■ 5-5 ■



 鬱蒼とした森の中を縫う一本の石畳の道。
 シドは腕の中に亮を抱えたまま駆けていく。
 早朝の透き通る日の光が萌葱色の葉をちらちらと透かし、清廉とした空気はひっそりと辺りを満たしていた。だが湿った土から立ち上る青い香りは夜の名残を残し、一呼吸で胸の奥までグリーンに染まりそうだ。
 少し肌寒さを感じる気温に亮の様子をうかがえば、学校の制服であるブレザーを身につけた少年は、入獄の際無意識に作り出したのだろう見慣れたタオルケットを抱えていた。
 セブンスにいた頃、ノーヴィスが亮のために用意したものと酷似したそれは、亮にとって『ライナスの毛布』そのものなのだろうとシドは考えている。ここにくるまっている間は安全であり、嫌なことは起こらない──。亮にとってのこのタオルケットは安全圏の象徴なのだと以前秋人が言っていた。
 しがみつくようにタオルケットを抱えた亮の手は力を入れすぎ白さを増し、苦しげにぎゅっと閉じられた眼はシドを映さない。
 荒い呼吸で時折何かに追い詰められるように身もだえる少年をしっかりと抱き、シドは早朝の空気を切り裂くように走る。
 ふと腕に違和感を感じ、眉根を寄せた。己の勘違いであれと、走りながら亮の小さな身体を抱え直してみる。
「…………」
 しかしそうしてみても、シドの腕に触れる不可解な感触は消えない。
 まず一つは、抱えた小さな身体から感じる猛烈な熱──それもじりじりと肌を焼くほどの熱さだ。
 これは人間の『発熱』という範囲を超えている。
 亮が先ほどまで「熱い」という言葉を繰り返していたことを思い出す。
 冷水のシャワーで冷え切った身体であるにも関わらずうわごとのように繰り返された訴えは、アルマのこの状態を示唆していたのだろう。
 それと同時にもう一つの違和感。
 それはシドがその腕に感じる不可解な固い感触──。
 しかし今のシドにはその違和感の原因を確認するほどの時間的余裕がない。
 とにかく一刻も早く亮をレオンの元へ連れて行かねばならないのだ。立ち止まる暇すらない。
 森をうねるように走る石畳を駆けていけば、鬱蒼とした木立の向こうに今にも崩れそうな三階建ての建造物が姿を現す。
 四角を積み重ねたような味気ない造りの外壁に大きな半円形の窓がいくつも並んでおり、その全てに錆の浮いた鉄格子がはまっていた。
 一見刑務所か何かの収監施設のようであるが、屋上部分を囲う石壁にはいくつか十字の抜きが作られていて、そこが病院なのだとようやくわかる。
 元は白かったであろう石造りの壁は水垢や苔により黒く煤け、崩れてこそいないがすでに廃墟のような様相だ。
 だがシドはそのうらぶれた建物に迷いなく進むと、時代がかった木製の扉を押し開いていた。
 重々しい軋みを上げながら開いた扉の向こうは、外の清々しさからは隔絶された薄暗く薬品の匂いが鼻につく古い病院施設だ。
 玄関ホールには右手に受け付けらしきカウンター。左手にはビニール張りの茶色い長いすがいくつか、申し訳程度に並んでいる。
 オレンジの濃い白熱電灯がジージーと微かな音を立てながら照らし出す院内は、かえってその明かりがあるせいで暗く陰気に見えるようだった。
 ここがIICR医療棟のQ棟と呼ばれる場所──。特別な患者のみを収容する、一部の者にしか知らされていない秘された病院施設である。
 シドが大股で奥へ進み始めると、中央を貫く廊下の向こう側から、ガラガラとストレッチャーを押しながら白衣の男が一人走り寄ってくるのが見える。
「シド! 亮くんはっ!?」
 シドの古縁であり、IICRの医療局の中でもいくつかのプロジェクトで主任を任されるほど能力を買われている男、レオン・クルースだ。
「熱が高い。肉体の方は背中からの出血が酷いが、アルマではそれが確認できない」
 手短に現状を伝え、シドは腕に抱いた亮をレオンの運んできたストレッチャーへ横たえる。
 レオンはすぐに亮の額や首筋を触り状態を確認すると、険しく眉をひそめる。
「熱が高いってレベルじゃないよ! こんな発熱あっという間に体中のタンパク質が凝固しちゃう──、肉体の方は」
「肉体は冷えているくらいだ。アルマの状態が全く反映されていない。だが亮本人は熱いと譫言で繰り返すし──正直どう処置していいのか秋人も方針が立てられずにいる」
