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シドは考え込むように目を伏せ、ずいぶんと長い間言葉を発しなかった。 秋人はその答えを待つようにじっと相棒の顔を眺め、時を埋めるため手元のカップを取り上げて冷め始めたコーヒーのしょげかえった芳香を吸い込む。 向かいの一人掛けソファーに腰を沈めたシドは、秋人が先ほど話した昨夜の事件における検証結果を反芻しているのだろう。 夕べの内に、亮から聞き取りした事象の全てをシドに語ってはいたが、秋人がその後端末のログを漁って調べた情報を知らせたのは夕方も過ぎたこの時刻になってからだった。 午前・午後とクライアントとの話をまとめ仕事の締め作業にあてていたが、完全に依頼を達成してしまった今そんな雑務も長く続けることは出来ず、日も沈み始めた頃になってついに白状するような形でシドへ状況を説明した……というわけである。 それは取りも直さず秋人がシドに提供しうるだけの満足な結果を得ることが出来なかったためであり、それに派生する身の危険を感じざるを得なかったというのも本当のところで──。 夕べのシドのキレ具合を思い出すにつけ、このあとどれだけ自分がつるし上げられるかと思うと胃が痛い。 だがそれも然るべき、なのだ。 普段はシドが亮を怒る度それを止める役である秋人ですら、今回亮に起きた出来事のあまりの危うさには、背筋が凍り嫌な汗が全身に滲むのを止めようがなかった。 シドや秋人ですら手を焼いているソラスに、危険だとわかっていながら接触をはかろうとした行動だけが問題ではない。 その後ピンチに陥った亮はほぼ無意識に異神を召還していた。ソラスに精神的支配を受けかけている異常な状態でだ。 それはこれまで幾度も異神を召還し、亮の召還レベルが上がってきてしまったことの表れだと言える。 高位異神を自我が揺らいでいる状態で咄嗟に召還できてしまう亮の能力は驚嘆すべき才であるが、だからこそ諸刃の剣となる。 今回のこの事件でそんな亮の危うさが現実となって露呈したのだ。 亮は間違いなくあちら側へ一度は連れて行かれた。 記録されたログを見ればそれは明らかなことで、今亮がここにいて、普通に学校に行けているこの状況が奇跡と呼べるものだと思う。 そしてなぜ亮がこちらへ戻ってこられたのか──。 もっとも重要だといえるその部分については昨夜の聞き取りで、満足な結果を得ることが出来なかった。 亮の記憶は曖昧なもので、語る言葉は「気がついたらシドが顔を覗き込んでいた」だとか、「なんだかすごく綺麗だった気がする」だとか、まるで要領を得ない。そばに誰か居たのかという質問にも首をひねるばかりでまったく覚えていないらしい。 その様子は何かを隠そうと意図されたものではなく、本当に記憶が混乱しているためだと秋人は即座に判断できた。 それ故に秋人の手腕に全てを託され、深夜シドとの話し合いの後ほぼ徹夜で端末を前にがんばったわけであるが──。 「いやさ、どだい無理な話なんだよ。あの場で何が起きたのかデータだけで探ろうってのは。もちろん、セラ内の生命体や他の異神、獄卒的なエネルギー体が接触を図ってきたってのなら話は別だよ。あいつらの干渉力場は半端じゃない。こちらのデータに傷も残る。でもその場にいたのがごく普通の人間やソムニアだった場合、何か痕跡を探すなんて不可能に近い」 沈黙を恐れるようにいいわけを口にしてみる。 あの状況で亮が戻ってきた経緯を探ってはみたが、やはり異神と亮の交信跡は記録されているもののそれ以上はなにをどうやっても見つからなかった。 シドはあの場に別の人間が居たことを気にしているが、秋人から言わせればもしそこに誰か居たとしても高位の異神とゲボの間に立ってどうにかできる者がこの世界にいるとは思えない。 「思うんだけどさ。