■ 5-47 ■



 温室を取り囲む超硬化ガラスを痺れさせ、サイレンは鳴り続ける。
 常ならば空調による清かな葉擦れの音と放し飼いにされた小鳥の囀りだけがここで聞こえる全てであり、この異常事態に温室全体が怯え縮こまってでもいるように亮には思えた。
 落ち着きなくふわふわと飛び回っていた木の葉の蝶たちも、今は下生えの葉裏にでも身を潜めてでもいるのか、姿が全く見えない。
 亮は一息。肺いっぱいに空気を吸い込むと、大木を背にぐっと両足に力を込め立つ。
 右手の親指に嵌められた太めのシルバーリング表面に触れ蓋を開ければ、内側から小さな萌葱色のペレットが現れる。それを軽く指先で擦るとあっという間に2メートル弱はあろうかというお馴染みの棍に変化していた。
 樹根核は現実の肉体とアルマが同位で存在する空間であり、セラでの亮の相棒である萌葱色の棍も使用可能なところは亮にとって心強いことだ。
 久々に手にしたその心地よい重みを握り込み、くるりと一回転させ構えてみる。
 背中の羽根が邪魔になるのではと懸念したが、思いの外気にならない。
 よし、いける──と、身構えた亮は唇を引き絞った。
「来るなら来てみろ。オレが捕まえてやる!」
 不思議な予感が亮にはあった。
 有伶が「ここに居ろ」と言ったからには、この場所は観測所に於いて最も安全な場所のはずなのだ。何者もここへ踏み込んでくることはできない。
 にもかかわらず、亮はとても大きな何かが一直線にこちらを目指してきているような、そんな不確かな確信のようなものを感じている。
 敵性生物がどんな相手なのかは知る由もないが、樹根核に暮らす生き物なのだからきっと常識では測れないような力を持っているに違いない。防衛ラインを突破したらしいこの状況なら、突然空間をすっ飛ばしてここに現れることだってあるかもしれない──と、自分なりに状況を考察してみる。
 とにかく、ソイツが姿を現したその時は、吐くほどシドにしごかれた訓練が物を言うときだ。
 臨戦態勢で神経をとがらせ、辺りの気配を探る。
 そよぐ葉擦れの音をかき消し、鳴り続けるサイレン。真っ赤に燃えるその音に身をさらしながら、亮は呼吸を整える。
 ふと、サイレンの音が途切れた。
 ちりりと左頬に何かを感じ取ったと思った刹那、亮の身体は流れるように動いていた。
 振り返りざま構えた棍を円の動きで叩き付ける。
 渾身の力を込めたそれはだが、まるで真綿でくるまれでもしたかのように柔らかに動きを止めていた。
 亮の黒い瞳に一人の人物が映り込んでいた。
 黒い装束、長い黒髪を揺らす彼の瞳は、片方だけ澄み切った水の色をしていて、同じく亮の姿を映し込んでいる。
 肩の上に持ち上げられた左手が、御神輿でも担ぐみたいなかっこうで萌葱色の棍を捕まえていた。

「朱天の太刀筋によく似ている」

 深く甘い声。
 知らないはずのその声は、いつかどこかで聞いたことのある、安らぎの色をしていた。
 僅かに目を細めた彼が首を傾げて亮の顔を覗き込むと、さらりと漆黒の髪が揺れる。
 亮は呼吸するのも忘れてその美しい顔を見上げた。
 脳内を掠めたのは、灼熱を吐く竜と月光に散る雪白の花びら──。
 この光景はいつのどこなのか。
 どくりと心臓が脈打ち、得体の知れない恐怖に駆られ亮は棍を手元へ引き寄せようとする。
 動かないのではと予想された萌葱色の棍は何の抵抗もなく引かれ、そして同時に黒衣の剣士が亮の視界いっぱいに身を寄せる。寸時の焦りが流れに逆らう構えを招き、あっと思ったときには亮の手から頼みの武器は離れて、手品のように男の手に渡ってしまう。
 それでも反射的に亮は背後へ大きく跳んでいた。全身のバネを使い、かつ無意識のうちに小さな翼が羽ばたいて、亮の身体を巨木の枝上に舞い上げる。
 不思議なことに巨木の枝は亮を守るかのようにざわわと揺れ枝葉を伸ばし、男の視界から小さな身を隠していく。

