■ 5-43 ■


 ──それは、神になるに等しいことだと、シドは思ったのだ。

 三世代前。シド・クライヴがソムニアとして覚醒し二度死んだ後。未だこの世に『イザ・ヴェルミリオ』が誕生していない頃の話だ。
 彼らは三人で旅をしていた。国の情勢と資金が許す限り見聞を広げ己の能力を磨くために世界中を巡り、それぞれの国々に属するセラへも潜り続けた。
 19世紀も半ば。ナポレオン・ボナパルトがフランス皇帝に即位し、イギリスが武力を用いて各国へ自由貿易を認めさせ、国際経済体制を整えていったそんな時代。
 乱立していたソムニアたちの自衛組織も西欧を中心に大きな三つの団体へとまとまり、それぞれが己の組織を大きくするため躍起になっていて、名の知れたソムニアの争奪戦が展開されていた頃だったと思う。
 その中でも異端とされる最も先進的な組織『ヘルメス・マルアーク』からの誘いを一蹴した師に、彼の妹弟子はこう問うた。
「あそこも駄目。ここも駄目と。宗師はソムニア達の組織化に反対なのですか? マルアークはその信念も堅実なものだし、何より指導者であるメストリ・ビリンバウはなかなかの人物だと聞いています。そこにすら力を貸されないということは、どういう了見なのかと──」
 丁寧な言葉ぶりであるくせに、しっかりと批難する彼女の言い様に、彼らの師はその美しい面で柔らかに微笑んだ。
 どこかの港町──。その地方にしては珍しくじっとりと汗ばむ暑い夏の日だったが、海から吹き抜ける潮風は心地よく、次の船を待つ彼らの髪はいいように嬲られていたのを覚えている。
 海面からそびえる積乱雲の山々が青空へ突き刺さり、陽光を反射して純白に光っていた。
「おりょうはあの組織が育つと見るか。さすがに慧眼よ」
 楽しげに声を上げて笑い弟子の艶やかな髪をくしゃりと撫でてみせれば、彼女はまなじりを吊り上げて師に食ってかかる。
「からかわないでくださいっ! 私は真剣に宗師の力を皆のために使うべきだと──」
「諒子。おまえも知っているだろう。私が見たいのはソムニアのための世ではない。だから彼らに与することはない」
 口元に微笑を乗せたまま、彼は足下に積まれた木製パレットの一つへ腰を下ろし、空を仰いだ。
「ソムニアのためだけでなく、人類のための世だと、そういうことですか。それ自体は私も賛成ですが、時代はまだそこまで追いついていません」
 不服そうにぽってりとした唇を尖らせた彼女が、腕を組み、彼女の師を見下ろす。
 だがそれにすら師は首を横に振り、
「いや、ソムニアにも人類にもさして興味はない。私が見たいのはこの世の枠組み。そしてそれを組み上げた手の存在だ」
 眩しそうに白い手のひらを額へかざし、そう言った。
 手のひらの影が焼け付くほどに黒く彼の涼やかな目元に落ちていて、シドにはその表情を窺い知ることができなかったが、口元の微笑とは裏腹にその声音は少し硬い響きを持っていたように思う。
「私は見たいんだよ。神──そのものをな」
「…………神。異神、ですか? あなた何回も異神の観察とやらであちらへ行ってらっしゃるじゃないですか」
 瞬間、ぽかんとしたように口を開けた諒子の顔は、とても見る者全てを虜にしてきた名うてのゲボとは思えない。
 そして彼女の唱えた言葉の意味をその辺りのソムニアが知れば、あまりの突拍子のなさに笑い出すに違いない。
 ゲボである彼の師は異神と契約を結ぶだけでなく、その全てを知るために自ら何度も異界へ身を投じ、そして生還を果たしている。
 数多くのゲボと出会ってきたが、そんな芸当をする者をシドは師以外誰も知らないし、恐らく世界中探してもいないだろうと確信している。
 現在売り出し中のヘルメス・マルアーク創設者、唯一のオートゥハラ種と言われるメストリ・ビリンバウですら無理なのではないだろうか。
 そんな奇術のような技をしてのける彼が言う『神』が、諒子のいう『異神』であるとはとても思えなかった。