「──そう、そこがフィードバックされてないのは僥倖だ。出血があるって?」
「量が多い。特に背中からの出血が酷く、傷もないのに何度拭ってもわき水のように溢れてくる。肉体の方は秋人が自己血輸血か血液製剤投与かをやっているはずだが」
「うん、それしかないね。──それにしても聖痕現象か。とにかく見てみよう」
 レオンはそう言うと丸くなる亮の身体を俯せに傾け、ストレッチャーに掛けられたツールボックスから大振りのはさみを取り出していた。
「亮くん、ごめんねー、ちょっと服切るからねぇ」
 意識のない亮にそう声を掛けると、手慣れた様子でシャツにはさみを入れていく。まるで事故者の処置をするかのごとく、背縫いの辺りから一気に後ろ身頃を開き、亮の白い背を白熱灯の下さらけ出していた。
 そして、息をのむ。
 シドも同じく息を詰め、わずかに目を見開いた。
 その背からは出血した様子はうかがえない。
 代わりに──。
「これ──、なに?」
「──っ」
 レオンが疑問を口にするが、シドも答えることはできない。
 亮の小さな背からは幾つもの雪色の突起がまるで鍾乳石の如く隆起し、奇妙な幾何学模様を形作っていた。
 突起一つ一つは幼児の小指ほどの太さであり、それが大きなものは3cmほど。小さなものは亮の皮膚から僅かに顔を覗かせている程度のサイズで、亮の華奢な肩胛骨を縁取り、背骨に沿うように芽吹いている。
 輝くような雪色をしたそれらは一見すると白化した珊瑚のようでもあり、よく磨かれた生物の骨のようにも見える。
 無言のままシドが丸まる亮の足を取り、ズボンの裾をめくり上げてみれば、くるぶしから上に同じような突起が認められた。
 シドが『それ』に触れてみれば、異様な熱と無機質な堅さを感じる。
 先ほど腕に感じた違和感の原因はこれだったのだ。
「背中だけじゃないのか……」
 レオンも険しい表情で確認するように亮の背や足を触診する。
「──恐らく、手首の辺りにも同じものがあるはずだ。手足からわずかだが出血があった」
「いったい、何でこんな状況に……」
「わからん」
「わからないって──アルマがこんな状態になるなんて普通じゃないよ!?」
「それをなんとかするのが医者の勤めだろう!」
「無茶言わないでよっ!! こんな症例見たことも聞いたこともないんだ、原因がわからなきゃ……」
「いいからすぐに亮を治せっ。今すぐにだっ!」
 レオンの切迫した喧嘩腰ともとれる声に、シドもいらついた調子で応酬していた。
 古びた廊下に二人の声だけが殷殷と響く。
 レオンは少し驚いたように見返すと、深く一つ息を吐き「やめよう。冷静になろう」と小さく呟いた。
 シドもぐしゃりと朱髪を掻き、「俺は冷静だ」と嘯く。
 旧知の友の言葉にレオンは軽く肩をすくめただけでやり過ごすと、ストレッチャーを押し病室へと移動を始める。
 こういう状況で取り乱していいことなど一つもない。医師として当たり前の心構えすら失するほど目の前の症状は異常を極めていて、レオンはぐっと視線を強め己を戒めた。
「とにかくプラムに応援を頼もう。彼女が到着するまで対処しながら様子を見るしかない。私じゃやれることには限界がある。」
「……ああ。誰でもいい。早く亮を治療してくれるなら何でもいいんだ」
 呟くようなシドの答えは自分自身に向けた独り言にも聞こえた。
 亮がセブンスを去ってから一年が経過したが、この男は不眠不休で亮の側につきっきりだったあの頃と何ら変わっていないのだなと、レオンはこんな時だというのに不思議な安堵を感じる。
 すぐさま医療局トップでありベルカーノ種のカラークラウンであるプラムに連絡を取りつつ、レオンはストレッチャーを押し進める。角を曲がり広めに取られた廊下を進めばすぐに中央付近に据えられた古い大型エレベーターの前に到着していた。
 飛び出た丸いボタンが上下に並び、上か下を選択できるようになっている。
 レオンが迷いなく上を押せば、出っ張り自体が黄色く光り、大げさな音を立てて鋼鉄の扉が億劫そうに開く。
「処置は三階で行う。あそこが一番施設が整ってるから──」
「わかった」
