■ 5-36 ■



 久我は熊のような男の肩に担がれたまま、どこともしれない場所を運ばれている最中だった。
 アイマスクで目隠しをされ、耳に掛けられたヘッドフォンからは絶えず大音量のクラッシックが流されていた。
 授業でやるような高尚な音楽になど興味のない久我には誰の何という曲なのかわからなくて当前だったが、たとえ自分がよく知るJ-ROCKだろうとこのレベルの音量で流されては何の曲なのかは即答できないに違いない。
 だがそんな状況でも「やかましい!」「ボリューム下げろ!」と喚き散らしもせず、久我は口を真一文字に結び、ただひたすら周囲の状況を探るべく神経を尖らせるほかなかった。
 久我の鼻腔を刺すのは乾いた血の臭い。
 首元はべたつきの残る体液がこびりつき不快で、腹も背中も大量のそれに染め上げられごわついている。
 しかしそれを掻き取る行為すら今の久我には不可能なのだ。
 両手で自らを抱くように袖を固定された彼の服は、いわゆる『拘束服』と呼ばれる類のもので、囚人や精神病棟の患者が着せられているのを、久我はロック系のPVで見たことがあった。
 好きなアーティストがPVで着ていたその服をまさか自分が着ることになろうとは思ってもみなかったが、実際着てみると想像以上に身動きが取れず、「拘束服ちょっとかっこいい」などと思っていた昔の自分の平和さに溜息が出る。
 とにかく、視覚、聴覚、嗅覚をジャックされている久我に残されているのは、あまり役に立ちそうもない味覚と半分麻痺しかけた触覚、そして集中しても知れている第六感しかない。
(先生、めちゃくちゃ怒ってるんだろうな……。もう三日は連絡取れてねーし、さすがに問題になってんだろうなぁ……)
 こんな風に暢気な気鬱にあえて考えを逸らせば、絶体絶命のこの状況にあっても、なんとかなるんじゃないかと根拠のない展望が開ける気がした。
 捕まってすぐに一度殺された久我は瞬間的に短時遡航を行い、久我の特質に気づいた彼らによって、おもしろ半分に三十数度殺される羽目になっていた。
 最後の方はカウントすら曖昧で、「きちんと己の死んだ数を数えておけ」とシュラに言われた教えすら覚束ない有様である。
 しかしこの一般のソムニアには有り得ない能力と、IICRの人間だということがばれたおかげで、その後久我はさしたる危害を加えられることなく捕虜待遇で監禁されることとなった。

 あの日、IICRに侵入した連中のトラックへ潜り込んだ久我がたどり着いたのは小さな農場の母屋らしきところで、そこで放たれていた犬に早々に見つかった彼は離れの物置へ三日近く転がされていたことになる。
 取り上げられた携帯は追跡を恐れた彼らに真っ先に電源を落とされているし、三日前、最後の連絡を取ったシュラへは時間の都合上「すぐ戻る」的などうでもいい内容しか送れていない。足は鎖で柱に巻かれ、両腕を拘束している手錠は驚くべき事に最新式の空間錠だ。つまり久我がこんな何の変哲もない農村地帯で捕らえられていることを気づいてくれる者など誰一人としていなかった。
 そして太陽が三回昇った日の午後、昼食後のトイレを紐付きで許された後、彼はいきなり血で汚れきったシャツを引っぺがされ、真っ白な拘束服を着せられたのだ。
 その際初めて空間錠を外された久我はチャンスとばかり世話係の小男を蹴り倒し、自分の持ちうるイザCマイナスを最大限に奮って脱走を試みたわけだが──、結果は惨憺たる有様で、どうやら自分より能力が高いらしい見張りのソムニアたちにあっさり押さえ込まれ、せっかくすっきりと着替えた真っ白い拘束服を自らの血でドロドロに汚す始末となっていた。
 この三日、へちまタワシみたいな硬くて臭いパンしか食べさせられていないのが敗因だと、切り裂かれた喉や腹を短時遡航で逆戻ししながら喉の奥で悪態をつくのが関の山な自分が情けない。
 すぐ戻るからっておまえは簡単に死にすぎだ──などと、なぜか見張りの連中にまで呆れられながら車に乗せられ、そうして鼓膜が痺れるヘッドフォンとアイマスクを装着された久我は、数時間後の現在、ひんやりとかび臭い廊下のような場所を運ばれている最中となる。
 