「神を見る──。それができるのは同じ神だけなのでは?」
 シドはさやさやと靡く長い黒髪を眼下に見ながらそう口に上らせてみた。
 そう。彼の師が望んでいることは、神になるに等しいことだと、シドは思ったのだ。
 師は空へかざしていた手を下ろすとシドの顔を見上げた。
「そうかも、しれんな」
 美しい顔がくしゃりと歪められ人好きのする笑顔になる。
 初めてこの男を見かけた時、あまりの端麗な容姿に異神かソラスかと存在そのものを疑ってかかったものだったが、一度会話を交わしてみるとくるくるとよく動く表情と情感豊かな物言いに、これほどヒトらしいヒトもいないものだと妙な肩すかしを食らわされた。
 この男が無双の強さを誇り、リアルだろうとセラだろうとあらゆる千万の敵と一人で渡り合い、なおかつ一度も膝を屈したことがないなど、誰が信じられるだろうか。
 それは桁外れのソムニア能力だけに頼るものではなく、剣技についても同義であり、彼と出会い連れ立つようになって9年の月日が流れていたが、シドは未だひと太刀も納得のいく一撃をこの師へ打ち込めたことがない。
「実はそれをしようと何度も挑戦してはいるのだ。一番手っ取り早いのは異神をこの身に取り込んでアルマの構造を己で創世することなのだが……」
「っ、あれはそういうことだったんですか!? もう二度としないでくださいよっ、本当にいい迷惑なんですからっ!」
 師の言い出した話に再び諒子のまなじりが再び吊り上がる。
 彼の無双はその容姿、強さ、人徳、のみではない。何をしでかすかわからない考えや行動の不可解さは今までシドが出会ってきた人間の中でも群を抜いており、二世代目に成り行きで連んでいた「気狂いとしか思えない自虐趣味の男」すら裸足で逃げ出すのではないかと思えるレベルだった。
 諒子の言っているのは三年前、異界から戻ってきた師の姿が半分龍に変じていた事件のことだろう。
 それは姿だけでなく精神そのものにも影響していて、戻った師の暴挙によって彼らの拠点セラの一つが壊滅してしまったことは、彼らの修行行脚という歴史の中の大いなる汚点であると言えた。
 もちろんその後この男は自力で己の身体から異神を分離し、あまつさえそれを生かして異界へと差し戻してすらいたが、その後数週間珍しく寝込んでしまい、諒子もシドも師が寂静するのではないかといらぬ気を揉まされたのだ。
「あの異神とはかなり気があってな。彼なら行けるのではと思ったのだが、いかんせん彼らと私のアルマでは作りが違いすぎて馴染まなかった。所詮私もこの世が当たり前に生み出した数あるアルマの内の一つだということよ」
 はははと笑ってみせる彼の言葉にシドと諒子は顔を見合わせたが何も言葉を発しなかった。
 冗談にしても酷いと思ったが、恐らくこの師はこの台詞を心から真面目に語っているに違いない。
「今考えているのは、段を踏む──という策だ。礎となるアルマを都合の良いよう元から生み出し、それへ異神を食わせて、さらにそれを私の中に取り込む。少々面倒ではあるが、足場となるアルマが私に馴染む者であればあるほど結実の割は上がるはずだ。問題は足場とするアルマをどう創り出すかということでな……」
「宗師。言ってるそばから次を目論むのをやめてください。私の目の黒いうちは絶対にさせませんからね」
「……そう恐い顔をするな、おりょう。考えるくらいは迷惑をかけてはおらんだろう。……あの折のことは悪かったと何度も謝ったではないか」
 哀しそうな顔で溜息をつく師に、シドは問いかけた。
「宗師はなぜ神を見たいのですか」
 まるで今夜の夕餉を何にするかでも問うような軽い聞き方になってしまったが、彼の答えも同じくシンプルなものだった。
 師は──秀綱はゆるりと立ち上がり麻のマントの埃を叩くと、旅には欠かせない深めの帽子を被り直して己より高い位置にあるシドの顔を見上げた。
