■ 5-21 ■



 現代的な石張りのフロアを抜け、不必要に背の高い自動ドアを抜けると、外はどんよりと曇った今にも降り出しそうな空模様だった。
 エントランスに張り出した重い石造りのキャノピーがこの天気をさらに重苦しいものに変えている。
 湿った風がぬるく吹き過ぎ、キースのくすんだ赤毛をかき乱していく。
 気温は摂氏25℃を超えているだろうか。暑くはないが湿度のせいでやけに不快だ。
 IICR本部のセラベースは、リアルの施設が寒乾気候にあるためか、その名や存在とは妙に不釣り合いな温暖な気候のセラへ作られていた。
 半袖のサファリスタイルに身を包んだ彼は手団扇で己を扇ぎながら、横を歩く彼のボスを見上げた。
 黒のロングコートをかっちりと着込んだ出で立ちは、この気候にあって暑苦しい以外の何者でもないとは思うのだが、不思議とそのようには映らない。
 彼の周りだけ凍てつくような空気が立ち上り、ぴりぴりと帯電すらしているようだった。
 見ているだけで、震えが走りそうだ。
 同じイザだというのに自分と彼と何がこうも違うのか──己のサファリジャケットを指でつまんで眺めながらキースは溜息をつく。
 これは能力値の差という単純な問題ではないのだろう。
 とにかく今、彼のボスは気が立っている。
 理由はよくわかっている。とにかくそれを解決しないことには、キースの心安らかな日常は戻ってはこないだろう。
「今、車が回されて来ますんで、ちょっとお待ちアレ」
 エントランスの階段前で立ち止まると、彼のボスも足を止める。ちらりとそちらを見やれば表情こそ相変わらずないが、完全に苛立った様子で見事な赤毛を掻き上げ目を伏せている。
「んなイライラしないでください。五分とかかりませんって。そんなピリ付いてたら持たないぜ、キング」
 胸ポケットから若干親父臭い銘柄の煙草を取り出すと一本咥え、箱ごと一本、隣のボスに差し出す。
 例の鋭い眼光でギロリと見下ろされたが、それでもチェーンスモーカーで知られる彼は躊躇なくそこから一本抜き取り咥えると、己のポケットから取り出したライターで火をつけていた。
 それを確認するとキースも同じく火をつける。
 リアルでは肉体年齢がネックとなり吸うことが出来ないせいもあり、ここで吸う煙草はやけに美味い。
「しっかし、環流の守護者って奴らは何考えてんだか。人間大量に殺したからってそのアルマで転生システムである生樹の詰まりが取れるなんてこたあるわけねーのに。そんな便所の水流すみたいにはいかねぇだろ、普通考えたって」
「…………」
「しかもそいつらに同調したのかなんなのか、他のなんのつながりもないテロ組織が次々と吸収合併されてるってのはどういうカラクリなんだか」
「…………」
「やっぱあれですかね。指導者のテーヴェがうちのOGだってことがやっかいの引き金なんかなぁ」
 無言のまま何の返事も返さないシドの様子を気に留めることもなく、キースは一人延々と話しかけ続ける。
 その間にも何人かの人間がエントランスを出入りしているが、この目立つ赤毛の長身に声を掛けてくる勇者は一人もおらず、時間をつぶすためにキースはひたすら口を動かさざるをえない。
 なんというか、今の状況の沈黙が恐いのだ。
 沈黙=ヒマ=時間を無駄にしている……という図式がボスの中で成り立つのではないかと思うと、気が気ではない。
 彼のボスがリアルに戻りたくていてもたってもいられないということを、キースは百も承知だ。
 だが現状はそれを許さない。
 環流の守護者──ガーディアンという組織は日に日にその規模を大きくし、どれだけこちらが計画をつぶし実行者を検挙したところでそれ以上の速度で組織が膨張しているらしいのだ。イタチごっことすら言い難い分の悪い状況である。
 捕らえても捕らえてもそいつらは末端の人間で中心部にいる者たちに届くことがない。
 まるで伝説的な犯罪組織「コールドストーン」のようだとすらキースは思う。
 あちらは首領のカリスマと知性で巨大な組織をコントロールしているという噂だが、環流の守護者の教祖はカリスマと技術力で思うさま組織を動かし、増大させている節がある。
 とにかく相手の数に対してセラ・テロ対策特別局の人数は圧倒的に少なすぎる。
 寄せ集めの少人数部隊がどうにか機能し、ガーディアン達に対抗できているのは偏に指揮を執るイザ・ヴェルミリオの存在が大きい。
 その圧倒的な戦闘力だけでなく、前諜報局長であるがゆえに各方面の情報に通じ、それを的確な判断で利用し迷いなく指示を下す彼の存在は希有である。ヴェルミリオの存在が他の局員達に絶対の信頼感を与え、烏合の衆を数日にして連携の取れた一個部隊へと変貌させていた。
 彼がいなければテロ特はその機能を果たす前にガーディアン達の抵抗に遭い容易に駆逐されてしまっていただろう。
 そして今もその状況は変わらない。
 ヴェルミリオが外れればテロ特は機能しなくなり、下手をすれば全滅の憂き目を見るに違いない。
 この部署がどれだけリスクが高く不安定なものなのか、キースは肌で実感している。
「研究局の連中は自分たちのOGがこんな有様になってること、どう思ってんだか」
「OGではない。追放者だ」
 ようやく聞こえたボスの声は不機嫌きわまる超低音だ。
