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 秋の日差しは硬質で、さやさやと街並みを薙いでいた。
 街の中央広場ではバザールが開かれており、各テントでは肉の串焼きや魚のフライ、ふかしたポテトにいろいろな具の詰め込まれたパイなどが売られ、空腹を煽る匂いで周囲の人間を誘っている。
 その中で最も多いテントは酒──特にワインを振る舞う店だ。
 五軒に一軒の割合で、ビニール張りの軒先にボトルやグラスが描かれた木製の看板が揺れている。
 この街では常に葡萄祭りが開かれているらしく、秋の収穫を祝う手作りの看板やモニュメントがそこかしこに建てられ、売り子達は大声で店の自慢をアピールしていた。
 往来に並べられたテーブルでくつろぐリアムは先ほどから修司の目の前でワインを呷り、フィッシュアンドチップスをつまんだ指先の脂をしつこく舐め回している。
「レーション半日分とか聞いてたからどうなることかと思ったが、食い物の心配はなさそうなトコで良かったな」
 通常ならば一般の人間がセラへとどまる時間は長くとも六時間と言われている。それが今回は四八時間の長時間潜行だ。
 ソムニアならば食事の必要はほとんどないわけだが、コモンズである彼らにはそうはいかない。セラで自我を維持するために精神を集中し続けることは並々ならぬ気力が必要であるだけでなく、本来住人でないセラへコモンズの身で入獄すること自体相当の体力を必要とする。
 リアルタイムでは一時間三〇分程度の潜行であるが、セラ内ではそのセラタイムに沿った食事を摂ることが気力・体力の低下を防いでくれるため、彼らは自身のアルマと向き合い正しい食物摂取が必要となる。
 ワインを飲むことが食物摂取に当たるかどうか修司には甚だ疑問だったが、リアムに言わせれば気力の充実を図るためにはなくてはならないものらしい。
「既に二四時間を回った。折り返し地点だ。他の訓練生達の中間結果報告を見れば僕たちもペースを上げるべきだ」
 修司はガス抜きの水を口に運びながら周囲を見回した。
 辺りには祭りらしく多くの人間が行き交っている。ワインの瓶を片手に仲間同士出来上がった連中もいるが多くはいわゆる「お一人様」で、どの店に入ろうかと楽しげに散策している者や、気に入った店で酒や食事を楽しんでいる者である。
 授業で学んだことによれば、仲間同士に見える者たちも真実知り合いというわけではなく、その場限り「仲間である」という概念によりくっついているに過ぎず、基本セラ内部で人間はお一人様行動が多くなる生き物らしい。
「あそこの連中は除外だな。ヴァンプに群れてはしゃぐ知能はねーし。あとあいつとあいつも人間だ。ペーパーバック読む蟲がいたらそれこそまさしく本の虫だよな」
 何がそんなにおかしいのか、リアムは己のジョークでゲラゲラ笑いこけている。
 だが確かに彼の言うとおり、こういった行動を観察することでしか昼間のヒト型ワームを識別する手段はない。
 今修司達が課題で狩っている蟲は、見た目完全に人間と区別が付かない。──が、知能は昆虫程度しかなく、それが彼らを識別する指標となる。
 彼らは言葉を使って会話をすることはできないし、「本を読む人間を真似る」という擬態すらその行動には存在しない。
「あっちのテント下でぼーっと雲見上げてるヤツ、あれ、あやしくねぇか?」
「そう思うなら声を掛けてみるか?」
「……時間の無駄だな。フツーに無視されたら区別しようもねえし、昨日みたいに急に殴りかかられても嫌だしなぁ」
 自分で水を向けておいて、いざとなるとリアムは及び腰だ。