亮くんが自力でこちらへ戻ってきたって考えるのが妥当なんじゃないか?」 シドに状況を説明してすでに一時間以上経過していた。壁に掛けられた時計の針はもう夜の七時を指そうとしてる。 相棒の長い長い沈黙の意味を図りかねた秋人は、ギブアップだと言わんばかりについに思うところを漏らしていた。 そこでやっと相棒の琥珀の瞳は秋人の顔を捕らえ、じっと彼を見据える。 「それがおまえの結論か」 「うぐっ……」 「……おまえの自慢のマシンも存外頼りにならんな」 シドの言葉に言いようのないとげを感じる。 秋人もこう言ってはみたが、自分の説は「いいわけ」や「負け惜しみ」と同類のものだと心得ているからだ。 「亮はしばらく自宅から出さない。事態が見通せるまで学校も休ませる」 「え、おいっ、シド、そこまでしなくても──」 「そこまでせずとも、なんだ」 「…………。」 亮が一週間後に控えた文化祭を密かに楽しみにしていることを、秋人は知っていた。 もちろんシドもそんなことは百も承知だろう。 だが静かに下されるシドの言葉に憐憫や揺るぎなど感じられず──、秋人は改めてシドがまだ昨夜キレた状況のままなんだと思い知らされる。 亮のためにシドを納得させられるだけの結果を導き出せなかった秋人の罪は重いかも知れない。 「事態の全容がつかみきれていないこの状況で、簡単にロストするようなあの馬鹿を野放しにできるわけがないだろう」 「うう……、それはそうだけど……、勉強だって遅れるし」 何とか亮のために援護してやろうと秋人が戦きながら眼前の暴君へ意見を陳述しようとしたその時、事務所の扉がそろそろと開いた。 もう眼前のシドの視線は秋人にはなく、入り口でこちらの様子をうかがう少年へ向けられている。 「亮──。遅い。今まで何をしていた」 静かな声は若干の緊張を孕んでいた。 いつもより2時間近く遅い亮の帰宅は昨日の今日の出来事とあいまって、シドの神経をピリピリさせるに十分すぎる材料といえる。 亮も同じように感じていたのだろう、シドの声掛けに瞬間ビクリと身をすくめると扉を半開きにしたまま動きを完全に止めてしまっていた。 「うん、あの、亮くん、ちょっとお話、いいかな」 シドのこの静かな怒りマックス状態を納めるには、昨夜の事態の解明がまず第一条件である。そう判断した秋人は亮を招き寄せる。 自分の調査がうまくいかなかった今、頼れるのはその場にいた本人の生の声だけだ。 「昨日のこと今になって思い出したことがあれば聞かせて欲しいんだ」 しかし亮は固まったまま動かない。 どうしたのかと秋人がじっとそちらを眺めれば、亮は視線を下にしたままこちらを向こうともしていない。 「別に……昨日話したのが全部、だし……」 「だとしてもだ。言われたらすぐここへ来い。いつまで拗ねた態度を取っている」 「ちょっとシド、そんな言い方──」 「今日のさぼりは大目に見てやる。いいからここへ座れ」 シドの言葉に亮がぴくりと顔を上げた。 その大きな黒い瞳にギラリと強い光が宿る。 秋人はびくんと身をすくめた。一触即発。これは危険な状況だ。 「は? オレは訓練、さぼるつもりなんてない。ちょっと行くところあって遅れただけじゃねーかっ」 「行くところだと? どこだ」 「っ……シドには関係ねーだろっ! 訓練してくるっ!」 亮にはとりつく島もない。噛み付くように言い放つと、怒りにまかせた足取りで室内を横切っていく。 その反抗的な行動に、シドはまなじりをわずかに引き上げ、傍らを過ぎる亮の腕を掴んでいた。 「いい加減に──」 「うるさい、バカ、さわんなっ!」 本気でふりほどかれる腕。 あまりの剣幕に秋人は目を見開き、シドも虚を突かれたように亮を見返した。 「ネックブレスだってちゃんとした! シドは何もオレに教えてくんねーけど、オレはシドの言うこといつも聞いてる! これ以上オレに何しろって? 何すんなって?」 