■ 5-27 ■


 顔が熱い。
 頭の中はぐちゃぐちゃだ。
 両手をいっぱいに振って、両足は交互に何度も廊下を蹴って、亮は全力疾走で石造りの素朴な廊下を突き抜けていく。
 エレベーターに乗るのももどかしく階段を駆け下りると、右に左に廊下を駆け抜け、目に付いた木製扉を思い切り開けていた。
 風が吹き過ぎ亮は面を上げる。
 空が見えた。
 もう昼間の眩い光は色を移ろわせ、代わりに茜色の輝きが辺りを染め上げ始めている。
 芝生を踏みしめ歩き始めれば、そこがどうやら中庭に当たる場所なのだろうということがうかがい知れる。
 中庭ならば散歩しても構わないとエレフソンから言われたことを思い出した亮は、熱い頬を冷ますべく先を歩き出す。
 すぐに不思議な建物があるのを亮の目は映し出していた。
 ガラスで作られているらしいその建物の中には緑の葉を蓄えた巨木が何本もひしめきあっているようだ。
 ルキに言われた「専属契約」の話ですっかり混乱してしまった亮は、引き寄せられるようにそちらへ足を向け、小さな扉を見つけるとこっそりと中へ入り込む。
 鍵が掛かっていなかったと言うことはきっと入っていいってことだと勝手に判断すると、むっとする独特な植物たちの匂いを嗅ぎながら奥へ奥へと進んでいく。
 温室の中は結構広く、温室というより小さな植物園と言った方がしっくりくるような場所である。
 くねりながら続く小道の周りには、見たこともない色や形をした草花や、見上げれば首が痛くなりそうな木々が、ゆるい空調の風に煽られながら気持ちよさそうに揺らめいていた。
「すげぇ……」
 樹根核に来てから、亮は鳥の声一つ、虫の音一つ、聞いたことがない。
 室内にも花が飾られることはなく、犬や猫といった観測所のペットのような存在も見受けられなかった。
 ここには自分たち人間以外は存在していないのだと、なんとなくそう思っていた。
 しかし今亮のいる場所には、自分たち以外の生命の息吹を感じることが出来る。
 亮は少しホッとしながら大きく息を一つつく。
 不意に視界の端を小さな影が横切った。
 ひらひらと舞うそれは蝶のような形をしている。しかしその素材感は葉っぱのそれであり、蝶の身体に当たる部分には小さな木の枝が存在するきりだ。
 植物なのか虫なのかわからないそれは3匹、5匹と増え、グリーンの羽根を羽ばたかせて亮の周りをふわふわと舞い始めた。
「……うわ、ちょ……」
 焦る亮の頭や肩にその蝶は止まり羽を休めると、亮が手で払う仕草に再び舞い上がる。
 そうこうするうち、グリーンの羽は徐々に虹色に輝き始める。
 その美しさに亮は彼らを追い払うことも忘れ、腕や頭に彼らを止まらせたまま静かに息を吐いた。
 淡い不思議な色合いで輝き続ける彼らを眺めている内、先ほどまで沸騰しそうだった脳みそもほどよく冷やされてきたらしい。
 なんだって自分はあんなにバカみたいに焦ってしまったのか、今となってはよくわからない。
 ルキはたとえばだと言っていたし、自分もたとえばで話していたはずなのだから、別にそんなふうに亮がテンパる必要などなかったのだ。
 自分の気持ちながらどうしてこうもうまく動いてくれないのかと溜息が漏れる。
 頭や肩に蝶たちを止まらせながらゆっくりと進む亮は、その時ふと人の話し声を聞き取り、歩みを止めた。
「……じゃないか。……で……、だし…………かも」
「…………だ。………………」
「うーん、まぁ……、……けど……、…………だねぇ」
 ひそひそと交わされる会話は男性二人のようである。
 一人はおっとりとした柔らかな声。もう一人は低めの声であるため聞き取りづらい。 
 一際葉の大きな低木の向こう側を覗けば、大きな作業台に向かって立っている男の背中が見えた。
 ぼさぼさの癖毛。よれよれの白衣。向こう側に立っているであろうもう一人の男はちょうど彼の影になっていて姿は見えない。
 作業台の上にはいくつかの鉢植えや、肥料、スコップなど園芸用品が並んでいるようだ。
