■ 5-10 ■


 ゆらゆら、ゆらゆら。
 なんだかとても気持ちいい──。冷たくて柔らかい何かに包まれて、さっきまで焼けそうだった熱が身体の奥から溶け出していく気がする。
 ただ、真っ暗闇だ。
 目を閉じているからかな……。
 そう思った亮は目を開けようとした。
 だがやはり周りは闇のまま。自分が目を開けているのか閉じているのかもわからない。
 指先に力を入れてみる。
 けれどどうやって力を入れるのだったか、それすら忘れてしまったように何もかもに実感がない。
 まるで自分の身体まで熱と一緒に溶けて無くなり、冷たくて柔らかい闇そのものになってしまったかのようだ。
 すこしだけ怖くなって、亮はシドの名を呼ぼうとする。
 だがそれも叶わない。
 全てが闇になった亮には声を出すための声帯もそれを響かせる喉も、それ以前に息をするための肺すらないのだ。
 じわじわ、じわじわ、小さかった恐怖が次第に亮を支配する。
 自分の中から強烈な熱が吹き出すのを感じた。
 亮を包む冷たい何かすら沸騰させる勢いで膨れあがる己の熱に、亮はさらなる恐怖に陥っていく。
 ──怖い。怖い、シド、いやだ、怖い!
 声にならない声を上げ、ぴくりともしない手足を振り回し亮は、気持ちの良い柔らかなもののなかで暴れ出す。
 と──。
 ひたり。と、温かな手が亮の頬を撫でた。
 びくりと亮は目を開けた。いや、正確には開けたのかどうかはわからない。だが、確かに亮は目の前で自分を覗き込むその男の顔を見ることが出来たのだ。
 彼はぼんやりと淡く月光のように輝いていた。
 長い黒髪がゆらゆらと揺らめき、黒と水色の二つの眼が亮を映している。
 切れ長の目。すらりとした鼻梁。恐ろしいほどに整った顔出ちは中性的ですらあるが醸し出す雰囲気や体格ははっきりと男のものだ。
 誰だっけ──。と亮は首を傾げた。
 こんな綺麗な人を忘れるはずないのに、亮を見つめる目の前のその姿をどうしても思い出せない。
「そうか。おまえが残ってしまったのだな。亮──」
 そう、聞こえた。
 男の口は動いていなかったように思う。だがその深い声音は確かに亮に届く。
 亮の頬を撫でる手は暖かく優しいようにも思うがどこか無機質で、人ではない何かに触れられているようだ。
 いつの間にかあれほど膨れあがっていた熱が嘘のように消え失せ、再び冷たくて柔らかな何かが亮の周りを満たしていく。
 亮はぱちりぱちりと瞬きをし、目の前の男をじっと見る。
 どうしてこの人は亮の名前を知っているんだろう、と不思議に思った。やっぱり知り合いなのに亮が忘れてしまっただけなのかもしれない。
「私が構成を損じたのやもしれん。……すまなかった」
 男はそうやって謝ってくれたが、亮にはなんのことだかよくわからない。
 ただ、この人は謝ってもあまりすまなさそうな感じがしないなぁとぼんやりそんなことを思う。こんなに耳障りのいい深い声音なのに、まるで機械が電子音声でしゃべっているかのようだ。
「楽にしてやらねばな。これは私の責任だ」
 男はそっと亮の髪を梳き撫でると、亮の頬を両手で包み込みふわりと顔を近づけた。
 手のひらとは違うひんやりとした柔らかい何かが亮の唇にかすかに触れた。
 ぴりっと静電気のような何かが走り、それと同時に亮の唇から陶然とした溜息が漏れる。
 溢れ出る熱が亮の中を駆けめぐり、あまりの快感に亮は何度か身体を波打たせ、その後急激な睡魔に襲われていた。
 うっとりとしたまま、再び闇の縁へゆらめきながら落ちていくのを感じる。
「亮。おまえは失敗作だが、無益な苦しみを与えていい道理はない。もうしばし時は掛かるがすぐに全てうまくいく」
 失敗作──。そうか、自分は失敗作なのか──。
 少し哀しい気持ちになったけれど、全部うまくいくのなら良かった。
