■ 5-11 ■



 ハルフレズは不機嫌だった。
 確かに彼は他の者に言わせれば「たいていの場合機嫌が悪そうに見える」らしいのだが、それはそう見えるだけで本当に不機嫌なわけではない。
 だが、ここ一週間ほどは周囲の認識に合わせるかの如く、ハルフレズは苛立っていた。
 唐突に言い渡されたカラークラウン交代劇についてはとやかく言うつもりはない。ヴェルミリオが絡むと何かと理不尽な事態になることは、仕事についても人事についても通常運転であり、いちいちそこを取り沙汰していてはイザ種としてやっていけないのである。
 ただ自分以外の人間の人事となると話は別だ。特にその相手がイザファミリーではなく諜報局の人間でもないとなると、なんでそこまで話が飛び火するのかと釈然としない苛立ちを感じてしまう。
 本来なら今日は数ヶ月ぶりの二人そろって取れた休暇であり、ずっとなんだかんだ言い訳して同居を拒んできた相手を説得し、物件の内見に連れ出す約束をこぎ着けた重要な日だったのだ。
 だが肝心の相手は急遽入った新たな仕事のため、休暇どころかこれからしばらく家に帰ることさえほぼなくなってしまった。
 ハルフレズ一人休暇を取ることが出来てもこれでは全く意味がない。ならば休暇など返上して仕事に戻ろうと思ったところで、労働基準局の担当者から「諜報局局長。あなたのオーバーワークは度が過ぎています。必ず今日こそは休暇を取ってください」と念押しされ、それを聞いていた部下達から執務室の締め出しをくらってしまったのだ。
 予定もないリアルでの24時間など長すぎてどうしたものかと途方に暮れてしまう。
 だが執務室前の廊下で立ちつくすハルフレズの携帯に着信が入ったのはそんなときだった。相手は会いたくてたまらなかった愛しい恋人からだ。
 その電話を表情を和らげて受けたのがリアルにおいての一時間前。
 そしていつも以上に眉間のしわを深くして再び電話をしているのが、今である。
 色とりどりのスナック菓子やチョコレートなどが並んだ商品棚の前で、携帯電話を耳に当てその場にそぐわぬ低い声で問いかける。
「なんであの人がそこにいるんだ」
『え? あの人って?』
 電話口できょとんとした恋人の姿が目に見えるようだ。まるでハルフレズの不機嫌に気づく様子はない。相変わらずの鈍感ぶりに溜息すら漏れる。
 だがハルフレズは確かに聞いたのだ。恋人の後ろから妙に甘く楽しげに笑うよく知る声音を。
「ジオットだよ! なんで獄卒対策部のトップがそんなところで油を売っている。仕事はどうしたんだっ」
『わ、よくわかったね。さすが諜報局局長』
「後ろで声が聞こえれば誰でもわかる。というかそもそもその場所は特殊シークレット事項だろ!? なんっで部外者が出入りしてる」
 カウナーツ・ジオット。獄卒対策部のトップでありルキの直属の上司。蒼の炎王と呼ばれるその戦闘力の高さはあのヴェルミリオに匹敵するものであり、男気溢れる性格や精悍な容姿に憧れる者も多い、IICRにおいて数少ないハルフレズにとっても信頼の置けるカラークラウンである。
 だが、一つ問題がある。
 それは部下であるルキをとても可愛がっている──ということである。
 目を掛けてくれているのはありがたいと思う。
 だが、スキンシップが多い! 多すぎる! ちょっとするとすぐ頭を撫でたり、抱え上げたりと、目に余るものがあるのだ。
『ジオットは元から亮くんの状況わかってる人みたいで、直接の治療計画には参加してないんだけど情報共有者リストには入ってるから問題は……』
「そうであってもだ。情報共有者ってのはそんな能動的なもんじゃないだろ」
『なんだ? ハルの奴まぁた不機嫌なのか? カルシウム足りてねーんだろ』
 背後からの声にハルフレズのこめかみにピクリと血管が浮き上がる。
 馴れ馴れしくルキの肩を抱いている様が見えても居ないのに見えた気がし、これはもう早く行くしか手はなさそうだと気ばかり焦る。
『ジオット、さっき緊急の呼び出しに応えて来てくれたんだよ。亮くんがちょっと大変なことになっちゃって……』
「で?」
『へ?』
