■ 5-46 ■



 甘いタオルケットの香りにくるまって、亮はもぞりと身じろぎをした。
 さきほどからちらちらと目蓋の上を白い光が踊っている。
 もう朝が来てしまったのかと眠たい目を擦って身体を起こせば、そこはいつもと変わらぬ東京目黒区にある事務所の四階で、壁に掛けられた時計は朝の7:38を指し示していた。
 亮は名残惜しげにもう一度だけタオルケットへ鼻先を埋めると一呼吸し、十秒後思い切ったように顔を上げてベッドを飛び降りる。
 少しだけ開け放たれた窓の隙間から湿った春の匂いが吹き込んで、白いレースをさやさやとゆらしていた。
 今日も良い天気のようだ。
 緩めの短パンと少し大きめのTシャツだけを羽織った亮は、裸足のままペタペタと足音を鳴らしてキッチンへ向かう。
 いつもシドにスリッパを履けと怒られるのだが、家の中で何かを足に着けるということがどうにも鬱陶しく、この癖はまったく直る気配がない。
「なんで起こしてくれないんだよ! もうちょっとで遅刻するとこだぞっ」
 朝っぱらから同居人への不満を吐き出しつつキッチンを覗くが、そこには無表情のままコーヒーを片手に新聞を捲る見慣れた姿はない。
「シド? ……もう仕事行ったのか?」
 ここにも変わらず眩しい朝の光が差し込んでいるのに、何かが違う気がする。
 匂いがしないのだと亮は気がついた。
 面倒がりながらトースターに突っ込まれたパンの焼ける匂いも、面倒臭がりのくせにわざわざドリップされるコーヒーの匂いも、そして朝から煙たいタバコの匂いも──全部全部どこにもない。
 ただ綺麗な白い世界が亮の安心する形をしてそこにあるだけだ。
「……シド?」
 ふらりと亮は玄関に向かい、次第にその歩調は早まって──靴を履くのもまどろっこしくつんのめりながら駆けだしていた。
 廊下の突き当たりにあるエレベーターの下りボタンを押すが、扉が開くのも待ちきれず、すぐ横にある階段エリアへ飛びこんだ。
 三階は秋人の部屋があり、二階は事務所だ。
 間取りも距離も何も間違いはない。二階踊り場の壁に亮が貼り付けたディンキーキャットのステッカーも、同じように左耳だけ剥がれかけたまま、駆け下りる亮の姿を眺めている。
「秋人さん、シドは!?」
 事務所の扉を壊さんばかりの勢いで開けた亮の前には、誰も居ないデスクとテーブル。デスクの上は秋人がいつもそうしているように綺麗に整頓され、亮を出迎えていた。
「壬沙子さんっ」
 奥の資料室を覗いてみるが、そこにも人影はない。
 誰も、いない。
 ちらりと見た窓の外は春の日差しも眩しいのに、きっとこの向こうにも、誰も。誰一人として亮を待つ者はいないのだ。
 二度と、誰とも会うことはできないのだ。
 胸がきりきりと痛んで、喉の奥が干涸らびていくのを感じる。
 とてつもない寂寥感が亮の内側で膨れあがり、その場にうずくまってしまいそうになる。
 この感覚を亮は知っていた。
 あれはどのくらい前のことだったのか──。
 ある日を境に少しずつ亮の内側に滲み出したそれは次第にその量を増やし、亮の身体がひたひたと浸かって溶けてしまいそうなほどにまで弥増した。
 わけのわからぬ寂しさで苛立ち、混乱し、それを埋めたくて修司に会いに大嫌いな会社にまで足を運んだ。
 寂寥感はあれからずっと亮の中で増え続け、今、溺れそうなほどにまで嵩を増していた。
 ずっと気づかぬ振りをしていたそれに、亮は再びつかまってしまった。
 何とか立っていようと踏ん張っていた足から力が抜け、ついに亮はデスクの前にしゃがみこんだ。
 足先から頭のてっぺんまでたっぷりと覆う寂しさは、絶望とよく似ていた。
 涙も出ない。
 身体が動かせない。
 手足は冷えたまま他人のもののように重くて、膝を抱えたまま亮は自分の手のひらをジッと眺めた。
 指先が滲んで、白い世界に溶け込んで見えた。

