■ 5-3 ■


「うっそ、なに、あいつ、やればできるんじゃん」
 秋人はモニターに表示された突然の<SOLAS LOST>文字に目を見開き、先ほどまで寄せていた深い眉間のしわを解除してほっと息をついていた。
 ほんの数秒前まで行方の知れなかったシドのアルマ反応も無事に捕捉でき、今はもうリアルへ戻りつつあることもわかる。
 シドからのアルマ信号が消失したのは午後に入ってしばらくたってからのことだった。あれからもう数時間が経過している。セラ時間で換算するともう何日もシドはリアルとの連絡も取れず孤軍で戦わざるを得ない状況だったといえる。
 もちろんあのシドに限ってその辺の企業セラごときのソラスに後れを取るとは思わなかったが、それでも連絡を取れないことで万が一を心配してしまうのはパートナーとして当然のことで──。
「こんな一気にあっさりって、あいつどんな魔法使ったんだ? ……ったく、もし連絡さぼってただけだったら給料さっぴいてやる」
 こんな風に憎まれ口を叩けるのも、シドの引き上げ処理を行えている現状であるからだ。
 今回のソラスはマインド系でありセラとの結合も深かった。戦闘力だけではどうにもならない相手であり、言ってしまえばシドのアルマを使って秋人が遠隔でパズルを解くがごとく追い詰めていくしかない仕事だったのだ。大病院に属するセラに生まれたソラスである彼はその知的指数も極度に高く、まるでチェスチャンピオンとネットを通して対局しているようなそんな感覚に陥らされることすらあった。
 ことあるごとに裏を掻かれ、一進一退、なかなか思うようにことが進まず、今日に至っては完全にあちらの勝ちといった流れで、秋人にとっての手駒に当たるシドを見事に囲い込まれ司令塔である自分と分断されてしまうという良くない風向きだった。
 それでも秋人なりの迂回経路を小一時間で数万通り計算し直し、解決策を見いだしたその直後、それを実行に移すまもなくこの謎の解決が為されたというわけである。
 きっと秋人ののろさに業を煮やしたシドが、我慢の限界を超え勝手に暴走した末のことに違いない。
 二人で仕事をしている上でよくあることなのだが、こういうことの後はシドも機嫌が悪く、秋人も言いたいことがあるため雰囲気が最悪になってしまうのは否めず、せっかく仕事を完遂したというのに後のミーティングを思うと溜息が出てしまう。
「まぁ無事戻ってきたってことでヨシとしますか。相手方への納期にも間に合ったことだし……」
 ギシリと椅子を軋ませバックレストに背を預けた秋人がビクリと身体を硬直させたのは次の瞬間のことだった。
 扉が割れんばかりの勢いで開けられ、不機嫌を全身からみなぎらせた赤い髪の男が飛び込んでくる。
「どうなってる!」
 そう言ってデスク前にズカズカ大股で歩み寄ってきたのは、ようやくリアルに戻り、いつもならばシャワー室に向かっているであろうはずの相棒だった。
 しかもやたら早い。ほんの数秒前に引き上げ作業をしていた時間から考えても、地下から二階までこんなスピードで上がってくるなど考えられない。もしかしてエレベーターを使わず階段を駆け上ってきたのだろうか。
 シドのあまりの勢いに、秋人は目を白黒させながらもどうにか返事をする。
「どうなってるって……、おまえがなんかしてあのソラスやっちゃったんでしょ?」
「ちっ……」
「なにその舌打ち。……シドじゃないっての!?」
「俺は何もしていない。そもそも俺はおまえとの交信が途切れた位置からほぼ5日間、ループに捕らわれ動けていない」
「え──!? マジ!?」
「おまえが何かしたかと思ったが……。考えてみれば手駒である俺が縛されていてはどうにもならんか。──外部からの干渉はなかったのか」
 秋人の顔色がさっと青ざめる。
 もちろん秋人は何もしていない。その上シドが何かしたのでなければ、商売敵が横やりを入れてきた可能性が一番高い。
「ちょっと待って、今ログを──」
 言いながらも秋人の指先は高速で走り、視線はすさまじいスピードで画面上の文字を追っている。
