■ 4-66 ■




 信号が変わると一斉に人の波が動き出す。
 真夏の午後の日差しは容赦なく照りつけ、行き交う人々の影を黒く濃くアスファルトの上に焼き付けている。
 そんな窓外の光景を、椅子に座りぶらぶらと所在なさげに足を揺らしながら、亮はぼんやりと眺めていた。手元のカウンターテーブルには氷で占められたコーラと、少々塩味のきついポテトが並んでいる。
 空調の効いた店内にいるにもかかわらず、窓外の夏はくぐもった音で蝉の声をうんわりと響かせ続けていて、亮は我知らず溜息を吐く。
 夏なんだけどな……。と、亮はぼんやりと思った。いつも夏はそこはかとなく胸騒ぐ季節で、何か楽しいことが起こりそうなそんな予感がするもので、通知票は手痛いものの、夏休みはそれを凌駕する熱い楽しみの塊で――。それが彼のいつもの夏。なのだが。
 今年はどうもそういう気持ちになれない。
 あの夜からもう二週間が過ぎようとしている。
 事件は一応の解決を見ており、ソムニア覚醒薬開発を行っていたグループは、理事長の有清を始め、数人の教員、元IICR職員、外部ソムニア系マフィアに至るまで、見事なまでに一網打尽とされていた。洗脳操作された生徒達を買春し、彼等違法グループの資金源となっていた客達も、リストを全て洗われ日本警察機構によって逮捕送検されると聞いている。
 また、事件の舞台とされた学校そのものに対する方向性も、迅速すぎるほどにスムーズに決められつつあった。
 理事長以下多くの役員を失い、その上、東雲浬生の死により正当な持ち主の血族を失ってしまった青陵学園グループは、取り合えず東京都の管理直下に置かれることで引き続き運営されていく方針であると発表されている。
 事件後、十日ほど休校という措置は執られたが、これほどの事件であったにもかかわらず大きな報道などが世に出ることもなく、数日前から滞りなく正常な授業が開始されていた。
 学校も、そしてそれを取り巻く大きな社会も、流れとしては正しい日常へと戻りつつある。それを亮は第三者的視点で情報として認識はしていた。
 だが、事件当事者としての亮の周囲は、依然として蕪雑としたままなのだ。
 例えばそれは部活の先輩である東雲浬生と醍醐覚のこと。
 東雲の死亡は自殺だか他殺だがわからない類いのもので、今も調査が進められており、そして彼の傍を片時も離れなかった醍醐覚は、事件の数日後、学校を辞めどこかへ姿を消してしまっていた。彼の親族も行き先に心当たりはなく、すでに両親が他界している彼の失踪届は、遠い親戚筋により提出されたのだという。
 秋人から聞いた話では、醍醐覚は学園のあらゆる所有権を含む、東雲家全ての財産を東雲浬生より譲渡されたのにも関わらず、それを蹴って行方を眩ませてしまったらしい。血のつながりの薄い親戚が醍醐の身を案じているのにはこのことに関して何か物申したいことがあるのだろうと、情報を教えてくれたくるくるパーマの大人はぼそりと零していた。
 母親を寂静させるために異神を呼び出させた東雲と、それに無条件で付き従った醍醐。
 その二人は、片方は自ら命を絶ち、もう片方は主が消えると同時に己も姿を消してしまうという選択を取った。解決したというにはあまりにも心にざらつく二人の結末は、彼らにはとても似合いすぎているように感じ、亮は陰鬱な気分に落ちていってしまう。
 それから、あの夜、自分の意志で亮を苛み、久我によって殺されかけた佐薙洋輔。異神が「真実救うためには随分と時を戻さねばならなかった」と言葉を添えた彼は、事件後、一定期間の記憶が完全に欠落してしまう有様に陥っていた。――らしい。
 らしい――というのは、亮自身あれ以来佐薙に会うことができなかったせいである。
 彼は事件に関わった重要参考人ということで、確保後すぐIICRの医療機関へ収容されてしまったのだ。だから佐薙についての情報はレオンからこっそりと教えて貰うほかなかった。
 そのレオン発秋人経由の情報によると「彼の記憶傷害は≪一部欠落≫といったレベルでなく、かれこれ四ヶ月ほど≪完全な白紙≫に戻っているとしか思えない」とのことなのだ。
 四ヶ月前と言えば彼が高校に入学してきた辺り――つまり、亮がクラスメイトとして佐薙と接するギリギリ手前の時期ということになる。
