■ 5-44 ■



 艶やかな流線型をした容器が四本のグラファイト製アームに捕らえられ、静寂な泉から引き上げられていく。透明な雫が容器の先端から糸のように滴り落ち水面へ吸い込まれていく様が目を引くほどに美しい。
 薄暗がりの中、直径二十メートルほどの泉から溢れ揺れる黄金色の光が、透き通る流線型の容器を照らし出していた。
 中には人の形をした何かが収められていたが、それがどんな人物なのかは容器外からは判別が難しい。その小柄な身体の3割が形を失いゲル状の何かへ変異しているせいだ。ただ黒い髪が容器の下部で揺れ、上方には白い足らしきものが二本存在していることから、上下逆の位置で泉の中に沈められていたのだろうということのみがわかる。
 天井から垂れた重厚なアームは小気味良いモーター音を響かせながら、透き通る容器を泉の端から突き出したセラミックコーティングの足場へ横たえていく。
 同時に眩しいほどのライトが何もないように見えたドーム全体を照らし出し、その全貌を浮かび上がらせた。
 特大のプラネタリウムでも収まっていそうな広さのその場所には、でこぼことした岩肌に沿い貼り付けられるようにラボが作られていて、二階建てと思われる上階の窓にはグレーのスモークが施された継ぎ目のないガラスが半円状に張られている。
 ラボの鉄扉が耳障りな音を立て開くと、数人の人間が一斉に掛けだしてくる。どの者も頭まですっぽりと包み込む漆黒のボディースーツを身につけ、顔に当たる部分はラボの窓と同じような濃灰色の透明な樹脂で覆われていた。
『中のゴミを始末し一分で内部洗浄を完了しろ』
 窓の向こうから出された指示がスピーカーを通して、泉上の小島で作業を始めた黒い群れに浴びせられた。
 容器の上部が棺の蓋の如く開けられ、中に横たわる者が二人の所員によって担ぎ出される。
 すべやかな白い床へその身が置かれた瞬間、果物が潰れたような嫌な音が響く。その音は彼の全身が濡れそぼっているせいなのか、それとも溶け出した肉体に依るものなのか──。どちらにせよ全身を特殊繊維で覆われた彼らは、身体に付着する肉塊を無造作に手で払い落としながら、その人物の小柄な身体の調査を始めていた。
 残りの人員は手にした放水ホースのノズルの様なものを容器内に向け、高圧洗浄を開始している。
 研究員達によって床へ横たえられた彼は全裸のようであった。半分溶け出した身体を写真に撮られ、骨の剥き出した手足を曲げられ身体の内部まで観察される。
 時折その身体は痙攣を起こし、半分残る顔についた大きな黒い瞳はゆるゆると瞬きを繰り返していた。
 彼の残された顔は愛らしい少年のそれであり、見る者によってはこの光景がより残虐に、非人道的に見えるに違いない。
「スルト統括、このコピーにはまだ生体反応があります。いかがしましょう」
『くだらんことを聴くなゴミはゴミ箱だ。準備ができ次第、オリジナルをエンスフェラン投入する』
「は、はいっ」
 再び担ぎ上げられた少年はドームの壁面に設けられた黒い樹脂製の巨大な箱へ放り込まれ、その蓋をあまりにあっさり閉じられる。
『一分を過ぎた』
「内部洗浄完了しました!」
 勢いよく返事をした研究員達の声は緊張感で半オクターブ上ずっている。
 報告に間髪入れず次の指示が飛んだ。
『ではオリジナルを出せ。今日は同期深度9まで進め、実際にケセドで停滞しているコールドプリュームを揺り動かすところまで到達させる。二時間は多くないぞ』
 すぐさまドーム右手に作られた両開きのハッチが重厚な音を立て開かれ、二人の所員により一台のストレッチャーが運び込まれる。
 白床の上を滑るように進むその上には一人の少年が俯せにされ乗せられていたが、その身には薄いシーツ一枚掛けられてはいない。ドーム内を照らす白光に余すところなくさらけ出された細い背にゆるく息づく小さな羽根が一際鮮やかに輝いていた。
『下ごしらえはどうか』