 昼間の彼らを見極めるにはこういった行動で判断する他ないのだが、セラへ来ている人間達も時折常識では考えられないような動きを取るため、間違いが絶対に許されない状況に於いて行動判断のみで目星を付けるのは多少なりとも危険が伴うと言えた。
「やっぱ勝負は夜だぜ、シュウ。昼間何人かピックアップしといて、夜になったらそいつらを追っていこう」
 一方、このセラのヒト型ワームはいわゆる夜行性に類する性質を持っていて、昼間は大人しく人間の中に紛れ擬態しているが夜間になると豹変する。
 まずその外見的特徴──目は強く光を反射するようになり、爪が異様に鋭く長く伸び始める。
 そして行動的特徴──その場にいる人間を無作為に捕らえると暗闇に引きずっていき、そこで喉元や腹部にかぶりつく。噛み付いた瞬間彼らの歯は細く鋭く筒状に尖り、まるで椰子の実に差したストローを吸うように、じっくりとアルマの髄液を吸い上げる。その様は映画で目にする吸血鬼に似ているとも言え、いつしか修司とリアムの間では彼らのことをヴァンパイア──ヴァンプと呼ぶようになっていた。
 餌食となった人間はすぐには死なず一晩掛けて堪能された後、リアルの肉体は徐々に弱り死に至るとされている。
 有害な蟲がセラにて発生した場合IICR武力局のセラ保全課が対処することになっているわけだが、このセラのヒト型ワームは殺傷能力が低く数も多くないため、今回準機構員のカリキュラムへ組み込まれることになったとエントランスで渡された訓練資料には書かれていた。
 実際訓練が始まって二四時間、修司はリアムと共に五匹ほどのヴァンプを狩ったが、捕食中の彼らは無防備であり、こちらの意図に気づいた場合も闇雲に爪と牙のみで向かってくるばかりで応戦するのは容易な相手に思えた。
 ただ一つ厄介なのは銃弾を何発食らっても動き回れる生命力で、それはまさに何度叩き潰されても体液をまき散らし走り回るゴキブリのようなものだった。
 彼らの息の根を止めるには頭を切り落とすか心臓の位置にあるコアを完全に潰すしかなく、通常のハンドガンやライフルは動きを鈍らせる程度にしか効果がない。
 訓練中に相手の特質を見抜きその場にあるもので工夫し任務を遂行する──これがカリキュラムの主な目的だということで、訓練生には事前に討伐対象について何一つ教えられてはおらず、滑らかにヴァンプの頭を落とせる日本刀の選択は修司にとって僥倖と言わざるを得なかった。
「日暮れまであと二時間はある。それまでに何匹か目星を付けながら、リアムの弾丸の細工を仕上げよう」
 修司が提案するとリアムは片眉だけを上げ了解の意志を示し、空になったワインの瓶をテーブルへ置いた。
 さっき上ったばかりの太陽はすでに傾きかけ、辺りをオレンジに染め上げ始めている。
 このセラの昼夜は六時間おきにやってくる。訓練に入って三度目の夜はもうすぐだ。
「まぁ今んとこ俺は役立たずだからなぁ。こんなこっちゃ第七に出戻りさせられそうだし、やってみることに関しちゃ文句はねぇ。……ただ、ホントんとこ効果あんのかね」
「タブレットの各ナンバー討伐数を見ると、一つの傾向が見える。トップで十二匹を倒している八番はボウガンを武器として選んでいたはずだ。続く九匹撃破の二番はカーボンナイフ。講義室で見たとき剥き身で刀身が黒だったから間違いないと思う。そして三番手が僕たちの五匹──これは僕が日本刀で頭を落とした数。他は0匹もしくは一匹という状況で、まぐれ駆除と思っていいだろう」
「つまりあれだ。銃は効かない相手と思った方がいいんじゃねぇか? 小回り効くハンドガンを選んだ俺だけじゃねぇ。けっこうな破壊力のライフル連中も軒並み数を上げれてねーし、頭を落とせる刃物が有利ってこったろ?」