 ──なんだよあれ。
 ──誰。
 ──敵性生物?
 ──違う。
 ──オレは、あの人を知っている。
 ──思い出しそう。思い出したくない。

 一番大きく張った枝に降り立った亮はすがるように傍らの太い幹に身体を寄せた。
 考えがまとまらない。
 混乱が混乱を呼び、脳内に取り留めのない言葉が浮かんでは消える。
 
「よく修練を積んでいるようだ。──武道が好きなのだな、亮は」

 サイレンも鳥の声も空調の風音さえも聞こえぬ生ぬるい温室で、玲瓏と冴え渡る男の声だけが亮の耳に届く。
 亮を守ろうと覆い隠していた枝達はメキメキと生木の裂ける悲鳴を上げ、その形を無理矢理ねじ曲げられていく。いつしか、まるで魚眼レンズを覗いた世界のように、折り重なる枝は円を描いて空洞を作り出していた。
 枝葉で出来た真円のトンネルを悠然と一人の男が進んでくる。そこは地上十数メートルという空中のはずなのだが、男は跳躍した様子もなにかのソムニア能力を使って浮遊している様子もない。
 確乎とした大地の上を歩むような確かさで、男は大枝に身を寄せる亮の前へ立っていた。

「っ、誰、だよ、何しに、来たんだっ」

 震える声で亮はなんとかそう叫んだ。
 声が出ないかと思ったが、僅かに掠れただけで、亮の声は生ぬるい風に乗る。
 男は身をかがめ亮の視線に己の視線を絡めると、そっと腕を伸ばし丸い頬を撫でた。
 すらりとのびた指先を持つ大きな手は、とても温かかった。

「覚えているはずだ、亮。あの日私は言っただろう。近く、迎えに行く──と」

 ぎくんと亮の背筋が凍り付く。
 思い出す。
 思い出されてしまう。
 止めようもない奔流となり、情報が魂の内側から迸る。
 安心できる声。
 安心できる体温。
 自分を守る絶対的な力。
 あの日。亮がシドからの戒めを破り、無断で依頼中のセラへ潜り込んだ日。
 異神へこの世の外へ連れ去られてしまったあの日。
 このたおやかで逞しい腕に引かれ、亮はこちらへ連れ戻された。
 なぜ自分は今の今まであの強烈すぎる光景を忘れていたのだろう。
 完璧なまでにごっそりと記憶から欠落していた景色が今、男と対峙し、亮の胸にありありと蘇る。
 あたかも連続しているかの如く巧妙に切り貼りされていた記憶のフィルムが、一本の真実となって亮の中で再生されていた。
 月夜に舞う雪のような花弁──。夢よりも綺麗な世界で、彼は亮に名乗ったのだ。

「……父、さん……?」

 不安げに掠れたその声に、男は──秀綱と呼ばれるその男は瞬きを返す。うなずいたのかもしれなかった。
 彼はあの時。竜を屠ったその時に、亮へ「自分はおまえの父である」と告げていた。
 成坂亮という肉体は、彼と母・諒子の間に生まれた子供のものであると。
 そしてそのアルマは──

「亮──。私が塵より造り上げた、囲いとなる疑似アルマよ。役目を終えたおまえがなぜ未だここに在るのか。あの折、口伝えに施した『瓦解の契』で、おまえは苦痛なく塵に帰するはずだったのに」

