■ 5-31 ■


 車体は何度も左右に傾ぎその度にU子の上腕二頭筋が膨れあがって、トレーラーの巨体はどうにか道の上を走って行く。
 窓外は吹き荒れるアルミドの嵐により甲高い笛のような胡乱な風音が響き、時折水滴状に固まった無数のアルミドが激しくフロントガラスを叩いていく。
 薄暗い外部は何もない荒野であり、ヘッドライトの明かりのみが頼りなげに彼らの行き先を照らし出している。

 最初の任務地ゲヘナから戻った彼らは、リアルで簡単な診察と食事、入浴などの休憩を挟んだ後、再びブリーフィングルームに集められ、五時間後には第二の任務に就くという強行日程を余儀なくされていた。
 自分たちが不在であった二週間あまりの間リアルでは何が起こっていたのか──IICR本部がテロリストに襲撃されたらしい話は小耳に挟むことが出来たが、追い立てられるように出立するタイトなスケジュールは、それ以上彼らがどうアクションを取ることも出来ないほどのものだった。
 普通ならばこのような長期潜行任務の後は短くとも一週間の休息が与えられ、地上勤半月を経てようやく次の任務に当てられることとなるのだが、人数が少なく緊急性を要するPROCには交代人員もなく、ただひたすら彼らが回数をこなす他ない。
 転生障害というソムニア史上──いや、人類史上最悪の危機的状況は待ったなしで、解消のための素材を収集する彼らの任務は一分一秒を争うシビアなものだというのが、IICRの考えである。
 この班に抜擢されたときから覚悟していたとはいえ、予想を超える過重労働に一人を除くメンバー四人は溜息をつきつつ天井を仰いだ。
 次にくだされた彼らの収集物は『白炎』であり、それを採取できる場所はゲヘナよりさらに辺境に位置する『ヘヴン』領域の第七エリアしかない。
 煉獄深層域の入り口に当たるゲヘナまでは、途中までではあるがライドゥホの能力に寄らない専用道がつけられているため、かなりの速度で行き来ができるのだが、それより先のエリアには何の舗装もされておらず、まさにライドゥホの能力頼りになることから潜行時間が飛躍的に上がってしまう。
 前回は往復でセラタイム24時間程度で済んだ行程が、今度の目的地──7thヘヴンではセラタイム片道一ヶ月を要してしまうのだ。

「ふぅ……」
 U子は溜息をつくと、片耳に掛けていたイヤホンを外し、右に左に首を回して凝り固まった身体の筋肉をほぐす。
 本部中央セラのガレージを出発してからかれこれ二日と18時間は経っている。
 しかし、まだまだ先は長い。リアルでは往復の旅程6日間ほどの時しか要さないが、煉獄ではそうはいかない。
 もちろん煉獄最下層は時間の流れも不安定なため、厳密な三一倍換算ではないが、それでも体感としてかなり長い道行きであることには変わりない。
 特に安定したセラ内部ではなく、煉獄に剥き出しとなっているライドゥホ独自の道上はアルミドの嵐がたびたび吹き荒れ、フィラムを介した電話はほぼ圏外だ。
 唯一の連絡手段である車体に着いた無線すら、これほどの深層ではほぼ使用不能となっている。
 それ故PROCメンバーは完全に孤立した状態で、何ら情報を提供されることなく、第2任務中の二ヶ月以上を過ごすこととなる。
「洋服や食料なんか後回しで、ロマンティックな映画でも持ってくれば良かったわ」
 旧式のカセットデッキが着けられた真ん中のコントロールパネルには、不釣り合いな液晶画面が設けられていて、一応DVD鑑賞なども出来る仕様になっている。
 運転好きなU子としてはそんなものなくても問題ないと思っていたわけだが、そう思っていた二日と少し前の自分に軽く説教をかましてやりたいほどだ。
 U子の好きな運転は助手席に座った相棒とくだらない話題で盛り上がりつつ気ままにハンドルを握ることであって、一言も発さない氷のような男の隣で、妙な緊張感に駆られながらアクセルを踏みしめることではなかったようだ。
 だが一方、何の情報も来ないと言うことは退屈ではあるが平和でもあり、メンバー達はドライバーズエリアのすぐ後部に設置されている居住スペースで各々くつろいでいる。
 女子部屋のリー・ミンは趣味のドールハウスでも作っているだろうし、男子部屋のカイとユーラは持ち込んだシーズン13に及ぶ米国ゾンビドラマの耐久鑑賞を実施中らしい。
 その間不眠不休で車を走らせるU子はあくびをかみ殺しながら、助手席でテロ特から持ち込んだ分厚い紙の束に目を通しているリーダーへちらりと視線を向ける。