「いや、通常のナイフやソード系を選んでいた人たちも同じように数を稼げていない。剣だから有利というわけじゃない。それならトップがボウガンの八番という事実にそぐわないしな」
「そんでおまえが思いついたのが、得物の材質──ってことか」
 リアムは己のハンドガンのマガジンを外すと、中から取りだした鉛弾を日差しにかざすように眺める。
 銅合金で周囲は包まれているが先端部は鉛が剥き出しのJSP弾だ。人体に入り込んだ際、中で先端が潰れ広がるため殺傷能力が高く主に狩猟等に使われることの多い弾丸である。
 だがこの対人用には認められていないたちの悪い弾丸を用いてもヴァンプを仕留めることは出来ず、動きを鈍らせる程度の働きしか認められなかった。
「弾丸の多くは鉛や銅が多い。ナイフやソードは硬度の高い鋼を用いられている。確かに通常戦力の高いそれらだが、今回に於いてはあまり効果を現しているとは言い難い。逆に八番の使っているボウガンは一般的にアルミ製かカーボン製がのどちらかの矢を使っている可能性が高く、二番のナイフはカーボン製。つまり素材的にカーボン……炭素が重要なんじゃないかと僕は思ったんだ」
「カーボンねぇ。そんじゃシュウの刀はなんなんだよ。それ他のナイフやソードと同じ鋼だろ。そいつでおまえは五体のヴァンプの首を撥ねたじゃねぇか。おまえの腕がいいからとかそんな理由言ったら殴るからな」
 不服そうに口を尖らせたリアムを根気強く説得するように、修司は言葉を尽くす。
 チームを組めば圧倒的にカリキュラムで好成績を上げやすくなる。一人で訓練を受けるつもりだった修司としては仲間が出来たのは幸運以外の何ものでもないと感じているのだ。どうあってもリアムにはこれからの24時間、役に立ってもらわねばならない。修司は一刻も早くこの訓練を終え、亮の待つ樹根核へ行かなくてはならないのだから。
「多分それはこれが日本刀だからだ。日本刀の材質は玉鋼という特殊な製法で造られたもので、通常ブレードとして用いられる鋼より含有炭素量が多く、二倍近くあると言われている。どの程度のカーボンを含めば奴らの身体に傷を付けられるのかは不明だが、普通の鋼では駄目で僕の日本刀が通るというなら、含有量1.5%以上は必要なんじゃないだろうか」
「1.5%て──セラでそんな厳密なことが影響すんのかね」
「どういった概念で造られた道具なのかが重要なのだと講義で習ったはずだ。標的の弱点を探ってセラ内部で対処する──それが今回一つの査定ポイントだと僕は思う」
「なるほど。だから途中経過をわざわざタブレットでお知らせしてくれるってわけか。このヒントをうまく活用しろってのね」
 ようやく納得したようで、リアムはオーバーアクション気味に溜息をつくと手にした弾丸を全て胸ポケットへと詰め込む。
「んじゃとりあえず、俺の弾のホローポイントへその辺の木の燃えかすでも詰めますか」
「広場中央に祭櫓が組んであったはずだ」
「そういや夕べはあそこで松明がんがん焚いてたもんな。火が落ちる前に材料ゲットして試作品くらいは作ってみましょう!」
 上機嫌に立ち上がったリアムは支給されたバックパックを背負うと、尻ポケットから出した小銭を適当にテーブルへ放り、鼻歌交じりに北へ向け歩き出す。
 修司も同じくユーロ硬貨を三枚ほどテーブルへ積むと、バックパックを背負い日本刀を腰のホルダーへ差し込み後に続いた。
 真剣の重さを左手に感じる度、シド・クライヴのことを思い出す。
 彼も確か使用していたのは黒鞘の長刀だったと聞いている。
 IICRへ来てからというもの一度も彼と連絡を取り合えることはなかったが、聞き伝えによれば己の任務に追われ亮のそばに居られない状況が続いているという。