 そして言いかけた言葉を喉の奥に引っかけ、秋人は声を失っていた。
「嘘──、サブマシンが……動いてる……」
 吐息に紛れて出たような微かな呟きを聞き取ったシドは、弾かれたように元来たドアをくぐっていった。
 それを視界の端で認めながら、秋人はメインウィンドウの影から引っ張り出したサブウィンドウのログをじっと眺める。
 そこに現れた数値とグラフ。
 明らかに何者かを召還した痕跡がそこには描かれており、そしてその後に続く<void>の文字。
「…………っ!」
 それは入獄システムのモニターに決して現れてはいけない言葉。<void>とは無。対象者の寂静・消失を意味するアラートである。
 目の前が一瞬白くなりかけ、心臓が鉄の爪にでも鷲掴まれたように苦しくなった。
 耳の奥でドクドクと脈打つ音が聞こえる。
 だが秋人の目はその後に続く<find>の文字を見つけ、一気に身体を弛緩させる。
 ほっと震える吐息が口から漏れた。
 計測ミスか──、予想外のバグか──、もしくは……
「まさか向こう側へ連れて行かれかけた……んですかね」
 言った自分の言葉に再びぞっと背筋が凍る。
 その後のグラフを見ればセラ再編の嵐に巻き込まれながらも、使用者のアルマは安全な道でリアルに戻っているようだ。
「はぁああぁあぁぁぁぁぁっ……。さすがにこれはお説教だな、亮くん」
 呟いた秋人の吐息が白く煙る。
 暖房を効かせているはずの室内はここにきて異様に冷え込んでいた。
 原因はわかっている。さっきものすごい形相で引き返していった相棒だ。
 秋人は戸棚からドクターズバッグを引っ張り出すと、何とも言えない渋い表情で地下へのエレベーターへ乗り込んでいた。




 サブルームへの鉄扉をその重さすらもどかしく叩き付けるように開けると、まず目に飛び込んだのは部屋の中央に吊り下げられた特殊ファイバー製のカーテンだった。いつもは解放されたそこが閉じられているのは何者かが入獄システムを使用しているという証である。
 カーテンはその強固な対電磁波ガード能力に反し淡くグレーに向こう側を透かし、室内の空調に合わせて頼りなげにふわふわと揺れていた。
 透けた内側に見えるベッドの上には一人の少年が横たわっており、その姿を認めたシドは一瞬立ち止まるとほっと息を吐く。
 しかしすぐさま狭いその部屋をずかずか進むとカーテンを開け、少年の枕元にあるシステムモニターを確認していた。
 システムは問題なく動いているようで、その数値は少年が今にも覚醒することを示している。
「亮。──亮!」
 声を掛けながら少年の頬を軽くはたくと、ひくりと白いまぶたが動き、ゆるゆると少年は目を覚ます。
 しばしぼんやりと未だ夢見心地の顔でシドの顔を見上げていた少年は、何度か瞬きを繰り返した後、少し首を傾げ自分をのぞき込む相手の名を呼んだ。
「あ、れ……、し、ど?」
 身体を起こしまるで昼寝の後のようにゴシリと目をこすると、ようやく意識がはっきりしてきたのか急速に動きがギクシャクとし始め、視線を右へ左へとさまよわせる。
 自分がまずいことをしでかしたと気がつき、今いる状況に冷や汗を流し始めたといったところだろう。
「え……と、その……、あの……」
 自分を見下ろすシドの視線に耐えられず、亮はベッドに座り直すといいわけを捜すようにごにょごにょと意味のない言葉を呟き続けていたが、次第にそれすら出来なくなり拳をぎゅっと握りしめ、揺れるカーテンの裾をただ眺めるしかできなくなっていた。
「おまえ、またやったな」
 握りしめられた小さな白い拳に擦ったような血の痕がついている。出血点がそこではないことは、亮の姿をここで見つけてすぐシドは確認済みだ。
 おそらく先ほど身体を起こした際、右手首の噛み痕から移ったものだろう。
 だからこそよりシドの声は固くなる。
「やったって……なにを……?」
「その傷は何だ。ログも全て残っている。この上何もしていないなどと嘘までつくつもりか、ばか者が」
「っ──、嘘なんてつかないっ! シドがそんな恐い顔してるから、言い出しにくいだけじゃねーかっ」