 そう納得すると亮の意識はすぐに霧散し、心地よい眠りの奥へ引きずり込まれていった。





 亮は小さなクッションを抱え込み、頬を丸めたタオルケットに埋めるようにしてベッドの上で丸くなっている。
 背中に大きな異物があるため必然的にその体制は俯せに近い状態となり、普段、あまり良くない寝相の亮も以前のように好き勝手にベッドを移動することなく、大人しく中央付近でわずかに寝返りを打つのみだ。
 しかし寝返りが出るということは仮死状態から脱したという証拠であり、ハイキューブ投薬の名残で睡眠が続いているに過ぎない。
 先ほどまでそこにいたリモーネの診断によると、もう仮死化作戦の影響による心配はないらしい。
 窮屈そうに眉をしかめ、亮は不意にもぞもぞと身体を動かすと、こちらに向けていた顔を反対側に向け、右肩を下にしてタオルケットを抱きしめる。
 大きな翼がこちら側へ投げ出され、シドの前髪を微かに焼いてへたりとベッドにしなだれ落ちた。
「…………。」
 シドは無言で立ち上がるとベッド反対側に置かれた椅子へと移動する。
 亮の枕元へ腕をつき、そっと顔を覗き込むが変わらず窮屈そうに眉をしかめており、よほどベッドを転がり回りたいんだなこいつは──と、思わず笑ってしまいそうになる。
 家で寝ているときはたびたびベッドから転げ落ちそうになり、そのたびにシドが反対側から抱き寄せてやったものだ。
「そんな顔をするな。じき、好きに転がれるようになる」
 入ったしわをほぐすようにシドは指先を亮の眉間に添えくすぐってみた。
「…………んん」
 鬱陶しそうに声を上げるとそんなシドの悪戯に抗議し、亮は抱きしめたタオルケットへ正面から顔を埋めてしまった。
 飛んできた羽虫でも追い払うように、亮の翼がばさばさとシドのいる辺りを薙ぐ。
 熱風が頬を叩くが、シドは寝ぼける亮の攻撃をさらりとかわし微笑みながら亮の柔らかな髪に口づけを落とした。
「まったく……物騒なオプションがついたものだ」
 そう言うシドの声には苛立ちのようなものは皆無で、代わりに愛おしむ者に対する柔らかな甘い響きが溢れている。
 その声に安心したのか、亮は再び寝返りを打ち半身をこちらへ向けて、何かを探すように左手を伸ばしていた。
 ぺたぺたとシーツの上を彷徨う小さな手に己の手を絡めてやると、亮はもぞりとこちらへ身をいざらせ、自らシドの胸元に頬を寄せる。
「…………。」
 半身のみベッドに預けた中途半端な体勢で身動きを封じられ、シドは困ったように眉を寄せる。
 亮の炎翼が危険なため、リモーネにも有伶にも添い寝は禁じられている。
 だがこの状態をキープするわけにも行かず、もちろん亮を引き離す気にもなれない。
 諦めたような溜息を漏らし、シドはブーツを履いたままぎしりとベッドへ横たわると、亮の腰を右腕で引き寄せていた。
 抵抗もなくシドへ身を寄せた亮は、よくばりにクッションとタオルケットを抱えたまま、シドの腕の中にすっぽりと収まってくる。
 この病室に入り新たに亮の着せられたモコモコとした柔らかい生地のパジャマは抱き心地がよく、シドは腕の中に亮の体温を感じながら、柔らかな亮の髪に鼻先を埋める。
 亮とはあれ以来まともな会話を交わせてはいない。
 最後に本来の亮と会話できたのは事務所でのあの時──。亮を叱りつけ、亮が半泣きで怒鳴り返してきたケンカの瞬間になる。
 どうしてあの時亮の異常に気づいてやれなかったのか。亮の単純な思考など自分にわからないはずがないのにそこに思い至らず、深く考えもしないままどうしてあんな傷つける言い方をしてしまったのか。
 思っても詮無い後悔ばかりが胸を突く。
 思えば亮に対してはいつも自分はこうなのだ、と溜息が漏れる。感情と言動をうまく切り離せず、行動もいつもの自分ではありえないものとなり失敗を繰り返す。