 事件について情報を欲しがっているIICR警察局は、本人もソムニア覚醒薬の被害者であり高校生買春に深く関わったとされる佐薙洋輔の証言を重要視しており、その為彼の記憶を取り戻すのに局を挙げて躍起になっているらしい。だが、入学当初に戻ってしまった彼の記憶は、あらゆる精神的処置を施してみても、回復の兆しを見せていない。それは記憶復活の取っ掛かりとなる『微かな記憶の残滓』すら存在を示さないせいなのだ、まるで彼の時そのものが巻き戻ってしまったかのようだと、当局は頭を抱えているということだった。 
 この状況を鑑みると、おそらく今、佐薙にとって、亮は名前すら知らない「クラスメイトにそんな人間がいたかもしれない」程度の存在に成り下がっているのだろう。
 それを知り、亮はホッとすると同時に、少しだけ胸の奥に切ない痛みを覚えていた。あのボランティア部で掃除に明け暮れた日々を思い出せば、確かにそこに彼等二人の時間はあったわけで――寂しいと思う部分も亮には多分にある。だが、きっとこれでいいのだと深い部分では感じていた。異神が言った「真実救うため」とはこういうことだったのだと思うと、少し胸が苦しくなる。
 亮の記憶はおそらく佐薙にとって害悪にしかなり得ないのだと、そう知ってしまったから――。
 遠くで潮騒のように鳴り響く蝉の声を聞きながら、亮は一つ、ため息を吐いた。
 社会が正しい日常に戻りつつある今も、こんな風に、彼の周りの小さな世界はとっ散らかったままであった。
 だが、亮のため息の一番の理由はそれらの内、どれでもない。
 亮にとっての一番の理由は今からやってくる。
 亮の周りの小さな世界の中、その中心に気にくわないほど当たり前の顔で居座っている人物――久我貴之。元相棒であるはずの久我に会うのが、亮は怖いのだ。
 確かに亮は久我が怪我でシュラの私セラに担ぎ込まれたとき「見舞いに行く」と息巻いていた。久我が思った以上に早く怪我から復活し、亮に何も言わず姿を消してしまったときにも「なぜ自分の前に顔を見せない」と憤った。
 だが二週間経った今、突然「会おう」と連絡を受けて、初めて亮は怯えている自分に気がついたのだ。
「……くっそ。なんでオレこんなびびってんだよ」
 亮は舌打ちをするとカップから突き出したストローを咥え、ガジガジと噛みしめる。
 思い返されるのはあの日、あの夜、久我の眼前で佐薙と共に痴態をさらけ出していた自分。あの時亮は確かに東雲のアンズーツ下にあったが、そんなことはなんの救いにもならない。第一、あの時の出来事を亮は逐一全部、記憶しているのだ。
 学生として重要な数学の公式や歴史の年号は簡単に忘れてしまうのに、なぜこういう忘れたい出来事は根深く頭の中心に居座るのだろう。
「あーもー、キモいって思われてたとしてもだからなんだ。オレは久我にあって謝らなきゃだめなんだろ。異神呼び出して危険な目に遭わせたこととか、オレを助けに来てくれて手足無くすかもしれないほど酷い怪我させたこととか」
 だからしっかりしろオレ!と思うのだが、もしかしたら久我に血を提供したその行為すら、良く思われていないかもしれないとまで考えてしまい、ひたすら考えがマイナススパイラルに陥っていく。「あいつ、ソムニアとしてはプライドとコンプレックスの塊みたいなとこあるからなぁ……。ゲボが勝手に輸血したみたいなこと聞いたら、ブチ切れててもおかしくねーんだし……」
 ここにこうやって二週間ぶりに呼び出されたのも、最後通告というか縁切りというか、とにかくそういう類のことかもしれないとそう思え、亮は緊張するだけでなくズブズブと気持ちが落ちていくのをどうしようもない。
「せめて謝るだけ、謝んなきゃ。うん、そうだ。頑張れオレ」
「まーたなにか悪さしたのか、おまえ」
 ストローを囓ったままモゴモゴと呟いた亮の背後からふと声が聞こえ、間髪入れずゴチッと軽く頭を小突かれる。
「って! 何すんだいきなりっ」
 思わず抗議の声を上げ振り返った亮の前には、「よっ」と気安く片手を挙げ、バーガーセットの乗ったトレイを持った久我が白い歯を見せ立っていた。
 久しぶりに見たルームメイトは亮の想像していたよりずっと普通に笑っていて、ついつい亮は自らの戸惑いを瞬間的に裏側へ隠し、目の前の級友と同じ調子の気安さで受け答えてしまう。
「ストロー咥えてんのに頭殴るなんて危ねーだろ!」
