■ 5-13 ■




 ルキの様子を見に来ていたハルフレズが諜報局の呼び出しを受け相変わらずの不機嫌な様子で病室を去り、その後研究局からの呼び出しでウィスタリアも去ってから二時間近くが経過していた。
 今は亮の看護のため、ウィスタリアと交代でベルカーノ・プラムがこの53号施設に詰めているが、獄卒対策部の部長でもあるカウナーツの長が亮の側にいられる時間も徐々にリミットが迫りつつあり、イザのトップが戻れる時間を限定しきれない今、病室内には言葉に出来ない焦りのようなモノが渦巻き始めている。
 亮の存在、症状、全てが極秘であるが故に、このプロジェクトに参加できるのは極限られたトップの一握りのみであり、 その人選の質により多忙な者ばかりであるためなかなか思うように状況が進まない。
 それを肌で最も感じているのはこの場にいないイザの長だろうが、それと同じくらい目の前のカウナーツの長も苛立ちを感じているようだ。
「それで結局あれはなんなんだ。多少なりとも見当はついてんだろ?」
 ベッドを挟み向かい側のパイプ椅子に座したリモーネの『昔の男』は、その艶やかな蒼銀の髪を無造作に掻き回し、彼の背後の床にクレヨンで悪戯描きをしている子供にちらりと視線をやった。
 困ったときに頭を掻く癖は相変わらずのようだ。
「それを調べるために別プロジェクトで忙しいウィスタリアにわざわざ出張ってきてもらっているわけだが……、血液検査では未だ何もわからないし、あの羽根をサンプルとして切除し持ち帰ることができない今、それ自体を調べようがなくてな」
「切除できねぇって、羽根くらいちょちょいと抜けねぇのか?」
「あれは羽根のような形状をしているが羽根ではない。その存在自体が二重構造になっていて、セラや現実に影響を与えている一方、恐らく異神たちのいる別の空間にも通じているはずだ。そのせいで揺らぎが強すぎ安定しない。あの熱をどうにかコーティングして数本抜いてみたのだが、亮から離れると同時に消えてしまうんだ」
「……やっかいな代物なんだな。ったく、なんで毎度毎度あいつばっかりこんな目に遭わなきゃなんねぇんだ」
 深く溜息を着いたシュラは再びがりがりと豊かな髪に指先を突っ込む。

 約一年半前。

 セブンスに亮がやって来た時のことを思い出す。
 リモーネはなんとなく嫌な予感がしたのだ。
 ヴェルミリオの囲っていた少年ゲボ。それだけで波乱の臭いしかしなかった。
 ヴェルミリオ自体が常に事件の火種になりかねない不穏な人物である。だがそれだけでなく、ヴェルミリオがクラウンになる以前から、シュラと彼はよく知った同士だった。
 IICR内に於いて二人が連んでいる所など見たことがなかったが、何かにつけて良くない噂を立てられ他のクラウン達から目の敵にされていたヴェルミリオに対し、シュラが呆れながらもいつも心配していたことをリモーネは知っている。
 シュラは端的に言って、いい男だとリモーネは思う。
 容姿はもちろん彼女のどストライクだが、それ以上にその情に厚い男気溢れるところも、不器用な優しさが空回りしがちなところも、彼女が愛してやまない彼の良いところだ。
 だからこそシュラとは8年近く同棲生活を続けられたのだし、あの頃は今後も続ける気でいた。
 だがそれら長所は同時に彼の短所であるということを、あの時リモーネは改めて突きつけられる羽目となっていた。
 亮にガーネットから信じられないような指示が出され、おそらくあのままでは少年に残された道は「死」しか有り得なかった。
 リモーネも医療局局長として最大限にサポートをしていたが、それでも日に何人ものカラークラウン相手に無体をさせられては、未完成な少年の身体や心が壊れてしまうのは時間の問題だった。
 正直、治療をするのも戸惑いが生まれることがしばしばあったほどだ。