「まだ着かねーのかよっ。どんだけ長い廊下だよっ!」
 十五分以上この状態が続き、しびれを切らした久我が叫べば、自分の頬の下にある熊男の背中がびりびりと振動した。
 どうやら何か返事をしたらしいが、今の久我には聞き取ることは出来ない。
「あ? 聞こえねぇよっ。もっとでかい声で喋ってくれ!」
 芋虫のような状態のまま男の肩上で暴れた久我の身体は突然衝撃を受け、あまりの痛みで呼吸すら止まる。
 どうやら石床へ投げ落とされたらしいと理解する前に、久我の耳から分厚いヘッドフォンが外され
「うるせぇっつったんだ、石食わせて歯ぁブチ折るぞ、このゾンビ小僧!」
 ひび割れた声が五十メートル先くらいの位置からそう鳴り、次に額にゴリリと靴底の感触を受ける。
 もちろんしゃべっている相手がそんな遠くに居るわけがない。間違いなく自分の顔を薄汚れた革靴で踏みつけている熊男の声だろう。
 これは完全に耳が逝かれたなとアイマスクで覆われたまま久我は目を閉じた。耳が逝かれて本望なのはライブ最前列でアンプのボリュームにさらされたときだけで、こんな熊男の肩の上で爆音交響曲をかまされた時ではない。
「…………ない。…………しなさい」
 か細い声が聞こえた気がする。
 気のせいかと疑うほどの音量だが、それに受け応えているらしい熊男の返事が聞こえたことから、この部屋には自分たち以外にも人間が居ることに久我はようやく気づいていた。
「そんなっ、俺も……いや、私も自らお会いしてこの餓鬼の報告を……」
「必要ない。あのお方はとてもお忙しい。余分な事象に、時間という貴重なリソースを割くことはできない」
 冷たい石床の感触を身体の下に感じながら、久我は聴力を取り戻すべく必死に耳をそばだてる。
「……わかり、ました。なにかあれば外で控えてますので、いつでも声、掛けてください」
 遠くで鳴っていたデジタル音声のような声が次第に近づき、人間味を増してきて、聴き知った熊男の声に戻りかけた瞬間、額の上に感じていた圧力が消えた。やっと踏みつけていた革靴がどけられたらしい。
 だがその後数分、何の動きもない。
 居心地が悪く、久我は拘束された身体をくねらせて、なんとか身体を起こそうと努めた。
「誰かいんのか? ここどこなんだよ、耳だけじゃなく目隠しも取ってくんねぇかな」
 腹筋を使ってなんとか身を起こし、周囲に向かい叫んでみると、
「クー・シー。犬ならば眼でなく鼻を使ってみてはどうだ?」
 耳元でアルトヴォイスのセクシーな女の声が聞こえ、背中に豊かな二つのふくらみを押しつけられる感触。
 反射的に背を反らせた久我の視界が不意に開けていた。
 何者かが久我のアイマスクを取り去ったのだ。
 はじめはぼんやりとしていた世界が、何度か瞬きを繰り返す内、すぐにはっきりとした像を結ぶ。
 薄暗い室内は小さな聖堂くらいはあろうか。
 全てが黒色の石で造られており、高い天井から吊されたシャンデリア様の照明には無数の蝋燭が灯されていて、部屋全体を揺らめかせていた。
 磨き上げられた石ブロックの小さな段差や荒削りな壁に表れる石の凹凸が、蝋燭の揺らぎに合わせて影を小刻みに震わせている。
 だが──部屋にはそれ以外何もなかった。
 ひんやりとした風が湿った匂いを時折巻き上げ、どこかから空気が送られているらしいことはわかったが、何もない漆黒の石室はその異様さで久我の背をぞくりと逆撫でる。
 椅子も机も戸棚もベッドも窓もない。吊されているシャンデリアもあくまでも実用を旨とする作りで、昨日今日吊されたものではなさそうだ。
 ここは生活する空間でないことは確かだといえる。これなら生け贄を捧げる祭壇でもあった方が安心するレベルだと久我は暗澹たる気持ちになった。
 自分はここで今度はどんな目に遭わされるというのだろう。
「そう不安そうな顔をするな、クー・シー。これからおまえは我らの同志となるのだから」
 するりと背後から腕を回され、後ろから甘い香りに抱きしめられる。
 首を巡らせてみれば、肩口に顎を乗せた美しい女と目があった。