「おまえ──」 「シドなんか嫌いだっ、大嫌いだっ、勝手にIICRでもなんでも戻れば!? 全部オレにだけ内緒にしていなくなればいい。清々するっ。オレはここで一人でおまえの言いつけ守って生きてくし、なんも心配なんかいらねーよっ!」 燃える瞳で見据え吠えかかると、唇を噛みしめ地下へと続く扉をくぐり、乱暴に閉じて去っていく。 扉の振動がジンジンと部屋全体に広がり、静寂の中エレベーターが地下へ向かう機動音だけが遠くから聞こえた。 しばしの沈黙の後、秋人は見開いていた目をパチパチとしばたかせ、息を吐く。 あんな状態の亮を、ここしばらく見たことがない。秋人の記憶では、滝沢の元から救い出され最初に亮がここへ連れてこられた頃以来だ。正気を取り戻した亮は自分の立場や状況に耐えきれず、家出したり自ら死ぬと言い出したり大変だったものだ。 しかし、あの頃と今では状況が違う。当時の取り乱し方は亮の境遇や精神面を考えればすぐに想像のつくものだったが、今回のこのキレ方はよくわからない。 確かにネックブレスの件やシドの言い方は腹の立つことかも知れないが、今回の場合自分に非があることがわからない亮ではないはずだ。 難しい年頃なんだな──と漠然と思った秋人は、我知らず溜息をこぼしながらちらりとシドに視線をよこす。 「……亮くん、すごいご立腹だった……ね」 「あのバカがっ」 こちらも静かに冷気を立ち上らせ、近年まれに見る怒りっぷりだ。 両手を顔の前で組んだ状態で前面を見据える眼光は、ちらりと見られただけで血を吹いて命を落としそうな具合である。 「亮くんも思春期まっただ中なんだからさ。おまえももうちょっとフォローしてやらなきゃ」 それでも、この危機的状況をなんとかすべく、秋人はそう声を掛けてみた。 シドとこの事務所を開いて五年。昔はこの迫力にびびって意見らしいことを満足に言えなかった自分が、今ではおそらく世界で三本の指に入るくらいには、シドに意見を言える人材に成長したと自負している。 まぁ、こんな暴君に見えて本質は理屈の通る人間だということに気づいてからは、理屈屋としては超一流の秋人にとって、シドは無条件で恐れる存在ではなくなったというのが本当のところなのだが、気づいたからといってそのように行動できるようになるかどうかは本人の資質如何にかかっている。秋人は実のところ、ビビリに見えて理屈さえ通っていれば我を押し通せる、研究畑の職人そのものな性格なのかもしれない。 「せめて夕べ、ネックブレスして帰った亮くんに何か言ってあげた?」 「…………」 何も言わずひりつく空気を醸し出す相棒に、秋人はやれやれと肩をすくめる。 これは確実にフォローなど何もしていない。むしろいっそ満足に口も聞いていないに違いない。 「今日帰りが遅かったのも、問い詰める前にちゃんと理由を聞いたりとかさぁ、もっとやりようがあるじゃない」 「帰りが遅くなるなら連絡を入れるように言っている。それもせず遅れたんだ。理由も何も、まず何があったか聞くのは当然のことだろう」 それのどこがおかしいといいたげな相棒に、秋人はがくんと頭を垂れ癖の強い髪をがしがしと掻いた。 「おまえの共感能力の欠落は子育てに全く向いてないぞ確実に」 「自分の身を守るに於いて、あれはもう子供でいてもらっては困る」 「…………そうはいかないから子供なんだろ!? ったく、自分本位に都合良く亮くんの子供と大人を使い分けてるのは、どう見てもおまえの方だな」 「もう今日の業務は終わりだな」 それ以上秋人の小言に答える気もないようで、シドはすらりと立ち上がるとと事務所を出て行く。 その背中から吹き出す不機嫌オーラが部屋中のガラス戸をピシピシと鳴かせ、割れやしないかと秋人は気が気でない。 これは本気で相当怒っている──。本日もケンカ続行確実だ。 「今夜あたり亮くん、うちにお泊まりに来るかな。……そうだ。