■ 5-42 ■



 カウナーツ・ジオットがその任を解かれ、ただの一ソムニア──シュラ・リベリオンとして医療局のICUへ収容されたのは約一ヶ月前のことである。
 それは医療局のメンバーにしてみれば一驚を喫する出来事で、担ぎ込まれた当人の姿を見るまで誰もが誤報だと信じて疑わなかったほどだ。
 獄卒対策部部長として超一級の危険業務を長年勤めてきたこの男は、実際に医療棟へ入院したことなどただの一度もなかった。それどころか他人の手を借り運び入れられるようなことさえなく、職務で負傷した折は自分の足でスタスタやってきては、咥えたままの煙草を局員に叱責され、血塗れの手で吸いかけの煙草を延焼させて処分するというお決まりの一連コースがあり、彼が医療棟に入ってくれば局員達の注目すべき点は彼の怪我の具合ではなく煙草を咥えているかどうかにしかなかったものだ。
 だが、今回はいくらなんでも様子が違っていた。
 IICR頭首ビアンコ自ら運び込んだ彼はすぐさま集中治療室へ放り込まれ、ベルカーノ・プラム自らが治療に当たった。
 その第一次診断では、多発外傷による低体温、アシドーニス、凝血異常が認められ、ダメージコントロールで最初に止血手術をしたのち、すぐさま全身の手術が行われることとなった。その過程で多臓器損傷も確認。眼窩底骨折、膵臓損傷、肺挫傷、肝損傷他様々──カルテに書ききれないほどの外傷のオンパレードであり、更に薬物による極度の中毒症状で脳へのダメージが深刻であると判断された。何より良くないのは、今回使われたデビルズ・ソーダが拷問マニアと呼ばれたYDの特製品であり、通常の製法ではない“アルマに直接作用する”顕現体を用いたものであったことだ。ゲボの持つ他種能力を排除する抗体に近い因子を持ったそれは、おそらくどこかのソラスから抽出されたであろう漿液を入れ込まれた底意地の悪いもので、この為プラムのベルカーノですら30%作用すれば御の字というほど通りにくい状況であった。本来の情報収集の為の拷問に身体・アルマの完全破壊は意味はないはずだ。それがこんな仕掛けをわざわざ入れ込むなど実務を無視した完全なる彼の趣味であると言い切れ、そんな男を査問官に据えた武力局の失態は局長を更迭させて余りあるものだとプラムは思う。とにかく現状このままシュラの意識は戻らない可能性も高く、その場合は措置の一つとして転生前提の安楽死も検討されることとなった。
 それが約一週間前の出来事である。
「──面会だと!? シュラにか。誰だか知らんが無理なものは無理だ。追い返せ」
 リモーネは仮眠室で横になることもせずカルテとにらみ合いながら、取り次ぎに来た受付官へ苛立ちを隠さないままそう言った。
 受付官の男は気の弱そうな顔つきをますます弱り切った表情に歪ませ、ころんとした鼻の横に皺を刻みながら「ですが……」と言ったきり黙り込む。
 カルテを睨みながら受付官の次の言葉を待っていたリモーネは、待てど暮らせど返事がないことに更に苛立ちを募らせ、「ですがなんだっ、言い出したら最後まで言えっ!」と、男が控えているであろうドアの方へと振り返った。
 だがそこに立っていたのは見慣れた小太りの団子鼻男ではなく──。
「プラム。さすがのあなたがそれほど荒れているということは、……ジオットは随分良くないんだな」
 静かな声音は低いが若く張りがあり、彼の精緻な顔立ちはゲボの一員だと言われても納得する出来の良さだった。そしてさらさらの黒いストレートヘアを後ろ髪のみ一房長く伸ばした彼の立ち姿は、同じく黒の第二種軍装がよく似合うすらりとしたもので──彼女が想定していたシルエットとのあまりの違いに一瞬言葉に詰まる。
「……ハルフレズ。おまえがシュラに用があるなど珍しいこともあるものだ」
 そこに立っていたのは前イザクラウン、イザ・ラシャこと、ハルフレズ・ユーリィ・ビョルンソン。若くして諜報局の局長を務め、現在現場へ出ることのない彼が医療棟を訪れることは皆無と言っていい。そんな珍しいVIPの訪問に、受付官が戸惑うのも仕方のないことかもしれないとリモーネは大息をついた。