 それでもキースは慣れた調子で軽口を叩く。言葉を返してくれただけで御の字である。
「んじゃ、ある意味キングの先輩だな」
 ギロリと眺め降ろされるが、すこしばかりそばかすの残るほお骨の高いオヤジはケロリと笑ったまま紫煙を吐き出した。
「テーヴェが研究局主任だったのはもう三十年以上も前のことだ。人間のアルマに手を加える禁忌の研究を行ったというのが追放理由だが──」
「詳しいことはわからない、と。キングがクラウン襲名して諜報局局長に就任するより何年も前のことだからなぁ。俺はもうここに戻って来てはいたが、ぺーぺーだったわけだし当時の事情はよくわからねぇ。なんだかんだ今のクラウンは若い奴が多いし、状況をわかっていそうなガーネットやらヴァイオレットやらは去年の事件でいなくなっちまったしな」
「次の作戦終了時に長老との接見を申し入れてある。そこでどれだけの情報が引き出せるのかはわからないが、諜報局に残された埃にまみれた報告書を読むよりはいくらか身があるはずだ」
「うーん、まぁ生の声を聞こうと思えばそれしかねーが、あの狸じじぃたちがちゃんと答えてくれるかね。キングはじぃさんたちに嫌われてっから」
「IICRの過去の恥が関わっていることだ。喋ってもらわねば困る」
「それはそうなんだが──。年寄りどもはワガママで感情で動く生き物だからなぁ。接見時になんか甘いもんとか持ってった方がいいんじゃねぇか? ほら、日本のなんつったけか、ヨーカン?とかマロンきんとん? とかよ」
「…………必要だと感じるならおまえが用意しておけ」
「へぃへぃ」
 キースが肩をすくめて苦笑混じりに返事を返すと同時に、黒塗りの大型セダンがエントランスに横付けされる。
 窓ガラスが沈むと、テロ特の一員であるライドゥホの青年がひょっこりと顔を覗かせていた。
「お待たせしました! 次のセラへ行く途中のロードに大きなエネルギー潮流が2カ所もあるんで、そこ突っ切るためにちょっとタイヤにスパイク履かせてて遅くなってしまいました。すいません」
 茶色の髪をツーブロックに刈り込んだ彼はまだ十代後半に見える車両局の新人で、新人であるが故にテロ特へ差し出されることになってしまった生け贄のような気の毒な青年だ。しかし若いが故に自分が損な役回りを押しつけられたとはあまり考えてはいないようで、かの有名なイザ・ヴェルミリオの足回りを担当できるとあってやけにはりきっているらしい。
「お、ランディくん。ご苦労ご苦労。エネルギー潮流? それ大丈夫なのか?」
 くわえ煙草のままキースは後部扉を開け、まずは彼のボスであるシドを先にシートへ誘うと、己も続いて中へ乗り込んだ。
「大丈夫ですよ。車両局でも一番馬力のある車借りてきました。見た目は普通のセダンですが、中のエンジンはバケモノ級ですよ」
「あのシブチン車両局がそんなのよく貸してくれたな」
「え? 課長に言ったら速攻OKでしたよ?」
 恐らく車両局課長は彼なりに新人へ負い目を感じているに違いない。本来ならその課長クラスがここへ出向してくるのが筋と言えるのだ。そんなことを考えもしないランディが「やっぱり課長は頼りになる」などと喜んでいるサマを眺め、キースは目頭が熱くなるのを感じた。
「時間はどのくらいかかる」
 煙草を車内の灰皿へ押しつけながら、シドが声を掛ける。
 途端にバックミラーに映るあどけなさの残る面立ちが緊張し、裏返りそうな声で「に、2時間ほどでアリマス!」と謎の軍隊風口調で答えを返す。
「2時間か。確かに潜り直すより随分と早く着くな」
「はっ、はいっ。じ、ジブンの可能な限り、すっとばして行きますんで!!」
「スピードも大事だけど安全運転頼むよー。俺車酔いしやすいんだよ」
 情けない声を出してみせるキースにランディは少し頬を弛め「わかってます」と頷いてみせる。
「2時間もあるなら、キング、少し寝た方がいいぜ? あんたこっちに復帰してから一睡もしてないだろ」
 シドが亮の件でIICRへ舞い戻ってから一週間以上が経過している。だがその間シドがリアルで眠ったという話を聞かない。
 戻った当初は亮に付きっきりであり、クラウン復帰が決まってからこちらはその雑務に追われ軽くシャワーを浴びる程度しか休憩は取っていないはずだ。
 テロ特が始動してからなどはほぼリアルにすら帰ることが許されていない。
 ほんの一時間ほど戻ったこともあったが、その時も亮の居るセラへ入獄していたと話を聞いている。
 つまりリアルの肉体は10日以上本当の意味で「無睡眠」であるといえる。
 もちろんセラへ入獄している間は肉体は眠っている状態に近くはなるが、それでもアルマが離れて活動している状況では、本来の休息を得ることは出来ない。
「この程度よくあることだ。気にするな」
「よくあることって、んなわけないでしょ。渋谷さん怒るよ、そんなブラックな環境じゃないって!」
 そんなキースの小言をしれっとかわしながらシドは左手をキースへ差し出す。
「なんですか」
「次のターゲット都市の詳細データをもう一度確認する。寄越せ」
 どうやらキースが手にした鞄の中に入っている資料を出せと言っているらしい。
「はぁっ!? あんたバカでしょ。リアルで寝られないならせめてセラん中で寝ろって言ってんだよ! 資料は渡さねーよっ」
