■ 5-41 ■


「はい、おしまい」
 レオンが肩の包帯を巻き終わり、ポンと頭を撫でたのを合図に、傍らで心配げに様子を伺っていた亮がルキの顔を覗き込んだ。
 ベッドの隣に座り状態をかがめてこちらを見る亮の眉はひそめられたままだ。
「平気か? 今日はもうずっと寝てろよ。ルキ、マンシンソーイ?なんだから、やって欲しいことあったらオレがなんでもしてやるし」
 そういってぶらぶらさせている亮の足にも僅かながら白い包帯が巻かれている。
「えぇ〜、いいなぁ、私も亮くんに色々して欲しいなぁ」
 そんな亮にまんざら冗談でもないトーンでレオンは唇を尖らせ、甘えた声を出して見せた。
「レオン先生は元気だろっ!?」
 つまらないことを言うなとでも言いたげに、亮はレオンへ厳しい顔をしてみせると、もう一度ルキの顔を覗き込む。
 亮の言うようにルキの傷は少々深く、左足のふくらはぎと右肩へ穿たれた穴はレオンのベルカーノをもってしても一回では塞ぎきれなかった。
 それでも亮の主治医を任されるだけの力を持つ彼の施術は素晴らしく、既に痛みも熱も引き、若干の違和感はあれど日常生活に何ら問題はないまでに回復している。
「亮くんだって怪我してるんだから僕じゃなくて自分の心配しなくちゃ」
 苦笑してみせるルキに亮は眉を高くし得意げな顔で「オレはもう治ったもんね」と胸を張る。
「こーゆーときゲボで良かったって思うんだ。これっくらいの怪我なんて3秒で治るしっ」
「……3秒は凄いね」
 チェックのヒヨコ色パジャマを着た少年がそんな表情をすればいつも以上に幼く見え、レオンは傍らのワゴンに施術道具を片付けながら思わず口元を綻ばせてしまう。
 亮の足にもルキと同程度の刺傷が複数あったはずなのだが、3秒は大げさだとしても、レオンが治療しようと入浴後意識のない亮を診た時にはすでにその傷はふさがり掛けていた。ベルカーノはその回復を促進するため軽く使ったのみであり、現在巻かれた包帯は亮が無理をしないよう戒めるため、見せかけだけの手当といっても過言ではないほどだ。
「だとしても、今日は二人で大人しくしていよ?」
 亮を生活補佐たちの卑劣な犯罪から救い出したのは昨日の昼間のことだ。
 数時間後目覚めた亮は当然のことながらその時の記憶はまったく保持していおらず、ルキとレオンは示し合わせ、今回の件を亮に伝えることをよそうと決めていた。
 クラウドリングによる記憶操作は亮が事件に巻き込まれていることの発見を遅らせはしたが、その機能により彼の精神に致命傷を負わせることを防いでくれてはいた。
「それにしてもびっくりだよな。樹根核ってやっぱ恐いとこなんだ。そんな凶悪なセラ生物が出るなんて知らなかった」
「う、うん、僕もびっくりしたよ。SSクラスのセラ生命体が発生するなんて、普通のセラでは稀だから」
 今回の件は表向き「樹根核に発生する攻撃的生物の発生」による事故――ということになっている。
 事の真相を知っているのは有伶やスルトを始め、あの場に居合わせた研究員のごく一部であり、研究エリアや治療エリアに居たほとんどの所員は実際の現場を見てはいない。それを踏まえ、事件直後有伶から電話にてこの案を提案されたのだが、ルキもレオンもこれには当然大賛成であった。
「エレフソンさんとソウザさん、オレ、お世話になったのにお礼も言えてない。ラージさんは、無事、なんだよな?」
「……うん、ラージさんは元気そうだったよ。エレフソンさんたちのことは……残念だったとしか、言えないね」
 亮をいいように弄んでいた二人の生活補佐員はスルトのエイヴァーツにより命を絶たれており、唯一残った一人の補佐も現場に居合わせたにも関わらず事態を止めることができなかったとして責を負い、リアルへ戻されることとなっている。今回の件で「セラ生命体による襲撃」は理由付けには最適であり、彼らのうち二人はセラ生命体により死亡、残る一人も怪我を負い役を離れるという筋書きが既に亮には伝えてあった。
 53号施設の事故で心に傷を負った者が発端となった今回の事件は、加害者二名中二名死亡という何とも後味の悪い結末で幕を閉じることとなった。だが、それもまた仕方がないとルキは思っている。
 敬愛する上司を亡くしたソウザという青年に同情すべきところがないとは言わないが、それでもあの現場を己の目で見てしまったルキはどうしても彼らを許すことはできなかった。
「オレが頭に輪っかつけて寝てなければ……二人とも助けられたかもしれないのにな。それに、ソウザさんとはあんまり仲良くできなかったけど、もっとオレから話しかければ良かったかなぁって……」
「もう……、もう、やめよう、亮くん」
 遮るようにルキはそう言うと、うつむいて目を閉じた。