「ジオットはまだ意識を取り戻していないのか。──デビルズソーダの影響がそこまで深刻だとは」
 軍装の手袋をつけたまま口元を覆う仕草は彼の美貌をいっそう際だたせる。
 リモーネは暗い表情のまま一つ溜息をつくと、豊満な身体を重たげに持ち上げ立ち上がった。
「嫌味な言い方はやめろ。どうせわかっているんだろう、諜報局局長。──ついてくるがいい」
 白衣を翻しミニのタイトスカートから伸びる肉感的な足を大股に動かして、リモーネはシュラが寝かされている個室へと向かった。
 エレベーターの前に立ち止まると、上階へのボタンを押す。
「上ということは──やはりICUは出たんだな」
「ああ。二日ほど前にな。つまりもうこれ以上我々の力では何ともならんということだ」
「……投げやりな言い方だ」
「投げやりにもなるさ。おまえもあのバカに遭えばわかる」
 寝不足のせいか若干やつれた様子のリモーネはやさぐれた言い方をし、それがいっそう彼女の色気を増して見せた。
 白く長い廊下を行く間すれ違う局員達はリモーネを気遣ってか声すら掛けず、ひたすら頭を垂れるのみである。
 後に続くハルフレズに気づいた者がその後驚いたように視線だけで見送るのが、なんとも居心地悪く感じさせる。
「ついたぞ。あんな姿のシュラを見るのはまだ若いおまえのためにはならんと思うが──、諜報局局長自らが出向くのだ。どうしても必要なことなんだろう。だが無理だと納得できたら早々に帰れよ」
 そう手厳しい前置きをしたリモーネは、ノックすらせず、クリーム色に塗られた鋼鉄製の扉を開いていた。
 瞬間、ハルフレズの鼻を突いた匂い──。それは鼻腔の奥を刺激するタンパク質の焼ける匂いだ。
 ベッドの上に寝かされているはずの患者着の男は、半身を起こしその全身をベルトで固定されたまま視線だけで出入り口に立つハルフレズを見た。
「っ────」
 ハルフレズは言葉を発することも出来ず、目を見開きただその様子を眺めるしかなかった。
 ジュウジュウという不可解な音が病室中を綴っており、白い煙が辺りに立ちこめている。
「おう、イザの若い奴じゃねーか。なんだ、見舞いか? クールな男だと聞いていたがどうして感心なもんだ」
 そう言って大きな笑い声をたてたのはシュラではなく、彼のベッドへ片尻だけ乗り上げた小柄な中年男だった。
 くすんだ紅い髪、紅い無精ひげ、濃い眉毛に彫りの深い顔。彼の右手にはなぜかトングが握られている。
「またおまえらは……、病室で肉を焼くなっ!! というか食うなっ!! シュラっ、おまえの内臓はまだものを食えるレベルではないんだぞっ!!」
 まなじりを吊り上げてリモーネが吠えた。
 吠えられた相手は情けない顔で眉をさげ、
「いやまぁせっかくヴォルカンがいい肉持ってきてくれたからよ、ちょっと試してみようと思っただけだって。まだ食ってねーから……怒るなよ、リモーネ」
 同じくトングを持った手で頭をガリガリと掻いてみせる。
 その頭も包帯でぐるぐる巻きであり、一見するにとても起き上がれる状態ではないようにハルフレズには思えた。
「せっかくだ、ハルも食ってけ、うまいぞ〜」
「いや……俺は……」
 肉を食いに来たわけではない──と続けるつもりが、言葉尻にリモーネの怒りの叫びが被り先を続けることを阻止されてしまう。
「うまいって……その口元のタレはなんだもう食べてるじゃないかっ! 食道も胃も腸も損傷してどうやって消化するつもりだ、おまえはっ。それに病室は火気厳禁だ。火事にでもなったらどうする。まったく……ライターは受付時に取り上げているはずなのだがどこから火を…………」
 怒りで顔を真っ赤にしたリモーネがベッドの上でうまそうに煙を上げる七輪を取り上げると同時に、上の金網だけをトングで奪って死守したヴォルカンが、左手を下からかざして引き続き肉を焼き始める。
「それでよ、カウナーツのクラウン引き継ぎについてだが、まぁ俺の方で適当にやっておくからよ……」
「ヴォルカンっ!! すぐ火を消してくださいっ!! カウナーツを病室で使うなっ!! ああああもおおおおっ、カウナーツは全員出入り禁止だっ。今すぐ出て行け、馬鹿者がっ!!」