 その見覚えのある背中に安心感を覚え、亮は声を掛けようと低木を回り込み、小道から作業台前に顔を覗かせる。
「有伶さん、こんにちは」
 亮が声を掛ければ、目に見えてびくりと肩をすくませ、有伶は文字通り飛び上がるみたいにして振り返っていた。
「ほわっ、あ、ああなんだ亮くんか。びっくりさせないでよ。普段ここには僕くらいしか来ないから必要以上にびびっちゃったよ」
 ずれた眼鏡を慌ててなおしながら、情けなく眉を下げて有伶は唇を尖らせる。
「ごめんごめん。あれ? さっき居たもう一人の人は?」
 見回してみるが有伶が話していたもう一人の姿は最早この場にないようである。
「え、ああ、統括が来てたんだけど、ほんの今し方帰ったよ。亮くんと行き違いだね」
「統括?」
「うん。この樹根核観測所の技術統括官であり、アクシス管理センター所長であるスルト統括。亮くんはまだ会ったことなかったかな」
 有伶の言葉に亮は首を横に振る。
 どうやらこの施設で一番エライ人らしい。
「その人もカラークラウンなの?」
「いや。彼は違うよ。彼は研究の虫で研究の鬼で研究マシンだから、カラークラウンみたいな雑用は絶対に引き受けない。僕と同じエイヴァーツなんだけど、本来なら彼がクラウン努めて然るべきなんだ。なのに研究に専念したいからって理由で僕にクラウン押しつけて逃げたひどい男だよ」
 僕だって研究だけしてたいよ、トホホ……と、漫画みたいな泣き言を言う有伶に苦笑を漏らしながら亮は作業台の横に歩み寄る。
「カラークラウンって雑用なの? そんなの初めて聞いた」
「そりゃもう雑用と責任の塊だよ! 亮くんだって学級委員とか、委員会の委員長とかやりたくないだろ!?」
「……うん」
 言われてみればそんなものかと妙に納得した亮は深く頷いていた。
「…………あれ。なに、どしたの? 亮くん、ものすごく興奮してたでしょ。お昼寝でシドさんの夢でも見ちゃった?」
 不意に何かに気づいたように有伶が妙な方向へ話を振る。
 あまりにタイムリーな「シド」という単語に再び亮の頬に朱が上ってしまう。
「なっ、なんでシドの夢見て興奮すんだよっ。てか、シドの夢なんて見ねーしっ!」
 勢い任せにそう叫べば、亮の肩や頭に乗った蝶たちが再び羽をはためかせ、キラキラと虹色の光彩を放っていた。
「ほら。それ」
「え!? なにっ!?」
「だから、亮くんに懐いてきてる感受草だよ。チョウチョみたいなそいつらはあるセラに生息する植物の一種で、人間の感情をエネルギーにして生きてるんだ。ここは栄養くれる人間も少ないから地味な緑色してたんだけど、今日のこいつらキラキラしちゃって。よっぽど美味しい感情をごちそうになったんだね」
 良かった良かったと、何がよいのかわからないが有伶は嬉しそうに一人うなずいている。
「えっ、これ……なに、オレ食べられてんの!? うわ、ちょ……」
 追い払おうとする仕草を見せた亮に、有伶は大丈夫だよと笑ってみせる。
「こいつらメチャクチャエコ仕様だからね。本当にほんの少し感情の波をいただくだけなんだ。だから吸われる側の人間は逆に興奮状態から冷めて冷静になれるってメリットが生まれる。それに落ち着いたときの薙いだ精神からは何も奪っていかないから害はない。元気な若者が少ない観測所だし、時々こうしてこいつらにご馳走しに来てあげてよ」
「う……うん……」
 若干嫌そうな顔をしながら頷いた亮は、腕を上げて止まっている感受草を眺めた。
 蚊や蜂のように何やら管を出して亮に刺しているわけでもなく、小枝がうまいこと肌の上に引っかかっているだけで、痛みなど特にはない。
 ただ単純な草に思えないのは、蝶のようなその二枚葉がゆるゆると羽ばたいているせいだ。
 最初見たときの深緑とは全く違うミルク色の羽は、オパールのように虹が渦を巻いていて本当に美しい。
「これ、有伶さんのペットなのか?」
