■ 4-67 ■




 同時に巻き起こったのは、照明の割れる甲高い音、天井の崩れる乾いた音、そして耳を塞ぎたくなるほど大勢の悲鳴――。
 男が天井に向け、銃を撃ったのだ。
 コートの中から取りだしたのは、強化プラスチック製のショットガン。一発の銃撃で数十の弾丸を一斉に撒き散らすそれは、この平和な店内においてあまりにも不似合いな凶暴さで、黒々と存在を主張していた。
 男はその銃身を振り上げオーバーアクション気味に薬莢を弾き出し次の弾薬を装填すると、野太い声で恫喝する。
「騒ぐなっ! 騒ぐと全員今すぐ穴だらけにしてやるぞ」
 銃口を顔面に突きつけられた若い女性店員は両手を挙げ、冗談のようにガチガチと歯の根を鳴らしていた。彼女の頭上からは、今もまだぱらぱらと天井の一部が落下し続けている。男がその指を引けば、今度は自分の顔もこの天井の合板のごとく穴だらけに――いや、顔そのものが吹っ飛んでなくなってしまうかもしれない。今の一撃で彼女にはそれがありありと想像できていた。
 普通ならこれほどの恐怖を感じた時点で、一般人のアルマがセラにとどまっていられるはずがない。すぐにでもセラを離脱し、安全な肉体へと帰って行くはずである。
 だがこの場にいる誰にもそんな兆候は現われない。亮と久我が感じたとおり、この店内はリアルから完全に隔絶されていた。
「我々は人類の救済者である! 安心しなさい、ここにいる者たちは死にはしない。救済に協力し、永遠の輪廻を実現する礎となるだけだ」
 穴だらけにすると恫喝した舌の根も乾かぬうちに、男は店内を見回し、一転猫なで声で語りかける。
 だが男の黒目がちな小さな瞳は決して笑っていない。吸い込むような闇夜に塗られたその色から匂い立つのは狂気。
「皆も知っているだろう。近頃世を騒がせている生きた屍どもの存在を。彼等はアルマを失い只の肉の機械と成り下がった哀れな存在だ。彼等のような者をこれ以上生み出さないため、我々『環流の守護者』は立ち上がった! このままでは転生できぬ人間が増え、ソムニアはこの世界から消え失せてしまう。我々ソムニアが世界から消えることは、すなわち人類文化の損失に他ならない! ではどうすれば良いのか!? どうすれば世界は救われるのか!? それを教えてくれたのが我らが導師テーヴェである!」
 男は歌うように朗々と口上を垂れ流すと、ショットガンを構えたままぐるりと店内を見回していた。
 その視界に一人の少年が捕らえられる。男の右手数メートルの位置、まだ子供だ。店内に侵入してきた際、こんなところに人が居た記憶が男にはなかったのだが、きょとんとした大きな瞳でこちらを眺めるその様子を見ると、男の侵入に驚き身動き一つ取れていないように映る。
 Tシャツにジーンズ姿というありふれた服装と小柄な体格で、男が彼を見落としていただけなのかも知れない。
 男は少年を一瞥すると、再び口上の続きを宣い始める。
「テーヴェは仰った。『魂の渠』を清浄にせよと! 人の心が汚れ荒み、濁ったアルマが魂の渠の壁にへばり付き、転生の流れを滞らせているのだ。それを清浄にするためには、罪無き大量のアルマを一気に渠へ流し込んでやるのが最良の方法である! それ故今から我々はあなた方に協力を仰ぎ、あなた方のアルマをもってアルマの環流を洗い流す! ご協力感謝する」
 男は一呼吸置くと、急に下卑た声で笑い出し、手にしたショットガンを構え直して左側テーブル席エリアで凍り付いたように動きを止めた女子学生四人のグループへ狙いを定めた。
「ひひゃっははははっ、こんな七面倒くさい理屈最後まで聞いてくれてありがとよ。それじゃ早速おめーら意味のねぇ一般人の命で、俺らの為に便所のつまり押し流してくれやっ!」
