■ 5-12 ■




 セラ・テロ対策特別局の初めての任務は、一度の模擬訓練もなくあっさりと開始された。
 任務前に行われたのはたった一度の顔合わせだけであり、それすらセラにて僅か数十分程度のものだった。
 内容は副官を名乗るキース・ロイドという中年男が中心となり、三十名程度の人間がそれぞれ名と本来の所属課、コードファミリーを伝えるだけの簡単なものであり、トップに立つはずの人間は姿を見せないままお開きというお粗末なものだった。
 キースの話に寄ればどうやら総指揮はイザのカラー・クラウンが執ることになるらしい。
 現在のイザクラウンと言えば、歴史上最も若くしてクラウンに就任した男、イザ・ラシャだ。諜報局局長という多忙な職に就く彼に二足のわらじを履く余裕があるのか非常に疑問だが、IICRも現在はけっこうな人手不足なのだから致し方ないのかと頷く他ない。
 それを聞いたメンバーの多くもその点に同じく疑問を持ったようだが、中には単純に喜ぶものも何人かいた。
 今彼の横でホットドッグを片手にサッカーの試合観戦に興じるルクレチア・メッディもその一人だ。
 栗色のウェービーな長い髪をポニーテールに結わえた彼女は、売店で購入したスター選手のレプリカシャツをばっちりと着込み、若い女子らしく黄色い声を上げてお目当ての選手にエールを送っている。小さめの蒼い瞳とローマ人ベースにしては低い鼻を持つ彼女は美人というわけではないが、そばかすだらけの頬にケチャップをつけてはしゃぐ姿は愛嬌がなくはないなと思う。
「っはあああああああっ、またはずしたああああっ! あの10番は本当に10番なの!?」
 背中に『10』と描いてあるのだから間違いなく10番なのだろうと思うが、彼女の中では納得できないようだ。
「そもそも顔がダメ。全然ダメ。10番背負うからにはもっとこう説得力のある主人公的なイケメンでないとっ」
 力強く言い切ったメッディは握りしめそうになるホットドッグを一気に口の中に頬張ると、相変わらずの独自理論を展開し始めた。
 見た目に愛嬌があっても性格に難ありだなと苦々しく彼は眺め、どさりと観客席の背もたれに身体を預けて空を見上げる。
 晴れ渡った空はどこまでも青く、九万人が収容可能な屋根付きスタジアムは現在巨大な天井をフルオープンにし、その全貌を昼光の下さらけ出していた。
 観客席はほぼ満員御礼。セラの中でもマンモスクラスの住人を持つここは、常に世界中から多くのフットボールファンが来訪しており、セラの中心に据えられたこのスタジアムでは四六時中試合が行われている。
 現在も埋め尽くされたスタジアムには九万人近い人間のアルマが存在していることになる。
 この気の遠くなりそうな大人数のアルマを、わずか七名で守ろうというのは無謀なんじゃないだろうかと弱気でも何でもなく単純にそう思うが、諜報局の情報に寄れば同時に四カ所のセラでテロが起こることになっているため、三十名ほどしかいないセラ・テロ対策特別局の人間を分ければこの程度の人数しか一カ所には割けないのも仕方のないことなのだろう。
 IICRとはいってもやはり万能な組織ではないんだなと彼は改めて思った。
「は〜……、テロ特へ差し出されたときは完全に貧乏くじ引いたと思ったけど、警備部で陰湿な出向いじめを受けてるより楽しいかもしれないわね。なにせトップがあのラシャなんだし。写真で見たことあるけど、王子よ。王子。クールビューティーな氷の王子様。……早く本人に会いたいなぁ。絶対ナマの方がかっこいいわよ。彼女、いるのかなぁ。この任務が元でお近づきになってゆくゆくは玉の輿……。……ね。イザとウルツのカップルってどう思う!?」
「あんたはホント暢気だな。環流の守護者が起こすテロは相当ヤバイってわかってんだろ? 爆薬・毒物・生物兵器となんでもアリらしいじゃねーか。それを満足な訓練もなしに初顔合わせのたった七人で阻止できるって本気で思ってんのかよ」