 疑似アルマ──。
 アルマではない、アルマに似た何か。
 亮のアルマは──。成坂亮という人間のアルマは塵で創ったニセモノなのだと、あの日父は言った。
 そしてそのニセモノのアルマすら、もう用済みなのだと、そう言った。
 たちの悪い冗談にしか聞こえない彼の言葉がしかし、違えようもない真実であると──聞いた瞬間亮は理解した。
 だから、塵は塵に戻してやろうと彼が口づけをしてくれた時、亮は「ありがとう」と礼を述べた。
 これで虚無へ帰れるのだと静かな安寧が亮を包み込み、哀しいようなほっとしたような──えもいわれぬ穏やかな感情に支配されたことを覚えている。
 亮の内側に育った熱く美しい塊はもう十二分に成長し、今にも殻を破って生まれ出でようとしている。
 程なく自分は消えるのだ。
 亮は所詮、すぐに溶けてすぐに燃え尽きる、砂糖で出来た彼の「卵の殻」に過ぎないのだから。
 リアルへ引き戻される課程で、安らかな気持ちであるにも関わらず、なぜか涙がこぼれた。
 泣いて、泣いて、泣く亮へ、亮を消すためのトリガーだった口づけは、麻酔となり真実の邂逅を記憶の底へ沈み込ませる。
 亮がつらいと感じる記憶から先に覆い隠していき――。あの日、リアルで目が覚めた亮はその時のことを何一つ覚えていなかった。
 だが今、再びの邂逅により、沈んでいた言葉は深海の小さなあぶくのようになって浮上し、表層近くで巨大な気泡となって亮の胸を抉るように弾けていた。

「ちが、う。オレ、は、ちゃんと、人間で、オレ、は……、ソムニア、だから、今も、この先も、ずっと居るんだ。オレ、は、消えたりしない……」

 瓦解の契で与えられた麻酔効果はもはや完全に消失していた。
 自分が作りものであること。自分が用無しであること。自分がもうすぐ消えること。
 その事実に恐怖が浮かび上がる。
 首を振り後ずさろうとするが、高い枝上にいる彼に背後の足場はない。
 だが、跳躍して逃げることももはやできない。
 足がすくんですっかり身動きが取れなくなっていた。

「……なるほど、何者かにコーティングを施されたか。契で崩れかけたアルマが人工的に補強されている。IICRの技術もここ数年で進歩を遂げたと言うことだな」

 身動き一つ取れなくなった亮の頬を撫でながら、秀綱は表情もないまま独り語る。
 全てを見通す水色の瞳は、亮を見ているようで見ていない。亮という殻を通り過ぎ、その奥の奥──亮の中心に息づく何かを見つめているかのようだ。

「嫌だ。消さない、で。父さん。オレ、まだ、生きて、たい」

 ほろほろと溢れる亮の涙を拭い、秀綱は静かに首を横に振った。

「もう必要ないんだ、亮。内側のミトラは既に十分成長している。ソムニアとして覚醒してしまったおまえの疑似アルマは、生きるなどと錯覚しているが──、おまえは最初から生きてなどいない。悲しむことも苦しむこともない」

 亮はますますかぶりを振り、涙を零す。

「いささか強く肉体へ根付いてしまったのだな。これほどおまえを苦しめるつもりではなかったが、可哀想なことをした。……しかし、崩れたアルマをつなぎ止める為に梁を入れるなど、ビリンバウも無体な。──亮。まがい物なれど、おまえは私の子だ。せめて塵に戻るその時まで、好きな場所で眠っていなさい」

 水色と黒曜の瞳に自分の姿が映し出されているのが見えた。
 ぐしゃぐしゃに泣き濡れた顔で、瞳の奥の亮は恐怖を叫ぼうと口を開く。
 いやだ。父さん。やめて──。
 言いかけた亮の視界が、ショートしたテレビのようにバツンと音を立て暗転する。
 そうして亮は再び東京の事務所──シドの部屋のベッドで一人、うずくまっていた。
 柔らかなタオルケットを掻き抱き、甘い香りを吸い込んでうとうととまどろむ。
 窓から湿った春風が吹き込むと、レースのカーテンは僅かに波打って揺れた。
 今日はもう起きなくてもいいのだ。
 シドが帰るまでこうして待っていよう。
 玄関が静かに閉まる音がし、誰かが出て行ったのがわかる。
 大きな羽音が聞こえた気がしたが、それが誰なのか、もはや亮に興味はなかった。




