■ 5-18 ■



 目を開けた久我は何度か瞬きし、天井から下がる銀のシールド板を数秒眺めゆっくりと体を起こす。
 大きめに作られているパイプベッドは簡易なものとはいえそれなりの強度があるらしく、久我が座り直した程度ではかすかな物音も立てない。どんな合金を使っているのかはわからないが、重厚な光り方をしているベッドの足を見れば、よくある鉄やアルミではないに違いない。
 枕元に設置されている入獄システムも量産型であると説明があった割に、普段久我達が使っているものにはないタッチパネル式のモニターがついているようだ。初めて触ったときはオプションの多さに目を見張ったものだ。
「やっぱ金持ってんなぁ、ここは」
 見せつけられるIICRの金銭力にため息をこぼしつつパネルに触れて現在の時刻を確認する。と、時刻の表示と同時に次の入獄予約が入っているため早く退室しろとの警告文が画面に点滅している。
 どうやらこのダイブフロアのAブロック24室は、セラ・テロ対策特別局の見回り使用の後、すぐに別の仕事に使われるらしい。
『24号室、タカユキ・クガ。身体に異常はありませんか?』
 枕元のスピーカーからテロ特ナビゲーター係の女性の声が聞こえてきた。
「だいじょぶっす」
『結構です。ではすぐにサードダイブフロア、Kブロックへ移動し、9号室を使用してください。作戦決行時刻がリアルタイムの三十分後に迫っています。遅刻は厳禁。ロックは所属IDを通してもらえば解除されます』
「りょーかい」
 事務的な女性の声音にぶっきらぼうに返事をすると、久我はまだぼんやりとした意識を覚ますように、ガリガリと頭をかき混ぜベッドわきに転がる靴を履いて、備え付けのシャワーも浴びず仕切りの引き戸を開けて外へと出た。
 このブースの次の予約時刻まであと十分程度しかないというのも理由だが、自分たちもまたこの後すぐ大規模な作戦が待っているため、今シャワーを浴びたところですぐまたインセラに逆戻りなのだから意味はない。
 この局に飛ばされてからしみじみわかったことは、世の中コネと権力を持ったもん勝ちだ――ということだ。
 SPCから出向してきた3名のうち、研究局に籍を置くことになった男は以前から研究局次長と懇意であると聞いている。故意か偶然か、そんな彼だけは今も研究局に居残り通常の業務を続け、そんなもののない二人はあっさりとテロ特行きを言い渡された。
「あーくそ、だりぃ、腹減った」
 ノルマ見回り3セラ分の後、リアルで昼食を取る時間すら与えられずこの後何時間拘束されるかわからない大規模作戦に突入させられるとは、とんだブラック部署だ。
 最初に配属された警ら課ではこんなシフトはありえなかった。
 「君に期待している」とかなんとか凛々しい顔で肩をたたいてきた課長の禿げ頭を思い出すと、今更ながらに嫌味の一つも言いながら頭皮に直接チョップを繰り出してやりたい気持ちが湧いてくる。
 弱い立場の者はこんな風に割を食った状況に陥ることになるんだなと世の不条理を痛感する。
 IICRへの交換出向の話が来た時は自分にも風が向いてきたと思ったものだが、なかなかどうしてうまくはいかないものである。
 そんな考えてもどうにもならないことをツラツラ考えながらいくつものブースが並ぶ細い通路を抜け、Aブロックのメインドアを開けた久我の前には、腕を組みいらいらと人差し指でリズムをとっている女が一人仁王立ちしていた。
 ウェーブのかかった長い栗毛をポニーテールに結わえた妙齢のその女は、ちょっと低めでそばかすの散った鼻の頭にしわを作り、「遅い!」と文句を言う。
 愛嬌はあるくせに痛烈に可愛くない。
 向かいの女性用Dブロックを使用していたルクレチア・メッディだ。
 不本意ではあるが、現在久我は彼女とバディを組まされている。バディである限り二人はいかなる時もニコイチで動かねばならず、四六時中この自己中で押しの強い相棒と顔を突き合わせざるを得ない。
 妙なバイタリティ溢れる彼女といると、力をもらうどころかなんだか体力を吸い取られていくような気さえする。
「先に行ってれば良かったじゃねーか。別にセラで落ち合えばいい話だろ」
「嫌よ! こんなだだっ広い上に薄暗いフロア、うら若い乙女が一人で移動してる最中暴漢にでも襲われたらどうすんの?」
「……ここで誰が筋肉モリモリのウルツ女襲うんだよ」
 深いため息が口をつく。
