■ 5-32 ■ |
ルキが部屋に戻ると、窓際に寄せられたベッドの周りに大人が三名ほど集まっている。 少しだけ開けられた窓からそよぐ午後二時の風は薄いレースのカーテンを揺らし、白いベッドを照らす日の光をちらちらと震わせていた。 スラリとした中東系の男が一度ベッド脇を離れ、すぐに冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し戻ってくる。 一つのベッドにたくさんの大人が寄り集まっている光景に一瞬ドキリとしたルキだったが、水を持って戻るラージの足取りの軽さを見るにつけ、どうやら悪い状況ではないらしい。 「亮くん! 目、覚めた? 具合は──」 駆け寄ったルキは、ベッドの真ん中でぼんやりと目蓋を持ち上げた亮を見下ろし、そっと頬を撫でる。 ベルカーノほどではないが、ルキの持つラグーツも多少の癒し効果を持っていて、それを出来うる限り手に乗せ亮へ送り込んだ。 「帰ってきてすぐ診察は終わってる。大丈夫、熱もないし、バイタルは正常。疲れてはいるだろうけど、今回も身体に問題はないよ」 亮の腕から血圧計のバンドをほどきながら、レオンが状況を伝えてくれる。 ほっと息はつくが、ゆっくりと瞬きを繰り返すだけの亮の様子は何度見てもルキを不安にさせる。 羽根を焼く治療は今回で三回目になる。どの回も問題なく終えてはいるのだが、いつも目覚めた後三十分前後はこの状態に陥るのだ。 意識と無意識の間を漂うこの様子を見ると、やはりフレズとのコールは次の機会にすべきだったかと苦い思いが胸に湧く。 今回の電話申請が受理された時間帯に丁度亮の治療終わりが被ってしまったため、こんな亮を置いてはいけないと一度はキャンセルしたのだ。 だがそれを亮に知られてしまったのがまずかった。ルキが予約を断ったことを知った亮は猛烈に怒り、有無を言わさず無理矢理その予約を復活させてしまった。 フレズと仲直りするまで戻ってくるなとまで言いきって亮がルキを部屋から叩き出したのが治療開始十分前のこと。 予約の時間までまだ二時間近くある段階で、ルキは通信室の前に座り込む羽目になった。 「やっぱりどんなに怒られても部屋で待ってれば良かった……」 ぽつりと呟いたルキの言葉に、診察を終えた亮の身体へブランケットをかけ直しながらエレフソンが声を掛ける。 「目覚めたとき意識がはっきりしないのは、麻酔代わりに使われているクラウドデバイスリングの影響だそうです。麻酔よりも亮さんの肉体へ掛かる負担が格段に低いそうなので、そんな風にルキさんが心配する必要はないですよ」 「うん。わかってはいるんですけど……」 「お水、ここに置いておくから、亮くんがほしがったら飲ませてあげて。僕らはこれで引き上げるけど、何かあったら隣の詰め所に誰かは居るはずだからいつでも呼び出しボタン押してね」 ラージが軽い調子で手を振り、エレフソンと共に部屋を出て行く。 レオンも亮とルキを二人でゆっくりさせてやりたいという思いから、一度亮の髪をぽんぽんと撫でると、同じような言葉を残して部屋を出て行った。 ルキは大人達を見送ると、再びベッドの中の亮へ視線を戻す。 まだ微かに湿った黒髪が、柔らかに亮の額に張り付いていた。 それを指先でよけてやり、足下で畳まれていた亮のタオルケットを胸元に寄せてやると、亮は反射的にそれを抱え込んでぎゅっと鼻先を突っ込んだ。 安心したようにもぞもぞ動く様に、ようやくルキの口元にも笑みが戻る。 ころりと向こう側に寝返りを打った亮の背には、朝出て行ったときと変わらぬ白い翼がゆるゆると息づいていた。 三回目の治療を終えても、輝くような白い羽根は美しく健在に亮の背で動いている。特殊な炎で焼かれていると聞いてはいても、こんなに綺麗なのは何も手を着けていないからじゃないかとも思えてしまう。 ルキはその羽根を優しく撫で梳きながら、良く晴れた窓の外へ目を向けた。 どのくらいそうしていただろうか。 タオルケットに鼻先を突っ込んで再び寝息を立て始めていた亮が、不意にころんとこちらを向いた。 「小さくなった?」 そう言った亮の声はしっかりとし、ぱっちりと開かれた大きな黒い瞳は、すでに意識混濁が去ったことをルキに感じさせた。 「ん?」 と質問の意味を聞き返してみれば、亮は身体を起こすと己の背中を振り返り、どうにか小さな翼を見ようとしている。 「だから、羽根。