 ルキが現場に到着したときには既に、温室周辺はものものしい厳戒態勢が敷かれていた。
 ライフルほどの大きさの見たことのない重火器を手にした研究員達が十数名、中庭に配置されぐるりと温室を取り囲んでいる。
 出入り口付近には有伶が自ら立ち、目を閉じたまま微動だにせず、両の拳を握りしめていた。
「1番、13番、15番、キーレントファイト照射。封鎖を三重に。偶数番は一斉にラインを強化。残り奇数番は中央へ照射。中の化け物を絶対に出すな!」
 胸元についたマイクに指示を飛ばせば、周囲の研究員達が一斉に重火器を操作し、見事な連携を見せる。
 彼らの手にある武器にしか見えないそれから、淡いグリーンの可視光が放たれ、温室を取り囲むように網の目のような幾何学模様を形成していく。
 立体的に展開されるその図形に上空を仰ぐと、温室屋上にも数名の人間が上り布陣を組んでいるのがわかった。
 目を閉じたままの有伶は、まるで中の様子が見えてでもいるかのように指示を出し、普段の昼行灯ぶりが嘘のように厳しい声音を張っている。
 そうしていると彼が別の誰かのようにも見え、ルキは一瞬声を掛けるのをためらう。
 だが、状況はルキに戸惑いを許さない。
「ウィスタリア! 何が起きてるんですか!? 僕に何かできることは──」
「ルキくん!? 来たか、ありがたい。キミの水で亀裂を塞いで欲しい。キミにしかできないことだ」
 亀裂──と聞いて、ルキはぞくりと背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
 あの男が言っていた言葉とそっくり重なる。
 自分はそんなものを作った記憶はなかったが、ウィスタリアが言うのであればそれは確実に存在するのであろう。
「亀裂……って、それはどこに」
「目を懲らして周囲を見て。目で見える景色じゃない。鬼子としてのキミのアルマに映る空気の流れを読んでくれ。どちらへ流れている」
 ウィスタリアの言うことは難解で、目で見える景色以外にどう見ればいいのかすらわからなかったが、今はその方法や真意を問いただしている時間はない。温室の内側で、何かが急速に膨れあがってくる感覚がルキの神経を焼いていた。

 まるで小さな恒星がそこに誕生したかのような、圧倒的な存在感。

 そこかしこで呻きが上がり、研究員達の手にした火器が一斉に溶け落ち始める。
 鉄の塊に見えたそれらは、瞬間的に真っ赤な泥濘に変わり、彼らの手や足を焼いて地面やガラスに穴を穿っていく。
 あっという間に彼らの組んだ幾何学的なネットは崩壊し、研究員達は為す術なく無防備な状態で悲鳴を上げ転げ回るほかなかった。
 鬼子の目で見る──など、やり方も何もわからなかったが、温室の中央から吹き出す温度のない熱に、否が応でもルキの感覚は刺激される。
 目に見える景色はグレーに色褪せ、代わりに中心部から吹き出す力の奔流が純白の輝きとなって彼のアルマを焼いていた。
 風は渦を巻き上空へ上っていたが、逆に引きずり込まれるような黒がルキの背後、地面の下にぱっくりと口を開けているのがわかる。
 反射的に振り返ると、ルキは両手を掲げて中空に水の塊を滾らせ、距離も大きさも陽炎のように揺らいで判然とさせない亀裂へ向かい、迷うことなく投げ込んでいた。
 一見小さな裂け目に見えたそこは、何ガロン、否、何トン注いでも、ルキの水を吸い込んでいく。
 それでも無言でルキは注ぎ続けた。
「第3班、第4班、ミカエル融液放水、ウィルドと共にミトラを足止めしろ! 第5班、もう一度キーレントファイト照射し、中の植物へ彼らを融合させるんだ」
 ウィスタリアも研究員達も最善の努力をつくしている──。ルキはそう感じ、限界でふらつきそうになる身体を今一度叱咤し、再び水塊を創り出して頭上へ掲げた。
 