 乗り込んだエレベーターの中は薄暗く、旧式の丸い押しボタンがボツボツと並ぶ銀のパネルは鈍く灰色にくすんで見える。
 レオンの指先が3の数字が描かれたボタンをぐっと押し込めば、合図なのだろう、扉が閉まろうとする瞬間「チン」とレトロな音が一回鳴った。
 エレベーターはブルリと一度身震いするように揺れると、低いモーター音を上げながらゆっくりと上昇を始める。
「──昨日、亮は異神を召還した」
 唐突にシドが言った。
 何の話かとレオンがそちらを見れば、シドは続けて信じられないことを口にしていた。
「そして恐らく──、一度その異神に向こう側へ拉致され、そして戻ってきた」
「……!? な……、冗談でしょ? こんな時になに言って……」
 レオンは目を見開き一瞬言葉を詰まらせた。耳から届いた情報を脳がうまく処理できない──それほどにシドの語ったことは突拍子もないことだったのだ。
 しかしシドは淡々と話を続ける。レオンの驚きなど想定内だとでも言うように取り合わず、荒い呼吸でタオルケットにしがみついた亮の髪をそっと撫でた。
「原因として考えられるのはそれだけだ。亮の召還した異神は熱を使う竜のようなものだったと聞いている。だからあるいは──」
「その異神が亮くんの身に何かしたっていうのか!? 異神召還でこんな後遺症を残す症例は聞いたことないが……。第一向こうへ連れ去られたゲボが戻ってきたなんて話、信じられるわけがないよ。それ、確かなこと? おまえが近くで確認した話なのか!?」
「いや……。俺も秋人も亮が戻ってくるまでこいつがセラに潜っていることすら気づかなかった──。亮の記憶が曖昧なせいで、入獄システムに残されたログだけの話になるが」
「だったら、機械の記録ミスか読み違えとしか考えられないよ!」
「……おまえは秋人のシステムにそんなミスが生じ、あまつさえあいつがそれをミスだと気づかないことなどあると思うか?」
「……それは」
 そう呟いたままレオンは押し黙った。
 渋谷秋人が入獄システム開発の先駆者であり、現在IICRで使っているシステム全ての大本を作り出した人間だと言うことはレオンも心得ている。
 そんな秋人が自ら心の赴くまま、技術の粋を集めて作り、調整しているのがS&Cソムニアサービスに置かれている入獄システムなのだ。
 おそらくIICRで今使われている超のつく高級入獄システムなどより遙かに進んだものなのであり、秋人が考えられないというならその記録ミスはありえないことなのだと思う。ましてやデータを読み違えるなど考えられない。
 それでもそのように反論してしまうのは、それ以上に「向こうへ行ったゲボが戻ることなど不可能だ」という絶対の常識的観点があるからだ。
「この異変に関わり合いがありそうなのはそのくらいだ。──少しは治療の役に立つか?」
「……もし、それが事実だったとして、亮くんのこの症状が異神やあちら側が関わっているとしたらかなり難しいことになると思う。ゲボの生き字引だったガーネットは昨年の転生刑で不在だし、現カラークラウンのシャルルくんはまだ若すぎる。図書館長のノース・シーかビアンコ辺りにでも出てきてもらわないと話にならないかもしれない。忙しい彼らがすぐ捕まればいいけど」
「必要ならば俺がどこにいようと連れてくる」
「おまえが言うと、本当に三分で連れてきそうな気が……」
 レオンが呆れたようにそう言いかけたとき、ふいに亮が薄く目を開ける。
 誰かを捜すように身を起こそうとする少年に、シドはすぐに顔を近づけ頬を撫でる。
 その冷たい体温に安心したように亮は再び小さな頭をストレッチャーへ預け、目を閉じていた。
「もう大丈夫だ。病院に着いた。すぐによくなる」
 低く囁くシドの声に、亮はもう一度薄く目を開けシドを見た。小さく微笑んで何か言おうと亮の唇が動いた時だった。
 不意に亮の呼吸が乱れる。
「っ──!」
 ギクンと刹那身体が揺れ、次に大きな黒い瞳が見開かれた。
 亮の額、頬、手のひら、否──全身から一瞬にして玉の汗が噴き出し全身をしとどに濡らしていく。
「ぐ……、あ、ぁ、ぁ、ぁ、っ、がっ、あああああああああああああっ!!!」
 食いしばった歯の隙間から声が漏れ、続くのは声帯を壊すほどの叫び──。