 断固として断ったキースの様子に、彼のボスは不機嫌そうに彼を眺め降ろすと、仕方ないといった様子で腕を組みシートに背を預けて目を閉じた。
 よしよしとうなずき自分も口を開けて睡眠体勢に入ったキースの耳に、三十秒とたたないうちになにやらくぐもった振動音が届く。
 嫌な予感がして目を開ければ、隣のボスは懐から携帯電話を取り出し何者かと会話を始めていた。
 内容を聞くとどうやら相手は現諜報局局長ハルフレズらしい。
 しばらくジロリとその様子を眺めてやったが、そんなキースの視線などどこ吹く風で、シドは固い声音のままハルフレズとの会話を止めそうにない。
 ガーディアン達の新しい情報が次々と送られてくるのだ。それを切って寝ることなど彼のボスには有り得ないことだろう。
 三十分近く会話を続け、ようやく電話を切ったと思ったら、今度はまた別の相手にコールをかけ始める始末。
 別の部署へ何やら指示を飛ばしているらしいが、この男はいつになったら寝るつもりなのか。
 ヤキモキしているせいでキースも全く眠れない。
 そうこうしているうちに凄まじい揺れが車体を襲い、エネルギー潮流へ突入したことがわかる。
 こうなると電話はつながらないためやっと眠るに違いないと思いきや、煙草に火をつけキースの鞄をひっつかんで勝手に資料を漁り始める。
 もうあと三十分ほどで目的地に着くに違いない。
「おい。これの続きどこだ」
 それでも頑なに目を閉じていたキースへ不機嫌な声が飛ぶ。
「っ、あんたは本当に……。こっちの鞄ですよっ!!!」
 忠実な副官キースはついに観念し、尻の下に隠していたもう一つの鞄を引っ張り出すと、彼のボスへほんのりあたたまったそれを押しつけていた。









「良かったね、体力だいぶ回復してるって」
 玄関へレオンを見送りに出た少女が、タンクトップを押し上げたたわわな胸を揺らしながら嬉しそうに戻ってくる。
 最初こそそんな健康的なお色気と「アルマと肉体の性別が違う」という事実に戸惑いを見せた亮だったが、二日ほどたった今は完全にうち解け、ルキの見た目を全く気にしないまでになっていた。
 元来優しく控えめで裏表のない性格のルキと、一見ひねくれているようだがその実、感情の作りが単純な亮とは相性がとてもいいらしい。
「それじゃ、今日こそ上のプール行ってみてもいいかなっ」
 ベッドの上でシャツのボタンを留めながら、亮は期待に満ちた目でルキを見やる。
「プール!? いやそれはどうかな、軽い運動ならってドクターは言ってたけど、プールはダメなんじゃないかなぁ」
 ベッドの脇に腰を下ろすと、困ったように太い眉毛を下げて少女は首を傾げた。
 そんな新しい友達にむかい唇を尖らせ、亮は思いっきり不満顔だ。
「温水プールだろ? 海で遠泳とかじゃないんだから軽い運動だよ」
「ドクターの言う軽いは、多分お散歩とかその程度だと思うんだ」
「えーっ、散歩は運動じゃねーよ!」
「こら亮。ルキくんを困らせるちゃだめだろ。プールはやめておきなさい」
 キッチンから昼食のプレートを持って戻った修司が、サイドテーブルにオムライスやらサラダやらを並べながら亮をたしなめる。
「あ、手伝います」
「オレも!」
 小さな二人がベッドを降りると、キッチンへ向かいころころと走るように行く様はとても微笑ましい。
「なんだ、そんな元気ならベッドまで運ばなくても良かったな」
「え、じゃあもう一度お皿こっちに持ってくる?」
「いいよ。あちらにテーブル出してみんなで食べよう」
 修司が小さなテーブルセットをベッドの横へ運び込み、そこへ亮とルキが料理を並べていって、あっという間に三人のランチ会場が完成する。
 こんな風に動いてももう亮は息切れすることもない。
 この三日でレオンの言うように、亮の体力はずいぶんと回復したようだ。
 あれだけの量の出血を伴う病状だった亮がここまで回復したことは、修司には何事にも変えられぬ奇跡だと感じられてならない。
 テーブルへ自分の分のオムライスを並べ終わってご満悦の亮の頭を思わず撫で、そっと抱き寄せる。
「?」
 どうしたんだ? とでも言いたげなまなざしで見上げてくる大きな黒い瞳に、修司は小さく微笑んでいた。
 そんな兄弟の様子に、横で見ていたルキも思わず笑みを零す。
「亮くんとお兄さんは本当に仲良しなんだね。なんか羨ましい」
「まーな。修にぃはオレの自慢の兄ちゃんだからな」
 得意げに胸を反らせながら亮は席に着く。
「ルキには兄弟いないのか?」
「最初の生まれでは8人、次の生まれでは2人、今世では兄がいるよ」
「ルキも兄ちゃんいるんだ。仲良いのか?」
「悪くはないけど僕は転生覚醒後、すぐにここへ戻っちゃったからあまり逢えてはいないね。顔見せろって両親からも言われてるんだけど、なかなか実家に帰る時間がないんだ」
 ルキも席に着き、三人そろってのランチを開始する。
 一同、両手をそろえて「いただきます」と声を出したとき、ルキは思わず吹き出していた。
 そんなルキの様子をきょとんと不思議そうに眺める亮に、ルキはごめんごめんと謝りながら、丸い目の端に溜まった涙を手でぬぐう。