「うーん、まぁなるようになるんじゃないの? いざとなったらうまいこと逃げればいいって。所詮私たちは組合から交換出向の形で派遣されてるだけの外様なんだから、IICRの名誉のために死ぬこともないもん」
 確かにメッディも彼もIICRに籍を置く人間ではない。
 個人事業主協同組合<Sole proprietorship cooperative>通称・SPC。世界中にいくつか存在する個人業者組合の中でも老舗にあたる大きな組織である。
 そこが彼らの元々属する組織であるのだが、属するとはいっても所詮組合なのでIICRのような機構とは違いその強制力は緩やかなものだ。そんなSPCが交流のため様々な組織に交換出向という形を取り、選び出した所属の個人事業主を派遣するというここ三十年ほどに始まった新しい制度により、彼ら二人はIICRへやってきた。
 俗に選抜組と言われるこの交換出向は、出向先の組織によっては名に箔が付いたり有益な人脈を得たりと個人業者としてはおいしい話であり、特にIICRへ選抜された者が話を蹴ることはまずない。ご多分に漏れず彼もメッディもその話に二つ返事で乗り、この夏から三年という期限付きでIICRの末席に座すことになったのだ。
 今回のIICR選抜組は三名。それぞれ「警察局警ら課」「警察局警備課」「研究局」とバラバラに分けられ配置されたのであるが、そのうち「研究局」に派遣された一人を除く二名が着任早々あっさりとその課から外され「セラ・テロ対策特別局」へ差し出されたというわけである。
 そう、まさに──差し出された──と言うべき状況だ。
 テロの活性化に伴い急遽作られたこのチームに来たがる人間はIICRには一人もいないといっても過言ではない。
 何せ危険な上に基本給は変わらず、さらに現在の仕事を放り出す形となるため元の職場に戻っても同じ立場で仕事が出来なくなる可能性が大きい。
 危険手当として微々たる金額が上乗せされるという話は聞いているが、月180ドル程度で自分の今を放り出して寂静されてもおかしくない死地に赴きたい人間などいるわけがない。
 そんなわけで、着任したばかりの外様である選抜組が生け贄として各課から差し出されることになるのは無理からぬことだった。
「大体SPC所属の私たちがIICRの職員様と同じスペックあるわけないのよ。どーしろっていうのかホントもう。私だって伸び盛りとはいえ所詮ウルツのBプラ。あんたは?」
「……イザCマイ」
 ぶっすりと口をとがらせる彼に対し、メッディはけらけらと笑ってみせるとバンバンとその肩を叩く。
「アハハハハ、ごめんごめん。お姉さんデリカシーなかったわ。あんたの場合ちょっと大きな仕事して有名になった功績で選ばれたんだったわね。なーにまだまだこれからよ、青少年。あんた顔はまぁまぁだし、自信持って行こう」
「まぁまぁかよ……」
 さらにぶっすりと眉根を寄せる彼の耳に、装着されたイヤホンからリーダーの緊迫した声が聞こえたのはその時だった。
『異分子三名確認。現在、西35番ゲート、南3番ゲート、東52番ゲートに向かい展開中。全員クーランズのユニフォーム着用、背中にノースショアブランドの大きな黒いデイバッグを背負っている。西は男性五十代肥満体型。南は十代少女黒髪ストレート。東は二十代男性細身のドレッドヘア』
 少々チャイナ訛りで告げられた内容は思った以上に細やかで、連絡を受けた他のメンバー全てがすぐに行動を起こせそうなものだ。
 諜報局からやってきた彼はダガーツCプラスを持っており、精神感応だけでなく目も非常にいいと言っていた。「視える能力」であるダガーツを持つ者は数も多くはなく、能力値の低い者でもIICRへの所属が可能と言われている。高位能力者になるとダガーツであることも隠され、全く別の疑似能力を分け与えられて隠密的な仕事につくこともあると聞いてはいるが、それが真実なのか都市伝説めいたものなのかは一般ソムニアには知る由もない。