「さあな。ただ──見なくてはいけないとそう感じただけだ」
 細められた黒い瞳には、弟子へ対する愛情とも慈しみともとれる明るい光が満ちている。
 生まれてより一度たりとも──初めての親からですら向けられたことのないそんな光を、シドは直視できずツイと目を伏せた。
「行くぞ、朱天。船の用意が済んだようだ」
 拳の裏でとんとシドの胸を叩くと秀綱は歩き出し、それを追うように諒子も足下の鞄を抱え上げる。
 シドもその背を追い歩き出す。
 あの時乗った船はどこへ進んだのだったか──。
 それすら今は思い出せないが、なぜかあの場面だけは脳裏に克明に刻まれ、昨日のことのように思い出されるのだ。

 シドは狭苦しいベッドから身を起こすと、しなだれかかる髪をうっとうしげに掻き上げベッドヘッドへ置かれた携帯電話を確認する。
 時刻は午前二時十五分。乗員交替での仮眠に入って三時間が経過していた。
 ライドゥホでの移動時、外世界と照らし合わせた正確な時刻など意味をなさなくなるが、それでもこのトレーラー内限定で流れている時間はU子のライドゥホ能力の強さもあって、かなり安定したものとなる。
 つまり交替後すぐにベッドへ倒れ込んだシドは、きっかり三時間ほど睡眠をとれたということだ。
 四畳半ほどのスペースに簡素なベッドとサイドテーブルを置いただけのこの部屋は、U子が気を利かせてこの任務より用意してくれたシド個人の部屋であるのだが、セラタイム二ヶ月強の任務期間中、ほぼ使用したことがなかったと言っても過言ではない。シドの定位置は今まで通りもっぱらU子の隣の助手席であり、部屋へはシャワーを浴びに帰る程度のものであった。
「いい加減に使いなさいよ恩知らず」と急ブレーキを踏まれながら罵られ、任務も終わりに近づいて初めてまともに使うこととなったが、そんな風に追い立てなければいられないほど、恐らく先ほどまでの自分は酷い顔をしていたのだろうと想像が付く。
 まだ交替まで二時間はある。今U子の横で話し相手になっているのは誰だったか──。
 頭の芯が痺れたように重たい。
 ゆっくり首を回すと衣服を脱ぎ捨てシャワー室へ入る。
 高さのない簡易シャワーのコックをひねれば冷水が勢いよく迸り、シドの朱い髪をしとどに濡らしていく。
 現在走っている道が極北並の極寒であるため、その水は切れるように痛かったが、それでも次第に温度を増し、シャワー室は白い湯気に煙り始めていた。
 シャワーフックのすぐ下につけられている全身を映せるほどの大きな鏡は、曇りもせずクリアーに己の姿をシドにさらし続けている。
 あまりの趣味の悪さに辟易し、バスルームにこんなものをつけるなと文句が出たこともあったが、トレーラーの持ち主は「プロポーションを保つのにはこれが効果的」という実務的な一言でチーム内全員を黙らせたのだった。
 言われてみれば体調管理にはなるのかもしれない。
 鏡は嘘をつかない。今目の前に立っているのは、土気色をしたまるで死人だ。
 そんな自分を眺めていると、肩に、胸に、腰に、足に、流れ落ちていく湯がシャーベット状の氷塊へと変じていく。それがシドの身体に触れなかった湯の熱で巻かれ、かろうじて排水溝へ流れ込んでいく。
「…………ち」
 あまりの情けなさに舌打ちが溢れる。
 こんな風に己のイザすら漏れ出すほどに、自分は今常態ではないということなのだろう。
 備え付けの洗剤を適当に泡立てると、苛立ちごと流すように一気に全身を洗い上げる。
 シャワーコックを閉じ身体を満足に拭くこともせず新しい衣服を身につけたシドは、濡れた朱毛を乱暴にタオルで掻き乱しながら電源の切られた冷蔵庫からガス抜きの水を取り出すと一気に呷った。
 そののどごしの滑らかな物足りなさに、思わず自嘲の笑みが漏れ、軋みを上げるベッドへ腰を落とす。