仕事片付けたら、亮くん専用枕の用意を」 などと若干浮かれた気分で、秋人は書類整理のため資料庫へと足を向けた。 苛々とムカムカが収まらない。 亮は怒りにまかせ地下のトレーニングルーム更衣室へ飛び込むと学校指定のジャージに着替え、準備運動も満足にせずランニングマシーンに飛び乗った。 早さの数字をぐんぐん上げ、いきなりマックス状態で走り出す。 自分でも何がそんなに気に入らないのか、何がそんなに切ないのか、まったくわからなかった。 ネックブレスのことも、実際シドにはああ言ってはみたがそれほど嫌に感じているわけではない。 今身につけているのは、亮がこちらに戻ってからシドとおそろいで作ったあのネックブレスである。なぜかこれはセブンスで身につけていたブレスとは全く印象が異なり、嫌な記憶を蘇らせることもない。 だからこそ、売り言葉に買い言葉であったけれども、亮はこれを身につけることが出来たのだ。 「バカ。バカシドっ、バカシドっ、最悪っ、全部シドが悪い!」 訳のわからない感情の行く先を全てシドに押しつけ、亮はダッシュし続ける。 ソムニアとして肉体の強度も上がったとはいえ、十五分も全力で走り続ければ、心臓がバカみたいに跳ね始める。呼吸は苦しく酸素を求めて上がってくる。 身体の奥底から熱い何かが吹き出してきそうだ。 それと呼応するように、亮の胸はきゅうきゅうと締め付けられ、得体の知れない不安と焦燥が心を焼く。 「嫌だ……。いやだ、よ……。やっぱ、やだぁ……」 全力で走り続けて三十分。 走ればこんな気持ちも吹き飛びさっぱりできるかと思ったが、亮の思惑は全く外れていた。 走っても走っても、自分の身体を虐め抜いて思考を寸断しようとも、亮を焼くあの感覚は強くなる一方だ。 同時に、シドが自分を置いてIICRへ行ってしまうその瞬間がぐるぐると巡り、亮はついにたまりかねてその足を止めてしまう。 がくんと身体が後方へ運ばれ、安全ピンの外れたマシンは急速に速度を落としていた。 だがそれでも亮の身体は後方へはじき出され、フローリングの床に派手な音を立て転がされる。 体中が痛かった。 よろりと回転し、天井を仰いで横たわる。 「熱い……」 全身がエネルギーの塊のように燃えさかっている。 内部からマグマでもあふれ出してきそうだ。 背中と腕、足が酷く痛む。 受け身を取るのに失敗したのだろうと思った。 「こんなの、シドに怒られるな……」 ランニングマシンから振り落とされたくらいで受け身も取れず、その上二時間と言われていた訓練も、三十分早々で休憩だ。 自嘲気味に小さく笑うと、たぎる身体を起こし、シャワー室へ向かう。 亮はそれ以上言葉も発しず、シャワー室へ入ると冷水のコックを思いきり開けていた。 今はこの熱い身体をどうにかすることしか頭になく、朦朧とした意識で亮はシャワーへしがみついた。 亮が臍を曲げている今、夕飯の支度は期待できそうにない。 正直食事を取る気にもなれない精神状態だったが、帰ってきた亮に何か食べさせるのは修司から彼を預かっている者としての義務だ。 シドは実際の夕食当番表に従い己の役割を全うすべく、自宅へ戻りキッチンにてジャガ芋を鍋に放り込んで火をつけたまま、椅子に座って新聞をめくっている。 後はスープの缶詰を開けて、チルドに入っていたステーキ用の肉でも焼けばいい。足りなければ文句を言いながらも勝手にあいつが何か作るだろう、と咥えた煙草を、苛立ちを紛らせるように味わう。 思えば以前は外食ばかりだったシドの食生活はここ一年半で大きく変わっている。 部屋にハウスキーパーを入れることもなくなった。 テリトリーに知らない人間を招き入れること自体良く思っていない自分にとって、これらの変化は悪いものではない。 「…………」 新聞の英字を追う視線がふとゆるむ。 亮が来てからというもの、変化したのは私生活だけではないなと改めて思ったのだ。 