■ 5-37 ■



 音楽は鳴り続ける。
 見知らぬ景色。よく晴れた倉庫街。
 散歩を始めた亮の顔の前に小さな羽虫が飛んできた。
 羽虫は前に進もうとする亮の顔の周りをぶんぶんと飛び続ける。
 うっとうしいなと思って亮はその虫を右手で払った。
 虫は横の壁に叩き付けられ潰れて死んだ。
 だがまた別の虫がたかってくる。
 それも片手で払いのける。
 払いのけた先で、何かが潰れる音がした。
 鳴り続ける音楽に身体中を洗われながら、ぶらぶらと先を進む。
 何匹も何匹も小虫を払いのけながら。
「もうやめて、亮くん」
 突然目の前に洗われたルキが泣きそうな顔をしてそう言った。
 何をやめるというんだろう?
 首をひねった亮はキョロキョロと辺りを見回す。
 右にも。左にも。亮が今来た道に従い、潰れた人間の死骸が折り重なるようにして積み上がっていた。
 これは、なんだというのだろう。
 なんでこんなにたくさんの人が死んでいるんだろう。
 亮が払ったのは小虫のはずなのに、なんで人間が大勢死んでいるのだろう。
「人を殺すのは、もうやめて」
 ルキの目から大粒の涙がこぼれる。
 亮は驚いた。
 あれをやったのは自分なのだ。
 自分は大勢の人を殺して歩いた。
 殺すつもりなどなかったのだと言いたかった。
 ただ邪魔だったからよけただけだ。これは何かの間違いだと──亮はそう言おうと思った。
 だが亮は喋ることができない。
 言い訳さえも赦されない。
 いつの間にか亮はルキを見上げていた。
 ルキの顔は苦悶に歪み、色もどす黒く変わっていく。
 いつの間にか亮の左手はルキの首を鷲掴みし、頭上に軽々と掲げ締め上げていた。
 己の指先が力を込めて節くれ立ち、ルキの頸椎の感触を手のひら全体に感じていく。
「人殺しっ。人殺しっ! ひどごろ゛じ──」
 身体を痙攣させながらルキの口から怨嗟の声が漏れる。
 亮の指先が食い込めば食い込むほど、ルキの声は不明瞭になり不気味に割れて聞き取れなくなっていく。
「やめてっ! やめてっ! いやだっ、ルキっ! いやだああああああああっっ!!!!」
 絶叫が口を突いてほとばしり出るが、亮の手は別の人間のもののように意志に従わず、ルキの首を麩菓子のようにへし折っていくのだ。
 どうやっても止められない。
 頸動脈の止まる感触。骨が潰れる音。パンパンに膨れあがったルキの顔。垂れ下がる舌。鼻腔や両目から鮮血がぼとぼとと吹き出す。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
 壊れたテープレコーダーのように同じ言葉を亮は繰り返す。
 それでもなお亮の左手はルキの首を絞め続け、やがて鈍く湿った耳障りな音をあげたかと思ったら、変色した顔がぶらんと180度回転し、上下逆になって亮の顔を眺めていた。

「──っっっ!!!!」
 ひんやりとした空気は夜のものだ。
 呼吸しようと身をよじらせれば、手の先に柔らかな感触。
 亮は必死にそれを掻き寄せると抱きしめ、顔を埋めて馴染んだ香りを吸い込む。
 心臓が全力疾走した後のように弾んでいた。
 身体中から冷たい汗が噴き出し、寒さにぶるりと身を震わせる。
 抱きしめたタオルケットへ縋るように、さらに力を込める。
「亮くん、大丈夫? また恐い夢見ちゃった?」
 隣のベッドから声が聞こえた。
 びくんと亮の身体が震え、すぐには返事が出来ない。
 それを心配したルキは、備え付けのキッチンから冷えた水を持ってきて亮に差し出す。
「お水飲もうか。身体、起こせる?」
 丸まったまま動かない亮の肩にそっと置かれたルキの手は、だが次の瞬間勢いよく払われてしまう。
 勢いで右手に持たれたコップがひっくり返り、シーツの上にぶちまけられる。
「うわ、ごめ、冷たかったね」
 慌てるルキの手を避け亮はベッドから抜け出て、転ぶようにドアへと駆けていく。
「ごめ、ルキ、ごめん……、ごめ、なさい……」
 独り言みたいな小声で亮がそう唱えているのが聞こえた。
 まるで泣いているようでルキはそれ以上言葉を掛けることが出来ず、裸足で廊下へ出て行く亮を止めることも出来ぬまま背中を見送るしかない。
 駆け去っていく足音が遠ざかると、ルキは大きく溜息をついて同じく部屋を出た。
 数分もかからぬ内、廊下に大きく取られた窓の下、中庭中央に建つガラス製のドームへ小さな白い影が駆け込んでいくのが見える。