 記憶がないとはいえ亮の無垢な言葉をこれ以上聞いてはいられそうになかった。
 あんな目に遭わせた張本人である彼らを亮が気遣う必要などどこにもないのだと。あれは彼らの自業自得なのだと叫び出しそうになる。
 そんなルキの様子をどうとったのか、亮は少し慌てたように謝っていた。
「っ、ごめ、助けに来てくれたルキが一番つらいよな。現場、見ちゃったわけだし……。でも、ルキが来てくれなかったらラージさんも、オレも、駄目だったと思うから、本当に感謝してるんだ」
「……違う。……ちが、うんだ。……僕にはつらいとかは、ないんだけど……えと……、亮くんが気に病む事じゃない、と、思うから……」
 今はどうにもうまく亮の言葉に応えられそうにない。彼らに対しての怒りと亮に対しての切なさで、傍らに座り一生懸命ルキの話を聞こうとする亮を抱きしめてしまいそうになる。
「えーと、だからさ、亮くん。ルキくんが言いたいのは、その……」
 ルキの戸惑いに共感するレオンがどう言葉を掛けようかと口を開き掛けたとき、寝室の扉がノックされ、ぼさぼさ髪を頭に乗っけ白衣をコートよろしく羽織った丸眼鏡の男が顔を覗かせていた。
「亮くん、具合、どう?」
 エイヴァーツ・ウィスタリアはなれた調子で亮の前までスタスタと歩み寄ると膝を折り、身体をかがめて亮の顔を見上げる。
「平気だよ。ルキの方が重傷なんだ。オレは今からでもすぐ羽根焼く治療、始められるけど──今日はお休みの日だから明日だよね」
「いやいやいや、駄目だよ亮くん、明日どころか怪我したばっかなんだからしばらく治療はなしだよ!」
 あまりにいつも通りの亮に慌てたレオンが言葉を差し挟んだ。
 隣のルキもぎょっとしたように目を見開き亮を見る。
「え、でも、だって、オレもう怪我治ったし──」
「う〜ん、それなんだけど、……ごめんね。昨日のセラ生物が暴れてくれたおかげで、焼除装置が壊れちゃってさ」
「うそっ、マジで!? すぐ直るんだろ!?」
「あんな大きい図体だけど精密機器だからねぇ……、修理後も細かい調整が必要なんだ。二週間は掛からないと思うんだけど、ちょっと未定かなぁ」
 有伶の言葉に亮は眉根を寄せ唇を尖らせた。
 すぐにでも治療を再開し一刻も早く羽根を取り除きたい亮の気持ちはわかるが、ルキとレオンは有伶の言葉にほっと胸をなで下ろす。
 事件と治療は何の関係もないとは言っても、亮の身体に大いに負担を掛けるであろう焼除処置はしばらく休ませるべきだと考えていたからだ。
 悪戯されていた記憶がはっきりと刻まれていないとはいえ、夜ごとうなされていた亮の様子を見れば彼の精神に大きな傷が付いているのは明確であり、今亮に必要なのは癒しと休息であるというのが二人の一致した意見だった。
 これについては例え有伶に反対されようと押し通そうと昨夜二人で話し合っていたわけだが、幸運と言うべきか否か、事態は二人の望む方向へ転がったと言える。
「ごめんね? でもその代わり、もう少し経ったらとっておきのプレゼントを用意してるから楽しみにしてて?」
 有伶は眠たそうな目をしばたかせ、亮の頭をよしよしと撫でている。
 子供扱いを嫌う亮だが有伶のスキンシップは気にしないようで、尖らせていた唇を綻ばせると「しょーがねーなー」などと偉そうに嘯いて見せた。
「プレゼントってなに? 今言ってよ」
「ふっふっふ、それはその時のお楽しみ」
「ええええっ、気になるじゃん、ヒント。ヒントは?」
「ヒントぉ? ヒントは……あ〜、やっぱそれもナシ」
「はぁ!? じゃー最初から言うなよぉっ」
「あはは、亮くんのそのウズウズした顔見たくて言っちゃいましたー」
 亮の頬を両手でぐいっと挟み込むと、うにゅうにゅと揉んで、有伶は楽しそうに立ち上がる。
 その様子に思わずルキもレオンも破顔する。二人とも有伶のいう「プレゼント」が何を意味するのか知っていたからだ。
 現在準機構員訓練を受けている成坂修司が近々訓練を終え、この観測所へやってくる。これは亮にとって間違いなく嬉しいサプライズだろう。
「なんだよソレ! ひっでぇ」
「だからお楽しみだって。僕はこれからちょーっとお仕事でここに来られなくなるけど、ルキくんとドクターの言うこと聞いて、しっかり休んでてね?」
「わかってるよ。有伶さんもお仕事がんばってな」
 もう一度亮の頭を撫でると、有伶は寝室を後にする。
 見送りにリビングまで出たレオンに対し、彼は小声で言った。
「野暮用を片付けにちょっとリアルへ戻って来るよ。二週間くらいは戻って来られないかも」
「二週間──ですか。その間焼除装置の修理調整はどうするんです? スルト統括が担当を?」
「彼が自分の仕事以外やるわけないじゃない。っていうか装置の故障はウソ。今日にでも動かせるよ。──でも、亮くんには少しお休みが必要でしょ?」
