■ 5-2 ■


 薄汚れたような白い廊下を亮は歩いていた。
 点々と並んだ薄暗い蛍光灯はビニールコーティングの床に灰色の光を反射させ、サンドカラーの壁を滲んだように照らし出している。
 暑くも寒くもないが、なぜかむっと湿度が高い気がした。
 何人かの人間が亮の横を通り過ぎていく。
 骨と皮ばかりの身体に浴衣をまとった老人は、キコキコと軋むスタンドに点滴をぶら下げたままおぼつかない足取りで進んでいく。それを見送る看護師は、ナースカートに積まれた道具を確認しながら無表情のまま次の部屋の扉を開けていた。
 消毒の匂いがずっと鼻の奥を刺激し、脳みそまで匂いが染みついてしまいそうだと亮は嫌な気分になる。
 それでもきょろきょろ周囲を伺いながら、何かを察するとぱっと手近な自動販売機の影に身を寄せてみる。
 亮とすれ違う誰も亮のそんな様子を気にとめていないようだが、亮は何かを恐れるように隠密行動遂行中だ。
(このセラであってるはず──なんだけどな。広すぎてあいつらがどこにいるのかまったくわかんね)
 ColeColaの真っ赤な自販機に背を預けつつ亮は溜息混じりに天井を仰ぎ見る。
 かれこれ入獄して三時間は経とうとしているが、亮は目当ての人物のどちらにもまだ遭遇することができていない。それどころか、三時間ほぼ歩きっぱなしだというのに一度として同じ場所を通過していないのだ。現に今歩いてきた廊下は、最初の角を曲がってから6キロメートルは優に超えている。途中途中にある廊下のクロスポイントも、T字、四つ辻だけでなく、六つ辻、八つ辻と常軌を逸した複雑な構造で、迷わないようになるべくまっすぐ来たつもりだったが、それでも現在の位置がどの辺なのか、果たしてここからすぐにセラを離脱できるのか──なにもかも皆目見当がつかず、さすがの亮も勢い任せにやってきたことに若干後悔し始めていた。
 最近シドが潜っているこのセラがけっこうな曲者だと言うことはその潜っている時間数から亮にも推察できる。セラの種類によっては入獄しただけでダメージを受けたり、容易に引き返すことができなかったりと、洒落ではすまない事態になることを亮自身何度か体験しよく知ってはいる。
 だが今回、一週間悶々としたあげく、ついに亮はこの隠密行動を決行してしまった。その手前、
(ぜってぇこれは使えねぇし)
 背中に背負った水色のメッセンジャーバッグの中には、入獄時に持ち歩いているセラ用携帯電話と非常食のお茶やおかしがいくつか入っている。
 いざとなれば同じセラ内にいるのであれば──だが、これでシドの携帯へ連絡を入れることは可能だ。
 しかしぶんぶんと首を振るとバッグからチョコキャラメルを取り出し、ぱくりと口の中へ放り込んだ。
「ちょっと廊下が長いからなんだ! 今日こそキースさんが事務所に来た理由突き止めるんだろっ」
 固いキャラメルを奥歯でガチリと噛めば香ばしいチョコの匂いと甘いキャラメルの味がじんわり広がった。
 めいっていた気分が軽くなり、少し、元気になった気がする。
 右手の親指にはめられた銀の大きな指輪を触れば、ちゃんと武器がそこにあることも確認出来る。
 やってやる──と決意新たに拳を握りしめる。
 一週間前、シドの昔の部下であったというキース・ロイドが事務所を訪れた。何をしに来たのかと後から亮はシドや秋人に聞いてみたのだが、二人とも口をそろえて「日本を離れるから挨拶に来ただけだ」と言う。
 その理由に何ら不思議なところはないし、キースはシドのことをなんだかんだ言いながら慕っているようだし、そうなんだと納得するのに問題はない答えなのだが──亮はなぜかその日以来心にもやもやと引っかかりを感じ続けている。
 秋人はあれからなんだか考え込むことが増えたような気がする。
 シドはあれからずっと機嫌が悪い。
 そんなことはよくあることだと片付けてしまえれば良いのだが、どうにも収まらず、本当のことを言えとシドや秋人に何度もぶつけてみたのだが、シドには「くだらん」と相手にもしてもらえず、秋人には「これ以上何を言えっての」と苦笑いされる始末。
 亮の口数もどんどん減り、壬沙子不在の事務所はなんだか最近空気が悪い。
 そんなことが続いての昨日──。
 亮が事務所の隅っこで秋人に頼まれた不要書類のシュレッダー掛けに勤しんでいるときのことだ。