 太い銃口の先では、中学生くらいの少女達四人が目を見開き身を寄せ合って震えている。そしてすぐ横のテーブルでは、テーブルに着いたまま身動きできない母親が隣の少女を必死に抱き寄せていた。母親の恐怖が伝染したのか、幼い少女はこの状況の意味もわからぬようにぼんやりとこの状況を眺めている。先ほどまでご機嫌に遊んでいたであろうラッキーセットおまけの車のオモチャは、彼女の手の中でカタカタとプラスチックらしい音を鳴らし続けていた。
「ひゃひひひひひっ!」
 男の指先がトリガーに掛かり引き絞られる。
 パンッ――
 先ほどと同じく軽い破裂音が響き渡った。
 飛び出した弾丸から別れていく無数の鉄球。
「っ!!!!」
 だがそれら黒き鋼が牙を剥いたのは少女達でも親子連れでもなく――男の頭上に吊り下げられてたデリシャスバーガーマスコット・デリシャスくんの特大人形だった。
 天井に固定されていた金具を吹っ飛ばされた彼は、バランスの悪い巨大なバーガー頭を下に、自分を撃った不埒な男の頭上へとゆうらり落下する。
「だっ!!!!」
 一瞬目を見開きそれを見上げた男は、避ける暇さえなくデリシャスくんの頭突きをその脳天に喰らうことになる。
 なぜ頭上から人形が降ってきたのか、わけがわからずうずくまった男の周囲で、再び時が動きはじめる。弾ける悲鳴。逃げ出す人々。
「みんな、こっちだ! 落ち着いて出入り口から順番に!」
 混乱の中でただ一つ、落ち着いた声が聞こえた。客達は彼の誘導に従い、次々と店内から逃げ出していく。そして店外に出た者達は、その瞬間から姿を消しリアルへと戻っていくのだ。
「っ、くそっ、てめーらっ、誰が出ていいっつった! 戻れ! 戻って死にやがれっ!」
 男はのし掛かるデリシャスくんをはじき飛ばすと、ショットガンを構え直し、再び弾丸を装填する。
「ムチャ言うな、おっさん。言われてハイソウデスネって戻ってくる奴なんかいねーよ」
 男の前に立ちはだかったのは、先ほど男の視界に引っかかった小柄な少年。
 どこからそんなものを出したのか、彼の手には先ほどまで影も形も見えなかった二メートルを超える若草色の長い棍棒が携えられており、それを天秤棒よろしく肩に担いだ少年は、呆れたように首を傾げていた。
「ガキっ、ソムニアか!」
 男は瞬時にそう悟る。ソムニアには見た目の年齢など意味をなさない。実際三度目の転生を果たした彼自身それをよくわかっていたはずなのに、少年のあどけない面差しに、不覚にも彼はすっかり気を抜いていたのだ。
 実感はまるでなかったが、おそらくあの天秤棒で男のショットガン銃口を掬い上げたのに違いない。
「バスター風情が舐めた真似してくれんじゃねーかっ。今回の空間隔絶にどんだけ元手が掛かってると思ってんだ!」
「知るか。てかもう金の心配なんかいらねーし。一般人無差別殺人とか蒸散刑確定だからなっ」
 少年は担いだ天秤棒をくるりと優美に回すと、ピタリと男の眼前にその先端を突きつける。
「ひひっ、無差別殺人で蒸散刑ねぇ。……IICRも俺らと同じようなこと裏でやってるさ」
「はぁ!? 寝言は目ぇ覚めてから牢屋ん中で好きなだけ言えよ、ばーか」
 少年の啖呵が終わる前に、男はその指先に力を込めた。
 放たれる銃声。だが、その先は男の想像通りには行かなかった。血しぶきを上げて吹き飛ぶはずだった華奢な身体はどこにもない。きな臭い匂いを放ち砕け散ったのは少年の立っていたはずの床だけだ。
「ちっ、どこいった!」
 男がきょろきょろと辺りを見回し、頭上を振り仰ごうとした瞬間、彼の視界は暗転する。
 我知らず彼の口から「ぐげっ」というカエルまがいの声が飛び出し、続いて彼自身も道路で潰れたカエルそのものの格好で床に倒れ伏していた。
 完全に意識を失い、だが自ら閉じた空間が故にリアルにも戻れずだらしなく突っ伏す男の上に、亮はふわりと舞い降りる。
 手にした棍を滑らかに回転させ男の身体の下に突っ込むと、重さを感じさせない軽い動き一つで男の身体をひっくり返す。