「いや、違うよ。実験植物。ここは僕が管理している樹根核観測所内の実験植物園なんだ。木と馴染み深いエイヴァーツの能力が僕の売りだからね。能力自体も植物と関わり深いんだけど、植物を育てるのも好きなんだ。この中から僕の能力の役に立ってくれる植物も出てくるし、ね」
「役に立つって──この変なのが?」
 亮がちょんと羽を触ると抗議するようにパタパタと動かされる。
 ちょっと可愛くて思わず微笑むと、感受草は淡くピンクに輝いた。
「まーそれはお遊び程度かな。でも怒り狂ってる相手にけしかければ、すぐ冷静になってきちんとした話し合いが出来たりする優れものだ。この子達はヤドリギの亜種になるんだけど──僕の最も得意とするのがヤドリギを使った能力の行使なんだ」
「ヤドリギって……なに?」
「亮くんは見たことないかな。河川敷とかに生えてる桜の木、冬になると葉っぱが全部落ちちゃうのに一部分だけ丸いボールみたいに葉っぱが生えてるの」
「…………なんか見たことあるかも。ぽんぽんみたいな緑が枯れ木に引っかかってるやつ」
「そうそう、それ。アレがヤドリギ。他の木の栄養をもらって生きてるんだ。普通は一度そこに根付いたらそのまま一生そこで親木と共に生きるんだけど、感受草は可動式だから色んなアルマからちょっとずつ栄養をもらってる変わり種だね」
 会話の合間に有伶に椅子を勧められ、古びた木製の椅子に亮は腰掛ける。ついでに紅茶を勧められ、作業台の端に置かれた小さな籠から取り出されたマグカップに琥珀の液体を注いでもらった。
「ごめんね、冷たくもあったかくもないけど」
 そう言いながら有伶が自分のカップにも黄色のポットから同じ紅茶を注ぐ。
 傍らに置かれたもう一つのカップは先ほどまで居たスルト統括のものだろうか。無造作にカップの底に残った紅茶を地面に捨てると、ぴっぴと雫を切って再び籠の中へしまい込む。それを見ながら亮は、自分の手にある若干赤茶けたカップを眺め、なんとなくテーブルにそれをコトリと置いた。
「僕の能力はね、そのヤドリギを自らのアルマに寄生させて、様々なスキルに特化できることなんだ」
「!? 木を寄生? そんなの大丈夫なのかよっ。どんどん栄養吸われて死んじゃうとかないのか!?」
「まぁそうなるパターンのヤドリギもあるよ。数を増やすと危険なものもあるし……。でも僕はエイヴァーツだから植物との親和性が高い。だからその辺りは心配ないんだ。腐ってもカラークラウンだからね」
「へぇ〜」
 やたら感心した亮は再びカップを口元に寄せると、無意識にくんくんと匂いを嗅ぎ、目を見開いてカップの中身を見つめると再び作業台にそれを置く。
「エイヴァーツって自分のアルマそんな風にいじっちゃうとか、なんか凄いな」
「いや、エイヴァーツのこんな使い方をする人間はあまり見かけないな。メジャーなタイプは自分のアルマの一部を樹木タイプに変化させ武器に使うってものなんだけど、僕は攻撃特化型は向いてないし、こっちの方が性に合ってる。そのおかげでこんな風にハガラーツ並の器用さをゲットできたりもするし」
 言いながら手元の作業を再開したらしい有伶は、手元のガラス板の上に置かれた木の枝の先を虫眼鏡で眺めながら、たこ焼きをひっくり返す棒みたいな細い針の付いた器具で突いている。
 横から眺める亮には有伶が何をしているのかさっぱりわからない。
 松の葉みたいな細い葉っぱをたくさん茂らせたその枝の根元をちくちくと何度か触った有伶は、次にぽいっと器具を放り捨てると枝をつかみ、目の前の鉢植えに植えられた木の先に、おもむろにくっつけていた。
 すると特に接着剤をつけたわけでもないのにしっかりとその枝は木の上に立ち、しかも次の瞬間枝に茂った細い葉が次々と丸く大きく成長し始める。
 ほんの数分の間に、元々同じ木であったかのように、その合成樹木は一本の存在に変化していた。
「…………これ、どうなってんの」
「ああ、細胞レベルで切開と合成を行ったからすぐにくっついただけだよ。根元の特性と葉の特性をうまく合わせて新しい薬品の開発に役立てる予定なんだ」
「…………へぇ〜」