 いつもと同じようにパソコン前でシドのサポートをしていた秋人が言ったのだ。
「はっ!? あの人また来てんの? まったく……」
 サポート中に何かあると大っぴらに独り言を披露し、文句を言いまくる秋人の癖。いつものように最初の出だしは大きな声だった。だが、その後に続く声は次第にボリュームが絞られ、最後は亮にも聞き取れないほどになってしまった。
 亮はあえて秋人の方を見ず、何も気づかない振りをしてもくもくとシュレッダーに書類をつっこみ続けた。気配で秋人がこちらを伺っているのがわかったからだ。
 亮が変わらぬ様子で不機嫌そうに仕事をしているのを確認した秋人はどうやら安心したらしく、ホッと息をつき傍らのコーヒーに手を伸ばしていた。
 だが、亮はこの一連の秋人の言動である結論に行き着く。
 どうやら今仕事でシドが潜っているセラに、秋人の歓迎しない誰かがたびたびやってきているらしい。
 それは何者か──。亮の脳裏に閃くのはあのいたずらっ子然としたそばかすの幼児の顔だ。
 キースはあれ以来事務所の方へ顔は出していない。だが、セラでシドに接触しているのではないだろうか。
 ならば──。と亮は思ったのだ。
 ならば直接キースにあって何をしに来たのか、シドや秋人に何を言ったのか聞いてやろうと亮は思った。
 後は作戦実行あるのみだった。
 シドが今潜っているセラの座標を調べるため、朝、学校に行く前に朝練するという名目でシールドルームに入った。
 亮がいつも使っている部屋は、メインシールドルームの隣にある元物置だった小部屋だ。だが、そこへ入る前にいつもシドが使っているメインルームへ足を踏み入れる。
 中央にはシールドカーテンで覆われた少し大きめのベッド。傍らには正規品へ秋人が何やら細工を施した、見た目には手作り感のぬぐえない大きな銀色のボックス型入獄システム。
 奥にシャワールームを要したその部屋は、広くはないが置いてあるものが簡素なためとても空間がゆったりして見える。
 亮は手慣れた調子で入獄システムのスイッチを入れると、座標履歴を確認した。
 何種類もの座標が表示されるが、ここ数日続けざまに潜っているセラは一つだけだ。
 学校用の鞄から数学のノートを広げると、長い座標を書き写す。
 木を隠すなら森の中。数字を隠すなら数学のノートだ。
 間違えがないか何度も復唱して読み直し納得した後、履歴閲覧画面を消して、念入りに証拠隠滅を図ってから電源を落とす。
 誰が見ているわけでもないのにきょろきょろと辺りを見回した亮は子ネズミのごとくちょろりと部屋を出て、当たり前のようにいつもの自分のサブルームへ飛び込み、訓練用セラへ向かったのだった。
 そんなわけで学校とバイトが終わり、いつものように訓練セラへ潜る時間を使って、亮は朝メモした座標セラへ入獄を果たしたというわけである。
 もちろん、秋人には何のことわりもしていない。勝手に端末側から座標を入力し、単独潜行で出発したのだ。
 亮の場合訓練用のセラか、シュラの私的セラ潜行くらいにしかシステムを使わないため、基本サポートを必要としない。そのため秋人は通常、亮端末へ窓を切り替えることはまずやらない。
 諸々の事情により、亮は計画通りシドが潜っている同じ時刻、同じセラへ入獄を果たすことに成功していた。
 キースを見つける前にシドに見つかることだけは避けねばならない。
 もしシドとキースが一緒にいた場合どうしようかという問題は、この際考えないことにしている。
 とにかく前進あるのみだ。
「……けどこんなに広いのは計算外だったよなぁ。秋人さんに聞いてたのは病院関係のセラだってこととソラスがヤバイってことだけで、まさか病院セラでこんな広いとか思わねーもん」
 チョコキャラメルで若干元気は出たが、このまま闇雲に前進しても目当ての人物に遭遇できる確率は低そうであるという考えに至る。
 自販機にもたれ背中にモーターの振動を感じながら、亮は腕組みをし、必死にない知恵を絞り出す。

 1:シドは多分病院に依頼されて、この不気味なセラのソラスを退治に来ているに違いない。
 2:じゃあソラスを探せばシドの居るところに行き着いて、シドを探してるキースさんにも会えるだろう。
 3:ここのソラスはヤバイらしい。つまり、このセラで一番恐い人がソラスだ。
 4:ここで一番恐い人を探そう!