「で、何を買っていけばいいんだ。早く言え。三秒しか待たん」
『ええええぇえっ!? ちょ、待って、亮くん、何いる? ミルク? オレンジジュース? へ、コーラなの? ちっちゃい子には辛いんじゃないかな。しゅわーってなるよ? いい? ごめんごめん、高校生だもんね。うん、コーラね。え? コーラいっぱい? いっぱいってそんなに飲めないよ? わかったわかった、いっぱいだね。お菓子も? チョコレート? うまうま棒? うーん、日本系のお菓子はあんまり置いてないかも……、聞いてみるけど』
「三秒、とっくに経ったぞ」
『わあぁ、ごめん、あのね、コーラ4、5本くらい買ってきて』
「おまえ、炭酸飲めないだろう」
『えと、じゃ僕はオレンジジュース。それからチョコレートのお菓子と、スナック菓子──うまうま棒みたいな濃いめの味のも欲しいかな。あとは男の子が好きそうな絵本とかあればそれも』
「……絵本って、誰が読むんだ。おまえか?」
『僕じゃないよ! 来たらわかるから、とにかくお願いします。……ごめんね、せっかくのお休みにお使いみたいなこと頼んじゃって』
「別に構わん。予定もないしな」
『うううぅ、本当にごめん』
 最後の一言に含まれた棘を敏感に感じ取り、心底から申し訳なさそうに呻いたルキの態度に気をよくしたハルフレズは、さっさと通話を切ると研究局ラボエリアに隣接した大きな売店で言われた物を買いつけて、超特急で第53号施設へと足を運んだのだった。



 ぼんやりと発光する看取りの石に囲まれた重々しい雰囲気漂う53号施設。
 いくつかの大きな医療機器の間を抜け、中央に垂れ下がる特殊素材による天蓋を捲り上げて中へ入ったハルフレズは、思いも寄らない光景に一瞬目を疑った。
 大きめに設えられたベッドの向こう側では、カラークラウンであるウィスタリアがタブレットを眺めながら必死に何やら紙を折りたたんでおり、ベッドの真ん中にぺたりと座った幼児が興味深そうにそれを眺めている。どうやら「オリガミ」というペーパークラフトをしているようだ。
「うれ、へたくそー」
 しかしどうもウィスタリアの手際が悪いらしく、様子を伺っていた幼児は頬をぷっくりと膨らませ興味を失ったようにぷいっと反対を向き、ベッド手前にいるルキへダイブする。その一連の動きで幼児の背から生えた白い極炎翼が部屋を薙ぎ、背後に回る形となったウィスタリアは「ひっ」と短い悲鳴を上げて屈み込んでやり過ごす。
 幼児を抱き留めたルキはヨシヨシとその頭を撫で、その柔らかそうな頬に自分のふっくらとした頬を擦り寄せて楽しそうに笑っていた。
 その笑顔に一瞬目を細め、その後状況を探るようにもう一度辺りを見回すハルフレズ。
「フレズくんっ」
 ハルフレズの来訪にいち早く気づいたのはルキである。
 いつもなら飼い犬さながらハルフレズの元にしっぽを振って駆け寄ってくるのだが、今はベッドの上で小さな子供を抱えているせいでその場から動けず笑顔を向けるしかないらしい。
 ハルフレズはベッドサイドに歩み寄ると手に携えたビニール袋を置き、同時にルキの腕の中からこちらをうかがっている子供の顔を観察して、それが間違いなく八番目のゲボ成坂亮であることを確信していた。
 諜報局局長としてこの少年の情報は昨年の事件以来余すところなく手に入れている。年齢は合わないが、その顔立ちは確かに件の少年だ。
「なるほどな。ハイキューブの影響か。ずいぶんと縮んだもんだ」
 冷えた口調と見下ろす視線の鋭さに、幼児は怯えたように身をすくませるとルキに隠れてしまった。
 成坂亮が実は生きていて、極秘に東京に戻されたことは情報として知ってはいた。だが、直接その事実を上から知らされたのは、成坂亮が得体の知れない病にかかりその治療のためIICRへ入院してくることとなったほんの数日前のことである。以前から打診のあったカラークラウン交代劇についてもそれと同時に話が進んだことから、この少年の入院措置と引き替えにヴェルミリオは首を縦に振らざるを得なかったのだろうということはすぐにわかった。