 レオンはしてやられたというように肩をすくめると、「いってらっしゃい」と、左腕を胸に着け、彼を見送った。
 レオンがカラークラウンに対する最敬礼の姿勢をとったのは、年始めの祝賀会でビアンコに会って以来だった。
 



 あの日私は真実、成坂亮という幼いゲボの少年を救うつもりでいた。
 新たにセブンスへ入居が決まった八番目のゲボは、追放された異端のカラークラウン、イザ・ヴェルミリオの愛妾であるという触れ込みのためか、彼を毛嫌いしているゲボ・ガーネットの不興を買い、陰惨な生活状況を余儀なくされていると聞いていたからだ。
 彼がセブンスへ入るにあたり、私も一度彼に会い、ここでの生活についてなど話をしている。その時の印象は、ごくごく普通の子供に過ぎない──というものである。確かにゲボの特徴通りに優れた容姿を持ってはいたが、不機嫌そうにギロギロと辺りをにらみつけている様子は、見知らぬ場所で毛を逆立て誰から構わず威嚇する野良の子猫のようであり、お世辞にも現セブンスメンバーであるゲボ達と肩を並べる存在とは思えなかった。
 あんな未熟なゲボの子を何人かのカラークラウン達が性奴のように扱い、特にイェーラ・スティールなどはカラークラウンのみ来訪の認められたセブンスで、子飼いの部下を引き連れて好き勝手しているという噂までたっている始末だった。
 もしそれが事実であったとしても、ガーネットが動かぬ限りセブンスでは何一つ状況を変えることはできない。
 それ故、私は自ら行動を起こすことにしたのだ。
 イェーラ・スティールがリザーブを入れた同じ時刻、ヴァーテクス権限で強制査察を行い、現状を把握しようと考えたのだ。
 本来ならカメラ等を亮のベッドルームへ設置するなど状況証拠を揃えるために動かねばならないところなのだが、スティールへ気づかれないための緊急査察であり、事前準備は何もできなかったのは仕方のないことだった。
 しかも場所はセブンスという非常に特殊な空間であり、捜査員を多く入れ込むこともできはしない。だから私はただ一人、執事の部屋でスティール達が来訪するのを待ち受け、彼らがどのように行動するのか、己一人の目と手にしたハンディカムで押さえることにした。
 細く開けた扉の向こうで始まった光景は、ある意味想像通りであり、だが、私の想像の範疇を逸脱したものでもあった。
 スティールとその部下二人が亮へ対し行うそれは本来あってはならない行為であり、すぐにでも強制停止命令を掛けやめさせなければならないレベルのものだった。
 しかし、私はそこから一歩も動けず、手足は石のように固まり、ただカメラを回し続けるしかなかった。
 背後で執事が何か必死に訴えていたようだったが、その声すら私の耳には言葉として届いてはおらず、気づけばいつの間にか私はベッドの上で野良猫の子の身体を貪っていたのだった。
 全てが終わった後、夢遊病者のようにセブンスを後にした私は、持ち込んだハンディカムを失っていたことに気がついた。
 後日それがスティールの手にあると知ったときは戦慄したが、彼曰く、この行為はカラークラウンなら誰もが許される正当な行為であり、告発されるべき事など何一つない当たり前のことである──とのことで、言われてみれば頷かざるを得ないとも思えた。
 しかし心の奥でどろどろと渦巻くわだかまりが消えることはなく、その恐ろしさからか、その後一度も私がセブンスを訪れることはなく、成坂亮に対する救済措置を取ることすらなくなった。
 後日、カウナーツ・ジオットなどの働きかけによりスティールの逸脱行為が糾弾され、セブンスの崩壊、裁判局の長であるバイオレットの失踪と続き、かの10.19事故が完結したのだが、さらに後日談がある。
 セブンス崩壊に伴い異界へ落ちたとされるバイオレットの私室を整理した折、大量の写真が見つかったのだ。
 クローゼットの奥に設えられた小さな隠し部屋。そこに飾り立てられた写真の数々を発見した裁判局の私財処分官は、それらの処遇に窮し、上官に相談。長不在のゲボへ決済を仰ぐわけにも行かず、結局私の耳に入ることとなった。
 その日、妻との食事の約束をキャンセルし、私は手つかずのまま保存されたバイオレットの秘密の小部屋へ足を運んだ。
 腰をかがめて入り込んだおよそ三メートル四方の小さな部屋の中で、私は絶句した。
 そこはある少年の凌辱写真館とでも言うべき禁忌の場所だった。
 豪奢なフォトフレームに飾られた数十、数百の写真の半分は、そのきらびやかな装飾とは不似合いの淫猥なものだ。
 愛らしい少女のドレスを身に纏いぎこちない様子で微笑む少年の写真の隣には、同じ衣装を乱され、時には背後から挿入されたまま撮影された写真が対を為すように飾られている。