「当たり前にイタダキマスする感じが久しぶりすぎてびっくりしちゃったんだ。そうだよね、亮くんも修司さんも日本のヒトだもの」
「そうか。ルキくんは今USA出身のはずだよね。あまりにナチュラルに声がそろったから気にも留めなかったけど……」
 修司の指摘にルキは大きく頷き返しながらオムライスを一口、口に運ぶ。
「僕、二度目は日本の生まれなんです。最初はオセアニアの群島。次は日本。そして北米」
「うわ、色んなとこで生まれてんだな。シドなんかずーっとイギリスだってのに」
「ヴェルミリオみたいに完全に国が同じってパターンも珍しいけど、近い地域に生まれるのは普通のことなんだよ。二回目以降の転生はアルマの形に近い肉体を引き寄せるから、どうしても人種や文化の近いところへ生まれがちなんだ。僕はちょっと変わり種かな」
「失礼だけどそれは切り替え型のアルマを持つことと関係しているのかな?」
「修にぃ、粉チーズ取って」
「おまえはすぐ粉塗れにする。一人で全部使い切っちゃだめだぞ?」
「わかってるよ。ちゃんとルキの分も取っておくって」
 会話の合間合間に兄弟の掛け合いが挟み込まれ、和気藹々と時が過ぎていく。
「そう、言われてます。特に僕みたいに不規則に男女入れ替わるタイプだと、引き寄せる肉体の許容範囲が広がるらしくて……」
「いいなぁ。そしたら色んな国の言葉がフツーに喋れるってことだろ? 英語とか勉強しなくてもいいんだもんな」
「あはは、そうかも。僕、フランス語なんかは苦手だから次はフランス辺り狙ってみようかな」
 冗談めかして笑うルキに、亮も楽しげに「すっげー、チャレンジチャレンジ!」とスプーンを持った手でガッツポーズを決める。
「こら亮。行儀が悪い。もぐもぐしながらはしゃがない」
「ふぁーい」
 気のない返事をする弟に「まったくしょうがない」と小言を言いつつ柔らかな視線を向ける修司は、心から亮のことが大事なのだなとルキは改めて感じ取る。
「なぁ、ルキはアルマ、男だったじゃん? でもここでは女の子だし、どっちがホントなんだ?」
「そうだなぁ。最初に生まれたのが男だったし、次も男だったから、突然今世で女の子として生まれたときは本当にびっくりしたし混乱したよ。まさかそれまで自分が切り替え型だなんて思ってもみなかったから」
「じゃ、ルキは男ってことか。そりゃびっくりするよな」
「亮くんも次の転生でもしかしたら女の子になってるかもしれないよ? 今はまだ気付かないだけで切り替え型かも」
「えっ!! ……お、オレはぜったい次も男だし!」
「兄ちゃんはどっちの亮も可愛いと思うぞ? 男だろうと女だろうと亮は亮だ」
「修にぃ!」
 真っ赤になって抗議する亮に、修司は楽しそうに声を立てて笑った。
「大丈夫だよ。修司さんだけじゃない。男だろうと女だろうと、ちゃんとヴェルミリオは亮くんのことずっと愛してくれると思うよ?」
「へ……?」
 突然の爆弾発言に、亮は頬張っていたサラダのレタスを口の端からぴょんと覗かせたまま一時停止状態に陥る。
 そしてまん丸の目をしたまま、機械的にもぐもぐゴクンと口の中の食材を飲み込む。
 しかし若干天然の気がある鈍感タイプの彼は、うっとりと乙女そのものに瞳を潤ませながら、次々と爆弾を投下し始めていた。
「僕も初めて女の子として転生したときはフレズ君とどう接して良いのかわかんなくなって、自分でも訳もわからず距離を取ろうとしたりしちゃったんだけど、それでもフレズ君はこんな僕でもいいよって言ってくれたんだ。ヴェルミリオだって同じだよ。だって亮くんのことあんなに大事そうに抱きしめて、ずっと優しくキスしてくれてて、眠っている間中添い寝して撫でてくれてたんだもん、亮くんが女の子になったって絶対に」
「だああああああああああっ、ななななな、なに、なに、なに言ってんだよ、ばか、ばか、ルキのばかっ、そんなわけねーしっ、意味わかんねーこと言うなよ、ばかあああっ」
 一瞬にして茹で上がった亮は椅子を飛び降りるとルキの口を塞ぐべく、両手を挙げて掴みかかる。
 しかしどうして亮がこんなに慌てているのかまったく理解していないルキは、武力局の勇そのものの動きで上半身のスルーだけでそれをかわすと亮の身体を抱き留め、必死に弁解を試みる。
「どうしたの!? ぼ、ぼく、なにか変なこと言った!? えと、だから、僕が言いたいのは亮くんはちゃんとヴェルミリオに愛されてるってことで」
「ルキいいいいっ!」
 困惑したルキに半泣きでしがみつく亮を、修司は苦笑を浮かべながら引きはがしに掛かった。
「亮、ほら落ち着け。ルキくんがびっくりしてるぞ」
「修にぃ、違うから、これ、違うからっ」
「わかったわかった。ルキくんが言いたいのは、クライヴさんがおまえを大事にしてくれてるってことだろ? そんなの兄ちゃんも知ってるよ」
 後ろから落ち着かせるように抱きしめ耳元で囁けば、興奮状態だった亮の呼吸が徐々に整ってくるのがわかる。
「ほ、ほんとにわかった? シドは別にそーゆーあれじゃねーもん、ほんとだよ!?」
「ああ。クライヴさんだけじゃない。渋谷さんやクルース先生やルキくんや──亮はみんなに愛されてて兄ちゃん嬉しいよ」
 真っ赤な顔のまま上目遣いで眺め上げる弟に諭すようにそう言えば、亮はようやく安心したのか、はにかんだような笑みを浮かべた。