 あの偏屈で頑固な男を動かす為の材料となる少年がどれほどのものか興味半分でこの場に誘われるまま来てみたが、こうして見るとどこにでもいるただの子供としか思えない。
「ルキぃ……」
 何かを訴えるように幼児はルキにぎゅっとしがみつく。
「大丈夫、フレズくんちょっと恐そうだけど本当は優しいから。亮くんのお菓子もジュースも買ってきてくれたよ?」
 そんな幼児をあやすように頬を撫でると、ルキはベッドの上に投げ出された袋から次々とお使いの品を取り出していく。
 怯えていた亮もすぐにそちらへ興味を奪われ、大きな目を輝かせて袋から出てくる様々な品に視線が釘付けだ。
「あ、ほら。亮くんの楽しい絵本も出てきた」
 と言って取り出して見せた本を眺めたルキは、次の瞬間無言でそれを再び袋の中へ突っ込みなおしていた。
 それを首を傾げて眺めていた幼児は「とおるのご本は?」とルキの顔を見上げる。
「あー、うん。フレズお兄ちゃん間違えて買って来ちゃったみたい。それより、ほら、お菓子いっぱいだよ?」
 亮の注意をお菓子に向けることに成功したルキは、いつもは八の字に垂れた眉をつり上げて「フレズくん、僕、絵本って言ったよね!?」と小声でハルフレズを責め立てていた。 
「高校生男子の好きそうな絵本と言えばそれだろう」
「うん。まぁ間違ってないね」
「ウィスタリアまでそんなこと言って! こ、こんなセ、セクシーな写真集、だめに決まってるでしょ!?」
 亮の視界から隠すように背中へ回したビニール袋入りのそれをハルフレズに押し返すルキの顔は真っ赤だ。
「こんな縮んでるなら縮んでるとそう言え。それにそもそも研究局の売店に絵本なんか売ってるか、バカ」
「う。でも、だって、だからって……」
 そう冷静に言い返されてしまったルキは、それでも何やら抗議があるようで真っ赤な顔のままモグモグと言葉を濁すと、自分をなだめるようにベッドに広げられたジュースの山から一本引き寄せ軽くシェイクしていた。
「おい、おまえそれコーら」
「へ?」
 止めようとしたハルフレズの忠告は一歩遅かった。
 ルキの手がペットボトルのキャップをひねった瞬間、派手に吹き上げる茶色い飛沫。
「わわっ! つめたっ!!」
 目の前で派手に飛び散る冷たいコーラに、亮は一瞬目を丸くすると次には手を打って大はしゃぎだ。
「しゅわーってしたーっ! ルキお目々まんまるー」
「あ、こら、ダメだよっ、亮くんもびちょびちょになっちゃうから……」
 きゃっきゃと笑う亮が、未だに泡をこぼし続けるルキのコーラに手を伸ばすのを慌てて止め、亮の手の届かない上の方へと持ち上げる。
「何を遊んでる?」
 そこへカーテンをたくし上げ、戻ってきたのはシュラだ。手に携帯を携えているところを見ると、外部との連絡を取るため席を外していたらしい。
 オリガミを投げ出したウィスタリアが顔を上げる。
「おお、ジオット、対策部の方はどうなった?」
「サブのジョーイにしばらく指揮を任せてきた。とはいっても夕方までには交代しないとあいつが死んじまうからな。それまでにあの赤毛バカが帰ってこられればいいが」
「そうですか。でもそれならセラタイムで少しはここにいてもらえますね」
 ほっと息をつくルキは半分以上零れてしまったコーラをベッドサイドの机に置くと、そこへ置かれていたタオルを使い自分の手だけでなく亮の手や膝も拭ってやる。
「ハルも来てたか。わりぃな、休みだってのに」
「いえ……」
 言葉少なにシュラを見たハルフレズの目は妙に鋭い。
 鈍感ではないシュラがそれに気づかないわけはない。心当たりの丸でない最近の後輩の対応に、苦笑を浮かべつつガリガリと頭を掻く。
「……おまえ最近なんなんだ。なんか俺に言いたいことがあるなら言ってくれ」
「……じゃあ言わせてもらいますが」
 ハルフレズの言葉を真顔で受け止めながら、シュラはベッドに乗り上げるとルキに抱かれていた亮の身体を抱き寄せ、己の膝の上に流れるように乗せる。
 巨大な羽根が方向を変え空間を薙いでいき、ハルフレズは無言でそれをさらりとかわした。
「しゅら、こっち見ちゃだめ。あっち見てて!」
 シュラの膝の上で向かい合う形で座った幼児は、手の中に新しいコーラを抱え、何やら蒼の守護神に命令を下している。