 亮は悪夢にうなされた後、必ず有伶の植物園へ逃げ込んでいるということをルキは知っていた。
 例え深夜であろうとこの施設の中は安全であり、特にあの植物園は有伶の監視がしっかりとしているので心配はないとわかってはいる。
 わかってはいても自分の目の届かないところへ消えていく亮に心配がないとは言い切れず、いつもこっそり後をつけて様子を伺うのが常となっていた。
「ここんところ毎晩、だね」
 隣の部屋から同じく心配したらしいレオンが出てくると、猊下の植物園に視線を落としている。
 レオンの言うとおりここ一週間あまりほぼ毎晩亮はうなされているようで、夜明け前のこの時刻決まって震えながら目を覚ます。
 絶叫のような呻きをあげ飛び起きるときもあれば、今日のように声にならない声を上げ、うずくまったまま動かなくなるときもあった。
「ドクター。本当に亮くんの治療、大丈夫なんでしょうか。こんなに不安定になるなんて、やっぱり黒炎で焼くだなんてそんな無茶な治療、危険なんじゃないかって、……今更ながら僕、心配でなりません」
「うん……、私もそう思って注意深く体調を見てるんだけど、肉体的には何ら異常はないんだ。体温も血圧もその他の数値も良好だ。ただ……、気持ちの面は話が別で……」
「ヴェルミリオの来訪がキャンセルになった、あれ、が原因だと? ……確かに亮くんの様子がおかしくなり始めたのもその頃からかも……」
「食欲も落ちてるし、こんな風に精神的に不安定になると肉体的にも影響が出てくるはずだ。そう考えると……治療の間隔をもう少し開けてもらったほうがいいのかもしれないな」
「僕も! 僕もそう思います! ……ただ、亮くんは嫌がるでしょうけど……」
 ルキも何度かその提案を亮にはしていた。
 この一週間あまりで治療は5回ほど行われているが、その回数を重ねるごとに、亮の気鬱は悪化しているように思えたからだ。
 だが何度話をしても亮の答えはNOの一点張りで、それどころか話をする度かえって亮の表情は曇り、言葉数も減っていった。
「僕の力じゃどうにもできないんじゃないかって、最近思うんです。ヴェルミリオが駄目だっていうなら、早く修司さんにこちらへ来てもらえればって」
「修司さんの準機構員訓練、もう随分進んでるって聞いてるよ? 近々こちらへこられるはずってウィスタリアも言ってたけど……、でも、ルキくんだって十分亮くんの力になってると思うけどな」
「僕もそうあれればって思うんですけど……」
「なに、ケンカでもした?」
 レオンの言葉に、ルキは哀しそうな笑顔を浮かべると首を横に振る。
「ケンカ……でもできればいいんですけど、亮くん、なんだか僕を避けてるみたいで……。ここのところは目も合わせてくれないんです。どうしたのって聞いても、謝るばかりで全然会話にならなくて……。口うるさく言い過ぎて、僕、嫌われちゃったんでしょうかね……」
「ええっ!? そんなわけないよ! 亮くん、ルキくんのこと大好きじゃない。……ルキくんこそ根を詰めすぎて疲れてるんじゃない? ここんところハルフレズくんとの電話連絡すらしてないでしょ? 今度申請があったら受けた方がいい」
「……そう、ですね」
 亮がシドと通話すらままならない状況で、自分だけハルフレズと連絡を取り合うことに心苦しさを覚えているのは事実だ。
 三日前、一度申請を断ったこともレオンは知っているようだった。
 実のところ今日もまたハルフレズからの定期連絡をキャンセルしたルキは、そのことを知られると糾弾される気がして思わず歯切れ悪く口をつぐむ。
「今日の治療……僕の権限でドクターストップかけようか」
 だがレオンはそんなルキの心の揺れを感じ取ることなく、前向きな提案を彼に指し示す。
「そうお願いできれば僕としてはありがたいです。亮くんは怒るだろうけど……」
「僕も医者の端くれだよ。患者の我が侭をいつまでも唯々諾々と聞くわけじゃないからね。任せておいて」
 そう言ってレオンは胸を張りどんと右手で叩いてみせると、勢いゴホゴホと咳き込んでいた。


 大樹の根元でうずくまる少年の周りを幾匹もの蝶がひらひらと舞い、時折肩や頭、小さな白い羽根の上に舞い降りては紅く白く明滅していた。
 膝を抱えたまま右肩を下に太い幹へ寄りかかる亮の小さく開いた口元からは、ささやかな寝息が聞こえている。