 この治療はこの子が再び大人達に痛めつけられるためだけに行っていることにはならないか──。この子はこのまま眠らせてやった方が幸せなのではないか──。
 だがそれでもリモーネの医師としての矜持が彼女を動かし、彼女に出来る最大限で少年を治療した。
 そして彼女の危惧するとおり、少年は死んでしまった方が幸福だと思えるような所業を大人達から受け続けた。
 あのシュラがこんな状況を見過ごせるわけがない。
 最初は旧知の友の恋人を守ってやろうという、頼まれてもいないお節介だったかもしれない。だが、その少年に会い、彼の直向きな決意に触れたシュラが「お節介」だけで終わらなくなるであろうことをリモーネは予感していたし、事実その通りになった。
 元来庇護欲の塊のような男である。
 自分で言うのも哀しいが、百戦錬磨のクラウン達の中で渡り合うソムニアの権化のようなリモーネと、生まれたてでプルプル震える目も開いていないような子犬ちゃんでは勝負にならない。
 リモーネもかれこれ三百年近く生きてきた、酸いも甘いも噛み分けた大人女子だ。
 決断は早かったし、切替はもっと早かった。
 シュラがセブンスに通い始めたころまでは様子を見たが、その後、彼が亮に全く手出しをしていないと気づいた時点で、リモーネは別れを決意した。
 ただ単純に「友人の恋人を寝取れない」「相手がまだ子供だから」「悲惨な状況の彼を休ませたい」などという教科書通りの倫理観で踏みとどまっているというわけではないと、直感したからだ。
 手を出さない──ではなく、手を出せなかった──というのが本当のところだろう。なにせあのセブンスに通って挨拶程度のキスすらしていないというのだから。
 こいつ、本気だ──と気づいた時点でリモーネはシュラを家から追い出して、ワインを一晩で6本空け、翌日合コンのセッティングを部下へ命じていた。
 未だ自分自身の気持ちに気付いていない間抜けな男は、それから何度も「話し合おう」と頭を下げてきたが、話し合うも何も己の気持ちすらわかっていない男が何を語っても説得力はゼロである。
 好きな男がここまで阿呆だったとは、情けなくて涙がでてきそうなほどだ。
 執務室の前で謝り倒し、土下座しかねない彼の様子は、百年の恋も一気に家族愛にシフトチェンジしてしまうには十分な要件だった。

「おい、リモーネ、聞いてるか?」
「聞いている。おまえが亮を好きでたまらないという話だろう? いい加減聞き飽きた」
「だっ、誰もそんなこと言ってねーだろーがっ」
 庇護欲が性愛に変わっても、持って生まれた自制心が強すぎるせいで手も足も出ず苦悶することになるであろうと予見した通り、リモーネの元彼は甘い甘いシロップ漬けの荊に巻き締められて身動きすらとれず、気の毒になってくるほどだ。
 今目の前にいるのは恋しかった「男」ではなく、手の掛かる「兄弟」としか思えない。
「はぁ〜……、自分が捨てた女の前で、よくもまぁべたべたイチャイチャした挙げ句、寝取ることもできないヘタレ具合をさらしてくれるものだ」
「おまっ、捨てられたのは俺だろーがっ!!! てか寝取るってななんだっ、俺は亮が幸せであればそれで」
「そんな甘いことを言っているからだめなのだ。あんな子供を容赦なくコマしまくるヴェルミリオには永遠に勝てんぞ、情けない」
「コマっ……」
 思わず絶句したシュラにリモーネはやれやれと溜息をつき、白衣を押し上げた豊満な胸の前で腕を組む。
「まあそれがおまえらしいといえばらしいのだがな。……確かにあの子は色々背負いすぎている。人間というのは公平に出来てはいないものだが……、それにしても亮の運命は度が過ぎていると私も思う。それに比べればシュラ、おまえの報われない恋情など人生のちょっとしたアトラクション程度のものだ。精々おまえのやり場のない父性であの子を助けてやるがいい」
「……もう少し言い方ってもんがあんだろが、ったく」
 言いつつシュラはそれでも感じ入ったように目を閉じ、口の端にふわりと微笑を掃いていた。