 ピコーン!と頭の上に電球が光り、起承転結、四段階の綿密な考察により亮の今後の方針が決定された。
 そうとなれば早速とばかり、亮は自販機影から飛び出して、尿瓶を片手に廊下を歩いている准看護師のおばさんに声を掛けてみる。
「ここで一番恐い人んとこに行きたいんだけど──」
 と単刀直入に聞いてみれば、一瞬怪訝そうな顔をしたパーマ頭のおばさんは、
「院長先生なら回診中だよ」
 と答えてくれる。
 どうやらここで一番恐いのは院長らしい。
「どんな人? どこに行ったら会える?」
「まだ若いいい男だよ。白い作務衣を着ててちょっと変わっちゃいるが、腕は確かだ。会いたいならあんた、入院しないとダメだね」
 尿瓶をまるでワイングラスのように回しながら、准看護師はうっとりと目を細めた。
 その様子に「うぇっ」と一歩後ずさりつつ、亮は聞き込み調査を続ける。
「入院──かぁ。オレどこも悪くないし、それ以外じゃ会えないの?」
「どこも悪くないなら悪くすりゃいいさ。ほら。死にかけじいさんのこれでも飲みゃどっか悪くなんだろ」
 准看護師は化粧っけのない顔をにんまりと歪め、手にしたガラス製のそれを亮へぐっと突き出してみせる。
 中でやけに黄色い水が泡だってたっぷりと波打っていた。
「パインジュースだと思って一気にいきな。病気になればすぐにでも院長に会えるさ。ほら、遠慮はいらないよ」
「ひっ……、い、いや、それは……オレ間に合ってるわ……。あ、あんがと。さよなら」
 亮は両手を前に突き出し思いっきりノーサンキューのポーズを取ると、じりじり下がり、そのままくるりと背を向けると廊下を走り出していた。
 背後から「廊下は走っちゃダメだよっ!」というおばさんの声が聞こえたが、とても歩きに切り替える気にはなれない。
 当分パインジュースは飲めないな……と、亮はすがるようにチョコキャラメルを噛みしめる。
 ちらりと後ろを振り返ってみれば、走っちゃダメと言っていた本人が魔の黄色いガラス瓶を捧げ持ったまま凄い形相でこちらへ駆け寄ってきているのが伺える。
「ふぐっ」
 思わず変な声を出してしまった亮はギアをいきなりトップにまで切り替え、足下から煙りでもあがりそうな勢いで走り出していた。
「こら、待ちな!」
 待てと言われて待つヤツなんているかと心の中で叫びつつ、亮はソムニアの運動能力全開で廊下を駆け抜け、前方の八辻を思うに任せ適当な角度で折れ曲がる。
 揺れる前方に扉が迫る。
 どうやらこの廊下は外につながっているらしい。
 鍵がかかっていないことを祈りつつ、亮は思いっきりドアを蹴開けていた。
 バン──と軽い音がし、亮は湿った草の上に転がり出る。
 外は夜。
 青白い月が大きく、頭上に輝いていた。
 むっと草いきれの青い匂いが鼻をつき、立ち上がった亮は鼻の頭をシャツの袖でこすった。濡れているのはさっき転がったとき夜露が染みたせいだろう。
 ドアを思い切りよく締めると聞き耳を立て、扉向こうから物音がしないのを確認して息をつく。
 セラの住人ってのはつくづく恐ろしい生き物だと亮は思った。
「あれ多分、マジで良かれと思って言ってんだもんなぁ……」
 どっと疲れを感じつつ辺りを見回せば、そこは中庭のようだった。
 野球でもできそうな広さがあるが確かに向こう側にも病院の明かりが見て取れ、この空間をぐるりと囲むように建物が建っているということがわかる。
 暑くはなかったが湿度が異様に高かった病院内に比べ、そこは少しばかりましなようだった。多分風が吹いているせいだろうと思いつつ、亮は歩き出す。
 少し背の伸びた芝生が亮のスニーカーを濡らしていく。
 前方には大きな池があり、周囲では緑の葉を生い茂らせた木々がいたるところでざわざわと揺れていた。
 人は、居ない。
 今このセラは夜なのだ。
 ここが病院である以上、夜間は入院患者も建物の外にはあまりでないものらしい。