以前の自分なら復帰の話があればすぐにそちらへ靡いたことだろう。 秋人とのこの探偵まがいの生活も悪くはないが──、自分を生きていると実感させる場所は、やはり世界中のあらゆる危機的状況が舞い込むIICR中枢部だ。 ビアンコの命で味方の人間をも騙し、非公式の遊軍としてこちらへ来ることになったあのときは、不満がないわけではなかった。 カラークラウンという地位には全く未練などなかったが、ゾクゾクさせる場面の減少は顕著で、時折もたらされるIICRからの過酷な非公式依頼のみがシドにとって唯一自分自身に戻れる場所だったと言える。 だが今はどうか──と考える。 キースがこの話を持ってきたあの日、シドの心はぴくりとも動かなかったのだ。 強いて言えば、また面倒ごとを持ってきやがって──くらいは考えたかも知れない。 こんな話が亮の耳に入れば、あれを混乱させることは必至だ。いくらシドにその気がないと伝えても、『IICR』という単語や『カラークラウン』という名称は亮の深層に眠る嫌悪や不安を揺り起こすに違いない。 だからこそ、シドは亮に何も話さなかった。 昔のシドなら、面倒だから、や、必要がないから──というそんな合理的かつ乾いた理由からだっただろう。 だが今は違う。 本気であれに聞かせたくなかったのだ。 亮はそんなことに気を病む必要はない。 だからこそ、キースにも秋人にも、亮へこのことを告げるなと口止めした。 それが合理的でも正しい選択でもないかもしれないというわだかまりが心中に痼りのように残っていたが、シドにはそれ以外の行動など考えられなかった。 自分でも自分らしくないと感じるほど、その理由はしっとりとした感情にまみれていた。 「まったく……」 ──ガキというのは面倒くさい生き物だ。 諜報部で人の心の細微を探り、手玉に取る仕事をしていたシドだというのに、こと亮に関しては全くそのノウハウが生かせない。 それはきっといつも無意識に行っていた、感情と行動を切り離すという当たり前の芸当が、亮に対しては出来ていないせいなのだろう。 己にこれほど面倒な感情が残っていたとは、シド自身百数十年ぶりに驚いたことだ。 ふと、時計を見ればあれからすでに二時間以上経過している。 訓練を終えた亮がもうこちらへ戻ってきてもいい時刻のはずだ。 しかしその気配は未だ伺えない。 さきほどの態度を考えるに、まだ亮の機嫌は最悪の状況なのだろう。 こめかみの辺りが苛立ちでチリリと痛んだ。 「…………」 少し考えシドはテーブルに新聞を置くと、階下へ向かおうと煮え立つ鍋の火を消す。 その時──。 テーブルに置かれた携帯電話が身を震わせる。 画面に映った名前にシドは目を細め、躊躇せずコールキーをタップした。 果たして、スピーカーから聞こえてきたのは聴き知った声。 『クライヴさん、亮に何かありましたか!?』 せっぱ詰まったようなその声は、亮にとって現在唯一の家族といってもいい存在──成坂修司のものだった。 思いも掛けない相手からの電話に、シドは状況もつかめず先を促すしかない。 「どういうことだ」 『亮が今日、学校帰りに突然うちの会社に来たようなんです。あれはあまり会社に良いイメージを持ってはいないようで、自分から用もなく立ち寄ることなど一度もなかったのに──』 「修司の元に……」 言ったままシドは黙り込む。 今日、亮の帰りが遅かったのはこのためだったのだ。 確かに亮は滝沢や養父の影が濃いあの場所へ行くことを嫌っていた。 たとえ、現在はそれら二人の姿はなく、もっとも信頼し愛している兄がいる場所だとしても、刻み込まれたトラウマが亮の足をそこへ向けさせることはなかった。 それがどうして突然そのような行動に出たのか──。 修司が動揺するのも無理はない。 『僕は会議中で気づいてやれず、先ほどやっとその報告を受けたんですが──、何度電話しても亮につながらない。