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深夜の連絡通路はひっそりと静まりかえり、その中にあって二人の足音だけが高く響いている。 一人は現ゲボクラウン、プラチナ。 もう一人は現ハガラーツクラウン、レドグレイ。 館内のエアコンも落とされたこの時刻、西C館から本館へと戻る狭い通路は薄暗く、寒々と冷え込んでいる。 セラミック製のタイル張り廊下に響く話し声も決して明るいものではなかった。 「死んでなくて良かったよ。口もきける状態だったのは御の字だ」 「武力局の人間がたまたま通りかかったおかげで、警備部の者たちの暴走が止まったのは幸いだった。彼らも先刻の事件があってからピリピリしている。詳細を知らされていない分疑心暗鬼を呼んで過剰防衛になりがちだ」 「容疑者殺して取り逃がしそうになったのもチビのせいってわけ。はっ、笑わせないでよ。あいつらはあれが仕事だろ? 任務に対する覚悟が甘いんだよ。コモンズの警官の爪の垢でも煎じて飲めっての。転生が不安定だからってソムニアが死ぬことびびってどうすんだよ」 「プラチナ。誰も亮のせいだと言っているわけではない」 「言ってるよ! 第一昨夜のことだって事件だとあなたは言ったけど、あれは事故だ。むしろ警護していた警備部とチビを保護していた研究局のミスと言うべきじゃないのか? あいつは病気なんだ。そのせいで入院だか監禁だかをされてたわけだし、その管理を任されていた連中がその任務を全うできなかったからってそれを監禁対象の責任にするのは間違ってる」 言葉をよどませることもなく理路整然と言ってのける幼いクラウンに、レドグレイは軽く驚いたように目を見開くと、しばし沈黙し己の顎先を撫でる。 「あなたの言うことは正論だ。だが、被害にあった者は己の傷を無価値なものにしないために、理由を見つけ、敵を作る。それは本人だけでなく、被害にあった者の身内や仲間も同じだ。例えこの先裁判で亮の無罪が確定しようとも、人の感情は消すことが出来ない」 「……それは、わからないでもないけど、それでもそういう輩が暴走しないために組織があるんじゃないの?」 「組織を維持するには命令に従えば全てうまくいくと思える『上への信頼』が必須だ。今までは堅固な信頼がIICRを支えていた。だが、現在、それが常態でないのは確かだ。警備部だけではない。すでに噂はIICR全体に広がり、憶測が憶測を呼び我々の予想もしない事態を引き起こしかねない状況だ。それが今回の事件を引き起こしたと私は考える」 深夜遅くのこの時刻にしっかりとダークグレーのスーツを着込んだレドグレイは、深い藍色の瞳で自分より随分下の位置にあるプラチナブロンドを凝視する。 横を歩くシャルルはその視線を感じ取り顔を上げた。 有能で職務に忠実なこの男の表情はいつも変わらない。 表情筋の動かない男をシャルルはもう一人知っているが、彼の場合氷でできた機械のような無機的な質であるのに対し、こちらは官僚然とした人間的な無表情に思える。己の役目と己のアイデンティティの為に自ら感情を消しているようで、シャルルはあまり好きではない。 今も整ってはいるが感情の読み取れない顔でじっとシャルルを見下ろしている。 だが、表情は読み取れずともこの男の言わんとすることはわかる。 「亮の存在を公表しろってこと? そんなことすればそれこそ今まで隠してきたIICR上層部の信頼が揺らぐんじゃないの?」 「隠してきたなどと言わなければいい。やりようはいくらでもある」 「ビアンコの許可はないだろ!? これはヴァーテクスの判断だけでどうこうできる問題じゃないはずだ」 「ビアンコは現在不在だ。生樹再生プロジェクトを遂行できるのはオートゥハラの能力を持つ彼ただ一人。彼がそちらにかかり切りになっている今、通常業務は我々だけで処理していかねばならない」 「通常業務って! 亮の状況はどう考えても普通じゃないじゃないかっ。今回の件だってビアンコが亮の受け入れを決めたんだ。それを勝手にどうこうしていいわけがないっ」 「声が大きい。