「咥えてんじゃねぇ、囓ってたんだろ、どうせ。またくだらねぇことグルグル考えながらさ。おまえ、自分で勝手にドツボにはまる癖あるからな」
「っ! か、考えてねぇしっ」
 あまりに的確に今の自分の状況を言い当てられ、亮はうろたえたあまりぷいっとそっぽを向いてしまう。そんな亮を眩しそうに見つめ、久我は目の前の相方の髪をくしゃりとかき混ぜて、隣のカウンター席へ座っていた。
「言っとくが、おまえが謝ろうとしてる相手が俺なら、受け付けねぇからな」
 正面を向いたまま亮の髪をかき混ぜ続け、久我はぽつりと言った。
 ぎくりとした様子で亮が久我の横顔を眺める。
「んな顔すんなって。そうじゃねぇ」
 ようやく右手を止め、久我は亮の顔を瞳に映し微笑んだ。
「そうじゃないって、どうじゃないんだよ……」
「謝られるのも嫌なほど俺が怒ってるとか思ってンだろ?」
「う。」
 自分でも気づいていない自分の気持ちを、この男はなんだってこうもズバリと突いてくるのか。久我はこんなに頭の切れる男だっただろうか。この二週間、何があったんだ――と湧き上がる疑問を満員乗車させた亮の瞳に、久我は小さく苦笑してしまう。
 久我が亮の顔を見て手に取るようにその気持ちがわかったのは、自分もまた同じような考えにあったからだ。
 だから二週間という決して短くはない時間、久我は命の恩人であるはずの亮へ連絡を取ることもできなかった。療養のためだと部屋を出た亮同様、自分も寮を引き払って実家へ戻り、放任主義が服を着て歩いているような親に「鬱陶しい」と文句を言われ、反抗期の始まった生意気盛りな妹に「早く学校へ戻れ」と邪険にされながらも、珍しく今時の高校生の如く自室へ引きこもってもみた。
 そして答えはようやく彼の中で出たのだ。青臭い煩悶の末たどり着いたその答えに、彼は従うことにした。
 まずはその気持ちを亮へ伝えなくてはならない――。全てはそこからだと覚悟を決めて、久我はここへ亮を呼び出した。
「謝らなきゃならないのは、俺の方だからだ。だからおまえの謝罪は受け付けない。俺はまずおまえに謝りたくてここに来たんだからな」
「は? おまえがオレに何謝るってんだよ。久我はオレをいつも助けてくれてたじゃねーかよ。――だいたい、おまえがオレとコンビ解消するって言ったの、あれ、オレを事件から遠ざける為だったんだろ? 冷静に考えてみればそうとしか思えないのに、……なのにオレ、頭に血が上っておまえのこと追っかけて、東雲先輩の罠に嵌って、おまえを危険な目に遭わせた」
「そんなことな」
「そんなことある! おまえを人殺しにしちゃうとこだったんだぞ!? おまけに異神召還に付き合わせて下手したら寂静させてた! ってか、成功した方が奇蹟だったって今になってわかる。オレはおまえをこの世から消しかけたんだ。だから――ごめん!」
「……成坂」
 ぼさぼさの髪のまま身体ごと久我へ向き直り、亮はぺっこりと頭を下げる。
「それに、またオレ情けなくさらわれて、助けに来てくれた久我の人生、変えちゃうような怪我させてしまった――。だからそれも、ごめん」
 一気に思いの丈をぶつけるように、亮は捲し立てる。
 先手を打つつもりが逆に亮に先を越され、久我は苦り切った表情で額を掻く。
 毎回コイツはこうなのだ――と、笑ってしまう。こちらが満を持して何かをかまそうとすると、何の予備動作もなく唐突に、だがあくまで自然に、久我のしたかったことを先んじてくれるのだ。
 だがいつまでも亮の後についてばかりいる自分ではない。そう決意してここに来たはずだと思い切り、久我は大きく息を吸い込むと、己も亮に負けず劣らずの角度でがばりと頭を下げていた。
「俺の方こそ悪かった。おまえの為とか勝手に先走って、心にもない酷いこと言っておまえのことすげぇ傷つけた。おまえが東雲につかまったのは俺の独りよがりのせいとしか言い様がない。そんでおまえがあんな目に遭わされて、また俺、頭に血が上って――。一般人の佐薙を撃つなんて後先考えない行動取ったのは、おまえのせいじゃない。俺が馬鹿だからだ。そのせいで今度はおまえに異神召還なんかさせちまった。流れを追えば一目瞭然だろ。全部俺が悪い。ごめんっ!」
 亮の謝罪にいちいち応えるかのような久我の謝罪に、亮は驚いたように顔を上げる。
 だが久我は依然両手を拳にして膝の上に置き、深く頭を垂れたままだ。