三べんも焼いたんだから、半分くらいにはなってんじゃねーかな」 しかし自分で掴んで広げてみた翼は、思いの外長く伸び、日を受けてキラキラと輝く白いそれを、亮は哀しそうに眺めた。 「あんま……変わってない気がする……」 「ま、まだ三回だよ。根気よく続けないとってウィスタリアも言ってたじゃない」 「うん……そうだけど……」 そう言ったまま、もう一度ぼすんとベッドへダイブし、足をばたつかせて悔しさを表現してみせる。 「てか、むしろでっかくなってねーか!?」 「そんなことないよ! 目に見えては小さくはなってないかもだけど、治療記録の数値は徐々に小さくなってるんだもん。──もし治療しんどいならもう少しペース広げてもらうようにする?」 「それは嫌だっ。別にしんどくはないし。終わってからちょっと身体だるいけど、そんだけだからっ。これまで通りどしどし治療するからっ」 ぴょんと飛び起きた亮は真剣な色を目の奥に溜め、正座したままぐっとルキの顔を見据えた。 ルキはそんな亮に思わず目を細めると、 「うん、早く直して退院しなくちゃだもんね。でも無理はだめだよ?」 諭すように言って亮の顔を覗き込む。 亮はルキの言葉にもごもごと口の中で「わかってるけど」などと呟きながら、ベッドサイドに置かれた水のボトルに手を伸ばし、取り繕うようにその中身を呷った。 亮の気持ちが痛いほどわかるだけに、ヴェルミリオがそばに居ない今、突っ走りそうになるこの子の勢いを制止するのはルキの役目だとそう彼は思っている。 処置室上部に着けられた窓から亮の治療の様子を見守っているルキには、その大変さがしっかりと実感されている。 元気に車いすで入室した亮は、大きな治療用焼除装置の中に入れ込まれ姿が見えなくなると、二時間後、ルキのブランケットを掛けられ意識を無くしたままストレッチャーで運び出されてくる。 焼除装置の稼働開始と終了を知らせる警報音はけたたましく鳴り響き、治療の壮絶さを物語っているようだといつもルキは思うのだ。 亮は「平気だ」と嘯いているが、きっと体力的にも精神的にも大きな負担となっていることは想像に難くない。 「そんな顔すんなよ。大丈夫、無理なんかしない。退院は早くしたいけどもうすぐシドが来てくれるんだし、気長にやるつもりなんだ」 心配が面に表れてしまっていたようで、ルキの眉間の皺をほぐすように亮の指がぐりぐりと額をついていた。 逆に亮に心配を掛けてしまってはダメダメだとルキは己自身に苦笑する。 「そうだね。ヴェルミリオ、今日のお昼にリアルに帰還したって聞いたよ? 二、三日は予定通りこちらに来るはずだから、明日には会えるんじゃないかな」 「戻ってきた!? まじ!? 有伶さんが言ってた予定より早かったじゃん! そっか……。そっかぁ……」 亮は興奮気味に顔を上げると一転、今度は何かを噛み締めるようにため息を一つついた。 「じゃ、オレ、温室とか面白いって教えてやろっかな。変なチョウチョみたいな葉っぱが飛んでんだ。あれが頭や肩に留まると、どんなに怒ってても冷静になれちゃうの。シドがキレたりしたらすぐあいつをけしかければケンカしないで済むし」 「なんでヴェルミリオがキレる前提なの!? 久しぶりに会えるんだから絶対怒ったりしないでしょ。第一、僕、そんなブチ切れてるヴェルミリオ見たことないよ」 笑いながらベッドに転がれば、亮も一緒にころんとマットレスに転がった。 「はーっ!? あいついっつもオレに怒るよ!? キレるとめちゃめちゃ恐いんだからなっ」 「そりゃシドさんがキレたりしたら震え上がると思うけど、あんな冷静そうな人、どうやったらそんなキレさせられるのさ」 「それ言うならルキだってフレズさん怒らせてんじゃん。フレズさんだってすっごい冷静そうなのに」 「フレズくんは冷静そうに見えるけど怒りんぼなんだよ。いっつも何かに怒ってるの」 「シドもだ」 二人は顔を見合わせて同時に吹き出した。 「イザって凍らせるの得意なくせに、中身はいっつも燃えてんだな」 「ほんと、やっかいだよ」 そう言ってひとしきり笑い合うと、亮は身を起こして丸めたタオルケットをぎゅっと抱え込む。 こてんと首をタオルケットに凭せ掛け、ルキの様子を伺うようにそろりと声を掛ける。 「ルキ、フレズさんと仲直りできた?」 「──うん。できた。ありがとね? 亮くんのおかげだよ」 そうルキが答えれば、亮は花が開くみたいにふわっと笑顔になる。 