にでもわかることだと醍醐は思う。
 それを今さらとぼけたようなことを言うこの男は本当に性格が悪い。
 醍醐の考えを見透かすような目でこちらを眺めていた雨森は、わかったわかったと言いたげにひらひらと手を動かすと、こう続けた。
「覚ちゃん。キミの選択肢は三つある。まず一つめは、この学園を相続してここを守っていくこと。二つめは、相続を放棄し、僕の組織でお仕事したりしてキミの力を生かすこと。三つ目は――どっちもキャンセルしてキミの自由に生きること。……キミは一を選びたがるだろうって浬生は言ってたけど、彼のお薦めは三だそうだ。……ちなみに僕のお薦めは二……」
「三で」
「はや」
「三で」
 この学校を守る意味は最早無い。彼の主が守りたかったものはもうここにはないからだ。今はもうこの城は彼の生きた残骸に過ぎない。
 きっとこの場所は帰ってきた東雲浬生にとって足枷でしかなくなるのだろう。
 もちろん、醍醐にとって人生の全てがここにあり、離れがたい想い出が詰まった場所でもあるが――。
 そこまで考えてふっと苦々しいため息が漏れる。
 自分も見くびられたものだと思う。
 そのくらいのことが自分にわからないと思ったのだろうか。
 想い出など、この頭の中にだけあればいいのだ。
「まったく……」
「文句は浬生に直接――、でしょ?」
 醍醐の心を読んだかのように雨森はそう言った。