「久我――」 
「それに成坂があのマッドサイエンティストに浚われたときだって、俺、おまえを助けに行ってる最中にも関わらず、おまえそっくりの偽物にコロっとやられてエロいことしちまった。おまけに成坂を助けるどころか、敵にベッコボコにされてそれを英語教師に助けられて、一緒に連れて帰ってもらうっつー体たらく。申し訳ない上にダサ過ぎて、本当は俺おまえに合わす顔もないんだ。そんで色々考えちまって、二週間も連絡取れなかった。ごめんっ」
 久我の言う『亮そっくりの偽物』というのは、ガードナーが作り出していた亮のアルマコピーのことだろうと、亮にも理解できた。ぼんやりと薄暗い意識の中で、たくさんの自分に取り囲まれ、部屋の奥へと運ばれた記憶が亮にも残っていたからだ。
 亮のアルマを元にセラの構成要素を使って作り上げられた人形――。彼等のことを秋人はそう簡単に教えてくれた。
 あのアルマコピーたちはシドが全て消してしまったと聞いていたので、彼等に久我が接触していたことは知らなかった。しかし考えてみれば当たり前のことなのだ。シドより前に久我は亮を救いにガードナーのセラへ踏み込んでいたのだから、彼等と久我が会うのは必然のことで。
 亮が黙ってしまったことを受け、久我は神妙な面持ちで顔を上げる。
 どんなに罵倒されても仕方のないことだと、久我は覚悟を顔に滲ませ唇を噛みしめて正面にある亮の顔を見やった。
 だが――。そこにあったのは怒りに満ちた顔でも、嫌悪感に打ち震える顔でもなく――ひたすらすがるような、不安に揺れる顔。
「あいつら、おまえに、なんか――したのか? オレのコピーが、おまえに……」
 思わぬ反応に、久我はしまったと顔を歪めた。きっと大人達が分別を働かせて亮に伏せておいた『言わなくても良いこと』を、久我は己の罪の意識に耐えきれず亮に告げてしまったに違いない。
「違う、そうじゃなくて……」
「だって久我だって見ただろ!? オレは男の癖に男にエロいことされて喜ぶ最低の気持ち悪いゲボなんだっ! あの日だって久我の目の前でオレは」
「成坂っ!」
 久我の手が亮の両肩に掛かり、痛いほどに強くつかんで揺する。
 しかし亮は止まらない。
「だからそんなオレのコピーもきっと同じに最低で、だからおまえのことっ、……ごめんっ! ごめん、オレ、おまえまで汚して、ごめ……」
「謝るなっ! 成坂、これ以上んなくだらねぇこと言ったら俺はもう二度とおまえとは会わねぇっ! いや、会えねぇっ!」
 久我は亮の身体を強く抱きしめていた。
 最初は逃れるように抵抗したその細い身体は、次第に涙を堪えるように微かに震え始める。久我はそんな友人に言い聞かせるようにゆっくりと言葉を吐く。
「おまえのどこがキモいんだよ。んなこと言ったら俺の脳内なんてキモ過ぎて映倫専門委員すら目を覆うレベルだぜ?」
「…………けどさ」
「けど、どうした。そもそもあいつらとおまえは全然違う。姿形は確かに成坂だったけど、あいつらは心すらないただの人形だ。そう、シド・クライヴは言ってた」
 シドの名が出た瞬間、亮の身体がピクリと反応する。そんな亮の様子に気づきながらも、久我は亮の身体を抱きしめたまま、静かに言葉を続ける。
「最低なのはそんな姿形に騙されて、あっさり誘惑に負ける俺の方なんだ、成坂。……おまえのことマジで好きになっちまった癖に、振られるのが怖くて冗談で流した卑怯な俺の心が、あんなこと引き起こしたんだ。マジでごめん」
「え……?」
「頼む。このままで、聞いてくれ成坂。今、顔合わせられねぇからさ」
 思わぬ久我の告白。それに驚いて反射的に身体を離そうとした亮の身体を腕に閉じこめたまま、久我は自嘲気味に笑っていた。
「はは……。最低だろ? あの時ちゃんと応えてくれようとしてたおまえの言葉遮って、告白自体無かったことにした俺の弱さが、アルマコピーに対して出ちまったって話なんだ、多分」
 亮はそのままじっと久我の言葉に耳を傾けている。
「つまりさ。好きなものを好きって言えず、欲求不満が溜まりすぎて身体だけじゃなく頭の方も暴走させちまったんだよな、俺。んで、ただ同じ顔してるだけのコピーにすら俺は見境なくなっちまった。コピーにおまえのこと重ねてやっちまってた。キモくて最低なのはおまえじゃなくて俺なんだ、成坂」