 とにかく本人曰く「大した能力ではない」はずのダガーツCプラは見事に仕事をこなしてくれている。
「大荷物ね。相手の目的はわかる?」
『連中酷い興奮状態で脳内が混戦してるんだが、ちらちら視える単語は、熱・装置・衝撃・崩落──まぁ穏やかじゃないものだ』
「なるほど……背中の大荷物は爆薬一式ってとこなのかしら。OK。2班東へ向かうわ」
『了解。1班は西へ。3班は南へ頼む』
 メッディはウエストバッグから取り出したハンカチでべとついた手を拭うと、それをポケットへねじ込み立ち上がる。
「行くわよ、ガキんちょ。ここでパリッとうまいこと任務完了できればラシャへの私の印象もうなぎのぼりなんだから」
「仕事の出来る女がもてるわけじゃないけどな」
「ふぁっ!? なにっ!? ガキのくせに今すごい真理っぽいこと言わなかった!? ちょ、待ちなさいよっ」
 慌てたように追いすがってくるメッディをちらりと見ると、構わずスタスタ歩を進める。
 ピッチの上では試合が佳境に入っており、スタジアムにいる観客は誰もがプレーへ釘付けだ。立ち上がって身を乗り出し歓声を上げる彼らは、間をすり抜け裏手の通路に向かう二人のことに注目することもない。
 通路へ入り込むと外の日差しが遮られ、一気にひんやりとした空気が辺りを満たす。外のざわめきが潮騒のように薄暗い通路に響いていた。
 通路には蛍光灯が光源として天井にはりついてはいるが、外の明るさに慣らされた目には薄らぼんやりと光っているに過ぎず、どこかねっとりとした地下街の雰囲気を醸している。
 そんな陰気な場所であるにもかかわらず、人通りは意外なほど多い。
 試合の合間に喫煙所へ向かう者、売店へスナックやビールを買いに行く者、トイレへと駆け込む者など──様々な行動原理を持つアルマたちがふらふらと通路を行き交い、知らない同志楽しげに談笑をかわしたりている。
 そんな彼らの中に、指示された人影がいないか目を懲らす。もちろん、あからさまにそれとわかる行動はしない。あくまでも周りの住人に溶け込むように、彼らも売店を覗きながら歩くそぶりを見せての探索だ。
「デイバッグ背負ったドレッドヘアの男か。背中のものを仕掛けるとしたらどこが効果的なんだと思う?」
「スタジアムを崩落させるっていうなら構造上の弱点みたいなとこだろうが……セラ内の建造物は現実の物理法則でできてないだろ?」
「まぁそうか。難しいわね。──リーダー、現時点でターゲットはどう移動してるの?」
『それが、つい今し方からノイズが強くなりすぎて画面がはっきりしない。試合が佳境に入って住人達がエキサイトしすぎてるのが原因だとは思うんだが、ちょっと追えない状況だ。さっき渡した情報でどうにかがんばってくれ』
「げぇ。いきなり頼りない。……うちの事務所ならこんな仕事絶対請け負わないわ」
 通信を切ったメッディは天を仰ぎおおげさに肩をすくめて見せながら、通りかかった売店の列にそっと並んだ。
「おい! 文句言いつつこんな状況でなんか買うのかよっ」
「こんな状況だからでしょ。手にビールくらい持ってた方がカモフラージュになるもの。別に飲もうってんじゃないわよ」
「……いやあんた持ってたら絶対飲むだろ。チーム組んで2日目の俺でもわかるわ」
 げっそりとした表情の彼をチラ見したメッディは「うるさいわね。ここは私が引き受けるからあんたはトイレに行く振りでもしてパトロールしてきなさいよ」と手のひらをひらひら動かし彼を追い払う。
 確かにこの状況ならば二人で行動するよりもばらけて探索した方が、相手をヒットしやすいかもしれない。
 やれやれと一つ溜息をつき背を向けかけたその時、彼の視界に何か違和感のようなものが忍び込む。
「…………。」
 咄嗟に踏みとどまり目を懲らしたその先で、メッディは売店の店員からビールの入ったカップを受け取る所だ。
 その先の店の奥。こちらに背を向けた男がなにやら棚の上に物を乗せごそごそといじっている。