 あの男に限って亮を放り出すようなことは絶対にないと修司は確信しているが、だからこそ現状が不安でならない。
 IICRへ兄弟揃って身を寄せながら、やはり信じ切れない自分もいるのだ。
 S&Cソムニアサービスへ亮を預けていたときには感じなかった漠然とした不安が修司を苛み続けていた。
 早く亮を抱きしめてその存在を自分の腕で感じたい。
 修司はリアムの背を追いながら、西に傾き始めた日差しに目を細めた。





 修司に向かい駆けてくる一人の男。伸びきった爪と剥き出された犬歯。その目は夜の松明に赤く燦めき、どう猛な犬のように滴る唾液も構わぬままうなり声を上げて覆い被さってくる。
 だが修司は硬い石畳の上ピクリとも動かず、左腰に構えた刀の柄に手を掛け、重心を僅かに下げた体勢のまま前方をにらみ据えている。
 生臭い息が修司の白い面を叩き、その尖った爪が肩へ掛かろうとしたその瞬間。
 乾いた破裂音が何処よりか上がったかと思うと、不意に眼前の男の額が小さく爆ぜた。
 真紅ではあるが血液というには粘度の高いゼリー状の何かが迸り、ピシャリと修司の頬に掛かる。
 男は修司に覆い被さる体勢のまま僅かに反転し、宵闇の石畳へどうと音を立て倒れ込んでいた。
 居合い構えの刀を降ろしながら、修司は無造作に右目の下に滴る真紅のゼリーを指先で拭い、前方テントからこちらへ駆けてくるリアムを見た。
 スキップでもしそうにご機嫌な調子で駆けてくる彼は、手にしたハンドガンを振って見せる。
「今の見たか? 脳みそど真ん中。俺の射撃能力なかなかのもんだろ。やっぱ刃物より飛び道具だぜ」
 三度目の夜。
 本日三体目の獲物を仕留めたリアムは絵に描いたようなドヤ顔で、修司の前に倒れたヴァンプの死体を足で転がした。
 人相を確認すればやはり昼の間目を付けておいた一体だ。ライバルの多い夜市を避け中央広場からわずかばかり外れた西のダウンタウンへ寄せていたのだが、移動の道道でも2体のヴァンプを見つけ始末している。
 石造りの店の軒先から軒先へ千鳥足で行き交う酔っぱらいを彼らは狙っているらしく、今も食料を探しギラギラした目つきを隠そうともせずうろついていたところをおあつらえ向きに修司達が遭遇したことになる。
 囮の修司が一般住人の顔をして近づけばすぐさま彼は正体を現し、暗闇へ獲物を引きずり込もうと飛びかかってきたのだ。
 もちろんリアムの銃撃が不発に終わった折には修司がその場で切り捨てるという算段だったが、思いの外腕の良いリアムは外すことなくヴァンプの頭を撃ち抜いていた。
「Hey、シュウ! おまえの分析力は大したもんだ。昼間おまえの言うこと聞いて弾丸に消し炭塗りたくってたときは半信半疑だったが、まさかこれほど効果があるとはな。おかげで俺も二軍落ちは避けられそうだぜ」
 にっかりと笑うとベルトへ装着した何本かの弾倉を小気味よく叩いて見せた。
 その弾倉を制作する際も修司はいいように使われ、運び屋として訓練服の腰ポケットへ焼けこげて炭となった祭櫓の欠片をめいっぱい詰め込まれた。リアムのポケットにもすでに山ほど消し炭が詰め込まれていて、こんなにたくさん材料はいらないんじゃないかと主張してみたが、市場の飲み屋で弾丸を作製するにあたり、何度も取りに広場へ戻りたくないという怠惰な理由からやはりポケットを提供する羽目になり、今も修司の迷彩服の一部は真っ黒に汚れたままとなっている。(ちなみに弾丸へ詰め込んだ炭は全部あわせても親指の先ほどで、大半の黒い物体はゴミ捨て場行きとなった)
「それについては僕も同意だ。可能性を言ったまでの提案だったがまさかうまくいくとは思ってなかった。駄目なら駄目で、君も囮くらいはできるんじゃないかと考えていたからね」