 最後の方は大先輩に対する敬語も忘れ、リモーネは小柄な新クラウンを文字通り病室から叩き出していた。
 あっけにとられたハルフレズは立ちつくしたままその様子を見守る他ない。
「ハルフレズ。こんな駄目な大人を真似するんじゃないぞ!? このバカは二日前目を覚ましたばかりだというのに、メチャクチャなんだ。入院慣れしないにもほどがあるっ。大人しくワードパズルでも解いていろ!」
 炎を上げる炭を入れ込んだ「ジャパニーズ スモール グリル」を抱えたまま、リモーネが今一度深い溜息をついた。
 彼女の憔悴の原因を知り、ハルフレズもまた天井を仰ぐ。
 ジオットが二日ほど前に目覚めたという情報を得てはいたが、まさかこんな状況だったとは、彼女に同情を禁じ得ない。
 それまでは死を覚悟するレベルで心労をかけていた彼は、目を覚ますやいなや最低の入院患者ぶりで彼女を悩ませているようだ。
「まだ絶対安静に代わりはない。あまり遅くなる前に引き上げてくれ」
 リモーネはそう言葉を添えると燃えさかる七輪を抱え、部屋を出る。
 残されたハルフレズがどう言ったものかとシュラを見れば、身体中を固定されまくった男は
「見苦しいところを見せちまったな。どーもパズルは性に合わないみたいでよ」
 煙で真っ白になった部屋の真ん中で、トングの先の肉をひらめかせ、ばつが悪そうに笑って見せた。



「それで──? おまえが俺んとこに来るなんざ、なにか退っ引きならない事情があってのことなんだろ?」
 トングの先についていた肉の欠片を口に放り込んだシュラがもぐもぐと租借し飲み込むと、唯一自由になる様子の右腕をハルフレズに突き出し、手にしたトングを受け取らせる。
 なんで俺が片付けるんだ──とも思ったが、改めて彼の様子を見れば、背もたれを立ててわずかに半身を起こしてはいるが、両足は伸ばしたまま固定され、左腕は折り曲げた状態でベルトに縛られている。腹部や胴体はアーチ状の白いガードが施されていて、ブルーの混ざる硬そうな銀髪が頭部に巻かれた包帯の隙間から幾束も飛び出していた。その包帯はそのまま左目の上も覆っており、まだ腫れの残る頬や鼻を覆うように白いガーゼがこれでもかと貼り付けられている。いつもと変わらず飄々と話している口ぶりの彼だが、その声は潰れ若干聞き取りにくい。さらに、受けた情報に寄れば薬物中毒による脳へのダメージが深刻であり──満身創痍とは今の彼のことを指すのだなと妙な感心を覚えるほどだった。
「いくつかの情報をあんたに持ってきた。そして──それを踏まえて一つだけ、頼みがある」
 シュラが視線で傍らのパイプ椅子を指し示し、ハルフレズはそこへ腰を下ろした。
 長居をするつもりはなかったが、立ったままでは一応の先輩であるシュラを見下ろす形になり、いささかやりにくさを感じたのだ。
「頼み──な。ルキのことか」
 わかっていると言うように片眉を上げる先輩に心の中で唇を尖らせるが、とりあえずの無表情を保ったまま続ける。
「あんたが亮を大事に思う気持ちを知ってはいる。だが、もともとルキは医療局ともゲボとも関係のない人間のはずだ。これ以上あいつを樹根核なんていう手の届かないところへ置いておけない。こちらへ戻るようにあんたからも口添えして欲しい」
「そりゃまぁおまえの心配はわかるさ。だがこと仕事に関しちゃあいつが死ぬほど頑固なのをおまえだって知ってるだろ。俺がどうこう言って動くとは思えねぇが」
「亮が──、成坂亮があちらでまた性的虐待を受けていた。やらかしたのは世話をしていたコモンズ2名だ。その際、そいつらはクワトロ1事件のことを持ち出し彼を責め立てていて、その影響でルキを殺しかけた事実を明確に思い出し亮は満足に睡眠も取れていないらし──」
「ちょ、ちょっと待て! っ──ぐ……」
 鋭い声でハルフレズの言葉を止めたシュラは、思わず前のめりに力をいれた体勢で顔をしかめて歯を食いしばった。
 だが彼の唯一見えている右目は蒼い炎でぎらぎらと燃え始めている。
「亮が──なんだって?」
 己の気持ちを抑えるように、ゆっくりとかすれた声でハルフレズへ問いかける。