「レオン医師らの抵抗でクラウドリングの装着に時間を要しましたが、トオル ナリサカ本人の意志により強行させました。現在は半睡眠の状態を維持しています」
『オリジナルも馬鹿で助かる。ウィスタリアはリアルへ戻っていることになっているしな、私が動けないのが触りになるような働きだけはするなよ』
 低い声音がそう告げれば、部下達は階下の七名もラボ内の四名も打てば響くような返事をし、一斉に各々の仕事に取りかかる。
「棺の蓋開けとけ!」
「第二アーム二時の方向へ三十度傾けてくれ」
「オリジナルだ乱暴に扱うなよ。ミカエル融液注入急げ」
 先ほどまで溶けかけた少年の寝かされていたポッドへ亮の身体は放り込まれ、蓋を閉じられると瞬く間に上部の注入口より透き通る液体を注ぎ込まれて行く。
 階下で速やかに展開される光景を眺め降ろしながら、スルトは目を細め独りごちる。
「……いくら人材がいないからといって、いつまでもヴェルミリオを生かしておくのは厄介だ。情報から隔離するのにも限界があるだろう、亮の役割に気づく前に速やかに排除すべきではないのか」
『だが現実問題、深層セラからオルタナのレセプト素材をこの速さで調達してこられる人間は他に見あたらなかっただろう』
「それはまぁそうだが……。皮肉なものだな。己の採ってきた材料が己の宝を己から引き離す壁になっていくというのも」
 顎を撫で目を閉じたスルトの傍らで、研究員の女が秒読みを開始する。
 階下ではアームに捕まれた透過ポッドが泉の上に吊られていく最中だ。
「階下総員ラボ内へ待避。耐熱耐閃光防御」
 けたたましいサイレンがドーム内を席巻し、黒い一団が一斉にラボの鉄扉の向こうへと駆け戻っていく。
 最後の一人が扉を閉めると同時にドーム内のライトが落とされ、辺りは泉から湧き上がる黄金の輝きのみに照らし出された。
 金の水浅黄がドーム全体に揺れる様は新たなプラネタリウムの出し物のようですらある。
 幻想的な光景が広がる中、カウントはゼロとなり、流線型の棺がゆっくりと透き通る水を湛えた黄金の泉へ沈められていく。
「ポッド解放。エロハの泉へエンスフェラン挿入完了」
 スルトの斜め上方に貼り付けられた24に及ぶモニター画面では、あらゆる角度から、流線型の棺の先端が花のように開き一人の少年を吐き出す光景が映されていた。
 三本の黒いアームが折りたたまれ、ポッドを引き上げていく。
 残された少年は泉の中心部で頭を下方に丸くなり、まるで胎児のようにうずくまっている。
 水中だというのに彼の呼吸に難がないところを見れば、この液体が通常言うところのH2O──水でないということは確かなようだ。
 キラキラと輝く黄金の気泡が、まるで大粒の炭酸のように辺りに立ち上っていた。しかしそれは少年の足下から頭の方へ向け、つまり物理的には上方から下方へむけ“立ち上っている”のであり、スルト達研究員側からすれば気泡が沈んでいくように映る。
「ミカエル融液のバルク温度、現在1240℃。低値で安定しています」
「オリジナルのアルマ抵抗値上昇を開始。エロハ殻因子による浸蝕2度。脈拍血圧とも上昇。トオルのアルマが落ち着くまで待ちますか?」
「いや、かまわん。続けろ。コピーでもあるまいしこの程度で壊れたりはせん。格子光照射。羽根を開かせろ。すぐに接続だ」
 手元のパネルに流れていく数字を眺め、スルトが迷いなく先を押し進める。
 一番奥に座す小太りの男がいくつかのレトロなスイッチを跳ね上げれば、泉の内部に下方から網目状の蒼い輝きが照射され、回転しながら上部へ上っていく。
 黄金に浮かぶ亮の身体をブルーネットが通り過ぎていく瞬間。
 上がったのは耳をつんざくような悲鳴。
 水中にいるはずの少年の哭声はなぜか、完全防護されたラボ内の人間全ての鼓膜をびりびりと震わせた。
 所員の何名かは耳を塞ぎ、何名かは苦しげに眉をひそめる。