 シドの強い言葉に亮は反射的に言い返していた。追い詰められて黙って泣き出すタイプではない少年は、売り言葉に買い言葉でシドに食ってかかる。
 それはいつもの光景だったが、今回のシドはいつもとは少し違っていた。
 亮の逆ギレに付き合うことなく静かに見据えたまま低い声を投げ落とす。
「おまえは……自分のしたことがどういうことかまだわからないのか」
「そんなの、わかってるっ。そりゃ勝手についてったのとか、ダメだって言われてた召還またやっちゃったのは悪かったって思ってるけど、でも、ちゃんと帰ってこられたし、召還だってやんなきゃやられてたんだ。仕方なかったんだよっ。だから」
 瞬間、パシン──と、鋭い音が亮の左頬から上がっていた。衝撃で亮の身体は弾かれ、ベッドへ倒れ込み支えるように右肘を着く。
「シド! ちょ、何も叩かなくても──」
 シドの背後から現れた秋人が慌てたように間に割って入れば、亮は左手を頬に添え、何が起きたのかわからないように大きな眼を見開いていた。
 呆然と空を見つめていた瞳はゆるゆると移動し、見下ろすシドの無表情を映し出す。
「こうして無事亮くん戻ってきたんだし、それに今回は僕のミスでもあるんだ。おまえの信号が消えて焦りすぎた。打開策を追うばかりにシステムフル動員させて、サブの方をフリーにしちゃってた。僕が気づいてさえいれば……」
「秋人のせいだと思うか、亮。どうなんだ」
「っ……、それ、は……」
 静かな物言いのシドに亮は何も言えなくなり、ベッドに突っ伏したままふるふると震え出す。感情の高ぶりで溢れてこようとする涙を堪え、唇を噛みしめ怒ったように眉をぎゅっと寄せていた。
 そんな亮の様子を眺めおろし、シドは感情の消えた声でこう告げる。
「これからしばらく入獄は許さん。訓練もリアルでのみだ」
「……っ、」
「それから秋人」
「な、なに」
「ネックブレスを出しておけ。今夜から亮につけさせろ」
 秋人は驚いたようにシドを見た。
 ネックブレスが亮にとってどんな意味を持つものなのか、シドはよく分かっているはずだ。あれはセブンス時代の象徴であり、亮の精神を虐げられていたあのときに引き戻す恐れのある忌むべきアイテムである。
 普段のシドならその名称すら亮の前で口にしないだろう。現に、ネックブレスを絶対亮の目の届かないところへ閉まっておけと秋人に言い置いたのはシド自身なのだ。
 そんなシドがまさかこんなことを言い出すなど秋人には考えられず──、だがその表情や声音からは決して冗談や脅しで言っているようにも思えない。
「シド! いくらなんでもそれはっ、……シドっ!」
 しかしシドはそう言ったきり亮に一瞥すらくれないで部屋を出て行く。
 亮は同じ姿勢のまま宙を見つめ、何かを堪えるようにただ身を震わせていた。


「亮くん……」
 秋人は力の抜けたような亮の身体をそっと起こし、未だ頬に添えられたままの左手をはがすと、下から覗き込むように様子をうかがう。
 大きな黒い瞳はゆらゆらと揺れ、今にも大粒の涙をこぼしてしまいそうだ。
 それに気づかぬ振りで秋人は立ち上がると亮の髪を撫でる。
「ほっぺ、みせて? ほら、顔あげて」
 ぶんぶん首を振り拒絶の意志を示す亮のひざに、ぽたりと一粒、大きな雫が落ちていた。
「ごめ、あきひと、さん。秋人さんのせいじゃ、ないのに……」
 かすれた声で言葉もたどたどしくなってしまうのは、泣くのを堪えるためだ。
 それでも秋人は亮の頬に手を添え上を向かせる。大きな瞳をぎゅっと閉じた亮の目尻から涙がこぼれ落ち、亮はそれを隠そうと必死に袖で目元をこする。
「だめだよこすっちゃ。……ほっぺ、赤く腫れちゃってるね。少し冷やそうか。ちょっと待ってて」
 秋人はドクターズバッグから冷却剤を取り出し、亮の頬へ貼り付けていく。亮は目をぎゅっとつぶり、されるがままだ。
「シドが怒るの、わかるよね? 亮くんのこと心配してるからだよ」
「…………」
 亮は何も答えない。ただ口をきゅっとへの字に曲げ、再びごしりと袖で目元をこする。