 珍しく休息の許された平和な時間で、一人黙々と仕事をするこの男をどうにか休ませつつ、さらに自分の睡魔撃退につなげてやろうと、U子は九時間ぶりに隣へ声を掛けた。
「班長。ちょっとは寝なさいよ。男子部屋が若い子たちでうるさいってんなら、助手席のシート倒してここで寝ればいいからさ」
「煉獄で睡眠は必要ない」
「そうは言ってもリアルですら三日かかんのよ? 当然煉獄内でも最低三回は八時間以上の睡眠を取るってIICRの規定で義務づけられているはずだけど」
「おまえが言うか。本部を出てから走らせ通しだろう」
「アタシはいいのよ! ライドゥホは慣れてんの。それに、あんた達が狩りしてる間は車でバカンスとしゃれ込む予定なんだから平気なんですぅ。ヴェルミリオはこれから大仕事が待ってんだから少しでも休んでおかないと」
「必要な分の睡眠は細かく取っている。おまえが気づいていないだけだ」
「あらー、そうなの。寝息も立てずに睡眠とは器用だこと。それじゃ食事は? アタシがリーミンのサンドイッチ食べてるときも、ヴェルちゃんはお水だけじゃない」
「長期潜行の場合リアルでの肉体は深睡眠・代謝低下状態に置かれているし、水分や栄養も輸液で補給されている。肉体が問題なければ煉獄での補給など重要ではない」
 そう言葉を返す間もシドの指先は手元の資料をめくり、乾いた紙の音が車内に続いていく。
「んなことはわかってるわよっ! アタシが言いたいのはそういうことじゃなくてもっとリラックスを……」
 言い募ろうとしてやめ、U子はその野太い喉から車内の空気を震わせる大きな溜息をついた。
「そんなに張り詰めるくらいだったら、この任務もう少し時間をおけば良かったじゃない。いくら研究局がせっついたからって、言いなりのスケジュールで仕事こなす必要はないわ。一日二日休んで、亮ちゃんに会いに行ったって事はそうそう変わらないわよ」
 そこで初めてシドの資料をめくる指先が止まる。
 U子が視線だけで横を見れば、こちらを見ている琥珀の目とばっちり視線が合ってしまい、思わず目をそらしてコンパネに設置されている後部カメラの様子を意味なく確認してしまう。なんだかんだ軽口は叩くが、イザ・ヴェルミリオに真正面から見られれば石になりそうな妙な怖さを感じるのは多分自分だけではないはずだ。
 確認の結果は、薄暗い道路とアルミドの嵐は相変わらずだが、陰気な道をトレーラーはこともなく走っていた。
「一日材料の到着が遅れれば、それだけ亮の治療も遅れる。黒炎も白炎も転生障害のためだけでなく、亮の治療に必要なものだと聞いている」
「だとしても、よ。亮ちゃんだって知らない場所にたった一人閉じこめられて、アンタに会えないのはつらいだろうし、何よりヴェルミリオ。アンタだって亮ちゃんの側に居たいでしょうに。噂は色々聞いてるわよ? あの朱の氷神が幻の第八ゲボにメロメロだって」
「どこから聞いた話か知らんが──亮は一人ではない。俺でなくとも、亮の側には心を許せる人間がついていてくれている。俺は俺にしかできないことをやるだけだ」
「はぁ〜……、相変わらず頑固ねぇ。そんなこと言って亮ちゃんが自分以外の人間に懐きでもしたら許さない癖に」
「いや──必要ならば、俺はいつでも亮の手を放せる」
 ニヤニヤからかうように隣をチラ見したU子は、瞬間思わずブレーキを踏みしめそうになり慌てて足の着地点をずらす羽目になっていた。
 今聞いたシドの言葉は本心なのだろうか。
 相も変わらず無表情ですでに前だけを見ているシドの様子からは、彼の心の動きなど全く窺い知ることは出来ない。
「は!? 何言ってんの!? 知ってるわよアタシだって。アタシが研究局の53ラボへ配達した中身が亮ちゃんだったってことくらい察しがついてるし、それをあんなに大事そうに運んでたアンタのことだってこの目で見てるんだから」
「確かに亮は俺にとって大切な人間だ。だから俺は出来る限りあいつを護るし、救うつもりではいる。だが、亮が亮としてこれから生きていく為には、俺はあれの通過点でなくてはならない。あいつはまだ生まれたばかりだ。判断の善し悪しもつかない子供だ。愛だの恋だののパートナーとして俺に求め過ぎるのはあいつのためにならない」
「ちょっと……、自分で何言ってるのかわかってる!? 一人でがんばってる亮ちゃんには聞かせられない言葉よ!?」
「もちろんあいつに言うつもりはない。が──、亮がここへ入院してからこちら、感じ始めたことだ。俺一人の力ではあれを護りきることができていない。亮はもっと大きなものに護られる必要がある。その為には──俺の存在が邪魔になることすらある」