 肩口で切りそろえられた艶やかな黒髪とブルーグレーの瞳がエキゾチックな彼女は、三十代半ばだろうか。意志の強さを示すつり上がったまなじりは久我を見つめ細められ、妖艶と言ってもいい色香に濡れていた。
 ゴクリと思わず喉が鳴り、取り繕うように久我はまくし立てる。
「あ、あんた誰だ!? クー・シーってな俺のことか? 勝手に変な名前つけんなコラ」
 久我に背後からしなだれかかったまま、女は喉の奥を震わせて小さく笑った。
 そうされる度に女の体温が拘束服の分厚い布地に染み込んで、久我の肌をじわじわと温めていく。
「クー・シーはクー・シーだ。テーヴェは単におまえのことを『シー』と呼んでいたが、私は一目でおまえが犬だと気づいたよ」
「はぁ!? 意味わかんねぇ。あんたちょっとおかしいんじゃねぇのか?」
 染み込む体温に奇妙な焦りを覚え、むやみやたらと噛み付いていく。
 しかしそうすればするほど女はおかしそうに笑い、身動きの取れない久我の頬を細い指先で撫でながらじっと顔を見つめてくるのだ。
 ラベンダー色の甘すぎる何かが目の奥へにじり入り久我の脳をシロップに漬け込んでいくようで、思わず久我は目を閉じ何度も頭を振って身をよじった。
「心外だな。私がおかしいのではなくおまえの理解が足りないだけだ」
 そんな久我の様子を楽しむように耳元に唇を寄せ、熱い吐息を吹き込むように女は続ける。
 下半身に一気に血液が溜まり、情けなさで久我は叫びだしたい気持ちだ。
「犬のおまえにもわかるように犬語で話してやろう。シーとは妖精。おまえのアルマの輝きがそのように見えるということだ。小さいが強い瞬きを繰り返している」
 解説を聞いても全く意味がわからない。
 単に女の意図することが見えないというだけではない。
 今や久我の理解力は度数の高いアルコールを一気に飲み干したほどに鈍り、ふわふわとした得体の知れない幸福感に身を投げ出してしまいたい欲望に駆られていた。
「そんなアルマを持つ者はこの世界でおまえただ一人らしい。おまえこそ我らの仲間となるために存在するアルマ。そしておまえ自身そうなるためにここへ自ら足を運んだのだ。ちなみにクー・シーとはスコットランドの犬の妖精でな。おまえにぴったりだろう?」
「……るせ、ババァ。俺から離れろっ……」
 そう漏らすのが精一杯だった。
 背中越しに抱きしめるこの女がヴンヨ能力者だとようやく気づいたが、こんな風にリアルで力を振るえるソムニアというのがどれほどのランクを持っているのか、久我には想像すら出来ない。
 IICRに属さない在野にこんな化け物みたなソムニアがいるのかと、苦いほどに甘いラベンダー色のシロップを漂いながらぼんやりとそう思う。
「ふふふ……。ではそのババァに教えてくれ。おまえのその能力。死しても死しても蘇るその唯一無二の力はどこから手に入れた?」
 久我の身体がずるりと倒され、女の膝の上へ後頭部を押しつけられる。まさに膝枕されている状態だ。
「ビアンコはおまえに何をした? シーであるはずのおまえがなぜIICRの中央に囲われず、捨て駒のように最前線に駆り出される?」
 久我にとっては意味のわからない質問であった。だが、この状態は非常にまずいと感じる。
 短時遡航が現れるきっかけとなった事件を語ってしまえば、亮の名を出すことになってしまう。
 それだけは死んでもしないと。語ることなど有り得ないとわかっている。
 だが──絶叫のような拒絶も、甘いラベンダーの蜜にくるまれてアルマの沼の奥深く沈み込んでいくのを感じた。
 女の美しい顔が上下逆の視界で、徐々に降りてくる。
 顔の横にぱさりとおちた髪の束を片耳にかける仕草が久我の網膜に焼き付き、目を閉じることも出来ない。
 赤くぽってりとした唇が久我の唇に重なり、熱い何かがぬるりと唇を割って侵入してくる。
「っ──」
 ぴちゃり、くちゅりと淫猥な水音が上がり、拘束された身体のまま久我の身体がぶるぶると震えた。
 絡められる舌の動きは蛭のように醜悪であるのに、汚らしければ汚らしいだけ、下劣であれば下劣なだけ、脳内から爆発するように幸福と快感が飛び散っていく。