「今もおまえの後ろでおまえの想い人がおまえの部下を困らせているぞ?」
「あ?」
 振り返ってみれば、先ほどまで大人しくお絵かきをしていた幼児はそれに飽きたのか、クレヨンを放り出してカーテンの外へ出て行こうと匍匐前進中である。
 それをどうにか止めようとするルキが幼児の身体を捕まえようとするが、大きな白炎の翼をはためかされ、その熱で近寄ることができないでいるらしい。
「ジオット〜っ、なんとかしてください〜」
 心底困り声で訴えるルキに応えシュラは立ち上がると、めらめらと燃えさかる炎の羽根を手づかみで跳ね上げ、勢いでコロンと転がった幼児の身体をすかさず抱き上げていた。
 己のカウナーツを巡らせることで亮の炎をガードしたシュラの手のひらには、僅かばかり赤みが残る程度だ。
「こら、亮。どこ行くつもりだ?」
 胸の中に納めた小さな身体をしっかりつかまえ、シュラが「めっ」とばかり亮のおでこに自らの額をコツンと当てる。
 亮はきょとんとした顔でそれを見上げると、悪びれる様子も見せずにっこりと微笑んでいた。
「シィをお迎えに行くの」
 亮の答えにシュラは一瞬困ったように眉尻を下げ、「う〜ん」と唸りながら亮をベッドへと運んでいく。
「シドはまだ仕事で帰れないから、もう少しお留守番してような」
「いやっ。おるすばん、しないっ。とおる、おむかえに行くのっ」
 ベッドに降ろそうとするシュラの腕の中から抜け出そうと、亮はじたばたと暴れ始める。
 その度に巨大な羽根が辺りを薙ぎ、病室に熱風が吹き荒れる。
 傍らでルキが自らのラグーツを玉にして気化させ部屋の温度をせっせと下げ、リモーネは困った様子で溜息をつき、己のベルカーノを身体の周囲に張り巡らすことで状況の緩和に努めるほかない。
「こら亮っ、やめなさい、危ないから暴れちゃだめだっ。めっ!」
「やぁっ、シュラ、キライっ!!!」
「っ!!!!????」
 その衝撃の一言で思わず動きを止めたシュラの隙を突くように、亮は身体をよじってベッドの上にぽてりと落ちる。
 だがそこからの動きが鈍い。
 大きく一つ息をつくと、ふらりと身体を起こしよろめくようにベッドの端へ移動する。
 リモーネは向かってくる亮を抱き上げると、額に手を当てじっと顔を覗き込む。
「亮。どうした。気分が悪いのではないか?」
 ただでさえ高くなっている体温が、若干また上がっているように感じ、リモーネは眉根を寄せ心配げに亮の頬を撫でる。
 その優しいベルカーノの力に亮は少しうっとりと目を閉じ、それでも自分を奮い立たせるようにイヤイヤと首を振ると力ない腕を突っぱねてその腕から逃れるように身体をよじった。
 すぐに別方向から腕が伸びてきて、亮の身体は再びシュラの胸の中にしっかりと抱きしめられる。
「ごめんな、亮。だけど亮また痛い痛いになっちゃったら大変だろ? ベッドでコロンしとこう?」
 どんなに亮がここから出たがってもそれだけは許されない。
 今の亮の状態はセラ内に於いても特別に危険なものだ。
 これだけのエネルギーを持つ生命体が思うさま徘徊すれば、建造物の損壊だけでなく、下手をすればセラ自体にほころびを作りかねない。
 以前の亮はセブンスで軟禁されていたが、今の亮はこの53号施設という監獄に完全監禁されていると言っても過言ではない。
 言い方は悪いが、これは「入院」という名の「投獄」と言えた。
 亮のためとはいえその見張りを買って出たシュラには、どうにもやりきれない思いがぬぐい去れない。
 腕の中の子供をなだめるように、ぽんぽんとおしりの辺りを叩き、優しい声音で「シドももうちょっとしたら帰ってくるから、いい子にしていような」と言い聞かせる。
「でも、シィ、とおるがわからなくなっちゃうから、とおるがお迎え行かないとダメなの! お外で待ってないと、シィ、とおるのとこ、こないもん」