 諜報局局長として過ごしてきたあの頃の自分とは全く別の人間のようだ。
「早く目を覚ませ。亮──」
 すーすーと寝息を立てる少年の唇を指先でたどり、つむじにそっとキスを埋め込む。
 炎翼が成長を止めれば亮の痛みも消え、いつもの生活に戻れると聞いている。もちろんそれを除去する方法を模索するため入院は続けなくてはならないが、それ以降は今までのような厳しい状況からは脱することができるらしい。
 だがそれは同時に、亮が自分のアルマの状況を知る瞬間になるということだ。
 亮と会いたい気持ちが溢れる一方、目を覚ました亮にこの状況をどう説明するのか──それを考えると複雑な思いに駆られてしまう。
 だがそれでもやはり、亮の黒くて大きな瞳にはっきり映る自分の姿を確認したい。
 いつもと同じように小生意気に自分に反抗し、むっつりと拗ね、花が開くみたいな笑顔でじゃれてくる亮を取り戻したくて仕方がない。
 亮の枕にした左腕をまわし、髪の中に指先を差し入れて小さな後頭部をそろりと撫でた。
 香水などではない甘い亮の香りがかすかに立ち上り、シドは目を細める。
「うぉっほん、うぉほん。あー、ほらまた約束やぶってぇ。僕の言いつけなんて聞かなくていいと思ってんでしょ」
 と──。唐突に甘やかな静寂を打ち破る声が聞こえ、困惑した様子の有伶がカーテンを掻き分けるように姿を現す。
 シドは姿勢を変えることもせずジロリとそちらを一瞥すると、全く感情の見えない声で「何の用だ」と言った。
「何の用だはないんじゃない? 僕だって亮くんの治療プロジェクトのメインメンバーなんだし……」
「後ろの連中はなんだと聞いている」
 右腕で肘枕をしわずかに身体を起こして、シドは有伶の背後へ厳しい視線を飛ばす。
「え? あー、うん。落ち着いてから紹介しようと思ったのに、あんたは鼻が利きすぎるなぁ。……一人は一応以前から話があった子なんだけど、もう一人は今日急遽ビアンコが寄越した人だから……むぅぅ。シドさん、恐い顔しないでよ」
 一見すると何の変化も見られないシドの表情に、昔なじみの有伶は何かを感じ取ったらしい。
 地味目の顔に冷や汗を浮かべながら、有伶はカーテンをまくり上げ、背後で控えていた二人の人物を天蓋の中へと招き入れていた。
 一人は高校生くらいの小柄な少年。丸い顔に丸くて大きめの眼、ぽってりとした桜色の唇が印象的な彼はずいぶんと童顔で、きっと亮同様年相応に見られないタイプの人間だ。だがそんな顔立ちとは裏腹に、ノースリーブの白いシャツから覗いた腕にはしっかりとした筋肉が乗り、健康そうに日に焼けた肌には入り組んだ曲線を描く見事なタトゥーが黒一色で施されている。そして何より彼の額や頬にも同じく複雑で優美な図柄が、彼の魅力を増すかのように小さく入れられていた。
 波や碇をモチーフとされているであろうそれらは、詳しくはないシドにもトライバル系のタトゥーであることくらいは見て取れる。ファッションというよりも部族的な意味合いが強いのだろう。野性的であるはずのそれらは不思議にも、柔らかな印象を持つ彼にとてもよく似合っていた。
 そんな彼とは対照的に、もう一人の人物はかっちりとグレーのスーツを着込んだ都会的な男だ。年の頃は三十代半ば──、整えられたグレーの髪に沈んだ青い瞳を持つその男の顔立ちは整ってはいるが、官僚然とした生真面目さが表層に押し出されてきたかのような堅い印象だ。
「こっちの子がルキ・テ・ギア。ラグーツの若手で、彼の原初水には現在僕らは絶賛お世話になり中だ」
 有伶の紹介を聞き納得したようにシドは若干雰囲気を弛めていた。
 身体を起こすと座り直し、胸に抱いていた亮がわずかにむずかるのを聞いて、すり寄るしなやかな上半身を自らの膝の上に引き上げる。