 恐らく全て裁判長であるバイオレットにより撮影されたものなのだろう。
 泣きながら許しを請うているであろう少年の──成坂亮の写真を眺めている内に、私の身体の奥底で渦巻いていたどろどろとしたものが再び煮え立ち始めるのを感じた。
 恐れだと私が思っていたそのわだかまり──その形がはっきりと輪郭を現していくのに従い、それが恐れではなかったことを私は初めて知った。
 小部屋の扉は開けっ放しであるというのに、それすら失念し、私はそこで自慰をしたからだ。
 驚くほどにすぐに達した私は、その後、何度かその行為を繰り返したように思う。
 理不尽に凌辱される成坂亮。わけもわからず、無垢なまま、慕う者がいるにも関わらず。見知らぬ男に身体を暴かれ、屈辱と恐怖と怒りに拒絶の思いを滾らせながらも、権力と快楽により屈服させられ、ただ許しを請うしかない。
 私がセブンスへ足を向けなくなったのは、罪悪感からでも嫌悪感からでもなかった。
 私が一度手にした成坂亮を他の者と共有するという在り方が許せなかった、否──、許せないと思っていたその在り方が、実は私の中心を最も抉る快楽の芯であると知りたくなかったからなのだ。
 あの日、舌足らずな口調で私の名を呼び縋り付いて私をしめつけたあの成坂亮が、私ではない誰かに犯されている。
 そう考えただけでエクスタシーが私の中を滾り上がり、情けない声を上げながら、私は一人腰を振っていた。
 翌日、私はそれらの写真を全てヴァーテクス付きのサテライトへ命じて焼却処分させた。
 もちろんあれだけ多数のコレクションだ。ほんの一部写真が消えていたところで、誰にもわかりはしない。
 ヴァーテクス執務室書庫へ飾られた私のコレクションは、今も私を癒してくれている。
 だが私のコレクションはこれだけではない。
 新たに加わった動画はあろうことかコモンズという下賤の者に凌辱されながら、それでも必死に謝り続ける亮の姿を映した素晴らしいものだ。
 ヒトゴロシとなじられながら犯され、泣いて許しを請う亮は実に美しいと思う。
 なぜなら亮が糾弾されるべき罪はもはやそこにはないからだ。
 彼が殺したと思っている16人は全て転生し、すでに生存が確定している。なにより、亮が引き起こしたあの事故すら実のところ我々の想定内であったのだから。
 だが、それを知らない少年は、己の罪に怯えながら幾度も幾度も壊れた機械のように謝罪の言葉を繰り返し、男達はないはずの罪を罰し、ただただ己の欲望を叩き付け続ける。
 記憶制御を受けている精神でなお、時折つぶやく想い人の名が哀れで、私は必ずそこで達してしまう。
 亮の真の役目をヴェルミリオやその他彼の周囲の人間に知らせないためには、まだしばらくはクアトロ1事故の顛末を秘する必要があるだろう。
 もちろん、亮に罪がないことを公にしないのは私の本意ではなく、あくまで仕事上の優先事項を考えての事に過ぎない。
 だがその副次的結果としてこのような陰惨な事件が起きてしまうのは致し方ないと言える。
 私は何も命じてはいない。
 ただ、職場をなくした研究局付きのサテライトへ新たな現場をあてがい、子飼いのサテライトに「おまえの部下にクアトロ1事故の関係者が配置されているから気を配っておけ。何かあれば彼の様子を逐一動画で報告するように」そう伝えただけだ。
 私は何の罪も犯してはいない。
 ただ、言わなくてもいいことを言わず、コモンズの数人が暴走した記録を不本意な気持ちで確認しているに過ぎないのだから。

「は……ぉ……っ、とぉる……、…………っ、ぅあ……、は…………、っ、可哀想に、もうまともにヴェルミリオとは……、会えないというのに…………。ぉ、…………っぁは!、…………」

 椅子の背に身をあずけ、私は大きく熱い息を吐き出し、一際大きく腰を揺すった。
 強烈な快感が背を駆け上り眼前が白く明滅する。こすり上げる手のひらの中で、のたうつように己のモノが脈打つ。
 大型モニターではヴェルミリオの名を呼び続ける亮が、二人の男に絶頂を強要されている最中だ。
 あまりの痛ましさで胸を掻きむしられる。
 可哀想な亮。
 ああ、今すぐ私が助けてやりたい。
 私は手の中の大量の白濁もそのままに、再び手淫に没頭していった。






「教皇庁国務省外務局のコンラッド司教より、レドグレイとの電話会談を希望する旨のメールが届いていますが」
 夕方六時を回りIICR本部ビルの各部屋へ灯りが点り終わった頃。昼勤との引き継ぎを終えた準夜勤の者たちは、各々の持ち場で仕事に手を着け始める。
 ヴァーテクス次官でありハガラーツの副官でもあるロディ・ブラスは、ヴァーテクス執行部長官主執務室のドアをノックすると、扉の外でそう声を掛けていた。