 その時である。

 突然、首に強烈な痛みを感じ、次の瞬間には彼の身体は二十メートル上空で灰色の空の下、無様に吊り下げられることとなっていた。
「ぎぅ……」
 悲鳴にもならない呻きが、空気の漏れでルキの口からこぼれ落ちる。
 顎の下、頸動脈辺りに細くするどい何かが食い込み、呼吸だけでなく脳への血流をも阻害する。
 何が起きたのかわからずルキの足はバタバタともがき、灰色の空を見上げるしかなかった視線を僅かに下へ降ろした。
 熱風を伴う羽音は、いつか聞いたことのある音色だ。
 暗転しようとする彼の目に映ったのは、あの日と同じ、どこまでも感情のない天使の姿だった。
 ルキは亮の左手に首の骨を締め上げられ、瞬き一つする間に、中空に吊り下げられていたのだ。
 悪夢のクアトロ1事件と異なるのは、彼の来ている服が少し大きめのロゴ入り白パーカーにディッキーズの黄色いハーフパンツであるというただ一点だけであり、ガラスのような黒い瞳も、陶器のような白い指先も、あどけなさの残る愛らしい顔立ちも、何もかも変わることがない。
「と……ぉる、く……」
 巨大な翼をはためかせ上空へ舞う亮は左腕を突き出したまま、ルキの首をへし折らんばかりに指先を握り込んでいく。
 あの日の再現としか言い様がなかった。
 己の喉に食い込む小さな手を何とか引きはがそうと、ルキは自らの皮膚を掻き切るように間へ指をこじ入れる。
 だがそんな真似をしてみても、亮の手は微動だにせず、ぎりぎりと彼の喉を締め上げた。
 このまま頸椎ごと潰してしまおうとしているかのようだった。

「せっかく出口を作ってくれたおまえが、なぜ今度は塞ぐんだ?」

 亮の声で、見知らぬ天使がそう問うた。
 まるで今日の天気を聞くような気安い様子で放たれた言葉はしかし、現在の様子に全くそぐわないものだ。
「とぉ、……る、くん……、め、さまし、て」
 必死に絞り出した声は囁きに近く、辺りを揺るがすサイレンの音にかき消され、どこにも届いていない。
 それでもルキは何度も亮の名を呼んだ。
 ルキの喉は亮の指先によって穿たれた小穴と、己の指先で掻ききった傷により、真っ赤に光り濡れそぼっていく。
 何度呼んでも亮に届いている気がしない。
 目の前にいるのは亮の姿形をした、別の何かだ。
「ぃゃ、だ、ょ、……、こん、な、ぉゎり、……」
 諦めに似た言葉がルキの唇を濡らした。
 ここにはあの時亮を止めてくれた、イザ・ヴェルミリオがいない。
 亮の心の支えである修司もいなくなってしまった。
 退行した亮が唯一甘えられたカウナーツ・ジオットもいない。
 こんな風に正気を失った亮の意識を呼び戻せる人間は、ここには一人もいない。
 自分は──。ルキ自身は亮の心を揺り動かせるほどの人間ではないと知っている。
 それでも、こんな終わり方はダメだと思う。
 もし亮がこの先正気に戻ることがあったとして、もし今ルキが死んでいたとしたら、きっと亮は今度こそ壊れてしまうのではないかと思うのだ。
 自分が死んで、亮が苦しむのはダメだと、そう思う。
 そうだ――。
 ノーヴィス……という名だったろうか。
 セブンスで亮を守って死んだ執事はきっとこんな気持ちだったんだと、自分の感覚ででもあったかのように、無念と後悔に涙がこぼれた。
 だが、どんなに泣いても。
 どんなにあがいても。
 それでも多分自分はここで死ぬ。
 16名全て寂静したというクアトロ1事件の報告から、恐らくルキも同じように、世界の雫となり消え去る運命なのだろう。
 転生など叶わない。
 意識などという高等なものだけでなく、アルマの粒子のツブのツブまで砕け散り、寂静したルキはこの世の素材に成り下がるのだ。
 だけれど。
 せめて少しでもこの子の苦にならないように。
 これ以上、この子に過酷な運命を背負わせないように。
 平気な振りをして、いこうと、思った。
 ハルフレズの顔が、浮かんで消える。
 怒った顔かと思ったが、最後に浮かんだのはとても珍しい彼の微笑んだ顔だった。