 同時に強烈な輝きが泉から爆発のように漏れ出し、辺りは白一色に塗り込められていく。
「バルク温度上昇。4000。7000。オルタナティブ ツリー融解限界値まであと8000」
「統括! やはり事件後、まだオリジナルは不安定で深度9の実験には耐えられないのでは!?」
「もはやこれは実験ではない、オルタナの試運転だ。この程度で壊れるようなら所詮疑似生樹の脳髄など勤まらん。オリジナルもゴミだということだ。いいからレセプターを12基とも寄せろ。格子光を循環させ羽根を12枚とも引っ張れ。リガンド接続を完了させろ」
 辺りには未だ少年の悲鳴が響き渡り、びりびりと濃灰色の窓ガラスが割れそうに震え続けている。
 上下に列に並んだモニターの群れの内上段は全て白く焼け付き何も映ってはいない。
 しかし下段12枚のモニターには全体が紫色に染められた映像が刻々と流れていた。
 そこには藻掻くように手足を引き攣らせる少年を何度も格子状のラインが蹂躙し、苦しさで縮こまろうとする身体を無理矢理引き延ばし、巨大な6対12枚の翼を目一杯広げさせる様がありありと映し出されている。
 泉内部の壁面に無数に着けられた黄金色の円形物のうち、羽根の位置に対応した個体が餌でも捕らえるようにずるずると伸び始める。
 蝶の目が見守るようなその場所で、亮の白く滾る羽根は先端を黄金の丸い珠へ捕らえられ、彼の背も、腕も、足も、自由を失っていく。
「オリジナルのアルマ皮膜、共有結晶化急げ。怪物を外に出すな!」
 スルトの檄が飛び、ラボ内に緊張感が満ちる。
 これから長い長い2時間が始まる。




 身体がふわりと宙に浮いた瞬間。
 亮は閉じていた目をうっすらと開けた。
 キラキラした泡がいくつも、いくつも、亮の周りを立ち上っていく。
 綺麗だとは思わなかった。
 なぜなら、この泡が見えたその次には、必ず亮は痛い目に遭うのだから。
 今も焼けるように身体が熱い。
 でもそれも仕方がないということもわかっている。
 亮は早く羽根を焼いて、手術をして、東京に帰らなくてはいけないのだから。
 焼除装置は壊れたと三日前有伶は言っていたが、スルト統括の手で予想以上に早く修理が終えられたそうで、今日突然、急遽治療を再開することとなった。
 本当はすこし嫌だったけど、でもそんな弱音を吐いている場合ではないのだ。
 心臓がドキドキする。
 胸が苦しい。
 上も下もよくわからない世界で、亮は手足を丸めて熱さと苦しさに耐える。
 また、シドは来られないという。
 もうどれくらい顔を見ていないのかわからない。電話もつながらない。声も聞けない。
 もしかしたら、もうシドとは会えないのかもしれないと、そんな考えがもう何日も頭の隅から離れない。
 自分は人を殺してしまったし、たとえ病気が良くなったとしても、本当はもう外の世界には出してもらえないのかもしれない。
 亮の元いた世界は全部崩れて、全部壊れて、もう戻らないのかもしれない。
 誰も、もう、亮を迎えには来ないのかもしれない。
 暗闇に引きずり込むような「かもしれない」が、いくつもいくつも、何重にもなって亮の胸に降り積もっていた。
 少しずつ、少しずつ、元気は擂り潰されて、自分自身がぺらぺらの紙のようになっていく気がした。
 それでも──。
 それでも、もう少しだけがんばろうと思う。
 シドが来るまでに、少しでも成果を出していたい。
 ぼんやりとした頭で今亮が考えられる精一杯のことはそれだけだった。
 不意に頭上で嫌な音がした。
 金属を引っ掻くような耳障りな音だ。
 びくりと亮の全身がこわばった。
 あれが来る──。
 クラウドリングの片隅にこびり付いた記憶の断片が、亮の中に恐怖を呼び起こす。
 なんとかそこから逃げようと手足を動かした。
 だがどんなに藻掻いてみても、亮の身体は標本にでもされてしまったかのようにその場から動けない。
(嫌だ──!)