「う〜ん、さしあたってどうしよう。入院っつってもなぁ……」
 さっき准看護師のおばさんから聞いた情報を思い返してみるが、院長がソラスかも知れないという見当はついたが、彼に会う方法については参考になりそうもない。
 第一、本人に直接会うのは危険としか言いようがないではないか。
 影からこっそり伺うのが理想の形態であり、ソラス本人と話して入院するだとか、このセラに関して言えばおそらく自分から死にに行くようなものだ。
 ソラス――それは大きなセラには必ず現れるというセラ内の成分を凝縮して現れた生命体のことだ。
 多くの場合ソラスは属する人々の思考・アルマから生まれ出でるため、ソラス自身も人の形態を取っている。
 そこに属する人々の数が多ければ多いほど、妄執が強ければ強いほど、ソラスは強靱になり人外の能力すら身につけていく。
 いわば人の形を取ったセラの結晶のようなものであり、そのセラの王と言っても過言ではない。
 逆に言えばそのセラを変えたいと思う場合、そのセラのソラスを消してしまうことは大きな変革となり得る。
 企業セラなどの浄化を頼まれた時などは、真っ先にソラスを狩り取り、セラの根底を変えてしまうことが常套手段だということは、ただのバイトである亮でも知っていることだ。
 だから亮はシドを捜すキースを捜すべく、ソラスを捜そうと思ったわけであるが、この作戦もあまりうまいとは言えないような気がしてきた。
 困った──とばかり腕組みをし立ち止まると深い溜息が口をつく。
 一度出直そうかと考えてみる。
 帰って実際にシドなり秋人なりからもっと具体的な情報をゲットした後、再び作戦決行するのも手かも知れない。
 よし。と決意してみるが、さっきの悪夢を思い返してみると今来た道を戻るのは若干ためらわれるところだ。
「どうした、少年。どこか具合でも悪いのかな?」
 不意にそう声がかかった。
 誰もいないと思っていただけに、ぎくりと身体が固まり、亮は声のした方へ目をこらす。
 街灯もない中庭は夕闇に沈んでいたが、頭上から降り注ぐ月の光でそのシルエットだけはくっきりと浮かび上がっていた。
 亮の頭の中心で何かがチカリと光った。
 この感じを亮は知っている。
 ここは危険だという本能。その信号。
 ソムニアになって二年弱。危険な相手に何度か直面し、亮の身体が覚えた新しい感覚だ。
 伸びた芝生の上を、じりじりとスニーカーが後ずさっていく。
「いや、別に、平気です」
 そう答えてみる。
 相手を刺激しないように当たり前の調子で返したつもりだが、やはり声に緊張感が残ってしまうのは否めない。
 相手がソラスなら、自分がソムニアだと気づかれればきっと危険だ。
 住人の一人であると思ってくれればいいと、それらしい受け答えを考えてみる。
「オレはお見舞いに来ただけだし」
 相手は亮をどう見ているのか、特に警戒する様子も見せずスタスタと近づいてくる。
 どこから現れたのかはわからなかったが、気づいたとき数メートル離れていた距離は一気に縮まり、今はもうその顔がこの暗がりでも見えるくらいの位置だ。
 一気に跳び退り距離を取ろうか、それとも刺激しないように演技を続けようか、方針が定まらないまま迷っている内の出来事だった。
 しまった――とは思ったが、もう覚悟を決めるほかない。このまま相手を刺激しないようやり過ごしながら、相手を観察する。――それしか手は残されていない。
 大きな男だった。
 身長はシュラくらいはあるかもしれない。
 着ているのは白い服だ。だが医者が着る白衣とは違い、あまり見たことのない──着物とは違うがズボンのついた和服のような格好をしている。
 短い髪はすっきりと刈られていて、つんつんと立ち上がっていた。
「ほう。それは感心だ。だがもうこの時間、見舞客は帰らねばならないよ?」
「……あ、あんただってお見舞いだろ? 帰らなくていいのかよ」
「ははは。僕はここの医師だからね。……そうは見えないかい?」