 今ここに酒があれば手を着けていたに違いなく、飲み干したボトルをベッドの上へ放り捨てると顔を伏せ左手で目蓋を覆った。
 トレーラーの上で百数十年ぶりに師と邂逅したあの時の出来事以来、シドは在りし日の師との会話を事あるごとに思い出す。
 師は──秀綱は言った。
 この世の枠組みを見たいと。この世を作った神の御技を知りたいと。
 その為には秀綱自身が神に近づく他なく、その方法を彼は見いだしたとシドに語った。
 彼が何気なく放った一言。「段を踏むという策」──。それ自体に大それた響きはないが、後に続いた説明は衝撃的な内容だった。当時はあまりに荒唐無稽で現実味がなく聞き過ごしたものだが、今現在の状況を考えるとぞっとする意味を持っている。
 礎となるアルマを元から生み出しそれへ異神を食わせて、さらにそれを取り込む──それは今まさに亮を巡り起きていることに他ならないのではないのか。
 足場となるアルマが彼に馴染む者であればあるほど都合がよいとも彼は言った。足場とするアルマの創世方法を見いだしていないと当時は語っていたが、彼はもっとも確実かつ当たり前の方法を取ったのだという推測が成り立つ。
 彼は自らの子を使ったのだ。
 秀綱は諒子と為した己の子に異神を入れ込んだ。
 亮がシドにも秋人にも黙ったまま一人でセラへ潜ったあの折が、その時だったのかどうかはわからない。だが、あの日異界から秀綱の手によって引きずり戻された亮の姿をシドは後にビアンコのビジョンによりはっきりと目撃していた。
 そしてその日を境に亮は精神的な安定を失い──あの地獄の痛みを伴う聖痕に命を脅かされた。
 医療局も研究局も亮の症状の根本的な原因を知るには至っていないが、今ある材料で考えられる近似値はこれ以外ないように思えた。
 だとするなら次に秀綱が取る行動は──
「亮を己の中に取り込む──つもりなのか」
 それはつまり己の子を食らうということに他ならない。
 シドの知る秀綱ならばそのような恐ろしい真似を断じてするはずもない。あれほどの強さを持ちながら、彼は世界に息づく人間たちをこよなく愛する男だった。
 だが先日トレーラーの上で邂逅した彼はまるで別人だった。別人──いや、人間というのもおこがましい、ヒトという生き物の範疇から抜け出てしまった得体の知れぬ存在へと変じていたようにすら見えた。
 氷河の如き凍てついた水色の左瞳を思い出すと今も身体の芯が震えそうになる。
 なぜ秀綱がこの世の枠組みなどに興味を持ったのか、今になってもシドには知る由もなかったが、亮が秀綱の元へ渡った瞬間、亮は未来永劫消え失せるのだろう。
 ――秀綱に亮を渡してはいけない。
 それだけがはっきりとわかる命題なのだ。
 だがたった一つのその命題を自分は全うできるのか──。
「…………」
 濡れたままだった髪は冷え切り、シドの額に、うなじに貼り付いて彼の体温を奪おうとする。
 皮肉にも無意識に漏れ出すイザによりその試みは遮断されており、シドの体温は通常と変わることはなかったが、彼の苦悩で色をなくした顔色と濡れそぼったままのその様子は彼をさらに疲弊して見せる。
 このまま交代で助手席へ戻ったとしても再びこの部屋へ追い返されるに違いないこの男はしかし、それすら考える余裕もなくただひたすら頬から床へ垂れ落ちる雫を眺めるばかりだった。
 鈍い振動が階下から響いたのはそんな時だった。
 それは一度きりでありさして大きなものではなかったが、シドはベッドヘッドへ着けられたマイクで運転席へと確認を取る。
「U子、今のは」
『外部からの攻撃じゃないわ。男子部屋からみたいだけど、あいつら何暴れてんのかしら。私は動けないからヴェルミリオ見てきてよ」
 暢気な返答を裏付けするように、確かに肌を刺すような敵性生命体の気配はない。代わりに感じたのは足下から立ち上る熱気だ。濡れた髪がみるみる乾いていくのがわかる。