 亮の唇が小さく動いた瞬間、蒼く光る網が頭上から、亮の全身を貫いていた。
「っ────が──────ぁああああああああああああああああああっ!!!!!!」
 生物的に丸まろうとする腕が伸ばされ、足が引かれ、そして、背中に激痛が走る。
 喉から血が迸り、背骨は折れそうに反り返る。
 己の背からずるり、ずるりと灼熱の何かが這いずり出て、身体が内側からめくれていくようだ。
 一対の可愛らしいものに纏まっていた亮の羽根が、全て体外に引き出され、全身の肌を焼いていく。
 あまりの痛みで気絶することも許されない。
 それでも何度も何度も蒼い網は亮を貫き続ける。
 これは亮が入院したての頃何度も味わったあの痛みだ。徐々に襲ってきたあの頃の痛みが、今はほんの数分で一気に押し寄せてくるのだ。
 反り返る身体はしかしあの頃とは違い痛み止めの処置すらされず、放置されたまま、背後から伸びる12基のレセプター達によって固定されていく。
 亮の内側でいつも聞こえていた音楽が、一際強く流れ始めた。
 右主翼の先端に金色の珠が忍び寄り、触手の如く形を変えると、白い炎と解け合うように混じっていく。
 次に左足の翼も同じく金と融け合い完全に固定されてしまう。
 音楽がいくつもの流れを作り、次々と亮の中へ入り込んでいた。
 それは次第に数を増やし、完全に亮の動きが封じられた頃──12の流れが一本の奔流となって亮の中でうねり始める。
 何もかもが消し飛びそうなその音と、未だ震える身体の痛みに、亮は涙を流しながら叫び続けていた。
 そして──己のアルマが凍り付いていくような、そんな錯覚を覚えた。
「トオル ナリサカ。目を開けろ。耳を澄ませ。私の声を聴け──」
 何かが頭の奥で聞こえたような気がしたが、それはあまりに小さく、淡く、亮には聞き取ることができない。
 それよりも、ただ、痛い。熱い。恐い。
 亮は唯一自由に出来る目蓋を閉じ、声帯を震わせ、全ての痛みに耐えるしかない。

「亮。落ち着け。俺の声が聞こえるか? ──もう開翼の衝撃は去っている」

 亮の喉が小さくヒュッと鳴り、その大きな瞳が開かれた。
(し……ど……?)
 確かにどこからか声が聞こえたのだ。
 うるさく鳴り響く音楽の流れを裂くように、声は亮に届いていた。
「そうだ。俺の指示が聞こえるか?」
 亮の瞳はますます大きく見開かれ、固定された手が藻掻くように伸ばされようとする。
(し、ど。シド……、シドっ、すけて、ここ、嫌だ、シドっ、どこっ!?)
 亮は精一杯の声でシドを呼んだ。
 きっと、今度こそ本当にシドが助けに来てくれたんだ。
 そう思って羽根を振り、金の触手をもぎ取ろうとする。
 シドの姿を探し、ぼんやりと煙る視界で金色に光る世界を必死に見回す。
 だがそれっきり、シドの声は聞こえなくなった。
 何分待っても、流れる音楽をひたすら聴き続けても、もう、シドは何も話してくれない。
 藻掻いていた亮の手足は次第に動きを止め、再び瞳を閉じてしまう。
 また夢を見ていたんだと、そう思った。
 セブンスにいたときもここに来てからも。夢を見ているときは嬉しいのに、目が覚めると身体の芯が冷えていくのがわかった。
 だから亮はシドの夢を見るのは嫌いだった。
 凍り付いていたアルマが下の方からぽろぽろと、古い本の切れ端のように崩れていくような気がした。

「亮。僕の声、聞こえる?」

 また、声がした。
 今度もはっきりと。音楽の上を滑るように、温かな声は亮の耳に届く。
 今度はゆっくりと亮は目を開けた。
「聞こえたら二度、瞬きをしてみて?」
 何のゲームを始めたんだろう? と亮は少しおかしくなって、言われたとおり、二度、大きく瞬きをしてみた。
 すると嬉しそうな笑い声が亮の耳元に届けられる。
「あはは、そんなにぎゅっとしなくてもわかるよ」
 言われて亮も少し恥ずかしくなって笑う。
「にぃちゃんももう少ししたらそっちへ行けるから、それまで、この電話でしばらくゲームをしようか、亮」
 そうか、修にぃが来てくれるんだ。
 今は、電話中……だっけ。
 ゲームって何だろう?