 真面目な顔で肩をすくめた修司に「爽やかな顔しておまえなかなかの腹黒だな」と、呆れ気味にリアムが口を尖らせる。
 だがすぐさまそのヘーゼルアイズに新たな火が点っていた。
 修司が視線の先を追い振り返れば、背後を横切る道を行く女性の後を、一匹のヴァンプが着けている最中だ。体重百五十キロはくだらない樽のような大男の姿をしている。昼間市場では見かけなかった個体だ。こんな目立つ個体を見かけていれば忘れるはずもなく、どうやら日の高い内からこの辺りへ潜伏していたものと思われる。
 訓練生達は人口の多い中央へ集まっているようだが、実のところ死角の多い街外れの方が彼らとの遭遇率は高いのかもしれない。
「うおっ、大物だな。悪いがあれも俺がいただくぜ。まだスコアはおまえの方が上だろ? 前半は俺が協力してやったんだから後半はおまえが協力しろよな」
 協力も何も前半戦ではリアムはただの傍観者にしか成り得なかったのだが、彼の脳内では都合良く自ら進んで囮役を買って出たように変換されているらしかった。
「わかった。今夜はこのままサポートを続けるよ」
 と答えた修司の顔に焦りはない。
 ブリーフィングで教官の言っていたこのカリキュラムの査定には「蟲の撃破数」だけでなく、作戦の立て方や実行方法、状況に応じた判断能力など広範囲の項目があるということが頭の隅にあったからだ。
 恐らく胸についたバッジから、リアルタイムで教官の端末へ映像や音声が届けられているに違いない。それによって訓練生達の状況を把握し、撃破数等もカウントしているのだろう。
 つまり修司の提案も仲間との協力姿勢も承知されているはずだ。
 これは査定に大きくプラスするだろうし、ここで功を焦って言い争いでもすればかえって点数を下げることは自明の理だと言えた。
 自分は卒業までの最も近道を歩いていかねばならない。
「何度も言うが、僕にはあてないでくれよ?」
 ヴァンプの気を女性からそらすべく、修司は迷いなくそちらへ向かい歩き出す。
 背後から「俺の腕を信じろ、相棒」と調子の良い声が聞こえてきたのに片手を上げて応えると修司は速度を上げた。
 わざと靴音を大きく鳴らし、ふらりふらりと千鳥足を演じる。
 その気配を敏感に感じ取ったヴァンプは女性へ向かい歩を進めながらもグルリと首だけこちらへ回した。
 人間としては不自然なその動きが生理的な嫌悪感を呼び起こす。
 女性と修司、どちらが与しやすそうか迷っているようだ。
 修司はより足下をふらつかせ、泥酔の体を装う。
 その瞬間、ヴァンプの身体が直角に回転し首と方向を揃える。大男の腹肉が薄いシャツを通してぶるんと揺れたのが見て取れた。
 彼の歯は口の両脇からずるりと伸び始め、前方に構えた両手の指先にはナイフのように尖った黒ずむ爪が生えている。
 少々頭頂部の寂しい男は残った天パ気味の髪を夜風にたなびかせ、能面のように貼り付いた無表情のまま大股でこちらへ歩んでくる。
 身長は二メートル近い。その腕に捕らえられたら身動き一つ取れず、彼の肉に埋もれたままアルマの随まですすり上げられて仕舞うに違いない。
 息一つ乱さず突進してくる巨体は、今まで修司が倒してきた獲物とは桁違いの迫力があった。
 「WOO」だか「HOO」だかわからない唸りを上げて、滴る滝のような涎をまき散らしながら男の太い指が修司の腕を捕らえようとしていた。
 その瞬間鳴る、銃声。
 だが男は動きを止めることなく修司に掴みかかる。
「っ!!」
 リアムが外した。そう判断するより早く、反射的に刀を振るう。
 しかし鞘鳴りを立て宵闇へと抜き出された白刃へ、衝撃が走る。