 その男の何本もに編み込んだ黒く長い髪──ドレッドヘアの下から覗くのはクーランズのユニフォームだ。
「メッディ!」
 そう名を呼んだ時にはもう、彼女の手は動いていた。受け取る瞬間のビールがはじき飛ばされ宙を舞い、彼女は一歩大きく踏み込んで飛び上がりカウンターへ乗り上げる。
 物音に驚き振り返ろうとする男の髪をひっつかむと、彼女は片手一本で男の身体をぶん投げ一本釣りの要領でビールと同じく宙を舞わせていた。
 男の口から悲鳴が上がり同時に天井へと身体ごと激突する。激しい音が上がり天井の蛍光灯が砕け散っていた。
 ドレッド男はそのまま跳ね返り、カウンターの向こう側に恐ろしいスピードで叩き付けられる。
 周囲から悲鳴が上がり、カウンター内にいた店員もチーズたっぷりのナチョスのカップを小脇に抱えた客達も一斉にその場から逃げ出していた。
 だがしかし完全には離れない。いつでも逃げられる距離に止まって、遠巻きにその暴力事件を眺めている。
 いわゆる野次馬という奴だ。この場に集ったフットボールファンの多くはこの手の血の気の多い事件が好みらしい。
 だが、「フーリガンだ」「女の酔っぱらいだ」と囁きながら住人達が野次馬を決め込んでいられるのは、事件を起こしているのがか弱く見える女性であり、あまり危機感を感じないせいだろう。
「ヒィッ! あ、あ、あんたなんなんだっ、何すんだっ! び、ビールの量が少ないなら注いだ店員に文句言ってくれよっ!」
 自分の上に馬乗りになり眺め降ろす妙齢の女性を見上げたドレッドヘアは、テロリストらしからぬ怯えようで震えながらどうにかそれだけ口にしていた。
「しらばっくれるんじゃないわよっ。あんたあの荷物の中、何入ってんの!? こんな大胆なとこに設置しようなんて許さないんだからねっ!」
「に、荷物? 今日仕入れたトマトソースだけど……、それが何なんだよ何が悪いんだよっ!」
「トマトソースぅ?」
 メッディが目配せする。出来れば彼女の仲間だとは思われない方が動きやすいはずだが、こうなっては相方の彼が動くしかない。
 カウンター横の出入り口から中にはいると、ドレッドが棚の上にしまっていたノースショアのデイバッグを引っ張り出し、慎重に中身を確認していく。
 果たして中にあったのは──
「トマト缶だな」
 何の変哲もないイタリア産ホールトマト缶詰が3ケース。
 その場にあった缶切りでいくつかこじ開けてみるが、内容は変わらず。
 単に人違いなのか、それともリーダーの遠視が間違っていたのか。
 とにかくどうも様子がおかしい──。何か気に入らない。
 この男は本当にテロリストの一味なのか。
 あまりにしっくりこない感覚に、思わず彼が周囲へ視線を動かしたその刹那。
「久我あああああああっ!」
 メッディがドレッドを押さえ込んだまま悲鳴にも似た叫びを上げた。
 視界の端で先ほどまでビールを注いでいた店員が、カウンターの向こう側からこちらに向け何かを構えたのを捕らえる。
 が、捕らえた時にはもう構えられた鉄塊から無数の弾丸が飛び出した後だった。
「っっっ!!!」
 店員は向かって右側に立つ久我から順番に、舐めるようにマシンガンを照射していく。
 耳をつんざく轟音に周囲の音全てが塗り込められ、野次馬達の絶叫も彼の耳には届かない。
 メッディは久我が犠牲になる瞬間を見逃さずその寸刻に身を翻すと奥の厨房へと転がり込む。
 ビール売りは口元を三日月につり上げ、ぎらぎらとした目で照射を続けていた。
 飛び散る瓶やカウンターの欠片、ポップコーン、プラスチックの包材。それらがマシンガンの煙と相まって濛々と辺りを覆い尽くす。
 周囲からは悲鳴が上がり、野次馬達は今度こそその場を離れスタジアムの中へと逃げ込んでいく。
「ひっ、ひ、ひ、ひっ、うまくいった。うまくいった! IICRの連中、簡単に炙り出されやがった。皆殺し、だっ!」