 どうしても放してくれそうにないシュラへ向かい、亮は覚悟を決めたように切々と訴え始める。
 熱に潤んだ大きな黒い瞳が真剣な様子でシュラを見上げていた。
「なんでわからなくなっちゃう? シドは亮がここにいるってちゃんと知ってるぞ? 心配しなくても大丈夫だから──」
「だってとおる、変な風になっちゃったから、とおるのこと、シィはわからなくなっちゃうもんっ」
「変な風って」
「これ、いやっ、おせなかへんなの、出た。とおる、へんなのに、なっちゃったからっ、シィ、とおる、の、こと、わからなく、なちゃう、もんっ」
 次第にぽろぽろと堪えていた涙があふれ出し、くしゃりと表情をゆがませると亮は嘔吐きながら泣き出してしまう。
 驚いたように一瞬目を見開き、シュラは慌てて亮を抱きしめていた。
 退行してしまった亮が、幼い心でまさかそんなことを考えていたとは思いもしなかったのだ。
「ばか、何言ってる、変なものか。何が生えたってシドが亮のことわからなくなるわけないだろ? ん?」
「うえぇぇぇっ、ぇっ、やら、もん、っ、これ、いらない、もん……」
「そうだな。早くこれがなくなるように、私たちもがんばるから、亮も一緒にがんばろう。男の子だろ?」
「えっ、えっ、……ぅぇ……、っ、せん、せぃ、なおして、くれる?」
「ああ。ちゃんと元通りになる。だから泣くな」
「シィ、わか、なく、ならなぃ? とおる、おばけに、なっちゃっても、ここに、きて、くれる?」
「亮はシドに羽根が生えたらわからなくなっちゃうか?」
 シュラがそう問いかければ、亮は弾かれたように必死に首を横に振る。
「とおる、シィに羽根はえても、わかるよ? シィのこと、ぜったい忘れない、もん」
「だろ? シドだって同じだ」
「…………うん」
 ようやく少し落ち着いたように、亮はくたりとシュラの胸に頬を寄せる。
「こんな可愛い子、シドが放っておくわけがない」
 額にちゅっと口づけすると、シュラはゆっくりと亮の身体をベッドへ横たえる。
 だがシュラの一言は今ひとつ亮に響かなかったようで、幼児は不満そうに口を尖らせると、未だしゃっくりの残る息で抗議の声を上げる。
「とおる、おとこだから、かわいく、ないもん」
「お、そ、そうだな。すまんすまん。亮はかっこいいもんな。背中の羽根だって大きくてかっこいいぞ?」
「……ほんと? かっこいい?」
「うん、かっこいいし、きらきら光っててとっても綺麗だと思うよ? ボクにはちっとも変になんか見えない」
 横から心配そうに覗き込んでいたルキがそう言うと、亮はやっとくすぐったそうに笑った。
「しゅら」
 そうして一度大きな熱い息を吐き、自分を覗き込むシュラへ短い腕を伸ばす。
 それに応え、首に腕を絡ませてやりながら、シュラは亮に顔を寄せた。
「しゅら、ごめんなさい」
「ん?」
 そう問い返して見ても、すぐに返事が返ってこない。
 明らかに亮の様子はおかしくなっていた。
 白くて丸い額に、ぷつぷつと小さな汗の粒が浮き上がり始めている。
 リモーネに確認の視線を送れば、彼女も深刻な表情で様子を伺い、手元には医療セットが引き寄せられていた。
 それでも亮は苦しげな息を吐きながら、どうにかシュラに言葉を伝える。
「とおる、うそ、ついたの、ごめんなさい」
「嘘? また悪戯でも思いついたか?このワンパク坊主」
 亮の言う意味がつかめず、シュラはそう問い返すと亮の頬を無骨な指先で撫でる。
「きらい、て言ったの、うそ。しゅら、ほんとは、だいすき」
「……っ」
 思いもしなかった亮の言葉に、シュラは胸の奥を小さな手で鷲掴みされたような切ない疼痛を感じた。
 嬉しいのに泣きたいようなどうしていいのかわからない感情が溢れ出て止まらない。
「俺も、亮が大好きだ」
 そう囁けば、亮は少しだけ笑って目を閉じた。



 そうして、再び、地獄の時間が始まった。