深夜でフロア閉鎖されているとはいえ、どこでまた誰が聞いているとも限らない」 静かな声で諭されて、シャルルはぐっと言葉を詰まらせる。 「今し方セブンスへの進入を試みた男も研究室内の噂で亮の名を聞いたと言っていた。昨夜亮が起こした事故よりこちら、研究局や警備部から様々な憶測を孕んだ噂が広がり始めている。今回のように事件関係者で亮を恨む者も出てくるだろう」 「あのイェーラの馬鹿のことなら、多分それじゃないよ。あいつの名前、見たことある。昨年のセブンス入館者名簿にあの男の名前があったからね」 「馬鹿な。イェーラ・スティールについて入館していたイェーラは二名とも転生刑に処されたはずだ」 「あいつらだけじゃなかったんだ。スティールは何人ものイェーラを『勉強目的の見学』と称して引き連れてやってきていた。転生刑にされた二名は十数回セブンスへ入館していて悪質だと判断された。だがそれ以外の数名は彼らがいないときの補助要員だったんだろうね、それぞれほぼ一回程度しか来ていない。基本、ガーネットが許可を出した人間だ。本来なら罰せられるはずのない状況なわけだし、裁判でも『わけもわからず連れて行かれた』と証言しているから、減俸と注意で終わっているはずだ」 「なるほど──。ゲボクラウンには全ての期間に渡るセブンス入館名簿だの、ゲボに纏わる裁判記録だの、通常秘匿されるデータを見る権限が与えられる。我々ヴァーテクスすら知り得ない情報も持っているというわけか」 「だからさっきの男は昨夜の研究局での騒ぎで恨みを持った人間じゃない。どーせ、亮生存の噂を聞いてあの冴えないチビにイヤラシイことでもしたくて正気を失ったんだろ。気色悪い」 シャルルはべっと舌を出すと己の肩を抱きぶるりと震えてみせる。 「頭おかしくなってる上、過去一度セブンスに入ることが出来てるもんだから、今回もいける気がしたんだろうね。そんなわけないのに。なんにせよ転生刑か蒸散刑か──裁判待ちだね」 「……ゲボの魔力というのは恐ろしいものだな。私も職務以外ではなるべく関わらないようにしておこう」 冗談とも本気ともその表情からでは伺えず、シャルルはレドグレイの顔をジッと見つめ不機嫌そうに眉根を寄せるが、レドグレイはちらりとそちらを眺めただけですぐに視線をまっすぐに戻すと、シャルルに合わせたゆったりとした足取りで廊下を進んでいく。 「とにかく、今はIICRが一丸となって世界の危急に備えねばならない時だ。そんな折に上層部に疑念を持つ者が出てきては困る。その為にも──亮がセブンスで療養していることに関しては近日中に発表の方向で行く」 「レドグレイ!」 「それでセブンスの治安が脅かされるというのであれば、亮の身柄はヴァーテクスが責任を持って中央で管轄するが、どうするプラチナ」 「な……っ! そんなこと誰も頼んでないだろっ!?」 「そちらが望まずとも今度のようなことがたびたび起こるようであれば、我々は亮の肉体、アルマともに収監するつもりであることを覚えておいてくれ」 「っ! 収監!? 亮は患者であって罪人じゃないっ」 「言葉が悪かったのなら謝ろう。だが、既にその準備は整っている」 「そんな勝手、僕は許さないよ。セブンスの中のことはゲボクラウンである僕が絶対のはずだ」 「ゲボクラウンの絶対権限か。それは昨年までのこと──。ゲボ・ガーネットの暴走によりセブンス崩壊などという惨劇が起こったのだ。絶対権限についても疑問視する声が上がってきている」 「彼女は転生刑を受けてその責を取っただろうっ」 「それだけで済む事件だとは思ってもらっては困る。あれはIICRの中心で起こった前代未聞の災厄だ。セラではない現実世界に異界を顕現させるような事態が再び起こってみろ、今度こそここの屋台骨はガタガタになる。次代のあなたが責を問われることではないが、今まで通りというわけにはいくまい」 「──っ、だけど!」 そこでレドグレイが足を止めた。 気付けばもうすぐ目の前に通路の終着点である重い扉が待ちかまえている。 「ここから先は亮の名は禁句だろう? 