 痺れる右手とそれでも振り切った刀の軌跡の先に、修司に何が起こったのか悟らせるモノがクルクルと回転しながら頼りなげにその姿を晒していた。
 真っ二つになった黒い矢。それがヴァンプの左奥へ落下していくのを、彼の黒い双眸ははっきりと捕らえた。
 何者かが修司とリアムの狩りに水を差している。
「WOOOOAAAHHHHHHHHH!!!!」
 鼓膜を破らんばかりの咆吼が修司の耳元で上がった。
 本来なら居合いの要領で抜刀しながら相手を切り捨てるつもりだった。
 だが強力な矢激にその瞬間を潰され、修司は返す刀でヴァンプへ応戦せねばならなくなる。
 振り上げた刃を振り下ろすべく一歩後退しながら左手を柄へ添えた。
 刀が折られなかっただけましだと思えるような痺れが未だ修司の右手に残っている。
 背後から再び銃声が二度上がった。
 だがそのどちらも男を止める場所に着弾することなく、彼の左耳と右肩の先を引きちぎるにとどまった。
 まずい、と思ったときには遅く、修司は右肩をつかまれ高々と頭上へと持ち上げられる。
 まるで人形か何かのように上下左右に揺さぶられ、手にした刀をもぎ取られると、後頭部を鷲掴みにされて首筋に鋭い痛みを感じた。
 ゾッ――ゾッ――、と音がした。
 生々しい感触を伴いながら、ストロー状に伸びた牙が修司の身体の奥へ奥へと潜り込んでくる。
 その度にゾクリ、ゾクリ、と甘い痺れが修司の芯で生まれ、逃れようと藻掻いていた動きが緩慢になっていく。
 どこかで銃声が鳴り、躍起になって叫ぶ声が聞こえる。
 たぶんあれは相棒だ何だと調子のいいことを言っていたアメリカ人の声だ。
 修司をがっしりと閉じこめた男の身体はぶよぶよと柔らかく、水袋のように冷たい。
 首筋だけが熱かった。
 熱い塊がそこから外へ吸い出されているのを感じる。
 こんなところで時間を掛けている場合じゃないのに。
 自分は今すぐここを出て、弟の元へ行かなくてはならないのに。
 修司は閉じかけていた目蓋をこじ開け、力を無くしかけた右手を腰ポケットへ突っ込んだ。
 指先に触れる小さな乾いた木片。
 ぐりぐりとそれを爪先で削り取ると震える腕を持ち上げ、自分の首筋へ埋められている男の顔へ触れていた。
 だが男は修司の動きなど気にしない。
 ただ無心に修司のアルマを嚥下していく。
「邪魔は……やめてくれ……」
 己を鼓舞するように呟くと、修司は男の顔を掴んだまま指先を曲げ握りしめていた。
 瞬間、男の身体がぶるぶると震え始める。
 修司の長い人差し指と中指は男の左目に。
 鋭い薬指と小指は男の右目に。
 迷うことなく突き入っている。
 ブジュリ――と、すももが弾けるような音がした。
 柔らかいそこは難なく修司の指を迎え入れ、――だがその先。指先に硬い抵抗を感じてもなお、構わず修司は指の付け根まで一気に押し込んでいた。
 修司の爪先に潜り込んだ炭の塊はヴァンプの細胞を破壊し、硬い眼窩の底骨すらかたつむりの薄殻のように変化させる。
「WGHHAAAAAAAAAAA!!!!!」
 男の分厚い唇から断末魔の叫びが迸った。
 修司の指先は冷えたヴァンプの脳へささやかな穴を開けたのだ。
 苦悶に荒れるヴァンプは修司の首元から牙を引き抜き、身体を地面へ投げ出した。
 同時に一筋の矢と一発の銃弾が男の脳天へ突き刺さる。
 その頃にはすでにヴァンプは声を出すこともなく、大口を開け天空を睨んだままどすんと尻餅をつきそのまま動かなくなっていた。
 
「俺の矢の方が一瞬早かった」

 東のバルの影から現れた男はそう宣言しながら駆け寄ってくると、ヴァンプの後頭部に突き立った矢を引き抜く。
 どうやらその矢を使い回すつもりらしく、丁寧に矢尻を拭くと背負った矢筒へためらいもなく収めた。