 もともとこの情報を彼に提供するつもりで来たハルフレズは、この想定内の反応になるべく感情を交えない声で詳細を語ることにした。こんな状態のシュラへは事実だけを端的に述べるに止めておくべきであり、必要以上に感情を煽ってここの主であるプラムの負担を増やすことになっては彼女に申し訳が立たない。
「今言った通りだ。研究所付きだった1名の生活補佐が第53施設に勤務していた人間だった。クワトロ1事故で寂静したとされるうちの1人が彼の上官で、彼は彼女に好意を寄せていたらしい」
「なんでそんなヤツが亮の側に派遣されている! 一番最初に除外すべき人間のはずだ」
「確証は得ていないが──ヴァーテクスが動いた形跡がある。中央が何を考えてそんな人選をしたのかはわからないが、その男に触発されるように、リーダー格のもう一人が便乗して亮に手を出した。治療後の意識混濁状態時を狙った犯行のせいで亮に自覚が薄く、発覚が遅れた経緯がある」
「…………っ、なに、やってんだ、ウィスタリアもレオンもっ! あいつらが付いていてどうして──っ」
 呻くように呟く様子は彼らへの怒りを口にしているというよりも、こんな場所で燻っていざるを得ない己への不甲斐なさへ寄せられた怨嗟そのものだった。
「実質虐待行為が行われていたのは一週間前後。発覚後すぐ──昨日のうちに既に二人の処分は行われ、亮へのケアもきちんとなされている」
「亮は──亮の様子はどうなんだ、あいつは──!」
「落ち着いてくれジオット、大丈夫だ。さっきも言ったとおり亮のケアは終わり、クラウドリングの効果で亮自身己がされていた行為に気づいてはいない。事態は既に沈静化している」
「っ──。…………くそっ、なんでこうなんだ。なんであいつばかりこんな目にあわなきゃならん、あいつが何をしたっていうんだっ……」
 こんな場所でベッドに縛り付けられたまま騒ぎ立ててもどうにもならない──。わかってはいてもシュラの気持ちはまんじりとも出来ない。
 憤りと焦燥で全身が焼かれ、唇を噛み締める。
「だが──今回のことによって俺も今後樹根核へ関われない状況になった」
「なるほど──。残り一人の世話役がおまえの子飼いだったか。よく……見つけてくれた。礼を、言う」
 燃えさかる瞳を抑え込むよう閉じるシュラの言葉に、ハルフレズは渋い顔をした。一つ情報を与えると100情報を得てしまう相手は本当に厄介だと思う。
 シュラの指摘通り三人目の補佐役であるラージは諜報局から送り込んだ人材であり、今回の事件の責を負い樹根核からは追放されることになる。そんなことまで語るつもりはなかったのだが、言わずとも彼には状況が丸見えになるようだ。
 肉体労働が主とされる獄卒対策部元部長は、そのイメージとは異なり頭の回転も悪くない。
 先輩の謝辞を敢えて汲まず、ハルフレズは何事もなかったかのように先に進む。
「亮にとってはルキが側にいることが苦痛になっている可能性が大きい。本人に自覚がなくても彼の精神の奥底では開いた傷口から酷い出血があり、それをこじ開けているのはルキの存在のはずだ」
「……それはあいつ自身わかっていることなんだろう? おまえが言葉で押してやれば考えを変えるんじゃないのか」
「俺じゃ駄目なんだ。俺がコール申請を掛けてもあいつはそれを受けやがらない……」
 ただでさえ鋭い新緑の瞳を忌々しげに曇らせ、ハルフレズが唇を噛む。
 これはルキが戻ったらただでは済まないに違いないとシュラは若干の心配を覚えるほど、ハルフレズの苛立ちは激しい。
「新しい世話役が派遣されるなら、そこへまた何人かねじ込んだらどうなんだ」
 シュラの提案にハルフレズが静かに首を振る。
「身内へ人員を入れ込むのは外へ送るよりずっと難しい。その上研究局が怒り心頭で、もうリアルからの要請は一切受け付けない方針だ。全て樹根核に今いる人員で回すと言っている。観測所にとっては亮の治療はお荷物に過ぎないと思っていたが──ウィスタリアは思った以上に亮のことを大事にしているみたいだな」
「……シドはこのこと、知ってるのか」