「……そんなことない。久我はキモくもないし、最低でもねーよ!」
「……ありがとな。けど、それは曲がりなりにもおまえのこと好きだって自覚してる人間がやっちゃいけないことだった。そこんところ、俺はアイツに突きつけられてガツンとやられた」
「……アイツ?」
「シド・クライヴとかいう俺らの元英会話担当講師だよ」
「っ、シド……が、なんで……」
「認める。俺は完全にアイツに負けたんだ。おまえを助けに行ったあのセラで。……もちろんアイツと俺は能力にも雲泥の差があるし、他もまぁ身長とか雰囲気とか色々負けてることは認める。だけどよ、一番敵わないと思ったのは……アイツは、シド・クライヴは――、あの人形たちをただの一瞬もおまえとして見なかった……ってことだ。アイツにとって成坂亮はおまえだけだった。迷いなんて欠片もなかった。俺なんてちょっと見た目が一緒だってだけで中身なんかまるで違うあの人形に、惑わされっぱなしだったのによ」
「…………」
 腕の中に収まった亮の身体から余分な力が抜けていくのを感じ、久我はようやく亮の身体を解放する。
 久我の目に映る亮は少し照れたような怒ったような表情を浮かべており、亮の目に映る久我も同じように顔を赤らめたまま不機嫌そうに口を尖らせていた。
「けどさ、成坂。俺、おまえのこと諦めたわけじゃねぇから。……だから改めて言う。……成坂亮。俺、おまえのこと、好きだ。恋愛対象として、本気で好きだ」
「久我……オレは……」
 久我はここでまさかの二度目の告白を亮へかましていた。しかも他に誤解のしようもない、はっきりとした注釈付きで。
 謝罪のために会おうと決めてきた亮にとって、話はめくるめく展開を見せ、想定の遙か上空をかっ飛んでいくこの久我の言葉に、亮の心臓は痛いほどに脈打ち、脳みそはシェイクされたかのように混乱している。
 だがやはりここは誠実に応えなくてはいけない。それだけははっきりとわかる。だから亮は必死に言葉を絞り出す。
「オレは、……オレも、おまえのこと好きだ。むかつくこともあるし、すぐ鬱陶しい真似してくるし、ぶん殴ってやろうかって思うこともあるけど、それでも多分、かなり、すげぇ好きだ。……けど、それは友達っていうか、その、相棒っていうか、の好きで……おまえの言ってくれてる好きとは違うんだ。……ごめん」
 それをまるで気持ちの良い音楽でも聴くように、久我は穏やかに目を閉じる。
「サンキュー。これで一つ俺の目標達成だ」
 そして返された言葉は妙に晴れ晴れとしていた。それは亮が戸惑い、自分が今言ったセリフが間違っていなかったかと脳内で検証してしまうほどに。 しかし亮の気持ちはきちんと久我に届いていたようで、久我は続けてこう言った。
「今日来た目的の一つは、おまえにちゃんと振られること――だったからな」
 ニシシと笑うともうとっくに覚めてしまったビッグネスバーガーにかぶりつく。
「……? なんだよ、それ」
「ケジメだよ、ケジメ。第二回戦へ行くためのさ」
「は?」
「俺は諦めの悪い男なんだ。ソムニアの人生は長い。まずはきちんと振られてから、次を始めないとな。新たな挑戦の第一歩は――おまえと肩を並べられるだけの男になって、相棒の座を俺のものにすることだ」
「……俺の相棒の座って、今んとこおまえ以外誰も座ってないようなんだが」
「んなことわかってるよ! けど俺が納得してねーの。俺はCマイナスのヘボソムニアで、おまえはSクラスの特級様だ。釣り合うようにならなきゃ正式な相棒とは言えないだろうが。俺はおまえのヒモみたいにはなりたくねーの。だから今は相棒(仮)でしかない!」
「…………ヒモってなんだ? てか、出た。能力値コンプバカ!」
「うるせーなっ、いいから聞けって。そんで、次に狙うのがおまえとのラブラブプライベートでの相棒の座だ。おまえが安心して背中を任せられる男になれば、背中だけじゃなく色んな所を任せられるようになんだろ?」
「なんだよそれ、変態くせぇ!」
 亮の口から苦いため息が漏れ、久我はわざとらしくウヘヘと下卑た笑いを浮かべてみせる。
 だが重かった空気はいつの間にか払拭されていた。潮騒のように憂鬱だった蝉の声もどこかクリアに響き始め、窓外の夏も光量を増した気がする。
 いつもと変わらぬ日常の風が亮の周囲に吹き始めていた。