 生暖かい唾液がどろりと口中に注がれる。
 抵抗らしい抵抗も出来ず、ゴクリ、ゴクリと久我はそれを嚥下していた。
 溢れ出た透明な粘液が久我の頬を幾筋も伝い耳朶へと流れ込んで、そこからも悪寒のような幸福が広がり、ついに久我は何度も腰を突き上げ、拘束服の中を汚していく。
「ぅ……、ぉ……、っ、……」
 唇を解放しわずかばかりの距離を開けて、女は久我の様子を観察する。
 強烈な開放感に焦点をなくした眼をぼんやりと見開いたまま、女の唇を追って久我の舌が伸ばされ空中でゆらゆらと踊っている。
「ふふ……、なんと可愛らしいこと」
 伸ばされた舌に応えるように、女も暗赤の舌先を尖らせ、空中で円を描くように絡ませる。
 もどかしそうに首を伸ばし腰を揺する久我の唇を、女はあやすように吸い上げ、濡れた音を立て再び顔を上げる。
「クー・シー。その可愛らしい日本犬の尾っぽを私の中に埋めたいのなら、私の質問に答えればいい。簡単なことだ」
「っ……、かん、たん……」
「そうだ。さっきからおまえが穴が開くほど見つめているこれも、好きにしてかまわない」
 谷間の奥まで大きくV字に切れ込んだ黒シャツは肉感的に押し上げられ、その隙間から透き通るような乳房の半球が覗いている。
 少し布をずらせば全てが見えてしまいそうな胸元を見せつけるように身を寄せた彼女は、身体を折り曲げ久我の鼻先にそれを近づけていく。
 久我は情欲に濡れた眼を見開いて、ついに女の胸元に噛み付いていた。
 邪魔な服を剥ぎ取ろうと黒レースに噛み付いたまま首を振ればだぷんと重たげな果実がこぼれ落ち、現れた薔薇色の先端に興奮の呻きを上げるとむしゃぶりつく。
「まるで子犬だな。ママの乳房が恋しいか、ん?」
 そう髪を撫でられながら問われれば、ジュッと音を立て女の乳首を吸い上げ、たわわなそれにごりごりと歯を立てた。
「これが好きか? クー・シー」
「……っ、好き……。好き……」
 問われたことに対し片言で答えるのがやっとの久我は、自由にならない腕を服の中でもぞもぞと蠢かせながら、必死に首を振って邪魔な女の服をはだけさせると、もう片方の乳首へも舌先を伸ばす。
 女は楽しげに笑い、授乳でもするかのように自ら久我の口元へと乳房を寄せた。
 熱に浮かされた瞳でそれを映した久我は、嬉々として首を伸ばす。
 だが、久我の舌がたどり着くほんの数ミリ手前で、白く輝く妖艶な果実は上空へと離れていく。
 膝枕をされた状態のままそれを目で追おうと、久我は僅かに身を反らせ、女の姿を視界に入れた。
 きっちりと着込めばキャリアウーマン風の黒シャツはみだらにはだけられ、無数の蝋燭に照らされた白い球体が二つ、ぼんやりと浮かんで見えた。
「ではママに教えてくれるな? ビアンコはおまえに何をした?」
 彼女が聞いているのだから答えなくてはならない。
 答えればあれを好きにしてイイと彼女が言ったのだ。
 答えれば彼女に俺のしっぽを埋めていいと彼女は言ってくれたのだ。
 入れたくてこすりたくてたまらない。彼女の肉で、彼女の内側で、腰を振ったらどんなに幸せだろう。
 快感と幸福感で肺の奥まで充たされながら、久我は身体をくねらせ喘いだ。
「ビアンコ、とは、会ったこと、ない……」
「……まだ足りんか? こんなにだらしない顔をしているくせに忠誠心を忘れんとは、さすがにIICRの犬っころだ」
 女の手が頭上でナイフを取り出し、女の白い腕を切りつけていく。
 するすると紅色の糸がしたたり落ち、久我の鼻先にどろりとかかった。
 鉄臭い香りが鼻につき、次にとんでもなく甘美な液体が口の中に流れ落ちてくる。
 瘧のようにぶるぶると全身が震える。押しつけられた白い腕の傷口へ舌先を潜り込ませ、久我は夢中で流れ込む液体を吸い上げた。
 起ちあがりっぱなしの下腹部からは、だらだらと無節操に精が垂れ流され続ける。
「は……っ、ぁ、……、もっと……、ぉね、さん、……、もっと……」
 傷口から滴るそれの量が減ってくると、久我はいてもたてもいられず、女に懇願した。