 とても医者には見えないと亮は思った。
 年齢こそ三十半ばくらいだが、医者と言うよりは何かのスポーツ選手のようだ。
 まくり上げられた袖の下からのぞく腕は、少し動かしただけで筋肉のうねりが分かる。
「医者っていうより、空手とかの先生みてぇ」
「ふ〜ん、まぁ、よく言われるよ。僕もなぜ自分がこんな姿なのかよくわからないんだが──ここに集まる患者さんやドクターたちはこういう腹に裏表のないサワヤカタイプのリーダーを求めているのかも知れないね」
 肩をすくめて笑ってみせる男の歯が、白く月の光に照らされていた。
 亮の心臓がドキリと鳴る。
 冷や汗が背中を滝のように流れ落ち始めた。
 なぜこの男は自分にこんな話をするのか。
 これではまるで男は自身がソラスであることを白状し、さらに亮がそれを理解できる人間であるとわかっているようではないか。
 間違いない。
 准看護師が言っていた『院長』とは彼のことだ。
 そして院長は亮が予想していたとおり人間ではない。ソラスなのだ。
 思うより早く亮の身体が反応していた。
 瞬間的に右手にはめられたリングをこすり、瞬きする間に現れた若草色の棍を回転させる。
 疾風のごとく薙ぎ払われたそれを、男は右手を上げることでがっつりと受け止める。
 そのまま引こうとする棍を男は左手で掴み、ぐいっとばかり引き寄せる。
「っ──」
 その力を利用し亮は地面を蹴り上げていた。
 男の頭上に虹を描くようにくるりと宙を舞う。
 上から男の顔を見下ろせば、相手もこちらを見上げていた。
 口元こそ楽しげに笑っていたが、その目が赤黒く光っている。
 ──恐い! と、亮はそう思った。
 それは男が恐いということではない。
 『死ぬ』ということが恐いのだ。
 相手の背中側に降り立ち、勢い走り出す。
 ソムニアの運動能力を駆使し、大地を蹴り池へ向かって駆けていく。──つもりだった。
 だが、足が思うように動かない。
 夢の中でお化けに追われ、焦れば焦るほど前へ進まないあの感覚とよく似ている。
 死んだら消えるという恐怖。
 何もかもなかったことになるという怯え。
 それが蔦のように亮の足にからみつき、あらゆる動きを鈍くさせる。
 呼吸が速くなる。
 息もできない。
 ──こんなの、おかしい、と亮は思った。
 自分はソムニアであり、死んだら何もなくなるわけではない。
 まだ一度も転生したことはないが、多分死んでもまたこの世に同じ意識を持って生まれてくることができるのだ。
 だからたとえ死を意識しても、こんな風に呼吸すらできなくなる恐怖にとらわれることなどないはずだ。
 だが亮の『恐怖』は止まらない。
 自分が死んだ後の世界。
 大好きだった人たちは自分の死を悲しみ、そして忘れていく。
 自分が居なくても動いていく世界。
 自分は『成坂亮』ではなく、『成坂亮の想い出』に変換されるのだ。
 そしてそれすらいつしか薄れ──。
 シドは別の誰かを弟子に取り、修司は別の誰かの面倒を見て、秋人は別の誰かを雇い、壬沙子は別の誰かにココアを入れる。
 シュラは別の誰かの相談を聞いて、久我は別の誰かを相棒に選んで、俊紀は別の誰かと笑いあう。
 亮の居た場所は『別の誰か』に食い荒らされてどこにもなくなってしまう。
「──っ」
 走り出そうと踏み出した足が力なく崩れた。
 過呼吸で動かない身体をそれでも動かすべく、手にした棍も放り出し四つんばいのまま芝生の上に腕を出し這っていく。
「おかしい……、こんなの、おかしい……」
 吐きそうになるほどの恐怖を振り払おうと何度も首を振り、自分に言い聞かせる。
 だがそうすればするほど亮の胸の穴は大きくなり、虚無の風が吹き抜けていく。
「おかしくはないさ。ソムニアだって消えることはある。寂静っていうんだっけ? 死なない人間なんていないよ」
 亮の前にビーサンをからげた気安い足が立っていた。