 赤黒い舌を少しだけ口からはみ出させ、白目を剥いた男の下から、現れた黒い銃身をさっと棍で掬い上げ手に取ると、
「へぇ。けっこう重いんだな」
 生まれて初めて触ったショットガンに簡単な感想を述べながら、初めて亮は店内を見回していた。
 すでに多くの客は久我の誘導により店外へ脱出しつつあるようだ。
まだ店内に残っているのは年配女性三名のグループと、あの親子連れだけである。入り口近くにいたはずの親子連れだが、少女がぐずってしまい身動きが取れなかったらしい。
 今になってようやく動き出した母娘を案ずるように、年配女性が声を掛けている。
「成坂、そいつ縛れるか!?」
 入口で男子学生グループを外へ追い立てながら久我が声を掛けてきた。
 亮が「おう」と応えれば、的確なコントロールで銀の輪が鋭く飛んでくる。
 ジンと心地よい痛みを手のひらに残し、顔の横でキャッチされたそれは空間錠。久我のバスターとしての七つ道具の一つだ。
 亮はすでに見慣れたそれをチャラリと揺らすと、目をさます気配もない男の腕に手際よく嵌め込む。
「OK、嵌めたぞ、久我」
 亮がそう言い、久我の方へと顔を上げた。
 と、入口付近に立つあの泣き出しそうだった少女が表情もなく亮の方へとオモチャのバギーカーを差し出している。ピンクと黄色でポップに彩られたプラスチック製の丸っこい車には、可愛らしいイヌの運転手とネコの女の子が笑顔で乗車していた。
 悪い奴をやっつけて見せた亮へのお礼の気持ちだろうか――。
 そう亮が朧気に考えた時。少女の手にしたバギーのボンネットがカシャリと上がった。
「!?」
 不穏なものを感じ取り見開かれた亮の目に映ったのは、そこから一直線に飛び出してくる無数の線。
 いや、線ではなく微細な『矢』であると気づいたときには、それらは一斉にこちらへ走り出している。
 狙われてるのは自分ではなく、この足下の男だと亮は瞬時に判断し、男の身体を肩に担ごうと引っ張り上げる。
 これを殺してしまっては久我のバスターとしての稼ぎにはならないからだ。
「成坂っ、いいから避けろっ!!」
 久我が亮の動きの意味をすぐさま悟り叫んだ。
 いくら亮の反射神経が一般のソムニアを凌駕しているとしても、これほど至近距離からの矢撃を男を抱えては避けられない。そう久我は判断していたのだ。
 亮が男を振り上げるように背中へ抱え背後のカウンター向こうへ飛び退った瞬間、久我は突発的に床を蹴った。
 矢と亮の間に計画性の欠片もなく投げ出された久我の身体は、その右半身に次々と矢撃を喰らっていく。
「ぐ……」
 顔、腕、脇腹、足――、一面に数十の小さな矢を喰らった久我は呻き、その勢いのまま床に転がった。
 そして次の瞬間、鈍い音を立て上から順番に久我の身体がはじけ飛んでいく。少女の放った小矢には小型の爆薬が積み込まれていたらしい。
 パンパンと爆竹のような派手な音を立て床の上で噴き上げる血しぶきが、久我の身体を濡らしていく。
「っ、久我あああああっ!」
 男を背負いカウンターの上に降り立つ亮の目に映るのは信じたくない惨劇。久我の腕が花びらのように捲り上がり、脇腹からはピンク色の見知らぬ管が噴き上げ、横顔から赤黒い血しぶきに紛れ白く綺麗な欠片が舞い散るのが見える。
 叫んだ亮を眺め、入口近くの少女が忌々しげに舌打ちをしていた。
「ちっ。まだ邪魔をするか、バスターども。おまえらの軽い命一つ二つでは意味をなさんというに」
「っ……、久我、久我、久我っ」
「――悪く思うな、岡島。貴様が口を割れば尊い我らが使命が果たせんでな」
 亮には少女の声すら届いていないようだった。
 担いだ男を放り出し、ただ久我の名を呼びながら久我の元へ飛び出していく。