 呼吸が荒く、早く、小さな口元から零れ出る。
 何かを堪えるように手足が縮こまり、小さな身体がぶるぶると異常なまでに震えていた。
 シュラはそんな亮の身体を再び己の腕の中に抱え上げると、その痛みを分かち合うかの如くぎゅっと強く抱きしめる。
 シュラの眼前で、亮の背中から伸びる白炎が、一際強く、まるで太陽のコロナの如く吹き上がる。
 ルキのラグーツでコーティングされたはずの亮のパジャマも、今では完全に焼け落ち、亮は生まれたままの姿となってシュラの膝に抱えられている。
 小さな白い背中に、細い腕に、足に、木の根でも這うような陰影がぼこぼこと蠢き、それに合わせ目に見えて亮の炎翼はずるり、ずるりと成長していく。
 再び翼が急成期に突入したのだ。
「っ、いたぃ、よ、しゅらぁ、っ、いだい、よぉっ、ぁ、ぁっ」
 自分を抱きしめてくれる相手にすがるように、亮は必死に声をあげる。
「うん、そうだな、痛いの治るお薬もらおうな」
 シュラがあやすようにそう言いリモーネに視線を送るが、ベルカーノのクラウンは厳しい表情のまま微動だにしない。
 その手に薄桃色の液体を入れた注射器を構えてはいるのだが、そこから先の行動を取ろうとはしないのだ。
「リモーネっ、何してる早く薬を──」
「駄目だ。まだ体内に薬剤が残っている。今はまだ使えない」
「馬鹿なっ! こんなに痛がっているんだぞっ!」
「本来ならこんなものじゃない。亮の痛みは発狂しアルマが霧散するレベルのものだ。言葉がしゃべれるのは薬によって痛みの大部分が抑えられているからに他ならん」
「アルマが発狂!? 何言ってる、そこまで待てるわけがないだろうっ!」
「亮のアルマが限界に近いと言ったはずだ。ハイキューブは本来ゲボにとって致命的な劇薬なんだ。退行症状もそのために出てるっ。今投薬すれば亮のアルマは永遠にこのまま戻らなくなる。──コンマミリ単位の重なりすら許されないシビアな状況だとわかって欲しい」
 リモーネの白い指先が悔しげにぐっと握り込まれた。
 今すぐにでもこの子供から痛みを取ってやりたい。だが、それをすることは少年のアルマを破壊してしまうことにつながる。
 彼女も医師としてつらい選択を強いられている。
 シュラにもそれが伝わり、彼は胸の中の子供を強く抱きしめたまま唇を噛みしめるしかない。
「くそっ、なんか方法ねぇのかよっ。なんで亮ばっかりこんな目に遭わなきゃなんねぇんだっ! 代われるなら今すぐ俺が代わってやりてぇっ」
 血を吐くようにシュラは呻いた。
 腕の中の小さな身体は痛みのため痙攣を繰り返し、背骨を折らんばかりに反り返ろうとする。
 それをさせまいと抱きしめるシュラの腕は、焦げた臭いを立て表面を焼かれ始めていた。
 めきめきと音を立て輝く翼がさらに大きく成長を遂げていく。
「あっ、あつ、ぃ、よ、し、シィ、すけ……、しぃ、し、……っ、し……」
 喘ぐように呟かれる声はここにはいない誰かを呼び、痛みのために見開かれた大きな黒い瞳には何者をも映されてはいない。
「がっ、ぁっ、あっ、ぃぃぃぃっ!!!」
 言葉にならない悲鳴が幼子の喉を引き裂くように迸った。
「リモーネっ!!!」
「もう少し、もう少しなんだっ、亮、もう少し、がんばってくれ──」
 腕に巻かれた時計を睨みながら、リモーネは己のもてる最大限のベルカーノを亮の背に注ぎ続ける。
「あ、あのっ、ヴェルミリオとは違う方法だけど、冷やすことなら、ボクにもできるかもっ」
 溜まりかねたように、傍らで息をのんでいた少年がそう名乗りを上げていた。
 その提案にリモーネは真っ先に反応する。
「そうか、おまえのラグーツで水槽を再び形成すれば、熱だけでもどうにかできるやもしれん」
「はいっ、いいですか、プラム」
「そうだな、頼む」
 リモーネの許しが出るやいなやルキはすぐに腕を伸ばし、亮に向かい空中で何かを支えるようなポーズを取ると、その太めの眉毛をぐっと寄せ、真剣な表情で己のラグーツを手のひらに集中し始める。