 二段重ねの巨大バーガーに食らいつく、どうやら(仮)付きの相棒をちらりと眺めると、亮も冷房で冷え切ったポテトを口に放り込む。
 冷たい癖に美味いと感じた。
「それから、おまえんとこの事務所の口座に約束の5,149,861円、きっちり振り込んどいたからな。あの管理人のおっさんに横取りされるんじゃねーぞ?」
「・・・・・・は? ごひゃく・・・?」
 バーガーにかぶりつきながら、唐突にモゴモゴもらされた久我の言葉が聞き取りにくく、亮は首を傾げて聞き返す。今、なんだかとんでもない額の数字を聞いた気がするのだが、きっとビッグネスバーガーが口の中いっぱいに詰まったが故の奇蹟の空耳に違いない。
 しかし、大きな肉とパンの塊を飲み込んだ隣の相方は、平然とした顔で繰り返していた。
「だから、東雲の情報をIICRへ通報した礼金十万ドルの半額を、おまえんとこの口座に振り込んだっつってんだよ。約束じゃ六・四とか七・三とか言ってたけどよ。取り敢えず公平に五・五で手を打っとけよ。……実は俺も、これからちょっと入り用になるしさ」
 久我はまるで重大発表をするかのような神妙な面持ちで後半の言葉を語っていたのだが、聞かされている亮は前半部分しか耳に入っていないようで、
「じゅうまんどる? 今、十万ドルっつった? え? それ、いくら? 十万円より高いのか?」
 とそこばかりに食らいつく。
 今聞いたことが空耳でも白昼夢でもなければ、亮のS&Cソムニアサービスへの二百数十万の借金はあっというまに完済されることとなるのだ。
「あったりまえだろ! そりゃ今円は前ほど強くはないかもしんないけど、今一ドル百円ちょっとだ。山分けしても五百万以上はある」
「っ!!!!! 嘘だろ、なんでそんなに貰えんだよ!? おまえなんか悪いことしたのか!?」
「アホかっ、IICRからの正式な礼金だっつってんだろ。東雲はアンズーツだった。しかもあいつだけは薬による疑似ソムニアじゃなくて、本物だったんだ。本物のアンズーツは現在輪廻の中にいるソムニアとして確認されてないほどの希少種だ。それが東雲の遺体から採られた血液によって事実だと判明したらしい。俺らの情報は公式に認可された。だから、希少種発見の礼金が一昨日きちんと耳を揃えて交付されたんだ。そりゃ、東雲には自殺で逃げられちまったけどさ、発見者の俺たちに十万ドルなんて安いくらいだと思うぜ?」
「……へぇー、はぁー、ふぇー……」
 大きな瞳をぱちくりさせながら、亮はアホの子そのままの調子でひたすらうなずき感心するばかりだ。
「んで、俺は今回のアンズーツ発見の手柄で、個人業者向けのメディア数社にインタビューもされた。もちろん約束通りおまえの名前は一切出してないし、俺一人でやったことにしてあるが、それに関して文句はないよな?」
 感心しきりの亮はコクコクとうなずくと、氷の溶けてすっかり薄まったコーラを喉を鳴らして吸い上げる。
「オレのこと、隠してくれてサンキュー。てかインタビュー記事っていつ出んだ? オレも読みたい!」
「それなりに大きい雑誌や新聞もあるからよ、おまえんとこの事務所なら掲載されればすぐにわかると思うぜ? まぁそん時は遠くイギリスの空から電話くらいしてやるよ」
「おう、頼んだ! …………っつって何、イギリス?」
 ここに来てようやく亮は久我の話の後半戦へ意識を向けるに至っていた。
 久我はようやくかよと苦笑を浮かべながら「ああ」とうなずいてみせる。
「俺がおまえに会おうと思った二つめの理由が、それなんだ。…………俺、来週、UKのレイランドへ行くことにした。だからその報告とお別れにな」
「ちょっと待てよ、なんだよいきなり! なんでイギリスなんか行くんだよっ。しかもレイランドってイーストミッドランズにある、あのクソど田舎のレイランドか!?」
「ああ、そうだ。リアルではちょっと遠くなるな」
「面白くもない冗談はやめろよ。レイランドってIICR本部がある街じゃねーか! なんでそんなとこ……」
「冗談なんかじゃねぇ。言っただろ? 俺はおまえの本当の相棒を目指すって。今度のことで俺の名も多少は世界に売り出すことが出来た。名前が先行しちまったのはあまりいい事じゃないかも知れないが、実力がそれに追いつけば問題ない。だから俺はシュラのおっさんとこでソムニアとして修行するって決めたんだ。あの人もかまわねぇって言ってくれてるしな」