「消えるときは物寂しいものらしい」

 誰かの声がした。
 溶けた指先の向こう側に、青いスニーカーと学校指定のズボンを履いた足が見える。
 ゆっくりと視線を上げれば、亮の前には一人の少年が立っていた。
 柔らかそうな黒髪。大きな黒い目。あまり亮の好みではない顔。細い身体には白いシャツを身につけている。
 自分はうずくまっているのに、なぜ目の前のこいつは立っているんだろう──。そんな疑問が寂しさに痺れた亮の脳裏にあぶくのように浮かんだ。
 そこに立つ少年は、亮だった。
 鏡に映した自分がそこへ立って、しゃがんだ自分を見下ろしている。

「時は満ちている。おまえはよくやった。楽になってもいい頃だ」

 立った亮はまるで機械のような無表情でそう言うと、しゃがんだ亮の髪を撫でた。
 人の気配を感じないその手はしかし不思議なほど暖かく、撫でられる度に安らぎを感じる。

「そうだ。何も心配などいらない。もう、いいんだ……」

 溺れそうだった寂しさが嘘のように霧散し、同時に全ての感覚がふわりと透明に変わっていく。
 目を細めて見下ろす亮は、少しだけ人間のように見えた。
 微笑んでいるようにも見えたから。
 だから亮は問いかける。
 最初は滲んで消えかけた声が、もう一度声帯を震わせれば掠れた音色で亮の口から流れ出す。

「ここからどうやったら出られる? オレ、みんなを探しに行かなきゃ」

 そうすると目の前の亮は驚いたように目を見開き、
「とどまるか──」
 と声を詰まらせる。そして亮の問いに答えることはせず、代わりに
「やはりお前を理解できない」
 とだけ呟き背を向けた。
 その背中には小さな白い羽根が揺れる。
 そこで初めて亮は自分の背中に彼と同じ羽根が「ない」ことに気がつく。
 腕を回し自らの背を触ってみれば、さらりとした布の感触があるばかりだ。
 翼の焼除治療は成功したのかもしれない。
 亮は嬉しくなって立ち上がった。淡く消えかけた足に力がしっかり伝わるのを感じる。

「戻ればまた絶望だけがおまえを待つというのに」

 羽根の生えた亮はちらりと振り返り、肩越しに亮を見るとそう言った。
 だが次第にその景色は薄れ、そして──


 木漏れ日の暖かさに目蓋を震わせ目を開けると、ひらひらと顔の周りに瞬きみたいな影が落ちているのがわかった。
 ああ、木の葉のチョウチョだ──。
 また誰かの感情を吸い取ってお腹いっぱいに羽をはためかせているに違いない。
 そう亮が感じるとおり、たくさんの蝶たちは淡く桃色に明滅しながら亮の周りを舞い飛んでいた。
 背中に感じるのはゴツゴツとした木肌の温もりと、そして東京にいる頃には知らなかった新たな器官が蠢く感覚。
 いつの間に慣れたのか、近頃亮は仰向けに眠ることがない。
 今も右肩を木の根元へ寄せて、半ばうずくまるように横たわっていた。
 身体を起こしぐっと背伸びをすれば、背中にくっついた新たな器官も小さな羽音を立てて気持ちよさげにぶわりと広がる。