 頭上のガラスドームから柔らかな旭陽が差し込み、木漏れ日が白い横顔の上でちらちらと揺れていた。
 頬には涙の後が未だ光っていて、ルキは胸が締め付けられる。
 誰も居ない森の中たった一人眠る亮の姿はあまりに儚くて、瞬きをする間に消えてなくなってしまいそうにルキには思えた。
「ありがとね」
 そっと近づきながら亮の周りを飛び交う蝶たちに声を掛ければ、それに応えるように木の葉で出来た彼らはふわふわと舞い上がった。
 彼らはどれも淡く光を放っていて、亮の辛い感情をめいっぱい吸収してくれているのだろうとわかる。
 亮が突然どうして自分を避けるようになったのか、そのきっかけがルキにはわからなかったが、うなされているとき漏れ聞こえる言葉には必ずルキの名と「ごめんなさい」という謝罪が含まれていることに気づいてはいた。もしかしたら亮が暴走した折のあの事件が亮を苦しめているのではないかと思い至り、そう考えるとルキの胸は重く塞ぎ込んでしまう。
 11月11日に起きたあの事件での被害者は、16名。全員が寂静したと聞いている。
 ルキも有伶もクワトロ1と呼ばれるこの大惨事について亮に伝えることは絶対的に避けていたし、正気でなかった亮はその場の記憶が薄弱であり、それ故今まで事件に対し強く意識することがなかったのが実情だ。
 しかしここに来て突然亮の記憶が蘇り始めているようなのだ。
 亮の病状が安定したせいなのか、黒炎で羽根を焼くなどという強い治療の副作用なのか、それとも殺しかけた相手であるルキが常に側にいることが要因なのか──。様々な可能性が考えられたが、もしも一番最後の理由が亮を苦しめているのだとしたら、ルキがここにいるのは亮にとって負担でしかないのではないだろうかとそう思う。
「修司さんが来るまではって思ってたけど、…………僕は居なくなった方がいい?」
 すうすうと眠る亮の顔を覗き込み、頬に光る涙の後を指先でそっと拭う。
「でも、君を一人にするのは心配なんだ。こんな小さな君をたった一人で闘わせたくない」
 どうすればいいんだろうと途方に暮れ、ルキは亮の横へしゃがみ込み、同じように膝を抱えた。
 ふと、朱い髪のカラークラウンの顔が脳裏をよぎった。
 ヴェルミリオが来てさえくれれば、全てがうまくいき、あらゆる関係が元に戻るんじゃないかとそんな風に思え、苛立ちと無力感で唇を噛み締める。
 数匹の蝶がルキの肩へそっと舞い降り、光る木の葉を羽ばたかせた。





「大丈夫です。亮さんの食欲と睡眠時間が落ちている件については、私からもウィスタリアへ報告しておきます。もし治療不可ということでしたら、すぐに私室へお戻ししますので」
 エレフソンはそう言うとレオンの書いたカルテを受け取り、手にした連絡用ファイルへ挟み込む。
 いつもならそれを傍らに控えるラージへと手渡すのが常となっているのだが、頭の若干軽そうな彼は本日腹痛を訴え休養を余儀なくされているらしい。
 よって今日亮のケアに現れたのはエレフソンと、医療局付きのソウザのみということになる。
 隙を見てはサボろうとする不真面目なラージなのでまた仮病かとも疑われたらしいが、ケアリーダーであるエレフソンはそんな彼の人となりを仕方ないと諦めている節がある。
「でも亮くん、やっぱり今日は部屋でゆっくりしない? 今朝だって早くから温室に行ってたんだし……」
 亮はベッドから降りるとソウザが押してきた車いすへ自ら腰を沈め、ルキたちに微笑んで見せる。
「心配いらないよ、ルキ。ここんとこ、ちょっと寝ぼけること多いけど身体は元気だもん。レオン先生もごめん。でもオレ治療だけは絶対がんばるって決めてるんだ。ほんと、我が侭いってごめん」
 こんな風に謝ってはいるが亮の意志は頑固なまでに硬かった。
 昼食後1時間に及ぶレオンの説得空しく、亮は定刻通り治療へ向かうと言ってきかなかったのだ。
 早朝胸を叩いて見せたレオンの「医師としての決意」も残念ながら亮の「羽根を取って東京へ戻るという決意」の前には空回りを余儀なくされてしまった。
 しぶしぶうなずかざるを得なかったレオンだが、それでもなんとか主治医らしくこれだけは言って聞かせる。
「窓の外から見てるから、治療直前でももし具合悪かったらすぐ合図して?」
「え、うん、窓? ……うん、わかった」