 弾倉が空になるまでトリガーを引き続け、カタカタと乾いた音が回るようになりようやく震える指を放す。
 どうやらもう一人の女は奥へ逃げ込んでしまったようだが、とりあえず男の方は片が付いたと彼は判断した。
 男の方は穴だらけにされてその辺りの床に転がっているはずだ。
 ビール売りが弾倉をチェンジしつつゆったりとした足取りでカウンターの中へと入り込んでくる。
「こっ、こいつらさえいなけりゃ、テーヴェ様の仕事も、やりやすくなるんだ。こいつら邪魔なんだ……」
 ぶつぶつ独り言を呟きながら、額が広いだけが特徴の平凡な顔をした四十男が厨房への入り口を覗き込む。
 だが──
「おっと、俺の前は素通りしちゃう感じ?」
 男の後頭部にゴリリと冷たい鉄の筒が押しつけられ、彼はびくんと身体を硬直させて歩みを止めていた。
「な……なんで……!?」
 振り返ることも出来ず、男は視線だけでその相手を見る。
 そして頭蓋の奥に引っ込んだ茶色の瞳をこれでもかと見開いていた。
 そこには蜂の巣にされ肉片と化したはずの相手が傷一つない綺麗な顔で立っている。
「なんでって、そりゃ厳し〜い修行の成果ですよ。努力の二文字」
 彼の手には白いネットに包まれたずっしりと重そうな何かがぶら下がっており、ビール売りはそれが己が照射した弾丸のなれの果てだと即座に理解する。
 あの一瞬でこの目の前の青年はどうやって弾丸の雨をこんな柔らかそうなネットの中に納めたというのだろう。
「え、うそあんた生きてたの!? どう考えても即死の流れだったのに」
 ガチャリ──と鈍い金属音がした。
 見れば厨房の奥から顔を覗かせたメッディが空間錠をビール売りの男に掛けたところだった。
 男はがっくりとうなだれ膝をつく。空間錠を掛けられてしまえばもうどんなソムニアとて逃げ出すことは不可能だ。
「おっまえバディをあっさり見捨てたな、おい」
 渋い顔の久我に対し、メッディは悪びれもせずバンバンと久我の肩を叩き「生きてたんだからいいじゃない。へー、それ、あんたの武器? なんか変わってんね」などと話をあっさりすり替えた。
 思わず口の端がへの字に下がる久我。
「はあぁぁっ、やっぱ俺のバディはあいつしかいねぇわ……、あいつなら俺のピンチには颯爽と……」
 ぶつぶつと独りごちながら久我は構えた銃をホルダーへ納めると、己の左手に装着された革製の指ぬき手袋をぎゅっと握り込み、拳の辺りに仕込まれた超硬ワイヤー射出機を撫でて残りのワイヤー材の容量を確認してみる。指の弾力から察するにまだまだカートリッジの交換は必要なさそうだ。
 これはここ数ヶ月、師匠である「ある男」の元で体術を学んだ際、彼から譲り受けた一品だ。IICRからの支給品でなく、彼個人で発注した特別製らしい。主に獄卒を捕らえるために使用される道具なのだが、本人の反応速度次第ではソムニア能力の大小に関係なく絶対的な防御力を駆使できる代物であり、今の久我には最適の武器だと師匠である彼は考えたらしい。簡単に命を捨て得る能力を得はしたが、その期限が皆目不明であるという諸刃の剣を持つ久我にとって、防御こそ最も重要な要素となる。
 確かに先ほども瞬間で危機を察知した久我は、コンマ01秒の世界でネットを展開させることに成功していた。
 だがこの精度で身を守るネットを作り出すまでには、何度死んでもおかしくない苦行の連続があったことを彼は声を大にして言いたいと思っている。
 今も咄嗟に対応できたのはその超絶スパルタ教室とそれに耐え抜いた自分の根性の賜物だと、将来バディを誓った相方へ自慢したい気持ちが溢れんばかりだ。
「それにしても、リーダーの指示なんだったんだよ、ターゲットは全然違うし爆発物なんかどこにもねぇし」
「ノイズがどうとか言ってたじゃない。IICR職員様も万能じゃないんでしょ?」
 そう言ってメッディが肩をすくめたその時、うなだれていた男がクツクツと喉の奥から絞り出すような笑い声を上げ始める。
