■ 5-33 ■




「誰だ……?」
 その男はゆっくりと振り返り、シドの顔を見るとそう言った。
 その瞬間、シドは全身の体液が煮沸するような衝撃を覚え、言葉すら出なかった。
 頭上での異変を感じたとき、まさかとは思ったのだ。だが、そのまさかがシドの眼前に確乎として存在していた。

 窓外には数時間前と何ら変わらないアルミドの嵐が吹き荒れ、水滴の流れ去って行く薄暗い窓には己の冴えない顔が滲むように映し出されている。
 隣でハンドルを握るU子は先ほどまで「食事を取れ」だの「後ろで寝てこい」だの、まるで母親のように何度もせっついてきていたが、根負けしたシドが仕方なく書類をしまい腕を組んで目を閉じれば、ようやく機嫌を直し、今はカセットデッキの音量を絞りアクセルをグングン踏み込んでいる。
 おそらくシドの睡眠の邪魔にならないようにと気を遣ったのだろうが、代わりに鼻歌がボリュームを上げてしまっており、その曲がジミ・ヘンドリックスのパープルヘイズであり、完全コピーで在るが故に69年ウッドストックからの一曲だということまで丸わかりだ。
 部下のこの機嫌が続くようにとシドはもう一度目を閉じる。
 しかし眠ることは出来ない。
 ほんの一日前遭遇したあの場面がシドの精神をささくれ立たせ、全ての神経を痛いほど尖りきらせていた。

 あれは初回の仕事が片付く二時間ほど前の出来事だった。
 トレーラーはIICRのあらゆる庇護の届く安全なエリアにさしかかろうとしていた。
 車内は既に仕事を終えた温い空気に充たされていて、各部屋に引っ込んでいたメンバー達も運転席のあるエリアへ集い、仕事を終えた後飲みに行こうだの、飲むより食べたいだの、やいやいとやり始めた時間である。
 それは何の前触れもなく訪れた。
 最初は頬や指先にチリリと電気のようなしびれを感じただけだった。
 だがその直後、信じられない圧力が上下左右──全方位からシドを押しつぶしにかかっていた。
 上空から巨石が降ってきたわけでもなければ雪崩に巻き込まれたわけでもない。ただ何もないその場所に巨大な重力場が突如発生したかのような、そんな感覚。
「U子、アクセルを──」
 そう指示を飛ばしかけてシドは声を失った。
 周囲の光景全てが凍り付いていた。
 いや、凍っているわけではない。
 さっきまでかかっていた80’sのテクノポップは瞬間的に間延びした音になり、耳に聞こえないほどの低音となって同じ音を鳴らし続けている。
 これは時間停止に近い極端な時間伸張だ。
 何が起きている──
 言葉にならない声を喉の奥に埋め込みながら、シドはゆるゆると立ち上がった。
 己が動けていることは奇跡に近いと感じる。
 考えるまでもなく、身体が動いていた。
 その「何か」は頭上にある。
 助手席のドアを開け、トレーラーの屋根に這い上る。
 車は完全に停止しているように見える。だが、低いエンジン音がエラーのように単音で鳴り続けている状況は、けっして時間停止ではないことをシドに教えてくれる。
 恐ろしく身体が重い。強烈な圧力で血液内の窒素が気化し、潜水病にでもなるのではないかと懸念が生まれるほどだ。
 垂直に立つことも出来ない状況で、顔すら上げられず、一歩一歩シドは後部へ向け進んでいった。
 そして、最後尾──、黒炎の積み込まれたコンテナの上にたどり着いたとき、ようやく顔を上げたシドは目の前に信じられないものを見た。
 夕焼けに染まる荒野のハイウェイのただ中、シルエットとして浮かび上がるのは――たなびく漆黒の髪と漆黒の長衣。
 すらりとしなやかな体躯の左の腰には長い黒鞘が覗き、一束に結わえられた長い黒髪は下方から吹き上がる気煙でふうわりと揺れていた。
 沈みゆく疑似太陽の斜光により真っ赤に彩られた空気の中、そこだけまるで月光にでも照らされたかのような静謐な蒼に充たされていた。
「誰だ……?」
 その男はゆっくりと振り返り、シドの顔を見るとそう言った。
 その瞬間、シドは全身の体液が煮沸するような衝撃を覚え、言葉すら出なかった。
 頭上での異変を感じたとき、まさかとは思ったのだ。だが、そのまさかがシドの眼前に確乎として存在していた。
 肺の奥で固まろうとする空気を押し出して、シドはようやく声を出す。