少なくとも我々が真実を発表するまでは」 「……真実? ヴァーテクスに都合良く書かれたファンタジーだろ」 「そう臍を曲げないでくれ、プラチナ。セブンスとはこれからも協力体制で行きたい」 そう言って見下ろすレドグレイの口元は、変わらず真一文字に結ばれたままだ。 「そう思うのなら全て僕の許可なしでは動かないでくれる? もしくはビアンコの勅命でも持ってきてよ」 「……出来る限り善処しよう」 YESともNOとも答えず、レドグレイは締め切られた扉の鍵を胸に掛かったIDで開けると、機械式にするするとスライドしたドアの向こうへ進んでいく。 本館3階の北側ホールにあたるその場所には未だ数名の人影が見えるようだ。薄暗かった照明から一転、昼間に近い光量が辺りを照らしている。窓もなく、その上思う存分暖房を炊かれたホールに足を踏み入れれば、時間どころか季節感すらなくしてしまいそうだ。 彼らの出てきた扉の左右には警備員が二名。 他にも任務途中の休憩らしき人間が数名奥のベンチでコーヒーを飲んでいる。 その中の一人がこちらに気付き、ぱっと立ち上がると仲間に一言二言何かを言った後駆け寄ってくる。 この季節にTシャツにジーンズ、薄手のモッズコートを羽織っただけの少女は、ショートカットの黒髪とたわわな胸を揺らしながらシャルルのもとへたどり着くと、にっこりと微笑み胸に拳を当てる武力局式の敬礼を取っていた。 「プラチナ、お待ちしていました。ボクがセブンスまでの警護をさせていただきます」 「おまえがルキ・テ・ギアか。さっきはお手柄だったね。礼を言うよ」 「いえ。あの……そちらに向かう途中でしたので……たまたまといいますか、そんな大したことは……」 言いながらチラチラとシャルルの隣に立つ長身を気にするルキに、当の長身はわかっているとでも言いたげに言葉を掛ける。 「ああ、私はここで失礼するよ。今日は執務室で仮眠を取ることになりそうだ。ではプラチナ、また」 ルキに対し軽く手をあげると、レドグレイは逆側の通路へ向かい去っていく。 己の任務のことをどこまでここで話してもいいのか戸惑う若い構員に、気を使わせるのも可愛そうだと思ったのだろう。その程度の人間的なデリカシーや分別はある男なのだと、シャルルは意外に思った。 「あちらの方は──」 「ハガラーツ・レドグレイ。ヴァーテクスのエンジンだ。あいつは全て知ってる。気を使わなくてもいいよ」 「え! あの方が、レドグレイ……。リアルだとお若いですね」 「ああ、そうか。セラでは会ってるんだな。……そうだね、リアルの方が十歳以上若いか」 語りながら歩き始める。 シャルルよりほんの少し背の低いルキと話すのは、首の角度をつけなくていい分、ずいぶんと楽だ。 「はい。リアルではあまりお見かけしないので、一瞬わからなかったです」 「おまえんとこのボスもリアルじゃ若いんじゃなかったっけ?」 「えー……、あ、ジオットのことですか? あー、あはは、そうですね、ジオットはリアルじゃ二十代半ばでボクと同い年くらいなんですけど、見た目はともかく雰囲気がおじさんなんで、あまり変わらないかな」 「……酷い言われようだな」 シャルルの呟きに「なにが?」とでも言いたげに首を傾げるルキの様子を見るにつけ、ジオットはカウナーツのファミリーだけでなく、獄卒対策部の部員達にも大いに信頼を得ているようだ。 それに加え、あのシドと長年にわたり連んでいたり、昨年の事件の折亮を庇護する運動を議会でブチ上げてみたりと、カウナーツの長はずいぶんとお人好しらしい。 正直シャルルの好みではないし、今まで特に接点を持ってこなかった相手だが、このような状況になった今、そのお人好しと連絡を取ってみるのも策かもしれない。 そう思いめぐらせ、シャルルはソワソワとした様子で付いてくるルキに向かいこう言った。 「おまえのボスに興味が湧いた。近々僕の部屋にリザーブを入れて遊びに来るように言って」 「…………えっ」 「来てくれたら、僕、なんでも好きなことさせてあげるからって」 「………………ええええええっ!?」 