 ぎょっとなった彼女は空間錠で捕らえた男の腕を後ろ手にぎりりと絞り上げ「なんなのよ、気味が悪いわねっ」とそばかすだらけの顔をしかめていた。
「ほっとけ、どうせ負け惜しみか悪あがきだ」
「ノイズ? クククッ、計画と言ってくれよ。こちらにはIICRのダガーツを煙に巻けるほどの能力者がいるってこと、知らしめてやったんだよ。まぁ、俺としては捕まるつもりはなかったんだが、もともとこうなることも織り込み済みよ」
「うわ、ほんとに負け惜しみが始まった」
「そう思ってればいい。3地点全てが囮……本番はこれから……いや、もう始まってるはずさ」
 男が顔を上げスタジアムの方を見やる。
 試合がどう動いているのかは定かではないが、うねる潮騒のごとき歓声はさらなる高まりを見せているらしい。
 いや、歓声と言うより叫喚と言った方がいいのかもしれない。
 先ほどまでとは明らかに毛色の違う地鳴りが辺りを鳴動させ始めていた。
 数万単位の人間がスタジアムの上を動き回っている──そんな状況を彷彿とさせる効果音は地鳴りとなって久我とメッディの上に降り注ぐ。
 九万人を収容したスタジアムで何かが起きている。
 そんな恐怖に似た感覚を久我は感じ取り、現在の相方と視線を合わせる。
 彼女もまた異変を感じ取ったようで、慌てて回線をオンに切り替えていた。
「リーダー、何がどうなってんの? こっちに来てたテロリスト一名は確保したけど、会場で何か起こってる!?」
『2班かっ。それが、まずい、ピッチや会場に獄卒亜種が五匹も現れて、っ、パニックが起き、っ…………っ、かも、会場が閉じられて…………すぐ、引き返し』
 回線は途中で唐突に切断された。
 メッディと久我は顔を見合わせたまましばらく動けずにいた。
 リーダーは言った。
 会場が閉じている……と。
 しかも獄卒が五匹も現れたとなると、九万のアルマなどものの一時間掛からず食い散らかされてしまうだろう。亜種であるため寂静されることはないが、一般人にとっての死は本来の死そのものであり、寂静と何ら変わることはない。
 二人のその様子をどう見たか、ビール売りはさもおかしそうに腹を抱えて笑い転げている。
「ひひひっひっ、ひ、強欲なIICR、ざまぁねぇ! 九万人のアルマが流れれば、魂の渠も汚物を押し流され浄化される。転生の循環が回復し、俺も、おまえたちもちゃんとまた生まれて来られる。感謝しろよっ、俺とテーヴェ様に!」
「糞がっおまえらのトンデモ理論なんざ聞いてねーんだよっ! とにかく行こう! 獄卒対策にかけちゃ、俺はちっとは経験ありだから役に立つかもしれねぇ」
「はぁっ!? あんた何言ってんのよ! 対策部でもない人間が経験つめるわけないでしょーがっ。て、待ちなさいよっ、あんた、一緒に来なさいっ!」
 飛び出していく久我を追い、メッディもビール売りを肩に担いで走り出す。
 ウルツの彼女にとっては男一人の重さなど風船の重さにも満たないものであり、その足取りはまさに飛ぶようだ。
「久我っ、獄卒なんてイザCマイが相手に出来る生き物じゃないって! 無茶して死んだら損だよ、ね、ちょっと!」
 前を走る熱血青少年に必死に声を掛けてみるが、久我はまるで止まる気配もなく、迷いなくスタジアムへと飛び出していく。
「あんのバカガキっ」
 メッディも覚悟を決めた。
 セラは閉じている。
 どんなに隠れても獄卒は臭いでアルマを探し出す。
 頼りになるはずのIICR職員も多分全員スタジアムだ。
 これはもう自分もそこへ行くしか道はない。
 いざとなればどんな手を使っても生き延びてやると気合いで唇を噛みしめると、久我に続いて太陽の光が降り注ぐスタジアムへ身を躍らせていた。
 薄暗い通路からの光量の差で一瞬目がくらみ、メッディはその蒼い瞳をぎゅっと閉じる。
 悲鳴。絶叫。阿鼻叫喚──。
 喰われていく人々の声が大波のように彼女へ襲いかかる──

 ────はずだった。
 だがいつまでたっても何も聞こえない。