「……シュラ、亮をベッドに寝かせて離れろ、おまえがいては水塊が作れん」
「はあっ!? なんでだよっ、いいからそのままやれっ、ルキ!」
「で、でも……」
「おまえの水ん中なら呼吸はできるだろうが」
 ルキの上司はがんとして少年の身体を放す気はないらしい。
 確かにルキの作るラグーツの中では呼吸も可能であるし、溺れることはない。だが亮を助けるための性質を持たせた水塊である以上──
「おまえの熱も奪われると言っているんだ! 無茶をするなばか者!」
 リモーネはあきれ果てたように叱り飛ばす。
 しかしシュラは構わず亮を抱え直し痛みと熱で暴れる身体を、ぎゅっと抱きしめていた。
「熱を奪われるだぁ? 誰に言ってんだリモーネ」
 にやりと笑ってみせるカウナーツのクラウンに、リモーネはやれやれと口を閉ざす。
 この馬鹿は何を言っても聞きはしないに違いない。
「まったく……、下手をすれば死ぬぞ。…………ルキ。いいからこの馬鹿ごと水に埋めてやれ。カウナーツ・ジオットが後悔するくらい全力でな」
「え、ええっ!? でも……」
「いい。骨は私が拾う。ほら、さっさとしろ。亮が壊れる前に頼む」
「っ……は、はいっ!!」
 ルキの手元にぽつりと現れた透明な水滴はみるみる大きく膨らみ、すぐに巨大な水塊となって蒼くゆらゆらと宙に漂い始めていた。
 そのサイズが亮を羽根ごと包めるほどにまで成長するのに、ほんの一分もかからない。
 亮も、翼も、そしてシュラも──、全てが静謐な水の中に埋められていく。
 深い蒼に包まれながら、亮を見つめるシュラの目は慈愛に満ち、大切な宝を守るようにその小さな身体を抱き寄せる。
 巨大な水塊の中で、亮の表情がわずかに緩んだ。
 白く燃えさかる翼により周囲の水は泡立っているが、それでも沸騰することはなく、恐ろしい勢いでどこか知らぬ異界の彼方へ熱を放出し続けているらしい。
(良かった……)
 少し呼吸が緩やかになった亮の頬を撫で、シュラはほっと息をつく。
 同時に己の身体の熱が急速に奪われていくのを感じ、シュラは口元に笑みを上らせ己のカウナーツを全力で滾らせる。
 ルキの水塊に初めて入ってみたが、なかなかどうしてシュラの部下は有能なようで嬉しくなる。
 この勢いで熱を奪われ続ければ、確かに炎を扱うカウナーツだろうと、太陽光を扱うソヴィロだろうとイチコロだと苦笑してしまう。
 だが、小さな手がシュラのシャツにすがるように、きゅっと掴んで握られていた。
 この手がシュラに伸ばされる限り、シュラはその手を握り替えし続けるだろう。
 たとえその後、この手を、身体を、別の誰かに手渡さなくてはならないとしても、シュラに迷いなどない。
 痛みに震える愛しい者の身体を抱きしめ、シュラはそっとその額にキスをした。

「どうやら熱は押さえられているようだが……」
 外部から水塊を見つめるリモーネの声は固い。
 水塊は亮の羽根の熱により白く泡立ち中を良く観察することが困難であるがしかし、それでもわかることが一つあった。
 それはその白い泡立ちが徐々に体積を増し、水塊全体に広がりつつあること──。
 炎翼の巨大化が止まらない。
 その成長速度は今までにないものであり、彼女の医師としての魂が警鐘を鳴らし続けている。
「ルキ、もう少し体積を大きくできないか?」
「すいません、プラム。なんか、すごい、です。これっ、ボクのラグーツが震えて……、維持するので、精一杯で……」
「そうか。すまんがもう少し続けてくれ」
 仮死状態だった亮を安定させるための水槽と違い、急成期の翼を押さえ込むための水塊には膨大な力が必要だ。
 傍らで両腕を構えたままの少年の額から、凄まじい量の汗がほとばしり出ていた。
 異界へ熱を飛ばすような規格外の水塊を操る彼ですら手に余る、亮の身体変化とは一体なんだというのだろう。