 すぐに「入れ」と聞き慣れた声が返ってくる。
 彼女の直属の上司であるハガラーツ・レドグレイは多忙を極め、常にヴァーテクスの執務室へ詰めていて、基本ハガラーツ執務室へ戻ってくることはない。
 それ故、他のカラークラウン達と違い、職務上の執務室が彼にとっての私的空間となってしまっていることをロディはよく知っていた。通常昼勤のみの仕事とされているカラークラウンならば、執務室内のプライベートエリアでリラックスしている時間である。
 だからこそどんなに急な用件であってもノックをせずに入ることは決してしない。
 室内に入って一礼すれば、レドグレイは丁度書庫の扉を閉めている所であった。
 きっちりと着込まれたスーツは一切乱れもなく、この時間にあって彼がリラックスどころか休憩一つ取っていなかったことを伺わせる。
「トップ会談の会場について言いたいことがあるんだろうが──、局長のギャラガー大司教を出さない辺り、相手も形振り構っていない感じだな」
「ギャラガー氏も一廉の人物とは聞いていますが、腹心のコンラッド司教は一癖も二癖もあるやり手だそうですものね」
 長いブロンドを後ろで引っ詰めたロディは、ハガラーツ特有の神経質そうな指先で秀でた額を撫で、僅かにほつれた前髪を正した。
 現在36歳の彼女は肉体年齢こそレドグレイより10歳近く上ではあるが、ソムニア年齢で言えば彼より80年は若い。転生回数も4度目であり、レドグレイの数期後輩に当たる。
「ビアンコを向かわせるからには相手がローマ教皇であろうと、向こうの都合で動くわけにはいかない。何世紀も殺し合ってきた相手だ。こちらは一歩も譲らず事に当たる。そうだな──アンブロジアーノ銀行へ揺さぶりを掛けたい。うちの企業からロスチャイルドへいくつかのルートに分け攻撃的介入をしかける」
「IOR直属のヴァチカン銀行でなく、アンブロジアーノですか。なるほど。ですがコンラッド司教が動いているとなると相手も想定内のことかと思いますが──」
「構わん。想定ごと踏みつぶせ。ヴァチカンは有史以来世界中を踏み荒らし信仰と金をかき集めてきた団体だが、こと”金“に関してはうちの方が上だ。18世紀、産業革命を起こしたIICRの資力を舐めてもらっては困る」
「それは資力というより金を用いた暴力なのでは」
「ロディ。暴力ではない。戦略だ。──ああ、少し待て」
 会話の途中だというのにレドグレイはロディを片手で制すと、内ポケットより取り出したスマートホンを耳に当てる。
 どうやら彼の電話直通に掛けて来られる相手からの用件らしい。
「はい、そうですが──。電話嫌いのあなたからわざわざ連絡とは珍しい。…………、いや、そうは言っていない、ヴォルカン。カウナーツ・ジオットの非常時Bラインに関しては確かに継続させると判断しましたが、これは彼の謀反を疑ってのことではなく、あくまで彼の健康上の理由です。酷い外傷とデビルズソーダによる後遺症……しかも彼はいささか働きすぎだ。この際しばらく休養してもらうのも良いかと思いまして、前カウナーツクラウンであるあなたにお願いした次第です」
 誰が相手かと思いきや、新たにカウナーツのクラウンとしてレドグレイが指名した前クラウン。カウナーツ・ヴォルカンらしい。
 当然ながらビアンコの許可は受けているが、今回の武力局の失態と相手の意向を全く汲んでいない一方的な人事に、既に引退を表明しているオールドアルマ一歩手前のヴォルカンは大いに物申したいということだろう。
「ええ。ええ……もちろん、お約束します。ただ、現在カウナーツがクラウン不在で不安定なことはあなたもご存じのはず。あなたが引退宣言されたことは存じていますが、まだまだ老け込む歳でもないはずだ。ジオットを可愛がっておられたあなたの再登板は、ジオットとて頼もしく思うでしょうし、急なことではありますが引き受けていただけると助かります。……はい。では、そのように」
 穏やかな声音で語りかけていたスマートホンの通話を切ると、そのまま別の相手へコールを掛ける。
 程なく出た相手へ「ヴォルカンの方は了解を得た。今まで以上に彼に尽くせよ? 彼を下げる時におまえを推す」と、用件のみを伝えてコールを切る。
「相手はどのカウナーツです? あんなにお約束していたのに、結局ジオットを戻すつもりはないのですね」
 ロディが少々呆れたように問えば、レドグレイは淡々と「ヴァーテクスにとって御しやすいクラウンを据えるのは当然のことだ」と答えたが、ジオットと、己の子飼いのカウナーツの間にジオットとも懇意のヴォルカンを挟み込む辺り、巧妙すぎて気分が悪いほどだ。ヴォルカンを引退させる時ジオットでない誰かがクラウンになったとなれば、新クラウンとジオットの間だけでなく、ヴォルカンとジオットの間にも溝が出来るに違いないのだから。