 男は床に投げ出された衝撃で意識を取り戻したが、自分へ向け、仲間であるはずの少女が矢を放つ光景をわけもわからず眺め、そして久我と同じく破裂していく。
 少女が再び男へ向け矢を放ち、目的を達成してしまったことにすら、亮は気づけなかった。亮が捕らえたはずの男は、今や血みどろのままじんわりと輪郭を滲ませている。死んだアルマはほどなくセラから消え失せるのだ。
 それを見届けると、少女は母親役の女を従えて外へと消えていく。構成員が捕らえられIICRへ組織の情報を漏らされることだけは避けられたが、今回のテロ行為そのものは失敗の憂き目を見てしまったことになる。しかも名もない一バスターたちの手によって――。幼い瞳に苛立ちの炎を燃やしつつ消えていく少女に、それでも亮は意識を向かわせることができなかった。
 亮の目に映るのはただ一人。赤黒い生命の色を迸らせながら倒れる相棒の姿。
 今すぐ自分の血を使えばなんとかなるのではないか。今すぐ何者かを呼び出せば久我は助かるのではないか。
 亮は混乱する頭で必死に思いを巡らせると、ドロドロとした血と内臓を零しながら倒れ伏す久我の身体を抱き上げ、右手首に歯をあてていた。
「すぐ、治す。すぐ、だから――」
 亮の白い歯が、もうすっかり傷の塞がった彼の左手首へ潜り込む――その刹那。
 ガシッと何者かの手が亮の手首をつかみ、強引に口元から引き離していた。
「っ!?」
 見開いた亮の瞳に映るのは、苦り切った表情で残った片方の目を開けた久我の顔。
「だからすぐなんか呼ぼうとするの、……やめろ」
 驚いたことに亮の手首をつかんだのは、完全に裂け千切れ掛けたようにしか見えない久我の右手であり、そう呟いたのは半分崩れかけた久我の口だった。
「な……」
 何が起こったのか亮にはさっぱりわからなかった。
 今亮の腕の中にある久我の身体は完全に半壊しており、一言で言えば即死に近い状態である。
 だがその壊れかけた身体は当たり前のように動き、当たり前のように語りかけてくる。
「俺がおまえに話そうと思った三つめが、コレ……なんだ」
 そう久我が言葉にするその瞬間も、異変は続いていた。
 よく見れば崩れかけた身体の表面には黒いタールの如き水が浮かび上がっており、それはみるみる嵩を増し漆黒に覆い尽くしていく。
 亮はその『水』を知っていた。それは、あの異神が現れたときに出現したものと酷似しているように見える。
 久我の身体を覆い尽くしたそれは、やがて亮が瞬きを一つする間に嘘のように消え失せていた。
「っ……!?」
 そして現れたのは少々日に焼けた健康的な腕と、自慢の腹筋を擁した脇腹、そしていつもニヤニヤ軟派な笑いを浮かべたいけ好かない顔――。
「なんて顔してる。ゾンビでもなんでもねーぞ、俺は」
 亮の腕の中でそう笑った久我は、亮より一回り大きな手のひらでムニュリと相棒の柔らかな頬をつまみ、苦り切った表情のまま笑っていた。
「……だ、だって、久我、何!? アレ? オレにはおまえ、死んだように見えたんだけど、アレ? アレ?」
「死んでねぇよ。死にかけただけだ」
「はぁ!? し……死にかけたってレベルじゃねーだろ! あんなのほぼもう死んでたっつーのっ。てかマジ死ぬ二秒前じゃねーかっ!」
 久我を抱きかかえたまま完全に混乱する亮へ、久我はその体勢に甘んじたまま種明かしを始める。
「短時遡航――。シュラのおっさん達はそう名付けてくれた。俺がおまえに輸血されて、おまえからもらった能力だ」
「たんじそこう? なんだよそれ、久我、あの時やっぱ死んでてゾンビにでもなったんじゃねーだろうな! もうちょっとわかるように説明しろよっ!」
 まるで覆い被さるように詰め寄る亮に久我は口元をフニャリと弛めかけ、いかんいかんと己を戒めようやく身を起こしていた。