亮はそちらにちゃんといるんですよね!?』 「あれは今トレーニングルームだ。もう上がってくるはずなんだが……」 言いながらもシドの足は徐々にスピードを上げ走り出していた。 何か漠然と、とても嫌な予感がした。 「あとでかけ直す」 『クライヴさん!?』 修司からの電話を一方的に断ち切って、シドは事務所へ飛び込んだ。 壬沙子が留守の今、事務処理の仕事に悪戦苦闘していたらしい秋人が驚いたようにこちらを見たが、シドはちらりと見ることもせず地下へと駆け下りていく。 よく考えてみればおかしい。おかしいことだらけだ──と思う。 今日学校から帰った亮の様子は、普通ではなかった。亮がシドの説教に対して逆ギレすることは日常茶飯事だが、あの取り乱しようはその域を超えていた。 昨夜の異神による連れ去りと、運が良かったとしか言いようのない帰還。 そして修司を求めて、忌み嫌っていた会社への突然の訪問。 どこかちぐはぐで歪な流れだ。 ザラザラと気味悪く胸の奥がささくれ立つ。 シドの足はトレーニングルームに踏み込んだが、そこには亮の姿は見つからない。 奥からシャワーの音が聞こえていた。 迷いなくシドは大股でシャワー室へ近づくと声を掛ける。 「亮──。いつまでかかってる。修司から電話だ」 しかし中からは何の返答もない。 いや、それ以前に、シャワー室の周囲の空気は透明で──熱気がまるで伝わってこない。 この寒さが強くなり始めた季節、熱いシャワーを使っていて浴室周りが煙らないことなど有り得ないのに。 間髪入れずシドは扉を開けていた。 目の前には狭い空間いっぱいに叩き落ちていくシャワーの雨。 そして床には渦巻き広がる──赤。 「っ──、亮!」 排水溝へなだれ込む赤色の中心に、少年は転がっていた。 自分自身を抱きすくめるように縮こまり、丸まったままぴくりともしない。 咄嗟にひざまづき抱え上げれば亮の身体は氷のように冷たかった。 だらりと力なく細い腕が垂れ、小さな音を立てて水流の上に投げ出された。その顔色は恐ろしく悪く、白磁で焼かれた人形のようだ。 冷水がシドの頭上から降り注ぎ、全身をしとどに濡らしていくがそれすらシドの意識にはなかった。 「亮──、とおるっ!」 抱え上げた少年の頬を叩くが亮のまぶたは白く閉じられたままで、流れ出る赤は止まるところを知らない。 大量の血が抱きすくめたシドのシャツを染め上げていく。 「くそっ、どこから出血している──」 投げ出された左手から紅の筋が糸を引いているのをまず確認した。まさか自ら手首を切りでもしたのかと背筋を凍らせ掛けたがどうもそうではないらしい。手首だけからならこの出血量は有り得ないからだ。 シドは抱え上げた自分の腕に暖かな何かが流れ落ちていくのを感じ、咄嗟に亮の背を確認する。 「っ──」 息が、止まった。 亮の肩胛骨辺りから背骨に沿うラインに掛けて、まるでナイフで全体を切り刻まれたかのように真っ赤に染めあげられていたのだ。 今シドが目視するこの間にも、ボコリ、ボコリ、と、血の泡が亮の背から盛り上がり、水に打たれて浴室を彩っていく。 「なんだ……これは……」 ここは完全な密室であり何者かが侵入することなどありえない。外的に斬られた傷ではないことだけはわかる。 なにより幾何学的な形で血を生み出すその傷は、触れてみると何の取っかかりもない。 すべやかな亮の肌の感触はそのままに、何もない部分から血潮だけ零れているのだ。 「……っ、し……」 胸元から小さな声が聞こえ、シドは亮を抱え直すとその白い顔を強く撫でる。 薄く開かれた瞼の下から、茫洋とした黒い瞳がゆるりと覗いた。 「しど……、ぁ、つい、……や、けちゃう、ょ……」 亮が意識を取り戻したことにほっと息をつきかけ、だが語られる言葉に改めて背筋に冷たいものが這い上がる。 「熱い……? 馬鹿な。