「ママ……だ。呼んでみろ、クー」
 艶然と笑う女がそう言えば、久我は舌を突き出し真実犬のように呼吸を荒げながら、
「ママっ、ママっ、もっと、ママっ」
 と狂ったように叫び出す。
 本当に彼女が母親のように思え、禁忌の肉欲で目の前がぐらぐらと煮え立っていた。
「クー。ママとセックスをしたければ、ママの言うことをきちんと聞ける良い子でなくては。わかるな?」
「わか……る。良い子になる。俺、良い子になる」
 頬を撫でられ、頭上にたわわな乳房をさらされれば、久我はもうそのことしか考えられなくなる。
 自分はクー・シーで、彼女はママなのだ。
 言われたとおりに全部、答えよう。
 それがママにとっての良い子であり、良い子でなければママに嫌われてしまう。
「おまえのその不死の能力はどうやって手に入れた? ママに教えてくれ」
「そ、れは……」
「ん? それは?」
 ちゅっと音を立てキスをされた。
 舌先を僅かに絡められ、久我は二度腰を揺すった。
「それ、は……、俺が、死にそうに、なって、情けなくて、もう……、時間を、巻き戻したいって、思ったから…………、巨人が、わかったって……」
 荒い呼吸の合間に久我が述懐を始める。
 だがその言葉は要領を得ないもので、女は形の良い眉を寄せ、不服そうに身体を離した。
「巨人とはなんだ」
「時の……異神。青い、巨人」
「異神? おまえはイザだろう。ゲボでもないおまえがなぜ異神と契約を結べる?」
 ビクンと久我の身体が揺れた。
 『ゲボ』という単語が、ぶよぶよと膨れあがった幸福欲求の肉壁を突き破り、わずかに残った久我の理性へと針のように刺さる。
 脳裏に相棒の呆れたような顔がよぎった。
 その瞬間、久我の輪郭がわずかにぶれる。
「クー、ママにわけを話なさい」
「……悪い。俺マザコンじゃねーから。付き合うなら同年代希望なんで」
 女は驚いたように目を見開く。
 幸福と欲望で開ききっていた久我の瞳孔が、もはや通常時と変わらず知性の光を放っていることに気づいたのだ。
「どうして……」
「その男は身体だけでなくアルマも不死なのですよ、カヤ」
 絶句した女の言葉にかぶせるように、少女の声が聞こえたのはその時だった。




 カヤと呼ばれた女は弾かれたように前を向くと、手早く身支度を調え、久我の身体を放り捨てて深々と頭を垂れていた。
「私には見えました。シーは短い時を遡っています。あなたのヴンヨがいかに強力であろうとも、シーを支配することはできないのです」
 唐突に床へ投げ出された久我は受け身も取れずしたたか頭を打ち付けていた。
 だが、思っていたほどの衝撃がなく、不審そうに首を巡らせる。
 頬に感じたのは分厚い織物の感触。
 剥き出しの石張りだった床にはいつの間にか重厚なペルシア調の絨毯が敷き詰められており、それが久我の頭を衝撃から護ってくれたらしい。
 どうにか半分身体を起こして見渡せば、何もなかった石室は豪奢な王宮のリビングへ変貌を遂げていた。
 壁にはゴブランのタペストリーが幾重にも掛かり、室内中央には螺鈿のテーブル。それを取り囲むように衣装を施された布張りのソファーが置かれている。
 完全に別の部屋としか思えなかった。
 だが元の石室にあった古めかしいシャンデリアは已然として辺りを薄暗く照らし出しており、どこかへ瞬間的に移動させられたわけではないことを久我に伝えている。
 どんな手品なんだか、何が起こったのか──久我には全く理解できない。
「テーヴェ。お待ちしておりました。顕現化までのロスタイムでもう少し献上できるモノを増やしておきたかったのですが、不甲斐ない有様で……」
 カヤの台詞に久我は瞠目した。
 テーヴェという名を彼女は口にした。
 つまり、今久我の前にいる人物こそ、テロ特が必死に居所を探している環流の守護者リーダーということになる。
 どんな人物かと部屋を見回せば、螺鈿のテーブルの向こう側。ゴブラン織りの三人掛けソファー中央へ、ちょこんと小さな影が座している。