 少年はおどおどした様子でその様子を盗み見、シドと目が合うとわかるや否や、大きな目をぎゅっと閉じてぺこりと頭を下げていた。その仕草があまりに日本的なのは彼が二度目の人生で日本に生を受けたが故であるのだが、当然シドはそんなことを知る由もなく、ただ単純に「なんとも畏まった人間である」と思ったに過ぎない。
「あ、あ、あの。初めましてっ、僕、ルキ・テ・ギア、と言います。ラグーツの3転生目、機構に入って2期目の新人で、部署は獄卒対策部です。よ、よろしくおねがいしますっ」
「イザ・ヴェルミリオだ。こちらこそ世話になっている。だが初めましてではないな。以前、俺の在職中、時々イザのホームエリアに来ていただろう」
「ぇっ、ぁ、っ、そ、僕みたいな地味な人間にも気づいててくださったんですかっ!? うそっ、どうしよう、すいませんっ」
 当時からハルフレズのもとを訪ねてくることの多かったルキだが、シドが顔を出す時を避けていたことにシドはしっかり気づいていた。
 もちろんルキに限らずごく一部の者を除く大抵の人間が当時シドを避けていたのだから、それについてシドはどうとも思うことはないのだが、ルキはますます恐縮してしまったようで半分涙声で顔を上げることも出来ないようだ。
「ヴェルミリオ、あんまり虐めちゃだめだよ。ルキにはこれから亮くんの看護についてもらうんだから」
 有伶の言いぐさにじろりとそちらを眺めたが、すぐに雰囲気を弛め、シドはルキへと向き直る。
「そうか。今これのそばに居られる人間は能力的に限られてしまっている。何かと危険も伴うことになるが、よろしく頼む」
「はっ、はいっ! せいいっぱい、がんばりますっ!」
 そう言って顔を上げたルキの表情は決死の戦場に赴く戦士さながらと言った風情だ。彼が獄卒対策部ではかなりの腕前を持つ次期エース候補という情報は知っているが、目の前の少年の様子とその情報の噛み合わなさに、シドは自分の情報収集能力に疑いを持ってしまいそうなほどである。
「それからこちらは、ハガラーツ・レドグレイ。理事会実行室──ヴァーテクスのメンバーで、現在ビアンコ不在時には彼の代理を務めているIICRにおける実質上のナンバー2だ」
 有伶が紹介するとレドグレイは、拳を握りしめたまま直立不動で固まっているルキの脇を通り抜け、一歩前へ進み出ていた。
 ヴァーテクスと言えば、ビアンコを中心とした数名からなる理事会の執行委員会のことであり、IICRの頭脳を司る部分にあたる。メンバーは古くからいる長老達がメインなのだが、若くしてその場所へ席を占めるということは相当なやり手であると見て間違いないだろう。
「私は本当に初めてお会いする。ハガラーツのクラウンをつい3年ほど前引き継いだレドグレイだ。ヴァーテクスの末席にはその際につかせていただいた。転生のタイミングが悪く、なかなかあなたとは顔を合わせる機会がなかったが──ヴェルミリオ。あなたの話はかねがね四方より伺っている」
 どのような内容なのか察しは付くなと無言で次の言葉を待つシドに、レドグレイはこう続けた。
「彼らがどう言おうが──私はあなたが『有能な人物』であるということのみを重要としている」
「…………。」
 まるでシドの考えを呼んだかのような言葉に、シドは黙したまま値踏みをするようにレドグレイを見据えた。シドとて数多いるIICRの職員に顔を知らない者は大勢いるが、クラウンを襲名するクラスの能力者でお互い初面識であるというのは稀なことである。しかもこのレドグレイという男はシドとほぼ同じ転生回数を経ている人物であり、その間在籍時が噛み合わなかったとなると相当の確率となる。
 レドグレイという人物についての情報を脳内から引きずり出し、シドは改めて本人を前にしながら精査していた。
 先ほどまではなかったぴりぴりとした空気が辺りを毛羽立たせていく。