「お。なんだ、何が始まるんだ?」
「な、なんにもないよ? ないけど、しゅらはあっち見るの!」
「はいはい、りょーかい。……で? ハル、続きは?」
「っ、だからですねぇっ」
 言いかけたハルフレズの目の前で、シュラの膝に抱えられた亮が小さな身体で必死にペットボトルを振り始める。
 ペットボトルが大きいせいでモーションが身体全体に及び、ボトルを振っているのか亮が振られているのか定かではない状況だ。
 これは明らかにさっきルキの起こしたハプニングを己の手で再現してやろうという小悪魔の発想に違いない。
 しかも仕掛ける相手はあの蒼の炎王、カウナーツ・ジオットだ。気さくで親しみやすい印象がある彼だが、鬼神と称される如く獄卒を殲滅するときの姿は同じ対策部の者が見ても震え上がるほどに恐ろしいらしい。故に対策部の人間は基本この男に絶対服従を誓っていると聞く。
 常識的に考えても獄卒をたった一人で捕縛するこの男は人間としておかしいのだ。
 そんなジオットにこの子供は何をしようというのか──。
 ハルフレズは己の言い分を言いかけて思わず言葉を止めその動向を見守ってしまう。
「しゅら、はいっ、これ、おいしいよ?」
 亮は若干息を切らしながらコーラのボトルを抱えなおすと、シュラへ向けにっこりと微笑んでみせる。
 期待にキラキラと大きな瞳を輝かせるその顔に、シュラは困ったように眉を上げ、そののち蕩けるような笑みを浮かべてそれを受け取っていた。
「おっ、コーラか。どれ、じゃあもらおうかな」
 胸に抱く亮から離すように腕を伸ばしコーラのキャップをひねるシュラ。
 キャップをすぐに外せば瞬間高く吹き上げるコーラの飛沫。
 まるで噴水のようなそれに亮はおおはしゃぎだ。
「うわあぁぁっ、やられたぁぁぁっ」
 棒読みを隠しきれない台詞回しで驚いてみせるシュラに、亮はきゃっきゃと笑い声をあげる。
「しゅら、びっくりした? しゅわーってびっくりした?」
「ああもうびっくりしすぎて口から心臓飛び出そうだったぞ。亮がやったのか、この悪戯っ子め!」
 手にしたコーラをそばで一緒に笑っていたルキに手渡すと、シュラは胸の中の亮をベッドに押し倒し、こしょこしょと腹をくすぐっている。
 亮は巨大な羽根を器用に片側へ寄せ、倒れ込んでシュラのくすぐり攻撃に楽しげな奇声を上げて笑い転げていた。
「悪戯する悪い子はこうしてやる〜」
「ジョリジョリやっ、しゅらおヒゲ痛いよぉ!」
「あっはっはっは」
「…………。」
 獄卒対策部の鬼神。カウナーツの蒼の炎王。
 眼下で展開される光景はハルフレズの知るカウナーツ・ジオットの情報とかけ離れすぎていて、何のコメントも出来ずただ呆然と見下ろすしかない。
 諜報局局長として7年以上やってきたが、この情報はどのファイルにも納められてはいなかった。
「気持ちはわかるよ、ハルフレズ君」
 同志を見る目でこちらを眺めるウィスタリアの言葉に、ようやく意識を現実に引き戻される。
「で、ハル、話の続きはどうなってる。俺に言いたいことってなんだ」
 亮の頬に自分の頬を擦りつけながら聞いてくる眼下のオヤジに、ハルフレズは静かに首を振っていた。
「いえ、もういいです。自己解決しました」
「あ? なんだそりゃ」
 カウナーツ・ジオット。強く、精悍で頼りになり、恐れられるこの男の正体は──ただの子供好きだ。
 ちらりと傍らのパイプ椅子に座る己の恋人を見てみれば、その姿はどう見てもまだまだ少年で、目の前のオヤジにしてみれば子供の域を出ていないのだろう。
 あのスキンシップの多さは恐らく「フレンドリーな親戚のおじさん」に近いものなのだと判断される。
 それにこの亮への愛情の傾け方を見れば、ルキに対するスキンシップなど彼にとっては挨拶程度のものに違いない。
 今まで自分がピリピリとしながら眺めてきた光景に意味など無かったと悟り、ハルフレズはどっと疲れを感じていた。
「これで参ってたら、今後キミのボスがここにいるときに遭遇したら、多分、アルマが弾けて飛ぶと思うから覚悟しておいた方がいいよ」