「──宗師」

 ソウシ──シドがそう呼ぶ彼の名は、秀綱。
 その並びの音を最後に発したのは、もう三世代も前になる。
 なぜ彼がここにいるのか。
 何をしにここへ来たのか。
 そもそもこの男は本当に彼なのか。
 シドがかつて師と仰いだ男が、その時と変わらぬ姿でそこに立っていた。
 いや、違う点が一カ所だけある。
 それは彼の左目が氷河のような水色に輝いていることだ。
 シドが宗師と呼んだその男の目は、両目とも艶やかな黒であったはずである。
 シドの顔を見てもわからず、違う瞳の色をしたこの男はシドの知る彼ではないのだろうか。
 水墨のオッドアイを持つ男はしばらく考え込むように口を閉ざしたが、思いついたようにうなずくと薄らと輝く宝石のような目で、シドをまっすぐに見下ろしていた。

「……ああ、朱天か」

 かつて彼はシドのことを、日本に住んでいた鬼の名になぞらえてそのように呼ぶことがあった。シドと師、そして兄妹弟子である諒子しか知らない呼び名である。
 そうするとやはりこの男は紛れもないシドの師──秀綱であるということだ。
 玲瓏たる美貌は以前と変わることはない。だが、その雰囲気はシドの知る秀綱とは全く異なっていた。
 瞬きもせず見下ろすその様は、あまりに透明で無機質で、肉体とアルマを持つ動物──人間の匂いを感じさせない。
 たとえるなら機械──、いや、ゲボの呼び出す異神の持つ気配。それに近い。
 ぞくりとシドの背に戦慄が走る。遙か昔三世代前。最後に分かれたとき、師はシドになんと言ったのだったか。
 もう二度と会うことはない――そう、シドに伝えたのではなかったか。
 そして次の瞬間、シドにはわかってしまった。
 秀綱が今この場に何をしに来たのか。
 下に降ろされた秀綱の右手がぼんやりと輝き出す。
 それと同時にコンテナの屋根に真一文字の亀裂が生み出されていた。
 秀綱は「黒炎」を奪おうとしてるのだ。
 だがシドは動くことが出来ない。圧力はますます高まり、押しつぶすというより内部に収縮させられる──そんな感覚すらシドに植え付けていた。
「宗師、なぜ──っ」
「シド。おまえには感謝している。だがその役目もこれで終いだ。全てを忘れて東京へ戻れ」
 以前と変わらぬ深く甘い低音で、秀綱は穏やかに言った。
 だがそれとは裏腹に、あまりの重力にシドには光すら歪んで見えた。全身の骨が軋み真っ赤な夕日が紫から蒼へ変わっていく。
 亀裂の中で何かが起こり始めていた。
 音はしない。
 だが、足下で次々と黒炎の存在が消えていくのをシドは肌で感じていた。
「駄目だ──、宗師、それは……」
 このままでは亮を救うために持ち帰る全ての黒炎を失うことになる。
 何とかしなくてはと奥歯を噛みしめたその時。
「久しいな、秀綱。先の革命以来か」
 背後から聴き知った声が聞こえたのだ。
 その声の主は──
「ビアンコ──」
 白の長衣を纏ったIICRの長は跪くシドの横を通り過ぎると、秀綱の正面で対峙する形となる。
 圧力が僅かに弱まった。
 そして徐々に徐々に減圧の速度は上がっていく。
「ビリンバウ。おまえはまだ──」
 言いかけた秀綱の腕を、一歩踏み込んだビアンコがぐっと捕らえていた。
「ヴェルミリオ、このまま車を走らせろ。決して止めるな!」
 弾かれるようにシドは立ち上がり、身を躍らせる。
 まだ圧力は十分掛かっていたが、それでも動けないレベルではなくなっていた。
 それは取りも直さず下にいるPROCメンバーが現在の状態に気づくということである。
 彼らは異常に気づけば直ぐにでも、積み荷を護りシドを救おうと動き出すだろう。
 この状況での彼らの参戦はあまりにも無謀だと言わざるを得ない。
「もう私のことをその名で呼ぶものはいなくなってしまったよ」
 背後でビアンコが笑うのが聞こえた。
 この状況で笑える彼も、師と同じく人間ではないように思える。
 シドは助手席に飛び込むとドアを閉め、ゆっくりとこちらを向きつつあるU子へ言った。
「スピードを上げろ。早く帰ればその分休みも長くとれる」
 何事もない調子でうながせば、次第に従来の速度を取り戻し始めた彼女は
「名案ね。早く飲みに行きましょ」
 と頷いて、アクセルを踏みしめる。
 頭上では恐らく未だ人外の攻防が繰り広げられているはずだ。
 だが車を止めることは出来ない。
 それはビアンコの指示だからというだけではない。
 部下達の命が掛かっているからだ。
 失った黒炎は最悪今一度潜れば採取することはできる。格段に難易度が上がってしまっているとしてもだ。
 だが、メンバーの命は一度失えば取り返しが付かない。失うとはつまり死ではなく寂静。秀綱と闘うと言うことはそういうことなのだ。
 車内は再び陽気で緩い空気に充たされ始めていた。
 この場にいる誰もコンテナ上で何が起こっているのか──いや、起こっていたのか気づいていない。
 そしてそのまま何事もなくトレーラーは倉庫へ乗り入れていき、コンテナは釣り降ろされ、そして中の黒炎を待ちわびていた研究局員に収めることとなった。
 本当に「何事もなく」だ。
 コンテナ上部には傷一つないし、中の瓶も黒炎も書類通りの数がきっちり詰め込まれている。
 U子は鼻歌交じりで書類にサインし、他のメンバーも各々明るい表情でガレージ外へ歩き出していた。
 二時間前の出来事が夢であったのではと思うほどに、そこには何の痕跡も残されてはいなかった。