 何となく状況を察しやれやれと重い腰を上げたシドが廊下に着けられた梯子状の階段を飛び降りると、辺り一面に金属の焼けた鼻を刺す匂いが立ちこめている。
 U子特製の耐熱耐衝撃合金で作られた床や壁にはこれといったダメージはなさそうだったが、それでもSSクラス以上の赫炎で炙られたらしい一帯は靴の底が溶け落ちるような熱気を未だ宿しており、シドはすぐさまイザを使い周辺の温度をざっくりと調整していた。
 辺りの床も壁も一瞬にして白く煙っていく。
「何をしている」
 まるで船室の扉のような小振りのドアを開ければ、狭苦しいワンルームほどの部屋の左手奥──消し炭と化したベッドの上に仁王立ちになり、ふぅふぅと呼吸を荒げているカイと、凍り付いたシャワー室の中で震えているユーラの姿が目に飛びこんできた。カイのカウナーツで焼かれたユーラが水を求めシャワー室へ飛び込んだといったところだろう。
 どうやら騒動は男子部屋二人のケンカが原因で間違いはなさそうだ。
「このクソガキっ、誰に口きいてんだぶっ殺す!!!」
 カイの方はまだ怒りがおさまらないらしく、全身から赫炎を吹き上げながら怒りの形相で開きっぱなしのバスルームをにらみ据えている。
 対するユーラは己の周りに固まった氷柱をたたき壊しながら「先輩、でも、だって!」と、ますます火に油を注ぎそうな言い訳を口にしようとしていた。
 シドはそんな二人の間に無神経なまでにズカズカと踏み込むと、恐らくそれなりの火傷を負っているであろうユーラを引っ張り出し、
「職務中にくだらん真似をするなっ」
 と、どちらへとも取れる叱責の言葉を残してそのまま部屋を後にする。
 尊敬する班長からの叱責にカイはようやく我に返ったように下を向き、ユーラも黙り込む。
 ユーラの長身を半ば担ぎ上げるように自室へ運び込んだシドは、すぐにリー・ミンに彼の応急手当をさせ、続いてカイの様子を伺わせると、一時間近く経ってどうにか事態は収束を迎える。
 耐熱服のガードから外れていた両手両足、そしてなぜか顎先を包帯やガーゼでコーティングされたウルツのホープは、シドのベッドに座りその身長には不似合いなほどしょんぼりと縮こまっている。ウルツには珍しい甘い顔立ちも自慢の金髪もそこかしこが焼けこげ、なにやら煤けたボルゾイのようだ。
 このトレーラーには回復役のベルカーノが居ないため、ハガラーツであるリー・ミンがその神の手を駆使して救急キットにより治療を行うしかない。もっとも能力値の高いソムニアである彼らのアルマは傷の治りが通常の者たちより早いこともあって、それで必要十分なのだが、それでもゲボのように数時間で傷がふさがるというようなことはなく、怪我を負えばそれなりの休息が必要となる。
 彼の前へ立つシドは溜息をつくほかない。
 ケンカの原因だのなんだのを聴取するのはゴシップ大好きなU子の役目だとばかり思っていたが、これだけ火傷を負っていたのでは運転中のU子の横へやることもはばかられる。
「あと数日で本部に帰り着くとはいえ、深層セラからの帰路でこの失態は気を抜きすぎだ」
 冷えた声でそう語りかければ、ユーラはますます肩を落とし「申し訳ありません」と消え入りそうに呟いた。
「原因は何だ。カイは理不尽なことで暴力を振るう男ではないだろう」
「…………僕が、悪かった、んです」
 そう言ったっきり再び沈黙が落ちる。どうやらユーラはそれを口にしたくない様子で居心地の悪そうに視線をふらふらと彷徨わせている。
 しかしこのまま放置するわけにも行かず、シドは小さく息を吐くと回答を催促した。
「だからその原因を聴いている。今後チームとしてやっていくにあたり、小さなわだかまりが命を落とす結果にもつながりかねない」
「…………。僕、なんか、ダメ、なんです」
 ヴェルミリオには逆らえないと腹をくくったらしいユーラは、要領を得ない言葉運びではあるがぽつりぽつりと語り出していた。