「用件はなんだ。こんなところまでビアンコの変わりに挨拶に来たというわけでもあるまい」
 手元でわだかまっていたタオルケットつかむと、己の膝上で眠る少年の肩から首もとへと寄せる。
 それをレドグレイは無機質な視線でじっと眺め、事務的な口調で話を続ける。
「もちろんその意味合いもある。私は己の目で見たものしか信用しない。ヴァーテクスのメンバーとして、私にはIICRに対する責任があるからな」
「ご苦労なことだ。で?」
「さすがに話は早い」
「……え? え? なんのこと?」
 二人の会話に不思議そうな調子で傍らにいた有伶が首を突っ込んでくる。
 これだけの言葉でしっかり会話が進行しているらしいことに研究局トップはまったく合点がいかないらしい。
 そんな有伶をちらりと見ることもなく、レドグレイはスーツの胸元から一枚の紙を取り出すとそれをシドへと差し出していた。
 無言でそれを受け取り広げて眺めたシドはほんの微かに眉を寄せ、それをくしゃりと握りつぶす。
「セラ・テロ対策室の始動はリアルタイムでまだ24時間はあったはずだが」
「事情が変わった。諜報局から件の連中が作戦を早めたという情報が上がっている。ビアンコの居ない今、私の辞令は彼の意志と捕らえてもらって相違ない。その書面は絶対だ」
「…………」
「では、待っている。──ウィスタリア、邪魔をした」
 レドグレイは踵を返すと、傍らで目をぱちくりさせている有伶に目礼し、カーテンの外へと出て行った。
 シドは手にした紙切れをぽいとベッドの上に放り投げると、膝の上にある心地よい重みに視線を落としそっと髪を梳き撫でる。
「シド、辞令って──」
「すまんが、有伶」
「は?」
「亮が目覚めるまでここへ居てやれなくなった」
「えええっ!? でもだって、どうするの。慣れない環境に移ったばかりでおまえが居ないんじゃ、亮くん不安がるよ」
「………。」
 有伶の言葉には応えず、シドは亮の身体をそっと膝上から降ろすとベッドからゆっくりとした動作で降り立っていた。
「ん……」
 側にあった体温の喪失にむずかる亮へ彼お気に入りのタオルケットを抱かせると、シドはその柔らかな丸い頬へ唇を落とし、何度か優しげについばんだ。
「すぐ、戻る。ドクターの言うことを聞いていい子にしていろ」
 小さな白い耳元に唇を寄せ吐息のような低音で言い聞かせると、柔らかな髪を撫で梳き、もう一度眉の上へ冷たいキスを落とす。
 言葉もなくそれを眺める有伶とルキへ一度だけ振り返ると、
「後は頼む。戻る時期は追って連絡をする」
 イザ・ヴェルミリオは先ほどとは打って変わっての絶対零度の声音でそう言い置き、部屋を出て行った。
 残された有伶とルキは呆然とそれを見送り、しばらくしてやっとベッドの上に放り捨てられた辞令を有伶が拾い上げ眺める。
 どうやらテログループが新たな動きを見せ、対策室の立ち上げが早まったらしい。
 IICRにクラウンとして戻ると言うことはこういうことなのだ。
 辞令は絶対であり、ファミリーと組織の為ならば己を捨てなくてはならない。
 亮が入院するためにシドがカラークラウンとして復帰すること──。それはビアンコの出した絶対条件だったわけで、シドは亮を守るために亮の側にいられなくなるというジレンマを抱えることになる。
「テロリストももう少し空気読んであげて欲しいよ」
 シドの出て行ったカーテンの方を眺めながら有伶は小さく溜息をついた。
「ぼ、僕も、そう思います……」
 ぽかんと口を開けたままだったルキも、心の底からという調子でそれに同意していた。




「亮くん、愛されてるんですねぇ、ヴェルミリオに」
 ベッドの傍らで椅子に座り、眠り続ける亮を眺めたまましみじみと言ったルキの言葉に、その横で亮のバイタルデータを確認していた有伶は思わず飲んでいたコーヒーを吹き出し振り返っていた。