 見上げれば優しい笑みを浮かべた男がゆっくりと腰を落とし、亮の頭を柔らかに撫でる。
 慈愛に満ちたその指先に、亮は涙が溢れてくるのを抑えられなかった。
 止めどなく溢れる涙は亮の細い首筋を伝い、制服の白いシャツを濡らしていく。
「恐いだろ? 死ぬのは恐くてたまらないだろ? だったら死ななければいい。キミも僕になればいい。僕は死なない。この世界がある限り。この世界に人間が居る限り僕の代わりは現れず、僕は死ぬことがない。だから安心していいんだ」
 とても魅力的な申し出に思えた。
 自分もソラスになれば、死なずにすむ。
 ずっと世界に必要とされ、居場所は永遠だ。
「……オレは……」
「キミは何しにここに来たの? あのしつこい男の友人かい? 今日は僕の勝ちだったんだ。今頃彼は元の世界に帰るために四苦八苦してるはずさ。タイミング悪かったね」
 シドの話をしているというのは理解できた。
 しかしあのシドと対等にやりあうソラスが居るだなんて、亮には信じられない。
 もしこいつの言っていることが本当なら、最初から亮などこのソラスの敵にもならないということだ。
「うそ、だ。シド、は、強いから、負けねぇ……もん」
「ふふ……泣きじゃくりながら言われると虐めてるみたいで溜まらないな。……確かにあの男は強いよ。でも僕はこの世界の王様だ。ここでは僕が全てを決められる。キミの心の中までも、ね」
「…………」
「さて、どうしようかな。もしかしたらキミは僕の切り札になってくれる? このまま僕と同化させてあげてもいいんだけど、それだとあの男の抑止にならないか」
 耳に男の声は届いている。
「そろそろ面倒なんだよね、彼。殺すなり消すなりなんとかしなきゃと思ってたところなんだ」
 だが今やそれは上っ滑りで意味をなす言葉として入ってこない。
 死に対する恐怖と圧倒的な虚無感が今亮の感じる全てであり、思考力を根こそぎ奪ってしまっていた。
 だがそれでも亮は男の口から出た言葉を、何度も何度も頭の中で反復させる。
 それによって一度では理解できなかった言葉の意味が、じんわりと感覚的に亮の脳内に染み込んでくる。
 どうやらこのソラスは、自分を使ってシドを『殺す』つもりらしい。
 殺す、ということは、シドが居なくなる、ということだ。
 自分が死ぬのと同じように、シドがシドの想い出に変わり、消えていってしまうということだ。
 想い出は返事をしない。想い出は触れない。想い出は想い出であり、もうシドその人じゃない。
「キミは……なかなか可愛いな。僕にはそういう癖はないと思っていたんだけど、あの男とやり合うまでの間、こうしてずっと泣かしてしまいそうだ」
 男の手が亮の頬に触れ、涙をぬぐうように親指が滑っていく。
 そんな優しい動きの指先からもドクドクと恐怖が流入し、亮は狂いそうな怯えに叫び声を上げていた。
 男の楽しげな笑い声が爽やかに響く。
 四つんばいのまま丸くなり、亮は芝生に額を擦りつけていた。
「少しの間、入院しようか、キミ。大丈夫、主治医は院長である僕だ。僕が治療すれば何も恐いことはなくなる」
 ガタガタと震える背を、男の分厚い手が優しく撫でる。
「手続きに行こう。ほら──もう、恐くないだろ?」
 男が背を撫でるたびに、あれだけ亮の心を苛んでいた怯えの感覚が薄らいでいく。
 代わりに亮の胸を満たすのは圧倒的な信頼感と暖かさだ。
「名前はなんて言うのかな?」
「……とお、る。……、成坂、亮」
「そう、亮くん。僕はキミの主治医になる──」
 男がそう言いかけたときだ。
 亮を中心に円を描き、天高く吹き上がるのは眩いばかりの輝く泥濘。
「っ!?」
 男は瞬時に芝を蹴り背後へ跳ぶ。
 熱風が闇夜を切り裂き、芝を、木々を、池を、空を、真紅に染め上げていく。
 何が起きたのかわからず男は顔をかばった腕の隙間からどろりとした極熱の柱を見上げていた。
 まるで突然中庭から噴火が始まったかのような光景に、男は息をのむ。