「僕、ウルツでも期待されてるんですよ。だからまだまだ若輩なのに武力局でもインカ直属で司令部の一員としての勉強をさせてもらってます。つまり現場に出るのは十数年ぶりなんだ」
 いつも一言多いとカイが彼に対し評していたのを思い出すが、シドは敢えて口を挟むことをせず黙って先を聴く。
「だからしっかりやらなきゃって思えば思うほどからまわりしちゃって……、班長もご存じだとは思いますが、最初のゲヘナでも一人谷底へ落ちそうになったり、今回のディープシーヴァレイでもエアバルブ落としちゃったり、みんなに迷惑掛け通し、なんです。でもその度にカイがすぐに助けてくれて、めちゃくちゃ怒られるけど、必ず助けてくれるんだ」
「チームなら当たり前のことだ」
「それはそうですけどっ! ──ホントのこと言うと、僕、最初はカイのことちょっとバカにしてたんですよね……。だってあんな不良みたいなカッコで目つきだってしゃべり方だってチンピラだし、僕より先輩のくせにずっと現場で副官やってるだなんて将来性がないんだろうなとか思ったり、背だって小さくて細っこくてこんなのでよく現場勤まるなとか、そんな風に思ってて」
 カイが聴いたら今度こそ耐熱服ごと焼き払われそうな陳述を続けていたユーラが顔を上げ「でも、今は違うんです!」と意気込む。
「ここんところ、ずっと、どこに居ても何をしててもカイばかり見ちゃってるんです。ダメだなぁとはわかってても、目で追ってしまう。僕、先輩のことを好きになってしまった、……みたいなんですっ。今までの人生で何人もの女性とおつきあいしてきましたが、こんな風になってしまうのは初めてのことで、まずい、まずいと思ってたのに、今回の作戦で囮だった僕を助けに来てくれた先輩のかっこよさは映画のディカプリオの三倍増しじゃないですか! あんな風にされたら好きの棍棒でボコボコに殴り続けられてるみたいなもんですよっ。だから物置並の狭い部屋で先輩と何ヶ月も暮らしてれば我慢なんてできなくなるのが普通でしょう!?」
 不思議なほど大上段から言い訳をしているが、要するに勢いに任せてカイを押し倒しでもしたのだろうということが手に取るようにわかり、シドはあまりのくだらなさに目眩を感じた。
「……わかった、もういい。今後おまえはこの部屋を一人で使え。俺が下の部屋を使う」
「は……、ぇ、……わ、わかってませんよっ! そんなのダメに決まってます! だって先輩は班長のこと大好きなんですよ!? 一緒の部屋なんてダメに決まってるじゃないですかっ」
「それはおまえの曇った目がそう見せているだけだ。カイにはそんな感情はない」
「そんなことないですっ。先輩はいつも班長のこときらきらした目で見るじゃないですか、あの先輩にそんな風に見られたら、いくら班長だってグラッと来て押し倒して、あんたの力じゃ僕の手をはずすこともできないんだって上から押さえつけてしまうに決まってます!」
 最後の方は完全に今回の件の述懐となっており、そんな真似をされればあのカイが黙っていないのは必定だとシドは眉間を指先で押さえた。
 だが当の本人は自分が何を言っているのかわからなくなるほどに興奮している。
 火傷の具合もそれほど酷くはなさそうだし、これはU子に任せるのが一番だとそう考えが及んだとき──
「てめぇーはこれ以上寝ぼけたことぬかしてんじゃねぇっ! 来い、バカ!」
 砕けるほどの勢いで扉が開かれ、色素の薄い肌をこれでもかと紅潮させたカイが飛びこんでくると、ユーラの片耳を引っ張り上げていた。
 どうやら先ほどの騒ぎから、回線がどの部屋の会話も全館に垂れ流しとなるオールトークモードとなっており、階下のカイにもここでの会話が筒抜けだったらしい。
「いてててて、先輩、耳、取れちゃいます」
 身長差が30センチ近くある為前屈みで引っ張られるように歩き出すユーラを気にすることもなく、