 ウィスタリアが同情の眼をハルフレズに向け、力なく笑ってみせる。
 成坂亮。八番目のゲボ。セブンスで数多くのカラークラウンを虜にし、幾人ものクラウン達の運命を変えた少年。
 ただの小さな子供に見える彼にどんなポテンシャルが秘められているのだろうか。
 この場にいるヴェルミリオ──。まったく想像が付かなかったし、想像したくもないなと思うハルフレズだった。





 雨が降っている。
 こちらに来てまだ半日しか経過してはいないが、その間太陽が顔を見せたことはない。
 飛行場でヘリに乗り換えたときも、この巨大な施設群に到着し黒塗りのハイヤーで迎え入れられたときも、変わらず十一月のイギリスの空は重く、空気は冬の日のように寒かった。
 今も部屋のサイド全面に取られた大きな窓にひっきりなしに冷えた雫が叩き付けられ、大きな粒となって下へと流れ落ちていくのが目の端に映っている。遙か眼下に広がる鬱蒼とした森も、その横に見えているべきいくつかのビルも、雨滴のベールにより今は色彩のにじみでしかない。
 防音効果の高いこの部屋では雨の音はまるで聞こえなかったが、かえってそれは無声映画のように映り、豪奢かつ機能的に整えられた室内はますます現実離れして見えた。
「……寒くないか?」
 修司はベッドに俯せて眠る弟の髪を撫で梳き、声を掛ける。
 ベッドサイドに置かれたスタンドには輸滴セットが吊され、透明な栄養剤を常に少年の腕に差し込まれた管へと送り続けている。
 全身から流れ出る血を最小限に留めるため圧迫するように貼り付けられたシートで今や亮の身体は覆い尽くされ、重度の外科的外傷を受けた患者のように見て取れるが、その実その身体には一切の傷はなく、それ故圧迫シートは完全に形骸化し、ただの包帯と何ら変わりはなかった。
 白かったはずのシートがみるみる赤に染まっていくのを、修司は何も出来ず見つめるしかない。
 ふと、背後の扉が開く音がし、振り返ってみれば、主治医であるレオン・クルースがこちらへ歩んでくるところであった。
「修司さん、せめて食事だけでもとってよ。亮くんの看病するなら体力も大事でしょ?」
 その手に持たれたプレートにはサンドイッチと湯気を立てる温かなコーヒーが乗せられている。
「ありがとうございます。いただきます」
 そう言って傍らのテーブルに置かれたサンドイッチを手に取るが、修司はそれを口に運ぶことができない。
 レオンはその様子に小さく溜息を付くと、輸滴の調子を確かめながら話を続ける。
「シドだけど、こちらには来られそうにないみたい。あいつカラークラウンに復帰することになって早速テロ対策に駆り出されちゃったから……その……、なかなか亮くんの側に居てあげられないんだ」
「…………そう、ですか」
 何か他に言いたいことがあるだろうとレオンは修司の次の言葉を待ってみるが、それっきり青年は口を開こうとしない。
 輸滴の調整を終え視線を降ろしたレオンは、黙したまま亮の髪を撫でる修司の姿に胸を詰まらせた。
「で、でもセラん中には私たちのボス、プラムも待機してるし、看病のためのスタッフもちゃんといる。あ、こちらで亮くんが懐いていたクラウンも顔を出してるから、きっと寂しい思いはしてないはずだよ!」
「セラの中では、あの子はちゃんと目を覚まして話もできてるんですよね?」
「う、うん、それは、もちろん。安心して?」
 ことさら明るく言ってみせるレオンに対し、修司はわかっているとでも言うように小さく頷いてみせる。
「皆さんに大切にされて亮は幸せです。本当に感謝してもしきれない。だから僕も、僕に今できることをするしかない。それが大してあの子の力になれることでなかったとしても、それでも僕は──」
「あ、そうだ、修司さん。この部屋の説明は聞いた? セブンスはしきたりがいろいろあってそりゃもう厳しいから、ライス執事長の言葉は絶対間違えず聞いておかないとだめだからねっ」
 思い詰めた表情で再び口を閉ざした修司に、レオンは話題を変えるようにあえて事務的な話を切り出していた。
「この部屋には専用の執事は付かないけど、ライスさん本人が顔を出すそうだから遠慮無く彼に要望を伝えるといいよ。もちろん、私にもだけど、ね」