「なんでついて来ちゃったの? あのセラが危ないことは亮くんもわかってただろうに。……シドの役に立ちたかった?」
「ちがぅ……、オレは、ただ、知りたかた、から……」
「知りたい……。何を?」
「シドと、キース、さんの、こと……。シドなにも、言ってくんねぇから、オレ、自分で、キースさんから、聞こうとおもて……」
 秋人は言葉を無くす。
 亮は自分とシドの会話をどこかで聞き取り、今回の行動に出たということなのだろう。
 亮は元来勘が悪い方ではない。きっと現在シドに降りかかっている面倒な状況を敏感に察知し、不安をこじらせての思い詰めた行動だったに違いない。
 亮に余計な心配を掛けないようにとシドと話し合い、全て隠していたことが裏目に出てしまったのだ。
「そっか。それでも内緒で危ないセラに着いてきて、あまつさえまた異神を召還するなんて、絶対にしちゃだめなことだ。……亮くんだってわかってるよね?」
「…………」
 無言のままうつむくと、少年は小さくコクリと頷いていた。
 思わず秋人の口元に微笑が浮かんだ。
 本当ならシドにもこうやって素直に謝りたかったに違いない。それが出来ない辺り、亮もシドもよく似ていると思う。
「右手も見せて? う〜ん、また噛んじゃったか。もう血は止まりかけてるけど、ばい菌入らないようにしとかないと……」
 再びうつむいてしまった亮の手をとり、消毒を施すと抗生剤を塗って包帯を巻いていく。
「噛んだ傷は治りにくいから出来れば刃物の方がいいんだけど……、いや、そもそも召還しちゃだめなんだよね。ホントにもう困ったもんだ」
 アハハと軽い調子で笑ってやれば、亮は少しだけ顔を上げてずびりと一度鼻をすすった。
「キースさんがここへ来た理由はね。──シドにカラークラウンとしてIICRへ戻って欲しいって頼むためだったんだ」
 唐突に語られ始めた真実に、亮は少し目を見開き、今度こそ秋人の顔を見上げていた。
「もちろんシドは断ってる。でもしつこくてさ。僕としても事務所から従業員がいなくなれば商売あがったりで困っちゃうし、迷惑な話だよ。あの人もシドの部下やってただけあって大概だね」
「……そっか。…………うん。やっぱ、そうだった、んだ」
 ぽつりと呟くと、亮は「へへ……」と笑おうとし口元を弛めるがうまくいかずに、くしゃりと顔を歪めてそっぽを向いた。
「んだよ。言ってくれたら、いいのに。戻る気ないなら、なんで何もないとか、言うんだよ……」
「亮くん。それは……」
「わかってる。オレが、ガキだから……だよな。こんな風に勝手に仕事の邪魔して、ダメだって言われてる召還を何度もやらかすような子供だから、内緒にするんだ……」
 泣きそうなのか哀しんでいるのか怒っているのか、その全てなのか──震えそうになる唇を何度も噛みしめ低い声で呟く亮の表情に、秋人は胸が痛むのを感じる。
 考えてみればいつも亮は何も知らされず、大人たちの話し合いの蚊帳の外に置かれ続けている。
 そのくせ大人の事情に飲み込まれ、利用され、何もわからぬまま人生を翻弄され続けているのだ。
 こうやってダメだと言われることを敢えて起こしてしまうのは、少年の無意識下における大人たちへの抵抗なのかもしれない。
「秋人さん」
「ん? なに?」
「オレ……。早く……大人に、なりたい」
 そっぽを向いたまま、きゅっと眉根を寄せ涙をこらえた少年は、そう言って唇を引き結んだ。
 秋人はそんな少年の髪を、そっと優しく撫でてしまう。
「ネックブレスは……、あいつもお灸を据える意味で言っただけだろうし、ちゃんと謝れば許してくれるよ」
「する」
「ん?」
「ネックブレス、する。オレ、もう入獄は、しない」
「亮くん、それは──」
「オレ、が、悪いから。勝手に入獄して、召還して、オレが、悪いから。……ちゃんと、する」
 大人になりたいと言いながら、秋人には亮の発言はどうにも子供の意地のようにも思えた。──が、まだまだ本人はそれすら気づいていないやはり子供で、その言葉と気持ちと行動のちぐはぐさに、秋人は思わず笑みを浮かべかけ「いかんいかん」とぐっと口の端に力を入れた。