「とぉる、くん、……ぃぃ、ょ。……だいじょ、ぶ。……」

 己の指先が自分の喉肉を抉り、亮の指を何とか浮かせようと藻掻く。
 そうでもしないと微かな吐息すら漏らせなかった。

「ぼく、は、かなら、ず、てんせぃ、する、から……」

 生暖かく濡らす血が指先を滑らせ、間に挟んでいたルキの右手がだらりと落ちた。
 それでも彼は言葉をつなぐ。

「まって、て。……、また、ぃっぱい、……好きな人、の、こと……はなそ?」

 そしてついに左の手もぱたりと力なく落ちる。
 藻掻いていた足が、一度、びくんと痙攣した。
 ルキの大きな黒い瞳から、光が消えていく。
 亮はその様を不思議そうに眺め、小さく首を傾げた後、
「なんで?」
 と言った。
 この呟きを聞けたものがいれば、あまりにも無情な言葉に耳を塞ぎたくなっただろう。
 だがそれはルキの最後の言葉に応えたものではなく──、亮の形をした少年の唇はこう続けた。

「なんで目を覚ます?」

 そう呟いた亮は、突然身体を反らせ、音にならない悲鳴をその口からほとばしらせていた。
 温室のガラスが一斉に共鳴し、次々と爆ぜ、粉じんとなり風に散る。
 何が起きたのかわからず、事態の急変に下でどうにか状況を収集しようと動いていた有伶達も思わず動きを止めた。
 ガラスを引っ掻いたような人ならざる声が途絶えた刹那――。
 背骨すら折れそうに反り返っていた亮の身体ががくりと前屈みになり――。そして、突き出されていた右手の先が開かれる。
 ルキの喉は亮の凶刃から解放され、バランスを崩してゆるりと落下を始める。
 その、小さな刺青だらけの身体を、全身で亮が抱きしめていた。
 ゼンマイ仕掛けのおもちゃが跳ね上がるように、亮はガクガクと全身を震わせ、それでも必死にルキの身体を抱きしめていた。

「ルキっ、ルキ、ルキ!」

 力なく垂れた彼の両手が、その声に呼び起こされたかのように、わずかにぴくりと反応する。

「ルキ、ルキっ、ごめ、……ごめ、なさいっ、ルキっ!」

 すがるように亮はルキの身体を抱きしめ――。
 そのあまりに入った力のせいか、刺青だらけの青年は、次の瞬間勢いよくゴホゴホと咳き込んでいた。
 下方からウィスタリアの慌てたような声が聞こえ、亮はルキの身体を抱えたまま地上へすぐさま舞い降りる。
 サイレンは鳴り続け、駆けつけたレオンにより治療が開始されていた。
 他の研究員達も続々と医療チームにより医務室へ運び出されていく。
「ルキっ、オレ、また、オレ、っ!」
 縋り付く亮を有伶が引き離し、レオンは安心するように亮へ頷いて見せた。
「大丈夫、脈も振れてるし、呼吸も出来てる。大事はないはずだよ」
 その言葉にようやく亮は座り込んでいた。
 全身に入っていた力が恐いくらいに抜けていくのがわかる。
 と――。
 その声は唐突に、亮の耳に飛び込んでいた。

『なぜ自ら目覚める。……また苦を選ぶというのか、亮。…………それならば好きにするといい。おまえ自身、意志を持って私の元へ来るまで、時の許す限り待とう。だがミトラは既に孵っている。お前に残された時間は少ないぞ』
 
 その深く甘い声は、まるですぐ側で囁くように亮の耳に届き、今度は記憶を消すこともなく――亮の耳朶へいつまでもこびりついていた。