 だがそれが夢ではなかったという証は、即座にシドへ提示されていた。
 ガレージを出て直ぐ、携帯へ呼び出しが掛かったのだ。
 呼び出された場所はIICR本部主棟最上階にある首長の執務室。──ビアンコの部屋である。
 通常カラークラウンの執務室は彼らにとって機構内の自室のようなものであり、仕事のみならずプライベートで利用されることもしばしばなのだが、ビアンコに関してだけはこの限りにない。
 彼がそもそも執務室にいること自体ないからである。
 ビアンコの居場所を知るものは彼の秘書だけであり、彼が居なくとも機構は動くように作られている。
 だが重要な決定事項の決済や緊急事態が起こった場合など、彼が必要になったときは必ず彼は現れるのだ。
 つまり執務室にシドを呼び出した、今がその時ということなのだろう。
 執務室へ呼ばれることなど、以前カラークラウンとして勤めていた時もなかったことである。
 嘘のように人気のない深夜の主棟を進み、最も奥まった専用エレベーターを使ってかの部屋をノックすれば、中からつい先ほど聞いたのと同じ深い声で「入れ」と一言返事があった。
 そこでシドはビアンコにより見せられたのだ。
 あの日。亮が異神へ捕らわれ異界へ落ちた瞬間、何が起こり誰が亮を連れ戻したのかというヴィジョンを。
 腕一本で異界から亮を手繰り出し、追い縋る怒狂の炎竜を刀の一振りで花弁と変じていく師の姿を。
 そして知らされた。
 亮がなぜあのような状態へ陥ってしまったのかということを。
 誰が亮にあのような運命を背負わせたのかということを。
 全ては亮の父――。秀綱が描いた通りに物事は進んでいる。

「ヴェルミリオ、おまえはどうしたい?」

 その上で問いかけられたビアンコの言葉だ。
 ビアンコに聞いた「真実」も俄には信じられないような話であり、複雑を極めるその内容をシドは何度も脳内で反復し、答えを出さねばならなかった。
 秀綱はシドに「何を感謝する」と言っていたのか。「何の役目が終わった」と言っていたのか。
 だがいくら考えてもそれは一つしか見当たらない。
 彼の言葉は全て――成坂亮に通じている。
 秀綱に亮を渡すことだけは絶対に避けなければならない。
 だから今シドはここにいる。
 亮を護るための壁に白炎が必要だというなら、それをすぐにでも取りに行く。
 例え亮が自分のことを待っていたのだとしても、シドにはその期待に応えるよりも大事な任務がある。
 何より亮のそばに寄り添うべき自分の代わりなど他にもいる。
 亮を護ることが第一義であり、共に自分があることなどさして重要なことではないのだ。
 その課程で亮が自分の元を離れてしまったとしても、それが亮の意志であり亮が健やかであるのならば、シドはためらいなく手を放せる。
 自分がそういう人間だということを、シドは遙か昔より誰よりも良くわかっていた。
 暗い窓に映る己の顔は、相変わらず冴えない色をしていた。
「なぁに? 起きてんじゃない。ロックじゃ寝られないならロッカバイ・ベイビーでも歌ってあげるわよ?」
 シドが目を開けたまま窓外を見ていたことに気づいたU子が口をとがらせ、ジロリとこちらを見下ろしている。
「おまえの歌ではどれも同じだ」
 そう言って肩をすくめてやれば、U子は眉をつり上げて「失礼ねっ」と一言吠え、野太い声でマザーグースの一節を歌い出す。
 シドはその声を聞きながら今一度目を閉じた。
 外の嵐はまだまだ止む気配を見せてはいなかった。