「おはよ」

 右手からのんびりと声を掛けられ、亮は頭を巡らせてそちらを見た。
 丸眼鏡にモッサリ頭の有伶が、土で汚れたマグカップを口元に寄せながら苦笑混じりにこちらを見下ろしている。
 ここは温室の中央付近──。温室の主とでも言うべき巨木の下に木製のテーブルセットがあり、傍らには電子レンジやポットの乗った棚がぽんと置かれている。温室であるからして水は潤沢にあり、ちょっとしたキッチンセットまで整った半ば有伶の私室と化してしまっている場所だ。
 今も有伶はテーブルに置かれたハムサンドを手元に引き寄せながらご機嫌な調子で、亮が見てもさっぱりわからない数字の並べ立てられた分厚い研究書を広げている。
「ここ。跡ついちゃってるよ」
 ちょんちょんと自らの頬を指し示して見せる彼が笑っているのは、どうやら亮の頬に木肌の跡がくっきりと残ってしまっているかららしい。
 亮は言われた場所を右腕でごしごしと擦ると自らの背中を振り返って、背中の羽をパタパタと動かしてみた。
「どうしたの? 羽根、痛む? 昨日の焼除処理後チェックでは問題なかったはずなんだけど」
「…………ううん。なんでもない」
 どうして自分が見る度にがっかりする翼をわざわざ動かしてみたのか理由がわからず、一度首を傾げるとお尻に着いた木の葉をはらって立ち上がる。
「てかコレ、ほんとに小さくなってるか? もう二十回以上焼いてるのに……やっぱあんま……変わってない気がする」
 抗議をするべく近づくと、亮は羽根を見せつけるように有伶の鼻先へ背中ごと突きつける。
 焼除治療のない本日は暇をもてあましているらしい昼行灯のカラークラウンは、申し訳なさそうに眉毛を下げて白い羽根をそっと撫でた。
「こんなの、早く取りたいよね……?」
 だが有伶の答えはいつものような「視覚的外観上と数値では重なりが異なっているから」だの「樹根核内部における時間経過との相関性が」だの亮にはピンと来ない研究者然としたものではなく、ただ静かに──独り言のように聞こえる。
 亮はなんとなく居心地が悪くなり、
「決まってるじゃん……」
 と唇を尖らせた。
 そんな亮の言葉に「座って。お茶入れようか」と会話にならない会話を続けると有伶は立ち上がり、ポットテーブルに伏せられていたライムグリーンのマグカップを手に取って、新しい茶葉を入れ込んだガラスポットへケトルから湯を注ぐ。
 緑の中にふうわりと湯気が上がり甘い香りが立ち上る。
「いつものお茶でいいよね? それとも僕の新レシピに挑戦する?」
「っ、い、いつものでいい! ミントとかオレンジとか、オレでも名前知ってるヤツ!」
 有伶の横の丸いプラスチック製チェアに腰を下ろした亮は、慌てたように言い募る。
「はいはい」
 亮の勢いに笑い出した有伶から希望通りのオレンジミントティーを手渡され、亮は両手でそれを包み込みふうっと一つ息を吹き入れた。
 有伶は丸い眼鏡の奥で、視線を和らげる。
 治療のない今日の亮の出で立ちは、少し大きめのロゴ入り白パーカーにディッキーズの黄色いハーフパンツ、いつもの青いスニーカーを合わせていて、街を歩く少年そのままといった風情だ。少し余った袖越しにカップを掴むその様子は見る者を穏やかな気持ちにさせる。
「ルキ、そろそろハライタ治ったかな」
 そう言って温室の出入り口方向へ目を向けた亮は心配そうに一つ溜息をついた。
 昼食時ルキは亮たちのダイニングに姿を見せなかった。
 レオンに話を聞いたところによると急な腹痛で部屋で休んでいるとのことで、朝食のときは変わらず元気そうだったのに、どうしたんだろうと首をひねった。だが少し考えふとある可能性に行き当たる。
 この後すぐハルフレズとの通話予約が入っていると、その時ルキが嬉しそうに話していたことを思い出したのだ。
 もしかしたらまた電話でケンカでもしたのかもしれない。
 きっとそうだ──と亮は一人納得した。
 ルキがハルフレズのことが大好きだと亮は嫌と言うほど知らされていて、電話の度にはしゃいだり落ち込んだり忙しいのは今に始まったことではない。
 最近はリアルへ戻る戻らないの攻防が続いているようでルキが浮かない顔をしていることも多かった。
 亮としては一度ハルフレズに会いに戻る方がいいんじゃないかと常々言っているのだが、ルキ曰く、一度リアルへ戻るとこちらへ帰ってくることが難しくなるとのことで、ルキと会えなくなるのは嫌だなぁと我ながらワガママだと思える気持ちを持て余してもいる。
 少し前はルキを手に掛けそうになったあの時の夢を見ることが多く顔を合わせるのが苦しかったりもしたのだが、亮がルキを避けていた時ですら彼はいつも通りに亮に接してくれ、そのおかげなのか近頃はあの瞬間を夢見ることもなくなった。
 もちろん大勢を手に掛けてしまったらしい事件のことは今でも亮の胸に重くのし掛かっている。だが以前からぼんやりとした記憶しかなかった事件当日のことが、なぜだか最近はさらに靄がかかり、よく思い出せなくなっていて、自分を責め立てていた感情が鈍くなってきているのを漠然と感じていた。
 そうなると亮の心は得体の知れない寂しさと相まって、親しい人のそばにいたいという単純なものに置き換わってしまう。
「ルキくん。お腹痛いんだっけ。う〜ん、ドクターレオンのお薬次第じゃない?」
「ルキにはレオン先生の薬より、フレズさんの声の方が効くと思う」
「あはは、言えてる。前から亮くんが言ってるように、一度リアルへ戻った方がいいかもね」
 有伶の言葉に亮は黙り込み、視線を手元に落とすとぽつりと呟いた。
「ルキが帰るんじゃなくて、フレズさんが来ればいいんだ」
「……それは名案。僕としてもルキくんが居なくなるのは困っちゃうもん。まだもう少し……、亮くんが落ち着くまではね?」
 自分の言葉を飲み込むようにカップに口を寄せた亮の頭を有伶がそっと撫でる。
 その時──。
 けたたましいサイレンが穏やかな温室の空気を切り裂くように鳴り響いた。
 ビクリと身を竦めた亮を安心させるように有伶は抱き寄せると、
「大丈夫、また敵性生物がボーダーを超えて来たんだと思う。様子を見てくるから亮くんはここに居て?」
 いつもと変わらぬ眠そうな声音でそう言う。
 だけど下から見上げた有伶の顔は少しだけ厳しく、別の誰かのように見える。
「オレも戦おうか? シドと敵性生物との戦闘訓練いっぱいしたし、少しは役に立つよ」
「ありがと、気持ちだけもらっとく。絶対動かないで。この木の下に居てね。すぐに戻るから」
 有伶は困ったような笑顔で亮の言葉を聞き流すと、小走りに温室を出て行った。
 