 白衣にも似た純白のドレスを纏った少女は十代半ばにしか見えない。ウェーブのかかった長い金髪を左右でゆるく二つにまとめ、幼さの残る白い面立ちをこちらへ向けたまま立ち上がっていた。
「なるほど。まさにおまえはシーですね。綺麗なアルマをしている」
 すぐ前までやって来た少女は屈み込むように久我の顔を覗き込んだ。
 彼女の左目は濃いグリーンだったが、その右目は透き通るような水色だ。
 オッドアイというヤツだろうか。ゲームやアニメの中の萌えキャラでおなじみのカラーリングは、実際目の当たりにするとどこか居心地の悪い違和感を感じた。
 それは左右の色が違う──という単純なものが原因ではなく、もっと別の本質的な何かである気がするが、その正体を今の久我にはつかむことができない。
 ただ、近く覗き込むこの水色の目を久我はどこかで見知っているような気がした。
「アンジェラはおまえを気にしていましたよ? おかげで真っ先に私はおまえに会うことができました」
 にっこりと微笑む少女はとても愛らしく、つられて久我も微笑んでしまいそうになる。
「時を巻き戻せるおまえをソムニアの力で縛ることは不可能ですが……、頭の中に常時パルスを発する機械を入れ込めば、何度巻き戻そうともおまえは私に忠誠を誓い続けるようになります」
 だが彼女の語る言葉の内容はお世辞にも愛らしいとは言い難い。
 確かに少女の言うとおりだと久我は瞬間察した。
 いくら身体を巻き戻そうと、同じ位置に異物がある限り、それは徒労に終わってしまう。
 そんな方法があることを今まで久我は考えたこともなかったが、聞かされてみればこれは非常にまずい状況に思えた。
 だが弱気なところを見せれば良いように突っ込まれてしまうに違いない。
「っ、そ、そんな都合のいい機械あるわけねぇ。くだらねぇ妄想語ってんなよ」
 息巻いて噛み付いてみれば、
「おまえ、誰に口を利いている! テーヴェはIICR研究局のトップを三期にわたり任されたお方だぞ!?」
 すぐ横で跪いていたカヤが慌てたようにそう口添えた。
 久我の顔色が目に見えて白く変わっていく。
 そんな話は聞いていない。久我の持っている情報は守護者のリーダーはテーヴェという女性であり、彼女は昔IICRへ籍を置いていた──、ただそれだけである。
 三期もの長い間研究局のトップだなどと、ソムニア能力だけでなく人間としての能力も超弩級なのではないか。
「簡単なバイオチップです。おまえも気に入っていたようなので、カヤのヴンヨの塊をおまえの脳内──視床下部辺りへ埋め込んであげましょう。彼女の力はとても強いので、チップの寿命は三百年。アルマへも同時に食い込ませるので転生後もずっと何度でも幸せに酔い続けることができるのです。素敵でしょう?」
 恐怖で口の中がからからに干上がっていく。
 三百年もの間あのヴンヨに抗い続ければ、久我の短時遡航などあっという間に底をついてしまう。
 その後は為す術もなく文字通りカヤの犬として永遠に生きなくてはならないのだ。
 まさにエロゲーのバッドエンドのような展開が現実に自分の身に降りかかろうとは、人生を二度生きてきて考えもしなかった。
「クー。なんという情けない顔をしている。さっきまでの勢いはどうした」
 楽しそうなカヤの声が横で聞こえた気がしたが、今の久我にはそれに反論するだけの余裕などない。
 今まで何度も殺され蘇るというピンチを味わってきたが、こんな八方ふさがりの状況はなかった。
 以前シュラに言われた言葉が改めて胸に刺さる。
『おまえはおまえの能力を過信して軽々しく動きすぎる』
 短時遡航は万能ではなかった。頭の良い人間がちょっと考えただけで、久我の能力は威力をなくしてしまうことを改めて思い知らされた。
「だが──、おまえの出方次第ではそんな面倒をしたりしません」
 少女は野良犬にでも話しかけるように屈み込み、優しく微笑むと久我の頭を撫でる。
「私の見える世界を一緒に見てください。そしてそれが何かを教えて欲しいのです」
 少女の小さな手はいたわるように久我の髪を撫で梳いている。
 彼女の言う意味が久我にはわからなかった。