 あえて難しい顔で少年の瞳をぐっと見据える。
「亮くんにそのつもりがあるなら、渡すよ。今から僕の部屋に来て。少し調整が必要だから、それをしながらさっきセラの中で起きたこと、ちゃんと話して欲しいんだ。君の身に何があったのか、僕は社長としても主治医としても知っておかなくちゃだめだからね」
 亮は秋人のまじめな顔に、真剣な面持ちでこくりと頷いた。



 机の上で頬杖をついたまま、亮はむっつりと窓の外を眺めている。
 外は気持ちの良い秋晴れで、グランドにはくっきりと朝礼台や掲揚塔の影が長く黒く伸びているのが見えた。
 水色の空には淡い鰯雲が流れ、上空を強めに吹く風が目に見えるようだ。
 教室の前では一週間後に控えた文化祭の準備について、クラスの出し物である『妖怪カフェ』の準備が遅れている旨を実行委員が渋い顔で報告していた。
 亮も今回は断り切れず、一反木綿役で給仕の担当に着くことになっている。
 実行委員は衣装や広告・大道具の制作など下準備についての話をしていたが、当日のキャストもなるべく裏方の手伝いをするようにと切実に訴えていた。
 しかし亮には関係のないことだ。
 一応シドには文化祭参加についてだけは了承を得たが、その条件として自分の担当だけこなし、他はなるべく関わるなと強く言われている。
「ちぇ……」
 漫画のような舌打ちが口をついて零れる。
 なんだかんだ言っても、やはりそれなりに参加できる行事が亮は楽しみなのだ。
 できればクラスに協力して、自分も学校に居残って大道具の準備や衣装作りの手伝いなんかをしてみたくもあった。
 だがそれはかなわないことで──。
「成坂くんは今日もダメなの? 看板の色塗り、人手が欲しいんだけど」
 隣の席の女子が、先ほどから不機嫌顔の亮にそう声を掛けてくる。
 ちらりとそちらに視線だけ流すと、「ごめん、無理。バイト」とだけ無愛想に答える。
 「これだから男子は」と唇を尖らせる女子に内心手を合わせながら、亮は溜息を吐いた。
 結局昨日からシドとは満足に口をきいていない。
 昨夜ネックブレスを着けて帰ってきた亮に対し、シドは「明日からはトレーニングルームで筋トレと走り込みを二時間だ」とだけ伝え、夕食も摂らずに事務所へ戻ってしまった。
 亮がベッドに潜り込んだのが深夜11時を過ぎた頃だったことを考えれば、シドが帰ってきたのは夜半を回っていたはずだ。
 朝亮が目を覚ますと、確かに先ほどまで横で眠っていた気配はなく、すでに身支度を調えたシドがキッチンでコーヒーを飲んでいた。
 亮は何となく「おはよう」の声も掛けずに、自分も勝手にパンを焼き、牛乳をカップに注いで朝食を摂った。
 そのまま登校の準備をすると「行ってきます」とすら言わず部屋を出る。
 そして現在に至る──。
 制服の上から首元に隠されたネックブレスを指先でなぞってみた。
 溜息がまた口をつく。
 無性に誰かに会いたくなった。
 俊紀とラーメンでも食べて帰ろうか──。そんな考えが浮かび、ようやく少しだけ亮の気分は浮上する。
 担任の「みんな協力するように」という声を持ってショートHRが終わりを告げ、動き出した生徒たちに紛れて亮も鞄をひっつかみ、教室を出て行った。


「なんだよ、俊紀の薄情者っ。壬沙子さんがいないからって急に付き合い悪くなりやがって」
 ぶつくさ言いながら自転車を漕ぐ亮は十五分前より明らかに機嫌が悪い。
 誘った俊紀は文化祭の準備にかり出されたからと言って、あっさり亮を追い返していた。
 それだけなら仕方がないことであり亮の腹もこれほど立たなかったのだが、その前段階として「壬沙子さんまだ帰ってないのか?」という質問が入ってきたのがどう考えてもおかしい。もし壬沙子が帰ってきてると答えたなら、あいつは絶対に亮にくっついてきたに違いない。
「…………」
 胸の奥がジンジン痛かった。
 なんだか無性に人恋しい。
 いつの間にか亮はハンドルを事務所ではない別の方角へ切っている。
 ペダルを漕ぐ足も力強くなった。