 驚いたようにこちらを眺めているルキに目配せをすれば、ようやく亮がなぜ暴走したのかわかったようで、こちらは眉をハの字に下げて困ったように笑ってみせる。
「ごめんね、亮くん。僕の言い方が悪くてなんだか変な感じにさせちゃって」
「そ……そうだよ! びっくりさせんなよ、もうっ」
 まだ真っ赤に茹で上がりながら抗議する亮に、何とも言えぬ愛しさを感じ、ルキは自分より少しだけ低い亮の顔を覗き込むようにしてぽんぽんと頭を撫でていた。最初の人生で8人もの兄弟のいたルキは、自分の後をいつもついて回っていたすぐ下の弟を思い出す。
 ルキもフレズも周りからは子供扱いされることが多いが、一度も転生を果たしていない16歳は本当の意味で子供なんだなと改めて思った。
「ほら二人とも。ご飯終わったらかたづけてお茶にしよう。それからゆっくりルキくんと散歩にでも行ってきたらいい」
「……ぅん」
 仏頂面で唇を突き出した生意気な顔のまま、渋々といった感じで頷いた亮は、皿に残っていたオムライスの最後の一口を掻き込むとスープを飲み干し、テーブルの上を片付け始める。片付け初めてもまだ指先まで真っ赤に染まっていて、こんなに恥ずかしがっていて、ヴェルミリオとはそういう大人のふれあいが出来ているのだろうかと一瞬首をひねりかけたが、あの強引なイザの頭首の様子を思い出し、できないわけがないかと思い直す。
 どうやら修司は亮とヴェルミリオの関係について正しい情報を持っているようだし、それに気付いていないのは亮本人だけなのだろう。
 そう思って亮を眺めると、頬を朱に染めながら憤然と皿を運び始めたその様子が溜まらなく可愛く思え、甘酸っぱい感情が胸の中に溢れかえる。
 この子が普通に幸せに過ごせればいいなと、そう思う。
「確か今朝ライス執事長がスコーンを差し入れてくれてたはずだから、それも一緒に食べようか、亮くん」
 ルキが提案すると、尖らされていた唇がふわりと緩んで笑顔になろうか食いしばろうか瞬間迷った挙げ句、若干の仏頂面で落ち着き「たべる……」と小さな声で答えていた。
 思わずふふふと笑いが零れそうになりぐっと堪える。ここで笑ったのがばれようものなら、きっとまた亮は臍を曲げてしまうに違いない。
「じゃあ僕はジャムやクロテッドクリームを用意するから、亮くんはお片付けお願いね」
「ぃぃょ」
 いまだ仏頂面をキープしているが、それでも亮の足取りが急に軽くなったのをルキは見逃さない。
 本気で吹き出しそうだ。
 修司もそれを見つけ、お互い目配せで笑い合う。
 と──。
 不意に玄関のチャイムが鳴った。
 ライス執事長が何かの伝達事項でやって来たのか、それともいつものようにシャルルの顔見せか──。
 ルキは「はい」と返事をすると、小走りに玄関へ向かうと扉の鍵をはずしていた。
 ルキの小さな身体がはじき飛ばされるほど勢いよく、玄関の扉は開けられる。
 数名の男達が無遠慮に部屋の中に踏み込んでくる。
「ルキっ!」
 弾かれたように亮が駆け寄り、よろめいたルキを守るかのように男達の前に立ちはだかる。
「何事ですか!」
 異変を感じ取った修司が駆け寄ってくると、さらに亮を庇うように身体を抱き寄せていた。
 その一連の動きを眉一つ動かさず眺めていた中央の男が、一歩進み出ると修司に向かい恭しく礼を取る。
「お騒がせして申し訳ない。私はIICR執行機関ヴァーテクス、主任執行官ハガラーツ・レドグレイというものです。今日、我々は成坂亮の身柄を安全なエリアへ移送するためやってまいりました」
 整えられたグレーの髪に仕立ての良いスーツを身に纏った若い男は、同じほどの高さにある修司の顔を瞬きもせず眺める。
 言葉は慇懃だが、その深く青い視線は修司のことを対等の人間だと思ってなどいないことを隠さない。
「移送? そんな話はプラチナから聞いていません。ここはIICR内でどこよりも安全なはず。私は亮の保護者としてあなたの入室を拒否します」
 毅然とした態度で言い返す修司に対し、少しばかり驚いたように目を見開くと、レドグレイはゆっくりと首を振ってみせる。
「事態は変わったのです。あなたが亮の保護者として、わざわざ日本より渡り滞在していることは承知していますが、この組織に於いてあなたが決定できることなど何一つない。そこをどいて、腕の中の弟君をこちらへ引き渡していただきたい」
「ま……待ってくださいレドグレイ! 本当に僕たちはなにも聞いていないし、あなたの言葉を鵜呑みにして亮くんを差し出すことなどできるはずもないですよっ。ここはセブンスです。全てはプラチナの許可がなければ何も為しえない!」
 同じく亮を庇うようにルキが声を荒げる。
「ルキ・テ・ギア。君にも亮の身の回りの世話をお願いするため、一緒に来てもらうつもりだ。少々身体に負担が掛かる場所だが、君の能力値ならクリアできるはずだからね」
「!? あなたは一体どこへ亮くんを──」
 言いかけたルキの言葉をかき消すように、大きく扉を開く音が響き渡り、一人の少年が駆け込んでくる。
 この館の主であるゲボ・プラチナ。シャルル・ルフェーブルその人だ。
 扉付近にに立つ3名の大柄な男達を掻き分け、苛立った調子でレドグレイの前に立つと怒りに燃えさかる美しい目で執行官の顔を睨み上げていた。