おまえの身体はこんなに冷えているというのに」 「し……、ねがぃ……、つめたく、して……」 「っ……」 亮の口元からは苦しげな呼吸が続き、開かれた眼は熱に浮かされたように焦点が定まらない。 熱い、熱いと繰り返す亮の身体を強く抱きすくめると、シドは上階の事務所へと走り出していた。 恐ろしい勢いで事務所に飛び込んできたシドに「ドアが壊れる!」と文句を言おうとし、秋人は目を剥き口を閉じた。 その腕に抱かれた亮は一糸纏わぬ裸であり、それにかまいもしないシドのシャツは、今しがた人を殺してきたかのような鮮血に染め上げられていたからだ。 大股で歩んできたシドは亮の身体をうつぶせにしてソファーへ寝かせ、呆然とたたずむ秋人を鋭く呼びつける。 「何があったの!?」 手にしていたファイルを放り捨て慌てて駆け寄れば、シドを濡らしていた赤の正体が亮から生み出されたものだとすぐにわかった。 「わからんっ。ただ、出血量が多すぎる。秋人、早く──、早くこれを──」 血を止めろとシドは言っているのだ。 元々言葉の足らない男だが、今のそれはいつもの億劫さからくるものではなく、本気で言葉が出ていないのだとわかる。 秋人は手近にあったタオルで真っ赤に塗れた小さな背中を拭ってみた。 その下から現れるのは一つの傷すらない真っ白な肌。 だが次の瞬間、ぷつぷつと血の珠が浮かび上がり、それが線となって亮の背に細密な幾何学模様を形成していく。 「っ、……聖痕!? これ──、アルマの傷だ。それが肉体にフィードバックして出血を引き起こして……」 「そんなことはわかってる! それをどうにかしろと言っているんだっ」 苛立ったようなシドの言い様には余裕がまったく見られない。 この状況が楽観視できないものだということを、長年ソムニアをしてきたシドはすぐに看破したのだろう。 秋人も今の亮の状態が尋常ではないことが見ただけで理解できた。 「落ち着けって! とにかくレオン君に連絡しよう。一度向こうへ連れて行かれた後遺症かもしれないし、異神が亮くんに何かをしたのかもしれない。何にせよリアルでの診断だけでは、原因も治療方法もわからない。僕がやれることといったら、ここで増血剤の投与をしながら肉体を保ち、セラでの判断を待つことだけだ」 「俺が連絡する。おまえは肉体のバックアップを頼む。治療セラが決まり次第シールドルームに移動だ」 「わかった」 瞬時に次の行動を確認し合うと、秋人は治療のための道具を取りにデスクへときびすを返す。 シドも自らのポケットに突っ込まれた携帯電話を取り出すが、ぐっしょり濡れそぼったそれはボタンを押された瞬間パッと画面を光らせ、静かに沈黙した。 「くそっ」 役立たずのそれをあっさり放り捨てると、事務所の電話子機を取るべく立ち上がる。 と、何かに引かれ不意にシドが動きを止める。 見下ろせば、亮が身を起こし、必死にこちらへ手を伸ばしてシドのシャツを掴んでいた。 「シ、どこ、行くんだよ……。いくな、ょ……」 荒い呼吸の下とぎれとぎれに言葉を紡ぐ亮の瞳が一瞬シドを捕らえる。だがその身体はすぐに力なく崩れ落ち、自らの血の滑りでずるりとソファーから落ちようとする。 咄嗟にシドはその小さな身体を支え、抱きかかえ直した。 「どこにも行かないと言っている──。おまえは何を不安がる?」 耳元に唇を寄せ言い聞かせるが、すでに亮の瞳は固く閉じられ苦しげな喘ぎを漏らすばかりで、何も答えは返さない。 だがそれでも亮の手はシドのシャツを決して離さず、拳が白くなるほどに握りしめている。 その手に自分の手を重ね、シドは悲痛に顔をゆがませた。 自分は何を間違えたのかと詮無い自問が胸を巡る。 「レオンくんに連絡取れたよ。IICRの特別医療棟Q号館へ搬送してくれって」 シドと亮の様子に気づいた秋人が気を利かせて連絡係を買って出たらしい。 ドクターズバッグを抱え、地下へ降りていく秋人に続き、シドも亮を抱いたまま部屋を出た。 |