「……はい。ありがとう、ドクター」
「えっと、それじゃ私は一旦下がるけど、何かあったらすぐに渡した端末の緊急コールボタンを押して。夜十時を過ぎたら看護交代の為にまた来るから」
「わかりました。ドクターもそれまでは休んでいてください」
 逆に身体を気遣われ、レオンは複雑な面持ちで手を振ると部屋を後にする。
 亮のことも心配だが、それと同じくらい修司にもケアが必要なんじゃないかと改めて思い知りエレベーターへ向かう廊下を歩きながら深い溜息が漏れた。
 と、反対側からこちらへ向かう人影を見つけ、レオンは目を丸くする。
 この廊下を使うのは主治医であるレオンをのぞけば、修司と亮の身の回りの世話を担当するライスのみのはずだ。
 だがその小さな人影は明らかに身長180センチ台はある大柄な執事長のものではない。
「え、うそ、シャルくん!?」
 前から仏頂面で歩いてくる少年が顔を上げれば、その人形のような花のかんばせで薄暗い廊下にぱっと光が差し込んだかのようだ。
「ちょっとドクター。僕はもうクラウンなんだから、ちゃんとカラーコードで呼んでよ」
「あ、ああ、ごめん、すいません。で、ゲボ・プラチナが直々にどうしたの!?」
「どうしたって──まぁセブンスであのくそガキの面倒見るって決めたわけだし、一応顔ぐらいは拝んでおいてやろうかなって、それだけのことだけど」
「へ、へぇ……。でも亮くんずっと意識ないからケンカはできないよ?」
「なんっで僕がわざわざあいつとケンカしに来なきゃなんないんだっ。シドがどうしてもって言うから見に来てやっただけだろっ」
「そ、そう。……亮くんのお兄ちゃん来てるけど、本人だいぶ参ってるからあまり虐めないであげてね」
「ドクターは僕のことどんな人間だと思ってんの!? ったく、カラークラウンに対する態度がなってないよ」
 ブツブツ文句を言いながらレオンの横を通り抜け、亮の部屋へと入っていくシャルルに、レオンは一抹の不安を感じながらも仮眠を取るべく医療棟へと戻っていく他なかった。



 なんで僕が──と、廊下を歩いている間中、釈然としない思いでシャルルは小さな唇を尖らせ、不機嫌きわまりない表情を作ることに余念がなかった。
 本部からセブンスへ戻る道すがら、すれ違う者たちはみなそんな仏頂面のシャルルをうっとりと眺めて見送っている。
 シドに言われて頷いてはみたものの、何度考えてもやっぱり気に入らないのだ。
 あのくそガキ成坂亮の顔を見るのは癪に障るし、その兄とか言う一般人にわざわざ顔を見せに行くというのも彼のプライドをいたく傷つける。
 成坂亮の身柄を治療の間中セブンスで預かることに関してはビアンコからの頼みもありしぶしぶ了承したのだが、それは使用許可を出したに過ぎず、もともとシャルル自らが彼らに積極的に関わるつもりなど毛頭無かった。
 だが愛しいシドに頼まれたからにはおざなりには出来ない。
 プライドと愛情の板挟みに煩悶しながら、シャルルはセブンス新館の9階にある亮の私室を訪れる。
 一応はノックをし、返事が聞こえる前に無遠慮にドアを開けていた。
 ここ、セブンスはシャルルの城なのだ。まぁそれは言い過ぎだとしても、シャルルとゲボ達の城──ということになる。そんな中入り込んだ異分子ゲボと一般人の取り合わせに気を遣うことなどこれっぽっちもない。
 途中廊下で出くわしたドクター・レオンの言葉も彼をますます意固地にさせ、乱暴な態度を彼に取らせる。
『入るよ』
 ベッドルームへの扉を開ける時もノックはなしで、そうフランス語で一声だけは掛けてやった。
 日本からやってきた一般人に通じるとは思わないが、ここにあってはシャルルがルールだ。がさつな猿同様の相手にこちらがへりくだることなど全くない。
 相手はベッドサイドの椅子に座ったまま、ゆっくりとこちらを振り返っていた。
 どんな平凡なバカ面が拝めるのかとシャルルは皮肉めいた笑みを口元に貼り付け、相手の一般人をじろりと見る。
『どなたですか?』
 そう、振り返った男が言った。