「え? なんでそんな顔してるんですかウィスタリア」
「なんでって……キミはびっくりしなかったの、さっきのアレ。シドが──あのヴェルミリオがだよ!? あんな甘い声出して優しげに髪を撫でるとか……ホラーだよっ」
「そっ、そんなことないですよっ。……そりゃ、僕もちょっとはびっくりしましたけど……、でも人を好きになれば誰だって優しくなるものです。ヴェルミリオだって恋人には優しくなって当然ですよ」
「いやいやいやいや、僕はむかぁしむかし、あの人の恋人みたいな人とも知り合いだったけど……、あんなじゃあなかったよ? もっと下僕とか奴隷とかみたいに扱われてたよ?」
「ええっ!? 奴隷って……そ、それは恋人じゃないんじゃ……」
「いや、やることはやってたから! 僕の目の前で平気で……」
「ややや、やめてください、そういうプライバシーを侵害する話、良くないですっ」
 真っ赤な顔でわたわたと手を振るルキに、有伶も反省したように口をつぐんだ。
 ルキの純情すぎる反応に、確かに品がなかったと若干の反省を覚えたらしい。
「ああ、おまえらは知らなかったか。あの男が亮に骨抜きなのはデフォルトだ。いちいち驚いていては身が持たん」
 反対側の椅子に腰を下ろしたままデータに目を通していたリモーネがやれやれと言った調子で話に割り入る。
「異界落ちしかけた亮を何の策もなく突っ込んで拾い上げてくる男だぞ。推して知るべしだろう」
「……はぁ〜。素敵、ですね。恋は人を変えてしまうってことなんですよ。あんなに優しいヴェルミリオを見たら、ヴェルミリオのこと嫌っている他のクラウンたちだってきっと見直すと思います」
 手を組み合わせうっとりとした表情で中空を見つめるルキの頬はほんのりと朱く染まり、切なげな溜息が唇を付いて零れ出る。
 しかしそれに対する大人二人の対応はまるで正反対で──
「ないよ、ルキくん。ない。恐い。恐いしかない。武闘派のヒースだって震え上がるかもしれない」
「むしろ何かをたくらんでいると思われるんじゃないか? 家の戸締まりを頑丈にしたり盗聴器が仕掛けられてないか部屋を徹底捜索し始めるぞきっと」
「っ、どうしてそうなっちゃうんですか。お二人とももっと素直な気持ちで見てあげればいいのに……」
「ルキ。おまえはラシャと春真っ盛りだからそう思うんだ。異界落ちしそうになった自分をラシャが助けに来てくれたら……なんて妄想してるんじゃないのか」
 リモーネの軽口にルキの頬が爆発したように真っ赤に染まる。頭から湯気でも出そうな勢いだ。
「ぼぼ、ボクは……そんなっ、……でも、フレズくんが、助けに来てくれたりしたら、そりゃ……」
 どうやら瞬間的にその妄想がはかどってしまったらしく、両手を頬に添え、乙女のようにうつむいてしまう。
「え、そうなの!? ルキくんラシャと付き合ってんだ。へぇー! え? じゃあ、キミ今世はリアルだと女の子の身体なんだし、子供できちゃうんじゃない!? それともセラん中だけです……」
「ウィスタリア。おまえは本当にコミュニケーション能力に難ありだな。そう言う話を聞いていい相手と駄目な相手くらい見極めろ。何百年生きている」
 リモーネが止めに入りやっと気づいた有伶は、椅子に座ったまま亮のベッドへ突っ伏し真っ赤になって震えているルキを目にとめていた。
「あ……。あ〜。ごめんごめん。切替タイプの性生活に研究者として興味があって聞いてしまった。無神経で申し訳ない」
「……い、いぇ……。切替型が珍しいのは、仕方ないですし、き、気にしないでください」
 どうにか起き上がったルキはそれでも涙目で、全身赤く染まったままうつむいている。
 と──。
 ルキの視界の中で、ベッドの上で丸まっていた少年がゆっくりと目を開けていた。
 しばらくぼんやりとその状態を続けていた彼は、数秒を待ってもぞりと身体を起こす。