 テーヴェの見える世界を一緒に見るというのはどういうことなのか。仲間になれと単純にそういう意味なのだろうか。
 その疑問を口にしようとしたその刹那。
 久我の視界が暗転する。
 いや、暗くなったのではない。フィルムのポジとネガのように、景色の色が逆転して見えるのだ。
 奇妙な色合いの景色に驚愕していたのも束の間、続いて頭上で強烈な光の塊が白く熱く輝いているのが見えた。
 天井などもやはそこには存在しなかった。
 遙か宇宙の向こう側よりも遠くに、その光塊は息づいていた。
 己の拳よりも大きく見えるそれを、久我は太陽みたいだと思った。
 眩しくて目を細めるが、ずっとずっと見ていたい気持ちに駆られる。近づきたくて手を伸ばす。
 だが当然ながら太陽に触れることなど出来るわけもない。
 そしてその太陽を取り囲むように、大きな虹が円を描いている。
 とても綺麗で溜息が口を突いてこぼれた。
 視界は一変する。
 太陽よりもさらに遠く──、一つの星が消え入りそうに弱々しく瞬いている。
 弱々しくはあるがその輝きは厳かで、久我の胸はなぜか切なげに締め付けられた。
 その星の近く──、皓々と蒼い月が輝いている。
 冴えて輝くそれは触れれば切れそうな玲瓏とした光であり、あまりの畏怖の念に久我は腹の底から震え上がった。
 自分が何を見せられているのか全くわからない。
 だが次の瞬間、久我はあっと声を上げていた。
 見ているのは拘束服を着せられ半身を起こした久我自身。
 白く小さな手が自分の右側から伸び、久我の頭に乗っているところを見ると、これはテーヴェの視界そのものだ。
 色調の逆転した世界で、久我は正常な色合いを保ち、その身体は清廉な萌葱色に輝いていた。
 胸の辺りは一際強く輝き、まるで空想上の妖精のように、ちかちかと瞬いている。
「久我貴之。おまえのアルマの中にある妖精を私はこうして見ています。おまえがシーであるように、別の何者かが太陽であり、虹であり、星であり、月なのです。その者達と私は出会う必要があるのです」
 唐突に久我の視界が再び切り替わる。
 ネガはポジへと戻り、現実世界が久我の周囲を取り囲んでいた。
 テーヴェがくるりと背を向ける。
 大きく背中の開いたドレスのデザインに、久我は思わずどきりと目を逸らした。
 肩胛骨から尾てい骨あたりまで完全に晒された白い肌に、淡いブルーのタトゥーが浮かび上がっていた。
 背骨に沿うように描かれた幾何学的なそれは、ぼんやりと発光しているようにすら見え美しかったが、なぜか彼女の左半身のみにしか存在していなかった。
「シーであるおまえにはわかるはずなのです。ソールが誰であり、アルクスが何者で、ステルラがどこで瞬いていて、ルナがなぜあのように恐ろしいのか。全て私に教えてください」
「そんなの……、あんただったらわかるんじゃねーのかよ」
 干涸らびた喉を強引に開いて、久我はどうにかそれだけ言ってみた。
 だがテーヴェは振り返ると小さく首を横に振る。
 少しそばかすの残るあどけない面を僅かに歪め、悔しげに彼女は唇を噛んだ。
「駄目だったのです。アンジェラさえ手に入れば、全てうまくいくはずでした。だけどそうではなかった。彼は疲弊し尽くしていて、今はもう空っぽの入れ物でしかなかった。だから私は未だ完璧な『契約』になることが出来ずにいる。このままではビアンコの計画が先に発動されてしまう。世界のためにそれだけは避けなくてはならないのです! だから私は彼らと出会い、彼らの力を得て完璧な契約にならなくてはいけない」
 ビアンコだの世界だの、雲の上の話に久我は何も言えず口をつぐむしかない。
 もう自分の手に負える領域ではないと痛切に感じるが、目の前で打ち拉がれている少女が真剣だと言うことは痛いほどわかる。
「世界を救うため、テーヴェはただ一人でIICRへ立ち向かっているのだ。おまえが断れる理由などどこにもないのだぞ」
 そうカヤから諭されればそうなのかとも思えてしまう。
 目の前の少女は神々しく、神か天使が舞い降りればまさにこのような姿をしているのではと感じざるを得ない。