 ひんやりとした風の中、人の波をよけ、車の往来に気を配り、夕方の道路を走っていく。
 よく知る道を息を上げながら一時間ほど行き、亮はある建物の前に自転車を止めていた。
 オフィスビル街の一角にそびえる近代的なデザインの高層ビルは、もう一年以上足を向けなかった場所である。
 出入り口付近に植えられた街路樹に赤い自転車を立てかけると、前面ガラス張りの出入り口から中へと入っていく。
 白を基調とした大理石作りの広いエントランスには中央に若い二人の女性が座る受付があり、警備の男が何人かその周囲に立っていた。
 制服姿の亮を見つけると、すぐさま警備の一人が近づいてくる。
 亮は彼を制するようにぺこりと頭を下げ、傍らの受付嬢へ用件を告げていた。
「あの、成坂修司、いますか?」
 受付嬢は少し驚いたような顔をして亮の顔を眺め、
「アポイントをお取りでしょうか」
 と綺麗な笑顔で聞いてくる。
 「あぽいんと……」と言ったきり戸惑ったように亮が黙ると、彼女は子供に諭すように続けた。
「社長は現在会議中です。何かご伝言があればお伝えしますが……。お名前をお聞かせ願えますか?」
「…………ごめんなさい、やっぱ、いいです」
 急に恐くなり、亮はきびすを返すと走り出す。
 背後から「キミ、ちょっと待ちなさい」という警備の男の声が聞こえ、亮はさらにスピードを上げてビルを飛び出す。
 逃げるように自転車にまたがると、めちゃくちゃにペダルを漕いで前進していた。
 なんでここに来てしまったのかと後悔ばかりが渦を巻く。
 修司は社長で忙しい。大した用もないのにふらっと行って会えるわけもなく、そんなことをすれば仕事の邪魔にしかならない。
 あそこは亮が行っていい場所ではないのだ。
 わかっていたのに、どうしてこんな真似をしたのか自分で自分がわからない。
 胸が痛い。
 ただ、会いたかった。
 亮が大事にしている人たち、全員の顔を見て、話して、その存在を確かめたかった。
 きっとこんな気持ちになるのはシドとケンカをしているからに違いない。
 シドに素直にごめんなさいと言えれば、この胸の痛みも、漠然とした不安も、寂寥感も、嘘みたいに消えてなくなるのかも知れない。
 久々に身につけているネックブレスも、この不安の要因の一つだろう。
 自転車を漕ぐ亮の瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。
 ずびりと鼻をすすり、泣いている事実を打ち消すようにゴシリと袖で目元をぬぐった。
「くそっ、泣いてねぇっ」
 通行人におかしな目で見られるのもかまわず、亮はそう叫んでいた。
 昨日からなんだよっ。オレ、ダセェ、かっこ悪い、最悪だ──。
 そんな自嘲ばかりがぐるぐると亮の頭を巡る。
 それでも亮の胸は風が吹き抜けるように寒く、浮かんでくる涙を止められそうにない。
「意味、わかんねぇ。なんだよ、オレ」
 乱れきった感情に振り回されながら、亮はひたすらペダルを漕ぐ。
 修司に会いたい。シュラに会いたい。久我に会いたい。俊紀に。レオンに。壬沙子に。勝にぃに。諒子に──。
 咽ぶような恋しさにおぼれそうだ。
 そして──そんな半泣きで自転車をとばす少年を、じっと見つめる人影があった。
 道路の対面側歩道に立つその人影は、真っ白いコートを着て、白髪で、白い眼帯をしていた。
 残った右目で少年は少年を見つめる。
 沈みつつある夕日の残滓が白い少年を赤く染める。
 彼のそばに立つ街路樹も、街路灯も、歩く人々も、同じように赤く染まり、その存在を誇示するかのごとく同じ方向に黒くくっきりと影をのばしている。
 だが、白い少年にだけはそれがなかった。
 当たり前のように、彼の背後には彼の正面を照らすのと同じ赤い夕日が降り注ぎ、黒いアスファルトを滲ませている。
 道行く人々はそんな不可解な少年に一瞥もくれず、家路を急ぐ。誰も彼を目にとめない。
 亮の乗った赤い自転車が道の向こうへ消えていくと、白い少年も又、ふわりと幻のようにかき消えていた。