 同時に翼がゆらりと振られ、近くにいた有伶とリモーネはすんでの所でそれをかわしていた。
「と、亮くん、目、覚めた?」
 慌てて有伶が亮の顔を覗き込む。
 プラムは腕に巻いた時計を確認し、難しい顔のままそっと亮の傍らに近寄っていた。
 目覚めたばかりでぼんやりとした少年は、ごしごしと何度か目をこすり、何者かを捜すように視線を彷徨わせる。
 そして数秒後、少年の大きな瞳にぶわりと涙があふれ出し、まろい頬を伝ってぽろぽろとこぼれ落ち始めていた。
「えっ、どど、どうしよう、亮くん、どこか痛い? 先生、いるから大丈夫だよ?」
 一番近くにいたルキは突然の落涙にあわてふためき、助けを求めるようにリモーネを見る。
 だが当の亮の答えは全くルキの予想と違うもので──
「うえぇぇっ、えっ、シィ……、シィ、どこぉ?」
 まるで幼い子供のようなたどたどしい口調で、亮は泣きじゃくり始めていた。
「シドは今仕事に行ってる。大丈夫だ、すぐ戻る」
 瞬間厳しい表情を見せたリモーネは、すぐに優しい声音になると、あやすように亮の頭を撫でていた。
 ルキには事態がよく飲み込めていない。
 成坂亮という少年は16歳だと聞いている。だがこの口調も態度も年端もいかない幼児そのものだ。
「ぅぇぇぇえぇっ、シィぃぃぃっ」
 ぽろぽろと涙をこぼす亮の姿が、ルキの眼前でふわりと一瞬ぼやけると、小さく、幼く、言動と同じ年代の子供へと変化していた。
「!?」
 目の前で起きた現象がルキには信じられない。
 セラに入り込む時、年齢を変えるソムニアは大勢いる。
 だが、こんな風に入り込んでしまった後、セラの中で姿が変わる現象を彼は見たことがなかった。
「まずいな。ハイキューブの副作用が出始めている。これは計算より速く亮のアルマに破綻がくるかもしれん」
「GMD中毒だった影響が出てるんじゃないの?」
「それも計算に入れたつもりだったんだがな……。これからは多少痛みが出ても投薬のペースを落とさないといかん」
 何やら深刻そうな会話が飛び交い、ルキは不安になりながらもどうにかこの小さな子を泣きやませようと、子供の頭を抱き寄せる。
「泣かないで? 恐くないよ? みんな優しいしキミの味方だから……」
 だが亮の涙は止まらない。
「シィ、こわぃ、シィ!」
 やだやだと首を振り、短い手を精一杯伸ばして怯えたようにルキの身体を突っぱねると、タオルケットを抱きしめたまま震えながら丸まってしまう。
 巨大な炎翼が辺り一面を薙ぎ払い、天蓋の中を熱風が駆けめぐる。
 ルキは咄嗟にラグーツを発動させ亮の翼を包み込むが、それもすぐに弾け飛んでいた。
 床に突っ伏しそれらを避けたリモーネと有伶は、立ち上がるとベッドの上に見慣れないものを見ることになる。
 そこにあるのは、大きな繭。
 いや、繭のように閉ざされた翼のドームのようなものだった。
 真っ白な炎で包まれたそれは、ぴったりと口を閉じ、どこからも亮の姿を確認することが出来ない。
「……これは……、困ったね。まるで天の岩戸だ」
「亮。少しでいい。診察させてくれ。痛くなってからでは遅い」
 大人二人が困惑したように声を掛けてみるが、状況は変わらず。
 ただ熱気が明らかに先ほどより高まっていることに、誰もが気づいていた。
「怯えて暴走しかけてるのかもしれないね。どうしようか。まさか目覚めた亮くんが退行してるなんて、相当まずい事態だよ」
「この状態じゃ、僕もさすがに近づけないです。……あの、ヴェルミリオに戻ってきてもらうことはできないんですか?」
「無理だよ。レドグレイの辞令は絶対で、もう多分シドは単身現場に急行してる。連絡がつかない可能性が高い」
「でもこのままじゃ亮くん、可愛そうですよ! あんなに怯えて震えてたし、今発作が起きたらまずいんじゃないんですか!?」