「さて、ロディ。待たせたが話の続きだ。どの企業をどこへ対し動かすかは現在の勢い如何でなく、相手方にとっての期待値順でぶつけよう。先月確立した新素材レシピに必要なレアメタル関連はかなり有効なカードになる。ロシアとのつなぎも怠るなよ。大きく額が動きそうな相手は諜報局の資料を基に私が事前算出しておいた。データはこれを使え。最終決定はおまえのチームに任せる」
 言いながらIICR支給のUSBメモリをデスクへ置いたレドグレイに、ロディは内心瞠目しつつ頷いた。
 一体この多忙な上司のどこにそんな細かな調べ物や計算をする時間があったというのだろう。
 これでは決定を次官であるロディに任せると言いつつ、全て自分で片付けているのも同じ事だ。
「ロスチャイルドもヴァチカンと取引があるばかりにいい迷惑ですね。少し同情します」
「彼らもこの程度では小揺るぎもせんし同情などいらんよ。だが面倒だとは思うだろう。大きな図体の動物は面倒ごとは嫌いなものだ。コンラッド司教への返事は私がしておく。電話会談の日時は──そうだな、明日の午後三時ということでどうか」
「わかりました。それまでに私は金による”戦略“を完遂し、報告をレドグレイへ上げておきます」
 ロディがUSBメモリを受け取るべくデスク前へ歩み寄ると同時に、何者かがノックすらおざなりに飛びこんでくる。
「何事だ」とロディが振り返る間もなく、件の相手は性急に報告を始めていた。
「お話中申し訳ありません、準機構員訓練校より緊急入電で、第8ステージの入獄カリキュラム中、守護者による襲撃が確認されました。未だ被害の全貌は明らかになっていませんが、1訓練生の内12名が死亡、1名が行方不明となっています」
「行方不明?──どういうことだ。入獄中にアルマが失踪したとしても肉体からトレースすればある程度のセラ座標はつかめるはずだ」
 報告に来た秘書である男のいう意味が全くつかめず、ロディは思わず疑問を口にする。
「いえ、それが……、肉体ごと失踪してしまったらしく……、訓練校ではその生徒が守護者を手引きしたと見る向きもあるようで、それ故いち早くセラより浮上し、教官の目を盗んで準機構員訓練施設を脱したと考えていま……」
「失踪者の氏名は」
 男の言葉を切るように、一言一句無駄のない台詞でレドグレイが問う。
「確か……シュウジ ナリサカ」
「っ──! …………まずいな」
 レドグレイが珍しく言葉を失い、そして考え込むように目を閉じる。
 その沈黙をどう取ったのか、秘書は慌てて言葉を継いだ。
「ですよね。シュウジ ナリサカはIICRからの特別措置で訓練校に送り込んだコモンズのはず。それが守護者のメンバーだったとあっては……」
「馬鹿者。あの男が守護者の人間であるはずがない。逆だ。守護者に奪われたと考えるのが正しい。しかしなぜだ……。コモンズでしかない彼をどうして……」
「へ!?」
 間抜けな顔で秘書が口をぽかんと開ける。
 確かに間抜けな顔だが、それを見ていたロディも同じ顔になってはいやしないかと、己の顔の筋肉を引き締める必要があった。
 守護者に入獄中の人間を奪われた──とはどういうことなのか。
 アルマを拉致する――というのはままあることだ。ライドゥホ能力者さえ居れば、セラからセラへアルマを移動させることも容易だからである。だが、同時に施設内にあるはずの肉体をも奪うとなれば話は別だ。IICR内部にある入獄エリアへ何者かが侵入し、男一人を拉致して気づかれずに脱出するなど何をどう考えても不可能としか思えない。秘書の言う通り成坂修司自身が己の足で出て行く以外どうしようもないのではないか。
「奪われた──とは、どうやって……」
 自分でも呆れるほど素朴な疑問がロディの口を突いて出る。
「相手はあのテーヴェだ。あの女は構想のみだったアクシスを現実に完成させたバケモノだぞ。セラからの肉体サルベージくらいやってのけても驚かん」
「アクシス!? あれは現アクシス管理センター所長であるスルト氏が完成させたものでは……」
「表向きはな。彼はテーヴェの部下であり共同研究者だった。テーヴェが禁忌を犯し処分を前にここから逃亡して後、アクシス完成の手柄は全てスルトのものとなっただけだ。実質どちらがどれだけの力であれを作り出したのかは知る由もないが、希代の名裁判官として名を馳せたあのバイオレットがテーヴェの処分をすぐには行えなかったことから見ても、彼女の有益性はIICRの土台を揺るがすほどのものだったのだろう」
 そんな人物が相手ということを改めて知らされ、ロディも秘書もしばし言葉を無くす。
 二人が沈黙するのと同じく、レドグレイもまた口を閉ざし、何かを深く考えるように眉間に指を置き瞳を閉じている。