 よく通る甘い声音は、教科書通りの綺麗な発音できちんとしたフランス語を奏でていた。
『へ……?』
 驚いてシャルルは間抜けな声で聞き返し、己のその失態に咳払いをしてごまかしを入れると、もう一度値踏みをするように相手を眺める。
 座ったままこちらを向いた二十代半ばの青年は、シャルルが想像するどの日本人とも違っていた。
 アニメの好きそうなテラついた小太りではないし、ぶつぶつと独り言を言って自己完結するガリガリの研究家タイプでもない。自分探しとやらに夢中になるなよっとしたお坊ちゃまという風もなく、おどおどとアルカイックスマイルを浮かべるだけの挙動不審者でもない。
 清潔に整えられた豊かな黒髪と、涼やかな目元、通った鼻筋、凛とした口元──。何よりぱっと見ただけでその物腰に品が伺える。
『病院の方? それともライス執事長のお使いの子かな』
 黙ったまま立ち止まってしまったシャルルに、修司は気遣うような微笑を浮かべていた。
 わけもなくシャルルの心臓がドキンと脈打った。
 なぜか顔面がカッと熱くなる。
『は、はぁっ!? 僕がお使いってあんたの目は節穴なの!? こんな絶世の美少年が執事の使いのわけないじゃないっ』
『え、あ、そ、そう』
 戸惑ったような相手の言い回しに、シャルルはますますいきり立つ自分を押さえられない。
『ここはセブンスだよ!? セブンスに僕みたいのがいたらまずゲボだって思うの常識でしょっ。これだから一般人は──』
『あ! キミはゲボなの? そうかぁ。亮以外にもゲボの子、ちゃんといるんだね。良かった。なんでかな、少し安心したよ。亮にも仲間がいるんだなって──』
 そう言って立ち上がった青年はシャルルの側に寄ってくるとそっと右手を差し出す。
 高い位置にある視線を膝を折ることで下げた青年は、『よろしく。僕は成坂修司。亮の兄です』と小さな子に対するように優しげに瞳を細めて見せた。
『っっっっ!!!』
 シャルルは頬の熱に自分が必要以上に赤面していることを悟り、思わずその手を払いのけるとぷいっと横を向いてしまう。
 ちらりと横目で確認すると成坂修司と名乗った青年は驚いたようにこちらを見つめていた。
 何をやっているんだと自分で自分を叱責する。たとえ相手がただの一般人であろうとも、握手を求める相手の手を意味なく払いのけるなど礼を欠くのも甚だしい。セブンスのトップとして、ゲボの長として決して褒められない態度を取ってしまった。
 なぜ自分がこんな行動を取ってしまったのか分析する余裕もなく、シャルルはとりあえず口を開いてこの場を取り繕う。
『ぼ、僕はゲボのトップなんだ。カラークラウンなんだっ。一般人のおまえが握手を求めていい相手じゃないっ。無礼者っ!!』
 失敗だ。──とシャルルは心の中で呟いた。
 そんなことを言うつもりではなかった。なかったが、どういうつもりだったのかと考えてもその答えは未だ見つからない。
 しばらくの沈黙の後、だが修司は柔らかに微笑むと『すいませんでした、クラウン。礼を欠いていましたね』と頭を垂れ、膝をカーペットへ着くとシャルルの顔を見上げてこう続ける。
『なんと、お呼びすればいいですか?』
 まるで騎士が主君にするようなその対応に、シャルルは一瞬我を忘れて見入ると、
『シャルルと──呼べばいい』
 なぜかカラーコードではなく本名を教えていた。
『シャルル様、ですか。しばらくここへお世話になりますが、弟ともどもよろしくお願いします』
『う、うん。しょうがないから、置いてやる』
 シャルルがそう言えば、修司は再び柔らかに微笑み『ありがとうございます』と礼を述べながらシャルルの手を取った。
 主君への敬礼の意を込めた口づけをその指先に落とした修司の所作に、シャルルの頬がふたたびカッと燃え上がる。
「様、はいらないっ、シャルルでいいっ。日本語でいいっ。敬語いらないっ。何かあったらライスに言え、あと、ここは中世じゃない、その変な挨拶なんだよっバカ一般人!」
 一気に日本語でまくし立てると、くるりと踵を返しシャルルは早足で部屋を出て行く。
 バタンとぶしつけに寝室の扉を閉め、そのあとは走るように玄関を抜けた。