 飛び散った赤い滴が散らばった先で、ジュッと音を立て次々と芝に穴が開いていく。
 あれだけ夜露に濡れていた大地は瞬く間に乾き、飛沫の先で炎の柱が上がり始める。
 緑が強引に焼ける匂いが青臭く周囲に漂っていた。
 うずくまっていた少年は赤く輝く壁に隠れすでに姿が見えない。
 代わりに中空に現れたのは──ゴツゴツとした巨大な鱗鎧をまとった一匹の竜。
 二十メートルを優に超える巨体を持つそれは、蛇のごとくとぐろを巻き、大きな目玉でぎろりと男を見下ろしている。
『おまえはダメだ。そうコレは言っている。だからおまえは熔けたらいい』
 音として耳には届かない。だが脳をふるわせる震動としてその声は男にはっきりと届いていた。
 事態は深刻だとソラスは悟った。
 どうやら彼は起こしてはいけないものを起こしてしまったらしい。
 延焼はますます広がり、辺りは一面火の海になりつつあった。
 彼の病院もその舌先にさらされ、ちろちろと舐め回され始めている。
 ──どうする、こいつに自分の能力が効くのか、と、男が対策を考え始めたその時。
 竜はカッと大きく口を開いていた。
 それが、彼が見た最後の光景だった。
 吐き出された輝く泥濘の塊は、男の頭上に落ち、そのまま地面に落下する。
 声を上げるまもなく、煙すら出さないで、男は頭から綺麗に順を追って足先まで──ぺしゃりと熔け泥濘の一部となっていた。
 本当に一瞬の出来事だった。

 同時に世界が鳴動を始める。
 このセラのソラスが消えたのだ。セラの再編が起ころうとしていた。
 ソラスが消えればいったん世界は崩壊し、再構築される。
 今夜ここを訪れている人々は強制的にリアルへ引き戻されることになる。
 炎にまかれ、鳴動し、何もかもが消えようとするその世界で――
 だが、竜はそれでもその場から立ち去ろうとはしない。
 今度は自らが現れた泥濘の柱の中心を見下ろし、ちろりと舌なめずりをする。
 そこには一人の少年が居た。
 うずくまっていた少年はいつしか身体を起こし、竜のことを呆然と見上げていた。
 自分が彼をここに呼び出した意識すらないようだった。
 ただ力なく投げ出された彼の右手首には痛々しい噛み痕があり、世にも美味そうな赤い血潮がしたたり落ちているのが分かる。
 竜はあれに惹かれてこの世界へやってきたのだ。
 どんな強力な召還者かと思えば、未だ年端もいかない子供がそこにおり、彼はとても美味そうで、そして正気を失っている。
 どうやら竜はとても大きな幸運を手にしたらしい。
『子供よ。おまえの望みを我は果たした。次は我の望みをおまえが果たす番だ』
 真紅の泥濘の輪が徐々に狭まっていく。
 竜は頭からそこへ舞い降り、中心にいる少年を溶かさぬよう細心の注意を払いながら彼を巻き締めていく。
 竜の全身が歓喜に震えていた。
 早くこれを持ち帰って、ゆっくり楽しもうと考える。
 長い時間をかけ、じっくり、何度となく、だ。
 亮と竜を飲み込んだ溶岩の輪は細く細くなり、やがて糸のようになって、この世界から消えていく。
 残されたのは炎に巻かれた芝と木々。それだけ。
 亮の姿はセラからも──同時にリアルにあるシールドルームからも消え失せていた。








 だが──。

 炎で揺らぐ中庭に、いつの間にか一人の男が立っていた。
 黒の長衣を纏い、黒鞘の長刀を腰に帯び、長い黒髪を後ろで一つに結わえた男だ。
 年の頃は三十半ばほどだろうか。背はあのソラスほどはなく、線も細く見える。
 だが着物に包まれたその肢体は決して華奢ではない。
 男は無造作に左腕を前方へ伸ばすと、未だ輝きの尾を引いている『糸』の在った場所へ指先を差し入れていた。
 そう、まさに『入れて』いたのだ。
 その証拠に、糸の残像から向こう、男の手は消え失せている。
 袖からのぞく男の白い腕はしなやかな筋肉を有し、見えない手先で何かを捕まえる仕草をすると、優美な影をその筋に刻む。