「ご迷惑掛けました。もう、頭、冷やしたんで大丈夫です。こいつは連れて帰るんで、班長はゆっくり休んでください」
 カイはぺこりと頭を下げ、半泣きの後輩を連れて部屋を出て行く。
 扉が閉まれば今までの状況が嘘のような静けさに包まれ、低く響くエンジン音だけがいつものようにあたりを充たしていた。
 我知らず息をつきベッドへ腰を沈めたシドの頭上から、U子のねぎらいが降りかかる。
『とりあえずおつかれ。機構じゃ基本チーム内恋愛は禁止だってのに、若者たちは自由で困るわ』
 ヘッドボードの通信ランプを確認すれば、既に内部回線はオールトークから通常モードへ切り替わっている。
 シドはベッドへ倒れ込み目蓋を閉じた状態でそれを聴いた。
『どうすんの? 次からどっちか外して別の人員補充してもらう?』
「いや、そんな時間的余裕はない。帰って三日で次の仕事が入っている」
 しばしの沈黙の後、呆れたような溜息がスピーカーの向こう側から聞こえる。
 積荷を降ろして次のハントへ行く準備だけで三日は掛かることを考えれば実質休みはないも同然だろう。
『……まぁお給料も破格だし? 私たちは別に構わないんだけど……、あんたはもう少しユーラを見習いなさいな。恋愛なんて利己的であるべきだわ』
 U子はことあるごとにチクチクとシドを詰ってくる。もちろんシドが任務優先で亮への面会を先延ばしにしているせいだ。
 今回もあからさまにその風なのだろう。
 恋愛などという青臭い感情は自分の中にありはしないのだとそう告げても、彼女はシドの答えに納得することはない。
「恋愛論をぶちたいならユーラを助手席に向かわせる。ついでに説教もしておけ」
『説教したい相手は別にいるんですけどね。……ああああっ、いいわもうっ。あたしが日程を三日縮めてあげる。予定が空いたらあんたは行くトコ行きなさいよ!?」
 鼻息も荒くスピーカーは黙り込むと、次の瞬間ぐんと体感にGが掛かり、スピードがもう二、三段階ほど上がったことを伺わせる。
 ただでさえ40メートル超という化け物クラスの車体を120キロ越えで飛ばしていたはずなのに、それを上回る速度を易々と叩き出すなどライドゥホとして力業が過ぎるとシドは呆れ返るばかりだ。
『あ、そうそう。さっきやっと本部と回線がつながったのよ。そしたらちょっとした騒ぎになっててね』
 ふと思いついたようにU子が言葉を継ぎ足す。
「どうした」
『通信士の軽口だったんだけどね。また環流の守護者がなんかやらかしたみたい。死者は一桁だし大きな襲撃ではなかったみたいだけど……。この件テロ特じゃなくてヴァーテクス管轄で捜査してるみたいよ?』
「――判断の基準がわからんな。あそこが出張るような大国の要人が絡んだセラだったのか」
『どうかしら。通信中にくそ真面目な上官が来て話は途中で打ち切られちゃったからそこから先は不明。ヴェルミリオも名ばかりとはいえテロ特の顧問もまだ兼ねてるから気になると思って、耳にだけは入れといたげるわ。感謝なさいな元諜報局局長。……まぁ気になっても管轄がヴァーテクスだっていうならどうにもならないけどね』
 声だけだが肩をすくめる仕草が思い浮かぶような言い回しに、シドも怪訝に眉根を寄せ薄い唇に指先を乗せる。
 環流の守護者の起こす事件は多くの一般人を巻き込んだものが大多数であり、その処理の煩雑さからヴァーテクスのみならず通常テロ事件の窓口となっている武力局ですら手を出したがらないというのが常態だ。そのための人身御供的位置づけとしてテロ特が立ち上げられたと言っても誰もがうなずくに違いない。
「わかった」
『…………なぁに、その機械的な“わかった”は。あんもう……言わなきゃ良かったわ、亮ちゃんのとこ行かない言い訳にしたら赦さねぇぞコラ』
 最後、妙にドスを効かせた声音でU子は言い捨てると、今度こそ通信のランプが切れる。
 シドはそれを確認すると今一度まぶたを閉じた。