「なんの冗談だ、レドグレイ。僕はあんたをここへ入れる許可など出していない。僕の許可なきセブンスへの進入は転生刑に値する。覚悟はできているんだろうな」
 普段のボーイソプラノからは想像も出来ない低く鋭い声で、セブンスの主は目の前の男を糾弾する。
 しかしレドグレイは真っ向からその責めを受けて立ち、静かな声音でこう続けた。
「あなたの許可は必要ない。もはやこれは決定事項だ」
「何を言って──!」
 屈辱に叫び掛けたシャルルの前に、レドグレイは一枚の紙きれを突きつけていた。
 それを思わず手で払いかけ、しかしシャルルの動きはそこで停止してしまう。
 シャルルの瞳にはよく知る筆跡のサインが映り込んでいた。
 それは紛れもなく──
「ビアンコに許可はいただいた。あなたとの約束でしたからね」
「……嘘だ。どうして……」
 シャルルはその勅令を手に取り唇を噛み締めたままそれを眺め続ける。
 しかし何度確認してもそれはオートゥハラ・ビアンコその人の花押であり、見間違えようもない。
 書面には
『成坂亮の身柄をセブンスより樹根核へ移送することを許可する。その際のアクシス使用も必要回数申請の後、許可するものとする』
 と短い文章で記されていた。
 シャルルの全身にぞわりと鳥肌が立つ。
 正気の沙汰とは思えなかった。
 指先がぶるぶると震え、我知らず令状を握りつぶしてしまう。
「樹根核だなんて──冗談だろ?」
 まるで独り言のように呟くシャルルの様子に、事態が飲み込めていないルキも修司も言葉をなくしたまま状況を見守る他ない。
「冗談などではない。セラよりさらに上深層に位置するあの世界ならば、どんな屈強なソムニアであろうと独力で踏み込むことは不可能だ。亮の安全を図るのにあそこより適した場所など考えられない」
「それはあそこが肉体ごと上げられちゃうからだろ!? それがどれほどの負担か、わからないはずないだろうがっ」
「確かに肉体ごと打ち上げるため利用するアクシスは、アルマにも肉体にも大きな負担を強いる。だがそれは一瞬のことだ。樹根核へ上がってしまえばほぼ他のセラと変わらず、緩やかな世界が広がっているに過ぎない」
「そこまでする必要を僕は感じないね。樹根核には研究局の胡散臭い施設があるだけじゃないか。そんなとこに肉体ごと亮を閉じこめてどうしようってのさ!」
「閉じこめるとは人聞きが悪い。研究局は医療局と連携を取って引き続き亮の治療を最優先事項として続けると言ってくれている。これは入院という措置でもあるのだ。──そもそも冷静になっていただきたい、プラチナ。ほんの数日前もこのセブンスへ侵入を試みる愚か者が現れたばかりだろう。おまけに翌日、旧セブンスエリアで外部からの侵入者が一人逮捕捕縛されている」
「だがそんなものは事前にどれも防いでいる。亮を肉体ごと隔離する理由にはならないっ」
 どうやら『樹根核』という場所は常軌を逸して特別な場所らしいことを、修司もルキも感じ取り、亮の身体をぎゅっと強く抱きしめる。
「理由になるのだよ、プラチナ。本日付けで亮が帰還した情報を、IICR公式発表として流すことが決定した。異界に捕らわれていた幼いゲボは、IICR研究局の働きにより先日無事取り戻されたという内容だ」
「っ!!!」
 シャルルも修司もルキも、そして亮も息をのむ。
 一年前の事件以来、亮の安全を考慮し伏せられてきた『成坂亮生存』の事実が公表されようとしている。
 それは亮達にとって安寧の日々の終わりを意味することだ。
「なんで──っ、ビアンコは内緒にしてくれるって言った! なんで急にそんなこと──」
 修司の腕の中から、思わず亮は目の前の青年に噛み付いていた。
 しかし青年は静かに亮を見つめると、諭すように続ける。
「トオル ナリサカ。あなたは覚えていないかもしれないが、数日前、あなたは大きな事故を研究局のあるエリアで引き起こしている。あなたは力を暴走させ、研究局の人間4名。警備局の人間12名を殺害しているのだ。もちろん病状の悪化による暴走であるため、あなた自身に責任能力はないと司法も判断するだろう。だが、事故現場付近には数多くの目撃者がおり、あなたの姿も確認されている。彼らは仲間を失い、その仲間を殺した人間を目撃しているということだ。それはいくら箝口令を敷いても封殺できないほどの衝撃や憎悪を生んでいて、……トオル ナリサカは生きていて、彼らの仲間を殺したのだという噂は消しきることができない。そうなるとIICR本丸の信頼性も失われることとなる。組織にとってこれは致命的なことだ。わかるね?」
 丁寧な日本語で語られる事実に、亮は言葉を失った。
 レドグレイの言っていることを、亮は僅かだが覚えている。
 夢うつつのようなあの閉じられた空間。
 ルキの首を絞めたあの感触。
 スクリーンの向こうで消えていく人々。
 詳しい話はルキの口から聞き、大まかな状況は理解していた。
 だが、あの時消えたように見えた人々が本当に死んでいたことを、亮は知らなかった。
 怪我をさせたルキが許してくれた。それだけで事件は終わったように感じていた。
 だがそうではなかった。
 亮は人を殺していたのだ。