 亮の身体が一気に反り返る。
「っ!!!」
「シド、押さえて! 背骨が折れかねない!!!」
 レオンが指示する前にもう、シドは暴れる亮の身体を抱きしめるように上から押さえつけていた。
 だが亮はそんなシドの膂力すら押し返すように、手足を突っ張らして弓なりに背を反らせようとする。今亮の身体を支配しているのは熾烈な痛みのみであり、少年の動きの全ては生物的な反応でしかない。
「亮っ、とおるっ!!!」
 シドが何度も名を呼び声を掛けるが、それすら今の亮には届いていない。
 見開かれた目からは激痛による涙が止めどなく溢れ出、絞り出される声は血を吐きそうだ。
「っだ……、痛いっ、いだい、いっっ、っつい、っっっっいぃぁぁぁあああああっ!!!」
 痛みから逃れようとするのか時折シドの腕を引っ掻き藻掻かせる手足の先から、数本の青白く光る突起が現れていた。
 手首、足首を覆っていた袖や裾が熔け落ちあの白い異物が姿を現したのだ。
「うそ……、なんなんだ、これ。発光しながら成長してる……!?」
 レオンが目を剥き亮の手首に現れた細い尺骨の如きそれに触れてみれば、ジリという奇妙な音と共に強烈な衝撃が走った。
「つっ……」
 反射的に手を戻したレオンが自らの指先を確認すると、人差し指と中指の先端が黒く変色している。
 炭化──しているのだった。
 ゴクリ、とレオンは喉を鳴らす。
 火傷というレベルではない。亮の雪色瘤から発せられる熱はその涼しげな色合いからは想像できない、まさに細胞ごと焼き尽くす地獄の業火そのものだ。
 すぐさま己のベルカーノで傷を治療したレオンは何かに気づくとシドを見る。
 背中側から亮を抱きしめるシドの胸からも何かの焼ける嫌な臭いが立ち昇っていた。
「シド!」
 レオンは瞬時に間に割り入りながら「おまえが焼けてしまう!」と叫ぶ。
 だがシドは「問題ない」と言い放ちレオンの介入を拒絶する。
「イザで押さえ込む。おまえは早く亮を頼む」
「本気か!? ……っわかった、とにかく鎮痛剤を」
 レオンがツールトレーから注射器と薬剤を取り出す間も、亮は耳を塞ぎたくなるほどの悲鳴を上げ続けていた。これほどの恐慌を来す痛みならば人の防御機能として失神状態に陥ることがほとんどなのだが、なぜか亮にはそれも起こらない。あまりの痛みに失神すら許されないのかもしれない。
「シド、腕を!」
 その一言だけでシドはレオンの意をくみ取り、即座に亮の腕を固定する。
 現存するアルマ用薬剤で最強のものを選び取ると、レオンは亮の細い腕へ注入していく。
「モルヒネレベルのものだから、少しは効いてくれると思うんだが……」
 しかし亮は苦悶の表情を浮かべたまま、引きつるように呼吸を繰り返し、痛い、熱いと訴え続けるばかりだ。
 その状況は三十秒経っても、一分経っても変わる様子はない。
 レオンの表情は次第に曇り、悔しげに下唇を噛みしめていた。
 通常ならばものの十秒足らずで効果が現れるはずの薬効が、未だ現れないのだ。
 これはこの薬剤では効果がない──と取った方が良い。
 しかしこの先の手がレオンには全く思いつかなかった。
 今処方した薬以上の鎮痛剤など、世界中どこを探しても存在しない。あとは濃度を強める方法を取るしかないが、規定量で効果がない今、リスクを取り濃液を注入しても思うような薬効が得られるとは思えない。
「……っ、効いてくれ、頼むよ……」
 シドはその小さな身体を強く抱きしめたまま、己のイザで少年の身体を冷やし続けるしかない。
「ひ……、ぎ……、っ、ぁ、ぁ、あつ、……っ、すけ、し……、たぃっ、ぁぁぁ、あ、っああああああああっ!!!」
「レオンっ! 次だ! もっと強いものを」
「くそっ、これ以上の鎮痛薬なんてどこ探しても──」
「ハイキューブを使う。ヴェルミリオ、押さえていろ」
 突然女の声が聞こえ、白衣に包まれた二本のたおやかな腕が亮へと伸びてきた。
 レオンが振り返ればそこには彼の直属の上司であるベルカーノ・プラムが険しい顔をして立っている。
 いつの間にかエレベーターは目的の三階に到着し扉は大きく開いていた。
「ハイキューブ!!! そうか、亮くんはゲボだからもしかしたら有効かも──」