 口元にいつもの調子づいた笑みを貼り付けているものの、久我の目は真剣そのものだ。
「シュラんとこ……。やっぱ、久我、おまえIICRに入んのか」
 亮の胸がジクリと痛んだ。
 久我が認められるのは素直に嬉しい。IICRにもシュラを始め大事な友人がたくさんいて、組織そのものが嫌なわけでもない。
 だが久我がIICRへ入ると思った瞬間、亮の胸は大きく脈打ち、ジクリジクリと痛んでいた。
 己のこの気持ちに、亮自身戸惑い、うろたえる。
 久我は亮にとって、ただ一人IICRの関を越えていないソムニアだった。IICRのような極一部ではない、ソムニア界全体の空気を亮は初めて久我に教えられ、ソムニアが本来持っている葛藤や苦悩や希望や夢や、その他様々な想い、世界を知ることが出来た。
 その中で生きている久我を亮は本気ですごいと思ったし、正直憧れた。
 だから久我には行って欲しくなかったのだ。IICRという権力の壁に囲まれた向こう側へ。
 勝手なことだと自分でも亮は思った。だが、権力に反抗し息巻いていた久我がチャンスが来た途端、こうも簡単に向こう側へ渡ってしまうことに、小さな失望と喪失感を覚えてしまう。
 だがそれでも、きっとおめでとうと言わなくてはいけない。これはソムニアにとって当たり前のように喜ばしいことで、誇らしいことに違いないのだから。
「……えと、久我。その……」
「その……なに? ……ったく、そんな顔してんじゃねぇよ」
 祝福の言葉を必死に選ぶ亮の眉間に、不意に久我の人差し指が伸びる。驚いて依り目になった亮の眉間をピタリと突くと、次いで遠慮無くぐりぐりしながら、久我は「すっげぇ縦皺」と笑う。
「無理しておめでとうとか言おうと思ったんだろ、どうせ」
「っ、お、オレは別に無理してなんか……」
「言っとくけど、俺はIICRに行くわけじゃねぇぞ?」
「……へ!? え? でも…………そうなのか?」
 どうやら久我のIICR行きは亮の先走った思いこみに過ぎなかったらしい。肩すかしをくらった亮はひとしきり目をパチクリさせると、久我に気づかれないようほっと息をついていた。
 だが久我は今日に限っては亮の心の中を完全に見通しているようで――そんな亮の様子を目敏く見つけ、亮の感情をフォローするように話を続ける。
「確かにおまえに血をもらって、オレのポンコツイザも多少は使えるようになったけどな、そんなもんじゃ俺みたいのがあの組織の一員に加われるまでには至らないってことさ。それに――ゲボの血の効力は一時的なものなんだそうだ。おまえの知り合いのオタ医者がそう教えてくれた。ゲボの血による能力上昇は期間の長いドーピングみたいなものなんだと」
「え、あ……、そっか。ゲボの血って傷治すだけっじゃなくてそういう性質もあるんだっけ……」
 久我に言われて亮は初めて気づかされる。久我が自分の血で能力変化を起こしていたと言うことを。
 考えてみればゲボの血はブラッドリキッドという形に精製され、カラークラウンに配給されるほど、能力上昇の効果が高いものである。亮の血を輸血した久我の能力に変化があってもおかしくはない。
「そっかって、おまえあんだけ俺に血ィくれてて気づいてなかったのかよ。じゃ……おまえ、俺がおまえの血のドーピングもなしにIICRに入れると思ってたってことか? か……買いかぶりすぎだぞ、俺にどんな夢見てんだ!」
 久我は驚いて眼を見開くと、一瞬で耳まで顔を朱くし、ガツガツとポテトを口に放り込む。どうやら照れているらしい。
「だけどさ、久我。おまえがIICRに入るんじゃなければ、なんだってわざわざあっちにまで行く必要があるんだ? シュラに稽古付けてもらうんならセラの中で構わないんだし、第一おまえ、イザじゃん。シュラに頼むより、オレと一緒にシドに見てもらった方が身になる訓練が積めるんじゃないのか?」
 ポテトを頬張る亮が、納得がいかないというように改めて首を捻る。
「なんだ成坂。俺が傍にいないと寂しいか?」
 先程の照れ隠しか、ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべて、久我はバーガーの残りを全て口の中に放り込んでいた。亮はそんな久我にすぐさま抗議だ。
「茶化すなよ! オレは真剣に話してんだぞ! アホ久我っ」