 広く同じようなブースの並ぶ薄暗いフロア。何よりバディとして共に行動し彼女が結構な方向音痴だと否が応でも気付かされた久我は(ああ、ただ単に道に迷いそうだと思っただけだな)と、彼女の行動理由にピンときたが、それ以上ヤブ蛇になりそうなセリフを慎み、黙ったままエレベーターホールへ歩き出す。
「ちょーっと聞き捨てならないわね。この細腕のどこがモリモリだってのよ、ウルツは筋肉じゃなくてハートでバーベル持ち上げるんだから」
 冬も始まっているというのに透けた素材のフリフリワンピースを着たメッディは、袖をたくし上げその白い腕を久我の目の前に突き付けてくるが、そんなものはガン無視である。
 ここ一週間ほどの付き合いで、むきになる彼女にいちいち付き合っていては身が持たないことを久我はすっかり学習していた。
「もうわかった。わかったからどけろって前見えねぇ……」
 押してもびくともしない細い腕をかわすように左へスウェーした久我の視界に、突き当りの廊下の角を曲がってくる二人の人物が映る。
 その内の一人を見た久我は一瞬目を見開いた後弾かれたように駆け出した。
「ちょっと、なに!?」
 背後で文句の成分を多分に含む声をメッディが上げたが、今の久我にはそんな呟きなどまったく聞こえない。
 薄暗い廊下を突っ走っていく青少年の目にはただ一人の姿しか映っていないようだ。
 床に埋め込まれた間接照明だけで照らされたこの廊下で、久我の目は二十数メートル離れたこの位置からも相手の顔をはっきりととらえていた。
 視線の先でその人物がぎょっとしたようにこちらを見、
「げっ、貴之……」
 と唇を動かして踵を返そうとしているのが見えた。
 セラでは青銀。リアルでは色素の薄いアッシュグレーのくせ毛。日に焼けた精悍な肌に深く蒼い瞳。セラよりリアルの方が若干若いその姿は、久我のよく知るあの男のものだ。
「先生っ! あっ、こら待て逃げんなおっさん!」
 相手をその場に縫いとめるように久我は静かな廊下で声を張り上げ相手を呼び止める。
 案の定久我の勢いに観念したらしい目当ての人物は額に手を当て、文字通り頭を抱えたままこちらを振り返っていた。
「ああん? こら小僧、おまえどこの所属だ?」
 横で驚いたように立ち尽くしていたもう一人の男――ドレッドヘアをした三十代半ばの男が、眉毛のない顔でぎろりと久我をにらみあげてくる。
 恐ろしく人相が悪く、街中でこんなのに絡まれでもしたら一も二もなく秒速で財布を差し出すであろう相手だ。
 だが今の久我にはそんな男にすら構っている余裕はなく、男の後ろで苦虫を噛み潰したような顔をしているシュラ・リベリオンへ迷いもなく詰め寄っていた。
「なんっで電話出てくれないんすかっ」
「ぬぉっ。こら、ガキ、無視すんなっ! 仮にもうちのボスをおっさん呼ばわりたぁ何様のつもりだって聞いてんだよっ」
「ボス?」
 いつの間にか久我の後ろにメッディが控えている。
 トラブルの予感に生来の野次馬根性が燃え上がった彼女は、キラキラした目で状況を把握しようと前のめりに首を突っ込んでくる。そんな女子の合いの手に応えるように、ドレッドヘアがトレードマークの元イザ種副官、ジョーイは胸を反らして答えていた。
「おうよ。泣く子も黙る獄卒対策部の部長、蒼の炎王カウナーツ・ジオット様を知らねぇとは、さては未転生のひよっこかぁ?」
 しかし立て板に水のごとく意気揚々と自慢のボスを紹介するドレッド男に、シュラの表情は曇る一方だ。
「え。うそ、え、ジオッ……本物!? やだ、…………やだぁ、ちょ、待っててください」
 意味のないうめき声を数発上げたメッディは、目の前に立つシュラの顔を見上げると若干頬を染め、すぐさま前髪を整えワンピースの裾を直し始める。
 そんなバディに見向きもせず、久我はジョーイを押しのけるようにシュラへと詰め寄っていた。
「あいつともう何日も連絡取れねぇんだ! なぁ、あいつ大丈夫なのか!? あんたならどうなってんのか説明できるんだろ!?」
「…………」
 しかしシュラは困ったように片目を閉じ黙したままだ。
「なんか、あったのか? 先生っ。あったんだよな!? あいつ、無事なのか? なり」
 言いかけた久我の口をシュラの手が咄嗟に抑え込む。バチンと激しくたたきつけるように塞がれた久我の口は思い切り歪み、それを気にもしないシュラは
「ちょっとこっちこい、バカ」
 一言そう叱責すると口を押えたまま頭を抱えるようにして久我を引きずり、エレベーターホールの先にある非常口から外へ突き出していた。