 細胞レベルの切開だとかを虫眼鏡とたこ焼き棒でやってのけるなどとは、目の前で見ていても信じられない神業だ。
 こんな風にぼんやりしていてもちゃんとカラークラウンだったんだなぁと、本日何度目かの感心を胸に抱いた亮である。
「これは有名なロディアセラに生えてる神手木ってヤドリギを僕のアルマの両手に住まわせて、それを利用してるからできる技なんだけど――、普通のソムニアがやると多分三年くらいで全身に根が回ってアルマがはじけ飛んで新しい神手木として繁殖に使われちゃうからお勧めはできないかな」
「うへぇ。やっぱヤドリギって恐いじゃん。自分の中に別の生き物がいるって寄生虫とかみたいだし、オレがエイヴァーツだったとしても有伶さんの方法は使わないかなぁ」
 そう亮が眉をしかめてみせれば、有伶は少し困ったみたいに微笑む。
「そう嫌わないでよ。ヤドリギは西洋では生命の源的な存在として神聖なものと見られてるんだよ。北欧神話なんかじゃ幸福や安全をもたらす聖なる木なんだ。あとはそうだな……クリスマスの日にツリーに飾られたヤドリギの下で出会った男女はキスをしてもいいって風習もあるよ」
「キス? なんで!?」
「どうもヤドリギの下でキスを求められて拒むのは縁起が悪いってことから始まったみたいなんだけど──、好きな男の子がいる女の子がキスを求めてヤドリギの下へ行くって、ちょっとロマンチックじゃない? 亮くんもクリスマスになったらヤドリギ飾ってその下に立ってみたら? きっとシドさんドキドキそわそわしちゃうって」
 亮の頬がカッと赤く染まり、同時に亮の周りをひらひら舞い飛ぶ感受草が濃いピンク色に点滅する。
「なっ、なんでそこでシドが出てくんだよっ! てかあのシドがドキドキとかソワソワとかするわけねーしっ!」
「いや、すると思うね。まぁ別の意味かもしれないけど。亮くんがそこに立ってる間はシドさん以外も亮くんにキスしていいってことだから、あの独占欲の塊は亮くんを抱えてその場から引き離しそうだ」
「ルキも有伶さんもなんでそう言う話ばっかすんだよ! …………お、オレとシドは、師匠と弟子、で、そりゃGMDの治療とかはしてもらったりしたし、オレがゲボだから、さ、さ、盛っちゃった時は、処理? みたいのをしてくれたりもするけど、でも! それはあくまで処理であって! ……えっと、好き、とか、そういうのとは、違う……」
 暴走しかけた亮は、少し落ち着き、再びまた暴走しかけ、少し落ち着き――と、忙しなく繰り返しながらなんとか話を進めていく。
 その度に感受草がキラキラとショッキングピンクに瞬き、亮の必死な顔を照らし出す。
「うーん、僕は恋愛ごとに関してはとにかく疎くて、実は恥ずかしながら童貞なんだけど──」
「ふぇっ!?」
 唐突なカミングアウトに亮は目を見開くが、有伶はそんなことは全く気にせず淡々と言葉を続ける。
「今のシドさん見てると、恋っていいもんなんだなぁってしみじみ感じるんだ。僕は恋と呼べるようなものをしたことがないからさ。今のシドさん、昔々からは考えられないほど変わったよ。最初の頃に会ったシドさんの恋人は、そりゃもうゲボ・プラチナを凌駕するほどの美少年だったけど──亮くんみたいに抱きしめられたりキスされたりしたことないんじゃないかなぁ。そりゃセックスは所かまわず激しかったよ? 僕と仕事の話してる最中だってのに、全然かまわず獣みたいにヤリまくってて──、正直見てるだけで食傷気味でさ。あの後遺症で僕はあれからずっと童貞を貫いてしまったんじゃないかなぁ」
「な、な、な、な、なに……、えっ、」
「なにって──僕が童貞なのは昔のシドさんたちのせいだって話だよ。あ、ちなみに後ろもちゃんと処女だよ?」
「そんなこと聞いてないよっ、バカっ、う、有伶さんの、ばかっ!」
 感受草が真っ赤に明滅しながら亮の周りは激しく舞飛ぶ。
「ちょ、亮くん、落ち着いて、感受草が食べすぎで枯れちゃうよ! ぼ、僕はとにかく、せっかくこんな素敵な感情を持ったんだからもっと大事にして、素直に受け入れるべきだってことを言いたいんであって──」