「いや──。ヴェルミリオはまともにリアルへ帰ってきていない。今もまだ研究局の指示でどこかの深層へ行ったきりだ。深層セラへ向かうとなるとフィラム回線を使った連絡すら取れなくなるからな──」
「っ、あの馬鹿野郎がっ──、あいつはいっつもいっつも必要なときにいやがらねぇっ」
 言いながらもそれがどうしようもないことだと、シュラ自身よくわかっていた。
 カラークラウンを襲名し、チームを率いるということはこういうことなのだ。
 ハルフレズもシドも、そして自分も──、IICRという組織の歯車として動くと言うことは、己の意志も矜持も、何もかも捨てざるを得ない場面があるということを嫌と言うほど知っている。
 そして非常時Bライン発動後ようやくお役ご免となった今は、身体が自由にならないときている。
 情けなくて己をぼこぼこに殴りつけたい衝動に駆られる。
「だが良い情報が一つだけある。今日行われている準機構員訓練のセラ演習終了後、成坂修司が樹根核へ派遣されることに決まったんだ。ルキと交替で彼が行けば、亮にとっても嬉しい状況になるはずだ」
「亮の兄ちゃんが──。そうか。その条件ならルキも首を縦に振るかもな。その条件を全面的に押し出して説得しろよ」
「……さっき言ったと思うが、あいつは俺の通信に出ない」
「…………」
 不穏な空気が氷雪の王子から吹き上がり、シュラはしまったと言うように視線だけで天井を眺める。
「わかったよ。俺から言ってみる。だからもうそんな恐い顔するな」
「……別に恐い顔などしていない」
「よく言うぜ。……俺も亮の様子を知りたいし、今日にでもプラムに頼んで樹根核との回線予約を入れとく。……できれば俺自身あちらに行ければ一番いいんだが」
 溜息混じりにシュラがそう提案したときだ。
「それは私からも頼みたいと思っていたことだ」
 唐突にそう声がし、ハルフレズはぞくりと背をすくませ背後を振り返った。
 特別製の鉄扉を押し開けた音も気配もなく、いつの間にか一人の長身が彼の後ろに立っている。
 まるで最初からそこにいたかのごとく佇む姿に、ハルフレズはゴクリと生唾を飲み込んでしまう。緊張と得体の知れない恐さに喉の奥が干上がってしまったかのように感じたからだ。
「──ビアンコ」
 しかし彼の先輩はありえない登場をしたソムニアの長に動じることもなく、当たり前のようにその名を呼んでいた。
 果たしてこの男はどのようにこの部屋へ入室してきたのか──。セラ中の結晶生命体──ソラスを取り込むことによりその力も能力も自在に扱える唯一の種「オートゥハラ」はハルフレズになど想像も付かない能力をいくつも保持しているに違いなかった。
「ジオット。おまえにはこれからすぐ樹根核へ向かってもらいたい」
 落ち着いた声音でそう語るビアンコに、ハルフレズもシュラもなんと答えていいかわからない。
 ベッドの上でぐるぐる巻きに固定されたシュラの姿を見てこの台詞が出るというのは、冗談ととるべきなのかそれとも本気なのか。
 もちろんビアンコの様子を見れば決してジョークを飛ばしているようには見えないのだが、いかんせんこの状態のシュラに今すぐ退院許可をだすなど、ベルカーノ・プラムがするはずもないことは一目瞭然だ。
「……成坂修司の樹根核行きは延期になった。亮の側へはジオット──否、シュラ・リベリオン、おまえに付き添っていてもらいたい」
「延期……? 何があったんです? あの兄ちゃんのことだ。成績が悪くて卒業できねぇとかじゃないんでしょう?」
「彼は何者かに拉致された。ほんの数時間前のことだ。私の留守中に色々と不都合なことが起きていたようだ」
 シュラもハルフレズも一瞬目を見開き、頭の中を整理するかの如く黙り込む。
「生存の可能性は高いが、現在彼の居場所を追うことができない」
「あんたにも修司をさらった相手が誰なのか……わかんないってのか」
 ようやく言葉を発したシュラの声はただでさえノイズ混じりだというのに、激情を押さえているせいか酷く掠れていた。
 亮がどれほど兄を慕っているのかシュラはよく知っていた。こんな事実を知ればただでさえ追い詰められている亮の精神はどうにかなってしまうのではないかと、シュラは悲壮な表情でIICRの長を見る。