 朝一番の通話でハルフレズと顔を合わせたルキは、通信室へ入る前と出てきた後の気持ちの落差にしゃがみ込んでしまいそうだった。
 今朝は亮の笑顔も見られたし、一週間ぶりのハルフレズとの通信は「リアルへ戻る戻らない」のやり取りも含めやっぱり楽しみ以外の何者でもなかったし、今日は良い一日になると根拠のない確信を持って通信室のドアをくぐったわけだが、今は自分の勘の悪さに沈み込むばかりだ。

『成坂修司が死亡した』

 いつも以上に難しい顔をしたハルフレズが告げた最初の情報がこれだった。
 彼がなにを言っているのか理解が追いつかず、間抜けに首を傾げるしかできなかったルキに、諜報局局長を担っている彼は噛んで含めるように丁寧に情報を伝える。
 ヴァーテクスの発表に依ればセラ訓練中にテロへ巻き込まれ、遺体は当人と判別できないほどに損壊していた為、早々に荼毘に付されたとのことだった。
 あまりにショッキングな情報に耳鳴りすら起こしながら「ちょっと待って」としか言えなくなったルキに対し、少し逡巡を見せたハルフレズは、追加の情報を伝えてくる。

『落ち着け。これはあくまでもヴァーテクス発表だ。……真実は別にあるという情報もないではない』

 そこでようやくルキは少しだけ呼吸が出来、改めて恋人の顔を見る。
 その表情は苦り切ったもので、本来ならこの情報は外部に漏らすべきでないものだとそう告げているようだった。