 金属を踏む鈍い音がガンガンと辺りにこだまする。
 乾いた凍風が下から吹き上げ、足元を見れば遥か眼下に緑の森、そしてそこを走る細いリボンのような道と駐車場に止まる豆粒のような車が見える。それらの景色がひと塊となり、ここが三十階を超える高層階だと改めて久我に教えていた。
 近代的なビルには似つかわしくない剥き出しの鉄骨で作られた階段の踊り場で、数週間ぶりに師匠と弟子は向き合うこととなる。
「なに口にする気だった、アホ。あいつの名をここで出すなんざ、あいつを殺しに掛かっているようなもんだ。わかってんのか!?」
「……っ、すい、ません」
 そういったまま久我は黙り込んだ。
 確かに思わず「成坂は――」と亮の名を出しかけてしまったのは完全なる久我の落ち度だ。
 IICRにおいて、いや、ソムニアの世界において「8番目のゲボ トオル・ナリサカは昨年異界事故により消滅した」ということになっている。それを亮にとって敵だらけとも言うべきこの場所で、名を出して生存を示すかのような会話をしたとあっては、シュラの言う通り妙な勘ぐりを入れる連中が出てきてもおかしくはないのだ。
 頭に血の上った自分の言動を止めてくれた師匠に久我は真摯に頭を垂れる他ない。
 そんな殊勝な弟子の態度に一つ息をつくと、シュラは自分より少し低い少年の頭を無造作にガシガシと掻き混ぜる。
「おまえが心配するのはよくわかる。だが、俺にもあいつは無事だと言ってやることしかできねぇ。悪いがこれ以上この話に首を突っ込むな」
 しかしシュラの答えは完全なる拒絶だ。
 亮の保護者であるシド・クライヴのみならず、自分の武術の師匠であるシュラにまで頑なな態度を取られれば、反省もつかの間、若い久我はあっという間に再び頭のてっぺんまで血を登らせてしまう。
「…………んだよ。俺は友達の心配もできないんすか」
 下を向いたままの久我は強風に消え入りそうな声でそうつぶやく。
 シュラの目に、ぐっと握りしめられたまま震える久我の拳が映っていた。
「東京にいる妹に散々文句言われながら、……見に行ってもらったんすよ。……あいつがずっと世話になってた事務所、なくなってました」
「…………。」
「そんで除名されたはずのヴェルミリオが復帰してる。部外者の俺にだってわかる。これはただ事じゃねぇんだって。心配するなってのが無理な相談なんすよ。……お願いです。誰にも言わないんで、教えてください! あいつは今どこでどうしてるんですか!? ヴェルミリオに聞いても何も答えてくれねーし、もう俺はあんたに聞くしか」
 悲愴な顔で見上げる久我の顔にシュラが苦く目を閉じたときだった。
 久我の言葉が終わる前に背後の鉄扉が開き、振り返った瞬間肩をつかまれ背後に引き寄せられていた。
「うちの局員が邪魔をした」
 強引に扉のほうへと押しやられた久我の前で、現れた朱い髪の長身は静かな口調でシュラにそう謝罪する。
 感情のまるで感じられないその声に久我は何か言ってやろうと思ったが、自分に向けられた冷えた眼差しに出かけていた声が喉の奥で止まってしまう。
 これ以上何か言えばその場で切り捨てられてしまうのでは――という確信めいた呪縛が久我の体を縛り上げる。
 琥珀の瞳は古来よりこの地方で『狼の目』と呼ばれていると聞くが、この男の目はまさにそんな人ならざるものの光を放っていた。
「貴之。おまえは出てろ。おまえももう次の現場に行く時間だろう」
 そう言ったシュラの声も聞いたことのないほどに固い。
 さっきまで久我に相対していた時のものとは明らかに質が違う。
 それでも動こうとしない久我の目を、シュラがじっと見る。
「貴之」
 もう一度静かに名を呼ばれ、久我は大人たちの何か逼迫した気配を感じざるを得なかった。
 唇をかみしめ無言でそこを後にするしか、もう彼にできることはない。
 自分がこれほど無力で何をも成し遂げられない存在だということを痛切に突きつけられ、久我は自ら鉄扉を開けてホールへと戻っていく。
 大げさなほど大きな金属音を上げて久我の背後で扉が閉まった。

 後ろ手に扉を閉め顔を上げると、そこにはキラキラした目でこちらを眺めるバディと、同じように興味津々に瞳を輝かせたドレッド男が仲良く首を並べて立っていた。
「……言っとくが俺には話すことなんもねーからな」
「なんでよなんでよ、あんた何者なのよ、聞きたいこと山ほどあるわよ!」