「すまない。私も万能ではないのだ。ただこんな芸当をやってのける相手は限られているし、成坂修司がどんな形であれ生きていることだけはわかる。それを元にIICRは全力で彼の救出に向かう予定だ」
「どんな形であれ──とは──物騒が過ぎる」
 ハルフレズがぽつりと低く呟いた。
 その言葉の意味する非情さに胸を塞がれながらも、ハルフレズは諜報局局長らしい冷静さで先を続けた。
「ですが亮の元へジオットを送るとして、現状今の彼ではアクシス酔いには耐えられないでしょう。それに──プラムが退院許可を出すことなど絶対にないと思いますよ」
「それは困るな。プラムには私も頭が上がらないものでね」
 言いながらビアンコはサイドチェストへ置かれていた水差しを取り上げる。
 彼は中の水を傍らのマグカップへ注ぐと、長衣の懐から取り出した小瓶の中身を全てそこへ零していく。
 黄金色に輝く砂状のそれはカップの水に触れた瞬間微かな蒸気を発し、瞬く間に溶け込んでいた。
 ビアンコの手にあるサッカーチームのロゴ入りカップは、その内側に純金を溶かしたような不透明の液体を湛え、シュラの目の前へことりと置かれる。
 それが何なのか、ハルフレズにはすぐに理解できた。
 理解は出来たが感情が追いつかない。こんなものが本当に目の前に存在しているなど、信じることができないのだ。
 だが当たり前に、まるで自分で入れた自慢の紅茶でも勧めるように、ビアンコはシュラへこう促した。
「一気に飲みなさい。見た目はちょっと怪しいが、飲めば意外と悪くないのどごしなんだ。……まぁ、リサーチ要員は私を含め過去二人しかいないから保証はできんがね」
 シュラは眼前に置かれた黄金の水面を目を見開き見つめ、カップに手を掛ける。
「……過去二人って、あんたと誰なのか……恐くて聞けねぇが」
 その言葉からシュラもこれが何なのかわかっているのだろうと、ハルフレズは思った。
「飲んだら今すぐ動けるようになるっていうなら、例え砂糖30杯溶かしたハチミツ生クリームだって一気のみするぜ」
 独り言のように呟くシュラの口元にカップが近づいていく。
「これは……、本物、なんですか?」
 おそるおそる問われたハルフレズの質問に、ビアンコは軽く頷く。
「そうだ。これは私の持つ最後のエリクシエルだ。事情があって賢者の石が失われたからな。恐らくこれももう二度と作ることはできない」
「な……ぜ……。なぜそんな人類の宝をここで使うんです? ベルカーノが効きにくいとはいえジオットの怪我は数週間経てば癒えるはずだ。それをなぜここで使うのか──俺には理由が理解できませんっ」
 ソムニアの歴史は錬金術の歴史と言っても過言ではない。
 エリクシエル──と彼は言ったが、一般的にはエリクサーという響きで知られるその薬は錬金術の粋を集めて造り上げられた不老不死の妙薬である。
 古くはメソポタミアのギルガメシュ叙事詩、インドのリグ・ヴェーダ──。紀元前2000年以上も昔からこいねがわれ続けてきた不老不死という人類の無想は、8世紀のイブン・ハイヤーンの手によって一度大成したと聞いている。その時創り出された賢者の石とエリクサーには絶大な力があり、人を神にも変えるとの伝承すら残っているほどだ。
 だが──それはあくまでも伝承の域を出ないものであり、どちらも現在は失われその技術を再現することは不可能であるというのがソムニア界の常識であると言える。
 そんな幻の宝物を目の当たりにしたことだけでも衝撃的だというのに、特に逼迫した状況ですらないというのにそれを使えと目の前の男は促されているのだ。
「成坂亮──ですか。いくら罪のない子供を助けるためとはいえ、ラストエリクサーすら惜しみなく使うなど、ただの憐情では考えられない。彼がゲボである事実を鑑みても理由が付けられない。彼は何者なんです!?」
「確かに味もしねぇしのどごしは悪くねぇが……、この花みたいな匂いはたまんねぇな。バリウムの次に飲みにくかったぜ」
 ハルフレズが息をのんでシュラを見た。