どうもいつその話を切り出そうか迷っていたらしい。まだまだ子供ながらこういうデリケートなところには一生懸命気を遣うあたりが、ルキには可愛くてたまらない。 思わず手を伸ばし、亮の丸い頬をよしよしと撫でてしまう。 亮はくすぐったそうに笑うと、「良かった」と心の呟きをそのまま音にして息を着いた。 「だから言っただろー!? フレズさんはルキのこと嫌いになったりしないって」 「ふふ。やっぱり大好きな人とつながってるって思えるのは元気になるね。僕は電話だったけど、亮くんはヴェルミリオが来たらいっぱい面倒みてあげないと」 「面倒って──、あ、そうか。アクシス酔い! シドもレオン先生みたいに青い顔でトイレにこもるのかな。想像できねーけど」 大好き──の部分を自分自身、自然に聞き流したことにも気づかず、亮はシドの来訪について真剣な様子で食いついていた。 一人でも大丈夫だと普段から主張している亮だが、それが強がりだということをルキは改めて感じてしまう。 「ヴェルミリオはカラークラウンの中でも能力値が高いからね。きっとレオン先生の比じゃなく酷い状態になると思うよ。来てすぐはまともに動けないんじゃないかな。……でもトイレにこもるのは僕も想像できない、うん」 「そんじゃオレのベッドシドに貸してやろ。ここならトイレも部屋の中にあるし、シャワーもすぐ使えるし。ルキ、ちょっと部屋がうるさくなるかもだけど、いい?」 「もちろん! 僕はその間隣のレオン先生の部屋に泊まらせてもらうから気にしないで。亮くんはゆっくりシドさんと水入らずして?」 「へ!? べ、べべ、別にオレはシドと二人になりたいとかじゃなくて……」 「わかったわかった。とにかく最初は話も出来ないだろうから、ある程度の時間はこっちにいることになるはずだよ」 「でもそしたらシド泊まりになるよな? 何日いられるかな。もし休みの間ずっといられるなら、オレ、明後日の治療休んじゃおうかな……。だってシドの面倒みないとだめだし」 「そりゃそうだよ。ヴェルミリオの面倒見られるのなんて亮くんくらいだもん。それにアクシス酔いが治まったら温室に連れて行ってあげるんでしょ?」 「おう! チョウチョの他にも面白いの色々あるから。車くらいの大きな花が咲いてて良い匂いすんのも見せてやらないとだし、椰子の木の上になってる青い実がカレー味の桃みたいだって教えてやろうと思うし、それから屋上から見える夕焼け綺麗なのとかも見せてやるんだ」 「イベントいっぱいだね」 「うん、やることいっぱいある。二、三日休みだったら、三日ともこっちに居るのがいいなぁ……」 二人がやいやいと話に花を咲かせていると、軽くノックの音がして有伶が顔を覗かせる。 「なになに? 二人とも楽しそうだね。亮くん、具合はどうかな?」 治療後数時間して訪れる恒例の回診だ。 ルキがベッドを降りると、亮も慣れたようにそこへ横になり有伶の診察を受け入れる。 脈を取ったり首筋に指先を触れて顔色を伺ったり、いつも通りの観察を行う有伶に、亮はそわそわと落ち着かない様子で問いかける。 「有伶さん、シド、帰ってきたんでしょ? いつここ来る? 前会ったとき、コーラ買ってきてって頼んだから、売店開いてからかな」 「ぇ、あ……、ああ……、うん」 亮のキラキラとした様子に反し、有伶は驚いたように目を見開くと曖昧に言葉を濁し、ぼさぼさの髪を右手でかき混ぜた。 その様子でルキは良くない状況を察する。 ヴェルミリオを樹根核へ呼ぶ話はここへ来た当初から方々より語られていて、ほんの一昨日もその話を廊下で出会った有伶としたばかりだ。カラークラウンの樹根核入りは珍しいことだが、PROCが戻り次第アクシスを利用できるよう手配していると、エイヴァーツの長は楽しそうに語っていた。 だからこそルキもその件を信じて疑わなかったのだが、今の有伶の様子は一昨日までとはまるで違っている。 しかし亮はそんな有伶に気づきもせず、浮き立つ気分を隠すことなく彼の言葉を待っていて、ルキは腹の下あたりに冷たい何かが落ちていくのを感じていた。 「あのね、それが……、その……、シドさん今日は来られないんだ」 「じゃ、明日かぁ。朝一だったらオレ早起きしないと……」 言葉を選びながらゆっくりと語った有伶に対し、しかし亮は何の疑問も抱かず無邪気に話の続きをねだる。 そんな亮にますます話す速度をゆるめながら、それでも有伶は伝えねばならない情報をはっきりと語っていた。 