『修司は死亡したのではなく拉致された──という情報がある。アルマだけでなくIICR入獄ブースにあった肉体ごと……な』

 確かにそれは眉唾としか思えない不可解なネタだった。セラ内部で襲撃にあったというのに、IICR本部にある肉体まで同時に拉致されるなどどう考えても出来るわけがない。
 しかしハルフレズがこの情報をルキに伝えてきたからには、何らかの確信があってのことだろうとも思う。
 諜報局の極秘データを外部に漏らすことは出来ないが、そのラインギリギリにある確かな情報を、彼はルキに伝えてくれているのだろう。
 この情報をどうする──という話もなく、本日の通信は早々に切り上げられた。
 ルキが全く会話の出来る状態でないとハルフレズが判断したからなのだろうが、それは当たっている。
 自室に戻り力なくベッドに座り込んだのが午前9時8分。
 どうすればいいのか、この情報を亮にどう伝えればいいのか、有伶やレオンはこのことを知っているのか、とにかくなにもわからない状況で頭を抱えた。
 どのくらいその体勢でうずくまっていたのか、ノックの音で顔を上げ、掠れた声で返事をすれば入室してきたのは昼食の声を掛けに来たレオンであった。
 そこで初めてこの重すぎる情報を共有する相手ができた。
 レオンもこの話を聞くと絶句したまま固まってしまったが、とにかくこのことは亮にはまだ話すべきではないという結論に達し、レオンはそのまま亮の元へ──ルキは今後の方策を考えるべく一人にしてもらうことにした。
 医師として人の寂静や死に触れることの多いレオンはこの件を知ってもなお比較的冷静で、逆にまだまだ若手で経験の少ないルキは亮に対し冷静を保つ自信がなかったからだ。
 レオンが出て行き、再びベッドの上に座ったルキはすっかり身動きが取れなくなっていた。
 亮と修司の仲むつまじい姿が思い出され、息が出来ないほど胸が痛む。
 あの二人が一体なにをしたというのだ。こんな風に引き裂かれていい兄弟じゃない──。
 こんな隔絶された場所で一人ぼっちで闘病している少年に、これ以上世界はなにを押しつけようというのか。
 そう思えば思うほど涙がこぼれて止めようがない。

「修司さんが、死亡、拉致?」

 なんでどうして──そればかりが頭を巡り時間ばかりが過ぎていく。
 だがその無意味な堂々巡りが何巡かした頃──ふと一つの結論に行き着くことになる。

「…………死亡なら僕にはもうなにも出来ないけど、もし拉致なのだとしたら」

 自分にも何か出来ることがあるんじゃないのか。
 一つの方向を見つけ出し、ルキが顔を上げたとき──

「なるほど。鬼子か」

 すぐ目の前でそう声がした。
 聞き覚えはないが、深く艶のある男の声だ。
 瞬間ルキは瞠目した。
 眼前に立つのは、長い黒髪を後ろで一つにまとめ上げ垂らした黒衣の見知らぬ男──。
 歳の頃は三十代半ばくらいだろうか。黒の長衣と左腰に長刀を差した出で立ちはヴェルミリオを彷彿とさせる。
 だが人によっては恐れを抱くイザ王の容貌に対し、眼前の男は何者をも恍惚とさせる奇跡のような絶佳の顔立ちをしていた。
 神自らが創り出した最初の人間──アダム・カドモンはこんな姿をしていたのではないのか。そう思わせるほど浮世離れした顔貌に瞬きすらできなくなる。
 そして異彩を放つのはその見目だけではない。身長こそハルフレズと同じくらいであり決して大柄ではないが──その存在感が桁外れなのだ。
 その場に居るだけで周囲の空気は峻烈さを増し、びりびりと帯電したようにルキを圧してくる。
「っ──、誰、……どうしてここに……?」
 要領を得ない問いが口から溢れ出た。
 ドアの開閉音はおろか、足音一つしなかった。
 というより、まるで最初からそこに居たかのように、忽然と彼は現れたのだ。