 まさかと思って彼の手にするカップを見れば、カップの中身は一滴残らずなくなっており、当の本人はぺろりと赤い舌で口の周りを舐めている。
 ウソだろ──と声にならない声が整った口元から飛び出した。
 ビアンコがどういうつもりなのか、本当にこんなものを飲んで大丈夫なのか──ハルフレズが確認している最中にシュラ・リベリオンという男はあの黄金をさっさと飲み干していたのだ。
 何もかもがハルフレズの常識を逸脱していた。
「ジオット……あんた、大丈夫なのか。身体は……」
 あんぐりと開いた口をなんとか塞ごうと、ハルフレズはそう聞いてみる。
 当のシュラは少し首を傾げ、肩を回したり己の身体を見回したりしてみるが、
「…………これといって……、変化はないような気が、すんだけどな。この薬、古すぎて効いてねぇんじゃねぇのか」
 と言ってベッドの下へ降りると、もう一度一通りぐるりと身体を確認し首をひねった。
「よくわかんねぇな」
「よく……わかんないもなにも……、あんた……立ち上がってるぞ。全身複雑骨折・多臓器損傷の重傷者のはずでしょうが」
 後輩にそう言われて初めてシュラは「ああ!」と顔を上げる。
「力がみなぎって包帯がちぎれたり、全身が光ったりでもするのかと思ったが、そういうわけでもないんだな」
「傷が治り少々身体が丈夫になる程度の薬だ。身体を光らせたければ別の薬が必要だな」
「いや、別にいいんだ。治りゃいい」
 二人のクラウンの会話が異次元過ぎてハルフレズはまるでついて行けそうになかった。冗談めかして語りあってはいるが、現実として起きていることは冗談では済まない規格外のものなのだ。
 そうこうしているうちにもシュラは己にくっついた包帯やガーゼを引っぺがしていき、軽く柔軟などして身体の様子を確かめている。
 こんな状況をプラムが見たら今度こそ本当にいろいろな意味で倒れてしまいそうだとハルフレズは思った。
「うん……。なかなか良い感じだ。これなら今すぐにでも狩りにでかけられそうだぜ」
「プラムも首を立てに振ってくれるといいのだが」
「あいつなら二つ返事で俺を叩き出してくれるぜ、多分」
 苦笑混じりにベッド周りを片付け始めたシュラは、側に立つハルフレズに「そこからカバン出してくれ」などと指示まで飛ばしすでに退院する気十分のようだ。
「……ジオット、もう少しちゃんとあのヤバイ薬の効能を聞いておいた方がいいんじゃないですか」
「おお、そうだな……」
 もっともだと言うように頷いて見せたシュラが顔を上げる。
 エリクシエルがどんな薬なのか、これだけの効能があるのだ。何かとんでもない副作用が隠されていてもおかしくはない。今ここで聞いておかなくては後々大変なことになる可能性だって考えられる。それを知る人物は恐らくこの世で多くはなく、さらに実体験でそれを知る人物など世界中で彼ただ一人だからだ。
 しかし──
「俺があのど変態に最悪の尋問されたとき──、あいつは亮のことをしつこく聞いてきた。あれは何なんだ。どうして亮を環流の守護者が狙っている? わかるように今すぐ説明して欲しい」
 そんなハルフレズの老婆心などどこ吹く風で、シュラはまったく想定外の質問をビアンコへと寄せていた。
 今それか! と突っ込みたくなる彼の横で、長身の黒人は静かに目を閉じこう言った。
「それを含め、おまえに話すべき事がある。……それを踏まえた上で、おまえにある男から亮を守る任を与えたい」
「詳しく──聞かせてもらいてぇな。その話すべき事、とやらを」
 詳しく聞かせろとは言ったが、きっと彼は引き受けるに違いないとハルフレズは思う。
 ある男──というのが誰なのかはわからないが、たとえ相手が何者であれ、シュラが亮を守るという任務を蹴ることは200パーセントありえない。
 成坂修司が拉致され、環流の守護者は成坂亮を狙っている。それならば修司を拉致したのは守護者である可能性が最も高い。
 血のつながりのないあの兄弟にそろって何があるというのか。諜報局局長の立場を持ってしても、そこまでは調べることが出来ないでいた。
 何か大きな潮流が起ころうとしている──それを肌身で感じながらハルフレズは一礼し、部屋を後にした。