「ジオット、大丈夫でしょうか。あの、多分、凄い勢いで水と一緒に熱が飛ばされてるのを感じるんで」
「さあな。あのばか者が干涸らびて転がり出てこようと、あいつの自己責任だ。気にするな」
「ええぇぇぇ、それは……」
 容赦のない医療局局長の一言に、ルキは困ったように眉尻を下げ、それでも状態をキープしつつ「無事であってください」と祈る他ない。
 と、次の瞬間、ガクンとルキの身体が揺れた。
 それに耐えるように少年は腰を落とし、全身の筋肉に力を込め、奥歯を食いしばる。
 その童顔には見合わないような隆とした筋肉がその肩に、背に、腹部に、足に盛り上がり、トライバルタトゥーを施されたそれが艶やかに躍動する。
「くっ……、そ……、なんか……、内側から……膨れあがって……っ」
 明らかに内部で何かが起きている。
 リモーネは息を詰め中を確認しようと目を懲らした。
 だが、蒼く透明だった水塊は最早不透明なラムネ色に変色し、外部からの視認をいっさい拒絶している。
「ルキ、何が起きて──」
「っ、あっ、ぁっ、ぁ、……だめ、これ……、プラム、伏せてっ!」
 ルキが叫ぶと同時に、ラムネ色の巨大な塊が爆発でも起こしたかのように弾け飛んでいた。
 ドンという音にならない地響きが53号施設を根底から揺るがし、猛烈な熱が室内を焼き尽くしていく。
 床に伏せたリモーネ達の上で、カーテンも、ベッドも、治療機器も、照明器具さえ、何もかもが蒸発し綺麗に姿を消していった。
 残されたのは看取りの石によって造り上げられた外壁と、何もない空間──。
 身を起こそうとしたリモーネは己の上に生ぬるい何かが乗っていることに気付き、そっと手で払ってみれば、それがわずかばかりの薄い水の膜であることがわかる。
「大丈夫、ですか?」
 どうやら咄嗟にルキが二人分の水膜でかばってくれていたらしい。
「ああ。助かった……」
 そう礼を言いつつも、リモーネの視線は一点を見つめている。
 ルキもそれに釣られるように、前方を見た。
 照明すら蒸発したこの施設の中にあっても、それを確認することは容易であった。
 なぜならそれは自身が光り輝き、眩しいほどに己の壮麗な形状を見せつけていたからだ。
 そこには一人の少年がいた。
 彼の背には眩く輝く白い翼が四対八枚、完璧な姿で悠然と存在しており、その腕と足にはまるで装飾品のような小さな羽根が優美に息づいている。
 シュラに横抱きで抱えられたままぐったりと目を閉じた彼は、最早幼児の姿ではない。
 元の十六歳の姿を取り戻し燃えさかる壮麗な羽根を携えた少年は、まさに本物の天使のようであり、有名な教会のフレスコ画を切り取ったかのように神々しくさえあった。
 亮の羽根に触れたシュラの腕から、じりじりと白く煙が上がってる。
「ジオット、良かった、無事だったんですね!」
 ホッとしたようなルキの声で、ようやく場の空気が動き出していた。
「亮は──」
 立ち上がったリモーネが駆け寄れば、シュラは大丈夫だと頷いてみせる。
「痛みは完全に引いたらしい。翼の熱も前ほどヤバイ感じじゃない」
「って、でもでも、け、煙でてますけど!?」
 焦ったようなルキの声に、シュラは肩をすくめて見せた。
「この程度ならベルカーノの女王様がちょちょいと治してくれるさ」
「なるほど……、炎翼が安定している。……恐らくこれでこの器官の成長が止まったんだな」
 リモーネは亮の翼に触れ、その腕を取り脈拍を確認する。
「今すぐ色々検査したいところだが、あいにくたった今機材が蒸発してしまってな」
「いや、まず、亮を寝かせるベッドを用意してくれ。俺の腕が黒こげになる前に」
 そこで初めてリモーネはシュラの顔を眺める。
「ん? ちょっと老けたな、シュラ。今の一瞬で」
「……おまえね」
 色々言いたげだが言葉を飲み込んだ元彼の腕に手を当て、ベルカーノを注ぎながらリモーネは可笑しそうに笑った。