 淡々と語るシドの言葉に、U子の胸には何やら冷え冷えとしたものが沈み込んでくる。
 確かに病を治すには医療局の人間の力が必要だし、その病が特殊なものであれば研究局の出番だろう。その治療を許すにはヴァーテクスの認可が不可欠だし、他にもシドが留守中一緒にいられる心を許せる人間が必要なこともよくわかる。
 だが、それでも亮にとって一番必要なのはきっとシドなのだとU子は思うのだが、かの少年を溺愛しているように見えたこの男はそうは思っていないのだろうか。
「あれの兄が一定の準機構員訓練を受けた後であれば、彼を亮の元へ送るのが最善だということを、出発前に有伶に伝えてきた。樹根核にはコモンズも多く働いているし、これは可能なはずだ」
「お兄ちゃんはお兄ちゃん。でもアンタはアンタよ。──今の話、私は信じないけどね。簡単に手放せる相手のことを考えているにしちゃ、資料を読んでる振りしてるアンタの顔、ものすごく鬱屈して見えたもの」
「……そう思うのはおまえの自由だ」
「あのヴェルミリオが亮ちゃんのこととなると随分と弱気だこと。一人で護りきる自信がないのなら、ジオットにでもあげちゃいなさい」
「シュラならば──俺はかまわん」
 再び深い溜息をついて、U子はホルダーに刺さったオレンジジュースをペットボトルごと一気のみする。
 シドは亮が入院してからこちら考えていた──と言ってはいたが、どうにも言動の変化はこの任務に就いた辺りからの気がする。
 第1任務が終わり、第2任務が始まるほんの半日の間に何があったというのだろうか。
 何にせよこの長期任務は重苦しいものになること請け合いだ。
 亮の話を隣の男へ振ってしまった自分の乙女回路を恨めしく思いつつ、U子はさらにアクセルを踏みしめ、再びイヤホンを着けるとカセットデッキの再生ボタンを押していた。







「以上が今リアルで起きていることだ。詳しくは伝わってはいないだろうと思ってはいたが、まさかまったく知らされていなかったとは──」
 そう言うと、ハルフレズは再び目を伏せ眉間に苦しげに皺を寄せた。
 ルキが不用意に彼に「好き好き」言う度に見せていた表情に近いが、今回のそれはもっと深刻な色を含んでいる。
 こんな状況に恋人を置いておくのが嫌で仕方がないといったところだろう。
「ありがと、フレズくん。色々わかったよ。……それにボク、もうフレズくんが電話要請にも応えてくれないかもって思ってたから……」
 ルキが太い眉を情けなく下げて微笑んでみせると、モニターの向こう側の綺麗な顔は一つ咳払いをしてカメラから視線を外し、
「そのつもりだったのにおまえがしつこいからだろ」
 などとばつが悪そうに独りごちる。
 その様子を嬉しそうに見つめたルキは「うん、ごめんね」ともう一度口癖のように謝ると、
「やっぱりフレズくんが大好き! 優しくてかっこよくて、世界で一番好き!」
 と臆面もなく言い放っていた。
 ハルフレズは思わず目を見開き、次の瞬間眩しそうに目を細めると「わかってるよ、バカ」などと呟いて、
「早く休暇もらって戻ってこい。……まぁ戻ってきたら寝かさないけどな」
 そう言って薄い唇を悪戯っぽく引き上げていた。
「ぇ、ぁ──」
 ルキが何か言い返そうとしたときには、一方的に回線は切られ、真っ赤に染まった頬のルキは、この膨れあがる恥ずかしい気持ちをどこへぶつければいいのかわからぬまま、やるせない思いで通信室を出る羽目になる。
 ハルフレズは時々優しいけれど、いつも本当に意地悪だ。
 廊下に出たルキは大きく一度伸びをすると、ふうっと息をつき、先ほどハルフレズが伝えてくれた情報を反芻する。
 どうやらルキと亮が樹根核に来た四日後、IICR本部はテロ組織に急襲され、あろうことかセブンスも襲われたらしい。
 観測基地内は平穏であったため、外でそんな大変な事態になっていたなど、ルキは全く知ることが出来なかった。
 ウィスタリアは何も言ってくれなかったし、レオンもそんなことは一言も言っていなかった。
 もちろんレオンはルキ同様ここでは客人扱いで招かれている側であるため、相応の通信を取らない限り外との交流は不可能だ。だから自分同様知らなかった可能性が高い。だが、ウィスタリアはそうではない。彼は研究局のトップであり、常に本部とは交信を取れる人物である。
 なぜ彼がそんな重大なニュースをルキたちに隠していたのかわからないルキは、眉を寄せ首をひねる他ない。