 先ほどまでの叫喚も、いや、人の話し声すら何も聞こえない。
 ただ聞こえるのは風の音。そして食い散らかされたポテトの包み紙やビールのカップがザラザラとコンクリをこすっていく雑音ばかりだ。
 メッディはそろそろと目を開けた。
 もう人々は食い散らかされてしまった後なのだろうか。
 さっきの異変からまだ数分も経ってはいない。獄卒は亜種とはいえそんな短時間で九万もの人間のアルマを殺戮できるものなのだろうか。
 もしそうだった場合、スタジアムが閉じられている今、目の前には人間の死体の山が積み重なっているはずだ。

「…………へ?」

 思わず口を突いて出たのは間抜けな一音。
 メッディはその小さな蒼い瞳をめいっぱいに広げ、眼下に広がる観客席もピッチも、何度も何度もバカになったように見回した。
 そこには何もなかった。死体も、ちぎれた手足も、転がっているであろう生首も。
 ただ試合後の散らかった客席が眼下に広がり、ピッチには選手一人走ってはいない。
「……嘘だ。嘘だっ! なんでこんなっ、誰も何もいない!? 獄卒はどこだっ、テーヴェの作戦は──」
 肩に担いだ男が同じく驚愕の眼を見開き騒ぎ始める。
 どうやらこの光景に衝撃を受けたのはメッディだけではなさそうだ。
 肩の上のビール売りだけでなく、目の前に立つ久我が、半ばぽかんと口を開け、ピッチの中央を指さしていた。
 メッディも久我の隣へ歩み寄ると彼の指さす先に目を懲らす。
 青空の下きらきらと光るグリーンカーペットの中央。
 そこに一点、朱色に輝く何かが見える。

「冗談、だろ。エドワーズがなんでここに……」

 久我の口からメッディの聞いたことのない名が飛び出す。
 近眼気味の彼女が目を細めじっとそこを見据えると、その朱い点がこちらを振り返っていた。
 絶対零度の厳しさを宿らせる琥珀の瞳と、漆黒の衣を纏った彫刻のようなその立ち姿。
 見上げたその顔はぞっとするほどに整っている。
「え、エドワーズって、誰、よ」
 彼女の呟きを拾ったのはピッチに立つ「エドワーズ」でもなく、その名を呟いた久我でもなかった。
 復旧したらしい回線を使い、リーダーがはっきりと彼女の耳元で解説をしてくれたのだ。
『エドワーズ? 誰だいそれは。いやぁ、しかし助かった! まさか局長自ら応援に来てくれるなんて、ていうか噂通りの凄腕でびっくりだよ。あれで前は諜報局局長だろ? もったいなさすぎじゃないか? イザ・ヴェルミリオの本領はやっぱり武官として発揮されると思うなぁ』
 メッディはそれでも耳から聞こえた情報になかなか馴染めずにいた。
 イザ・ヴェルミリオ。その名は聞いたことはある。確かラシャの前任で、何かとんでもないことをやらかしてIICRを追放になった悪鬼羅刹のような男のはずだ。
 リーダーの言葉が今度こそ正しいなら、彼女が遠く眼下に見つめるその姿はその「悪鬼羅刹」のものということになる。
「イザ・ヴェルミリオ……。あれが」
 ぽかんと口を開いたメッディの視界には、ヴェルミリオの足下に転がる5つの白い塊も映り込んでいる。
 後から思えばあれが獄卒亜種だったのだろうが、今のメッディにはそんな冷凍マグロのようになった生き物など目に入ってはいなかった。
 悪名高いイザ・ヴェルミリオ。
 恐ろしい暴君で他のクラウン達からも煙たがられる存在であり、同時にクラウン達の中に置いても圧倒的な戦闘力を誇ると言われている男だ。
 彼の局長時代諜報局では笑顔を見せるものが一人もいなかっただとか、何人もの殺し屋がイザの執務室にたどり着くことなく廊下で死体となり通行の妨げになっただとか、彼の気に入らないカラークラウンが片手に余るほども次々と失脚させられただとか、とにかく半分都市伝説のような男だ。
 その都市伝説男が軽く地面を蹴ると、ふわりと空に舞い上がる。
 メッディが「あっ」と声を上げたときにはもう、太陽の日差しを背に氷のアポロン像のような彼は彼女の眼前へ降り立っていた。