 気合いも、声も出さないまま、ゆるゆると男が腕をそこから引き出せば、その手先に捕まれていたのは──あの真紅の竜──。
 二十メートルを超える巨体を、まるで発泡スチロールの置物でも相手にするかの如く男はなんなく片腕で引きずり出していく。
『ふおおぉぉぉぉぉっ、なんだ、何やつだ! 我をこのように呼び戻す不埒な輩はああああああああああっ』
 怒りのあまり竜が吠えた。
 その身体の中心には未だ我を失った少年を抱え込んだままだ。
 男の手を逃れようと竜は灼熱の鎧鱗に力を込め、力一杯身体を振る。だが白く長い指先は易々と鱗へ食い込んでいき、それを許さない。
 指先により穿たれた五つの穴から、どろりと血潮のごとき溶岩が吹き出し男の腕を伝い落ちていた。
 触れればたちまち熔け落ちる温度を有する竜の血に、だが男の手は何の変化も示さない。それどころか彼は顔色一つ変えようとしない。
 ついに竜の全身がこちらの世界に引き戻されていた。
 憎しみと怒りで彼はぐるぐると腹の底からうなり声を上げた。
 自分は神なのだ。少なくとも異界へと呼び出された時点で、自分はこの世界の理を凌駕している者なのだ。
 それをこのようにまるで『物』のように扱われるなど、屈辱以外の何者でもない。
 竜は新たに現れたその黒衣の男を見下ろすと、再び大きく口を開く。
 口腔でドロドロとした塊が渦を巻き、一瞬の躊躇も置かず、巨塊として吹き出されていた。
 数メートルサイズのそれはまるでコンパクトな恒星である。
 先ほどのソラスの時の比ではなかった。
 怒りにまかせた竜の攻撃は激甚で、吐き出された泥濘が触れた部分は地面にすら巨大な穴が穿たれていた。
 だが、白く煙の上がるクレーターの中に男の姿はない。
 いや、ソラスと同じように熔けてしまったわけではない。
 その証拠に、竜が続けざま次の攻撃を放とうとしたその時には――竜の胴体は縦一文字に切り裂かれていたのだ。
 男の身体はいつしか宙にあり、黒鞘の長刀の鯉口を切っていた。
 同時に散るのは炎でも溶岩でもなく、月光の青。
 頭上に輝く月の光を照り返し、男の操る刃が閃くたび、青い雫が迸る。
『ごおおおおおおおおおおおおおおおおおっ』
 巨大な頭部までも二つにされずれ込んだ竜は辺りを震わす咆吼を上げる。
 所かまわず溶岩弾をまき散らし、それでも中心にある少年を離すまいと身もだえていた。
 しかしそれも男が次に刀を斬り返すまでのこと──。
 ふわりと舞い降りながらまるで演武でもするように優美な動きで男が刀を振れば、一瞬にして竜は白い花弁となってはじけ飛ぶ。
 どんな仕掛けなのか――そう、文字通り巨大な竜は、無数の花弁となり月夜にぶちまけられていたのだ。
 それを中心に、延焼を起こしていた中庭に次々と白い花弁が吹き上がっていく。
 炎は花と変わり、紺碧の夜に純白の花弁が息も出来ぬほどに舞っていた。
 吹き上がる白の真ん中で、男は落ちてきた亮を抱き留める。
 何が起きているのか、亮にはわからなかった。
 ただ、とても綺麗だ──ということだけわかる。
 自分を抱き留めた男の顔は月の光のように美しく、彼の右目は黒かったが左目は透き通るような水色をしていた。
 ぼんやりと見上げる亮の頬を男はそっと撫で、その唇に口づける。
 触れるだけの優しい口吻。
 月夜に輝く白い花びらの嵐。
 月光のような容姿をした男の、宝石みたいな水色の瞳が亮の姿を映していた。
 お礼を言わなくちゃ、と思った。
 誰だかわからないが、自分はこの男に助けられたのだ。感謝の気持ちを伝えなくてはいけない。
 口を開こうとしたそのとき、リアルに引き戻される感覚に亮は気づく。
 どうやら自分は帰れるらしい。
 良かったという大いなる安堵感が亮を包み込み、彼の意識はそこで途切れてしまっていた。
 それでも「ありがとう」の途中までは言えた気がする。
 なぜなら、消えるその時、男が少し笑った気がしたから。