 亮を動揺させないため──なのではないかと思うが、もしかしたらあのぼんやりした彼のことだ。何となく言うのを忘れているだけという可能性すらある。
「いや、さすがにそれはないか」
 独りごちて苦笑を浮かべたルキは、亮の待つ二人の部屋へ向かい歩き出しながら、もう一つの聞き捨てならない情報を思い返す。
 それは獄卒対策部のこと。
 非常時Bラインが適用されたとハルフレズが言っていた。ジオットが武力局の聴取課へ引っ張られたというのだ。
 しかしハルフレズの話に寄れば、ジオットはセブンス襲撃を制圧した功労者のはずだ。それがどうしてそんな物騒な状況になってしまったのか。
 その辺りの詳細は諜報局局長であるルキの恋人もわからないと言っていた。もしかしたらわかってはいるが守秘義務で伝えられないだけなのかもしれないが、彼が知らないと言えばとりあえずルキにその情報を得る手段は今のところない。
 ジオットの代わりは副長であるジョーイが担っているらしい。
 仕事の内容はわかっているし、親しみやすい性格とSSクラスのイザ能力は恐ろしく実用的で、彼ならばジオットの居ない間留守を預かることは問題ないだろう。
 聴取課へのカラークラウンの拘束は48時間以内と決まっているため、2日後には元通りジオットが戻ってくるはずである。
 だが、もし。もしも万が一──それが叶わなかった場合、最悪ジオットはカラークラウンすら降ろされてしまうことになる。
 ルキはそこまで考え、ブンブンと首を振って嫌な考えを追い払った。
 ネガティブに考えがちなのはルキの悪い癖だ。
「亮くんには言わない方がいいよね……」
 現在つらい治療に絶えている亮に、これ以上の心労をかけたくはない。
 ルキは己に活を入れるように頬を二度両手で挟み込むように叩くと、歩みを早める。
 そろそろ本日の治療を終えた亮が目覚める時間だ。
 亮が目覚める前に部屋へ帰っておきたい。──その思いからルキは思わず走り出していた。
 廊下の角を曲がり、エレベーターへ飛び乗ろうとボタンを連打して開いたドアに突進したとき──、思わぬ衝撃がルキの鼻を急襲する。
「うぶっ」
 妙な声を上げはじき飛ばされたルキは、思わず尻餅をつき、目の前に立つ白い壁を見上げていた。
 襟元までかっちりとボタンを留めた白衣と白のスラックス。
 栗色の髪をオールバックにひっつめた三十代半ばの男は、少し眠そうな垂れ気味の目でルキを見下ろしている。
 身長はさして高くはなく、顔立ちも強面というほどではない。
 だがその瞳の奥にはちろちろと黒い炎が燃えているようであり、見下ろされたルキはその鋭い眼光に言葉も出ず、ただ黙って固まっているほかなかった。
「なんだ、この子供は」
 男がそう不機嫌そうに言えば、彼の後ろに立っていた研究員らしき男が慌てたように言葉を添える。
「いえ、統括。子供のように見えますが、れっきとしたうちの客員です。トオル ナリサカの治療付き添いで来ているラグーツの人間で──」
「ああ、そう言えば例の鬼子か。ふむ。……面白い水を使うと聞いている。せっかく手元にあるんだ、活用できる機会があれば使ってもいいな」
 独り言のように呟くと、男はルキのことなどそれ以上見向きもしないでエレベーターを降りていく。
 しゃがみ込んだ自分の横を通り抜ける足を見送ると、ルキは閉まりそうになるドアの中へ慌てたように転がり込んでいた。
 同時にドアが閉まり、ようやく一息つく。
 統括──と、お付きの研究員は呼んでいた。
 恐らく彼がこの観測所の責任者、スルトなのだろう。
 ウィスタリアと同じくエイヴァーツだと聞いていたが、人間が違えばこれほど雰囲気も違うものかと驚かされる。
 樹木を扱うエイヴァーツはみんな、ウィスタリアのように温厚でのんびりした人間ばかりかと思っていたが、そうではないようだ。
「ラグーツはだいたいみんな似たような雰囲気の人間ばっかなんだけどな……」
 己のファミリーメンバーの穏和な顔を思い浮かべ、しみじみと種ごとに色が違うことを噛み締めてしまう。
 恐い恐いとは聞いていたが、ここの統括・スルトには、恐いでおなじみイザ・ヴェルミリオとは違った恐さがあるように思う。
 だが迫力という点では同レベルだった。
「よくあんな人がウィスタリアを自分のボスとして認めてるなぁ……」
 思わず口を突いて出た感想に自ら苦笑を浮かべ、ルキはそんなことをエイヴァーツの王様の前で呟いては大変と己を戒めて立ち上がると、居室のある三階へのボタンを押していた。