 改めて亮が傍らの相棒を観察すれば、右半身の服はボロボロで、Tシャツもジーンズも無惨なことになっていたが、その下にあるアルマそのものには傷一つついていない。「あーあ、結局あいつら逃がしちまったな」とぼやきながら床に胡座を掻く久我に、亮は無性に腹立たしさを感じ、引き続き猛然と食ってかかる。
「何ヘーキな顔してんだっ! おまえ、顔も身体も半分になって内臓とか目ん玉とか吹っ飛んでたんだぞ!? もし怪我隠してんなら、さっさと出せ、今すぐだせ、覚悟しろ!」
「うぉっ、こら、成坂っ、落ち着け! 大丈夫だから、もうどっこも怪我してねぇからっ! 言ったろ、俺は短時遡航できるようになったって。つまり、ほんの短い間、自分の身体に限ってだけだが、時を巻き戻すことができるようになったんだよ!」
 久我の身体の完全復活に不審感無限大で飛びかかってくる亮をどうにかいなし、久我は慌てて状況を解説する。
 そもそもあまり学校成績の芳しくない亮に対し、難しげな四文字熟語など通じるわけもなかったのだ、と反省しながら。
 そこでようやく亮の動きがぴたりと止まる。
 言葉の意味をなんとなく理解した少年は、しばし久我の顔を眺め、眉をぐっと寄せると「……時が、戻せる?」と難しい顔で問いただしてくる。
「ああ。おまえの血を大量に輸血されたくせにさしてイザは進化しなかった俺は、なぜかものすごい限定付きで――時の異神と契約を結んだことになったらしい」
「時の異神って――」
「そう。おまえが佐薙を助けるために呼び出したあの青くてデカイ奴だ。おまえ、何度も呼ぶってあいつに宣言したろ。それ、俺がもろ被ることになっちまったみてぇだ」
「なんで久我が! おまえそれ、大丈夫なのかよ!? 相手は異神だぞ!? ゲボですら下手したら飲み込まれちゃうのに!」
「ああ、なんつーか俺、あの大怪我で寝込んでる間中『人生巻き戻してぇ!』みたいな軟弱なこと、もやもや考えっぱなしだった……んだよな。んでその軟弱な願いが窮まった結果、この顛末になっちまったんじゃないかと、まぁ、そんな予想は立つんだが…………、それが正解なのかどうか俺には確かめようもない。ただ、この能力、ものすごい限定付きなんだ」
「限定付きって、実質殺されても死ぬ前に巻き戻るなら不死身じゃん。なにがどう限定なんだよ」
「ん、この契約は俺が願わないときは発動しないんだと。頭ん中でそう異神が言ってた」
「……それって普通じゃね? 異神との契約ってそういうもんだ」
「けど考えてみろよ。俺がそう思わないとき――つまり『思えないとき』は履行されないんだ。つまり俺が意識を失ってるときや寝てるときに、さくっとやられちまえば契約を履行するまもなく俺は死んじまうってこと。自動では巻き戻らないんだからな」
「……そっか」
 興奮気味だった亮はそこでやっとトスンと腰を落とし、久我の隣に座り込む。
「それに、異神はおまえの『血』と引き替えに俺を巻き戻すんだ。俺の中のおまえの血がなくなれば、そこで契約終了になる」
「!? それって、何回呼べるかわかってんのか!?」
「さっき短時遡航が終わった時点で異神が俺の頭に『あと千二十一回だ』って言ってたけど、それが本当なのかどうかは確かめようがないな。異神ってのは基本、嘘つくもんなんだろ?」
「…………うん。時の異神は俺にすごい嘘ばっかついてた。あ、でも、信者とかいうヤツらの声聞けば、嘘かどうかわかるぞ!? 鈴の音みたいな高い声で、わいわいうるせぇヤツら、馬鹿みたいにネタバレばっかするんだ」
「チリチリやたらうるせぇ鈴の音はずっと響いてたけど、声ではなかったな。もしあれが信者の声とやらなら――俺には言葉として聞き取ることはできねぇみたいだ」
 久我の返答に亮は顔を曇らせ「それって――」と呟く。
「ああ。本気で何回この能力が使えるのかはわかんねぇってことだ」
「っ、じゃあそんな能力、もう使うなよっ! さっきみたいな無茶な真似、二度とすんなっ! 俺は久我にこんな真似させるために血を分けたわけじゃないんだぞっ!?」