 間近で見ると大きい。そして、遠目のさっきより目の前の彼は造形の美しさが際だっていて、逆光を背に立つ姿には圧倒的な迫力がある。
「なぜおまえがここにいる」
 低く艶やかな声で紡がれたのは日本語だ。
 メッディは頬を染め、必死に自分の持つ脳内日本語辞書の全てを駆使して「あなたに仕えるためです」の意を伝えようと口を開いていた。
 だが。
「それはこっちの台詞だ。あんたが局長ってどういうことだ、ラシャはどうしたっ。てか、あいつは!? あいつは日本なんだろ? なんであんたがこんなとこフラフラしてんだよっ」
 答えたのは横で同じく呆然とピッチを眺めていた久我である。
 彼は現在日本人なのだから日本語が流ちょうなのは当たり前として、なぜ一個人業者のガキんちょ風情がこんな超ド級の大物を知っている風なのか。メッディは思わず眉根を寄せて素早い動きで後輩を見た。
 状況がまるで見えてこない彼女の横で、二人の攻防は続いていく。
「俺は一昨日からクラウンへ復帰した。連絡が下まで行ってないようだがラシャは既にクラウンを降りている。従ってセラ・テロ対策特別局の局長は俺が受けることとなった。…………あれは、今、こちらへ来ている。おまえが心配するようなことはない」
「はぁっ!? 復帰!? あいつがこっちに来てるって、そんなの嫌がったんじゃないのか!? あんたの都合で引っ張り回されるあいつの身にもなれよっ」
「……その男は環流の守護者の構成員だな」
 ヴェルミリオはそれ以上久我の質問に答えるそぶりを見せず、メッディの肩に担がれたビール男の髪を掴み、顔をぐっと上げさせる。
「ってえなっ、放せよっ!」
「この額の入れ墨──他に捕らえた三人にも同じものがあったが、どういう意味だ」
 言われてみれば男の額──、髪に隠れるように小さな女神像が彫られている。
 いや、羽根が生えているのだから女神と言うより天使なのかもしれない。
「これこそ俺たちを見守ってくれる天使様よ。テーヴェ様がおっしゃったんだ。我々には天使様がついている。この印を刻む物には間違いなく転生のご加護がやってくるってな」
 鼻息も荒く言い切ったその男を冷えた眼で見下ろすと、イザ種クラウンは興味をなくしたように背を向ける。
「他の三名ともども全員すぐに本部へ連行しろ。獄卒亜種については対策部に連絡を取っておけ」
 言いながらもその姿が消え始める。
「てめぇ、待てよ! 俺の話はまだ終わって……」
「時間がない。もう一カ所残っているんでな。……久我、あれのことは忘れろ。おまえにはおまえの世界があるはずだ」
 久我が全てを話しきる前に、ヴェルミリオの姿は掻き消えていた。
 後に残されたのは憤りも隠しきれない様子の久我と、夢見心地のメッディ。そして肩に担がれた男の三名のみだ。
「ちょっとあんたなんであんな大物と知り合いなわけ!? ていうかあのイザ・ヴェルミリオがあんな超絶美形だって知ってた!? 悪名が高すぎてその情報が回ってこなかったわよ」
「うるっせぇ、あんなやつどーってことねぇしっ。なんなんだよ忘れろって、そう言われてはいそうですかって行くわけねーだろ! あーもう最悪だ。わかった。俺はメッディ、あんたを応援する。ラシャは諦めろ。この際ヴェルミリオを落としてメロッメロにして玉の輿に乗ってくれ!」
 振り返った久我の目が血走っている。
 肩に男を一人担いだままの乙女は急に気圧されて、頬に恥じらいの紅を掃きながらもじもじと答えを返す。
「やだなに、急にどうしたの!? わ、わわ私とヴェルミリオ様が、そんな……」
 頬を赤らめくねくねともだえるウルツBプラスの彼女の姿に、久我は腕組みをしたままうなり声を上げる。
「うん。顔と体型と性格さえ改善すればなんとかいけるかもしれねぇな」
「……あんたそれ大概失礼よ」
 むっとした彼女の耳に『総員帰還するぞー!』と、疲れきったようなリーダーの声が響いていた。