 GMDやブラッドリキッドなどと同じく、ゲボによって作り出されるその薬剤はしかし、肉体によって生み出された血液から精製されたものではなく、セラでアルマから直接採取されたゲボ血を使用している一点に於いて、他二つからは考えられないほど強力なものだ。
 現在ではほぼ造られることのないこの薬剤は常にIICR医療局の中央薬剤庫に厳重な鍵付きで保管されており、一般の職員が目にすることもない稀少な品である。
 能力増幅剤としての効果の高さから、使用に関しては理事会の決定かビアンコの許可が絶対に必要とされているものだが、これをゲボ自身に使うと一定時仮死状態に陥らせるほどの酩酊を生むと言われており、もちろんゲボに使用することは禁止されている。
そして──
「しかしプラム。下手をするとそのまま意識が戻らない危険性が……」
「このままでは痛みで亮の精神が焼き切れてしまう。……大丈夫だ、私が薬剤コントロールする」
 セクシーなアルトボイスに凛とした意志を乗せ、プラムは、構えた細い注射器の内でほんのりと発光する桜色の薬液を、亮の腕へゆっくりと注入していく。
 刹那、亮の身体がびくりと波打った。
「っ……ぁ、ぁ……、……ぁ…………」
 ふるふると身を震わせ、亮の唇から吐息が漏れる。まるで魂が吐き出されているようだとレオンは思った。
 苦しげに閉じられていた瞳が一瞬かすかに開かれ、とろりと再び閉じられていく。
 痛みに暴れる手足から力が抜け、数秒も経たずに亮の身体はぐったりと動かなくなっていた。
 そして間もなく、抱きしめるシドの腕の中、亮は静かな寝息を立て始める。
「すごい……、こんなに効くなんて……」
「この子がゲボでなければこの選択肢はなかった。これに関しては奇跡的な幸いと取った方がいいかもしれないな」
 ゆっくりと身を離しシドは汗に塗れた亮の額を、頬を、そっと手のひらで拭っていた。
 シドの黒いコートもシャツも前面にいくつもの穴が開き、焼け落ちたその下から真っ赤に爛れた肌が垣間見える。
「……リモーネ。亮の状況は」
「とにかくARIを撮ろう。今は安定したが突起はまだ成長しているようだし、まず検査しなくては何もわからん。──それからおまえにも治療が必要だな、シド」
「俺は──」
「駄目だ。ここでの私の命令は絶対だ。拒否するなら追い出す。──亮くんの横で治療してやるからいい子にしていろ」
 それに言葉を返さずストレッチャーについて歩き出したシドの沈黙を肯定と受け取り、ベルカーノ・プラム──本名リモーネ・ソルティアはさっさと彼から視線を外すと患者である亮を眺めた。
 医療局のトップに立ってからそれなりの時を過ごした彼女にとっても初めての症例だ。
 今も少年の背に息づく雪色の突起は青白く輝きながら、時折ズズッと目に見えてその身を伸ばしている。
 まるで生物が進化を遂げる課程を早回しで見せられているかの如き光景は、安定的で神々しさすら覚える美しさが潜んでいた。
 これはアルマの病ではなくもっと別の──命や種に対しての根本的な何かなのではないかとそんな感覚を覚える。
「それにしてもプラム。ハイキューブなんてよく用意していましたね。私、亮くんの容態について、まだ痛みの報告なんてしてなかったはずなのに」
「連絡を受けた時点で出来うる限りあらゆる策を準備する──当たり前のことだ。己のベルカーノばかりに頼っている内は医師と名乗るべきではない」
 ジロリと冷たい視線を向けられ、レオンは首をすくめた。余計なことを言って蛇を出してしまうのは自分の悪い癖だ。
 しかし今回に限ってはこれほどレアな薬剤を用意してくるリモーネが凄いとしか言いようがないと思うのだ。本人の自覚があるかどうかはわからないが、そこが彼女がベルカーノ種において他と一線を画しトップをはれる器である証だと改めてレオンは感じ入る。──もちろんこのきつい性格は上司としてあまり歓迎できるものではないのだが。
「さあ、時間がない。亮が眠っている内に一通りの検査を終わらせなくては。レオン、技師役をしろ。シドは亮のそばについて看護師役だ。画像の判断は私がする」
 厳しい口調で指示を飛ばす上司にレオンは短く返事をすると、亮を乗せたストレッチャーを検査室へと押し入れていった。