 ガクガクと身体が震え、膝から崩れ落ちそうになる。
 それを修司が抱きかかえ、強く抱きしめてくれた。
「オレ、人を、ころし……」
「違う。亮。そうじゃない。事故だ。あれは事故だった──」
 抱きしめた修司が力強い声でそう囁いてくれる。
「そうだっ、あれは事故だろっ。変な単語を使うなよ、バカっ!」
 目の前でシャルルがレドグレイに噛み付いている。
 そんな二人を見下ろしながら、レドグレイは声を荒げることもせず、変わらぬゆったりとした調子で説明を続ける。
「失礼。日本語は不慣れで──。不適切な単語があったなら謝ろう。だが、実質的な事象はそうなのだ。現状でも亮の存在を疑い、セブンスへアタックをかける者が現れている。IICR中央でこのような混沌が許されるはずもない。そうなれば残る方法はただ一つ。亮の生存を発表し、あなたを全力で守る。それしかないと我々は判断したわけだ」
「中央がそんな発表をすれば、内部の不穏分子は逆に動きを封じられるはずだ。その為の発表でもあるのだろう!? それじゃ亮を樹根核に移送する理由にならない。それなのになんで──」
「亮を狙うのが内部の犠牲者縁者だけでないとすれば、どうだ?」
「──っ、それは」
 そう言うとシャルルはぐっと言葉を詰まらせる。
 どうやらレドグレイの言う意味を、言われる前に理解してしまったらしい。
 セブンスの全てを知る彼にはすでにその情報ももたらされているのだろう。
「先日、旧セブンス近辺で一人の侵入者が捕まった話は、先ほどしただろう」
「……はい」
 ルキが慎重な様子でうなずく。
 この男の言う言葉に一分の隙でもあれば食ってかかろうと、そう少女の黒い瞳は燃えている。
「あれは近頃隆盛を極めているテロ組織、環流の守護者メンバーである可能性が高いという結論に至った」
「そんな──!? どうしてそんな分子が本部の敷地内に──。セキュリティはどうなってるんです!?」
「その辺りの詳細は研究局の報告書待ちだが、彼らは恐ろしいほど高い技術力を有している。セキュリティシステムの無効化をはじめ、衛星のジャミング機能まで用いた進入計画をたてていた節がある。だが元々彼らはリアルでのテロ活動は多くはない。その全てがおおよそセラで行われている。そんな連中がなぜわざわざ敵の本丸とも言えるIICR本部へ侵入を試みたのか──」
「理由が亮くんだって言いたいんですか? でもそれはおかしいですよ。8番目のゲボはもうこの世にいないことになっているはずです」
「だからこそだよ。彼らは旧セブンスの6階。異界に浸されて手の着けられなくなったあの場所から『アンジェラ』とやらを捕縛するためにこの地を訪れたと、調書が取れている。その言葉は彼らの暗号のようなもので正解は未だ不明だが、連想できる人間が一人だけいる」
「それが、亮だと──言いたいんですか、あなたは」
「修司さん、でしたか。もちろんそれは憶測の域を出ない。だが、亮くんの生存発表はそういった連中を引きつけてやまないという事実は変えられない。異界から戻ったいわゆる『鬼子』と呼ばれる存在は、その期間が長ければ長いほど異端の能力を有し、価値が上がる。それについてはルキもよく知っているはずだ」
「…………っ」
 少女は下唇を噛み締め、目を伏せた。
 ルキが未だソムニアではなかった頃。セラにてゲボが開いた異界の口へ落下し、その数分後こちらへ戻ってきたという出来事は彼をソムニアとして覚醒させ、その能力を変異させ、そして、その世代の彼の命を奪い去った。
 ルキはソムニアの歴史の中でも数名しかいない『鬼子』と呼ばれる存在であり、それゆえ亮の炎翼を防ぐほどの人外の異能を持っているのだ。
 数分で戻ったルキですらこうなのだ。
 もし先日の事件で亮が戻ったというのであれば、亮はセブンスでの昨年10.19事件以来一年以上異界にいた──という事実が成立してしまう。
 テロリストたちにとっては、危険を冒してIICR本部にまで侵入するほど欲しい存在となるだろう。
「理解していただけただろうか。組織の安定を図るためには亮の存在を発表するしかなく、亮自身をを絶対的に守るには、さらなる堅固な入れ物が必要だと言うことが」
「……それでも。僕は断固許可しないよ。セブンスにテロリストが攻めてくるなら攻めてくればいい。警備局が臆して僕らの警護をしないというのであればそれもいい。ゲボは貧弱な存在じゃない。自衛はできる。僕らの能力は元々武力局に属する性質のものなんだ。いくらでも受けて立つよ」
 シャルルはまっすぐにレドグレイを見上げ、淡々とそう受け答えていた。
 その声音は静謐で、いつもの子供っぽい空気は微塵も感じられない。
 凛とした様子は彼がゲボの長として、プライドと責任を持って言葉を放ったのだと誰もがわかった。
 亮の生存を発表するならすればいい。それでも彼を守り抜くと、若いクラウンは覚悟を持って語っている。
「……参ったな」
 シャルルのその言葉に、さすがのレドグレイも思わず目を伏せていた。
 彼はプラチナを始め、ここにいる全ての人間を説得するだけの自信を持っていたのだ。
 その情報も材料も万全にし、逃げ道を全て塞いだ上でここへ訪れたつもりだった。
 だがゲボ・プラチナの覚悟はその上を行っていたらしい。