 確かにテーヴェが言うように、久我には今みた景色と符合する人物が全て浮かんでいた。
 それは久我のよく知る人物の場合もあったし、全く知らない者である場合もあった。
「世界を救うとか言うけど、あんた、たくさんの罪もない人間を殺してるじゃねーか。真逆のことやって何が世界を救うだよ」
「一介の人類である私が『契約』となるためには彼らのアルマが必要不可欠でした。仕方のない犠牲だったのです。それによりこの先この世が再び安寧に動き出すのであれば、それは犬死にではない。生物が大量に死滅するのは地球上の歴史で何度も訪れています。その度に新たな生命が芽吹き、今に至っている──。ですが今回の危機は根源なのです。もう、二度と、命が芽吹くことはなくなってしまう。全てが停滞し、世界はよどみ、腐っていく他ない。シー。おまえはそれを看過できますか?」
「だけどっ! そんなこと誰か一人が決めていいことじゃねーだろっ」
 熱く、真摯に語るテーヴェにほだされそうになる心を奮い立たせ、久我はどうにか噛み付いて見せた。
 彼女のカリスマは本物だ。
 ソムニア能力などではない。
 彼女の言う『契約』という存在に──。神にも似た存在へと彼女自身確実に近づいているのだろう。
「ルナは誰ですか?」
 久我の否など完全に無視し、テーヴェは勝手に質問を始めていた。
 はっきり言葉を句切るように彼女は言った。
 久我は静かに首を振る。
 眼前に浮かぶヴィジョンには、久我が見たこともない美しい男が浮かんでいた。
「知らない。見たことない男だ」
「クー・シー!」
 とがめ立てるようにカヤが久我を呼ぶが、それを制するようにテーヴェは先を続けた。
「ステルラは?」
 再び久我は首を振る。
 遠すぎてその姿はかすんでいた。身体のいたるところが欠損しているように見えた。星のような彼は、もしかしたらもう死んでいるんじゃないかと、そんなことさえ思った。
「アルクスは知っていますか?」
 久我の動きが止まる。
 久我は確かに虹を知っていた。
 優しげなたたずまい。理知的な笑顔。
 一日だけ観察したことのある彼は、常に笑っていた。
 たしかあの時はスーツを着ていて、亮は制服のままだった。
 隣にいる亮を愛しげに見つめ、亮も彼を愛しげに見つめ返していた。
 だから久我は最初彼を、亮の彼氏じゃないかと疑ったのだ。
「知っているんだな?」
 カヤの言葉に久我は慌てて首を横へ振る。
「知らない。見たことないヤツだ」
 喉の奥で痰が絡んだようになったが、どうにかそれだけ久我は答えていた。
 少しばかり焦ったような響きになってしまったが、テーヴェは何も言わない。
 そして彼女は最後の質問をする。
「では、ソールの名を教えてください」
 ソールとは太陽。
 太陽とは──。
 久我はコクリと喉を鳴らした。
 言えない。
 言えるわけがない。
 何度殺されたとしても。
 短時遡航を使い切ったとしても。
 絶対にこれだけは言えるわけがなかった。
「知らないっ。なんも知らないっ、俺は何も──っ!」
「成坂亮とは何者なのです? 彼はビアンコに何をされたんですか?」
 久我は絶句した。
 目を見開きテーヴェの水色の目を見た。
 彼女は見えている。
 見えていて久我に質問している。
 それが久我にはわかってしまった。
 彼女は久我の口から答えを聞いていたわけではなかったのだ。
 久我の目から。
 久我の脳から。
 久我のアルマから──。
 思い描いた全てを彼女は直接その目に映していたのだ。
「違う……。ちがう、んだ。成坂は、違う。関係ない。全然違うんだっ!」
 久我は絶叫する。
 自分が護ろうと思っていた人物。
 護らなければならない人物。
 あいつのために久我はいつだって動き、力になると信じて無茶もしてきた。
 だが、全てが逆転してしまった。
 良かれと思って動いたことは全て裏目になり──。

「カヤ。成坂亮とその兄をここへ連れてきましょう。シーも喜びます」

 久我は亮を売ったのだ。
 売ってしまったのだ。
 喉の肉が引きちぎれるほどの慟哭が、辺りに轟いた。