 後ろで呆れたように自分を見ているであろう修司の姿が容易に想像でき、叫び出したい焦燥感に駆られる。
 廊下の端にあるエレベーターにたどり着くと、シャルルは呼び出しボタンを何度もバンバンと叩いた。



 午後十時になり、レオンは看護交代のためセブンス9階の亮の私室を訪れる。
 その手には医療用具一式の詰まったドクターズバッグと、修司のために用意した栄養ドリンクや夜食などの入ったバスケットを携え、深刻な面持ちで寝室の扉を開けていた。
「修司さん、そろそろ交代なんだけど、様子、どうかな」
 亮の様子だけではない。
 修司の様子も同時に心配であり、二つの意味を込めてレオンはベッドサイドに座る修司のそばに歩み寄る。
「ドクター、すいません。もうそんな時間ですか」
 亮の顔を覗き込んでいた修司は振り返ると驚いたように壁に掛けられた時計を見る。
「亮は変わらずぐっすり眠っています。痛みもないようだ」
 そう言って弟の頬を撫でる修司の表情は、昼間見たときよりもずいぶん剣が抜けているようだった。
 あの張り詰めすぎていた空気が今の修司には感じられない。
 セブンスに来て時間が経ち、少しはリラックスできたのだろうか。
「セラの中の亮くんも今は落ち着いているみたいで、悪戯を仕掛けたりとずいぶん中の人間も手を焼いてるみたいですよ」
「悪戯? 亮が? はは……そうですか。良かった。ここに来て正解だったんだな。…………本当はIICRへ亮の身柄を預けることに、僕の中でずっと引っかかりがあったんです。特にセブンスという響きは僕にとっても弟にとっても嫌な思い出しかない」
「修司さん……」
「でも来なければもうどうしようもないということもわかっていた。だから、嫌々、渋々、そんな気持ちでここへやって来た。でも、それは過去にとらわれすぎた偏見でした。ここのみなさんは必死に亮を助けようとしてくれている」
「それは、もちろんです! 私たちは全力で亮くんを助けたいと思ってる」
「そして亮は一人じゃないんだと改めて知りました。ゲボという種は亮一人ではなく、同じ気持ちを共有できる仲間がいる。それは亮にとっての救いというだけでなく、僕にとっても大きな救いだ」
 修司の言う意味を図りかね、レオンは黙したまま先を待つ。
「歴史書を紐解けば、ゲボは悲劇の種のはずです。搾取され監禁され殺戮され──。そんな種に生まれつきながらも、自由に、元気に、事実を受け止めて生きている子もいる。間違えさえ起こらなければ、周りの人間がきちんと気を配ってさえいれば、ゲボだって安全に普通の人生も歩んでいけるんじゃないかって、そんな希望みたいなものを見た気がするんです」
「あの……、何かあったのかな。よければ事情を教えて欲しいんだけど」
「シャルルという子がここに来てくれました。カラークラウンだと言ってましたが、カラーコードを言うわけでもなかったし、将来なりたいってことなのかな? とにかく元気で楽しい子でしたよ」
 レオンは修司の報告に瞬間言葉を失い、一旦頭の中を英語で整理し直すと再び日本語でこう告げる。
「……それ、ホントにカラークラウンです。プラチナってコードで、つい最近就任した方です」
 元気で楽しい──かつてシャルルをそう表現した人間をレオンは知らない。
 高慢、傲慢、横柄、そして美しい。ほぼその四つに集約されるのがシャルル・ルフェーブルという少年だ。
 元気だの楽しいだの、そんなスポコンマンガの主人公みたいな評価がかのゲボ・プラチナに下されようとは、おそらくIICR中の人間誰しもが思いも寄らないだろう。
 一体この部屋で何があったのかまったく想像が付かなかったが、とりあえず修司の緊張がほぐれたのなら良かったのだろうか。
「ゲボ・プラチナ。3転生目で今は実年齢18歳かな。見た目よりはずっと大人なんだよ、あれでも」
「そうなんですか! 亮より小さな子かなって思ったからそんな対応を取ってしまったけれど、あれは失礼だったかなぁ……」
 ソムニアの年齢はわからないと呟く修司に対し、今の台詞はシャルルに絶対告げてはいけないと、堅く堅く忠告したレオンだった。