衝撃のあまり歩みを止めてしまったルキを置いて、シャルルはすまし顔でスタスタと先を進んで行く。 随分先を行ってしまったシャルルに気付き、ハッとしたルキが慌ててその後を追いかけていった。 「やったか!?」 「手応えはあった。探せ!」 「くそ。暗くてよくわかんねぇな」 「ゴーグルを暗視に切り替えろ。アンジェラ探しは一時中断だ」 数名の男達の話し声が聞こえ、周囲の茂みをガサガサと漁る音が前方から迫ってくる。 ひんやりと今にも凍り付きそうな地面と固い下生えの肌触りを頬に感じつつ、久我は息を殺して相手の動きを待つ。 月明かりに照らされた森の出口の空気は刺すように冷たい。だが、久我の右手はじんわりと熱いもので塗れていた。 うまく銃弾をかわしたつもりだった。 だが残念なことに連射されたライフル弾のうち何発か、久我は食らってしまったらしい。 今もどくどくと腹部が脈打ち、押さえつけた指の隙間から血の塊が溢れてこようとしている。なんならちょっと力を入れれば腸の一つも飛び出してきそうだ。 間違いなく致命傷だなと天を仰ぐ。 しかし、即死の傷ではない。 しばし逡巡した後、久我はこのままここで倒れていることを選んだ。 もちろんすぐに短時遡航して傷を癒し、とっととこの場を離れることが一番安全な策だと言うことはわかっている。 だがそれではこの先何もつながらない。 彼らは明らかにIICRの人間ではない。 出会ったときこそ警備に見つかったかと焦った久我だったが、彼らの口調や人数、装備を伺うにつけどうやら外部からやって来たものに違いないという結論に至った。 この連中が何者なのか──。何の目的でここにいるのか──。それらを探らなくてはこうやって訳もわからず撃たれた意味がない気がしたのだ。 しかもここは久我がセブンスのある場所と目星をつけた地点だ。 もしかしたら亮絡みで何か事件を起こそうとしている連中なのかもしれない。 とにかく今自分に出来ることは、この場で意識を失うことなく──、だが、あくまで死んだ体でこの場に転がっていること。 そうすれば連中がこの場を引き上げるとき、後をつけることもできるだろう。 「いたぞ!」 目の前の下生えがガサリと音を立て掻き分けられると、月光をバックに黒い男の影が現れる。 頭には双眼鏡に似た仰々しいゴーグルが取り付けられており、口元は黒いマスクで覆われている。 黒いジャンパーに黒いカーゴパンツを身につけた男はまるで軍部の特殊部隊のようだ。 男が覆い被さるように久我の上から覗き込む。 「まだ生きてんのか?」 ごつっと音を立てブーツのつま先で脇腹を蹴り上げられる。 「っ──」 思わず声を上げそうになり久我はぐっと堪えた。 ここで生きていると気付かれれば息の根を止めるため、今度は頭に何発か弾を食らうことになりかねない。 そうすればジ・エンド。何もかもおしまいになる。 久我の短時遡航は久我が意識のある内に異神と契約を結ぶ必要がある。 それはほんの一瞬でいい。だがその一瞬すらなくしたとき、久我は死亡する。 蹴られた衝撃で押さえていた久我の右手が腹からこぼれ落ちた。 一気に傷口から熱い塊が吹き上げていくのを感じる。 痛みはもう感じなかった。 ただ傷口の異様な熱さと、手足の氷のような冷たさだけが久我が今感じる全てだ。 寝入りばなのような気持ちの良い感覚が何度となく久我を襲う。 それをさせまいと、ぎりりと小さく口の中を噛んでみた。 「おい、どうだ、生きてんのか?」 もう一人男が現れた。ぼんやりと薄めを開けて状況を見る久我だが、その視界がぐんぐん狭まっていくのがわかる。 まずいな──。と思った。 本格的に身体は死ぬ方向へ進んでいるらしい。 しかもそのスピードたるやなかなかのものだ。 「まだ生きてるっぽいけど、もうもたねぇだろ。ハラワタ出ちゃってるし」 「うわ、本当だ。ああ、こりゃダメだ」 そういうこと言うなよ。テンション下がるから──と、久我は脳内で抗議する。 死に際の人間にそういうデリカシーのないことは今後言わない人間でいようとおもむろに決心してみる。 「しかしこいつなんだ? 