「あの亀裂を作ったのはおまえだな。おかげでティファレトへ最短で来ることができた。礼を言う」

 男はそう言うと涼しげな目元をわずかに細めた。
 微笑んだのかもしれない。
 だがあまりに非人間的で、それは笑顔には見えなかった。
 ルキは指先一つ動かすことも出来ず、魅入られたようにその蒼く輝く月光のような男を見上げ続けた。

 ティファレト──というのが樹根核を表すもう一つの名称だということは知識として理解はしていた。
 現実世界、セラ、樹根核──そして生物が死後巡る数多の世界。全てが幾つもの道によってつなげられ、大きな樹木に似た形状で存在していることは、ソムニアとして覚醒し、最初に習う教科書にも書かれていることだ。その樹木の内部をアルマが流れ行き、つなげ、我々の住む世界を一つの大きな枠組みとして成立させている。
 ソムニア達が錬金術師と呼ばれた頃から連綿と続く研究により明らかにされた世界の理は、生命の樹という名の簡単な地図としてまとめ上げられていて、それと知られることもなく魔術書の賑やかしとして一般の人々の目にも入っている。
 だが男の言う「最短でティファレトへ来ることができた」とはどういう意味なのか。
 まさかゲートすら通らずに樹根核のこの場所へたった今、現れたとでもいうのだろうか。
 そんなことが出来る人間などいるはずがない。
 世界の枠組みは絶対で、例外を許さないというのは摂理である。
 そしてルキが作った亀裂とは何のことか──。
「僕はそんなもの、作ってない……」
 戸惑いながらも一つ思い出されたのは、先日エレフソン達の手から亮を取り戻そうとして力を暴走させてしまったあの事件だ。
 確かにあの時建物を若干損壊させ大目玉を食らいはしたが、それが男の言う「亀裂」と同義とはとても思えなかった。
 だが男はルキの脳内をそのまま聞いてでもいるかのようにうなずくと、ルキの疑問をすぐさま吹き消していた。

「その折りは息子が世話になった。それも礼を言っておく」

 やはり、あの時の暴走がこの男をここへ呼び寄せたと言っているらしい。
 そして息子──とは誰のことを指すのか。
 情報の渋滞にルキはそれきり呻くことすら出来ず、ひたすら瞬きを繰り返す。
 男はそんなルキを見下ろすと、少し身をかがめ、何かを確かめるように顔を覗き込む。
 ルキは己のアルマが全身の毛穴から吸い出されてしまうのではないかという錯覚に捕らわれ、恍惚と身を震わせた。

「やはりそうか。……時があまりない。鬼子よ、一つだけ忠告しておく。おまえはスペアとしてはあまりに不完全だ」

 男が何を話しているのか全く理解できない。
 深く甘い声音は上滑りし、ルキの耳朶を心地よく叩くだけだ。

「今すぐにここを去るべきだ。お前自身ビリンバウに捕らわれる前に──。息子は私と共に来ることになるのだから」

 そう言い置くと男はふわりと踵を返した。
 歩み去る後ろ姿が陽炎のように揺らめき、不連続に移動していく。
 現実感のない映像をルキの網膜に焼き付けたまま、男は室内から忽然と姿を消していた。
 やはり扉が開閉された形跡はない。
 喉の奥がからからに干上がり、膝の上で握りしめた両掌は水にでも浸したかのように濡れそぼっている。
 そうして身動きの取れぬまま数分が経過し──
 館内にエマージェンシーを伝えるサイレンがけたたましく鳴り始めた時、危急の音色に呪縛を解かれ、ルキはようやく立ち上がった。
 他人のもののように言うことを聞かない足を拳で叩いて叱咤し、よろよろと走り出す。
 一刻も早く亮の元へ行かねばならないと本能で感じていた。
 亮ともう二度と会えないのではないかという薄ら寒い予感に、ルキは部屋を飛び出した。