 しつこいほど食い下がるレオンに、亮は瞬間戸惑う表情を見せたがすぐに頷いてみせる。
「時間だ。行くぞ」
 腕時計を確認していたソウザは有無を言わさぬ調子でそう言うと、車いすを反転させ亮を連れて部屋を出て行く。
 少し痩せたように見える亮は振り返りながら、ルキに向かい手を振ってくれた。
 ルキも片手を上げそれに返すが、上手に微笑み返すことができなかったような気がした。


 治療はいつものように淡々と行われている。
 低い位置にある窓から中の処置室を見下ろすルキとレオンは、焼灼治療の為の大型装置に飲み込まれていく亮の姿をじっと見守っていた。
 装置中央に寝かされた亮は身体にルキの用意した水流ブランケットを掛け、全身が耐熱コーティング剤で濡れそぼっていて、まるで雨の日の子犬のような有様だったが、姿が消える直前二人に気づき手を振る姿は元気そうで楽しげにすらに見えた。
「治療受けることが唯一心の支え、なんだよね」
 そんな亮の様子に、ぽつりとレオンが漏らした。
 こんな亮を見ていれば、それをやめろと言い切れなくなる二人がいる。
 亮以外の全ての人間。装置を操る研究員たちは全員潜水服もかくやという分厚い耐熱スーツを着込み、顔は全て耐光処理の施されたヘルメットで覆われている。
 そのため足下で広がる処置室はまるで宇宙空間の施設か何かのように見え、現実感の欠片もない。
 こんな厳しい環境下で行われる治療を亮に受け続けさせることだけが未来につながる道かもしれず、だがそれすらも不確かで、こんなこと辛すぎるとルキは溜息をつくしかなかった。
 二人の心配げな様子を気遣ってか、大丈夫だと言わんばかりに装置前の何者かが腕で大きな丸を描いてくれる。治療の中心的役割を果たしている彼はおそらく有伶に違いない。
 だが、その有伶も海底探検家のような有様であまり安心できるような風貌とは言い難かった。
「治療の効果、正直あまりあがってるとは思えないし、本当なら少し休んで様子を見ようってもっと強く言いたいんだけど……」
「それを言うと逆に亮くんの心が壊れちゃいそうで、僕、言えそうにないです」
「私も、なんだ……。ウィスタリアはどう思ってるのか……。ここのところ忙しそうで治療の時以外姿が見えないし、今後の治療方針についてもっとしっかり話し合いたいんだけどね」
 十五分置きに焼灼装置から出され休憩を挟むのだが、出てきた亮はクラウドリングの麻酔効果のため意識はなく、最早二人に手を振ってくれることもない。
 ぐったりとした亮と、忙しく蠢く研究員達。そんな不穏な景色を見下ろすことしかできない自分たちの状況に歯がゆさを覚えてしまう。
 交わす言葉もなく、時間だけが経っていく。亮の姿が現れる度、ただそれを不安げに眺めるしかない。
 そんな中、ルキの携帯ガジェットが鋭く一度ベル音を鳴らした。
「通話の予約時間じゃない? 行っておいでよ」
 言われてガジェット画面を見たルキは、小さく首を傾げていた。
「いえ、僕、今日の通話申請、キャンセルしたはずなんですけど──」
「は!? また!? 受けろって言ったじゃない!」
「え、ええ、そうなんですけど、やっぱり気が進まなくて……」
 言いながら確認したルキはますます眉をしかめ、首をひねる。
「どうしたの? メール? ハルくん……ではないか。この端末じゃリアルからメールは受け取れないもんね」
「フレズくんではないです。今日の通話担当官からで……、緊急回線が開いてるからすぐに来てくれって。ウィスタリアにも連絡取りたいみたいなんですが、処置室内じゃ端末持ち込めないそうなので」
「緊急回線? ウィスタリアが駄目でなんでルキくんに……」
「とにかく僕、行ってきます。僕に話が回ってくるならジオットか、もしかしたらヴェルミリオかもしれないし」
「うん、そうだね! とにかく行ってきて。良いニュースだといいけど」
「ですね」
 力強くうなずくと、ルキは「亮くんをお願いします」と言い残し、部屋を飛び出していく。
 治療が始まってそろそろ2時間。通常なら終了の時刻である。今また焼灼装置から出された亮は、意識のないままタオルで顔や髪を拭われ、ストレッチャーに乗せられて処置室を運び出されるところだった。
 これから1時間ほど処置後のケアが行われ、それでようやく亮は部屋へ帰ってくることになる。
 部屋に戻った亮が笑顔になるようなニュースがあれば良いがとレオンは強く願った。