「オレの気持ちがなんで有伶さんにわかるんだよっ! それにシドはオレが色々なっちゃって責任とか義務とかで面倒見てくれてるだけだしっ、そんなのオレは知ってるしっ! オレは今のままでいいのっ。今のままがいいんだっ! 今のまま変わらずずっといられれば、それでいいんだっ!!」
 ついに感受草たちは羽ばたくのを止め、真っ赤に輝いたまま近くの木々へ舞い落ちていき、ぱったりと動かなくなった。
 どうやら栄養過多でギブアップらしい。
 亮は立ち上がると踵を返し、そんな彼らを風圧で吹き飛ばすように走り出す。
 今のままいられるように──亮はその為に樹根核まで来たのだ。治療し元の身体を取り戻し、また東京でみんなと暮らせるように。シドや修司と暮らせるように。
 あの時間は完璧で何一つ変わってなど欲しくない。
 だからそれを取り戻すためなら、亮は何だってする。
 木々の間の小道を駆け抜け、出口を目指す。
 と、矢庭に亮の身体が何者かにぶつかり、抱き留められていた。
「って──」
 鼻の頭を押さえて見上げれば、最初に亮とルキを観測所まで案内してくれた三人の内の一人、背の高いがっしりとした若い男が亮を見下ろしている。
 黒髪に黒い目をした彼は確かソウザという名だったはずだ。
 亮に色々解説してくれたエレフソンや陽気なイメージの研究局員・ラージに比べ彼は寡黙で、名を名乗ったきり会話らしい会話を交わしたことはない。
 亮を抱き留めた青年は少し眉をひそめると突き放すように亮の肩を押していた。
 力の強い男に押され、思わず亮がたたらを踏む。
「亮くん、大丈夫? ぶつかっちゃった? 怪我しなかった?」
 いつの間にか追ってきていたらしい有伶が背後から心配げに声を掛ける。
「大丈夫……」
 ばつが悪くそれだけ答えた亮は下を向いたままソウザの横を通り過ぎていく。
 そんな亮を全く無視し、ソウザは用件を有伶に伝えているようだ。
「ウィスタリア。統括を見なかったですか? 主任にお連れするようにと言われたんですがお部屋にもいらっしゃらないようなのでここかと──」
「スルト? さっきまで居たんだけどね。彼、僕の特製ハーブティーがイマイチだったみたいで、早々に出て行っちゃったんだ。今までにない実験的なブレンドだったんだけどなぁ」
「…………他に居場所の心当たりはないですか?」
「すれ違いなら部屋に戻ってるんじゃない? あいつ、研究実験以外だとふらっといなくなったりするから困ったもんだ。しっかしこう言うとき不便だよねぇ。ここじゃ携帯電話も使えないとかさぁ。有線での連絡は限度があるよ。早いとこ研究局でなんとかしたいとこだよね」
「俺はしがないコモンズですからその辺りはソムニア研究局のみなさんにお任せするほかないです。では、お手間を取らせました」
 有伶の軽口をそつなく受け流すとソウザは一礼し、出口に向かい歩き出す。
 亮は背後でのそんなやりとりを聞きながら温室の扉を開けていた。
 外はすっかり日が落ち、藍色の夕闇が辺りを充たしている。
 胸の中はぐるぐるととりとめのないものが渦巻き、ざわざわと粟立っていた。
 夜風を吸って息をつきかけ、しかし亮はそうしないで足早にその場を離れる。
 背後から歩いてくるソウザと顔を合わせたくなかったのだ。
 なんだか彼からは嫌われている気がする。
 自分を見下ろした彼の目は、凍り付いたような、だが何か熱に浮かされたような、奇妙な色を浮かべていた。
 小走りに本館への入り口を抜けると、自室に向かい階段を駆け上っていく。
 有伶の言った言葉を思い出す。
 シドの恋人。
 ずっとずっと昔──亮が生まれる何百年も前の話だ。
 シャルよりも綺麗な子なんているんだろうか。そんな子がシドの恋人で、自分は全然そんな風じゃない。
 今のままがいい──。そんなことを叫んだ気がする。
 あれがきっと自分の本当の気持ちなのだ。
 とりとめもない感情が渦巻いている。
 今すぐタオルケットを抱きしめて顔を埋めたかった。