「わ、わかってるよ。確かにイザの訓練を積むならアイツは最強の師匠かもしんねぇ。けどな、俺はイザを磨こうと思ってるわけじゃない。俺は能力値に頼らねぇ『純粋な戦闘術』を学ぶためにおっさんとこに行くんだ。その為にはセラだけじゃ不十分、リアルの実践も必要不可欠になる」
「……純粋な戦闘術? なんだって急にそんなもの……。おまえ、フリーの賞金稼ぎとしては戦闘特化タイプじゃなくて、万能技術タイプを目指してるんじゃなかったのか?」
 亮の言うように、以前久我はこの相棒にそんな話を語って聞かせたことがある。何度組み手をやりあっても亮に勝てず、そのたびに本音と負け惜しみ半々の成分で、自分の理想とする仕事のスタイルを話したのだ。
「秘密のアイテム使ったりスーパーハッキングしたり、隠された秘密結社のセラに新入したりさ……、久我、ソムニア界の007目指すって言ってたじゃねーか」
「っ、は、恥ずかしいからもうそれは言うな! とにかく、事情が変わったんだよっ」
 数週間前まで本気で考えていた久我のこの理想も、本物のカラークラウンたちを目の当たりとした今となっては、学校文集に書きつづられていそうな『ぼくの夢』に成り下がっていた。こんな風に面と向かって言われてしまうと、枕に顔を埋めて手足をバタバタさせたくなってしまう。
「事情が変わったって……」
 しかし亮はそんな久我の内心などまったく気づく風もなく、ひたすら胡乱げに首を傾げている。
 久我は気を取り直し、咳払いを一つすると居住まいを正して横にいる相棒の顔を覗き込んだ。
「それがおまえに会おうと思った三つ目の理由だ。俺はおまえも知っての通り、手足失うほどのやばい怪我をした。で、おまえの血――。ゲボのレアな生血を現代では考えられないほど贅沢に輸血してもらったわけで……」
「うん。それで、久我の怪我は完治した――んだよな?」
「ああ。でもそれはゲボの血による再生能力がもたらしてくれた結果じゃなくて……」
 そこまで久我が語ったとき。
 ふと、二人は顔を見合わせた。
 お互い言葉にしなくてもわかる。
 久我はそっとテーブルから両手を降ろすと、自らの腰へ手を回す。だらしなく垂らされたTシャツの内側には、隠すように彼の武器――自作のオートマティックが仕込まれている。
 亮も右手の親指につけられたシルバーリングに手を掛けていた。
 一見なんでもないデザインリングに見えるそれを左手で擦れば、波の文様に形取られた細工の一角がカチリと音を立て外れ、指先ほどの小さな棒状の形態を取る。亮はそれを左手で握り込んだまま、瞳は窓外に向け、意識は左側にある出入り口へと飛ばしている。
「閉じられた、よな」
 亮が聞けば、久我もぬるくなったコーラをすすりながら「だな」と短く答えた。
 二人の肌にきな臭い感覚が電気のように走っていた。亮はこの感覚をシドと出会った最初のセラで知っていたし、久我は前回の人生で二度ほど似たような体験をしている。
 通常オープンであり誰もが好きに入獄してきて、好きに現実へと戻っていける――。そんな一般的なセラであるこの場所が、今この時、何者かによって閉じられたのである。
「誰だか知らねぇが、物騒な気配ビンビンさせながら入ってきたぜ?」
 昼下がりのデリシャスバーガー店内は、そこそこの賑わいを見せていた。店の右側、亮と久我のいるカウンター周りこそ閑散としていたが、逆側に広く取られたテーブル席エリアは、家族連れやカップル、学生たちなどでかなりの席が埋まっている。
 そこへ入ってきた一人の大柄な男。
 大リーグ、ブルーソックスのキャップを目深にかぶり、夏だというのに身体全体を包み込むダボダボとしたカーキのトレンチを着ていた。
 男は両手をポケットに突っ込んだまま、一直線に販売カウンターへ向かっていく。
「どうする、成坂。男を叩くか客を逃がすか――」
「多分閉じられたのはセラん中でこの店だけだと思う。だからまず客を逃がそう」
「わかった」
「オレがあいつ引きつけておくから、久我は客の誘導を頼む」
「バカ言うな! んな危ねぇ役、おまえにばっかり任せておけるかっ」
「文句はオレに模擬戦で勝ったら聞いてやる」
「おま、今それ言うかよ! って、こらおい、待てって!」
 久我が止めるよりも早く、亮はふわりとイスを飛び降り歩き出していた。
 瞬間。
 ――パンッ!
 と、妙に軽い音が鳴った。