 副官であるロディはその様子に目を留め息を整えると、レドグレイに代わり秘書へ指示を与えていた。
「セラ・テロ対策特別局と連携を図り事の対処に臨みます。フェフ・スプルースへの回線を──」
「待て」
 だがその指示は静かな──だが鋭いレドグレイの声で制止されていた。
「今回の襲撃での死者数を13名に修正しておけ」
「……それはつまり」
「失踪などという非現実的なことは起こってはいない。成坂修司は環流の守護者による襲撃により死亡。遺体は損壊が深刻であったため残念ながら即日処分となった。後見人であるゲボ・プラチナにはそう伝えろ。ロッカールームの私物を遺品として彼に渡しておけ。……少しは時間が稼げる」
「……わかり、ました。そのように」
 失踪と死亡、その差はなんなのか。レドグレイの指示にうなずきながらもロディにはすぐに理解できずにいた。
 失踪ならば死亡よりも希望が持てるはず。だがそれをさせない彼の考えがどこにあるのか、副官である彼女にも、このIICRを実質動かす頭脳の考えることはまったくわからない。そして最後呟くように言った「時間を稼ぐ」とは誰に対してなのか。だが、その指示に口を差し挟むことなど出来はしなかった。
 この男が「そうせよ」と唱えたことは絶対なのだ。
「この件に関しては私が預かる。何か変化があれば時間は関係ない。いつでも私に一報を入れろ」
 レドグレイがいつも通りの硬質な声音で指示を出し終われば、秘書は一礼して部屋を出て行く。
 それと入れ替わりに一人の男が入りこんで来たのをロディはいぶかしげな表情で迎えた。
 あまりリアルでは見かけることはなく、大きな会議で数度見かけただけの「レア」とも呼べる人物だ。
 もっさりとした癖毛を頭に乗せ金属フレームの丸眼鏡を掛けた彼は、皺になった白衣を翻し大股でデスクの前までやってくると、研究局員に見受けられがちのぼそぼそとした喋りでこう言った。

「レドグレイ。卑劣なやり方で己の勝手な欲望を満たすあなたを──僕は糾弾する」

 少し伏せられた顔の向きで彼の表情は見て取れなかったが、それは彼のイメージには全くそぐわない硬い声だった。
 彼は何か緊急の案件でこの場にやってきた──それを理解するに足る一言に焦眉の急を悟ったが、しかし己の上司に対する無礼な態度は彼女にとって許されないものであり、相手が一応のカラークラウンといえど強硬な対応を押さえきれない。
「エイヴァーツ・ウィスタリア。アポイントメントどころかノックもなしでいきなりの訪問とは、いくらなんでも無作法が過ぎるのではありませんか!?」
「いや、いい。──ロディ、仕事へ戻れ。私も彼と話がある」
「ですが──」
「二度、言わせるな。我々の一秒一呼吸でIICRは回っているのだ。余分な時間を使うな」
 そう理性的な叱咤を受ければ彼女に否を唱える術はない。
 僅かに眉間に皺を寄せはしたが、何も言わず一礼し、部屋を退出する。
 後に残されたのは二人のカラークラウンのみだ。
「……あなたが何について憤っているのかはわからないが、私を糾弾するなど出来もしないことを口にするのは止めた方がいい」
 16世紀に意匠を凝らして作られたウォルナット製デスクを挟み、二人のカラークラウンが相対していた。
 一人はIICRという魑魅魍魎蔓延る組織を若くして動かす強かな実力者。もう一人は人材不足の為たまたま襲名させられたと噂される昼行灯。
「あなたが成坂亮にしたこと──させたことを、僕は全て知っている。あなたが子飼いのコモンズに撮らせ送らせた動画は、研究局局長の権限を持って回収させていただく」
「…………」
 そこで初めてレドグレイは口を閉ざした。
 探るように有伶を眺め、次の一手を考える。実際なにか証拠があってこの男が強硬な態度に出ているのか、それともただカマを掛けているだけなのか。レドグレイがエレフソンに送らせた動画は、例の凌辱現場のものだけではない。実務の記録動画を報告書として日に何本も同時に送らせているため、その中にあのような動画が数本混じっていたとして、それを確認する術は彼ら研究局員にはない。
 例えエレフソンが現場を押さえられ動画を撮影していたことが発覚したとしても、彼が口を割らない限り、あれをこちらへ送ったという情報をこの男が手に入れられるわけがないのだ。
 そしてエレフソンの忠誠心は絶対だ。彼の上昇志向は病的なまでで、IICRの実権を握るレドグレイの元を離れることなどあり得るわけがない。
 人間の欲望は最も信頼できるリソースであり──、つまり、彼が口を割ることなどないとレドグレイは確信している。
「動画──というと、エレフソンに課している報告書代わりの記録のことだろうか。確かにそれを私はゲート便を通して受け取っているが、ただの記録動画に何か問題があるとは思えない」