 もともとこの年若いクラウンと8番目のゲボは決して仲が良くはないはずだ。たとえプラチナが恋いこがれるヴェルミリオの存在があったとしても、いや、あればなおのこと、亮がいなくなれば彼は彼の思い人に近づけるはずなのだ。
 ヴァーテクスの強行だったと言えば、ヴェルミリオとてその責任をプラチナに求めるはずはない。
 むしろそれをぎりぎりまで防いだとして、プラチナの株は上がるだろう。
 こんな風にセブンス自体を危険に晒してまで亮を守る理由が見あたらない。
 だが、結果は──拒絶、だ。
 嫌がる少年達を力で組み伏せ、無理矢理連行するなど、レドグレイの信条にも美学にも反することだ。
 一応その為の要員である警備局の人間を引き連れては来たが、これはあくまでパフォーマンスであり、彼らを使う気など毛頭なかった。
 だが──このまま手ぶらで帰ることは有り得ない。
「私はあなたの言うとおりビアンコの勅令を持ってきたというのに、あなたはそれでも亮をここに留め置くというのか。それこそ立派な反逆行為だ」
「なんと言われようと、僕はうんとは言わないよ。ビアンコが直接ここに来ない限り、絶対に認めないからね」
「また無茶を言う──。この書類一枚であなたのクラウンとしての首が飛ぶこともわかっているのか?」
「本物ならね」
「それは──ずいぶんな屈辱だ。私がビアンコの勅令を偽造したとでも言いたいのか。侮辱罪で訴えても良いくらいの発言だが」
「待って! オレ、行く。行くからシャルのこと訴えたりするのやめてくれよっ」
 唐突にその声は修司の腕の中から上がった。
 修司はぎょっとなって腕の中の弟を見やる。
 亮はそんな修司に力強く頷いてみせると、そっとその胸を押し、一歩、レドグレイの方へと歩み寄っていた。
「亮っ!」
「大丈夫だよ、修にぃ。ビアンコ様が変な命令出すわけないもん。それに、シャルがオレのせいで訴えられたりしたら寝覚め悪りぃし」
「おま……、バカなこと言ってんじゃないよっ。僕がおまえを守ってやるって言ってんだろ!? 大人しく言うこと聞いてセブンスでゲボらしく暮らしてろよっ!」
「シャルだってわかってんだろ? あの書類のサイン、本物だ。オレも前見たことあるもん。カラークラウンになったってあんだけオレに自慢しといて、一ヶ月かそこらで首になってちゃかっこ悪いじゃんか」
「っ、このくそチビっ。勝手なことするなっ。僕が残れって命令してんだ、出しゃばるなよ、バカ!!! いいから黙って後ろに下がれ!!!」
 そんな風に怒りも顕わにわめくシャルルを笑って眺めると、亮はふわりと修司の胸に飛び込み、ぎゅっと抱きついていた。
 修司の眉が苦しげにひそめられ、そして同じように強く抱きしめる。
 亮が腕の中に戻った理由は、シャルルに言われたからではない。
 別れの合図だと、瞬時に兄は悟っていた。
「亮──行くな。亮──」
「ごめん。修にぃ。オレ、行かなきゃ。オレにも色んな責任があると思うから行かなきゃ。でも──修にぃにだけは、ごめんなさい。修にぃはオレの兄ちゃんだから。オレの家族だから──きっとそんなカッコつけ、通用しないってわかる。オレ、兄不幸だ」
「亮──、ダメだ。兄ちゃんそんなの許さない──」
「研究局があるってことは、有伶さんもいるだろうし、プラム様だってきっと様子を見に来てくれる。オレの治療が終わればきっとまた状況も変わってくる」
 そう亮は言うが、この状況で亮の病が治ったからと言って亮の身柄が自由になる保障などどこにもありはしない。
 修司はさらに腕へ力を込め、小さな身体を閉じこめるように抱きしめる。
 柔らかな髪から日向の匂いがした。
「絶対、戻ってくるから。ほんの少しの間だけ。やばいテロリストたちだって、今シドが退治してんだろ? そんだったらすぐに全員やつけられちゃうよ。あいつそういうの得意だから。そしたらセブンスだって安全になるし、オレも病気治って戻ってこられる。な?」
 柔らかな力で亮が修司の胸を押す。
 それは小さな力だったが、確固たる意志を孕んでいて、修司の腕をほどくには十分なもので──。
「ありがたい。私もことは荒立てたくないのでね。大丈夫。ビアンコ承認の元の辞令だ。悪い方向には向かない。――では、今すぐここを出てもらおうか。必要な日用品などは向こうでそろえてある」
「亮っ! おまえバカだ。ホントにバカチビだっ。かっこつけんな、バカっ。僕は、……僕はおまえに助けろなんて一言も言ってないっ。言ってないのにっ、なんなんだよ、おまえはっ!」
 怒りに震えるシャルルの声は湿っていて、亮は少し彼のことが好きになった。
 友達になれなくはないかな──と、そう思う。
「さあ、行こう」
 そう言うとレドグレイは亮の腕をとり、歩き始める。
 修司はそれを追いかけ亮の腕を今一度掴んでいた。
 だが振り返った亮は微笑んで、修司の顔をただまっすぐに見上げた。
 その笑顔があまりに透明で、修司の腕から力が抜ける。
 弟を止めることができない──。その絶望感が彼を打ちのめす。
 亮は修司の手を離れ、どんどん大人に──ソムニアになっていく。
 修司はそんな弟を守りきることができないのだ。

「修にぃ。絶対戻ってくるから。――大好き、だよ」

 そう言って、亮は部屋の扉を出て行った。