 亮の全身から強ばっていた力が抜け、あれだけ耳障りだった音楽も、心地よいそよ風のように変わっていく。
「亮には青いお月様が見えるかい?」
 こんな金色ばかりのところに青い月なんてあるのだろうかと亮は辺りを見回してみた。
 するといつの間にか金色の世界の上に、煌々と輝く青い月が浮かんでいるのがわかった。
(見えるよ、修にぃ)
「その月の中に……のような……が、たくさん、……してるのが、わかるか?」
(え? なに?)
「月の中に、白い砂……が、……固まって……えるだろ?」
 修司の声は時折砂嵐の向こう側のラジオのように、聞き取りづらくなる。
 何度も何度も亮は聞き返し、それでやっと修司が言うのが白い砂の塊だということに行き着いた。
 あんなに遠くの月の中をどうやって見ればいいんだろう?
 なかなか難しいゲームみたいだ。
 亮は目を懲らすのをやめ、耳を傾けてみた。
 音楽の流れに沿って青い月に意識を寄せれば、いつの間にか亮はその月の内側へ入り込んでいるようである。
 そこは亮がいた泉の中とは違って、硬くてぴかぴか光った青い大地に覆われた寒そうな場所だった。
 そんな見渡す限りの青い平原に亮のよく知る荒川くらいの幅の白砂で出来た河が、幾本も幾本も流れていた。
 だがその内の一本は流れを止め、すっかり固まってしまっている。
 これのことかなと思い、亮はその河へ手を伸ばしてみる。
 いつの間にか亮の身体は自由になっていたが、今の亮はそれすら気がつかない。
 そっとその白砂に触れた瞬間、重く水気を帯び固まっていたその河は、再びさらさらと気持ちの良い音を立て流れ始めていた。
(わ。やばい。融けちゃった──)
 驚いて手を引っ込めた亮はぐるりと辺りを見回した。
 さっきから修司の声が聞こえない。
 電話が切れてしまったのだろうか。
(修にぃ?)
 呼びかけてみるがやはり誰も応えてはくれない。
 見知らぬ青い月の中で、亮は急に不安になり、走り出した。
(修にぃ、っ、……修にぃ、どこ? オレを一人にしないで……、修にぃ、修にぃっ!!)
 涙が後から後から溢れてくる。
 再び音楽は耳障りなものとなり、亮は一人月の中を走り続けた。




「ちっ、所詮第3次合成音源ではあの距離では使い物にならんな」
 スルトは忌々しげに舌打ちをするとヘッドフォンを取り外し、傍らで指示を待つ所員にこう続けた。
「ボリュームを90%まで上げろ」
「っ、しかしそれではオリジナルの肉体に破損が生じる恐れが──」
「成坂修司の声がケセドまで届かねばエンスフェランの中身は向こうへ飛びっぱなしで戻ってはこんぞ。アルマさえ傷つかねば何でもいい。ゲボの身体など脳の二、三箇所ダメになってもそのうち治る」
 さすがにそんなわけはない──と所員の誰もが思ったが、こうなったスルトに逆らえる者など誰もいない。
 それ以上何も言わず再びヘッドフォンを着けマイクをオンにしたリーダーに、女性所員の一人はボリュームレベルを上げ、視線で完了の合図を送った。
「大丈夫だ、ここにいる。もうゲームはおしまいだ。さっさと戻ってこい」
 スルトがマイクに向かいそう語りかけると、コンパネに仕込まれた合成声音再生装置と個人別多国語翻訳システムを通して生み出された成果が、階下の泉に沈む亮のクラウドリングへ向け送り込まれていた。
 その瞬間、モニターに映る亮の指先がぴくりと動くのがわかった。
 スルトの着けるヘッドフォンから、そしてラボ内のスピーカーから、泣きながら修司の名を呼ぶ亮の声が聞こえ続けている。