「おい、小僧。おまえホントにジオットの弟子なのか!? ソムニアにとって弟子なんて言えば、身内も同然の存在だぜ? あのめんどくさがりがそんな面倒なもん引き受けるとは思えねぇんだが、どんな手使ったんだよ」
 二人の矢継ぎ早の質問をまるっと無視し、久我は歩き出しざまメッディの腕を取りエレベーターのボタンを連打する。
 まるで久我のせっつきに応えたかのように口を開けたエレベーターに乗り込むと、あっけにとられた顔でこちらを眺めるジョーイを残して扉を閉じた。
 チカチカと瞬く高速エレベーターの階数表示を見上げながら、久我はおもむろに口を開く。
「メッディ、あんたさ、セb……」
 言いかけて言葉を止めた久我は間髪開けず言い直す。
「IICRの敷地内がどういう配置になってるか詳しいか?」
「は? 何よいきなり。どっか使いたい施設でもあんの?」
「まぁ、ちょっと。で、どうなんだよ」
「念のため本部のインフォメからガメといたけど。はい、コレ」
 そう言うとメッディは肩から掛けた小さなショルダーバッグからジャバラ折りのカラフルな紙切れを取り出し、久我の頭に乗せていた。
 それを喰い気味に開いてみた久我はすぐに露骨にテンションを下げ、モノ言いたげに現在の相方を眺める。
「んだよこれ、本部と図書館棟と医療棟しか載ってねぇじゃねーか」
 思いの外大きなその印刷物は、IICR敷地内の見取り図とその解説が謎のキャラクターによるイラスト付きで描かれたモノだ。
 裏返してみればそちらにはIICRの成り立ちや歴史などが簡単に紹介されていて、完全にどこかの観光地の無料パンフレットそのものだ。
「外部からの客用なんだからそんなもんでしょ。後は私たちが最初にここに来たときもらった交換出向のしおりにもう少し詳細なのがついてたと思うけど、あっちは載ってる範囲が狭いはずよ」
 言われてもう一度地図を眺めてみると、確かに自分も持っているしおりの案内図よりも全体の枠組みが大きく描かれているようだ。主要な建造物以外は全てシルエットのみ、もしくは犬だかきつねだかがモチーフになったデザイン的な動物が被っていて見えないかのどちらかだが、IICR敷地内がとりあえず全て描かれているらしい。
 これとしおりの案内図を重ね合わせ検証してみれば、少しは役に立ちそうな気がする。
「サンキュー、使ってみるわ」
「はい、5ユーロ」
 笑顔で右手の平を突き出してくるメッディ。
「は!? これインフォメの無料パンフだろっ!?」
「嫌なら自分でもらってきなさいよ。本館玄関脇のインフォメーションまでここから歩くと三十分はかかるけど」
「…………っ」
 無言で尻ポケットから財布を取り出し札を一枚相方に押しつける。
「はい、まいど」
 メッディはパンフ登場キャラクターにそっくりな胡散臭い笑顔で手にした5ユーロをいそいそと鞄にしまい込むと、同じ笑顔のままじろじろと無遠慮に久我の顔を眺め倒した。
 どうやら久我がどこに行こうとしているのか、気になって仕方がないらしい。
「あんたの目的には興味ないけど、ほどほどにしとかないと拘束されて大変な事態になるから気をつけなよ? あんたのせいで今後のSPCからの出向枠がなくなりでもしたら内臓売っても払いきれない賠償金取り立てられるわよ?」
 笑顔のまま言うメッディだが、その目は笑っていない。
 ぎろりと向けられた蒼い瞳には「余計な真似をするな」という光がありありと浮かんでいた。
 久我は肩をすくめ「わかってるさ」と言い置く。
 だが、わかっていても久我には行かなくてはならない場所があるのだ。
 今見た地図で完全にゆるキャラへ隠されていた辺り──、あの丸秘地帯に久我が目指す場所がありそうな気がする。
 次の作戦が終わるのがリアルタイムで2時間後くらいだろうか。
 無事に戻れたら一時間ほどの休憩は取れるはずだ。
 このダイブ用別館には本館へ移動するための自転車やバイクなどが一階駐車場脇に設置されていたことを思い出し、あれをフル活用しようと決める。
「……一段落したら色々教えなさいよ? 私たちバディなんだからねっ」
 そばかすだらけの女子はピンク色のリップを光らせた唇をちょっと尖らせて、不機嫌そうに腕組みをする。
 今ここで事情を聞かないでいてくれるのはありがたいが、おそらくそれも彼女なりの打算があってのことだろうと瞬時に理解する久我は、彼女に負けず劣らずの胡散臭い笑顔で「わかってるさ」と嘯く。
 エレベーターは目的の階に到着したらしく重力を感じさせない滑らかさで停止し、音もさせずに静かに扉を開けていた。