 恐らく彼が現在トップを走る八番なのだろう。
 石畳にへたり込んだ修司はその様子を言葉どころか表情すらなく、見守るしかない。
「てめ、何考えてやがる! 俺らの獲物に横から割り込みやがって!! シュウが死んでたらどうすんだっ!!!」
 駆け寄ってきたリアムは夜目でもわかるほど顔を火照らせ怒鳴り散らすと、幾分小柄な八番の胸ぐらを掴み上げていた。
 これでも一応は心配してくれたらしい。
 出会った頃からわかっていたが、基本、悪いやつではないのだ。
 ふと、東京で待っているであろう武智の顔を思い出した。
「その大物は昼から俺が狙いを付けていたヤツだ。横入りはおまえらの方だぜ。ファッキン ビッチ」
 八番はその手を払うとバッジに向かい「あの大物を仕留めたのは俺だ。カウント入れといてくれ」と宣言すると背を向けて歩き出した。
 彼には彼なりの理由と道理があるのだろう――。
 いつもの修司ならばたやすくそう思えたはずの彼の言動は、だが――今はまるで響かなかった。
 修司にも他人の道理など軽く凌駕する己の尋思が命の中心に在ったからだ。
 それに共鳴したのか――いや、本来の性質なのか、リアムは八番に追いすがろうと手を伸ばす。
 その時。
 びしゃり──とリアムの全身に赤黒い何かが降りかかる。
 生暖かいそれはリアムが何度か瞬きする間湯気を上げていたが、すぐに温度を失い夜の闇が彼と八番を覆っていた。
 残るのは鉄臭く甘苦い生命の香りのみ。
 何が起こったのか判断できず立ち止まるリアムの前で、八番の身体がぐらりと傾ぎ、膝を折るように前へ崩れ落ちた。
 彼の身体は先ほどと変わらずバックパックと矢筒を背負い、ボウガンを片手にしていたが、――彼の肩から上には何の装備もなかった。
 そう、頭さえ。
「………………っ、う、うわああああああっ!」
 叫んだリアムの身体を、しゃがみ込んだままだった修司が引き倒す。
 それでも壊れたように叫び続けるリアムの口を、力の入らぬ手で塞ぐ。
「なんだよ、なんだってんだ、なんであいつ首がなくなった!」
 修司の手のひらの向こうでもごもごとリアムが続けるので、修司は「黙れ」と珍しく命令口調で言い含めた。
「わからないが誰かが僕たちを狙っている。声を出して居場所を知らせるな」
 ヴァンプの巨体の影にリアムを引きずり込み、修司も腹ばいになって周囲を伺う。
 街外れの丁字路は、周囲にある飲み屋の軒先に掲げられる松明で照らされてはいたけれど、彼らのいる中心部付近はその明かりさえ届かず、闇にひっそりと沈み続けている。
 そこでようやく落ち着きを取り戻したリアムは声のトーンを落とし質問を続けた。
 こんな状況であってもまともな会話が出来るあたり、やはりコモンズの身で最終タームまで残った猛者と言うべきだろうか。
「狙ってるって誰がだよ。……あ、もしかしてこれが今回の教官サプライズか? Mother Fucker! 頭吹き飛ばすなんてやりすぎだぜ教官。あとで全部やらせでした〜って、首のない死体が起き上がって中からもう一個首が生えてくるんだろ? GAGSのドッキリ企画みたいな真似してんじゃねーよっ」
「ドッキリならいいけどね。八番を殺ったヤツは僕らの場所にも気づいている」
「可愛い女の子ならともかく俺らを脅かしてどうすんだシュウ。なんも楽しくねーだろうがっ」
 半泣きで抗議するリアムの足下で、石畳が一つ弾け飛んだ。
「いっでぇ!!!! くそっ、なんだこれ、いってぇよ!!!」
 瞬間リアムは右足を抱えて右に左に転げ回る。
「シュウ、ショットガンだ! こりゃマジのヤツだ!」
 相手は明らかに殺意を持ってこちらを狙っている。