「わかってる。だから、行くんだ」
「? 何のことだよっ」
「だから俺は能力に頼らない戦い方を学ぶ必要があるってこと。だから俺はシュラに学びにイギリスへ行く。この能力を最大限有効に――だけど危ない真似はせずに活かすやり方を身につける為、覚悟を決めて行く必要があんだ」
「…………」
 もうどこにも傷のない、いつも通りの久我の顔をじっと眺めた亮は、小さく唇を噛んで立ち上がると久我に背を向け歩き出す。
「おい、成坂?」
 何やら機嫌を損ねたのかと惚れた弱みで慌てる久我は、亮を追うように立ち上がる。
 だが亮は無言でカウンター前まで歩んでいくと、床に光る空間錠を拾い上げ、振り返りざま、鋭い左ストレートで投げ寄越していた。
「っうおっと! ……ってぇ〜!」
 咄嗟にそれを受け取った久我はあまりの痛みにジンジンする左手をぶんぶん振る。
「おまえズルいんだよ! なんだってそういっつもいっつもオレの前歩いてくんだ!? そりゃ、オレはまだ転生だってしたことないペーペーの新人ソムニアだけどさ。でも、悔しい! オレはおまえと肩並べられるソムニアになりたいのに、追いついたと思ったらおまえはまた先を歩いてる」
「……成坂」
 まさか亮がそんなことを考えていようとは夢にも思わなかった久我は言葉が出てこず、ただ黙ってまっすぐにこちらを見つめる相方の顔を見つめるしかなかった。
 白い頬が真っ赤に染まり、半分怒ったような顔で睨み付ける相方の顔は、久我の胸をぎゅうぎゅうと締め付ける。
 『そんなことはない。いつだって先を走って行っちまうのはおまえの方だ』と、久我はいつもそう思っているのに今日に限って言葉が出ない。
「おまえが帰ってくる時には、オレだって鬼のようにシゴかれて、おまえがいらない心配なんかする隙もないソムニアになってるからなっ!」
「おう」
 宣戦布告のような言い様に、受けて立つかの如く応えた久我は、己の頬がにやりと弛むのを抑えられない。
「だからおまえはしっかりシュラに修行つけてもらって、オレが心配すらしない相棒になって戻って来いよっ!」
「あったりまえだ! かの有名な蒼の焔王・カウナーツジオット直々に修行つけてもらうんだ。おまえの組み手無敗もそこまでだかんな! それより成坂は、新しい学校でまた問題起こしてシド・クライヴに学校やめさせられないようにがんばれよ」
「っう……」
 ニヤニヤ笑いながら投げ返された煽り文句に、今度は亮が言葉を詰まらせる。
 どうやら久我は亮が青陵学園をやめて、元の七ヶ瀬に戻ることを知っているらしい。
「こ、……今度はうまくやれる、はずだっ。だって元のガッコの一年に戻るだけだし、去年いたから状況はなんとなくわかってるし、少ないけど友達もいるし……っ」
「……元の学校? 七ヶ瀬って中等部もあったっけ?」
「ないけど? 去年も高一だっただけで」
「…………」
「…………」
 きょとんとした様子で見返す亮の顔をしばし眺めた久我は、ぱくぱくと何度か口を開け閉めし、喉の奥から絞り出すようにこう言った。
「……おまえ、ダブリ?」
「せ、セブンスに居たときの記録が消失してっからしょうがねーんだよっ。頭悪すぎてダブリじゃねーんだからなっ! 出席日数の問題なんだからなっ!」
 そこんとこ間違えんなよと息巻く亮の言い分など今の久我にはまったく届かず、
「ダブリってことは……。ってことは……」
 ブツブツと呟き現実を受け入れるのに必死なようで、何度か首を振った後、ついに叫んでいた。
「……とっ、年上なのか? 成坂が年上だとおおおうっ!?」
 そんな風に取り乱す相方を眺めながら、亮は呆れたように「何を今さら」と肩をすくめる。
 そして『即死状態から生き返って見せたおまえの方が何百倍も有り得ねーよ』と思いながら、この失礼な相方の頭を長棍で思い切り小突いていた。