警備員って感じじゃねぇし、まだガキだしよ」 「寮でも抜け出して女のとこに行く途中だったとか? どっちにしろこんな何もない廃墟をうろついてんだ。ろくなガキじゃねーだろ」 廃墟だと? ここにはセブンスがあるんじゃないのか! そう問いただしたいところだが、久我は黙ったままひたすら時が過ぎるのを待つ。 これ以上腸を外へ出さないためにも、腹に力を込めるのを止め、まさに死体同然の状態だ。 「取り壊しも途中だって聞いたぜ? あの建物、崩れ方が異様過ぎて、手が着けられないんだと。元々ここは何に使われてたんだろうな」 「研究施設とかじゃねーの? だってあれ、6階辺りだけ真っ黒に塗りつぶされたみたいになってて壁の材質からして変わっちまってるみたいに見えるぜ?」 「なんだろうなあれ、気味悪りぃ」 久我はますますガックリと力が抜けるのを感じた。 どうやら彼が「セブンスだ」と目星をつけてきたこの場所は、まるで見当違いの不要となった建造物しか建っていないらしい。 ならばここでこうやって死んだふりをしているのも亮のためにはならない全くの無意味ということになる。 しかしだからといってやり始めた死んだふりを、この状況で急に止めるわけにも行かない。 (くっそ、はずれかよ、最悪だ。俺バカみてぇ……) 泣きたい気分だが今の久我にはそんな余裕もないわけで──。ただひたすら「おまえら早くあっちにいけ」と願う他ない。 「おいっ、反応あったぞ! おまえらの後ろにアンジェラがいる!」 「なに、マジかよ、ゴーグル切り替えるわ」 「うわホントだ、こんな数値見たことねぇ! IICRの敷地内に乗り込む話になったときはありえねぇって思ったけど、やっぱりテーヴェ様のご神託は確かなんだな!」 (アンジェラ? テーヴェ? ……テーヴェは聞いたことあんな。なんだっけか……) 飛びそうになる意識を必死に引き戻しながら久我は記憶を巡らせる。 だが、血液循環の極端に減った脳では満足な答えなど見つかるはずもなく、久我は必死に呼吸をし、何度も瞬きをした。 そろそろ時間を戻さねばまずい領域に突入したようだ。 と──。 突如、久我の傍らに一人の少年が立ち、静かに久我を見下ろしていた。 真っ白なコートを着て真っ白な包帯を顔に巻き、真っ白な髪をした少年だ。 包帯にまかれその顔はほとんど見ることは出来なかったが、水色の右目が爛々と光を放ち久我をじっと見下ろしている。 ぞくりと久我の背が凍り付いた。 これはいよいよお迎えが来たのかもしれない。 いわゆる死神というヤツだ。 そうでなければこんな風に、死にかけた肉体に鳥肌が立つことなど有り得ないだろう。 「どこ行った!? 反応見失った!」 「まだ近くにいるだろう、探せ! 捕獲用のオーヴを各自準備だ!」 少し離れた場所で、あの男達が騒いでいる。 どうやら先ほど言っていた「アンジェラ」とかいうモノを見失ったらしい。 それが何でどんな形をしているのかはわからないが、どうもそれを捕まえて帰るのがかれらの任務なのだろう。 奴らがそちらに気を取られている隙に、久我は短時遡航を実行せねばならない。 そうすれば目の前の死神も消えてなくなるはずだ。 「おまえ、僕が見えるのか」 「……今は、な。だがすぐ見えなくなる予定だ」 小さな声で久我が答える。 すると白い少年は驚いたように瞬きをした。 「声も聞こえるとは──」 (死にかけている証拠だってか? 勘弁してくれよ) こんなセブンスと何の関係もない場所で、よくわからない宝探しみたいな連中に撃たれて死ぬなど犬死にも良いところだ。 ぼそりと久我が呟き、強く願えば、周囲の空気が一瞬ぶれ、そして久我の時が巻き戻る。 それはセラであってもリアルであっても同じこと。 時を巻き戻せば傷の修復や肉体の復活も関係がなくなる。全て元にあったまま──。何の変わりもなく、その場に在るのみだ。 「ふぅ……」 生気を持った吐息がはきだされ、久我は小さく身震いした。 元気になってみると11月の地面はとんでもなく寒い。 あいつらに気付かれないうちに匍匐前進でもしてこの場を去らねばならない。 