「よし、きょうはもういい。おまえらは次回予定している選択的リインカネイトの準備を亮に十分で仕込め。それが終わったらあれを引き上げろ」
「アルマのエントロピーが増大しすぎていて今の状態での引き上げは危険では……」
「私に泣きやませろとでも言うのか。そんな時間はない。おまえ、やっておけ」
 外したヘッドセットをすぐ横の所員に放り投げると、スルトは縛っていた髪をほどき忌々しげに首を振った。
「第3次合成などというクソのような音源ではこの先立ちゆかん。どうするつもりなんだ、ウィスタリア。テーヴェの馬鹿にコントローラーを盗られるなど間抜けにもほどがある! 成坂修司本人を連れてくる予定はどうするんだっ」
『しかしそうは言ってもだねぇ、スルト。まさかただの一般人である成坂修司にこれほど価値があるなど、誰が予想できたんだ? キミだってあんなものは放置でいいと名言していただろう』
「それは貴様がヴェルミリオの第2次合成さえあれば、端まで行けると豪語したせいだろう。なんだ、あれはっ。あんなものオリジナルのアルマを暴走させるトリガーでしかないじゃないか」
『それは僕もちょっと誤算だったわけだけど……。この状況が悪いよね。理想としてはシドさんもこちらへ取り込んで、第2次と言わず第1次──本人そのものが指示を出してくれるくらいになれば、最高に状況は安定すると思うんだ』
「それが可能だとおまえは本気で思うのか、有伶」
『…………どうかな。ビアンコの説明次第じゃない?』
 先ほどから為されているトップ二人の会話はどこかの回線を通じて行われているわけではない。
 この場所は完全なるスタンドアロンであり、外部との回線は一切遮断されている。
 だが二人の会話は確実のこのラボ内で行われており、現在進行形で会談は続いている。
「どちらにせよ、ビアンコが亮へ話を含めるまで──我々の三文芝居は続くということだな」
『焼除治療のこと? まぁ焼除装置すらフェイクであの部屋はただの張りぼてだってドクターやルキくんに気づかれたらちょっとまずいよね。とにかく今シドさんはリアルに戻ってきてるはずだから、情報遮断には一番気をつけなきゃだめだ』
「亮が樹根核へ収容されている本当のワケが治療でも何でもなく──、IICRが兼ねてから進めてきた疑似生樹の脳髄として使われる為だったなど、血の気の多いあの男が知れば乗り込んできて全て凍り付かせるに違いない」
『無理だよ。いくらシドさんでも、ここへ上がるには道が限られすぎてる。アクシス以外方法はないんだから。……亮くんには可哀想だけど、シドさんがこちらの陣営になってくれない限り……二度と彼に会わせることはできない』
「……おまえは成坂亮をもっと可愛がっていたかと思ったが、相変わらずわからない男だ」
『動物である人間とは感性が違うかもね。植物は慈悲深そうに見られがちだけど意外と淡泊なんだ』
「よく言う……。まぁいい。これから私は考察に入る。もうおまえはこちらに帰っていたことにしろ、いいな」
 スルトは白衣のボタンを弛めると、ポケットから取り出した丸眼鏡をその鋭い眼光へするりと装着していた。
 崩した前髪を垂らして振り返ったその姿は──
「ウィスタリア。今夜のアクシス使用予定表に登録は」
「してあるよ。どうせスルトがいつまでも僕の三文芝居に付き合って隠れててくれるとは思ってないからね」
 当たり前のように寄せられた所員の問いかけに、有伶は笑顔で頷いていた。
「長い付き合いだもの、本体の考えそうなことくらいお見通しさ。いいよ。リインカネイトの準備が終わり次第、亮くんを部屋に連れて行く役は僕が引き受ける。君たちも少しゆっくりしてくれ」