「いや、そうじゃなくて、シドさん、さっきまた次のお仕事が入っちゃったみたいで……当分来られそうにないんだよ」 「え……」 亮は一瞬瞠目し、そして黙り込んだ。 パチパチとなんどか瞬きした後、ゆるゆると視線が下がって、真っ白な病院着から伸びた細い腕が力なく落とされる。 「ごめん。今回の仕事終わったら呼ぶねって亮くんに言ったの僕だけど、時間の関係で無理だった」 眠そうな下がり目をますます下げ、有伶はひたすら申し訳なさそうに頭を下げていた。 「時間の関係って、なんでですか!? 深層セラに潜ってすぐにまた潜行なんて有り得ないのに──」 だが、そんな有伶に容赦なくルキは問いただす。 さっきまでの亮の様子を知るルキには、溢れ出る言葉を止める術はなかった。ハルフレズと仲直り出来た嬉しさで、亮を煽るようなことを言ってしまった自分にも腹が立って仕方がない。 「僕もそう思うんだけど、スルト統括が白炎の到着をせっついてるんだ。ヴァーテクスも転生障害解消プロジェクトを最優先に考えていて、通常じゃ考えられない時間進行でGOを出したらしい。シドさんも白炎が亮くんの治療に必要だからって聞いてそれで要請通りのタイムラインで……」 「そうだとしても、約束が違うじゃないですかっ。ヴェルミリオを樹根核に呼ぶ話はレドグレイからも聞いてます。だからこそヴェルミリオも亮くんがここにいるのを許してるって僕は聞いてて──」 「いいよ、大丈夫、いいんだ、ルキ! 仕事なら仕方ねぇもん」 喧嘩腰で有伶に詰め寄るルキに対し、亮がそう言い募る。 部屋に響き渡る大きな声は叫び声に近く、有伶もルキも言葉を止めベッドの上の亮を見た。 亮は手元に引き寄せたタオルケットを抱え、下を向いたまま今度はぽつりと呟くような声音で先を続ける。 「それに、さ、羽根もあんま小さくなってねーし、きっとシドもこれ見たらがっかりするもん」 「そんなこと──!」 そんなことない──と言いかけて、ルキは言葉を止めた。 膝を抱え込んだ亮が、タオルケットに顔を埋めてしまったからだ。この行動は亮が周りを拒絶するときに取るものだと、ここ一ヶ月寝食を共にするルキは知っている。 「逆に、良かったんだ。……もっと成果出てから会えないと、意味、ないし……さ」 こもった音でとぎれとぎれに届く声は、いつもと変わらないように聞こえる。 だが薄手の白衣に包まれた亮の白い肩が小刻みに震えているのに、ルキは気づいてしまった。 「意味ないなんてそんなこと言わないで!? ……亮くん……、あの……、シドさんも会いたかったと思うんだ。だから次の仕事が終わったら今度こそ……」 うろたえた様子で亮の顔を覗き込もうとする有伶だが、亮はますます縮こまり、ぎゅっと膝を抱えたまま言葉を返さない。 今喋れば泣き声になってしまうから喋れないのだとルキにはわかり、小さく固まった亮の身体を上からそっと抱きしめた。 「……また、次があるよ。もうちょっとがんばって待っていよ?」 有伶はそう声を掛け黙ったままの亮を心配そうに眺めるが、それ以上自分ではどうしようもないとわかると、ルキに「後はお願い」と目配せして静かに部屋を出て行った。 午後の日差しで明るかった部屋にはいつしか茜が差し込み、次第に濃紺の夜へと移ろっていく。 その間何度も亮は「もう平気」「大丈夫」とルキに声を掛けてきたが、一度も顔を上げることはなかった。 だからルキは「うん」「そっか」と相づちを打ちながらも抱きしめた亮の背中をずっとさすり続け、夜風が吹き込む時刻になって窓を閉める頃には、力尽きたように眠る亮の身体を横たえ、肩まで毛布を掛けてやった。 そこでようやく伏せられていた亮の顔を見ることが出来、涙の後が光る頬に、胸がじんじんと痛む。 「治療の為って言うけど、これじゃ身体が治っても亮くんの心が壊れちゃうよ……」 偉い地位にいる大人達はみんな勝手だ。 それはスルト統括やヴァーテクスだけでなく、シド自身も含んでいるとルキは思う。 なぜならシドの立場であれば、いくら強く要請が来たところで数日の休みを得ることくらい不可能なはずはないからだ。 だからこそ、今日の電話でハルフレズはシドの帰還をルキに教えたのだし、数日前の有伶もシドの来訪を決定事項のように語っていたのだ。 「あんなに大事そうにしておいて、こんなの酷いです、ヴェルミリオ……」 あの日、亮を残して任務に向かったシドの姿を思い出し、ルキはぽつりと呟いた。 |