そう思い立ち目を開けた久我の視界に飛び込んできたのは、不思議そうに覗き込む水色の目だった。 「う……ゎ」 思わず声を上げそうになって口を塞ぐ。 あの白い少年は変わらずそこにいた。 いや、変わらずというわけではない。今はなんならうっすらと全身から光を放つようにしてそこに立っている。 この暗闇の中少年の周りの木々や下生えがその輝きに照らされ、さやさやと揺れているのが見えるのだ。 こんな目立つ人間が側にいたのでは、久我が生き返ったことが男達に見つかるのはほんの数秒後だろう。 「あんた、なんなんだ。あっち行ってくれよ。死神ならもう用はないだろ? 俺もうぴんぴんしてんだから」 ひそひそと小声で語りかけてみる。 少年はそんな久我のそばに今度はしゃがみ込み、そっと久我の頬に触れていた。 「っ!?」 触れられた場所が燃えるように熱くなる。 「なるほど。亮かと思ったけど違うね。亮の魂は真っ白だもの」 久我の魂が汚れているとでも言いたいのかと、文句を言いかけ、久我はそこで思考を止めた。 今この少年は確かに呼んだのだ。 亮──と。 「おまえ、成坂のなんなんだ?」 自然に声のトーンが下がる。 少年はそんな久我の物騒な調子になんら関心を示すことなく、一人納得したように頷くと再び立ち上がっていた。 「亮に力をもらったんだね、君は。そうか。命をいくつももらえるほど、君は亮と親しくて、それを君にあげられるほど亮はきちんと成長しているんだね」 「おまえ、何を、言ってんだ……?」 「僕はどうするべきか考えてしまうよ。もう時間が迫ってる。僕も決断をしなくては……」 「だからおまえは……」 「君の名前は貴之。僕の名前はエリヤ。君の魂は白くはないけど綺麗な色をしているよ」 久我の背筋がゾクリと凍り付く。 今の会話の流れがわからない。 久我は己のことなど何一つ少年に語ってはいない。自分の魂が汚れているのかと文句を言ってもいない。 だがそれらの解が突如ポンと提示された。 こいつはヒトじゃない──。 今更ながらにその事実を久我は深く認識する。 しかもここはセラではない。 あの不条理だらけの世界とは違う、完全な物質世界、現実だ。 「恐くはないよ? 僕はいつも君たちと共にある。見えていないだけなんだ。……今、君には見えているけどね」 少年はくるりと久我に背を向けると歩き出す。 だが下生えを踏む音がしない。 確かに歩いているはずなのに、空気が動かない。 「じゃあね、貴之。亮を大事にしてあげて」 「っ、おい!」 久我が思わず大きな声で呼び止めようとしたそのとき。 「アンジェラ、再び捕捉した! さっき現れた地点に近い!」 「今度こそ見失うなっ……って、くそ、つまずいた!」 「暗視モード切ってんだから足下は自力でなんとかしろよ!」 男達が活気づき、再び久我の近くへと集まり始める。 どうやら奴らの言う「アンジェラ」とはあの少年のことらしい。 そして奴らにはあの少年は見えていないのだ。 その証拠に、少年が男達のすぐ後ろを歩いているというのに、誰一人そちらを向く者がいない。 あれほど光っている対象物をどうして目視できないのか──久我には理解が出来ない。 「くそっ、また逃した! ゴーグルの電源がそろそろ切れる」 「かーっ、潮時か。テーヴェになんて報告すりゃいい」 「いつも通り逃しましたとしか言えないだろ……」 男達がキョロキョロしている間に、少年はいつしか久我の視界からも消えている。 その時、久我はようやく思い出していた。 テーヴェという名前。 それは現在久我たちセラ・テロ対策特別局が追っているテロ集団『環流の守護者』――通称ガーディアンのトップの名だ。 「まじかよ……」 久我が呟いた瞬間、サイレンサーにより殺された銃声が小さく響いた。 「どうした!?」 「いや、引き上げんならさっきのガキ、とどめ刺しとかなきゃまずいだろ」 「おまえ相変わらず慎重だな。ハラワタ出てたんだから死んでるよ」 「脳天に一発ぶち込んで二度殺しといたわ」 楽しげに談笑しながら去っていく男達の後ろで、僅かに空気がぶれる気配がした。 |