 修司の記憶が確かなら、今回の研修でショットガンを選んだ人間は居なかったはずだ。確かにショットガンならば目標に当てやすくなおかつ火力も高いが、住人にけして当ててはいけない研修生は絶対に選ばないはずの銃器だといえる。
「ここは視界が開けすぎててまずい。後ろの路地まで動けるか?」
 ようやく力を取り戻してきた足に力を入れると修司は身を低くしたまま立ち上がり、右足を抱えたままだったリアムを起こすと肩を貸して走り出す。
 敵が何者かはわからないが、とにかく相手にだけこちらの様子が見えている状況はまずすぎる。
 その間二度、発砲音が鳴り、石畳が数枚弾け飛んだが、かろうじて二人はかすり傷を負うのみで路地裏に身を隠すことに成功した。
 先ほどから胸に着けたナンバーバッジが低い唸りを上げていることに気づいている。
 エマージェンシーを伝えるバイブが、修司にもリアムにも届けられているのだ。
「なんかやべぇことが起きてるみたいだな」
 壁に背を預けリアムが言えば、修司はその情報を確認すべくバッグパックよりタブレットを取り出し画面へ目を走らせていた。
 そこには信じられない情報が流れていた。
「なんて書いてあんだ? やっぱ過激なドッキリなんだろ?」
 望みを込めていうリアムに答えようと口を開いた修司は、その言葉を続けることができない。
 なぜなら路地の向こうから幾人かの足音が近づいてきたからだ。
 しかもそれは住人達特有の千鳥足ではない。
 明らかに意志を持って獲物を追い詰める狩人の足取りだ。
「逃げるぞ、リアム」
「逃げるって何から!」
 リアムに肩を貸し路地裏から掛けだした修司の眼前に、一人の女が立っていた。
 月光を背に立つ彼女の顔を見ることは出来なかったが、スラリと伸びた体躯と肩口で切りそろえられた流れる黒髪。
 三メートル先でもわかる匂い立つ色香に、全身のアルマが緊切を告げている。
「リアム。このセラは環流の守護者に襲われてる最中だ──」
 独り言のように修司は呟いた。
 修司の確認したタブレットには「現在環流の守護者による襲撃あり。早急にエグジットポイントより各自離脱せよ。最優先は自身の安全であり、カリキュラムは中止とする。――という文章が幾度も幾度も点滅し、緊急事態を告げていたのだ。
 その言葉の意味するところにリアムは目を見開く。
 環流の守護者と言えば、今、世界中のセラを荒らし回っているテロリスト集団である。
 IICRのソムニアたちでさえ手に余るその集団は、容赦なく一般人を虐殺する。
 どれほど美しくあろうと、リアムには対峙しているこの女は彼らを死へ誘う破滅の天使にしか見えない。
「うそ……だろ……?」
 とぼけたような呟きがリアムの口からこぼれた。
 さすがに今回はサプライズにしてはたちが悪すぎる。
「シュウジくん? やっと見つけた」
 目の前の女はセクシーなアルトボイスでそう言った。
 今度は修司が言葉を失う。
 なぜこの女は修司の名前を知っているのか。
 リアムが同じ疑問を持って修司の横顔を凝視している。
 逃げなければいけないとわかっているのに、魅入られたように身動き一つ取れない。
 肩を貸すリアムは女に視線を奪われたまま、催眠でも受けたかのようにくちをぽっかりと開けていた。
 女がたおやかな仕草でこちらへ手を伸ばす。
 亮の顔が一瞬頭をよぎる。
 修司が覚えているのはそこまでだった。
「シュウ!」
 それでもどこかでリアムの声が聞こえた気がした。

 この日、死亡した訓練生の数、12名。
 そして、行方不明となった訓練生の数、1名。
 生き残った第八ステージの訓練生達は全員、カリキュラムを放棄し、ソムニアの世界より遠ざかる道を選んだ。