「記録動画──? あの最低の凌辱映像を記録だと言い張るんですか、あなたは」
「待ちたまえ。凌辱──とは聞き捨てならない。そんな動画を私は受け取ってなど……」
 言いかけたレドグレイの言葉は、ドン──という鈍い音で遮られた。
 眼前でウィスタリアはデスクに手を突き顔を伏せている。鈍い音は彼の拳が強烈に机の盤面を殴りつけたそれだった。
「全部、知っていると──僕は言った」
 一音一音切るように、彼は言う。
 普段彼のふやけた口から溢れる眠そうな声音とは違う──、凄味のある低音にレドグレイは小さく息を吸い、気持ちを切り替えていく。
 昼行灯などと揶揄されてはいるが、彼もエイヴァーツを統べるカラークラウンなのだ。
 IICRを代表し世界と切り結ぶときと同様、最上級の集中を持って事に当たるべきだと悟る。
「もしも私のサテライトが不埒な真似をし更にそれを動画で記録していたとすれば、人選をした私にも責任はあるだろう。だがその凌辱映像を私が所有しているなどとは冤罪もいいところだ。証拠もなしに謂われない罪をこの私に着せるというのであれば、それ相応の覚悟が必要だがな、ウィスタリア」
「覚悟だって──?」
 顔を上げたウィスタリアの目が紫に光る。
 間の抜けた丸眼鏡の向こう側からにらみ据える二つの紫はほの暗い炎のように燃えさかって見え、レドグレイの背筋にぞくりと冷たい汗が流れ落ちる。
 この目はただ役目をもってここへ来たものではない。
 この男は確信を持ってレドグレイに激怒している。
「成坂亮は唯一無二の存在だとあなたも知っているはずだ。それをくだらない欲望のはけ口にするなど、言語道断」
「言いがかりをこれ以上続けるようであれば、警備課に連絡して排除させてもらう」
「──その必要はない」
 携帯電話を取り出し画面をタップしようとしたその時、有伶は己のスマートホンをデスクの上に投げ出しその画面をレドグレイに指し示す。
 薄暗い画面の中、一人の男が亮の名を呼びながら己自身を擦り上げていた。
 男の前にあるタブレットには少年の凌辱映像が流され続けており、男はそれを凝視しながら情けない声で喘ぎ続ける。
『は……ぉ……っ、とぉる……、…………っ、ぅあ……、は…………、っ、可哀想に、もうまともにヴェルミリオとは……、会えないというのに…………。ぉ、…………っぁは!、…………』
 最大にされた音声が部屋中にこだました。
 反射的にレドグレイは拳を振り上げ、そのスマートホンへ振り下ろす。
 鈍い音を立てて小さな電化製品が砕け散っていた。
「…………なぜ、僕のスマホを壊すんです? 見るに堪えない映像だったから?」
 レドグレイは己の視界がぐにゃりと歪んでいくのを感じた。
 失策だった。
 最悪こんなものは偽造だとしらを切り通せば良かったのだ。そもそも執務室の書庫にカメラの類などしかけられるはずもなく、この映像が本物だという断定などできはしないのだ。ヴァーテクスの権限を持ってすれば、どうとでもなったはずだった。
 だが、あるはずのない映像に虚を突かれ、レドグレイは自ら馬脚を現してしまった。
 この先の一手をどうすべきか、歪んだ視界でそれでもシミュレートしつつ、眼前の男を見る。
 男は皮肉の笑みさえ漏らさず、変わらぬ燃える眼光でただただレドグレイをにらみ据えていた。
「警備課には僕が連絡しておいた。あなたの手は患わせないよ、レドグレイ。──あんたみたいのは、地獄に堕ちればいい」
 砕けたスマホもそのままに、ウィスタリアが背を向けると同時に、執務室へ五名ほどの人間がなだれ込んでくる。
 腕をつかまれ、冷たい金属の輪をはめられながら、耳元で「ハガラーツ種とヴァーテクスには非常時Bラインが適用されます」という宣言が聞こえた。
 しかしレドグレイにはそれの意味するところがまるでわからなかった。
 ただ先ほどの映像が脳裏から離れない。
 どうやってあれを撮影したのか。本当に偽造だったのか。
 一つわかっているのは、カメラのあの視点位置には昔から一本のパキラの鉢植えが置いてあったということだ。
「ウィスタリアっ、こんなことは許されない! 私がいなくてはIICRは立ちゆかないっ、こんなことはっっ!」
 その叫びを背中に受けながら、エイヴァーツ・ウィスタリアは一度も振り返ることはなかった。
 この時から18時間、IICRは一時的な機能停止に追い込まれることになる。
 だが──、18時間と12分後。副官であったロディを中心として暫時政権ともいえる仮ヴァーテクスが立ち上げられる。
 新ヴァーテクスもビアンコが戻り次第、ほどなく作られることだろう。
 世界は事もなく回っていく。