「それはそうなんだけど……」
 ほとほと困ったというように有伶は大きな白い繭を眺める。
 ルキの水を使い強引に羽根を開かせることは可能かもしれないが、それをすれば亮をさらに怯えさせ、下手をすると本当に暴走しかねない。
「……私に少し考えがある。うまくいくかはわからないが」
 リモーネは一つ溜息を付くと、電話を取り出しどこかへ手早くかけていた。
「誰に掛けてるんでしょうか……」
「キミの彼氏のとことか? ヴェルミリオの次にイザが強いのってハルフレズくんだろ? 彼なら亮くんのプロジェクトに加える予定があるってビアンコも言ってたから、機密保持の点でも問題ないし」
「ええっ!? フレズくん!? そうなんですか!?」
 二人がひそひそとやり合っていたその時、入り口が開く大きな音が聞こえ、そして数秒送れて天蓋のカーテンが大きく開かれる。
「亮っ!」
 凄い勢いで中に飛び込んできた人物にルキは目を丸くし、有伶は不思議そうに首を傾げた。
「おまえ、冗談のように早かったな……」
 呆れた様子で入ってきた男を眺めたリモーネは、すぐにベッドの上にうずくまる白い繭を男に指し示していた。
「あれが亮だ。薬の副作用で退行症状が出ている。怯えて閉じこもってしまって困っているんだが……、おまえ、何とかできないか、シュラ」
 そこに現れたのはシュラ・リヴェリオン。カウナーツ種のカラークラウンで、ルキの直属の上司に当たる男だ。
 どうしてリモーネが彼をここに呼んだのか、ルキにも有伶にもよくわかっていないらしい。
 だが当のシュラは周りにいる人間誰もが目に入っていないかのように、リモーネの指さすベッドへ近寄ると眉をひそめそっとその炎の繭に顔を近づける。
「……ほんとに、亮、なのか? ……なんでこんな……」
「理由はまだわかっていない。だが、その炎翼に包まれているのが亮であることは確かだ。私たちの声ではますます閉じこもってしまう一方でな」
 リモーネの説明にシュラは一度だけそちらを見ると、再び白い繭へと向き直る。
「亮。聞こえるか? どうした、泣いてるんだって?」
 優しげな深い声音でシュラは呼びかける。
「シドが居ないからってそんなに泣いたりして、亮はずいぶんと甘えたなんだな」
 からかうように笑い声をたてるがその響きはあくまでも甘く、聞いていたルキは思わず頬を赤らめてしまう。
 すると、繭の一角がふわりと動いていた。
 一番上の羽根が僅かに持ち上げられ、ほんの少しだけ小さな隙間がベッドと羽根の間に作られる。
 燃えさかる羽根の奥から幼い子供が怯えたように、ちらりと外を伺っていた。
 首を傾け視線を合わせるようにしてシュラはそれを覗き込む。
「かくれんぼか? 亮」
 とたんに幼児の表情がくしゃりとゆがんでいた。
 言葉を発する前に涙が壊れた水道の蛇口のように零れだし、続いて安心したような嗚咽が響き渡る。
 すかさずシュラはその隙間に腕を突っ込むと、己の肌が焼かれていくのもかまわず、中から亮の身体を引っ張り出していた。
 抱きしめた身体はシュラの知るサイズではなく、胸の中にすっぽりと収まってしまうほどに小さい。
「うえぇぇぇぇっ、しゅらぁっ、しゅ、らぁぁっ」
 子供は泣きじゃくりながらその胸にすがりつく。
「こら、泣き虫。シドが居ないからってみんなを困らせて、悪い子だ」
「ぇぇぇぇぇぇえぇぇっ、とおる、泣いて、ない、もんっ」
「そうか、泣いてないのか。ほら、鼻噛め」
 自分のシャツの裾で亮の鼻をつまんで拭いてやると、未だぽろぽろと涙をこぼす瞼に口付ける。
 涙が止まるまで何度も何度も左右交互に涙を吸い、愛しげに髪を撫でる。
 その様子を先ほど同様ルキは口をぽっかりと開けて眺め、有伶はなんとなく気まずそうにリモーネを見て、リモーネは辟易した調子でデレた元彼を眺めるのだった。